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私は故郷の夢をみる。夕日を背に、私たちは麦畑を見下す山の道を歩いている。私たちのどちらにも似ていない子供もいる。誰かを殺した日は、そんな夢をみる。もうそこへはいけないから。彼がもう少し生きやすい世の中だったらいいのに。そんなことを考える。
「……一人でした」
「やったのか?」
「はい」
黒い牙を抜けたラガルトさんと私は、エリウッド様たちと別れたあとでも黒い牙の残党たちにつけ狙われる日々を送っていた。ついてくるなと言った彼の後を、無理矢理つけていったからこんな生活に文句は言えない。幸い、私も身を守る術くらいは身につけている。潜り込んできた賊の一人くらい、なんとか殺すことはできる。問題は、その後だ。
「さて、こいつはどうしたもんかね」
ラガルトさんは、まるで他人事のように呟いた。私ですら殺せたんだから、向こうに行ったって結末は一緒だっただろう。
男の遺体を外に運んだ。橋の下に降りて、人目につかないようなところに寝かせると、私はファイアーの魔導書で男の遺体を焼いた。散り散りになった燃えかすが、風に吹かれて飛んで行った。
「お前さんも、慣れたもんだな」
「正当防衛ですから」
昔は、誰かの怪我を見ることだって嫌だった。けれども、数をこなせば慣れたもので、そのうち何も感じなくなった。少なくとも、襲ってくるような輩に同情するような気持ちは無くなった。
「これから、眠れるか?」
「多分、無理ですね。目が冴えちゃって」
「そろそろ潮時かもな」
私たちは、今晩中に街を出ることにした。馬に跨って、夜の砂漠を走った。黒いベールのような夜空に、ガラスの破片を散りばめたような星が浮かんでいた。ここら辺は、夜が真冬のように冷え込むことで有名だ。手綱を握る私の手は、悴んでいる。
「いっそ山の奥にでも引きこもれば、安心なのかね」
「私の故郷はどうですか?すっごい田舎ですよ」
「それも悪くないかもな」
きっと、そうすることはないだろう。老人のように隠居するには、私たちは若すぎる。
しかし、危険を顧みずに旅をすることは無謀だ。今まで、様々な街でひっそりと暮らして、刺客が来れば立ち去るということを繰り返してきた。
私たちは、普通の暮らしをするには手を汚しすぎている。仲間を頼るようなことはしたくなかった。次こそは安住の地になるだろうという淡い期待を込めて、夜の道を進む。私はこれで幸せだった。何もない山の奥で、一生を終えたって構わない。ただ、その決断をするには早すぎると思った。
それからしばらくして住み着いた街では、なかなかうまくやっていけた。
私たちは、街の貸し家に居を構えて、職を探した。私は酒場で働いた。彼は私がそういう場所で働くのは気が進まないらしいが、久しぶりに堅気の仕事がやれるのだ。こんな私を雇ってくれたのだから。魔導書の持ち腐れだが、他にいい職にありつけるような経歴はない。私はただの名前で、それ以上でもそれ以下でもない。
極力誰かと親しい関係になることは避けたが、若い給仕に探りを入れようとする人は多かった。私は極力無難な会話をしたつもりだ。
しばらく何も起こらず、ずっとここで働くのもいいかもしれないと思った。仕事にも慣れてきて、お給金も上がった。
ある日、閉店まで残っていた私をラガルトさんが迎えに来たことがあった。過保護な父親みたいだと思った。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
なんで迎えにきたんですか。なんて尋ねると、彼は心配になるんだと答えた。珍しく、真面目な声色だった。理由はわかっている。彼が私のことを心配するのもわかる。確かに、酒場での仕事を終えると日はすっかり落ちてしまっている。けれど、職場と家は近いし、なんなら歩いて数分程度しかかからない。それに、ここら辺は人通りも多いし夜でも人が普通に歩いている。
