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1
「俺は結局……どっちつかずなんだよな」
深くて暗い、全てを呑み込むような夜だった。シルヴァンとナマエの二人は馬を降り、静まりかえった野営地から川沿いにゆっくりと歩きだす。野生の動物が移動して草むらが揺れる音と、時折風が強く吹き付ける音以外はまったくといっていいほどの静寂。
気を抜けばここが戦場であることも忘れてしまいそうなほどだった。
「でも、後悔はない。俺だって結局は王国の思想について行けなかった。どっちにしろ、あのまま進んで……殿下の野望を遂げた所で俺の周りは何も変わりやしないだろ」
「シルヴァン……」
「だから気にするなよ。今の俺にとってはここが居場所だ」
シルヴァンの顔つきはいつかの戦場で見たそれと変わらない、達観したような表情をしていた。彼の如何にも人好きをするような愛嬌を振りまくときのそれではない。
限られた人間の前でしか見せないそれを、今見ていられるのは自分だけなのだと思うと、ナマエは胸が張り裂けるような思いで引き裂かれそうになる。
故郷を捨て、仲間を捨ててまで帝国側についた。もしかすると、そんな自分を心配してシルヴァンは追ってきたのではないか――王国の貴族という貴重な身分を手放して、将来を棒に振るような真似をしてまでこちらについてきたのかもしれないと思うと、どれだけ言葉に尽くされてもナマエの胸中には罪悪感が重なってしまう。
「それに、やっちまったことはしょうがない。……女神でも時間は巻き戻せない。そうだろ?」
「……そうだな。もう俺たちは、後戻りなんてできないんだ」
改めて口に出してみて、自分たちがしでかしていることの壮大さに怖じけそうになる。それでも……今隣にいる相手とならば、自分の理想のために、なんて大義に押しつぶされることはないだろう。そんな都合のいい確信を持って、ナマエは頷いた。
ふと、シルヴァンがナマエに手を差し出す。
「俺が……お前のことを死なせない。この戦争に勝って、本懐を遂げる。俺たちならやれるだろ」
「ああ。シルヴァンとなら、どこまでだって行ける。それはずっと信じてる。……きっと勝てるよ、俺たちは」
固く結んだ手と手が、川面に月光とともに反射した。二人の誓いを知る人間は、彼ら以外には存在しない。
きっとこの野原もいずれ戦場になる。……青々とした草木が茂るこの光景を、二人は忘れないように目に焼き付けた。
2
「ナマエ、ゴーティエ家のシルヴァン様だ。ご挨拶しなさい」
「こんにちは。シルヴァン様。ナマエ=ミョウジと申します。いつもミョウジ商会を御贔屓にしてくださってありがとうございます」
「……ああ。どうもよろしく」
「……シルヴァン」
父上からの諫めるような視線が痛い。普段ならもっと愛想よく、貴族のあるべき姿とやらに努めるのだが、なんだか今日はどうしてもそんな気分になれなかった。せっかく自分の姿を見て貰っているのに、どうしてこんなに投げやりな態度になってしまうのか、自分でも訳が分からなかった。
「いえいえ、倅と年が近いからと会わせて頂いているのはこちらですから。シルヴァン様、挨拶に来て下さってありがとうございます」
「……」
「その態度は、客人に無礼だぞ。いくら平民相手といえど、常から世話になっている相手だ」
「……はい、すみません」
――つまらない。
俺は単純に、そう思った。父上が贔屓にしている商人が、今日は自分の子供を連れてやってきた。
多忙な父が久々に俺を呼び出したかと思えば、客人が来るから家名に恥じぬような振る舞いをしろ、なんて説教されて。どんな相手が来るのかと緊張していたけれど、蓋を開けてみればただの平民の子供だ。見たところ、年も俺とそう変わらない。
……まあ、女でないだけマシかもしれない。男相手なら、余計なお作法なんて必要ないから。
取り立てて特徴のないやつだ。年齢の割にはしっかりとしているが、これくらいなら親の躾けがしっかりしているなら当たり前のことだし、どうしようもない馬鹿なやつが貴族の前に出てこれるわけがない。
「――大人同士の間に引っ張りだされて、退屈でしょうな。シルヴァン様がよければ、うちのナマエの遊び相手にでもなってくれませんか。このお屋敷の中を息子に見せてやりたいんです。……将来、うちの商会を継ぐのはこの子だ。御贔屓にしてくださっている相手のお宅を見させて頂いて、勉強させてやってください」
