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九龍城砦
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柳の枝みたいにほっそりとした腕がにゅ、と俺の横から生えてきた。白い腕――女の腕だ。
「……」
俺の真横から伸ばされた手は小さなお菓子の箱を掴むと、すっと引っ込んだ。幽霊にでも遭遇したような気分になる。この「おばさん」と会うと。
「…………」
彼女は俺を見て、ニコリと笑う。ヨーロッパの巨匠が描いた絵みたいな笑顔だ。挨拶のつもりなのだろうか。それすら俺には判別がつかない。
おばさんは俺が見ている最中で堂々と商品を手に取り、会計をせずに店の外に出て行こうとする。無重力で浮遊しているみたいにすーっと、鳥が羽ばたくような可憐さで、彼女は袖にクッキーの小箱をしまい込んでしまった。俺は咎めることはできない。俺の仕事じゃないし、それに――。
「ちょっとお! 困る困る! お金払ってちょうだい!」
「……あぁ、ああ……」
店の人が新聞から顔を上げて叫ぶ。子供に言って聞かせるような口調で、いや……万引きをしようとした子供に叱る方がキツい言い方かもしれない。
「まったく……何回目なんだかね」
「ふふっ」
「笑ってんじゃないよ。まったく……」
おばさんは怒られても窃盗の何がいけないのかわからない。そういう病気なのだとここら一帯に住んでいる人は皆知っている。咳が止まらないように物を盗むことは辞められないらしい。龍兄貴が言っていた。そういうものなんだから、仕方がない、なんて。俺はそう言われるとそういうものなのだと受け入れるしかない。
店番のお婆さんが、おばさんの手から盗もうとしたそれを奪い返した。おばさんは一瞬だけ、本当に悲しそうな顔をした。迷子になった子供みたいな今にも泣き出しそうな表情も、本当に悲しんでいるかもわからない。おばさんは盗みをする上にまともに口がきけないので、どうしてこんなことになったのか、本心はどうなのかは誰も知らない。
おばさん――というにはその人は若く見えたけど、やはり白いワンピースの襟首から見える肌には年齢相応のたるみができていた。
こんな風呂に入るのも面倒な場所なのにおばさんはまるで漂白されたみたいに綺麗だった。
もう帰りなさい。なんて言われて、言葉は理解できているのか、彼女は外に出て行った。風に流される風船みたいな足取りは見ていて不安になる。
おばさんの身なりもペラペラとした服一枚にバレエシューズのような細い靴といった格好――いつも見かけると同じ服を着ている――だったので、彼女が歩いているだけでどこかの民俗の特殊な舞踏でも見せられているような心地になった。夢みたいに一瞬だった。実在している人なのに、なんだかアニメや映画の世界の中みたいな……。
店員はおばさんが出て行くと、再び大きなため息をついた。
「手長姫には困るねぇ。ねえ、信一?」
手長姫というのが窃盗癖のあるおばさんに付けられたあだ名だ。おひいさまという言葉がなるほど似合っていて様になっていると、それを最初に聞いた時にふと思った。おばさんは手が本当に長い。バレエでもやっていたんじゃないだろうかと思う。そして顔も小さい。背丈も女の中ではデカい方で、実際に女性の横に立つと頭一つ飛び抜けて見える。青白いおおよそ水仕事なんてしたこともないような手がぬっと、隙間から伸びてきては、有無を言わせずありとあらゆる物を盗んでいってしまう。
