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なんてわがままなのだろうと、己を責めることしかできない。ナマエを不幸にしたのは俺のせいだ。
人を殺した夜には、小さな肩を震わせ、ナマエは何かに耐えるように眠っていた。
まだ若くて、小さくて、こんな外道に落ちるほどの罪を、彼女は犯しただろうか。
ナマエは、幸せになれなくてもいいという。俺と一緒にいることが幸せだと、そう言って笑う。
こんな生活に限界がきているのは、誰の目にも明らかだった。
「次の休みに、どこかに行かないか」
俺がこんなふうに提案しないと、きっとナマエは何も望まない。何も求めない。
それほどまでに従順で、無欲なやつだ。俺と一緒に入れるだけでいいなんて、そんなことを本気で思っている。愚かな女。俺の方がもっと汚れているのに、こんな人間と一緒になりたいだなんて、変わり者の女。
なぁ、教会に行きたいと言われた時、俺は本当に悲しくなったよ。生まれて初めて、誰かの前で泣きそうになったんだ。
本当に、お前は俺のことが好きなんだな。
二人して人を殺して、逃げて、その繰り返しだった。
お前はやっと真っ当な仕事にやっとありつけたかと思えば、俺はその裏で手を汚している。
ナマエ一人なら、どうにでも生きられただろう。俺についてこなければ、普通の女として幸せになれただろう。
それを選ぶ機会もあった。それなのに、俺と一緒がいいって言って泣くんだな。ここまで青臭い感情をぶつけられて、正直困ったよ。
正直、嬉しかったけれど、同時に苦しかった。
俺が変えちまったんだな、お前のこと。
どうかお前だけでも、天国に行ってくれ。神様に祝福されるような人生じゃなかったが、彼女だけでも、どうか幸せになってくれ。
俺は地獄に落ちるだろうから、その時までどうか彼女を守れるだけの力をくださいと、そう願うつもりだよ。
神に認められ、祝福された夫婦なんて、似合わないけどなってもいいかもしれない。
「ナマエ……」
寝入った彼女の首筋に唇を押し当てる。冷たくなかった。暖かい、人間の体温だ。
普段は死人のように冷たい彼女の体を、触るたびに絶望する。
次の日曜に、街を出よう。彼女の行きたいところは、全部回ろう。
普段とは違い、ナマエが朝から高揚していることに気がついた。
下ろしたての小洒落た服を着て、帽子を被り、靴もピカピカに磨かれている。
鏡の前で楽しそうに回る彼女をみて、俺は思わずこう言った。
「馬子にも衣装だな」
「ちょっと、失礼ですよ」
こんな服を着て街を歩かれたら困る。俺にだけ見せるんだったらいいけどな。
こうしてみると、育ちの良いお嬢さんに見えるな。傭兵になんてならなかったら、今頃こんな服を着て、お洒落して、街で友達と遊んだりしていたんだろう。
「ラガルトさん! 早く行きましょう! 早く!」
「そんなに急かさなくたって、街は逃げないぜ」
前よりも身長が伸びて、歩幅が大きくなった。小走りに移動するナマエの後をついていくしかない。
ナマエは小さな鞄を持っていた。給料で買ったという、職人の手作りの鞄だ。花の装飾が可愛らしい。彼女によく似合っている。
街と街を結ぶ馬車は満員で、様々な職業、年齢の人間が乗り合わせている。
親子連れ、商人、旅人。
こちらの視線に気づいたのか、子供は俺の顔を見つめていた。
俺たちは、普通の恋人同士に見られているのだろうか。
車窓の風景を眺めるナマエの横顔は、年相応の柔らかさで、少し安心した。
誰かから逃げるわけでもなく、普通の旅だ。
こんなにリラックスした彼女の顔を見るのは久しぶりだった。
それだけ、普段から無理をさせてしまっているのだろう。
「ラガルトさん! 兎がいますよ」
「お、そうだな」
兎の親子の横を通り過ぎ、馬車は進む。整備された道は、野盗の襲撃にあう心配もなく、平和そのものだ。
「可愛かったなぁ……」
食用に狩られる機会が多い兎を、そんな風に可愛がって、本当の根っこが腐っていない分等が悪い
俺にはもう、どうしようもないことだ。
馬丁に金を支払い、俺たちは目的の街へと降りた。
「うわぁ、大きいなぁ……こんなに人が多いなんて、お祭りですかね?」
