未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
FE
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「いい加減にして! 今自分が何をしようとしているか、分かっていないわけではないでしょう!」
「……お前、気でも狂ったか」
「…………ッお前たちに理解してもらえるとは思っていない! だけど……それでも!」
むせるような熱気が三人の間を流れていた。穏やかとはいえない空気と、切羽詰まった雰囲気――武装した兵士が三人。まさに一触即発と形容するにふさわしい状況である。
シルヴァンの行く手を阻むように、イングリットとフェリクスは身構えた。全員が今すぐにでも獲物を抜き、戦闘がいつ始まってもおかしくはない。少しでも身をよじれば、それぞれの鎧が擦れあい物騒な音が発せられる。戦場で数多の血を浴びた甲冑は危うげな鈍い光を放ち、鈍く輝いていた。
「…………」
斬り合えば――真っ先に白刃が届くのはフェリクスの方だろう。シルヴァンは何度も彼と向き合って鍛錬をし、時には背中を合わせて敵陣に切り込んでいった。彼の大胆かつ身軽な動きには何度も助けられた。
仮に一発目をうまく躱したとしても、イングリットの正確な一打がこちらの首を穿つ。彼女の細い体躯に見合わぬ無慈悲なほど鋭い槍が、身内であれども一切の躊躇をしないことをシルヴァンはよく知っていた。
味方でいれば頼もしいが、敵に回すと厄介な相手であることは痛いほど理解している。
……それでも、二人を切り捨てる覚悟でなければ今からしようとしていることは到底実現できないだろう。
「…………」
緊張で槍を持つ手が震える。この場で二人を相手取って上手く切り抜けられる自信は彼にはなかった。上手くやっても精々相打ちがいいところだろう。――シルヴァンの裏切りをタダで見逃してくれる二人ではない。
血走った目でこちらを見つめるイングリットは、差し違えてでも王であるディミトリを裏切った反逆者を許さないだろう。そして、寝返ろうとしている先があのエーデルガルトが率いる帝国だというのだから、殺してでも止める覚悟でいるはずだ。フェリクスも思うことは同じ――彼もまた、自分で選んでこの戦場に立っているのだから、対話でも解決しないとなるとやることは決まっている。
「どうしてもあの女のところに行くのね」
「……お前の愚かさには、毎度ながら言葉も出ないな」
返事はしない。
こちらを見つめる目線が一瞬揺らいだ隙――その一瞬をシルヴァンは見抜いた。
「――はぁッ!」
一太刀から本気で殺すつもりで――切り裂く。
「ッ……!」
鋭く、重い一撃。
手から弾き飛ばされた剣には目もくれず、シルヴァンは二人の間を突くように走りだした。
成功したのは運の要素もあったが、それ以上に相手の癖をよく知っていたというのも大きかった。このまま目的の場所まで抜けて、早駆けのための馬にでも飛び乗ればそれで成功する。
最初から二人を説得できるとは思っていなかったが、無傷のまま離脱できたのならこれで満足だ。
――いつか戦場で相まみえることがあれば、その時は本当に容赦はしない。首を取る覚悟で、かつての友人と殺し合う覚悟が必要だ。……今はまだそんな度胸もないのかもしれない。
「やろうと思えばひと思いに殺せただろうに。お前は戦場でも敵に情けをかけるのか?」
「ディミトリ……!」
不意にシルヴァンの目の前に現れた人影が喋り出した。闇に溶けるような黒衣の上に、透けるような目映い金髪が煌めいている。夜でも分かるほど、彼の容は白く輝きを放っていた。
「今でもお前は俺を殺すことができた。なのにしなかった。――それでよく裏切ろうなどと言えたものだな」
「不用意な殺生はしたくないだけだ」
「うるさい。お前がそうすると決めた時から、敵になると分かっていただろう。今すぐに俺の首を取ってみろ。……できないのであれば、愚かな考えは捨て去ることだな。ディミトリ、お前には無理だ。仲間を、幼なじみを、古い縁故をお前は切り捨てることができない。そういう人間なんだよ、お前は」
「……俺はもう甘さは捨て去った。それは今の俺には相応しくない評価だと思うけどな」
「ははっ。……残念だが今でも有用な事実のままだな」
ディミトリの乾いた笑い声が夜の静寂に響き渡る。不意に鳥が木々から羽ばたいて消えていった。生き物の動く僅かな音すらも消え去った森の中は、風が時折吹いては枝葉を揺らす音だけがやけに五月蠅く響く。決して大きな声で喋っているわけではないが、ディミトリの言葉は大地に根付くように深く、シルヴァンの四肢を絡め取るだけの迫力をもって轟いた。
「シルヴァン。俺はお前の判断力を……人を見る目を高く買っている。それはわかっているだろう」
ディミトリが歩くたびに彼を包む鎧が細かく音を立てた。上質な布で仕立てたマントから発せられる衣擦れの音すらも耳元で聞こえるほど、彼はシルヴァンの近くまで来ていた。
「――お前に俺は殺せないだろう?」
