未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
FE
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
彼氏のマシューさんは優しい。
「ナマエ」
私は絶賛風邪引き中で、学校を休んで布団の中に籠城中。朝一番で病院に行って、インフルエンザではないと言われたけれど、それでも体はだるくて息が苦しい。
新しい氷嚢を持ってきてくれた彼にお礼を言いたかったけど、喉が痛いから何も言えなかった。あつい。いろんな意味で暑い。目の前がクラクラして、握ってくれているマシューさんの手に私の熱が移って汗ばんできた。
「おれはこれから仕事だけど、ちゃんと大人しくしてないとダメだからな」
いい子で待っててくれよ、なんて言葉はもう何回も聞いた。私の看病のために、彼は午前の仕事を休んでくれた。本当は、寝るまでそばにいて欲しい。そんなことばかり考えているから私は子供なんだろうか。
「じゃあ、行ってくるな。鍵はおれが閉めるから。あと、腹減ったら冷蔵庫に昨日の残りがあるからチンして食べろよ……おやすみ、ちゃんと寝てろよ」
最後に私の頭を撫でて、そのまま彼は出て行ってしまった。
行ってらっしゃいくらい言えばよかった。そんなことを考えながら天井のシミを数えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢をみて、嫌なところで目が覚めた。マシューさんの夢だ。夢の中で、マシューさんが私以外の人と喋っていた。女の人だ。詳しい内容まではわからなかった。けれど、雰囲気で彼女がマシューさんと親しい仲……恋人のように見えた。少なくとも、マシューさんは私にするような顔をしていなかった。私の知らないマシューさん。知らない女の人。
熱が出たときには悪い夢を見るという。
私ももれなくそんなパターンだったんだろう。
見てはいけないものを見たような気がして、気分が悪い。眠気もすっかりなくなって、体のだるさも減った。薬を飲んだおかげだろう。
マシューさんが変えてくれた氷枕は、もう溶けて水になっていた。
ベッドからのそのそと起き上がり、適当にテレビをつけると時刻はもう三時を回っていた。
今日の夜、眠れるか心配になった。昨日の夜、私が作ったラザニアをチンして食べた。別に美味しくもまずくもなかった。
七時を回ったくらいにマシューさんが帰ってきた。デパ地下で買った中華のお惣菜に、昨日の残りのご飯を一緒に食べた。
「今日、俺が当番だったのにな。作れなくてごめん」
「私の時だって、お惣菜ですませた時はあったから。それに、私の看病してくれた人にそんなこと言えないですよ」
彼の顔を見ると、昼に見た変な夢が脳裏をちらついた。
「お仕事、どうだった?」
「別になんとも言われなかったよ。彼女と同棲してるのはみんな知ってたしさ」
「……言ってたの?」
「さすがに彼女は学生です、とまでは言ってないさ。それにほら、彼女がいるって言っとかないとふっかけてくる人がいるだろう?」
嫌味を言う気にはならなかった。マシューさんの軽口が、今日はなんだか本気に聞こえて。でも、たかが夢のことで騒ぐ気にはなれない。今まで、どんなにつまらないことでもマシューさんにはなんでも相談してきたのに。なんだか、嫉妬しているみたいで変だ。夢の中の人に嫉妬するなんて。
「なんか顔色悪くないか?片付けはおれがやっておくからさ。もう寝ろよ」
そう言って、彼は流し台の方に食器やらパックやらを全部持っていってしまった。
台所に立つマシューさんの背中が、いつもより大きく見えた。
マシューさんがお風呂に入るまでの間、私は布団の中にいたけれど眠れなかった。
変に目が冴えている。夜の九時なんて、普段なら普通に起きている時間だ。マシューさんはリビングで何かの作業をしていて、その明かりが私のところにも少し漏れている。
ナマエを幸せにしようと決めたのは、彼女とこちらで再開してからだった。
昔、というか変な話、前世で彼女とおれは仲間同士だった。おれはヘクトル様の付き人として彼女と知り合った。彼女はリンディス様の友人で、おれの過去のことなんて何一つ知らなかったし、おれも彼女のことを何も知らなかった。
