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頭上をぐんと飛ぶ姿を、愛していた。
燕のように空を切り、滑空する彼が好きだった。
10月のよく晴れた空、何もかも完璧な秋の空。
槍を手に、雲の合間を縫うように飛んでいく。それを下から見上げながら、 ナマエは、今日は最良の日だな、と嬉しくなった。
「ナマエ!」
こちらに気づいたヒースが竜を操り、降りてきた。
「ヒース! お帰りなさい!」
ナマエはそこに駆け寄る。青緑の草が揺れて、竜がふんわりと着地した。
「ナマエ、しばらく留守にしてすまなかった。どこも異常はないか? 怪我や病気は……」
「ふふ、大丈夫だよ」
そう言ってみても、全身を確認するようにヒースが腕を触ったりして心配そうな顔をするので、ナマエはおかしくて、つい笑ってしまう。
彼は鎧をつけて、物騒な槍を背負っている。まっすぐ飛んで帰ってきたのか、服も汚れて、髪も風に煽られて所々跳ねていた。
「さぁ、帰ったんだからお風呂に入って、ご飯を食べて、ゆっくりしてね」
「帰って早々悪いな」
丘から見下ろせる位置に、二人の家はある。丸太を組んでできた小さな小屋だ。雨風を凌ぎ、強い風が吹いてもびくともしない。白いシーツが、風で蝶々のようにひらひらと揺れた。
二人はゆっくりと丘を下っていく。彼の愛竜ハイペリオンも一緒に。まるで調教された馬のように大人しい。初めてみたときはとても驚いたものだ。
「さっきまで何をしてたんだ?」
ヒースはナマエの手に持ったクワを見て、そう尋ねる。
「うーん、畑を広げようと思って」
「あんな高いところに?」
「普通の野菜だけじゃなくって、薬草とかもね。育てないと」
「でもあんな場所にわざわざ作る必要はないだろう。腰をおかしくしたら、大変だ」
まるで親を心配する子供だなと、おかしくて笑ってしまう。
「家に入る前にお風呂に入ってね」
「俺、そんなに匂うか?」
何も言わずに微笑んだ。
ナマエは薪を火にくべ、湯を沸かした。地下の水を引いているので、水だけは豊富にあった。後ろでヒースがかちゃかちゃと音を立てて鎧を脱いでいるのがわかった。
この火の調節というのがなかなかに難しいのだ。やけどしてしまわないように気をつけて、小枝やら薪やらを追加しないといけない。
各地を飛び回っていたときは、ゆっくり水浴びをする余裕はなかった。落ち着いた今だからこそできる贅沢だ。もう二度と前には戻れないなとナマエは行軍していた昔を少し思い出す。
「あぁ、いいよ。すごくいい湯加減だ」
「それはなによりで」
ナマエは家の箪笥から彼の着替えを用意した。昔はそこまで気が回らなくて、少し大変なことになったことがある。
下着から上下の服を、数組置いてあるのだ。いつ帰ってきてもいいように、薄着から厚手のものまで。
「風呂に帰ると、あー、帰ってきたんだなって思うんだ」
石鹸の泡をつけたまま、ヒースは心地よさそうに目を細めた。あがったら、彼の青緑色の髪を乾かして、綺麗に梳いてあげないといけない。きっと髪のお手入れには無頓着だろうから、長さも揃えて切ってあげよう。うんと甘やかして、いい思いをさせてあげたい。
その姿は、まるで実家に帰ってきた息子の世話をする母親だ。
「向こうでは風呂に入る時間がなかった?」
「あぁ、そもそも水が貴重だからな」
「じゃあ、ゆっくり入ってね。着替えここに置いとくね」
「ありがとう」
ナマエが野菜を刻むざくざくという音だけが響いている。前掛けをつけ、沸騰した鍋の中に刻んだ野菜を投入していく。こんな生活をする以前は、自分で料理などしたことがなかった。塩をふった肉を焼くとか、その程度だけで。