直接ナマエのことを「諦めろ」と言われたわけではない。しかし、シルヴァンが槍を持った手は力なくうなだれた。
「今やっているのは戦争だ。色恋や情に絆されて、自分がやるべき本懐を忘れる――。シルヴァン、お前はそんな愚かな男ではないはずだ」
ディミトリはそう言うと、シルヴァンを追い越すように元の野営地に向かって消えていく。
「…………」
すれ違う最中、刺そうと思えばいくらでも攻撃できるほどの距離に、ディミトリはいた。しかし……
「できなかった……」
どれだけ心に固く誓ったところで、肝心な時に動くことはできなかった。
自分の意志の弱さから、チャンスを不意にしたのだ。
震える手で槍を収め、地面に落ちる自分の影を見つめた。
情けないほどに膝が震えている。――どうしようもなくふがいない自分が腹立たしい。
「……クソッ!」
緊張から解き放たれた彼の口からついて出た罵倒にも、世界の何もかもが嫌いだ。
自分にはあいつのような勇気も覚悟もなかった。そう突きつけるようなディミトリの視線がシルヴァンの頭を駆け巡る。かつてと変わってしまったように見えて、ディミトリの人を見る鋭利な角度は変わることはない。
――見逃された。
咄嗟に思った。幼馴染みとして情けを掛けられたのか、と――。
普通の兵士なら彼は迷わず切り捨てていたであろう場面で、刃を向けておきながら許されてしまった。
「――騎士として、俺は……生きろってことか?」
今まで意識しなかったわけではない。寧ろ、幼い頃から嫌というほど押しつけられてきた役割――どれだけ自分の運命を呪ったか数え切れないほどだ。
ディミトリはそれを理解していながら、それでも欲しているのだ。シルヴァンが子供の時分から得意としている領分――身につけざるを得なかった特技が必要とされている。
「あぁ――」
……だから、今自分は生きている。
ようやく理解した時にシルヴァンの口から出たのは、今まで何度も堪えきれずに発してしまったのと同じ、諦めの声だった。
結局のところ、自分の力が弱いからこうなってしまっている。
誰かに定められた道でしか生きることができない。そんな自分を直視するのが恐ろしかった。
ナマエのおかげで忘れられていた己の本分を――ディミトリの手によって眼前に突きつけられる。
そうすると、気が狂って叫びたくなるのだ。
「――本当に、バカみたいだな、俺は」
――運命に抗うなんてそんな夢を、贅沢にも見てみたくなってしまった。
◆
「お前たちは先に下がっていろ。俺も後から追う」
シルヴァンの言葉に、配下として付き従っていた兵士たちは本陣へと下がり始めた。
帝国との鍔迫り合いは拮抗している。汚泥と血にまみれた戦場に立っていると、今でも全身が震えるほどの緊張と悪寒が襲ってくる。
一時も気が抜けない状態ではあったが、時折波のように襲ってくる高ぶりが、シルヴァンの神経を刺激した。
――この広い野戦場のどこかに、ナマエがいる。
毎回出撃するごとに、敵陣に切り込む時にもかつての級友の顔が浮かび上がってくる。消えない蜃気楼のように、シルヴァンの周囲には常にナマエの気配が漂っているような気がしてならなかった。
死んでいるのかもしれない。彼とて一兵士として戦場に出ている以上、名誉の戦死を遂げている――などという可能性も脳を過らないわけでもない。悲観的な妄想に浸るたび、シルヴァンはベレトの顔を思い出した。あの傭兵から成り上がった紋章持ちの教師の、冷静でどこまでも冴え渡った指揮系統を思い出すと寒気がするほどだ。
あの男の元にいるのなら、恐らく彼は無事だろう。教え子を目の前で殺すような男ではない。
味方でいた時は頼もしかったが、彼と対峙していると考えると恐ろしかった。こちらの損耗が激しい時は、間違いなくベレトが指揮を執っているのだというのが王国軍内部でもまことしやかに囁かれている噂の一つである。
実際にあの男を戦場で見かけた人間はいない……がそれを否定できるだけの材料はなかった。優勢な局面が逆転する機会があまりにも多かった。
「――わかったから出てきたらどうなんですか」
「シルヴァン、久しぶりだね」
「……俺はこんなところで会いたくはなかったんですけどね」
物陰から静かにベレトが現れる。手に剣を握っているが、斬りかかってくるような雰囲気ではない。かつて士官学校で見ていた時と似たような、教師らしい落ち着いた雰囲気で佇んでいた。
「わざわざ兵を下げてくれてありがとう」
「……こっちだって部下を犬死にさせたくはないんでね。……で、要件はなんです? まさか今更帝国につけだなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「――そうしてくれたら嬉しいかな」
イカれている。この状況はどう考えても奇妙だ。
「もう俺たちは敵同士なんだ。一歩でも近づけば――容赦しない」
にらみを利かせながら、シルヴァンはベレトを見つめる。曖昧な瞳は相変わらずどこを見つめているのか、上手く読めない。
「……どうやら、意志は硬いみたいだ」
「……そんなに簡単に忠義を捨てられるわけないだろ」