けれど、一緒に戦場で戦っていくうちに、お互いのことが少しずつわかってくるようになった。
どんな食べ物が好き、どこの出身、どんなクセがあって、どんな夢を持っているか。
職業柄、おれは人の観察をする性癖がある。彼女はとてもわかりやすい。素直な人だ。楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。嫌だと思ったらすぐに抗議するし、自分が間違っていたらすぐに謝れる。変なところでいじっぱりだったけれど、愛嬌があって大勢から好かれるタイプだ。間違っても、裏があるようなやつじゃない。
きっとあの時、彼女はおれのことが好きだったんだろう。「好みのタイプってどんな人ですか」と、顔を真っ赤にして聞いてきた彼女をからかって「おとなの女性だな」と言うと、目に見えて落ち込んでいた。
次の日、なれない化粧に爪に紅まで塗ってやってきた彼女には、どうにも言い表しがたい瑞々しさがあった。十代の、まだあどけない女の子にそんなことをさせてしまって、どうとも思わないおれではない。
戦いで疲れているだろうに、早起きして、なれない道具を使っておれのためにおしゃれしてきた彼女を見て、罪悪感を感じた。
騙し騙しだった。おれには恋人がいたから、彼女の努力は実のらない。ついの冗談のつもりが、大きな溝を産むことがある。ただ、からかっただけだと言うには遅すぎた。
次の日、レイラが死んだ。おれは亡骸を埋葬した。あの島に、おれは思い出を埋めた。悲しいとか、腹立たしいとか、そんなことを口に出す余裕はなかった。
おれの視界の隅に、彼女はいた。茫然とした表情をしていた。おれはあの時、気にも止めなかった。
結局全てが終わって、彼女は故郷へ戻ったという。おれはてっきり、リンディス様に仕えたのだと思い込んでいた。昔のことを思い返す時、彼女の顔はぼんやりとしていた。
誰かと恋をして、子供もいて、きっとおれよりも幸せになったんだろうと思っていた。
それから数年して、街の酒場で傭兵たちの会話の中で彼女の名前を聞いた。”ナマエという名の剣士が戦場にいた”らしい。そして、敵将と相討ちになって死んだらしい。死体は「女の死に方じゃないような」ものだったそうだ。相手は魔導士で、彼女は苦しんで死んだそうだ。「味方の魔導士はいいけど、敵のは怖いよな」そう言って、彼らは笑った。
らしくないな、と流し聞した。きっと同姓同名の別人だろうなんてその時は思った。
その晩、何か言いたげな表情と、小さな背中を思い出した。なれない化粧に緊張して顔が真っ赤な彼女の頬を思い出した。
そして、こんな予感がした。もう二度と、彼女に会えないだろう。
きっとどこかで彼女とすれ違ったのかもしれない。でも、きっとそうだったとしてもわからなかっただろう。彼女の姿は以前とは変わってしまっただろうから。
喉に引っかかったように、ナマエの名前が頭の中を回った。悪夢にナマエはよく出てきた。成長したナマエが、おれの首を締めていた。「うそつき」と言って彼女はおれの目を覗き込んだ。
あれほど、夢でもいいから会いたいと思っていたレイラが、一度も出てこなかったことを考えると、おれはどれだけナマエのことを考えていたのだろう。誰も幸せになれなかった。おれはただ、生きていただけだった。
彼女とまた会えた。
あの時、前線で戦っていた時と、彼女は何も変わっていなかった。世間知らずで、優しいただの女の子だ。
彼女を見た時に、おれは前世のことを全て思い出した。それは今から三年前の春の日で、おれの運命はナマエだったと気づいた。
彼女に償いをしたいわけじゃない。前世で不幸にしてしまったナマエへの贖罪のように、ナマエが願うことは全て叶えた。
「私、マシューさんの彼女で幸せです」
そう言われて、やっと報われたと思った。
でも、本当に幸せになりたかったのはおれだった。
あの時、まだナマエは高校生だった。彼女が年上のおれを好きになるのに時間はかからなかった。おれは、あの時のやり直しがしたかった。神様は悪趣味なことをするものだ。
「私、マシューさんのことが好きです」