野菜は畑でとれたもの、肉は自分で罠をしかけて狩ったりしたもので、香辛料などは街へ出て買い付けたものだ。
二人分。増えた量の分手間は増える。
久しぶりだけれど、彼はどれだけ食べるだろう。今、お腹は空いているのだろうか。足りなかったらかわいそうだから、ちょっと余分に量を増やした。
誰かが家にいると、料理にもやる気が出る。普段なら疲れて手を抜くところを、いつもよりも丁寧に。
いっそのこと、ずっと居ついてもらえるようにもっと気合を入れたものにすればよかっただろうか。考えても仕方のないことだったが、そう思わずにはいられなかった。
「美味しいよ。本当、ナマエは料理上手だな」
そう彼がいうので、ナマエは胸を撫で下ろした。ずっと自分だけで食べていると、味付けには無頓着になる。最悪、胃に入ってしまえばなんでもいいのだから。
白パンに牛のバターを塗って、食べる。今日のご飯の味付けは薄いから、それくらいが丁度良い。二人にとって、丁度良い、ということが肝要だった。
「向こうでは何を食べてたの?」
「ここよりも不味いものしか食べてないよ」
顔をしかめていた。戦場で出される食事などはそういうものではあるが、相当酷かったのだろう。
パンをちぎって、スープにひたしてから口に運んだ。これを下品と嗜める人はいない。
彼は以前よりも痩せていた。心なしか、髪の艶も足りない。栄養不足だ。
「おかわりいる?」
竈門の上で温めている残りのスープをよそいに行こうとすると、彼は立ち上がった。
「それくらいは俺がやるよ」
ふと、外からごうという音がした。
「雨だ!」
ナマエは慌てて飛び出した。白いシーツは濡れていて、必死で取り込んだ。
「嘘、さっきまで晴れてたのに」
彼も一緒になって飛び出してきたので、ずぶ濡れになってしまった。
「お風呂、入りなおさないと」
せっかく綺麗にしたのに!とナマエは肩を落とした。
「今度は一緒に入らないか」
そんなことを言われたので、ナマエはギョッとした。いやではない。嫌なわけではないのだが。
「あんな狭いところに……? 無理だよ、大の大人二人で入ったら……お湯が勿体無い」
「……そ、そうか」
どうしても、素肌を晒すことに抵抗があった。もちろん男女の仲なので、床を共にして事に及ぶこともあったが、こんな明るい中で遠回しに誘われたのは初めてだった。
どういう意図があっての発言なのか、ナマエには判別がつかなかったので、曖昧に否定しておくことにした。こちらだけ意識していたという落ちでは、少し部が悪い。
暖炉の前でシーツを吊るして、濡れた体を布で拭き取った。
刺繍入りのテーブルクロスの上に並ぶ食事はとっくに冷めていて、変な空気になりかけている。
ずぶ濡れになると、途端に居心地が悪くなる。ふたりして暖炉の前に座って冷めたスープを飲んだ。
ズッキーニ、芋、人参、玉ねぎ。どれもこれも形が不揃いだった。
「ナマエ」
急に雨の音が聞こえなくなった。雷がどこか遠くで落ちたそのとき、ヒースは彼女の名前を呼んだ。
「俺がいなくて、寂しいか?」
そんなに寂しそうな顔をして。
ナマエはいつものように「いいえ」と言いたかった。が、できなかった。口が開かない。また降り出した雨の音だけが響いている。
「もし、ナマエが病で倒れても、助けてくれるやつはいないだろ。それに、俺だっていつ帰ってこれるかわからないーー」
ナマエは、それを半分流し聞いていた。そんなこと、この生活を始める前に散々悩んで、話し合って、その上で覚悟を決めて始めたことだ。
何を今更。そう思う。
「わたしはヒースがやりたいようにやってくれたら、それで良いんだ。わたしはもうやりたいことをやったから、今度は家でヒースの帰りを待っていたいんだよ」
「でも、ナマエーー」