「シルヴァン、分かったか?」
「……はい」
こんな提案をされて、実質断ることができないに決まっている。俺みたいな子供をいいように扱うくらい、王国で商売をやっているこの人には造作もないことなのだろう。
「シルヴァン様、よろしくお願いします」
「……じゃあ、失礼します」
俺たちは頭を下げて、応接室から抜け出した。重い扉を閉めて廊下に出た瞬間、口からはあ、とため息が出る。
「あの……、俺が邪魔だったらどこかで時間を潰してきましょうか」
ナマエと名乗ったこいつは、遠慮がちにそう切り出してきた。子供のくせに気を利かせすぎ……まるで貴族に群がってくる蠅そのものではあるが、不思議とこいつには不快感を抱かなかった。態度が露骨でないのと、少しぎこちない仕草には媚びるような色がついていなかったからかもしれない。
「いや、いい。父上の言いつけだ。サボったら怒られるのは俺、だし……」
「ゴーティエ伯って怒ると怖いんですかね?」
「……すげえよ」
「わ、わぁ……」
いきなりそんなことを聞かれて、俺も思わず思ったままに答えてしまった。俺の言葉を聞いて素直に怖がっているこいつを見て、なんだか、まあ、こんな相手なら俺が警戒しても意味がないというか、毒気が抜かれた気分だ。
「お前さ、年いくつ?」
「えっと……」
ナマエが言った年齢を聞いて、俺は少し面食らった。
「俺より年上かぁ? 本当に? ……じゃあ、敬語はいらない。呼び捨てでいい。俺も……そうする」
「え、でも、貴族の人にそんなことしたら……」
「俺が気になるんだよ。じゃあ、命令。俺に堅苦しい話し方はしないで欲しい。……せっかく遊び相手になってくれるやつがそれじゃ、息が詰まりそうだ」
「うん。じゃあ、シルヴァン……でいいかな? ……なんだか、大きな弟ができたみたい」
ナマエは無邪気に俺の手に触れる。
「……っ」
「……なんだか、最初は緊張したけど。今はそうでもないな。シルヴァン、俺たち友達になろう。まず握手するんだ。それが友達の証し」
「……握手、ねぇ」
こいつ、なんだかまんま子供向けの小説から飛び出してきたような感じなんだな。
俺に触れようとする相手なんて、今まで滅多にいなかった。いたとしても、それは下心ありきの振る舞いかこちらを傷つけるための行為だった。
「大きいね、この家。本当に貴族のお屋敷ってすごいんだな」
「俺が隅々まで案内してやるよ」
嬉しそうに頷いたナマエを見て、俺もなんだか嬉しくなった。
3
「正気だとは思えないわ」
イングリットが吐き捨てるように俺に言い放った。常なら穏やかな顔をしている彼女が、嫌悪感を隠しきれていない。敵に向けられるであろうその瞳が、俺を刺すように見つめている。
――悪いが、諦めてくれと言う他にない。なぜなら、もう……
「ああ、わかってる。でももう決めたことだ」
「……お前、自分が何をしようとしているか分かっているのか? この国を……俺たちを捨てて、あの女の元に?」
普段は無口なフェリクスが今日だけは、饒舌にまくし立てている。……幼なじみに、こんな顔をさせるつもりはなかった。
申し訳ないという気持ちがないわけではない。自分の生まれた国を捨てるということは、そういうことだ。裏切り者の烙印を押され、負ければ帰る場所もなく、ただ野垂れ死んでも誰にも顧みられることはない。
どんな最期になろうと構いやしない。……そんな生半可な覚悟で俺も国を捨てるなどと言っているわけではないのだ。
ただ、俺の胸の内をどれだけ言葉に尽くそうと結局は今の俺がやっていることが全てだ。二人から静かに刃が向けられる。殺してでも止める――。そんな気迫が伝わってきた。鍛錬の時に向けられるそれではなく、本当に俺の息の根を止めてでも向こうに行かせないつもりなのだろう。
「シルヴァン、貴様ッ……!」
俺は自分も剣を抜くべきか、迷った。この膠着した空気の中で俺が相手に刃を見せてしまえば、本当に殺し合いになってしまいかねない。
かねない、なんて。
俺がまるでこの場をどうにか丸く収められそうな言い方だ。
どちらにしろ、俺が帝国に寝返った以上はこいつらと真剣に殺し合うのは避けられない話なのに……。
それが今であるか、後の戦場であるかのどちらかでしかない。今平和的に解決してみせたところで、結論を先延ばしにしているだけだ。……無意味でしかない、かもしれない。
「……そこまでだ、三人とも」
「……っ、ディミトリ!」
「殿下!」