確かに、馬車から降りてすぐに目に入る大聖堂は、圧巻の一言に尽きる。きっとこの大陸の中でいちばん大きい教会だろう。
休日であることも相まって、人通りは多かった。
まずい。
そんな考えが頭をよぎった。こんなに人が多いと、黙って後ろから刺されてもおかしくないだろう。
そんなことばかりだ。もっと、彼女のように素直に楽しめたならよかっただろうが、それは無理だ。
「ねぇ、みてくださいよ! 飴細工の屋台に……あっちは見世物小屋ですって!」
都会にはしゃぐナマエとは裏腹に、俺は周りの警戒を忘れない。
なるべく悟られないように、彼女の楽しみを奪ってはいけない。こんな風にはしゃぐのは久しぶりだ。素直に、楽しませてやりたい。
「今日って宿に泊まりますよね? 夜も遊びたいなぁ……でも、昼間しかお店は開いてないし、教会も夕方には閉まっちゃうから……どうしようかな、ラガルトさんは、どこから行きたいですか?」
「そうだな……まずメインの教会にでも行くか」
大聖堂の辺りは、観光客や巡礼者で溢れかえっていた。純粋な信仰心からここを訪れる人間は稀だろう。
人は多かったが、聖堂の中は不思議な静けさに包まれていた。
椅子に座り、天井を眺める。壁に描かれた神話の神々、それらが生きとしいける全てのものを見下ろすように、柔和な笑みを浮かべている。
祈る言葉なんて、俺は知らない。
ふと横に視線を逸らすと、ナマエは目を閉じ、熱心な表情で祈っていた。
何を祈っているのか、俺にはわからない。
けれど、その真剣な表情を見ていると、胸が締め付けられたように苦しくなる。
「……ね、このまま祝福してもらいませんか?」
「俺たちが?」
「ほら、ここにはシスターもいらっしゃるし、加護をいただきましょうよ」
どうやら、シスターが祈ってくれるらしい。お布施をお気持ち程度にいただけたら幸いですと書かれていた。
「あー、まぁ、ナマエがやりたいなら、いいが……」
箱に硬貨を突っ込み、小さな個室に入る。
「お祈りでしょうか?」
「はい。よろしくお願いします」
「では、お二人に幸福を……」
シスターが祈りを捧げる間、俺は柄にもなく目を閉じ、安らかな静寂に身を預けていた。
教会の中の小さな個室、自分の息も聞こえてきそうなほどの静けさ。空気の震える音だけが響く。
久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
いつだって、目を閉じると昔のことを思い出す。
だからなるべく色々なことをやって、思い出さないようにしていた。
いいことも、悪いこともそれなりにだ。
「はい、以上になります。お二人にお導きがあらんことを」
意外にもあっさりとした口調でそう告げられ、拍子抜けした。
「結構手慣れてたな」
「毎日毎日こんな風にしていたら、そうなるんでしょうかね」
聖堂から街の中心部へと戻り、昼食をとることにした。
昼時だからどの店も混雑している。
「どの店も美味しそうですね」
「ぼったくりみたいな値段してるじゃないか……」
「観光地ですからね」
結局、屋台で買ったものを道の端で食べることにした。
「たまにはこういうのもいいじゃないですか」
ナマエは気遣ってそんなことを言ってくれる。
値段の割に安っぽい味のそれを、俺はどんな顔をして食べていただろう。
なぁ、最近俺はめっきり弱っている。昔みたいに、お前の前でいい格好なんてできない。
ナマエは、俺についてきてよかったのだろうか。リキアの麦畑で、子供の手を引いて歩く彼女の姿が容易に想像できる。
「これを食べたら、どうしようかな……新しいお洋服も、本も、あと、テーブルに敷く布も新しく欲しいなぁ」
串焼きをペロリとたいあげて、楽しそうに今日の予定を考えて、こういう日々がずっと続けばいい。
「ナマエが見て回りたいところ、今日は全部見ような」
「はい!」
多分、こうしてやれる機会はしばらくないだろう。
今、ここで楽しむことに集中しなければいけない。
それが、ナマエのためだ。
腕いっぱいに荷物を抱え、俺たちは宿屋の部屋へと入った。
旅行客向けの宿屋は、落ち着いた内装と、窓から街を見下ろすことのできるというのがウリらしく、満室だった。
「うわー! すごい! ベット大きいですね!」