「ねぇ、あんまり心配しないでよ。人のために戦ってる貴方を、わたしは好きなんだから、ね」
ナマエは立ち上がって、空になった皿を重ねて水場まで持って行った。
「手伝わなくて良いから、もう寝台に行って」
蛇口をひねると、当たり前のように清水が流れ出た。冷たい水は、冬のアカギレの原因になる。
どうして自分は苛々しているのだろう。ナマエは色々と頭の中で考えをこねくり回してみたが、納得がいくような結論には至れなかった。
その後、湿らせた布で体を拭き、髪を梳いて寝台へと向かった。
「まだ起きてたんだ」
一人だと広く感じる寝台に潜り込み、顔が隠れるまで毛布を引っ張り上げた。外は雨。冷えて涼しいというよりは、寒い。
「なぁ、今日の俺ってなんか変だったよな」
「うん、わたしもちょっとおかしかったからお互い様かな」
ご機嫌とりをするとナマエは余計に怒る。それを、彼はよく知っていた。
「俺、ちゃんと帰ってこれるようにするよ」
「うん」
「ナマエ、落ち着いたら街に家を買おう」
「どこで?」
彼が大陸中を駆け回り、実質的な国籍がないことをナマエはよく知っていた。かくいう彼女も故郷を捨てた身ではあるが。
「二人で決めようーーそれで、結婚しよう」
真剣な声だった。それこそ、ずっと前から温めてきたような考えを、いきなり言ってしまったような。
「……無理だよ」
ナマエは自分でそう言って、悲しくなった。
こういうことで、普通の人は悩まないのだろうか。ナマエはそんなふうに思ったが、自分たちは普通ではないと、勝手に線引きしてしまっていることに気付いて、ふと死にたくなった。
「そうか、無理かな」
「……ごめん」
「謝らないでくれよ」
「本当に……できると思ってる?」
「俺とナマエなら」
「ちゃんと考えたこと、ある? 無理だよ」
「そこはなんとかーー」
「だから、無理だって!」
「ごめん」
途端に、静かになった。彼女は、喉の奥から酸っぱいものが競り上がってくるような、そんなひどい心地でいた。ただ、その痛みの一片以上に、彼が心苦しく思っていることは承知していた。どうしてこうなったのだろうか。どうして、今こうして噛み合っていないのだろうか。
「ごめんな……」
もう己は彼なしでも平気だと、生きていけると、そう心の片隅で思ってしまっていた。だがそれは、そういうことではなかったのだろう。
目が覚めたのは、太陽が昇ってすぐで、まだ薄暗いうちだった。小鳥の囀りが竪琴の音色のように響いている。半分寝ぼけながらゆっくりと体を起こすと、寝台の傾きがおかしいような気がした。
「あ」
彼がいない。
ナマエは寝巻きの上にストールを巻きつけて、外に出た。革靴が素足に馴染んで、背が高くなった草に脚を傷つけないように慎重に進んだ。
行く場所は想像がついた。導かれるように足を動かすと、丘の上でハイペリオンに餌をやっている彼がいた。
「おはよう、早いんだね」
「おはよう……そんな格好で寒くないか?」
「うん、平気」
ふと、きつい風が吹いた。
寝癖のついたままの、髪が揺れる。
「ヒース、髪、伸びたね」
「ナマエも、前髪伸びたんじゃないか」
「うーん、そろそろ切らないと」
「二人とも、な」
「じゃあ、朝ごはん食べたら切っちゃおうか」
「さっぱりしたねー」
「ごめん、ちょっと短く切りすぎた」
「ううん、良いよ。どうせすぐ伸びるし」
鋏を入れると、小気味の良い音がして、床に髪の束が落ちた。ヒースは鋏を扱うことに慣れていないようで、恐る恐るといったふうに手を動かしていた。ナマエはそれをみても、笑わないように堪えた。
肩より下まで伸びていた髪を、肩にかからないくらいまで短く切ったのは、久しぶりのことだった。