「言えてよかったな」とおれの中の誰かが呟いた。
思い出さないで欲しい。昔のことなんて。
「ナマエ、まだ起きてたのか」
リビングのパソコンの前で固まっていると、後ろからナマエがおれに抱きついた。
「お仕事邪魔してごめんなさい」
「いや、これは趣味の調べ物だから全然構わないんだけど……眠れない?」
「マシューさんのホットミルクが飲みたいな」
「仰せのままに」
執事めいた口調でキッチンに行くと、背後でナマエがクスクス笑う声が聞こえた。
「はいどうぞ、お嬢様」
「ふふ、ありがとう」
柔らかくてふわふわしたパジャマを着て、熱いミルクを必死に冷まそうとしているのを見て、思わず頬が緩んだ。
火傷しないように必死でふぅふぅと息を吹きかける様は、愛らしい。
「明日も休んだらきっと良くなるさ」
「うーん、熱も下がってきたし、明日は私がご飯作りますね」
「だめ、おれが作るから、ちゃんと休んでろよ」
「はーい。じゃあ、治ったらとびきりのやつを作るね。楽しみにしててくださいね」
「あぁ、だからちゃんと明日も安静にな」
まるで小さな子供を寝かしつける親のようだった。これまで実際に、非常に潔癖で、プラトニックな関係を保ってきたつもりだ。肉体的な繋がりを、ナマエが求めているように見えないからだ。でもそれはいいわけで、おれは結局レイラのことも吹っ切れていなかったんだろう。こんな調子だから、もっぱら恋人どうしですること言えば、手をつないだり、添い寝したりとかその程度のことで、寝室も分けているからナマエとそういう接触を行う機会はなかった。チャンスは何度かあったかもしれない。彼女は法律上の年齢では成人していることになっているし、彼女より年下の少女でもセックスしたことのある人はいるだろう。行うべきか、行わざるべきか。必要か、必要ではないかと問われれば、必要ないしやるべきではない。まだ学生なのに、とかいろいろ言い訳はできるが、要は責任を取れる自信がないのだ。幸せにしてあげたいなんて言ったのに、結局このままずっとおれの手元に置いておくことがいいのかわからない。おれがナマエの年のことにはもうそんなことは経験済みだった。ただ、ナマエを相手にするとなると、わからなくなる。
「ん……眠くないのに」
「あったかいもん飲んだんだから、じきに眠くなるさ」
「寝るまでみてて」とナマエがいうので彼女の布団に潜った。
眠くないはずはない。もう目が惚けてきて、ゆっくりと睡魔が襲いかかってきている。ひとえに、ナマエはおれと喋っていたいだけなんだろう。風邪のとき、誰かがそばにいることへの安心感は尋常ではない。かわいいな、と思う。まるで親と子供のようだ。でも、父親と娘は普通一緒のベッドで寝たりしない。
「マシューさん」
「ん、どうした?」
「私以外の人と付き合ったことある?」
「……あるよ」
ナマエは顔まで布団をかぶっていたから、表情はわからなかった。口調は淡々としていた。いつものナマエのままだった。
「その人、どんな人だった?」
「……仕事熱心で、優しい人だった」
「そっか……じゃあ、どこまでいった?」
「どこまでって」
「どこまでしたの?キスはした?セックスは?」
ナマエの口からそんな単語が出てくるとは正直思っていなかった。そして同時に、後悔した。もっとナマエの精神年齢を高く見積もっておけばよかったのだ。
心臓がうるさい。隠しものでも見つけられたような、嫌な汗が背中を伝った。これまでのどんな修羅場よりもひどいものだ。ナマエの表情が見えない分、余計に恐ろしい。そうだ、おれはナマエの保護者じゃない。言い訳はできないだろう。
「……したよ、両方」
「気持ちよかった?」
「……なぁ、何をそんなに気にしてるんだ。昔の話だよ。ずっと前だ」
「教えてくださいよ。私に、マシューさんのこと全部」
声が震えていた。きっとナマエは、泣いている。
「……何か、嫌なことでもあったのか?」
「マシューさんが、女の人といた」
「いつ、見たんだ?」
尋問のようにならないよう、努めて優しい口調で言ったつもりだ。
「夢で、知らない人といた」
「夢……」
「マシューさん、女の人と仲が良さそうで、それで、今とはなんか違ってた」
「それを見て、ナマエはいやな気持ちになったんだな」