けれどそれは一過性のものに過ぎない。オーラはあるけれど肝心な窃盗のテクニックはお粗末で、子供の万引き犯の方が手慣れていると言ってもいいくらいの出来だった。こうやってすぐにバレるような犯行しかしない――できないのだ。
そんなこんなで、あの人は浮き世離れした幽霊みたいな外見と相まってこの城砦ではよく目立った。名物おばさんってやつかもしれない。
何をしてどうやって生活しているのか分からない人がここには多い。このおばさんがどうやって今まで生きてこれたのか、どうしてそもそもこんな所にいるのかは分からないが、出自は問わないのがここのルールだ。だから俺も……気には掛けても深掘りはしない。
「……俺、別に嫌いじゃない。何かされたわけじゃないし」
「へえ……。まあ、龍捲風が何もしなくていいって言うんだから、うちらはそうするしかないけどさあ……ねぇ?」
「ここではどんな厄介者も受け入れて上手く回していくしかない」
「いっぱしの口を利くようになったねえ」
ここからまた愚痴が始まりそうだったので、俺はジュースの代金を無言で卓上に置き、そのまま外に出た。昼も夜もないような路地で、おばさんはくるくると回っていた。
スピン。回転というよりは英単語でそう表現する方が彼女には似合って見える。
まるで独楽だな、と俺は思った。
下校の時刻はいつも通り騒がしかった。慌ただしく家に帰る生徒の群れが、サバンナの真ん中を横断するシマウマの集団みたいに広がって、校門から外に放たれていく。
今日はなんとなく一人で家まで帰ろうと思った。やることもないし、兄貴が帰ってくるまで映画でも行こうか。などと考えながらフラフラ通りを歩く。下校中の学生を待ち構えるかのように、通りには屋台が並び、その店主が客を呼び込む声とキャアキャアと騒ぐ学生のしゃべり声で辺り一帯は騒々しい。普段なら俺も、見知った顔とくだらない話でもしながら包子の買い食いでもしているところだ。ちょうどそのようにしている集団が俺の横を足早に通り過ぎていく。
そのままふと目線を横に傾けて、俺は絶句した。白い服の女が立っているのが見えた。赤い靴に濡れたような黒髪の女が一人、誰からも見られていないかのように、そっと道の脇を歩いている。
この姿には見覚えがある。この前砦で見かけたあの万引きおばさんとそっくりの立ち姿。特に後ろ姿がまるで生き写しのようにそっくりだった。決定的に違うのはその身長で、おばさんはデカいけれどこの人は普通くらいだった。背丈がまるで違っていなければ、俺は思わず叫んでいたかもしれない。
他人のそら似――もしくは、あの人の……娘、だったりするのだろうか。大きな鞄は学生が使うようなサイズだし、歩いてきた方向からして俺と同じ学校の生徒かもしれない。
俺はそっと彼女の側に近寄る。信号を待っている間に顔を拝んでやろうと思った。人のことをジロジロと見るのは失礼だと分かっているが、それでも陰気な雰囲気を醸し出すこの人のことを、おばさんと別人であるとはっきり確かめないとずっと気になり続けてしまうだろうと思ったからだ。
ここの交差点の信号は変わるまでが長い。バスやタクシーが何台も行き来する中で、その人はじっと立ち止まって信号が青になるのを待っている。俺から人を一人挟んで、横目で彼女の顔を見る。時折信号を確認する以外はずっと俯いて地面を見ているようだった。見るからに陰気な顔つきをしている。
人の美醜についてはノーコメントを貫きたいが、あのおばさんの顔つきとはあまり似ていない。険しい目付きをやめれば少しは近づくかもしれないが、やっぱり親子とか、そういう関係じゃなくて単なる偶然……後ろ姿だけが似ている他人、なのかもしれない。
でも、そんな偶然ってあるのか?