ごねようとする私の手を引いて、ラガルトさんはスタスタと歩いた。こんなに早足で歩くことは珍しい。いつも、私に合わせてゆっくりと歩いてくれるから。
回り道だった。普通なら数分で着く家に、十何分かかけて帰宅した。誰かが私たちをつけているということだ。
滑り込むように部屋に入った。歩いている間、ずっと握りっぱなしだった手がじわじわと熱を帯びている。いつも冷たい彼の手が、今日だけ暖かかった。
「撒けた?」
「……ナマエはここにいろ。俺がやってくる」
そう言って、彼は家を出た。内鍵を閉めて、グッと足に力がこもった。
何人殺せばいいのだろう。この家は平家だから、侵入は容易いだろう。コートの内ポケットにしまった魔導書を取り出し、頁を何枚かめくった。すでに何度か使われたそれを、開くのは久しぶりだ。刺客がどこにいるのか。どこで待ち伏せているのか。私にはわからない。きっと、私の知らない間にも彼は何人か殺している。そして、その追撃はいつになってもおわらない。
あぁ、二人して逃げ始めて何年経っただろう。それほど経っていないのかもしれない。わからない。日付を数えるのはもうやめたから。
彼が戻ってきたのは、あれから一時間がすぎた後だった。ノックが三回にいつもの合言葉で、彼が無事だったのがわかった。彼を待つ時、三十分が永遠にも感じられる。
返り血なんて一滴も浴びない。綺麗なままだった。私は崩れ落ちた。今度こそは、本当にダメかもしれないと、そう考えてしまうほどに。私たちは疲れ切っていた。
「なぁ、名前の故郷ってどんなところなんだ」
二人してベッドに横になると、とてもじゃないがゆったりと寝ることはできない。前は、小さなベッドを二つ使っていた。けれど、何度も家を変えるたびに買い足していてはお金が足りないので、最初からベッドが一つしかない場合でもそのまま二人で使うことにした。
「私の故郷はリキアなんです。リキアの北西のーー田舎ですね。何にもなくって、ただ麦畑が広がっているだけ。でも、麦畑に風がそよいだ時は、金色の長い髪が揺れているみたいで綺麗でした。その時だけは、ここで生まれてよかったって、そう思いました」
目を閉じれば、今でも思い出せる。金色の大地が風に揺れて、海面のように波打つのだ。
「どうして、私の故郷の話を?」
「前に、そんな話をしただろう?」
「……ここを、出ていくんですか」
「ナマエは帰りたいか?自分の家に、もう何年も帰っていないんだろ」
「ここでの暮らしには慣れてきたし、多分これからだって大丈夫だから、まだ帰ろうとは思いません」
「俺とこんな暮らしをして、お前は幸せか?」
「幸せですよ。きっと、ついて来なかったら後悔したかも」
この言葉に嘘偽りはない。心からの真実だ。
「……初めて会った時のこと、覚えているか」
私の手と、彼の手が重なった。細長い指だった。私の手も、以前と比べて硬くなった。皮膚が分厚い。彼の手はいつだって冷たい。
「覚えているに決まってる。だって、一目惚れだったんですよ」
私はかつて、傭兵だった。両親に充てがわれた婚約者に嫌気が差し、家にあった魔導書を盗み、都会へと一人で逃げた。婚約者の男は、親よりも年上の金持ちで、前の妻を亡くしている。それに、私くらいの年の子供がいた。地主の後妻なんて冗談じゃない。親に結婚相手を決めてもらうなんて、まぁ珍しいことではないが、この時ばかりは自分の両親のセンスを疑った。農場の経営で負った借金を肩代わりしてもらうための結婚だった。
昔は、母親と同じようにお婿さんを迎えて、この畑の世話をして、子供を産んで、幸せに暮らすものだと無邪気に信じていた。けれど、それは今じゃない。そして、その相手もあの人じゃない。