「……わからない。でも、そうかも」
「……いきなり聞かれたから驚いた」
「じゃあ、本当にあの人はいたの?」
「そうだよ。でも、もう会えない」
ナマエは、小さくごめんなさいと呟いて、それから黙ってしまった。
ナマエと寝る時、いつもは手を繋ぐのに、今日はしなかった。
私が目覚めると、マシューさんはまだ寝ていた。彼の寝顔を見る機会は少なかった。いつも、私より先に起きているから。
柔い寝息を聞いていると、昨日のことを思い出した。私は結局、何がしたかったんだろう。抱いて欲しかったわけじゃない。きっと、マシューさんから離れたくないだけだ。熱を測ると、もう平熱に戻っていた。
パジャマのまま、台所にたった。大したものは作れない。トースターで食パンを焼いて、あとはヨーグルトを出して、ジャムを出して、紅茶を淹れるくらい。
マシューさんは、それはそれは手のこんだ、カフェで出るような朝食を作ってくれた。でも、私は手先が不器用だし、何より腕に自信がないのでそんな手の込んだものは作れない。
前に私が料理をして、その時は火を使ったんだけど、火傷したことがあった。帰宅したマシューさんにそのことを言ったら、すごい勢いで心配された。だから、私が火を使う時は、彼が家にいないといけない。そのことを友達に言ったら「ナマエの彼氏ってすっごい過保護だね」と言われた。確かに、と私は思った。
「おはよう。起こしてくれたらおれが作ったのに」
マシューさんはちゃんと着替えて、髪の毛もちゃんとセットしてこっちに来た。
「熱、下がったよ。もう大丈夫。今日は午後から学校行くね」
「うーん、まぁ、いいか」
まるで、昨日のことなんて忘れたような、そもそもなかったことのように振る舞うマシューさんを見て、恥ずかしさがこみ上げてきた。でも、悟られてはいけない気がして、なるべく普通の表情を作ろうと顔の筋肉を動かした。
自分で作った朝ごはん、全く味がしなかった。
「昨日は、ごめんなさい」
家を出る間際、玄関でナマエがそんなことを言った。
「いいよ、別に。おれこそ不安にさせちまって悪かったな」
そう言って頭を撫でると、ナマエはさらに爆弾を落とす。
「……マシューさんがその人のこと、まだ好きでもいいから、離れないで」
あの時の目だった。おれは思い出した。ナマエは一度、おれと一緒に夜の番をしたことがある。ロマンもへったくれもないようなシチュエーションだが、真上にまたたく星が綺麗だった。そこは、山の上だった。空気が薄くて、ナマエは慣れない環境で疲れていた。だから、おれは休むように言ったのだけど彼女はそれを断った。
「マシューさんは、この戦争が終わったらどうするんですか」
「変わらないと思う。きっと、これまで同じ密偵のままだろうな」
「マシューさんの故郷ってどんなところなんですか」
「いい場所だよ。故郷っていってもどこかは言えないけどな」
レイラが死んで、しばらくたった後だった。暗がりの下でも、彼女の唇に紅が引いてあるのがわかった。それを見ると、胸が痛む。
「……私の生まれた場所も、とてもいいところなんです」
そこから、ナマエは自分の生まれ故郷について語り出した。それは、詩人が語るような淀み無い口調で、ひょっとしたら彼女にはそういう生き方もあったのかもしれないと思った。まるで、その光景がありありと目に浮かぶようで、知らない土地の、知らない場所に、おれは初めて心惹かれた。彼女が草原を愛していることがよく伝わった。
この戦いが終わったら、詩人になるのもいいんじゃないか、なんていった気がする。
「マシューさんも、機会があれば来てください。きっとそこで、私は待ってますから」
そういって、泣きそうな顔で笑った。あの時の瞳だ。
彼女があれから故郷の土を踏むことはあったのだろうか。
生涯で一度だけ、彼女のいうような草原に行ったことがある。草が海のように広がり、空は青かった。草の緑と、空の青が絵画のように調和していて、風に吹かれた爽やかな香りがあたりを通過していくのがわかった。
草原の中を走る、小さな彼女の姿が見えた気がした。
「おれは、ナマエのことだけが好きだ」
ああ、ごめんなさい。心の中で謝った相手の顔がわからなくなった。彼女の小さい肩が震えるのを見て、思わず抱きしめた。