ゴウ、と風が吹いた。この間合いなら、上から切りつけられるこちらの方が優位である。いつ切るか――今が最高の機会なのか。迷いがないわけではないが、やるなら今しかない。このタイミングを逃せば後はないかもしれない。
「…………そうか」
「おいッ――!」
「無理だと言うなら仕方ないね」
そう言って背中を向けたベレトに、シルヴァンは迷わず斬りかかった。
「……はぁ?」
――はずだった。喉元を狙って刺し貫くための一撃は、空を突いて不意に逸れた。先ほどまでいたはずの場所にベレトはいない。
「――嘘だろ」
最初からいなかったかのように、忽然と彼は消えた。新手の魔術かとも疑ったが、しばらく待ってみても何の攻撃や不意打ちも発生しない。ただ話をして、ベレトは消えたのだ。
「……なんでもありかよ」
どうにも釈然としないまま、シルヴァンは部下の後を追って静かにその場を去った。ベレトに関して深く考えない方がいいのかもしれない。あの神出鬼没さは、昔と何ら変わりがないのだから。
◆
「お前がッ! あの女にそそのかされたんだろっ!」
「違う! 俺はこうすると自分の意思で選んだッ!」
激しい攻防が続く。鉄がぶつかって激しく火花が飛び散る。
シルヴァンとナマエ――二人の間に割って入ろうなどと考える人間はただの一人も存在しない。鬼気迫る表情で槍を振るうシルヴァンに対して、ナマエはやりきれない表情を浮かべた。
数年ぶりに戦場で再会した友人――かつての級友は最早変わり果てた表情でナマエを見おろす。遠くでは激しく放たれた魔術の閃光が地面に放たれ、兵を焼き尽くす。シルヴァンは堂々とした立ち姿でナマエの前に現れた。
部隊から少し離れ、陽動を行おうとしていた矢先、全て見透かしたように回り込まれた。剣の柄を利き手で握り、じわりと手汗が手袋の中に広がっていく。
「できれば会いたくはなかった」
「そうか? 俺はお前に会えばどうしてやろうか、毎日考えていたけどな」
「――俺たちは、敵同士、なんだよな」
「ああ。でも、俺はお前を殺すつもりはない」
――これは油断させる作戦なのだろうか。
かつては肩を並べて戦った相手だが、今はお互い敵同士である。いつ不意打ちを食らわないとも限らない。
できることなら信じたい。かつての友人を――好きな相手のことを。
「……いや、愚問だった。忘れてほしい」
「ナマエ、今からでも俺のところに来い。あの女の言うことはまやかしだ。到底実現しようのない嘘――きれい事なんだ」
「残念だけど、俺にそのつもりはない」
シルヴァンの目つきが鋭くなった。氷のように冷たい。全てに絶望しきったような、諦めというよりは……怒りの色が濃く見える。
「俺は帝国の人間だ」
刃が日の光に照らされて、青白く輝きを放つ。浅い呼吸がやけに五月蠅く聞こえて仕方がない。二人の視線が交わるのと、斬りかかるタイミングは全く同時だった――。
「はぁっ――お前、はッ、俺の物だ……! あの女にも、あいつらのところになんて行かせるくらいなら……最初からこうしておけばよかったんだ」
鎧を貫くほどの一撃が、ナマエを貫いた。全身の血流が悲鳴を上げている。……ただ痛いなどという言葉では言い表せないほどの激痛と共に、ナマエは口から激しく吐血した。
この一撃は――きっととどめのつもりだったのだろう。
「お、俺は……だれの物でも、ない……!」
シルヴァンの腕に抱き留められながら、せめてもの意地を張る。最期に見るのがかつての友だった男の顔だったというのは、昔に想像した自分の死に際とは違っている。だが……、少なくともこの男に殺されるならまだまともだったと言えるかもしれない。
これで自分は胸を張って未来に繋げられたと、今までの戦友たちに伝えられるのだろうか。
「……シルヴァン、ごめん」
壮絶な死闘の末、ナマエは戦場にて果てた。
◆
「――お前も外では、庶民からエーデルガルトに取り立てられたうちの一人だって有名だったな」
「…………」
「もっとも、理想に殉じて潔く果てたはずのお前が、こんなところで敵兵に囲われてるだなんて誰も信じやしないだろうけど、な……?」
寝台に腰掛け、シルヴァンはつとめて明るい態度で話しかけた。武装はしていない。平服のリラックスした格好のまま、まるで学生時代と変わらないような話し方で、ナマエの横に座る。
……自分は、死んだと思っていた。
ナマエは今目の前で起こっていることが、死ぬ前の走馬灯でないと理解する。そう判断した上で、激しく動揺した。
それすらも見透かしたように、シルヴァンは彼の頭を優しく撫でた。まるで恋人にするような優しい手つきに、なぜか背筋が凍ってしまう。
起きたばかりの時に話題にするような話ではない。シルヴァンが発した言葉をそのまま受け取るなら、つまり、自分は外では戦死を遂げたことになっているのだろうと、ナマエは判断した。
シルヴァンは事実を歪曲※話すような仕方をあまり好まない。そして、自分相手につまらない嘘や小細工はしない。そうだと分かっているから尚更恐ろしかった。
ここはどこなのか。今はいつなのか。あの戦場で倒れてからどれくらい経っているのか。自分はなぜ生かされているのか……。