はっと息をのんだ。全員の視線が一点――ディミトリただ一人に向けられる。まるで花道を歩くように彼は俺たちの近くに歩み寄ってきた。厳かな空気が辺りに流れる。
フェリクスが渋々といった様子で剣を鞘に収めた。ディミトリ……俺が仕えるべきだった男。今俺は、この男を裏切って……いや、もう俺たちは敵同士も同然だ。俺が一度こうと決めたら意見を曲げないことを、彼が一番よく理解している。伊達にこの三人と俺が長い付き合いをしているわけではない。
「……今ならまだ、なかったことにできる」
「はっ、そんなこと……俺が望むわけがない。それをわかって言っているのだとしたら、まだ甘いところが抜けきっていない証拠だな」
「……お前は、そういう人間だったな」
ディミトリは、あえて槍を抜くことはなかった。静かに、言葉だけで、その所作だけで圧倒されそうになる。……これが、上に立つ人間の、覚悟の証拠なのだと嫌なくらいに分からされてしまう。
「俺はいずれ、お前を殺すかもな」
「……それはそのままお前に返させてもらう」
「……」
ディミトリはただ、腕を組んで俺を真っ直ぐに見つめていた。どうしようもないくらいに、その顔つきは以前とは変わっている。俺は……、どうしてこんなことになっているのかまだ整理ができていない。けれどこの男は違う。
自分の理念、理想を、全て己の頭で考え、人を殺すことも厭わずに実行している。……俺にはできないことだ。だからこそ、こうやってあいつらはディミトリについて行くのだろう。
「俺の元でその力を使う方が有意義だぞ。ああ、アレか? そこまであの男が大事か」
あざ笑うようなディミトリの声に、思わず俺は声を荒らげる※。
「……そういう話じゃねえんだよ」
「…………」
ディミトリは俺をじっと見上げている。何も言わずに、俺の覚悟を理解しようとしているかのように……。
一瞬、ディミトリの目が昔のそれに戻った気がした。
「……っ!」
――いたたまれなくなって、俺は三人に背を向けて、馬に拍車をかける。
「悪いな。俺はもう死んだ者だと思ってくれ! それか……、そうだ、戦場で会った時は、情けなんてかけてくれるなよ」
「シルヴァン!」
イングリットの叫ぶ声が、放たれた弓矢の如く俺の背を突き刺した。昔の俺を叱る時の、あの慈愛に満ちた声ではない。
……そこに慈悲などないのだ。哀しみと嘆きと怒りが入り交じり、鬼気迫ったその声が、どこまで走っても振り切れることがなく俺の耳に残った。
「……せめてもう二度と、会うことがなかったらいいのにな」
4
「それで、君は本当にいいのか」
「ああ。貴方の元について行きたい……帝国に、俺は行くよ」
ベレトは何も言わずに深く頷いた。俺はただ、憑き物が落ちたような気持ちで、言葉にするとプレッシャーから降りられたような気がして、なんだかほっとした。言ってみれば、口に出すまでが一番大変だった。けれど、やってみれば本当にあっけない。自分の迷いが、まるで時間の無駄だったかのように思えた。
先生――ベレトは俺の決断に肯定も否定もしなかった。本当に、この口約束みたいな会話一つで、俺は祖国を捨てて敵に寝返った裏切り者……になってしまったのだ。
「生徒を後悔させないようにしないとな」
「全部俺が自分で決めたことです。先生は……貴方が強いけれど、俺の人生まで抱え込まないで欲しい」
夕焼けが目に刺さるように眩しかった。この空に広がる茜を見ていると、俺はどうしても王国にいる大事な人の姿を思い出す。
「さぁ、行こう。君は今日から……俺が導くよ」
「――はい」
シルヴァンにこのことは伝えてきた。といっても、直接話をしたわけではない。俺が一方的に手紙を残して離れた。それだけのことだ。理由も、あまりうまく説明できた自信がなかったけれど、一応、書いてきた。というか――これで本当に最後かもしれない。次に俺たちが会った時、刃を向け合うような関係になるかもしれない。だから、思ったことは後悔しないように、全部書いてきた。
……俺がこんなやつで、シルヴァンは失望しただろうか。裏切り者だと俺を批判するかもしれない。殺してやる、なんて、そんな言葉を投げかけてくるかも。
それでも俺はやはり、シルヴァンのためにこうしたのだと言える。結果的にそれが裏切りであったとしても、俺は彼が生きる世界をよりよくしてあげたかった。
言葉を尽くしても理解されないなら、俺たちはしょせんそれくらいの関係だったと割り切ろう。
そう思って、俺はベレトの所に行った。次に故郷の土を踏む時は、敵――侵略者として祖国に弓引く者になるだろう。