「…………」
いつの間にかじっと彼女のことを見つめていた。信号が赤に変わってすぐに彼女は足早に歩き出す。おばさんとは違って、地を踏みしめるようなしっかりとした足取りだった。
「藍男、あのーデカいおばさんって知ってるか」
「ん……?」
読んでいた本から顔を上げて、藍男は俺の方を見た。換気扇の音がやけにうるさく響いていたので聞こえていないかと思ったが、続きを促すように頷かれたので、俺はそのまましゃべり出した。
「万引きばっかりしてるっていう、あの。俺、この前初めて見たんだけど、さすがにあの感じで娘とか、いたりしないよな」
「いる。普通にわたしと同じクラス。……普通の人だよ。お母さんがああだからあんまり友達はいないみたいだけどね」
「……へぇ。そうか、ありがとう」
「女の情報を聞く暇があるなら、ちゃんと勉強すれば?」
ちゃんと卒業できないかもね。藍男はいつも通り俺に小言を言い、視線を元に戻して読書を再開した。
流石に学年が違うなら、今まで知らなかったのも無理はない。大きな学校だから生徒の数も多いし、同じ学年でも目立っていなければ名前も覚えていない人の方が多いくらいだ。
探していた答えにあっさりとたどり着いたが、別に達成感なんてものはなかった。藍男がその子に変なことを漏らしたりしなければいいが、そういうことをするタイプじゃない。……それに、多分今後そのおばさんの娘と俺は関わることはないだろうと思う。
砦の屋上には鳥がいる。誰かが飼っている生き物、無数の電柱に昼寝をするための長椅子。ここはベランダみたいな場所だ。うるさくしてもいいし、寝てもいい。隠れて煙草を吸うにはもってこいの場所で、夕暮れになると涼しげな風が吹く。俺は時々、一人でてっぺんまで登って、何も遮るものがない空を眺めながらダラダラと過ごす。今日はなんとなく、そんな気分だった。
安物のライターで火をつけると、夕暮れ時の赤い空に煙が立ち上って消える。まるで最初からなかったみたいに。
頭の後ろから物音がした。カンカンと金属が響く音がして、誰かがここへ上がってきているのだとすぐ理解できた。軽い足音だから子供か何かだろう。開けた場所はここくらいしかないから、よく子供が人の家の階段を使って上ってくる。
俺は別に、知らない人間が隣にやってきてもスルーするつもりだった。建物と建物の間の隙間はほんのわずかで、三十センチもないくらいだから子供でも落ちようがない。だからここを飛び越えてどこかに移動する方が早い時もある。ショートカットの経路として使われているくらいだから、危ういことはない――はずだった。
「……」
俺の横を通り過ぎたのは、子供ではなかった。小さな子供よりも上背がある。影が縦に長い。大人……あるいは俺と同じくらいの年の人間だ。
黒髪が風になびいて、ふわりと波打った。
別に珍しくはない。俺が一人で煙草を吸っているくらいだ。こうやって涼みたいやつや、友達と会うために登ってくる人間も多い。だから何もおかしなことはない。一瞬通り過ぎるだけ。そう思ってこの人のことも無視しようと思った。思っていた。
「……はっ?」
顔を上げて相手を確認することなく、俺は勢いよく立ち上がった。嫌な予感がよぎる前、頭が何か考える以前に反射的にそうした。その足が向かっているのは向かいの建物ではなく、砦の外周だったからだ。フェンスも何もないところに向かって止まる気配がない。ゆっくりなペースだったけれど、ブレーキのきかない車のように見えた。このままいけば真っ逆さまだ。自殺しようとしているのか、それとも狂ったジャンキーかどちらにしても、危なっかしい足取りを見て無視を決め込むことはできなかった。
――落ちる!
「っ、おい!」
細い腕を引っ張ってこちら側に引き寄せると、ろくな抵抗をしないなまま、彼女は倒れ込んだ。コンクリートの上に転がりこんで長い髪がばらばらと散らばった。
「死にたいのか! バカなことはよせ!」
「…………あ」
呆けたような返事をして、女は顔を上げる。そこにいたのは、つい先日見たばかりの顔で、俺は思わず「あっ」と声を上げる。生き別れの兄弟を見つけたような気持ちになった。
「お前、あの! おばさんの娘だろ!」
「…………」