これを一人で使ってもいいんですか? とナマエははしゃいだ。まるで子供だ。
きっと、こちらが本来の彼女なのだろう。
いつも、無理をさせてばかりだ。情けない。けれど、ああする以外に道はない。堂々巡りだ。
そろそろ新しく大きな寝台を買ってもいいかもしれないと、俺はそう考えている。
「今日は楽しかったなぁ……いっぱいものも買えて、面白い見せ物も、綺麗な街も、全部……楽しかった」
「喜んでくれて、俺も嬉しい」
「ラガルトさんは楽しかった?」
枕を抱いて、寝転がりながら俺を見上げる。
「あぁ、楽しかった」
「また来ようね!」
俺も外套をハンガーにかけ、そのまま寝台に上がる。
「おい、シワになるんじゃないか?」
ナマエはひらひらしたワンピースも脱がずに寝転がっていた。
よそ行きの服にシワがついて、怒るのはナマエ自身だ。
「……ん、眠い、です」
はしゃぎすぎて疲れているのはわかるが、明日も着る服だ。
「ほら、ちゃんと脱がないと。はい、ばんざいしな、ばんざい」
そう言うと、途端にナマエは固まった。
「……いいです! 自分で脱ぎます!」
布団を被り、中でゴソゴソと服を脱ぎ始める。
「……ばんざいなんて、子供にするみたいに!」
ナマエは下着の上にもう一枚薄い肌着を着ていたようで、その姿のままワンピースを掴んで放り投げた。ついでにストッキングも。
否定しておいてこの反応か。なんだか笑ってしまう。
「ちょっと……何笑ってるんですか?」
「大人はこんなふうに服を投げたりしないぜ?」
途端に彼女は黙る。背を向けて、おやすみなさい、と言ってからそれきりだ。
疲れているのだろう。普段はこんなふうに、大きな声で笑ったり、戯れるようなことはしてこない。
甘えたいのに甘えられない。そんな衝動を抑え込んできたのだろう。
今だけは、何も言わずにやりたいようにやらせてやりたい。
「……ねぇ、起きてます?」
真夜中だった。明かりを消して、部屋の中は真っ暗。俺は寝ていたが、彼女の声でメガ覚めた。鍵はかけてある。
ナマエの落ち着いた声で、俺は何事もなかったのかと安心した。
しかし、聞いたことのない声だ。声色が、いつもと違う。
「起きてる」
「そっか、じゃあよかった」
「……眠れないのか?」
彼女は寝台を降り、こちらの毛布の中に入ってきた。
俺は無言で横に詰める。いつものようにぴったりと、彼女の体温が薄い布ごしに伝わる。
ナマエはいつも、母親の胎内で丸まっている胎児のような姿勢で寝ていた。
本来、寂しがりやな性格なのだろう。
「……明日の朝、朝市にも行こうか?」
「うん……起きられたらでいいです」
そんなふうに曖昧な返事をするのも珍しい。
手を握れば、温かい温度が伝わる。
「ラガルトさん、冷え症なんだ」
ナマエは足の先で俺の足をなぞる。
「おい、くすぐったい」
「ふふ……」
柔い足の裏だ。豆なんてできたことないんじゃないか。
ナマエは俺の足だけでは飽き足らず、次第に自分の下半身も使ってきた。太ももと太ももをくっつけて、脹脛から下を器用に動かし、まるで獲物を捉えた獣のように拘束する。
「寝る気ないんじゃないか?」
「まぁ」
まるで情事の最中のような体制に、俺は思わずぎょっとする。寝台は二人分の体重に合わせて軋んだ。
「下の階の人の迷惑になるぞ」
そう言っても、ナマエはやめない。
「……ね、迷惑になってもいいじゃないですか」
ナマエは上半身を起こした。彼女の肩紐がほろりと落ちる。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、彼女の背を照らしていた。
不覚にも、綺麗だと感じてしまう。
彼女がしようとしていることは、いやでも理解できる。
ダメだ、やめろと突き放すこともできない。
いくら相手がナマエでも、惚れた女だ。
けれど、今はその時ではない。
「……取り返しのつかないことになるぞ」
「……じゃあ、いつだったらいいんですか?」
「今は、ダメだ……今は」
今、彼女と交わって、子供ができて、そうしたらどうすればいいのだろう。二人でも精一杯の暮らしだ。けれど、彼女が身重になって、働けなくなって、俺にもしものことがあったら。情欲やら劣情以前の問題だ。