「私も、ずっと前からあなただけが好きです」
そういったナマエの声は、昔のものとよく似ていた。
タイトル=yesのアルバムから
「ナマエ」
私は絶賛風邪引き中で、学校を休んで布団の中に籠城中。朝一番で病院に行って、インフルエンザではないと言われたけれど、それでも体はだるくて息が苦しい。
新しい氷嚢を持ってきてくれた彼にお礼を言いたかったけど、喉が痛いから何も言えなかった。あつい。いろんな意味で暑い。目の前がクラクラして、握ってくれているマシューさんの手に私の熱が移って汗ばんできた。
「おれはこれから仕事だけど、ちゃんと大人しくしてないとダメだからな」
いい子で待っててくれよ、なんて言葉はもう何回も聞いた。私の看病のために、彼は午前の仕事を休んでくれた。本当は、寝るまでそばにいて欲しい。そんなことばかり考えているから私は子供なんだろうか。
「じゃあ、行ってくるな。鍵はおれが閉めるから。あと、腹減ったら冷蔵庫に昨日の残りがあるからチンして食べろよ……おやすみ、ちゃんと寝てろよ」
最後に私の頭を撫でて、そのまま彼は出て行ってしまった。
行ってらっしゃいくらい言えばよかった。そんなことを考えながら天井のシミを数えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢をみて、嫌なところで目が覚めた。マシューさんの夢だ。夢の中で、マシューさんが私以外の人と喋っていた。女の人だ。詳しい内容まではわからなかった。けれど、雰囲気で彼女がマシューさんと親しい仲……恋人のように見えた。少なくとも、マシューさんは私にするような顔をしていなかった。私の知らないマシューさん。知らない女の人。
熱が出たときには悪い夢を見るという。
私ももれなくそんなパターンだったんだろう。
見てはいけないものを見たような気がして、気分が悪い。眠気もすっかりなくなって、体のだるさも減った。薬を飲んだおかげだろう。
マシューさんが変えてくれた氷枕は、もう溶けて水になっていた。
ベッドからのそのそと起き上がり、適当にテレビをつけると時刻はもう三時を回っていた。
今日の夜、眠れるか心配になった。昨日の夜、私が作ったラザニアをチンして食べた。別に美味しくもまずくもなかった。
七時を回ったくらいにマシューさんが帰ってきた。デパ地下で買った中華のお惣菜に、昨日の残りのご飯を一緒に食べた。
「今日、俺が当番だったのにな。作れなくてごめん」
「私の時だって、お惣菜ですませた時はあったから。それに、私の看病してくれた人にそんなこと言えないですよ」
彼の顔を見ると、昼に見た変な夢が脳裏をちらついた。
「お仕事、どうだった?」
「別になんとも言われなかったよ。彼女と同棲してるのはみんな知ってたしさ」
「……言ってたの?」
「さすがに彼女は学生です、とまでは言ってないさ。それにほら、彼女がいるって言っとかないとふっかけてくる人がいるだろう?」
嫌味を言う気にはならなかった。マシューさんの軽口が、今日はなんだか本気に聞こえて。でも、たかが夢のことで騒ぐ気にはなれない。今まで、どんなにつまらないことでもマシューさんにはなんでも相談してきたのに。なんだか、嫉妬しているみたいで変だ。夢の中の人に嫉妬するなんて。
「なんか顔色悪くないか?片付けはおれがやっておくからさ。もう寝ろよ」
そう言って、彼は流し台の方に食器やらパックやらを全部持っていってしまった。
台所に立つマシューさんの背中が、いつもより大きく見えた。
マシューさんがお風呂に入るまでの間、私は布団の中にいたけれど眠れなかった。
変に目が冴えている。夜の九時なんて、普段なら普通に起きている時間だ。マシューさんはリビングで何かの作業をしていて、その明かりが私のところにも少し漏れている。
ナマエを幸せにしようと決めたのは、彼女とこちらで再開してからだった。
昔、というか変な話、前世で彼女とおれは仲間同士だった。おれはヘクトル様の付き人として彼女と知り合った。彼女はリンディス様の友人で、おれの過去のことなんて何一つ知らなかったし、おれも彼女のことを何も知らなかった。