私たちは、何も悪いことはしていない。それなのに、どうしてこんな風に辛い暮らししかできなかったんだろう。毎日毎日朝から晩まで身を粉にして働いた。小さい時はそうでもなかった。身の回りの世話をしてくれる人がいて、御給金を出して畑で働く人がいた。でも、その時はそうではない。あんなに大きな麦畑。働いても働いても、借金の返済に消えていく。手元に残るお金は雀の涙だ。私はもう、限界だった。都会で誰かに雇われた方が、こんな生活よりも楽だろうと考えた。娘を売り払うような両親も、この忌まわしい麦畑も、全て捨てて逃げてしまおう。どうせうまくいかないのだから。
都会に出たところで、経験も身寄りもない子供を雇ってくれるようなところは少ない。あっても雀の涙程度の額だ。で、こういう時に役に立つのが魔導の腕だ。昔から畑に出た獣を追い払ったりして、ほぼ独学ではあるがそこそこの経験はあった。闘技場に潜って腕を磨き、近隣で活動する傭兵団に声をかけ、私は戦場に立った。
彼と会ったのは、傭兵として数回の戦場を渡った時だった。
後方から敵にとどめを刺すのは、サシでやりあう闘技場よりは楽だったが、下っ端の私がもらえる額など微々たるものだ。前衛の仲間は次々死んでいく。私も、何度か危ない目に会ったことはあった。傭兵は思ったよりも楽な仕事じゃない。大変で、きつい仕事だ。時期や時間が固定でない分、今までのように自分で収出をコントロールできない。自分の行動には自分で責任を取らないといけないし、雇い主も、言っちゃなんだがクズが多かった。あんな奴のためになんで働かないといけないんだ。そう思うことも多かった。主君に恵まれない騎士も同じ気持ちだろうか。誰かの言われるがままに行動するのは楽だったけれど、どこかやりきれない気持ちがあった。
両親は、私がこんなことをしているなんて気づかないだろう。ここを抜けるか抜けないかで迷っていた時、ちょうどエリウッド様たちに出会った。誰にも言わずに傭兵団をこっそりと抜け出して、彼らの行軍について行った。その中で、どこか怪しげな雰囲気を身に纏っていたのが、彼だ。ああいうタイプは今までいなかった。飄々とした話し方や、影のある空気が好きだ。はぐらかすような物言いにも夢中になった。一眼見てから、ずっと目で追っていた。戦っている最中でさえも、彼の隣に立つと胸が高なった。婚約者の一件から、年上の男性と結ばれることはないと思っていたが、彼の隣にたつ自分の姿を想像してしまう。彼も、私のことを気にかけてくれていたのだろうか。話す機会があれば、その話題は私のこれからについてのことだ。あなたについていきたいなんて冗談でも言えるような雰囲気じゃなかった。私は不義理な家出娘で、彼は組織から抜けた暗殺者だ。昔のことを話したのは、彼だけだった。家に帰って親に顔を見せてやれ、なんて言われて私もそれがいいとは思った。けれど、一度離れたらもう二度と会えない気がして、私は彼について行った。無理やりだ。私の子供みたいな好意の押し付けを、受け流してくれたら諦めがついたのに、彼は馬鹿になったのか、呆れていたのか。私が泣いて取り乱し、ついていくと言った時、彼は何も言わなかった。
ここでの暮らしは、思い描いていたような楽な暮らしではない。彼と一緒にいる限り、そんな暮らしは無理だろう。彼は私の見えないところで色々と仕事をしているようだったし、私も私で、流れ者の生活には疲れかけていた。ずっとこんな暮らしができるわけじゃない。もう、黒い牙が壊滅してしばらく経つのに、その影響力は凄まじい。
今頃実家に戻ったところで、親に合わせる顔がないと思う。借金はどうなっているのか、あの田舎で、私が出て行ったことはすぐ噂になるだろう。肩身が狭い思いをしているはずだ。