「ええ。勿論歓迎するわ。私の野望に付き従う相手は多い方が助かるもの」
エーデルガルトは、あっさりと俺を受け入れた。青獅子学級の中でも特に目立つような人間でなかったこの俺のことも、彼女はきちんと把握し、記憶していた。
――ナマエ、と名を呼ぶ彼女の声は、凜としていて、あの時演説していた姿をどことなく連想させた。
彼女の理想が、俺をこのような道へと突き進ませたのだ。人を引きつけるような鋭い言葉が、俺の凝り固まった未練を両断するかのようだった。
「それに、師が推薦する人なんて喉から手が出るほど欲しいわ。あの人が私の覇道の糧になる人、だなんて言うのだから。働きに期待しているわよ」
俺の目を真っ直ぐに見ながら、彼女はそう言った。全てを見透かすような目だ。彼女の隣に控える従者――ヒューベルトとベレトも期待を込めるような目で俺を見ている。身が引き締まる思いだ。ここでの働きで、俺はどれだけのことができるだろう。
「エーデルガルト様! 王国の侵入者が!」
慌ただしく駆け込んできた兵士の声が、俺たちの間に流れていた歓迎の空気を切り裂いた。
「王国……? スパイか何かが紛れ込んでいたのかしら」
「い、いえ……。こちらの軍勢に加勢したいと丸腰のまま……」
「へぇ……分かったわ。私の前に通しなさい」
「よろしいので?」
「ここにいる彼も王国から我が軍に加わりたいと言ってきた、修道院の元生徒よ。その王国の某とやらも、話を聞くだけならば私が拒む理由はないわ」
エーデルガルトがそう言うと、ヒューベルトも喉を鳴らして笑った。彼女の即断即決ぷりは、見ていて鮮やかなものだった。
……もしかしたら。
なんて、淡い期待を抱いてしまう。まさか、絶対にそんなことはないのに。
俺が期待で緊張していると、ベレトが落ち着かせるように笑いかけてくる。……やはり、この人には生徒が何を考えているのかなんてお見通しなのだろう。
「……あら、見知った顔じゃない」
「シルヴァン……!」
「悪いがこれから世話になる。……ナマエ、なんだか久しぶりだな」
武装を解かれて着の身着のままこちらに入ってきたシルヴァンは、以前に会った時と変わらない、歪な笑顔を浮かべていた。変わっていないといえばそうなのだが、あまりにも嘘みたいな光景に、俺はただ呆然としているしかない。
「ゴーティエ伯の跡取りもこちらに来てくれるとなれば、心強いわね。期待しているわよ、シルヴァン」
「貴殿もこちら側についてくださるとは。エーデルガルト様の読み通りですな」
「……え、あ、嘘だろ……」
俺一人だけがこの展開に困惑している。シルヴァンは照れくさそうに頭をかいているが、すぐに精悍な騎士の顔に戻り、エーデルガルトの前で膝をついていた。
「これから、よろしく頼む」
「シルヴァン…………」
彼の姿は汚れて、いかにも勢い任せにここまで突っ切ってきたというような風貌をしていた。普段あれほど見た目に気を遣って、丁寧な彼らしくない。
「ナマエ、俺も覚悟を決めたから。お前と一緒に行くよ」
思わず泣きそうになる。シルヴァンの表情は、固めた決意の如何ほどかを俺はまだきちんと理解できているわけではない。……だから、喜んでいいのかすら、まだ分からない。
ただ、泣いても笑ってもこれが俺たちの進む先を決定しまったのだということは、心で理解していた。
「本当に後悔しない? あの殿下たちと……殺し合うかもしれないのに」
「それはお前もお互いさまだろ」
「でも、シルヴァンは特別仲が良かっただろ」
「……もう吹っ切れたさ。次あいつらと会ったら、容赦することはない」
……きっとここに来るまでに何か一悶着――穏やかな行程は存在しなかったのだろう。シルヴァンに宿る決意の覚悟を表すかのように、彼の瞳孔が色濃く見開かれている。
「――あら、二人はとても仲がいいのね。戦場でも二人の連携に期待すべきかしらね」
「あんたも冗談とか言うタイプなんだな……」
「配下とは言葉を交わして見いだせる物もあるわ。そうよね、師?」
ベレトは再び「ああ」と頷いた。この二人の間にある絆が、俺とシルヴァンとの間にも確認できたら、それはとてもいいことだと思う。
「二人まとめて厄介になるんで、そこんとこよろしくな」
「俺、頑張りますんで!」
あの修道院で学んでいた日のことを思い出す。あの時もシルヴァンとふざけあって笑っていたっけ。またこんなやりとりができるなら……ずっと死ぬまでこうしていられるなら、俺はどこまでも走って行けるような気がする。