疑問は尽きない。そして同時に、ここであれこれこちらから質問しても、シルヴァンは素直に答えてはくれないだろうと思った。
――だが、このような状況に至った経緯についてはうっすらと理解していた。
「俺が――出て行ったのがそんなに」
「当たり前だろ。お前はずっと俺の側にいてくれると思ってたのに」
目の据わったシルヴァンが、ナマエの肩を乱暴につかんだ。今までされたことのない激しい動きに、混乱する。
「ちょ……」
「……俺は、お前が夢に賭けている姿が好きだったよ。産まれに縛られた俺なんかと違って、お前は立派だった。……立派すぎたんだ。結果として、俺は何も変わっていない。お前のことを考えるとずっと苦しかった」
「…………」
身体を動かそうとして、足が異様に重たいことに気がついた。
毛布に覆われていてすぐには分からないが、徐々に冴え始めた五感から、足首のあたりに異様な違和感を覚えた。つま先は自由に動くことができるが、それ以上――足を動かそうとすると拒まれる。皮膚を締め付けない程度に締まった感触と冷たさから、これが鋼鉄で出来た拘束具であること。そして、自分の身に起こっていることの異様さを理解した。
「シルヴァン……!」
ナマエの表情は困惑から次第に怒りへと変わっていった。そんな彼の様子にシルヴァンは眉一つ動かさない。
「捕虜として扱うなら、こんなことをする意味は」
「お前は死んだ。そういうことになっている。二度も言わせないでくれるか? ……そんなにお前は愚鈍じゃないだろ」
「……何がしたいんだよ。俺には、どういうことか――」
「死人がどうなったって、外には分かりはしない。俺はお前のこと、どんな風に扱っても誰にも何も言われない。罰せられないんだ。優しいままの俺でいてほしいだろう?」
「……やっぱり理解できない。どうかしたのか、ずっと様子が変じゃないか……」
「お前の知ってる俺じゃない、って? そう言いたいんだよな」
元からそれほど離れていなかった距離がついにゼロになった。獲物を追い立てる獣のように、シルヴァンはナマエを壁際まで追い込んでいた。
「――あ」
久方ぶりにシルヴァンの手がナマエの肩に触れる。その手つきは壊れやすい硝子細工にでも触れるかのような、繊細なものだった。シルヴァンの口から、堪えきれないため息が漏れた。ナマエは目を見開き、その光景に思わず見入った。久方ぶりに間近で眺めた友人の顔は、以前にも増して脆く崩れそうな色香を放っている。どこか作り物めいた美しさは、この地獄のような戦場でも曇ることはなかったのである。
「俺は、ずっと……お前を手に入れたかった。」
「…………」
「好き、なんだ。愛している。そう言ってもいい。……今まで、こんな感情を俺が誰かに抱くなんて考えてもいなかった。結婚は家の存続ありきで、近寄ってくる女は全員、俺の家柄か紋章目当てで、打算でしか人を見れないようなやつらばかりだった。俺も親父たちや他の貴族と同じように、家のために愛なんてわからないまま生きていくんだと、ずっと思っていたんだ。……お前は、俺のことを損得なしで見てくれたよな。ずっと親友だって、言ってくれただろう。俺にとってそれは、どんな言葉よりも嬉しかったけど、傷ついた…………。お前のことを知らないで生きていたら、きっと俺の人生は違っていたんだと思う。救われたけど、お前が俺抜きでどうにかなろうとするのも、嫌だったんだ。許せなかった。――だから、こうした」
「それが、答えなんだな」
彼はこの質問には答えなかった。その代わりとでもいうように、シルヴァンの指が、ナマエの頬を滑って首まで落ちていった。表面を撫でる手つきは何かを確かめるような素振りがあった。首筋の皮膚が薄い箇所に手が触れた時、ナマエは思わず身震いした。少し伏せたシルヴァンの目が、ここにきて初めて大きく見開かれる。瞳孔が開き、夜目の利いた猫のように黒目がちになっていた。
――シルヴァンの瞳に映る自分の顔が、引きつって怯えている。
今まで、こんな顔をシルヴァンに見せたことはなかった、と思う。
「俺の目には今はお前だけだ。お前もそうだな。……これからは、ずっとこれだけでいいんだ」
「俺を殺す、のか……?」
「それもいいかもな」
「…………」
シルヴァンがそうしようと思ったのなら、本当に自分は殺されてしまうだろうと、ナマエは直感的に理解した。これほどまでに自分が恨まれて、愛されているのだということを、今まで二人でいた時間で気づいたことはない。ナマエが知っているシルヴァンという人間の、浅い表層だけを見ていたのだということを、今まざまざと見せつけられている。
「今俺の手が、お前の首を絞めたら、殺せるよな。……まあ、まだそれには早いけどな」
「…………」
「お前がこの前みっともなく命乞いをしなかったのが、結構気に入ってるんだよな。俺になら、殺されてもいいって思ったんじゃないか?」
「俺、は……」
答えが上手く出てこない。あの時、シルヴァンになら倒されても構わない。そう思ってしまったのは確かだった。しかし、言葉にするのは憚られた。ただならぬ雰囲気の友人――だった人間が、どう答えてもいい顔をしないのはわかっていたからだ。