「俺も、なんとなく気になってたんだ。でもまぁ、あそこまで本気になられるとは思っていなかったけどな。赤ん坊みたいに泣いて、あいつらの前で告白された時は流石の俺でもうろたえたもんさ」
「そんな恥ずかしいこと話さないでくださいよ」
枕を思い切り抱きしめた。お腹のおくがうずうずして、悶えてしまう。
「嬉しかったんだよ。こんな俺のこと、好きだって真正面から言ってくれる人がいて」
後ろからお腹に腕を回されて、ちょうど枕を抱えるような風に抱きしめられた。ちょうど耳の部分に吐息が当たって、なんだかくすぐったい。
「ちょっと肉がついたんじゃないか?」
「ばか、言わないでくださいよ」
「前はまともに食ってなかったからな。俺は今の抱き心地の方が好きだぜ。それに、まだ若いんだから、痩せようとせずにちゃんと食っといた方がいい」
「ラガルトさん、なんかおじさんみたい」
「そのおじさんが好きな物好きは誰だ?」
「ねぇ、起きてる?」
しばらく沈黙が続いて、彼が眠ってしまっているか気になった。いつも私が寝るまで起きているような人だ。それに、私より早く起きて準備をする。彼の寝顔が見てみたいとずっと思っていた。
「……まだ起きてたのか」
「ねぇ、ラガルトさん……私、おばあちゃんまで生きられなくてもいいし、ずっと故郷に戻れなくてもいいんです」
背中に感じる彼の温度が息苦しい。いつまで経っても、この狭いベッドには慣れない。
「あーあ、昔は、好きな人と結婚して、子供を産んで、畑の世話をするのが幸せだって思っていたのにな」
母親が、背中を丸めて畑で作業をする姿が目に浮かんだ。あの背中をしていた母は、もう今の私の年には結婚していたはずだ。私もそうなるはずだった。
「……次の休みに、どこかにいかないか?」
「じゃあ、大きな教会のあるところがいいです。神様に祝福されたら、結婚したのと一緒でしょう?」
「俺はリキアの麦畑が見たい」
「じゃあ、とっておきの場所があるんですよ。大きくはないけど教会があって、麦畑が一面に広がっているんです」
その夜、私は夢を見た。夢は、近いうちに本物になる。そんな予感がする。
「……一人でした」
「やったのか?」
「はい」
黒い牙を抜けたラガルトさんと私は、エリウッド様たちと別れたあとでも黒い牙の残党たちにつけ狙われる日々を送っていた。ついてくるなと言った彼の後を、無理矢理つけていったからこんな生活に文句は言えない。幸い、私も身を守る術くらいは身につけている。潜り込んできた賊の一人くらい、なんとか殺すことはできる。問題は、その後だ。
「さて、こいつはどうしたもんかね」
ラガルトさんは、まるで他人事のように呟いた。私ですら殺せたんだから、向こうに行ったって結末は一緒だっただろう。
男の遺体を外に運んだ。橋の下に降りて、人目につかないようなところに寝かせると、私はファイアーの魔導書で男の遺体を焼いた。散り散りになった燃えかすが、風に吹かれて飛んで行った。
「お前さんも、慣れたもんだな」
「正当防衛ですから」
昔は、誰かの怪我を見ることだって嫌だった。けれども、数をこなせば慣れたもので、そのうち何も感じなくなった。少なくとも、襲ってくるような輩に同情するような気持ちは無くなった。
「これから、眠れるか?」
「多分、無理ですね。目が冴えちゃって」
「そろそろ潮時かもな」
私たちは、今晩中に街を出ることにした。馬に跨って、夜の砂漠を走った。黒いベールのような夜空に、ガラスの破片を散りばめたような星が浮かんでいた。ここら辺は、夜が真冬のように冷え込むことで有名だ。手綱を握る私の手は、悴んでいる。
「いっそ山の奥にでも引きこもれば、安心なのかね」
「私の故郷はどうですか?すっごい田舎ですよ」
「それも悪くないかもな」
きっと、そうすることはないだろう。老人のように隠居するには、私たちは若すぎる。