「俺は結局……どっちつかずなんだよな」
深くて暗い、全てを呑み込むような夜だった。シルヴァンとナマエの二人は馬を降り、静まりかえった野営地から川沿いにゆっくりと歩きだす。野生の動物が移動して草むらが揺れる音と、時折風が強く吹き付ける音以外はまったくといっていいほどの静寂。
気を抜けばここが戦場であることも忘れてしまいそうなほどだった。
「でも、後悔はない。俺だって結局は王国の思想について行けなかった。どっちにしろ、あのまま進んで……殿下の野望を遂げた所で俺の周りは何も変わりやしないだろ」
「シルヴァン……」
「だから気にするなよ。今の俺にとってはここが居場所だ」
シルヴァンの顔つきはいつかの戦場で見たそれと変わらない、達観したような表情をしていた。彼の如何にも人好きをするような愛嬌を振りまくときのそれではない。
限られた人間の前でしか見せないそれを、今見ていられるのは自分だけなのだと思うと、ナマエは胸が張り裂けるような思いで引き裂かれそうになる。
故郷を捨て、仲間を捨ててまで帝国側についた。もしかすると、そんな自分を心配してシルヴァンは追ってきたのではないか――王国の貴族という貴重な身分を手放して、将来を棒に振るような真似をしてまでこちらについてきたのかもしれないと思うと、どれだけ言葉に尽くされてもナマエの胸中には罪悪感が重なってしまう。
「それに、やっちまったことはしょうがない。……女神でも時間は巻き戻せない。そうだろ?」
「……そうだな。もう俺たちは、後戻りなんてできないんだ」
改めて口に出してみて、自分たちがしでかしていることの壮大さに怖じけそうになる。それでも……今隣にいる相手とならば、自分の理想のために、なんて大義に押しつぶされることはないだろう。そんな都合のいい確信を持って、ナマエは頷いた。
ふと、シルヴァンがナマエに手を差し出す。
「俺が……お前のことを死なせない。この戦争に勝って、本懐を遂げる。俺たちならやれるだろ」
「ああ。シルヴァンとなら、どこまでだって行ける。それはずっと信じてる。……きっと勝てるよ、俺たちは」
固く結んだ手と手が、川面に月光とともに反射した。二人の誓いを知る人間は、彼ら以外には存在しない。
きっとこの野原もいずれ戦場になる。……青々とした草木が茂るこの光景を、二人は忘れないように目に焼き付けた。
2
「ナマエ、ゴーティエ家のシルヴァン様だ。ご挨拶しなさい」
「こんにちは。シルヴァン様。ナマエ=ミョウジと申します。いつもミョウジ商会を御贔屓にしてくださってありがとうございます」
「……ああ。どうもよろしく」
「……シルヴァン」
父上からの諫めるような視線が痛い。普段ならもっと愛想よく、貴族のあるべき姿とやらに努めるのだが、なんだか今日はどうしてもそんな気分になれなかった。せっかく自分の姿を見て貰っているのに、どうしてこんなに投げやりな態度になってしまうのか、自分でも訳が分からなかった。
「いえいえ、倅と年が近いからと会わせて頂いているのはこちらですから。シルヴァン様、挨拶に来て下さってありがとうございます」
「……」
「その態度は、客人に無礼だぞ。いくら平民相手といえど、常から世話になっている相手だ」
「……はい、すみません」
――つまらない。
俺は単純に、そう思った。父上が贔屓にしている商人が、今日は自分の子供を連れてやってきた。
多忙な父が久々に俺を呼び出したかと思えば、客人が来るから家名に恥じぬような振る舞いをしろ、なんて説教されて。どんな相手が来るのかと緊張していたけれど、蓋を開けてみればただの平民の子供だ。見たところ、年も俺とそう変わらない。
……まあ、女でないだけマシかもしれない。男相手なら、余計なお作法なんて必要ないから。
取り立てて特徴のないやつだ。年齢の割にはしっかりとしているが、これくらいなら親の躾けがしっかりしているなら当たり前のことだし、どうしようもない馬鹿なやつが貴族の前に出てこれるわけがない。
「――大人同士の間に引っ張りだされて、退屈でしょうな。シルヴァン様がよければ、うちのナマエの遊び相手にでもなってくれませんか。このお屋敷の中を息子に見せてやりたいんです。……将来、うちの商会を継ぐのはこの子だ。御贔屓にしてくださっている相手のお宅を見させて頂いて、勉強させてやってください」
「シルヴァン、分かったか?」
「……はい」