「答えなくていい。時間はたっぷりあるんだ。これからいくらでも話す機会はあるだろ?」
「……お前、気でも狂ったか」
「…………ッお前たちに理解してもらえるとは思っていない! だけど……それでも!」
むせるような熱気が三人の間を流れていた。穏やかとはいえない空気と、切羽詰まった雰囲気――武装した兵士が三人。まさに一触即発と形容するにふさわしい状況である。
シルヴァンの行く手を阻むように、イングリットとフェリクスは身構えた。全員が今すぐにでも獲物を抜き、戦闘がいつ始まってもおかしくはない。少しでも身をよじれば、それぞれの鎧が擦れあい物騒な音が発せられる。戦場で数多の血を浴びた甲冑は危うげな鈍い光を放ち、鈍く輝いていた。
「…………」
斬り合えば――真っ先に白刃が届くのはフェリクスの方だろう。シルヴァンは何度も彼と向き合って鍛錬をし、時には背中を合わせて敵陣に切り込んでいった。彼の大胆かつ身軽な動きには何度も助けられた。
仮に一発目をうまく躱したとしても、イングリットの正確な一打がこちらの首を穿つ。彼女の細い体躯に見合わぬ無慈悲なほど鋭い槍が、身内であれども一切の躊躇をしないことをシルヴァンはよく知っていた。
味方でいれば頼もしいが、敵に回すと厄介な相手であることは痛いほど理解している。
……それでも、二人を切り捨てる覚悟でなければ今からしようとしていることは到底実現できないだろう。
「…………」
緊張で槍を持つ手が震える。この場で二人を相手取って上手く切り抜けられる自信は彼にはなかった。上手くやっても精々相打ちがいいところだろう。――シルヴァンの裏切りをタダで見逃してくれる二人ではない。
血走った目でこちらを見つめるイングリットは、差し違えてでも王であるディミトリを裏切った反逆者を許さないだろう。そして、寝返ろうとしている先があのエーデルガルトが率いる帝国だというのだから、殺してでも止める覚悟でいるはずだ。フェリクスも思うことは同じ――彼もまた、自分で選んでこの戦場に立っているのだから、対話でも解決しないとなるとやることは決まっている。
「どうしてもあの女のところに行くのね」
「……お前の愚かさには、毎度ながら言葉も出ないな」
返事はしない。
こちらを見つめる目線が一瞬揺らいだ隙――その一瞬をシルヴァンは見抜いた。
「――はぁッ!」
一太刀から本気で殺すつもりで――切り裂く。
「ッ……!」
鋭く、重い一撃。
手から弾き飛ばされた剣には目もくれず、シルヴァンは二人の間を突くように走りだした。
成功したのは運の要素もあったが、それ以上に相手の癖をよく知っていたというのも大きかった。このまま目的の場所まで抜けて、早駆けのための馬にでも飛び乗ればそれで成功する。
最初から二人を説得できるとは思っていなかったが、無傷のまま離脱できたのならこれで満足だ。
――いつか戦場で相まみえることがあれば、その時は本当に容赦はしない。首を取る覚悟で、かつての友人と殺し合う覚悟が必要だ。……今はまだそんな度胸もないのかもしれない。
「やろうと思えばひと思いに殺せただろうに。お前は戦場でも敵に情けをかけるのか?」
「ディミトリ……!」
不意にシルヴァンの目の前に現れた人影が喋り出した。闇に溶けるような黒衣の上に、透けるような目映い金髪が煌めいている。夜でも分かるほど、彼の容は白く輝きを放っていた。
「今でもお前は俺を殺すことができた。なのにしなかった。――それでよく裏切ろうなどと言えたものだな」
「不用意な殺生はしたくないだけだ」
「うるさい。お前がそうすると決めた時から、敵になると分かっていただろう。今すぐに俺の首を取ってみろ。……できないのであれば、愚かな考えは捨て去ることだな。ディミトリ、お前には無理だ。仲間を、幼なじみを、古い縁故をお前は切り捨てることができない。そういう人間なんだよ、お前は」
「……俺はもう甘さは捨て去った。それは今の俺には相応しくない評価だと思うけどな」
「ははっ。……残念だが今でも有用な事実のままだな」
ディミトリの乾いた笑い声が夜の静寂に響き渡る。不意に鳥が木々から羽ばたいて消えていった。生き物の動く僅かな音すらも消え去った森の中は、風が時折吹いては枝葉を揺らす音だけがやけに五月蠅く響く。決して大きな声で喋っているわけではないが、ディミトリの言葉は大地に根付くように深く、シルヴァンの四肢を絡め取るだけの迫力をもって轟いた。
「シルヴァン。俺はお前の判断力を……人を見る目を高く買っている。それはわかっているだろう」
ディミトリが歩くたびに彼を包む鎧が細かく音を立てた。上質な布で仕立てたマントから発せられる衣擦れの音すらも耳元で聞こえるほど、彼はシルヴァンの近くまで来ていた。
「――お前に俺は殺せないだろう?」
直接ナマエのことを「諦めろ」と言われたわけではない。しかし、シルヴァンが槍を持った手は力なくうなだれた。
「今やっているのは戦争だ。色恋や情に絆されて、自分がやるべき本懐を忘れる――。シルヴァン、お前はそんな愚かな男ではないはずだ」