ナマエは子供っぽいが、もう大人だ。
こういうことに興味があってもおかしくない。むしろ、今まで親兄弟のように戯れていたのが不自然だったのだ。
断るにしても、彼女のプライドを傷つけたくはない。
恐れていたことが、起ころうとしている。
ここで己の欲に身を任せて、破滅するのが一番よくない。わかっている。
柔らかい肌も、華奢な肩も、薄い背中も、触れれば後戻りできなくなる。
彼女がどんな思いでこんなふうに迫ってきたのか、俺にはわかるようでわからなかった。だから、黙るしかない。
ナマエは泣き出した。泣き顔は子供のようだ。
「すまない」
俺は謝ることしかできない。ナマエはそっと寝台から降りた。そして、肩の紐を直し、布団を頭まで被った。
重苦しい夜が明け、朝になった。ナマエは珍しく、俺より先に起きていた。
宿屋には、水場と寝台が置かれた部屋しかない。鍵は一つしかないので、出ていくわけにもいかない。だから、起きていたのだろう。
「おはよう」
「おはようございます」
ナマエは、きちんと服を着込んでいた。
「朝の市場で朝ごはんを食べて……夕方には戻りましょうね」
何事もなかったかのように、ナマエは今日の予定を確認する。
乳牛の乳が新鮮で美味しい。薄い肉を黒パンに挟んで食べたら美味しい。そんなことばかり。いつものことだ。
ナマエの目元には、泣きはらして擦ったあとがあった。見てみないふりをできない。
朝の市場は活気付いていた。地元の商人が、農家から買い付けた野菜を売り、観光客がそれを買う。
本当にいいものは、農家が自ら売りに来る。
少し外れた通りの、地元の住民が買い物に来るであろう場所を練り歩く。
「えっと、これとこれをください」
ナマエももうすっかり買い物上手になったことだ。
俺はそれを横から眺める。荷物番だ。
俺たちの横を、小さな子供が通り過ぎた。母親の手をしっかりと握り、彼らは雑踏の中に消えていく。
「いいな……」
ナマエがそう呟いたのを、聞きのがなかった。
俺は彼女の手をとった。
衝動が抑えられなかった。
ナマエが目を見開く。オレンジが落ちる。
危うい綱渡りだった関係に、一種の節目を作るべきだ。
そうでないと、本当に崩れてしまう。
「ナマエ、お前の故郷に連れて行ってくれ。ここからだと、どうしたら行ける? 馬車か? 船か? それとも……いや、なんだっていい。ちゃんと、結婚しよう。俺たちは、幸せになろう」
格好の悪いプロポーズだ。それでもいい。今伝えないと、一生言えないだろう。
「……船、ですけど」
「船だな。わかった。ここから船に乗って、行けばいいんだな」
途端にナマエは笑い出した。そして、少しだけ泣いていた。
なんだか無敵になったような気分だ。ナマエの手を引き、そのまま宿屋へ戻った。
「ラガルトさんのプロポーズ、変でしたよ!」
「そうか、おかしいよな」
今になって、少し恥ずかしくなってきた。
ナマエの水色のワンピースに、果実の染みがついていた。
「……どうして、あんなところで?」
「今言わないと、もう二度と言えない気がしたんだ」
ラガルトさんらしくないなぁ、おかしいなぁ、とナマエは笑った。
ずっと、こういうふうに笑っていてほしかった。ただそれだけだったのだと、今気づいた。
旅の終着点は、いつだって我が家だと決まっている。俺の家はもうないが、彼女の家がそうなるだろう。
刈り取り前の麦畑が風に揺れ、金髪がなびくように波打った。
金の海だ。
ナマエの足取りはゆっくりとしていた。村の娘のような地味な色の服を着て、歩いていると、本当に彼女が傭兵上がりなのかわからないだろう。
狐が麦畑を突っ切って、新しいゆらぎが生まれる。
「すごいな……想像以上だ」
ナマエは黙ってうなずいた。
美しいものを例えるための言葉を、俺は持っていない。素直な言葉を口にすれば、子供のようだったので気恥ずかしかった。
光が溢れて踊り出す。
その光にさらわれないように、思わず彼女の手を握った。
水平線の手前で人影が一つ、ぽつんと立っているのが見えた。
ナマエが俺の手を振り払い、駆け出す。
まるで絵画の中の一枚のように、金色の海を割って走るナマエは、輝いていた。
この一瞬だけ、世界が俺たちを中心に回っている。