髪を結っておしゃれをするのは、見せる相手がいないとつまらないものだと思っていたので、今の状態でも悪いわけではない。
「じゃあ、今度はわたしが切るね」
服にかからないように布をかけ、背後に回る。
「ヒースってさ、それ地毛なの?」
「え、これか? 染めてるけど」
「ふーん」
「下手くそでごめんな」
ヒースはこう言って、よくナマエに謝った。そのたび彼女は許すのだが、謝るシチュエーションというのが様々で、特に細かい作業においては、いつもナマエの方が上手だった。
「ううん、良いよ」
彼女の髪には、紫色の花がさしてあった。下手くそな編み込みは、彼がしたいと言い出したもので、熱心に教えてようやく完成したのだった。
「また、行かないと」
「そっか」
次はいつ、どこで何をしてどのくらいしたら会えるんだろう。そのことを聞くことはできなかった。
「次はきっと、うまくできるようにするから」
「じゃあ、それまでに花を集めておくね」
幾月かが過ぎた。
ナマエはいつものように、空を見上げた。飛ぶ鳥だけが自由で、自分は地面で一人、それを眺めていることしかできない。どこまで眺めても、大きな鳥のように見える竜の影は見つけることができない。
彼に買ってもらった石鹸は小さくなり、綺麗な服なんかはどうにも着る機会がなくて、タンスにしまいっぱなしにしている。
丘の上では花が咲いていた。耐え忍ぶような冬が過ぎ、やっと春になろうとしていたのだ。
「ヒース……」
ナマエは恋人の名前を呼んだ。呼んでもくるわけではないことを、重々承知していながらも、呼ばずにはいられない。
どこかで彼が彼女の名前を呼んだ気がした。
夏になった。
ふと、風が吹く。それは木々の葉を揺らす涼しげな一陣であった。
「ナマエ」
「もう花じゃなくて、実になっちゃったよ」
姿を見なくとも、それだとすぐにわかった。ナマエは振り返らない。
「実はわたし、すごく寂しかったかも」
手に握られた一輪が、落ちた。
燕のように空を切り、滑空する彼が好きだった。
10月のよく晴れた空、何もかも完璧な秋の空。
槍を手に、雲の合間を縫うように飛んでいく。それを下から見上げながら、 ナマエは、今日は最良の日だな、と嬉しくなった。
「ナマエ!」
こちらに気づいたヒースが竜を操り、降りてきた。
「ヒース! お帰りなさい!」
ナマエはそこに駆け寄る。青緑の草が揺れて、竜がふんわりと着地した。
「ナマエ、しばらく留守にしてすまなかった。どこも異常はないか? 怪我や病気は……」
「ふふ、大丈夫だよ」
そう言ってみても、全身を確認するようにヒースが腕を触ったりして心配そうな顔をするので、ナマエはおかしくて、つい笑ってしまう。
彼は鎧をつけて、物騒な槍を背負っている。まっすぐ飛んで帰ってきたのか、服も汚れて、髪も風に煽られて所々跳ねていた。
「さぁ、帰ったんだからお風呂に入って、ご飯を食べて、ゆっくりしてね」
「帰って早々悪いな」
丘から見下ろせる位置に、二人の家はある。丸太を組んでできた小さな小屋だ。雨風を凌ぎ、強い風が吹いてもびくともしない。白いシーツが、風で蝶々のようにひらひらと揺れた。
二人はゆっくりと丘を下っていく。彼の愛竜ハイペリオンも一緒に。まるで調教された馬のように大人しい。初めてみたときはとても驚いたものだ。
「さっきまで何をしてたんだ?」
ヒースはナマエの手に持ったクワを見て、そう尋ねる。
「うーん、畑を広げようと思って」
「あんな高いところに?」
「普通の野菜だけじゃなくって、薬草とかもね。育てないと」
「でもあんな場所にわざわざ作る必要はないだろう。腰をおかしくしたら、大変だ」
まるで親を心配する子供だなと、おかしくて笑ってしまう。
「家に入る前にお風呂に入ってね」