ディミトリはそう言うと、シルヴァンを追い越すように元の野営地に向かって消えていく。
「…………」
すれ違う最中、刺そうと思えばいくらでも攻撃できるほどの距離に、ディミトリはいた。しかし……
「できなかった……」
どれだけ心に固く誓ったところで、肝心な時に動くことはできなかった。
自分の意志の弱さから、チャンスを不意にしたのだ。
震える手で槍を収め、地面に落ちる自分の影を見つめた。
情けないほどに膝が震えている。――どうしようもなくふがいない自分が腹立たしい。
「……クソッ!」
緊張から解き放たれた彼の口からついて出た罵倒にも、世界の何もかもが嫌いだ。
自分にはあいつのような勇気も覚悟もなかった。そう突きつけるようなディミトリの視線がシルヴァンの頭を駆け巡る。かつてと変わってしまったように見えて、ディミトリの人を見る鋭利な角度は変わることはない。
――見逃された。
咄嗟に思った。幼馴染みとして情けを掛けられたのか、と――。
普通の兵士なら彼は迷わず切り捨てていたであろう場面で、刃を向けておきながら許されてしまった。
「――騎士として、俺は……生きろってことか?」
今まで意識しなかったわけではない。寧ろ、幼い頃から嫌というほど押しつけられてきた役割――どれだけ自分の運命を呪ったか数え切れないほどだ。
ディミトリはそれを理解していながら、それでも欲しているのだ。シルヴァンが子供の時分から得意としている領分――身につけざるを得なかった特技が必要とされている。
「あぁ――」
……だから、今自分は生きている。
ようやく理解した時にシルヴァンの口から出たのは、今まで何度も堪えきれずに発してしまったのと同じ、諦めの声だった。
結局のところ、自分の力が弱いからこうなってしまっている。
誰かに定められた道でしか生きることができない。そんな自分を直視するのが恐ろしかった。
ナマエのおかげで忘れられていた己の本分を――ディミトリの手によって眼前に突きつけられる。
そうすると、気が狂って叫びたくなるのだ。
「――本当に、バカみたいだな、俺は」
――運命に抗うなんてそんな夢を、贅沢にも見てみたくなってしまった。
◆
「お前たちは先に下がっていろ。俺も後から追う」
シルヴァンの言葉に、配下として付き従っていた兵士たちは本陣へと下がり始めた。
帝国との鍔迫り合いは拮抗している。汚泥と血にまみれた戦場に立っていると、今でも全身が震えるほどの緊張と悪寒が襲ってくる。
一時も気が抜けない状態ではあったが、時折波のように襲ってくる高ぶりが、シルヴァンの神経を刺激した。
――この広い野戦場のどこかに、ナマエがいる。
毎回出撃するごとに、敵陣に切り込む時にもかつての級友の顔が浮かび上がってくる。消えない蜃気楼のように、シルヴァンの周囲には常にナマエの気配が漂っているような気がしてならなかった。
死んでいるのかもしれない。彼とて一兵士として戦場に出ている以上、名誉の戦死を遂げている――などという可能性も脳を過らないわけでもない。悲観的な妄想に浸るたび、シルヴァンはベレトの顔を思い出した。あの傭兵から成り上がった紋章持ちの教師の、冷静でどこまでも冴え渡った指揮系統を思い出すと寒気がするほどだ。
あの男の元にいるのなら、恐らく彼は無事だろう。教え子を目の前で殺すような男ではない。
味方でいた時は頼もしかったが、彼と対峙していると考えると恐ろしかった。こちらの損耗が激しい時は、間違いなくベレトが指揮を執っているのだというのが王国軍内部でもまことしやかに囁かれている噂の一つである。
実際にあの男を戦場で見かけた人間はいない……がそれを否定できるだけの材料はなかった。優勢な局面が逆転する機会があまりにも多かった。
「――わかったから出てきたらどうなんですか」
「シルヴァン、久しぶりだね」
「……俺はこんなところで会いたくはなかったんですけどね」
物陰から静かにベレトが現れる。手に剣を握っているが、斬りかかってくるような雰囲気ではない。かつて士官学校で見ていた時と似たような、教師らしい落ち着いた雰囲気で佇んでいた。
「わざわざ兵を下げてくれてありがとう」
「……こっちだって部下を犬死にさせたくはないんでね。……で、要件はなんです? まさか今更帝国につけだなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「――そうしてくれたら嬉しいかな」
イカれている。この状況はどう考えても奇妙だ。
「もう俺たちは敵同士なんだ。一歩でも近づけば――容赦しない」
にらみを利かせながら、シルヴァンはベレトを見つめる。曖昧な瞳は相変わらずどこを見つめているのか、上手く読めない。
「……どうやら、意志は硬いみたいだ」
「……そんなに簡単に忠義を捨てられるわけないだろ」
ゴウ、と風が吹いた。この間合いなら、上から切りつけられるこちらの方が優位である。いつ切るか――今が最高の機会なのか。迷いがないわけではないが、やるなら今しかない。このタイミングを逃せば後はないかもしれない。