こんな提案をされて、実質断ることができないに決まっている。俺みたいな子供をいいように扱うくらい、王国で商売をやっているこの人には造作もないことなのだろう。
「シルヴァン様、よろしくお願いします」
「……じゃあ、失礼します」
俺たちは頭を下げて、応接室から抜け出した。重い扉を閉めて廊下に出た瞬間、口からはあ、とため息が出る。
「あの……、俺が邪魔だったらどこかで時間を潰してきましょうか」
ナマエと名乗ったこいつは、遠慮がちにそう切り出してきた。子供のくせに気を利かせすぎ……まるで貴族に群がってくる蠅そのものではあるが、不思議とこいつには不快感を抱かなかった。態度が露骨でないのと、少しぎこちない仕草には媚びるような色がついていなかったからかもしれない。
「いや、いい。父上の言いつけだ。サボったら怒られるのは俺、だし……」
「ゴーティエ伯って怒ると怖いんですかね?」
「……すげえよ」
「わ、わぁ……」
いきなりそんなことを聞かれて、俺も思わず思ったままに答えてしまった。俺の言葉を聞いて素直に怖がっているこいつを見て、なんだか、まあ、こんな相手なら俺が警戒しても意味がないというか、毒気が抜かれた気分だ。
「お前さ、年いくつ?」
「えっと……」
ナマエが言った年齢を聞いて、俺は少し面食らった。
「俺より年上かぁ? 本当に? ……じゃあ、敬語はいらない。呼び捨てでいい。俺も……そうする」
「え、でも、貴族の人にそんなことしたら……」
「俺が気になるんだよ。じゃあ、命令。俺に堅苦しい話し方はしないで欲しい。……せっかく遊び相手になってくれるやつがそれじゃ、息が詰まりそうだ」
「うん。じゃあ、シルヴァン……でいいかな? ……なんだか、大きな弟ができたみたい」
ナマエは無邪気に俺の手に触れる。
「……っ」
「……なんだか、最初は緊張したけど。今はそうでもないな。シルヴァン、俺たち友達になろう。まず握手するんだ。それが友達の証し」
「……握手、ねぇ」
こいつ、なんだかまんま子供向けの小説から飛び出してきたような感じなんだな。
俺に触れようとする相手なんて、今まで滅多にいなかった。いたとしても、それは下心ありきの振る舞いかこちらを傷つけるための行為だった。
「大きいね、この家。本当に貴族のお屋敷ってすごいんだな」
「俺が隅々まで案内してやるよ」
嬉しそうに頷いたナマエを見て、俺もなんだか嬉しくなった。
3
「正気だとは思えないわ」
イングリットが吐き捨てるように俺に言い放った。常なら穏やかな顔をしている彼女が、嫌悪感を隠しきれていない。敵に向けられるであろうその瞳が、俺を刺すように見つめている。
――悪いが、諦めてくれと言う他にない。なぜなら、もう……
「ああ、わかってる。でももう決めたことだ」
「……お前、自分が何をしようとしているか分かっているのか? この国を……俺たちを捨てて、あの女の元に?」
普段は無口なフェリクスが今日だけは、饒舌にまくし立てている。……幼なじみに、こんな顔をさせるつもりはなかった。
申し訳ないという気持ちがないわけではない。自分の生まれた国を捨てるということは、そういうことだ。裏切り者の烙印を押され、負ければ帰る場所もなく、ただ野垂れ死んでも誰にも顧みられることはない。
どんな最期になろうと構いやしない。……そんな生半可な覚悟で俺も国を捨てるなどと言っているわけではないのだ。
ただ、俺の胸の内をどれだけ言葉に尽くそうと結局は今の俺がやっていることが全てだ。二人から静かに刃が向けられる。殺してでも止める――。そんな気迫が伝わってきた。鍛錬の時に向けられるそれではなく、本当に俺の息の根を止めてでも向こうに行かせないつもりなのだろう。
「シルヴァン、貴様ッ……!」
俺は自分も剣を抜くべきか、迷った。この膠着した空気の中で俺が相手に刃を見せてしまえば、本当に殺し合いになってしまいかねない。
かねない、なんて。
俺がまるでこの場をどうにか丸く収められそうな言い方だ。
どちらにしろ、俺が帝国に寝返った以上はこいつらと真剣に殺し合うのは避けられない話なのに……。
それが今であるか、後の戦場であるかのどちらかでしかない。今平和的に解決してみせたところで、結論を先延ばしにしているだけだ。……無意味でしかない、かもしれない。
「……そこまでだ、三人とも」
「……っ、ディミトリ!」
「殿下!」
はっと息をのんだ。全員の視線が一点――ディミトリただ一人に向けられる。まるで花道を歩くように彼は俺たちの近くに歩み寄ってきた。厳かな空気が辺りに流れる。