「幸せになれよ」
自分にも、そう言い聞かせるように呟いた。
帰り道はもう、消えてしまっている。
人を殺した夜には、小さな肩を震わせ、ナマエは何かに耐えるように眠っていた。
まだ若くて、小さくて、こんな外道に落ちるほどの罪を、彼女は犯しただろうか。
ナマエは、幸せになれなくてもいいという。俺と一緒にいることが幸せだと、そう言って笑う。
こんな生活に限界がきているのは、誰の目にも明らかだった。
「次の休みに、どこかに行かないか」
俺がこんなふうに提案しないと、きっとナマエは何も望まない。何も求めない。
それほどまでに従順で、無欲なやつだ。俺と一緒に入れるだけでいいなんて、そんなことを本気で思っている。愚かな女。俺の方がもっと汚れているのに、こんな人間と一緒になりたいだなんて、変わり者の女。
なぁ、教会に行きたいと言われた時、俺は本当に悲しくなったよ。生まれて初めて、誰かの前で泣きそうになったんだ。
本当に、お前は俺のことが好きなんだな。
二人して人を殺して、逃げて、その繰り返しだった。
お前はやっと真っ当な仕事にやっとありつけたかと思えば、俺はその裏で手を汚している。
ナマエ一人なら、どうにでも生きられただろう。俺についてこなければ、普通の女として幸せになれただろう。
それを選ぶ機会もあった。それなのに、俺と一緒がいいって言って泣くんだな。ここまで青臭い感情をぶつけられて、正直困ったよ。
正直、嬉しかったけれど、同時に苦しかった。
俺が変えちまったんだな、お前のこと。
どうかお前だけでも、天国に行ってくれ。神様に祝福されるような人生じゃなかったが、彼女だけでも、どうか幸せになってくれ。
俺は地獄に落ちるだろうから、その時までどうか彼女を守れるだけの力をくださいと、そう願うつもりだよ。
神に認められ、祝福された夫婦なんて、似合わないけどなってもいいかもしれない。
「ナマエ……」
寝入った彼女の首筋に唇を押し当てる。冷たくなかった。暖かい、人間の体温だ。
普段は死人のように冷たい彼女の体を、触るたびに絶望する。
次の日曜に、街を出よう。彼女の行きたいところは、全部回ろう。
普段とは違い、ナマエが朝から高揚していることに気がついた。
下ろしたての小洒落た服を着て、帽子を被り、靴もピカピカに磨かれている。
鏡の前で楽しそうに回る彼女をみて、俺は思わずこう言った。
「馬子にも衣装だな」
「ちょっと、失礼ですよ」
こんな服を着て街を歩かれたら困る。俺にだけ見せるんだったらいいけどな。
こうしてみると、育ちの良いお嬢さんに見えるな。傭兵になんてならなかったら、今頃こんな服を着て、お洒落して、街で友達と遊んだりしていたんだろう。
「ラガルトさん! 早く行きましょう! 早く!」
「そんなに急かさなくたって、街は逃げないぜ」
前よりも身長が伸びて、歩幅が大きくなった。小走りに移動するナマエの後をついていくしかない。
ナマエは小さな鞄を持っていた。給料で買ったという、職人の手作りの鞄だ。花の装飾が可愛らしい。彼女によく似合っている。
街と街を結ぶ馬車は満員で、様々な職業、年齢の人間が乗り合わせている。
親子連れ、商人、旅人。
こちらの視線に気づいたのか、子供は俺の顔を見つめていた。
俺たちは、普通の恋人同士に見られているのだろうか。
車窓の風景を眺めるナマエの横顔は、年相応の柔らかさで、少し安心した。
誰かから逃げるわけでもなく、普通の旅だ。
こんなにリラックスした彼女の顔を見るのは久しぶりだった。
それだけ、普段から無理をさせてしまっているのだろう。
「ラガルトさん! 兎がいますよ」
「お、そうだな」
兎の親子の横を通り過ぎ、馬車は進む。整備された道は、野盗の襲撃にあう心配もなく、平和そのものだ。
「可愛かったなぁ……」
食用に狩られる機会が多い兎を、そんな風に可愛がって、本当の根っこが腐っていない分等が悪い
俺にはもう、どうしようもないことだ。
馬丁に金を支払い、俺たちは目的の街へと降りた。
「うわぁ、大きいなぁ……こんなに人が多いなんて、お祭りですかね?」
確かに、馬車から降りてすぐに目に入る大聖堂は、圧巻の一言に尽きる。きっとこの大陸の中でいちばん大きい教会だろう。