「…………そうか」
「おいッ――!」
「無理だと言うなら仕方ないね」
そう言って背中を向けたベレトに、シルヴァンは迷わず斬りかかった。
「……はぁ?」
――はずだった。喉元を狙って刺し貫くための一撃は、空を突いて不意に逸れた。先ほどまでいたはずの場所にベレトはいない。
「――嘘だろ」
最初からいなかったかのように、忽然と彼は消えた。新手の魔術かとも疑ったが、しばらく待ってみても何の攻撃や不意打ちも発生しない。ただ話をして、ベレトは消えたのだ。
「……なんでもありかよ」
どうにも釈然としないまま、シルヴァンは部下の後を追って静かにその場を去った。ベレトに関して深く考えない方がいいのかもしれない。あの神出鬼没さは、昔と何ら変わりがないのだから。
◆
「お前がッ! あの女にそそのかされたんだろっ!」
「違う! 俺はこうすると自分の意思で選んだッ!」
激しい攻防が続く。鉄がぶつかって激しく火花が飛び散る。
シルヴァンとナマエ――二人の間に割って入ろうなどと考える人間はただの一人も存在しない。鬼気迫る表情で槍を振るうシルヴァンに対して、ナマエはやりきれない表情を浮かべた。
数年ぶりに戦場で再会した友人――かつての級友は最早変わり果てた表情でナマエを見おろす。遠くでは激しく放たれた魔術の閃光が地面に放たれ、兵を焼き尽くす。シルヴァンは堂々とした立ち姿でナマエの前に現れた。
部隊から少し離れ、陽動を行おうとしていた矢先、全て見透かしたように回り込まれた。剣の柄を利き手で握り、じわりと手汗が手袋の中に広がっていく。
「できれば会いたくはなかった」
「そうか? 俺はお前に会えばどうしてやろうか、毎日考えていたけどな」
「――俺たちは、敵同士、なんだよな」
「ああ。でも、俺はお前を殺すつもりはない」
――これは油断させる作戦なのだろうか。
かつては肩を並べて戦った相手だが、今はお互い敵同士である。いつ不意打ちを食らわないとも限らない。
できることなら信じたい。かつての友人を――好きな相手のことを。
「……いや、愚問だった。忘れてほしい」
「ナマエ、今からでも俺のところに来い。あの女の言うことはまやかしだ。到底実現しようのない嘘――きれい事なんだ」
「残念だけど、俺にそのつもりはない」
シルヴァンの目つきが鋭くなった。氷のように冷たい。全てに絶望しきったような、諦めというよりは……怒りの色が濃く見える。
「俺は帝国の人間だ」
刃が日の光に照らされて、青白く輝きを放つ。浅い呼吸がやけに五月蠅く聞こえて仕方がない。二人の視線が交わるのと、斬りかかるタイミングは全く同時だった――。
「はぁっ――お前、はッ、俺の物だ……! あの女にも、あいつらのところになんて行かせるくらいなら……最初からこうしておけばよかったんだ」
鎧を貫くほどの一撃が、ナマエを貫いた。全身の血流が悲鳴を上げている。……ただ痛いなどという言葉では言い表せないほどの激痛と共に、ナマエは口から激しく吐血した。
この一撃は――きっととどめのつもりだったのだろう。
「お、俺は……だれの物でも、ない……!」
シルヴァンの腕に抱き留められながら、せめてもの意地を張る。最期に見るのがかつての友だった男の顔だったというのは、昔に想像した自分の死に際とは違っている。だが……、少なくともこの男に殺されるならまだまともだったと言えるかもしれない。
これで自分は胸を張って未来に繋げられたと、今までの戦友たちに伝えられるのだろうか。
「……シルヴァン、ごめん」
壮絶な死闘の末、ナマエは戦場にて果てた。
◆
「――お前も外では、庶民からエーデルガルトに取り立てられたうちの一人だって有名だったな」
「…………」
「もっとも、理想に殉じて潔く果てたはずのお前が、こんなところで敵兵に囲われてるだなんて誰も信じやしないだろうけど、な……?」
寝台に腰掛け、シルヴァンはつとめて明るい態度で話しかけた。武装はしていない。平服のリラックスした格好のまま、まるで学生時代と変わらないような話し方で、ナマエの横に座る。
……自分は、死んだと思っていた。
ナマエは今目の前で起こっていることが、死ぬ前の走馬灯でないと理解する。そう判断した上で、激しく動揺した。
それすらも見透かしたように、シルヴァンは彼の頭を優しく撫でた。まるで恋人にするような優しい手つきに、なぜか背筋が凍ってしまう。
起きたばかりの時に話題にするような話ではない。シルヴァンが発した言葉をそのまま受け取るなら、つまり、自分は外では戦死を遂げたことになっているのだろうと、ナマエは判断した。
シルヴァンは事実を歪曲※話すような仕方をあまり好まない。そして、自分相手につまらない嘘や小細工はしない。そうだと分かっているから尚更恐ろしかった。
ここはどこなのか。今はいつなのか。あの戦場で倒れてからどれくらい経っているのか。自分はなぜ生かされているのか……。
疑問は尽きない。そして同時に、ここであれこれこちらから質問しても、シルヴァンは素直に答えてはくれないだろうと思った。