フェリクスが渋々といった様子で剣を鞘に収めた。ディミトリ……俺が仕えるべきだった男。今俺は、この男を裏切って……いや、もう俺たちは敵同士も同然だ。俺が一度こうと決めたら意見を曲げないことを、彼が一番よく理解している。伊達にこの三人と俺が長い付き合いをしているわけではない。
「……今ならまだ、なかったことにできる」
「はっ、そんなこと……俺が望むわけがない。それをわかって言っているのだとしたら、まだ甘いところが抜けきっていない証拠だな」
「……お前は、そういう人間だったな」
ディミトリは、あえて槍を抜くことはなかった。静かに、言葉だけで、その所作だけで圧倒されそうになる。……これが、上に立つ人間の、覚悟の証拠なのだと嫌なくらいに分からされてしまう。
「俺はいずれ、お前を殺すかもな」
「……それはそのままお前に返させてもらう」
「……」
ディミトリはただ、腕を組んで俺を真っ直ぐに見つめていた。どうしようもないくらいに、その顔つきは以前とは変わっている。俺は……、どうしてこんなことになっているのかまだ整理ができていない。けれどこの男は違う。
自分の理念、理想を、全て己の頭で考え、人を殺すことも厭わずに実行している。……俺にはできないことだ。だからこそ、こうやってあいつらはディミトリについて行くのだろう。
「俺の元でその力を使う方が有意義だぞ。ああ、アレか? そこまであの男が大事か」
あざ笑うようなディミトリの声に、思わず俺は声を荒らげる※。
「……そういう話じゃねえんだよ」
「…………」
ディミトリは俺をじっと見上げている。何も言わずに、俺の覚悟を理解しようとしているかのように……。
一瞬、ディミトリの目が昔のそれに戻った気がした。
「……っ!」
――いたたまれなくなって、俺は三人に背を向けて、馬に拍車をかける。
「悪いな。俺はもう死んだ者だと思ってくれ! それか……、そうだ、戦場で会った時は、情けなんてかけてくれるなよ」
「シルヴァン!」
イングリットの叫ぶ声が、放たれた弓矢の如く俺の背を突き刺した。昔の俺を叱る時の、あの慈愛に満ちた声ではない。
……そこに慈悲などないのだ。哀しみと嘆きと怒りが入り交じり、鬼気迫ったその声が、どこまで走っても振り切れることがなく俺の耳に残った。
「……せめてもう二度と、会うことがなかったらいいのにな」
4
「それで、君は本当にいいのか」
「ああ。貴方の元について行きたい……帝国に、俺は行くよ」
ベレトは何も言わずに深く頷いた。俺はただ、憑き物が落ちたような気持ちで、言葉にするとプレッシャーから降りられたような気がして、なんだかほっとした。言ってみれば、口に出すまでが一番大変だった。けれど、やってみれば本当にあっけない。自分の迷いが、まるで時間の無駄だったかのように思えた。
先生――ベレトは俺の決断に肯定も否定もしなかった。本当に、この口約束みたいな会話一つで、俺は祖国を捨てて敵に寝返った裏切り者……になってしまったのだ。
「生徒を後悔させないようにしないとな」
「全部俺が自分で決めたことです。先生は……貴方が強いけれど、俺の人生まで抱え込まないで欲しい」
夕焼けが目に刺さるように眩しかった。この空に広がる茜を見ていると、俺はどうしても王国にいる大事な人の姿を思い出す。
「さぁ、行こう。君は今日から……俺が導くよ」
「――はい」
シルヴァンにこのことは伝えてきた。といっても、直接話をしたわけではない。俺が一方的に手紙を残して離れた。それだけのことだ。理由も、あまりうまく説明できた自信がなかったけれど、一応、書いてきた。というか――これで本当に最後かもしれない。次に俺たちが会った時、刃を向け合うような関係になるかもしれない。だから、思ったことは後悔しないように、全部書いてきた。
……俺がこんなやつで、シルヴァンは失望しただろうか。裏切り者だと俺を批判するかもしれない。殺してやる、なんて、そんな言葉を投げかけてくるかも。
それでも俺はやはり、シルヴァンのためにこうしたのだと言える。結果的にそれが裏切りであったとしても、俺は彼が生きる世界をよりよくしてあげたかった。
言葉を尽くしても理解されないなら、俺たちはしょせんそれくらいの関係だったと割り切ろう。
そう思って、俺はベレトの所に行った。次に故郷の土を踏む時は、敵――侵略者として祖国に弓引く者になるだろう。