けれど、一緒に戦場で戦っていくうちに、お互いのことが少しずつわかってくるようになった。
どんな食べ物が好き、どこの出身、どんなクセがあって、どんな夢を持っているか。
職業柄、おれは人の観察をする性癖がある。彼女はとてもわかりやすい。素直な人だ。楽しい時には笑い、悲しい時には泣く。嫌だと思ったらすぐに抗議するし、自分が間違っていたらすぐに謝れる。変なところでいじっぱりだったけれど、愛嬌があって大勢から好かれるタイプだ。間違っても、裏があるようなやつじゃない。
きっとあの時、彼女はおれのことが好きだったんだろう。「好みのタイプってどんな人ですか」と、顔を真っ赤にして聞いてきた彼女をからかって「おとなの女性だな」と言うと、目に見えて落ち込んでいた。
次の日、なれない化粧に爪に紅まで塗ってやってきた彼女には、どうにも言い表しがたい瑞々しさがあった。十代の、まだあどけない女の子にそんなことをさせてしまって、どうとも思わないおれではない。
戦いで疲れているだろうに、早起きして、なれない道具を使っておれのためにおしゃれしてきた彼女を見て、罪悪感を感じた。
騙し騙しだった。おれには恋人がいたから、彼女の努力は実のらない。ついの冗談のつもりが、大きな溝を産むことがある。ただ、からかっただけだと言うには遅すぎた。
次の日、レイラが死んだ。おれは亡骸を埋葬した。あの島に、おれは思い出を埋めた。悲しいとか、腹立たしいとか、そんなことを口に出す余裕はなかった。
おれの視界の隅に、彼女はいた。茫然とした表情をしていた。おれはあの時、気にも止めなかった。
結局全てが終わって、彼女は故郷へ戻ったという。おれはてっきり、リンディス様に仕えたのだと思い込んでいた。昔のことを思い返す時、彼女の顔はぼんやりとしていた。
誰かと恋をして、子供もいて、きっとおれよりも幸せになったんだろうと思っていた。
それから数年して、街の酒場で傭兵たちの会話の中で彼女の名前を聞いた。”ナマエという名の剣士が戦場にいた”らしい。そして、敵将と相討ちになって死んだらしい。死体は「女の死に方じゃないような」ものだったそうだ。相手は魔導士で、彼女は苦しんで死んだそうだ。「味方の魔導士はいいけど、敵のは怖いよな」そう言って、彼らは笑った。
らしくないな、と流し聞した。きっと同姓同名の別人だろうなんてその時は思った。
その晩、何か言いたげな表情と、小さな背中を思い出した。なれない化粧に緊張して顔が真っ赤な彼女の頬を思い出した。
そして、こんな予感がした。もう二度と、彼女に会えないだろう。
きっとどこかで彼女とすれ違ったのかもしれない。でも、きっとそうだったとしてもわからなかっただろう。彼女の姿は以前とは変わってしまっただろうから。
喉に引っかかったように、ナマエの名前が頭の中を回った。悪夢にナマエはよく出てきた。成長したナマエが、おれの首を締めていた。「うそつき」と言って彼女はおれの目を覗き込んだ。
あれほど、夢でもいいから会いたいと思っていたレイラが、一度も出てこなかったことを考えると、おれはどれだけナマエのことを考えていたのだろう。誰も幸せになれなかった。おれはただ、生きていただけだった。
彼女とまた会えた。
あの時、前線で戦っていた時と、彼女は何も変わっていなかった。世間知らずで、優しいただの女の子だ。
彼女を見た時に、おれは前世のことを全て思い出した。それは今から三年前の春の日で、おれの運命はナマエだったと気づいた。
彼女に償いをしたいわけじゃない。前世で不幸にしてしまったナマエへの贖罪のように、ナマエが願うことは全て叶えた。
「私、マシューさんの彼女で幸せです」
そう言われて、やっと報われたと思った。
でも、本当に幸せになりたかったのはおれだった。
あの時、まだナマエは高校生だった。彼女が年上のおれを好きになるのに時間はかからなかった。おれは、あの時のやり直しがしたかった。神様は悪趣味なことをするものだ。
「私、マシューさんのことが好きです」
「言えてよかったな」とおれの中の誰かが呟いた。
思い出さないで欲しい。昔のことなんて。
「ナマエ、まだ起きてたのか」
リビングのパソコンの前で固まっていると、後ろからナマエがおれに抱きついた。