休日であることも相まって、人通りは多かった。
まずい。
そんな考えが頭をよぎった。こんなに人が多いと、黙って後ろから刺されてもおかしくないだろう。
そんなことばかりだ。もっと、彼女のように素直に楽しめたならよかっただろうが、それは無理だ。
「ねぇ、みてくださいよ! 飴細工の屋台に……あっちは見世物小屋ですって!」
都会にはしゃぐナマエとは裏腹に、俺は周りの警戒を忘れない。
なるべく悟られないように、彼女の楽しみを奪ってはいけない。こんな風にはしゃぐのは久しぶりだ。素直に、楽しませてやりたい。
「今日って宿に泊まりますよね? 夜も遊びたいなぁ……でも、昼間しかお店は開いてないし、教会も夕方には閉まっちゃうから……どうしようかな、ラガルトさんは、どこから行きたいですか?」
「そうだな……まずメインの教会にでも行くか」
大聖堂の辺りは、観光客や巡礼者で溢れかえっていた。純粋な信仰心からここを訪れる人間は稀だろう。
人は多かったが、聖堂の中は不思議な静けさに包まれていた。
椅子に座り、天井を眺める。壁に描かれた神話の神々、それらが生きとしいける全てのものを見下ろすように、柔和な笑みを浮かべている。
祈る言葉なんて、俺は知らない。
ふと横に視線を逸らすと、ナマエは目を閉じ、熱心な表情で祈っていた。
何を祈っているのか、俺にはわからない。
けれど、その真剣な表情を見ていると、胸が締め付けられたように苦しくなる。
「……ね、このまま祝福してもらいませんか?」
「俺たちが?」
「ほら、ここにはシスターもいらっしゃるし、加護をいただきましょうよ」
どうやら、シスターが祈ってくれるらしい。お布施をお気持ち程度にいただけたら幸いですと書かれていた。
「あー、まぁ、ナマエがやりたいなら、いいが……」
箱に硬貨を突っ込み、小さな個室に入る。
「お祈りでしょうか?」
「はい。よろしくお願いします」
「では、お二人に幸福を……」
シスターが祈りを捧げる間、俺は柄にもなく目を閉じ、安らかな静寂に身を預けていた。
教会の中の小さな個室、自分の息も聞こえてきそうなほどの静けさ。空気の震える音だけが響く。
久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
いつだって、目を閉じると昔のことを思い出す。
だからなるべく色々なことをやって、思い出さないようにしていた。
いいことも、悪いこともそれなりにだ。
「はい、以上になります。お二人にお導きがあらんことを」
意外にもあっさりとした口調でそう告げられ、拍子抜けした。
「結構手慣れてたな」
「毎日毎日こんな風にしていたら、そうなるんでしょうかね」
聖堂から街の中心部へと戻り、昼食をとることにした。
昼時だからどの店も混雑している。
「どの店も美味しそうですね」
「ぼったくりみたいな値段してるじゃないか……」
「観光地ですからね」
結局、屋台で買ったものを道の端で食べることにした。
「たまにはこういうのもいいじゃないですか」
ナマエは気遣ってそんなことを言ってくれる。
値段の割に安っぽい味のそれを、俺はどんな顔をして食べていただろう。
なぁ、最近俺はめっきり弱っている。昔みたいに、お前の前でいい格好なんてできない。
ナマエは、俺についてきてよかったのだろうか。リキアの麦畑で、子供の手を引いて歩く彼女の姿が容易に想像できる。
「これを食べたら、どうしようかな……新しいお洋服も、本も、あと、テーブルに敷く布も新しく欲しいなぁ」
串焼きをペロリとたいあげて、楽しそうに今日の予定を考えて、こういう日々がずっと続けばいい。
「ナマエが見て回りたいところ、今日は全部見ような」
「はい!」
多分、こうしてやれる機会はしばらくないだろう。
今、ここで楽しむことに集中しなければいけない。
それが、ナマエのためだ。
腕いっぱいに荷物を抱え、俺たちは宿屋の部屋へと入った。
旅行客向けの宿屋は、落ち着いた内装と、窓から街を見下ろすことのできるというのがウリらしく、満室だった。
「うわー! すごい! ベット大きいですね!」
これを一人で使ってもいいんですか? とナマエははしゃいだ。まるで子供だ。