再び彼女は俯いた。そうしていると初めて見かけた時と重なるようにそっくりに見える。公園の前の道を歩いていた時と同じだ。初めて話す相手に失礼だとは思うが、口にしてしまったものは仕方がない。黙って何も言おうとしない相手の目線にあわせてしゃがみながら、俺は話しかけた。
「なぁ……。いきなりで悪かった。でもあんな危なっかしい歩き方でこんなところをうろついてたら、普通に危ないだろ。俺がいてよかったな。御陀仏にならなくて済んで」
「――に」
「えっ?」
「じゃああなたがいなければ、わたしは死ねたんでしょう。放っておいてくれればよかったのに」
「ッ! お前なあ!」
俺が怒鳴りつけると、女はキッとこちらを睨みつけた。わなわなと全身を震わせて、顔が興奮して赤くなっている。先ほどまでの生気のない様子とは大違いだ。
「お前がよくてもこっちがいい迷惑だろ! 投身自殺なんて、ここらで出したら龍兄貴が困るんだよ!」
「うるさい人ですね……。人の事情に首をつっこんでいい迷惑なのはこっち。その龍兄貴……? とかいう人とわたしは無関係でしょう」
「砦全体の問題になるんだよ。お前みたいな死に急ぐやつがいると……警察も絡んでくる」
「死んだあとのことなんて知らないし。関係ないし。あなたって失礼な人ですね。あの女の娘、とか。ここの人はそればっかりで」
女はガリガリと頭をかきながら、ブツブツ呟いた。自殺未遂のことはともかく、後半に関しては俺に非がある。こいつの更生というか、もう二度とこんなことをしませんという一言を引き出さなくてはいけない気がする――今後のためにも。
「お前、藍男って知ってるだろ」
「ええ……? いきなりなんですか」
藍男の名前を出すと、女は目を丸くして目線を右往左往させた。知らない人間の口からこの名前が出てくるとは予想外だったに違いない。
「俺、そいつの兄貴だから。お前のことは一応知ってた」
「そ、そうですか。お兄さん、ですか……。でも、別に藍男さんとわたしはクラスが一緒なだけ、だし……」
「家族の知り合いがくだらないことでくたばったら、気分よくないだろ。しかも目の前で止められませんでしたとなったら、余計にな」
「…………はぁ」
激昂していたのが少しずつ落ち着いていくように見える。こちらを警戒するような視線は相変わらずだが、話を聞くモードには入ってきているような気がする。
「俺は信一。お前は? 名前あるだろ」
「……ナマエ」
ナマエは渋々といった様子で名乗った。
「ナマエ、もう二度とバカなことするなよ。命は大事だからな」
「道徳の授業みたい。先生みたい」
「さっきみたいに敬語使えよ? こっちは年上だぞ」
「未成年なのに喫煙してる人に言われたくない」
「うるせぇな。いいだろ、誰にも迷惑かけてないんだし。それにお前――チクるようなタイプでもないだろ?」
俺は煙草を一本差し出した。ナマエはわかりやすく顔を歪ませて、無言で突き返してくる。
「いらない。吸わないし」
「そうか。じゃあもう俺の邪魔するなよ」
俺は先ほどまでいた定位置に戻った。俺は受け取られなかった一本を新しく咥えて、しばらく向かい側の屋上で遊ぶ子供をぼーっと見つめていた。しばらくそうしていたが、ナマエが帰る気配はなかった。気になって振り返ると、先ほどから同じ場所に座って、俺をじっと見つめているナマエがいた。
「……帰らないのか?」
「家、いても楽しくない」
「だろうな。まあ、俺も外の方が気楽だな」
「……なんで、死のうとしてたか聞かないの」
悪いことをしたのがバレた子供みたいに怯えた声だった。もしかしたら、ちょっと泣いていたかもしれない。どうしてなんて聞かれても、こっちは別にお前の事情に興味なんてない――といったら嘘になる。でも、大体の理由は察しがつく。聞くまでもないことだ。
「話したくないだろ。……初対面の男に、いきなり聞かれても嫌だろ、普通に」
「…………」
「俺は精神科医でも補導員でもないし、人の心がわかるわけじゃない。でも苦しいから消えたくなる気持ちはまあ、分からなくはない。俺は責任も取りたくないから、お前のことは見なかったことにする」
「無責任。ここまで来たなら、わたしのことをちゃんと見てくれればいいのに」
「人を動かしたかったら、自分から働きかけろよ」