「俺、そんなに匂うか?」
何も言わずに微笑んだ。
ナマエは薪を火にくべ、湯を沸かした。地下の水を引いているので、水だけは豊富にあった。後ろでヒースがかちゃかちゃと音を立てて鎧を脱いでいるのがわかった。
この火の調節というのがなかなかに難しいのだ。やけどしてしまわないように気をつけて、小枝やら薪やらを追加しないといけない。
各地を飛び回っていたときは、ゆっくり水浴びをする余裕はなかった。落ち着いた今だからこそできる贅沢だ。もう二度と前には戻れないなとナマエは行軍していた昔を少し思い出す。
「あぁ、いいよ。すごくいい湯加減だ」
「それはなによりで」
ナマエは家の箪笥から彼の着替えを用意した。昔はそこまで気が回らなくて、少し大変なことになったことがある。
下着から上下の服を、数組置いてあるのだ。いつ帰ってきてもいいように、薄着から厚手のものまで。
「風呂に帰ると、あー、帰ってきたんだなって思うんだ」
石鹸の泡をつけたまま、ヒースは心地よさそうに目を細めた。あがったら、彼の青緑色の髪を乾かして、綺麗に梳いてあげないといけない。きっと髪のお手入れには無頓着だろうから、長さも揃えて切ってあげよう。うんと甘やかして、いい思いをさせてあげたい。
その姿は、まるで実家に帰ってきた息子の世話をする母親だ。
「向こうでは風呂に入る時間がなかった?」
「あぁ、そもそも水が貴重だからな」
「じゃあ、ゆっくり入ってね。着替えここに置いとくね」
「ありがとう」
ナマエが野菜を刻むざくざくという音だけが響いている。前掛けをつけ、沸騰した鍋の中に刻んだ野菜を投入していく。こんな生活をする以前は、自分で料理などしたことがなかった。塩をふった肉を焼くとか、その程度だけで。
野菜は畑でとれたもの、肉は自分で罠をしかけて狩ったりしたもので、香辛料などは街へ出て買い付けたものだ。
二人分。増えた量の分手間は増える。
久しぶりだけれど、彼はどれだけ食べるだろう。今、お腹は空いているのだろうか。足りなかったらかわいそうだから、ちょっと余分に量を増やした。
誰かが家にいると、料理にもやる気が出る。普段なら疲れて手を抜くところを、いつもよりも丁寧に。
いっそのこと、ずっと居ついてもらえるようにもっと気合を入れたものにすればよかっただろうか。考えても仕方のないことだったが、そう思わずにはいられなかった。
「美味しいよ。本当、ナマエは料理上手だな」
そう彼がいうので、ナマエは胸を撫で下ろした。ずっと自分だけで食べていると、味付けには無頓着になる。最悪、胃に入ってしまえばなんでもいいのだから。
白パンに牛のバターを塗って、食べる。今日のご飯の味付けは薄いから、それくらいが丁度良い。二人にとって、丁度良い、ということが肝要だった。
「向こうでは何を食べてたの?」
「ここよりも不味いものしか食べてないよ」
顔をしかめていた。戦場で出される食事などはそういうものではあるが、相当酷かったのだろう。
パンをちぎって、スープにひたしてから口に運んだ。これを下品と嗜める人はいない。
彼は以前よりも痩せていた。心なしか、髪の艶も足りない。栄養不足だ。
「おかわりいる?」
竈門の上で温めている残りのスープをよそいに行こうとすると、彼は立ち上がった。
「それくらいは俺がやるよ」
ふと、外からごうという音がした。
「雨だ!」
ナマエは慌てて飛び出した。白いシーツは濡れていて、必死で取り込んだ。
「嘘、さっきまで晴れてたのに」
彼も一緒になって飛び出してきたので、ずぶ濡れになってしまった。
「お風呂、入りなおさないと」
せっかく綺麗にしたのに!とナマエは肩を落とした。
「今度は一緒に入らないか」