しかし、危険を顧みずに旅をすることは無謀だ。今まで、様々な街でひっそりと暮らして、刺客が来れば立ち去るということを繰り返してきた。
私たちは、普通の暮らしをするには手を汚しすぎている。仲間を頼るようなことはしたくなかった。次こそは安住の地になるだろうという淡い期待を込めて、夜の道を進む。私はこれで幸せだった。何もない山の奥で、一生を終えたって構わない。ただ、その決断をするには早すぎると思った。
それからしばらくして住み着いた街では、なかなかうまくやっていけた。
私たちは、街の貸し家に居を構えて、職を探した。私は酒場で働いた。彼は私がそういう場所で働くのは気が進まないらしいが、久しぶりに堅気の仕事がやれるのだ。こんな私を雇ってくれたのだから。魔導書の持ち腐れだが、他にいい職にありつけるような経歴はない。私はただの名前で、それ以上でもそれ以下でもない。
極力誰かと親しい関係になることは避けたが、若い給仕に探りを入れようとする人は多かった。私は極力無難な会話をしたつもりだ。
しばらく何も起こらず、ずっとここで働くのもいいかもしれないと思った。仕事にも慣れてきて、お給金も上がった。
ある日、閉店まで残っていた私をラガルトさんが迎えに来たことがあった。過保護な父親みたいだと思った。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
なんで迎えにきたんですか。なんて尋ねると、彼は心配になるんだと答えた。珍しく、真面目な声色だった。理由はわかっている。彼が私のことを心配するのもわかる。確かに、酒場での仕事を終えると日はすっかり落ちてしまっている。けれど、職場と家は近いし、なんなら歩いて数分程度しかかからない。それに、ここら辺は人通りも多いし夜でも人が普通に歩いている。
ごねようとする私の手を引いて、ラガルトさんはスタスタと歩いた。こんなに早足で歩くことは珍しい。いつも、私に合わせてゆっくりと歩いてくれるから。
回り道だった。普通なら数分で着く家に、十何分かかけて帰宅した。誰かが私たちをつけているということだ。
滑り込むように部屋に入った。歩いている間、ずっと握りっぱなしだった手がじわじわと熱を帯びている。いつも冷たい彼の手が、今日だけ暖かかった。
「撒けた?」
「……ナマエはここにいろ。俺がやってくる」
そう言って、彼は家を出た。内鍵を閉めて、グッと足に力がこもった。
何人殺せばいいのだろう。この家は平家だから、侵入は容易いだろう。コートの内ポケットにしまった魔導書を取り出し、頁を何枚かめくった。すでに何度か使われたそれを、開くのは久しぶりだ。刺客がどこにいるのか。どこで待ち伏せているのか。私にはわからない。きっと、私の知らない間にも彼は何人か殺している。そして、その追撃はいつになってもおわらない。
あぁ、二人して逃げ始めて何年経っただろう。それほど経っていないのかもしれない。わからない。日付を数えるのはもうやめたから。
彼が戻ってきたのは、あれから一時間がすぎた後だった。ノックが三回にいつもの合言葉で、彼が無事だったのがわかった。彼を待つ時、三十分が永遠にも感じられる。
返り血なんて一滴も浴びない。綺麗なままだった。私は崩れ落ちた。今度こそは、本当にダメかもしれないと、そう考えてしまうほどに。私たちは疲れ切っていた。
「なぁ、名前の故郷ってどんなところなんだ」
二人してベッドに横になると、とてもじゃないがゆったりと寝ることはできない。前は、小さなベッドを二つ使っていた。けれど、何度も家を変えるたびに買い足していてはお金が足りないので、最初からベッドが一つしかない場合でもそのまま二人で使うことにした。