誠意を見せるとか。これは龍兄貴の受け売りで俺の言葉ではなかったけれど、自然と口からついて出てしまった。ナマエは考え込むように唇をぎゅっと結んだ。恐らく何かを考える時にする癖なのだろう。さっきからずっとソワソワしながら指を擦り合わせて落ち着きがない動きが連続している。
「信一」
「あぁ」
「またここに来る、ことはありますか……」
「また落っこちそうになっても、俺は助けてやれないからな」
ナマエは初めてぎこちないながらも、笑顔のようなものを見せた。笑うと彼女は母親に少し似ていた。
勢い余って自殺しようとしていたナマエを助けてから、俺たちはちょくちょく会うようになった。学校では相変わらず無関係というか、すれ違う暇すらなかったけれど、砦の中なら話は別だ。水をくむための列や雑貨を売っている店の前にあいつがいると、俺は声をかけた。藍男には放っておいてやれ、とかなんとか言われたけれど、そんなの俺には関係ない。あいつは俺のことをタラシか何かだと思っているんだろうか。
ナマエは普段、母親が「ああ」なので、店に行くといつも気まずそうに俯いていた。なんだかそれがかわいそうで、必要以上に平身低頭しているのが見ていられなくて、俺はなけなしの金でジュースをおごってやったりする。
「コーラ、飲んだことないのか?」
ナマエがおっかなびっくりといった様子でビンを持つので、俺は思わずそう言った。どこに行っても売られている安価な炭酸飲料を、まさか飲んだことがないなんてことはないだろうが。あまりにも物珍しそうな顔をしていたから、こっちの方が驚いてしまう。
「……そんなことない、けど。いいの?」
「いいから。もう開けちまったから飲むしかないだろ」
「お金、できたらあとでちゃんと返すから」
「だから、いいって言ってるだろ。それよりお前、その底がガバガバの靴を買い換えろよ」
「……まだ使えるから、いい」
ぬるい気温のせいでビンはいつもより汗をかいていた。俺の横でベンチに座っているナマエは、スカートの裾を何度も握っては開いて、皺を作るような仕草をしている。そろそろエアコンが欲しくなるような頃合いだ。突き抜けるような青い空には雲一つない。見た目だけは爽やかだったけれど、その下にいる俺たちは汗を流していた。
「――最近、暑いね」
「そうだな」
「吸わないの?」
「味が分からなくなるだろ、お前が。せっかく奢ってやったんだからちゃんと飲めよ」
ビンの中身がすぐなくなっていく。喉が渇いてクタクタになると、無性にジュースが飲みたくなる。こういうことが当たり前にできないなんて、やっぱりこいつは可哀想なやつだな、と同情する。一時の同情や哀れみで情けをかけるのは相手にとって失礼かもしれないけれど、こうでもしないと俺はナマエと何を話していいのか分からないという理由もあった。
「学校、そろそろ休みだな」
「あぁ……。信一は何かするの?」
「別に……龍兄貴の手伝いとか、道場とか、普段通り」
「わたしも、何にもない」
「だよなぁ。お前、喧嘩とかしないもんな」
「する意味が分からないし。怪我したら、痛いよ」
「ナマエって見るからに弱そうだし、まぁ、女だからな」
「男でもする人の方が少ないと思うけど」
ナマエはそう言いながら、鞄の中身を漁りだした。
学校から帰る道の途中で出会ったから、教科書やノートが詰まった重たい鞄をお互い抱えたままだった。……俺のはそんなに中身が入っていなかったけれど。
綺麗に整頓された鞄の中から、ナマエは一枚の紙を取りだした。俺は「あ」と声を上げる。
「学校、保護者と面談だって」
吐き捨てるような言い方だった。――たしかに、これはナマエにとっては面倒以上の何物でもないだろう。
「あの人って、ああだからさ。毎回わたしと先生が話して終わりなんだ」
「……」
「ごめん、あんま聞いてて面白くないよね」
ナマエはそのプリントをぐしゃぐしゃに丸めると、そのまま外に投げ捨てようとした。
――思わずその腕を掴んでしまった。
「えっ」
「龍兄貴。龍兄貴なら――なんとかしてくれる」
「ええぇっ?」
「ついてこい、どうにかしてやるから」
「はあっ? 待って、そういうの別に……」
「いいから!」
掴んだ腕の頼りなさに、自分でもどうにかなりそうなくらい恥ずかしい気分になった。