そんなことを言われたので、ナマエはギョッとした。いやではない。嫌なわけではないのだが。
「あんな狭いところに……? 無理だよ、大の大人二人で入ったら……お湯が勿体無い」
「……そ、そうか」
どうしても、素肌を晒すことに抵抗があった。もちろん男女の仲なので、床を共にして事に及ぶこともあったが、こんな明るい中で遠回しに誘われたのは初めてだった。
どういう意図があっての発言なのか、ナマエには判別がつかなかったので、曖昧に否定しておくことにした。こちらだけ意識していたという落ちでは、少し部が悪い。
暖炉の前でシーツを吊るして、濡れた体を布で拭き取った。
刺繍入りのテーブルクロスの上に並ぶ食事はとっくに冷めていて、変な空気になりかけている。
ずぶ濡れになると、途端に居心地が悪くなる。ふたりして暖炉の前に座って冷めたスープを飲んだ。
ズッキーニ、芋、人参、玉ねぎ。どれもこれも形が不揃いだった。
「ナマエ」
急に雨の音が聞こえなくなった。雷がどこか遠くで落ちたそのとき、ヒースは彼女の名前を呼んだ。
「俺がいなくて、寂しいか?」
そんなに寂しそうな顔をして。
ナマエはいつものように「いいえ」と言いたかった。が、できなかった。口が開かない。また降り出した雨の音だけが響いている。
「もし、ナマエが病で倒れても、助けてくれるやつはいないだろ。それに、俺だっていつ帰ってこれるかわからないーー」
ナマエは、それを半分流し聞いていた。そんなこと、この生活を始める前に散々悩んで、話し合って、その上で覚悟を決めて始めたことだ。
何を今更。そう思う。
「わたしはヒースがやりたいようにやってくれたら、それで良いんだ。わたしはもうやりたいことをやったから、今度は家でヒースの帰りを待っていたいんだよ」
「でも、ナマエーー」
「ねぇ、あんまり心配しないでよ。人のために戦ってる貴方を、わたしは好きなんだから、ね」
ナマエは立ち上がって、空になった皿を重ねて水場まで持って行った。
「手伝わなくて良いから、もう寝台に行って」
蛇口をひねると、当たり前のように清水が流れ出た。冷たい水は、冬のアカギレの原因になる。
どうして自分は苛々しているのだろう。ナマエは色々と頭の中で考えをこねくり回してみたが、納得がいくような結論には至れなかった。
その後、湿らせた布で体を拭き、髪を梳いて寝台へと向かった。
「まだ起きてたんだ」
一人だと広く感じる寝台に潜り込み、顔が隠れるまで毛布を引っ張り上げた。外は雨。冷えて涼しいというよりは、寒い。
「なぁ、今日の俺ってなんか変だったよな」
「うん、わたしもちょっとおかしかったからお互い様かな」
ご機嫌とりをするとナマエは余計に怒る。それを、彼はよく知っていた。
「俺、ちゃんと帰ってこれるようにするよ」
「うん」
「ナマエ、落ち着いたら街に家を買おう」
「どこで?」
彼が大陸中を駆け回り、実質的な国籍がないことをナマエはよく知っていた。かくいう彼女も故郷を捨てた身ではあるが。
「二人で決めようーーそれで、結婚しよう」
真剣な声だった。それこそ、ずっと前から温めてきたような考えを、いきなり言ってしまったような。
「……無理だよ」
ナマエは自分でそう言って、悲しくなった。
こういうことで、普通の人は悩まないのだろうか。ナマエはそんなふうに思ったが、自分たちは普通ではないと、勝手に線引きしてしまっていることに気付いて、ふと死にたくなった。
「そうか、無理かな」
「……ごめん」
「謝らないでくれよ」
「本当に……できると思ってる?」
「俺とナマエなら」
「ちゃんと考えたこと、ある? 無理だよ」
「そこはなんとかーー」
「だから、無理だって!」
「ごめん」