「私の故郷はリキアなんです。リキアの北西のーー田舎ですね。何にもなくって、ただ麦畑が広がっているだけ。でも、麦畑に風がそよいだ時は、金色の長い髪が揺れているみたいで綺麗でした。その時だけは、ここで生まれてよかったって、そう思いました」
目を閉じれば、今でも思い出せる。金色の大地が風に揺れて、海面のように波打つのだ。
「どうして、私の故郷の話を?」
「前に、そんな話をしただろう?」
「……ここを、出ていくんですか」
「ナマエは帰りたいか?自分の家に、もう何年も帰っていないんだろ」
「ここでの暮らしには慣れてきたし、多分これからだって大丈夫だから、まだ帰ろうとは思いません」
「俺とこんな暮らしをして、お前は幸せか?」
「幸せですよ。きっと、ついて来なかったら後悔したかも」
この言葉に嘘偽りはない。心からの真実だ。
「……初めて会った時のこと、覚えているか」
私の手と、彼の手が重なった。細長い指だった。私の手も、以前と比べて硬くなった。皮膚が分厚い。彼の手はいつだって冷たい。
「覚えているに決まってる。だって、一目惚れだったんですよ」
私はかつて、傭兵だった。両親に充てがわれた婚約者に嫌気が差し、家にあった魔導書を盗み、都会へと一人で逃げた。婚約者の男は、親よりも年上の金持ちで、前の妻を亡くしている。それに、私くらいの年の子供がいた。地主の後妻なんて冗談じゃない。親に結婚相手を決めてもらうなんて、まぁ珍しいことではないが、この時ばかりは自分の両親のセンスを疑った。農場の経営で負った借金を肩代わりしてもらうための結婚だった。
昔は、母親と同じようにお婿さんを迎えて、この畑の世話をして、子供を産んで、幸せに暮らすものだと無邪気に信じていた。けれど、それは今じゃない。そして、その相手もあの人じゃない。
私たちは、何も悪いことはしていない。それなのに、どうしてこんな風に辛い暮らししかできなかったんだろう。毎日毎日朝から晩まで身を粉にして働いた。小さい時はそうでもなかった。身の回りの世話をしてくれる人がいて、御給金を出して畑で働く人がいた。でも、その時はそうではない。あんなに大きな麦畑。働いても働いても、借金の返済に消えていく。手元に残るお金は雀の涙だ。私はもう、限界だった。都会で誰かに雇われた方が、こんな生活よりも楽だろうと考えた。娘を売り払うような両親も、この忌まわしい麦畑も、全て捨てて逃げてしまおう。どうせうまくいかないのだから。
都会に出たところで、経験も身寄りもない子供を雇ってくれるようなところは少ない。あっても雀の涙程度の額だ。で、こういう時に役に立つのが魔導の腕だ。昔から畑に出た獣を追い払ったりして、ほぼ独学ではあるがそこそこの経験はあった。闘技場に潜って腕を磨き、近隣で活動する傭兵団に声をかけ、私は戦場に立った。
彼と会ったのは、傭兵として数回の戦場を渡った時だった。
後方から敵にとどめを刺すのは、サシでやりあう闘技場よりは楽だったが、下っ端の私がもらえる額など微々たるものだ。前衛の仲間は次々死んでいく。私も、何度か危ない目に会ったことはあった。傭兵は思ったよりも楽な仕事じゃない。大変で、きつい仕事だ。時期や時間が固定でない分、今までのように自分で収出をコントロールできない。自分の行動には自分で責任を取らないといけないし、雇い主も、言っちゃなんだがクズが多かった。あんな奴のためになんで働かないといけないんだ。そう思うことも多かった。主君に恵まれない騎士も同じ気持ちだろうか。誰かの言われるがままに行動するのは楽だったけれど、どこかやりきれない気持ちがあった。