「お仕事邪魔してごめんなさい」
「いや、これは趣味の調べ物だから全然構わないんだけど……眠れない?」
「マシューさんのホットミルクが飲みたいな」
「仰せのままに」
執事めいた口調でキッチンに行くと、背後でナマエがクスクス笑う声が聞こえた。
「はいどうぞ、お嬢様」
「ふふ、ありがとう」
柔らかくてふわふわしたパジャマを着て、熱いミルクを必死に冷まそうとしているのを見て、思わず頬が緩んだ。
火傷しないように必死でふぅふぅと息を吹きかける様は、愛らしい。
「明日も休んだらきっと良くなるさ」
「うーん、熱も下がってきたし、明日は私がご飯作りますね」
「だめ、おれが作るから、ちゃんと休んでろよ」
「はーい。じゃあ、治ったらとびきりのやつを作るね。楽しみにしててくださいね」
「あぁ、だからちゃんと明日も安静にな」
まるで小さな子供を寝かしつける親のようだった。これまで実際に、非常に潔癖で、プラトニックな関係を保ってきたつもりだ。肉体的な繋がりを、ナマエが求めているように見えないからだ。でもそれはいいわけで、おれは結局レイラのことも吹っ切れていなかったんだろう。こんな調子だから、もっぱら恋人どうしですること言えば、手をつないだり、添い寝したりとかその程度のことで、寝室も分けているからナマエとそういう接触を行う機会はなかった。チャンスは何度かあったかもしれない。彼女は法律上の年齢では成人していることになっているし、彼女より年下の少女でもセックスしたことのある人はいるだろう。行うべきか、行わざるべきか。必要か、必要ではないかと問われれば、必要ないしやるべきではない。まだ学生なのに、とかいろいろ言い訳はできるが、要は責任を取れる自信がないのだ。幸せにしてあげたいなんて言ったのに、結局このままずっとおれの手元に置いておくことがいいのかわからない。おれがナマエの年のことにはもうそんなことは経験済みだった。ただ、ナマエを相手にするとなると、わからなくなる。
「ん……眠くないのに」
「あったかいもん飲んだんだから、じきに眠くなるさ」
「寝るまでみてて」とナマエがいうので彼女の布団に潜った。
眠くないはずはない。もう目が惚けてきて、ゆっくりと睡魔が襲いかかってきている。ひとえに、ナマエはおれと喋っていたいだけなんだろう。風邪のとき、誰かがそばにいることへの安心感は尋常ではない。かわいいな、と思う。まるで親と子供のようだ。でも、父親と娘は普通一緒のベッドで寝たりしない。
「マシューさん」
「ん、どうした?」
「私以外の人と付き合ったことある?」
「……あるよ」
ナマエは顔まで布団をかぶっていたから、表情はわからなかった。口調は淡々としていた。いつものナマエのままだった。
「その人、どんな人だった?」
「……仕事熱心で、優しい人だった」
「そっか……じゃあ、どこまでいった?」
「どこまでって」
「どこまでしたの?キスはした?セックスは?」
ナマエの口からそんな単語が出てくるとは正直思っていなかった。そして同時に、後悔した。もっとナマエの精神年齢を高く見積もっておけばよかったのだ。
心臓がうるさい。隠しものでも見つけられたような、嫌な汗が背中を伝った。これまでのどんな修羅場よりもひどいものだ。ナマエの表情が見えない分、余計に恐ろしい。そうだ、おれはナマエの保護者じゃない。言い訳はできないだろう。
「……したよ、両方」
「気持ちよかった?」
「……なぁ、何をそんなに気にしてるんだ。昔の話だよ。ずっと前だ」
「教えてくださいよ。私に、マシューさんのこと全部」
声が震えていた。きっとナマエは、泣いている。
「……何か、嫌なことでもあったのか?」
「マシューさんが、女の人といた」
「いつ、見たんだ?」
尋問のようにならないよう、努めて優しい口調で言ったつもりだ。
「夢で、知らない人といた」
「夢……」
「マシューさん、女の人と仲が良さそうで、それで、今とはなんか違ってた」
「それを見て、ナマエはいやな気持ちになったんだな」
「……わからない。でも、そうかも」
「……いきなり聞かれたから驚いた」
「じゃあ、本当にあの人はいたの?」
「そうだよ。でも、もう会えない」