全然力なんてこめていないのに、ナマエは俺に引きずられるがままにされている。こいつには喧嘩とか、暴力とか、そういう世界とは関わらないで生きている。普通の女の娘なんだと頭で理解してしまった。今までどうしてそんなことを知らないで――知らないふりをしていられたのか、自分でもよくわからない。
「信一、わ、わたし……その人のこと知らないんだけど」
「…………」
「ど、どうにかしてくれるって、そんなすごい人がいるの?」
「俺の……父親みたいな人だから。たぶんお前のことも助けてくれる」
「ずっとここにいる人なの? わたし、あんまり詳しくなくって、だから……」
俺はひたすら「大丈夫」と「どうにかなる」という言葉だけを口から発しながら、困惑するナマエの腕を引いて砦の中を歩いた。自分から行動を起こしておきながら、本当にこの状況をどうにかできるのか確たる自信がなかった。兄貴にことを疑っているわけではないけれど、いきなり知らない人間を連れてきて、彼女の悩みを一発でどうにかしてくれるなんて魔法みたいなこと。希望を持たせるだけ持たせておいて、結局駄目でした、なんてことがあったら俺はこいつに顔向けできない。
自分がどうにかしようとするんじゃなくて、真っ先に兄貴を頼るのが俺の弱いところだと思う。
ナマエの困惑した声色に、俺の返事もつい荒くなってしまう。
――こんな風に思うなら、何も言わなければよかった。
よくない妄想ばかりで俺の手に汗がじわりと滲むのが分かった。
ナマエにとって俺がどんな存在だと思われているのかわからないが、マイナスに思われていることはないだろう。
俺は年上で、一応恩人になるから……嫌われているのだとしたら、こんな風に会ってくれないだろうし。少なくとも友人くらいには思っていて欲しい。――そうじゃなかったら、俺はただ空回りする痛々しいやつになってしまう。
――こいつに嫌われたくない。
こんなことを思ったのは初めてかもしれない。尊敬でもない、ただ失望されたくない。俺からちょっかいをかけたのもあるけど、ナマエは昔の俺みたいだと思ってしまった。
だから期待を裏切りたくない。兄貴に会わせるなんて言ったけれど、この時間にいつもの場所にいる確証はない。それでも俺の足は猥雑な通りを、歩き慣れた道をまっすぐ進んでいた。
「兄貴は……俺のことも助けてくれた。砦にいる人間ならあの人は見捨てない。――だから、もう二度と死にたいなんて言うなよ」
まるで魔法みたいに事は運んだ。全てが丸く収まってハッピーエンド――ナマエにとってはそうかもしれない。
「ここは好んで住み着くような場所じゃない。出て行けるならまともな場所で暮らす方がいい」
「……そうだよな。兄貴が言うなら」
兄貴の言う言葉は常に正しい。そして今回もそうだった。龍捲風という存在が采配を振るうと大抵のことは上手くいく。兄貴だって万能というわけではないから、救える規模はしれているが、ナマエの場合は本人の希望と未成年であるという事情も相まって、予想よりもあっさりと「問題は解決」した。
「――寂しいか?」
「別に、そういうことじゃないけど。学校に行けば会えるし、それに……兄貴が思ってるような関係じゃないから」
「……なるほど?」
自分でも墓穴を掘ってしまったと感じる。余計な一言だった。――でも、俺は別にあいつのことが好きとか、そういう邪な下心はなかった。単純に、どうにかしてやりたいと思った。それを好意だというならそうだろうけれど、色っぽい話ではない。
兄貴は俺を見て、これ以上何か聞いてくることはなかった。
それで本当によかったと思う。ナマエについて考えていると、自分のことが時々わからなくなる。
「よかったと思ってる。ナマエ、ずっと困ってたから。……兄貴、ありがとう」
「ああ……」
なんでもないことのように、この人は他人を救ってしまう。ナマエの人生はこれでよくなるんだと思う。そうなってくれないと、俺も悲しい。
「わたし、ずっと忘れないから」
ナマエが砦を去ると決まってから俺たちは不思議と忙しく、とうとう彼女が次の家に居を移す前日になって、ようやく二人で話すことができた。
夜で晴れていたけれど、昼間より眩しいほどの夜の光で星なんて見えやしない。俺たちが横並びで日に焼けてボロボロの椅子に座ったところで、ナマエはいきなりさっきの言葉を言った。