両親は、私がこんなことをしているなんて気づかないだろう。ここを抜けるか抜けないかで迷っていた時、ちょうどエリウッド様たちに出会った。誰にも言わずに傭兵団をこっそりと抜け出して、彼らの行軍について行った。その中で、どこか怪しげな雰囲気を身に纏っていたのが、彼だ。ああいうタイプは今までいなかった。飄々とした話し方や、影のある空気が好きだ。はぐらかすような物言いにも夢中になった。一眼見てから、ずっと目で追っていた。戦っている最中でさえも、彼の隣に立つと胸が高なった。婚約者の一件から、年上の男性と結ばれることはないと思っていたが、彼の隣にたつ自分の姿を想像してしまう。彼も、私のことを気にかけてくれていたのだろうか。話す機会があれば、その話題は私のこれからについてのことだ。あなたについていきたいなんて冗談でも言えるような雰囲気じゃなかった。私は不義理な家出娘で、彼は組織から抜けた暗殺者だ。昔のことを話したのは、彼だけだった。家に帰って親に顔を見せてやれ、なんて言われて私もそれがいいとは思った。けれど、一度離れたらもう二度と会えない気がして、私は彼について行った。無理やりだ。私の子供みたいな好意の押し付けを、受け流してくれたら諦めがついたのに、彼は馬鹿になったのか、呆れていたのか。私が泣いて取り乱し、ついていくと言った時、彼は何も言わなかった。
ここでの暮らしは、思い描いていたような楽な暮らしではない。彼と一緒にいる限り、そんな暮らしは無理だろう。彼は私の見えないところで色々と仕事をしているようだったし、私も私で、流れ者の生活には疲れかけていた。ずっとこんな暮らしができるわけじゃない。もう、黒い牙が壊滅してしばらく経つのに、その影響力は凄まじい。
今頃実家に戻ったところで、親に合わせる顔がないと思う。借金はどうなっているのか、あの田舎で、私が出て行ったことはすぐ噂になるだろう。肩身が狭い思いをしているはずだ。
「俺も、なんとなく気になってたんだ。でもまぁ、あそこまで本気になられるとは思っていなかったけどな。赤ん坊みたいに泣いて、あいつらの前で告白された時は流石の俺でもうろたえたもんさ」
「そんな恥ずかしいこと話さないでくださいよ」
枕を思い切り抱きしめた。お腹のおくがうずうずして、悶えてしまう。
「嬉しかったんだよ。こんな俺のこと、好きだって真正面から言ってくれる人がいて」
後ろからお腹に腕を回されて、ちょうど枕を抱えるような風に抱きしめられた。ちょうど耳の部分に吐息が当たって、なんだかくすぐったい。
「ちょっと肉がついたんじゃないか?」
「ばか、言わないでくださいよ」
「前はまともに食ってなかったからな。俺は今の抱き心地の方が好きだぜ。それに、まだ若いんだから、痩せようとせずにちゃんと食っといた方がいい」
「ラガルトさん、なんかおじさんみたい」
「そのおじさんが好きな物好きは誰だ?」
「ねぇ、起きてる?」
しばらく沈黙が続いて、彼が眠ってしまっているか気になった。いつも私が寝るまで起きているような人だ。それに、私より早く起きて準備をする。彼の寝顔が見てみたいとずっと思っていた。
「……まだ起きてたのか」
「ねぇ、ラガルトさん……私、おばあちゃんまで生きられなくてもいいし、ずっと故郷に戻れなくてもいいんです」
背中に感じる彼の温度が息苦しい。いつまで経っても、この狭いベッドには慣れない。
「あーあ、昔は、好きな人と結婚して、子供を産んで、畑の世話をするのが幸せだって思っていたのにな」
母親が、背中を丸めて畑で作業をする姿が目に浮かんだ。あの背中をしていた母は、もう今の私の年には結婚していたはずだ。私もそうなるはずだった。
「……次の休みに、どこかにいかないか?」
「じゃあ、大きな教会のあるところがいいです。神様に祝福されたら、結婚したのと一緒でしょう?」
「俺はリキアの麦畑が見たい」
「じゃあ、とっておきの場所があるんですよ。大きくはないけど教会があって、麦畑が一面に広がっているんです」
その夜、私は夢を見た。夢は、近いうちに本物になる。そんな予感がする。