途端に、静かになった。彼女は、喉の奥から酸っぱいものが競り上がってくるような、そんなひどい心地でいた。ただ、その痛みの一片以上に、彼が心苦しく思っていることは承知していた。どうしてこうなったのだろうか。どうして、今こうして噛み合っていないのだろうか。
「ごめんな……」
もう己は彼なしでも平気だと、生きていけると、そう心の片隅で思ってしまっていた。だがそれは、そういうことではなかったのだろう。
目が覚めたのは、太陽が昇ってすぐで、まだ薄暗いうちだった。小鳥の囀りが竪琴の音色のように響いている。半分寝ぼけながらゆっくりと体を起こすと、寝台の傾きがおかしいような気がした。
「あ」
彼がいない。
ナマエは寝巻きの上にストールを巻きつけて、外に出た。革靴が素足に馴染んで、背が高くなった草に脚を傷つけないように慎重に進んだ。
行く場所は想像がついた。導かれるように足を動かすと、丘の上でハイペリオンに餌をやっている彼がいた。
「おはよう、早いんだね」
「おはよう……そんな格好で寒くないか?」
「うん、平気」
ふと、きつい風が吹いた。
寝癖のついたままの、髪が揺れる。
「ヒース、髪、伸びたね」
「ナマエも、前髪伸びたんじゃないか」
「うーん、そろそろ切らないと」
「二人とも、な」
「じゃあ、朝ごはん食べたら切っちゃおうか」
「さっぱりしたねー」
「ごめん、ちょっと短く切りすぎた」
「ううん、良いよ。どうせすぐ伸びるし」
鋏を入れると、小気味の良い音がして、床に髪の束が落ちた。ヒースは鋏を扱うことに慣れていないようで、恐る恐るといったふうに手を動かしていた。ナマエはそれをみても、笑わないように堪えた。
肩より下まで伸びていた髪を、肩にかからないくらいまで短く切ったのは、久しぶりのことだった。
髪を結っておしゃれをするのは、見せる相手がいないとつまらないものだと思っていたので、今の状態でも悪いわけではない。
「じゃあ、今度はわたしが切るね」
服にかからないように布をかけ、背後に回る。
「ヒースってさ、それ地毛なの?」
「え、これか? 染めてるけど」
「ふーん」
「下手くそでごめんな」
ヒースはこう言って、よくナマエに謝った。そのたび彼女は許すのだが、謝るシチュエーションというのが様々で、特に細かい作業においては、いつもナマエの方が上手だった。
「ううん、良いよ」
彼女の髪には、紫色の花がさしてあった。下手くそな編み込みは、彼がしたいと言い出したもので、熱心に教えてようやく完成したのだった。
「また、行かないと」
「そっか」
次はいつ、どこで何をしてどのくらいしたら会えるんだろう。そのことを聞くことはできなかった。
「次はきっと、うまくできるようにするから」
「じゃあ、それまでに花を集めておくね」
幾月かが過ぎた。
ナマエはいつものように、空を見上げた。飛ぶ鳥だけが自由で、自分は地面で一人、それを眺めていることしかできない。どこまで眺めても、大きな鳥のように見える竜の影は見つけることができない。
彼に買ってもらった石鹸は小さくなり、綺麗な服なんかはどうにも着る機会がなくて、タンスにしまいっぱなしにしている。
丘の上では花が咲いていた。耐え忍ぶような冬が過ぎ、やっと春になろうとしていたのだ。
「ヒース……」
ナマエは恋人の名前を呼んだ。呼んでもくるわけではないことを、重々承知していながらも、呼ばずにはいられない。
どこかで彼が彼女の名前を呼んだ気がした。
夏になった。
ふと、風が吹く。それは木々の葉を揺らす涼しげな一陣であった。
「ナマエ」
「もう花じゃなくて、実になっちゃったよ」
姿を見なくとも、それだとすぐにわかった。ナマエは振り返らない。
「実はわたし、すごく寂しかったかも」
手に握られた一輪が、落ちた。