――だが、このような状況に至った経緯についてはうっすらと理解していた。
「俺が――出て行ったのがそんなに」
「当たり前だろ。お前はずっと俺の側にいてくれると思ってたのに」
目の据わったシルヴァンが、ナマエの肩を乱暴につかんだ。今までされたことのない激しい動きに、混乱する。
「ちょ……」
「……俺は、お前が夢に賭けている姿が好きだったよ。産まれに縛られた俺なんかと違って、お前は立派だった。……立派すぎたんだ。結果として、俺は何も変わっていない。お前のことを考えるとずっと苦しかった」
「…………」
身体を動かそうとして、足が異様に重たいことに気がついた。
毛布に覆われていてすぐには分からないが、徐々に冴え始めた五感から、足首のあたりに異様な違和感を覚えた。つま先は自由に動くことができるが、それ以上――足を動かそうとすると拒まれる。皮膚を締め付けない程度に締まった感触と冷たさから、これが鋼鉄で出来た拘束具であること。そして、自分の身に起こっていることの異様さを理解した。
「シルヴァン……!」
ナマエの表情は困惑から次第に怒りへと変わっていった。そんな彼の様子にシルヴァンは眉一つ動かさない。
「捕虜として扱うなら、こんなことをする意味は」
「お前は死んだ。そういうことになっている。二度も言わせないでくれるか? ……そんなにお前は愚鈍じゃないだろ」
「……何がしたいんだよ。俺には、どういうことか――」
「死人がどうなったって、外には分かりはしない。俺はお前のこと、どんな風に扱っても誰にも何も言われない。罰せられないんだ。優しいままの俺でいてほしいだろう?」
「……やっぱり理解できない。どうかしたのか、ずっと様子が変じゃないか……」
「お前の知ってる俺じゃない、って? そう言いたいんだよな」
元からそれほど離れていなかった距離がついにゼロになった。獲物を追い立てる獣のように、シルヴァンはナマエを壁際まで追い込んでいた。
「――あ」
久方ぶりにシルヴァンの手がナマエの肩に触れる。その手つきは壊れやすい硝子細工にでも触れるかのような、繊細なものだった。シルヴァンの口から、堪えきれないため息が漏れた。ナマエは目を見開き、その光景に思わず見入った。久方ぶりに間近で眺めた友人の顔は、以前にも増して脆く崩れそうな色香を放っている。どこか作り物めいた美しさは、この地獄のような戦場でも曇ることはなかったのである。
「俺は、ずっと……お前を手に入れたかった。」
「…………」
「好き、なんだ。愛している。そう言ってもいい。……今まで、こんな感情を俺が誰かに抱くなんて考えてもいなかった。結婚は家の存続ありきで、近寄ってくる女は全員、俺の家柄か紋章目当てで、打算でしか人を見れないようなやつらばかりだった。俺も親父たちや他の貴族と同じように、家のために愛なんてわからないまま生きていくんだと、ずっと思っていたんだ。……お前は、俺のことを損得なしで見てくれたよな。ずっと親友だって、言ってくれただろう。俺にとってそれは、どんな言葉よりも嬉しかったけど、傷ついた…………。お前のことを知らないで生きていたら、きっと俺の人生は違っていたんだと思う。救われたけど、お前が俺抜きでどうにかなろうとするのも、嫌だったんだ。許せなかった。――だから、こうした」
「それが、答えなんだな」
彼はこの質問には答えなかった。その代わりとでもいうように、シルヴァンの指が、ナマエの頬を滑って首まで落ちていった。表面を撫でる手つきは何かを確かめるような素振りがあった。首筋の皮膚が薄い箇所に手が触れた時、ナマエは思わず身震いした。少し伏せたシルヴァンの目が、ここにきて初めて大きく見開かれる。瞳孔が開き、夜目の利いた猫のように黒目がちになっていた。
――シルヴァンの瞳に映る自分の顔が、引きつって怯えている。
今まで、こんな顔をシルヴァンに見せたことはなかった、と思う。
「俺の目には今はお前だけだ。お前もそうだな。……これからは、ずっとこれだけでいいんだ」
「俺を殺す、のか……?」
「それもいいかもな」
「…………」
シルヴァンがそうしようと思ったのなら、本当に自分は殺されてしまうだろうと、ナマエは直感的に理解した。これほどまでに自分が恨まれて、愛されているのだということを、今まで二人でいた時間で気づいたことはない。ナマエが知っているシルヴァンという人間の、浅い表層だけを見ていたのだということを、今まざまざと見せつけられている。
「今俺の手が、お前の首を絞めたら、殺せるよな。……まあ、まだそれには早いけどな」
「…………」
「お前がこの前みっともなく命乞いをしなかったのが、結構気に入ってるんだよな。俺になら、殺されてもいいって思ったんじゃないか?」
「俺、は……」
答えが上手く出てこない。あの時、シルヴァンになら倒されても構わない。そう思ってしまったのは確かだった。しかし、言葉にするのは憚られた。ただならぬ雰囲気の友人――だった人間が、どう答えてもいい顔をしないのはわかっていたからだ。
「答えなくていい。時間はたっぷりあるんだ。これからいくらでも話す機会はあるだろ?」
9/9ページ