ナマエは、小さくごめんなさいと呟いて、それから黙ってしまった。
ナマエと寝る時、いつもは手を繋ぐのに、今日はしなかった。
私が目覚めると、マシューさんはまだ寝ていた。彼の寝顔を見る機会は少なかった。いつも、私より先に起きているから。
柔い寝息を聞いていると、昨日のことを思い出した。私は結局、何がしたかったんだろう。抱いて欲しかったわけじゃない。きっと、マシューさんから離れたくないだけだ。熱を測ると、もう平熱に戻っていた。
パジャマのまま、台所にたった。大したものは作れない。トースターで食パンを焼いて、あとはヨーグルトを出して、ジャムを出して、紅茶を淹れるくらい。
マシューさんは、それはそれは手のこんだ、カフェで出るような朝食を作ってくれた。でも、私は手先が不器用だし、何より腕に自信がないのでそんな手の込んだものは作れない。
前に私が料理をして、その時は火を使ったんだけど、火傷したことがあった。帰宅したマシューさんにそのことを言ったら、すごい勢いで心配された。だから、私が火を使う時は、彼が家にいないといけない。そのことを友達に言ったら「ナマエの彼氏ってすっごい過保護だね」と言われた。確かに、と私は思った。
「おはよう。起こしてくれたらおれが作ったのに」
マシューさんはちゃんと着替えて、髪の毛もちゃんとセットしてこっちに来た。
「熱、下がったよ。もう大丈夫。今日は午後から学校行くね」
「うーん、まぁ、いいか」
まるで、昨日のことなんて忘れたような、そもそもなかったことのように振る舞うマシューさんを見て、恥ずかしさがこみ上げてきた。でも、悟られてはいけない気がして、なるべく普通の表情を作ろうと顔の筋肉を動かした。
自分で作った朝ごはん、全く味がしなかった。
「昨日は、ごめんなさい」
家を出る間際、玄関でナマエがそんなことを言った。
「いいよ、別に。おれこそ不安にさせちまって悪かったな」
そう言って頭を撫でると、ナマエはさらに爆弾を落とす。
「……マシューさんがその人のこと、まだ好きでもいいから、離れないで」
あの時の目だった。おれは思い出した。ナマエは一度、おれと一緒に夜の番をしたことがある。ロマンもへったくれもないようなシチュエーションだが、真上にまたたく星が綺麗だった。そこは、山の上だった。空気が薄くて、ナマエは慣れない環境で疲れていた。だから、おれは休むように言ったのだけど彼女はそれを断った。
「マシューさんは、この戦争が終わったらどうするんですか」
「変わらないと思う。きっと、これまで同じ密偵のままだろうな」
「マシューさんの故郷ってどんなところなんですか」
「いい場所だよ。故郷っていってもどこかは言えないけどな」
レイラが死んで、しばらくたった後だった。暗がりの下でも、彼女の唇に紅が引いてあるのがわかった。それを見ると、胸が痛む。
「……私の生まれた場所も、とてもいいところなんです」
そこから、ナマエは自分の生まれ故郷について語り出した。それは、詩人が語るような淀み無い口調で、ひょっとしたら彼女にはそういう生き方もあったのかもしれないと思った。まるで、その光景がありありと目に浮かぶようで、知らない土地の、知らない場所に、おれは初めて心惹かれた。彼女が草原を愛していることがよく伝わった。
この戦いが終わったら、詩人になるのもいいんじゃないか、なんていった気がする。
「マシューさんも、機会があれば来てください。きっとそこで、私は待ってますから」
そういって、泣きそうな顔で笑った。あの時の瞳だ。
彼女があれから故郷の土を踏むことはあったのだろうか。
生涯で一度だけ、彼女のいうような草原に行ったことがある。草が海のように広がり、空は青かった。草の緑と、空の青が絵画のように調和していて、風に吹かれた爽やかな香りがあたりを通過していくのがわかった。
草原の中を走る、小さな彼女の姿が見えた気がした。
「おれは、ナマエのことだけが好きだ」
ああ、ごめんなさい。心の中で謝った相手の顔がわからなくなった。彼女の小さい肩が震えるのを見て、思わず抱きしめた。
「私も、ずっと前からあなただけが好きです」
そういったナマエの声は、昔のものとよく似ていた。
タイトル=yesのアルバムから