「……いきなりごめん。重いよね。でも、わたしは信一のこと忘れられないと思う。わたしに優しくしてくれて、あの人のことにわざわざ触れてこない人って、信一しかいないくって。……話してくれて、バカにしないでくれたのが、嬉しかった」
痛いほど真っ直ぐな視線が俺を打ち抜くように見つめている。
ナマエは時々、こちらが苦しくなるくらいに澄んだ目をする。俯いて地面を見ながら歩いていた人がこんな顔をするなんて、助けてやらなかったらきっと知らないままだっただろう。
「……俺も、同じ。忘れようにも忘れられるわけないだろ」
「わたしね、ずっとこの靴が嫌いだった。服が地味なのにこれだけ目立つでしょ。でも信一と初めて会った時に、履いてたから。好きになれたんだよ」
肩と肩が触れあいそうになった。
――思わず避けてしまう。
彼女が身を乗り出したからだ。今日の俺たちは手元に何も持っていなかった。普段なら、ジュースの一本でも片手にここまでやってくるのに。……今日に限って何もない。俺たちの距離を取る理由が。
二人の間にあった拳一つ分くらいの隙間に、ナマエの手が伸びた。こちらに向かって近づいてくる。段々と……。
「離れても、ずっと信一のこと覚えてる。それで、わたしが自分のことを本当に好きになれたら、また遊びに来ていい?」
正直なところ、俺は怯えていた。
この関係が居心地よくて、俺にとっても安心できる距離だったから。
男女の仲とかそういう言葉になってしまう繋がりを作ったら、もう二度と元の形には戻らない。ナマエはそういう人じゃない。そういう女じゃない。
俺がロマンスを求めて人助けしただなんて思われたくない。今はまだ、女がどうとか、そういうことをして束縛したりされたりなんて話は嫌だ。
ナマエが致命的な一言を言う前に、俺は黙って煙草を一本差し出した。
「吸うか?」
「……」
「誰も見てないから」
俺がそう言うと彼女は黙って一度首を縦に振った。
人差し指と中指の間に煙草を挟んで、ナマエはまじまじとそれを見つめていた。宝石でも眺めるような神妙な顔つきだった。
ライターでその先端に火を灯す前に、向こうから一度風が吹いた。不意にナマエ自身の匂いが飛び込んでくるように香る。向かい風が収まるまで、俺はナマエの指先をじっと見つめていた。どこか草木を思わせるような青臭い匂いがする。たぶん、どこにでも売っている薬用石けんの香りだ。そこに混じって少しだけ汗の匂いがした。臭いって意味じゃなくて、その人からするような甘ったるい、女の匂いだ。
カチ、カチとライターをつけようと何度か試してみた。残りが少ないので一瞬小さな火花のような見えたかと思うと、すぐに消える。その間ずっと下を見つめていて、ナマエの赤い靴が見えた。
映画を見せられる授業で見た映像を思い出す。ほとんど眠っていたから内容は覚えていないけれど、赤い靴を履いて踊るダンサーの場面があった。この靴はそれにそっくりだった。到底学校にはいていくようなデザインじゃない。華奢で華美で、作り物の足に履かせるような形をしている。
「あの人がね、盗んだ靴じゃないの。……昔から履いてた靴。でも、わたしにくれたから。うちにはこれくらいしかなかったから」
「似合ってる」
ナマエはくく、と笑った。目の前で、あの時手を伸ばしたおばさんと、彼女の姿が一瞬重なって見える。暗くて夜空に溶けそうなナマエの顔が、ぼんやりと溶けていく。
「炎って、あんまり赤くならないね」
「……ああ。どっちかっていうと、青……みたいだよな」
「じゃあわたし、青を見る度に思い出すね。信一のこと、名前だってそうでしょう」
ようやくまともに点火した煙草に、ナマエはゆっくりと口元まで運んでいき、一瞬だけ吸い込むとすぐに離した。
「吸ったことは」
それが慣れた仕草のように見えて、俺は思わず尋ねた。
「ないよ。これがはじめて。信一がずっと吸ってるの、見てたから。……煙って、全然美味しくないね。苦いよ。……バカみたい。こんなのを真剣に吸ってたの?」
本当に煙草の味が嫌いなようだった。ナマエは顔をしかめて、それ以上煙草をのむことはなかった。
じっと目を細めて、ナマエは煙が空に消えるさまを見つめていた。――それまでずっと、彼女が俺のことを見ていたことに気づいた。
「高いところに登る時は気をつけろよ。もう俺が支えてやれないから」