きっと、こちらが本来の彼女なのだろう。
いつも、無理をさせてばかりだ。情けない。けれど、ああする以外に道はない。堂々巡りだ。
そろそろ新しく大きな寝台を買ってもいいかもしれないと、俺はそう考えている。
「今日は楽しかったなぁ……いっぱいものも買えて、面白い見せ物も、綺麗な街も、全部……楽しかった」
「喜んでくれて、俺も嬉しい」
「ラガルトさんは楽しかった?」
枕を抱いて、寝転がりながら俺を見上げる。
「あぁ、楽しかった」
「また来ようね!」
俺も外套をハンガーにかけ、そのまま寝台に上がる。
「おい、シワになるんじゃないか?」
ナマエはひらひらしたワンピースも脱がずに寝転がっていた。
よそ行きの服にシワがついて、怒るのはナマエ自身だ。
「……ん、眠い、です」
はしゃぎすぎて疲れているのはわかるが、明日も着る服だ。
「ほら、ちゃんと脱がないと。はい、ばんざいしな、ばんざい」
そう言うと、途端にナマエは固まった。
「……いいです! 自分で脱ぎます!」
布団を被り、中でゴソゴソと服を脱ぎ始める。
「……ばんざいなんて、子供にするみたいに!」
ナマエは下着の上にもう一枚薄い肌着を着ていたようで、その姿のままワンピースを掴んで放り投げた。ついでにストッキングも。
否定しておいてこの反応か。なんだか笑ってしまう。
「ちょっと……何笑ってるんですか?」
「大人はこんなふうに服を投げたりしないぜ?」
途端に彼女は黙る。背を向けて、おやすみなさい、と言ってからそれきりだ。
疲れているのだろう。普段はこんなふうに、大きな声で笑ったり、戯れるようなことはしてこない。
甘えたいのに甘えられない。そんな衝動を抑え込んできたのだろう。
今だけは、何も言わずにやりたいようにやらせてやりたい。
「……ねぇ、起きてます?」
真夜中だった。明かりを消して、部屋の中は真っ暗。俺は寝ていたが、彼女の声でメガ覚めた。鍵はかけてある。
ナマエの落ち着いた声で、俺は何事もなかったのかと安心した。
しかし、聞いたことのない声だ。声色が、いつもと違う。
「起きてる」
「そっか、じゃあよかった」
「……眠れないのか?」
彼女は寝台を降り、こちらの毛布の中に入ってきた。
俺は無言で横に詰める。いつものようにぴったりと、彼女の体温が薄い布ごしに伝わる。
ナマエはいつも、母親の胎内で丸まっている胎児のような姿勢で寝ていた。
本来、寂しがりやな性格なのだろう。
「……明日の朝、朝市にも行こうか?」
「うん……起きられたらでいいです」
そんなふうに曖昧な返事をするのも珍しい。
手を握れば、温かい温度が伝わる。
「ラガルトさん、冷え症なんだ」
ナマエは足の先で俺の足をなぞる。
「おい、くすぐったい」
「ふふ……」
柔い足の裏だ。豆なんてできたことないんじゃないか。
ナマエは俺の足だけでは飽き足らず、次第に自分の下半身も使ってきた。太ももと太ももをくっつけて、脹脛から下を器用に動かし、まるで獲物を捉えた獣のように拘束する。
「寝る気ないんじゃないか?」
「まぁ」
まるで情事の最中のような体制に、俺は思わずぎょっとする。寝台は二人分の体重に合わせて軋んだ。
「下の階の人の迷惑になるぞ」
そう言っても、ナマエはやめない。
「……ね、迷惑になってもいいじゃないですか」
ナマエは上半身を起こした。彼女の肩紐がほろりと落ちる。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、彼女の背を照らしていた。
不覚にも、綺麗だと感じてしまう。
彼女がしようとしていることは、いやでも理解できる。
ダメだ、やめろと突き放すこともできない。
いくら相手がナマエでも、惚れた女だ。
けれど、今はその時ではない。
「……取り返しのつかないことになるぞ」
「……じゃあ、いつだったらいいんですか?」
「今は、ダメだ……今は」
今、彼女と交わって、子供ができて、そうしたらどうすればいいのだろう。二人でも精一杯の暮らしだ。けれど、彼女が身重になって、働けなくなって、俺にもしものことがあったら。情欲やら劣情以前の問題だ。
ナマエは子供っぽいが、もう大人だ。
こういうことに興味があってもおかしくない。むしろ、今まで親兄弟のように戯れていたのが不自然だったのだ。