「ええ。勿論歓迎するわ。私の野望に付き従う相手は多い方が助かるもの」
エーデルガルトは、あっさりと俺を受け入れた。青獅子学級の中でも特に目立つような人間でなかったこの俺のことも、彼女はきちんと把握し、記憶していた。
――ナマエ、と名を呼ぶ彼女の声は、凜としていて、あの時演説していた姿をどことなく連想させた。
彼女の理想が、俺をこのような道へと突き進ませたのだ。人を引きつけるような鋭い言葉が、俺の凝り固まった未練を両断するかのようだった。
「それに、師が推薦する人なんて喉から手が出るほど欲しいわ。あの人が私の覇道の糧になる人、だなんて言うのだから。働きに期待しているわよ」
俺の目を真っ直ぐに見ながら、彼女はそう言った。全てを見透かすような目だ。彼女の隣に控える従者――ヒューベルトとベレトも期待を込めるような目で俺を見ている。身が引き締まる思いだ。ここでの働きで、俺はどれだけのことができるだろう。
「エーデルガルト様! 王国の侵入者が!」
慌ただしく駆け込んできた兵士の声が、俺たちの間に流れていた歓迎の空気を切り裂いた。
「王国……? スパイか何かが紛れ込んでいたのかしら」
「い、いえ……。こちらの軍勢に加勢したいと丸腰のまま……」
「へぇ……分かったわ。私の前に通しなさい」
「よろしいので?」
「ここにいる彼も王国から我が軍に加わりたいと言ってきた、修道院の元生徒よ。その王国の某とやらも、話を聞くだけならば私が拒む理由はないわ」
エーデルガルトがそう言うと、ヒューベルトも喉を鳴らして笑った。彼女の即断即決ぷりは、見ていて鮮やかなものだった。
……もしかしたら。
なんて、淡い期待を抱いてしまう。まさか、絶対にそんなことはないのに。
俺が期待で緊張していると、ベレトが落ち着かせるように笑いかけてくる。……やはり、この人には生徒が何を考えているのかなんてお見通しなのだろう。
「……あら、見知った顔じゃない」
「シルヴァン……!」
「悪いがこれから世話になる。……ナマエ、なんだか久しぶりだな」
武装を解かれて着の身着のままこちらに入ってきたシルヴァンは、以前に会った時と変わらない、歪な笑顔を浮かべていた。変わっていないといえばそうなのだが、あまりにも嘘みたいな光景に、俺はただ呆然としているしかない。
「ゴーティエ伯の跡取りもこちらに来てくれるとなれば、心強いわね。期待しているわよ、シルヴァン」
「貴殿もこちら側についてくださるとは。エーデルガルト様の読み通りですな」
「……え、あ、嘘だろ……」
俺一人だけがこの展開に困惑している。シルヴァンは照れくさそうに頭をかいているが、すぐに精悍な騎士の顔に戻り、エーデルガルトの前で膝をついていた。
「これから、よろしく頼む」
「シルヴァン…………」
彼の姿は汚れて、いかにも勢い任せにここまで突っ切ってきたというような風貌をしていた。普段あれほど見た目に気を遣って、丁寧な彼らしくない。
「ナマエ、俺も覚悟を決めたから。お前と一緒に行くよ」
思わず泣きそうになる。シルヴァンの表情は、固めた決意の如何ほどかを俺はまだきちんと理解できているわけではない。……だから、喜んでいいのかすら、まだ分からない。
ただ、泣いても笑ってもこれが俺たちの進む先を決定しまったのだということは、心で理解していた。
「本当に後悔しない? あの殿下たちと……殺し合うかもしれないのに」
「それはお前もお互いさまだろ」
「でも、シルヴァンは特別仲が良かっただろ」
「……もう吹っ切れたさ。次あいつらと会ったら、容赦することはない」
……きっとここに来るまでに何か一悶着――穏やかな行程は存在しなかったのだろう。シルヴァンに宿る決意の覚悟を表すかのように、彼の瞳孔が色濃く見開かれている。
「――あら、二人はとても仲がいいのね。戦場でも二人の連携に期待すべきかしらね」
「あんたも冗談とか言うタイプなんだな……」
「配下とは言葉を交わして見いだせる物もあるわ。そうよね、師?」
ベレトは再び「ああ」と頷いた。この二人の間にある絆が、俺とシルヴァンとの間にも確認できたら、それはとてもいいことだと思う。
「二人まとめて厄介になるんで、そこんとこよろしくな」
「俺、頑張りますんで!」
あの修道院で学んでいた日のことを思い出す。あの時もシルヴァンとふざけあって笑っていたっけ。またこんなやりとりができるなら……ずっと死ぬまでこうしていられるなら、俺はどこまでも走って行けるような気がする。