断るにしても、彼女のプライドを傷つけたくはない。
恐れていたことが、起ころうとしている。
ここで己の欲に身を任せて、破滅するのが一番よくない。わかっている。
柔らかい肌も、華奢な肩も、薄い背中も、触れれば後戻りできなくなる。
彼女がどんな思いでこんなふうに迫ってきたのか、俺にはわかるようでわからなかった。だから、黙るしかない。
ナマエは泣き出した。泣き顔は子供のようだ。
「すまない」
俺は謝ることしかできない。ナマエはそっと寝台から降りた。そして、肩の紐を直し、布団を頭まで被った。
重苦しい夜が明け、朝になった。ナマエは珍しく、俺より先に起きていた。
宿屋には、水場と寝台が置かれた部屋しかない。鍵は一つしかないので、出ていくわけにもいかない。だから、起きていたのだろう。
「おはよう」
「おはようございます」
ナマエは、きちんと服を着込んでいた。
「朝の市場で朝ごはんを食べて……夕方には戻りましょうね」
何事もなかったかのように、ナマエは今日の予定を確認する。
乳牛の乳が新鮮で美味しい。薄い肉を黒パンに挟んで食べたら美味しい。そんなことばかり。いつものことだ。
ナマエの目元には、泣きはらして擦ったあとがあった。見てみないふりをできない。
朝の市場は活気付いていた。地元の商人が、農家から買い付けた野菜を売り、観光客がそれを買う。
本当にいいものは、農家が自ら売りに来る。
少し外れた通りの、地元の住民が買い物に来るであろう場所を練り歩く。
「えっと、これとこれをください」
ナマエももうすっかり買い物上手になったことだ。
俺はそれを横から眺める。荷物番だ。
俺たちの横を、小さな子供が通り過ぎた。母親の手をしっかりと握り、彼らは雑踏の中に消えていく。
「いいな……」
ナマエがそう呟いたのを、聞きのがなかった。
俺は彼女の手をとった。
衝動が抑えられなかった。
ナマエが目を見開く。オレンジが落ちる。
危うい綱渡りだった関係に、一種の節目を作るべきだ。
そうでないと、本当に崩れてしまう。
「ナマエ、お前の故郷に連れて行ってくれ。ここからだと、どうしたら行ける? 馬車か? 船か? それとも……いや、なんだっていい。ちゃんと、結婚しよう。俺たちは、幸せになろう」
格好の悪いプロポーズだ。それでもいい。今伝えないと、一生言えないだろう。
「……船、ですけど」
「船だな。わかった。ここから船に乗って、行けばいいんだな」
途端にナマエは笑い出した。そして、少しだけ泣いていた。
なんだか無敵になったような気分だ。ナマエの手を引き、そのまま宿屋へ戻った。
「ラガルトさんのプロポーズ、変でしたよ!」
「そうか、おかしいよな」
今になって、少し恥ずかしくなってきた。
ナマエの水色のワンピースに、果実の染みがついていた。
「……どうして、あんなところで?」
「今言わないと、もう二度と言えない気がしたんだ」
ラガルトさんらしくないなぁ、おかしいなぁ、とナマエは笑った。
ずっと、こういうふうに笑っていてほしかった。ただそれだけだったのだと、今気づいた。
旅の終着点は、いつだって我が家だと決まっている。俺の家はもうないが、彼女の家がそうなるだろう。
刈り取り前の麦畑が風に揺れ、金髪がなびくように波打った。
金の海だ。
ナマエの足取りはゆっくりとしていた。村の娘のような地味な色の服を着て、歩いていると、本当に彼女が傭兵上がりなのかわからないだろう。
狐が麦畑を突っ切って、新しいゆらぎが生まれる。
「すごいな……想像以上だ」
ナマエは黙ってうなずいた。
美しいものを例えるための言葉を、俺は持っていない。素直な言葉を口にすれば、子供のようだったので気恥ずかしかった。
光が溢れて踊り出す。
その光にさらわれないように、思わず彼女の手を握った。
水平線の手前で人影が一つ、ぽつんと立っているのが見えた。
ナマエが俺の手を振り払い、駆け出す。
まるで絵画の中の一枚のように、金色の海を割って走るナマエは、輝いていた。
この一瞬だけ、世界が俺たちを中心に回っている。
「幸せになれよ」
自分にも、そう言い聞かせるように呟いた。
帰り道はもう、消えてしまっている。