「わかった。じゃあ、信一がいないところでは屋上に行くのはやめる」
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよな」
「わたしはずっと真剣だけど?」
そう言って微笑むナマエに、俺はどんな顔をして見せたのだろう。
結局俺は、ナマエから聞かれたことには何一つとして答えることはなかった。
◆
産まれてからこのかた、自分の人生はあらかじめ誰かによって書かれたシナリオに沿って動いているのだと思うようにしていた。神がもしいるのだとすれば、わたしのような人間を操って苦しんでいるさまを見ながら楽しんでいるのだろう、と。そうでないなら、わたしがここまで苦しんでいる意味がないから。苦しいだけの人生なら早く終わりたいと思っていた。でもわたしの腕をとる人がいた。――信一という人がわたしをすくい上げてくれたから。……だから生きなければならないと思った。
久々に戻った砦を歩いていると、以前よりも道が複雑になっていることに気がついた。昔歩いていた道が塞がれて行き止まりになっていて、わたしは信一との繋がりが断ちきられたような気持ちになった。ほんとうにわたしはここの人間ではなくなってしまった。
以前のように活気のある雰囲気でもなく、そこにいる人たちもみんな何かをぐっと堪えるような表情で歩いている。
――ここに信一はいない。なんとなく、そう思った。
今まで砦に一切近寄らなかったのは、自分の人生にケリをつけたかったからだった。あの場所を離れて親戚の家に行ってから、勉強漬けで忙しくしていたのと、あの学校にも通わなくなったのが一番の理由かもしれない。――行こうと思えば、いつでも行けた。実際に何度もあの砦の前を通り過ぎたことがある。
中に信一がいる。
そう思うといてもたってもいられなくて、どうにか一目見たくて身体が疼いた。足があの猥雑な道に向かっていく。それをぐっと堪える。
会いたいけれど、会ったら決意が鈍るから。じっと我慢していた。雪解けを待つ動物みたいに。
そして、今のわたしは自分の足で立っているという自覚がある。
信一に会うのに恥ずかしくないわたしがいる。
だから今すぐ会いたいのに。やっと足を踏み入れたその場所に、わたしの欲している人がいない。
「…………」
砦から一歩外に出ると、一気に人の話声や雑踏、車のクラクションが鳴る音――都会の喧噪がわたしの耳に飛び込んできた。砦の中は静かで、みんな息を潜めているみたいだった。昔はもっと人の笑い声や、生活の息使いが聞こえてきていた。
いい思い出なんて数えるくらいしかないのに、信一の顔を思い出すと辛かった記憶なんてどこかに消えていってしまう。
会いたい。
わたしは今日、彼に会いたい。
普段乗らない路線のバスがやってきたから流れに身を委ねるように飛び乗った。一番後ろの席に座ってぼんやりとしていると、車窓から海が見えた。たいした根拠はなかったけれど、ここだと思った。
どこからともなく蜃気楼のように、その人があらわれないかと妄想する。信一はわたしにとってそういうロマンスの対象で、救世主で、たった一人の友達だから。
海は綺麗だとは言い難い。磯特有のぬらつくような湿度と、風に運ばれてやってくるツンと刺すような匂いに、わたしは首に汗を流しながら歩いた。足下は不安定で、ろくに人がやってこないであろうというのは容易に想像できた。わたしは一つ一つの小屋を確認することはしない。こういう場所に住んでいる人は詮索を嫌うだろうし、わたしもできれば人と会話したくなかった。
幻のように目の前に現れた水上小屋を見て、わたしは「ここ」だと思った。……ヒールのある靴をはいてきたのは間違いだった。灰色の海の上で、わたしという存在は異物のように剥離している。
信一と繋がりのあるものを求めて、おまじないのように大切に持っていたけれど、この場所においては場違いすぎて自分だけが浮かれているみたいで恥ずかしい。
「……」
わたしがそこに足を踏み入れるまでもなかった。
扉から這い出るように出てきたその人を見て、わたしは名前を呼んだ。
「…………」
顔を上げて、彼はわたしの顔を一瞥すると、そのまま家に戻ろうとする。
「む、無視しないで……。わたし、覚えてる……?」
自分から発せられる声が情けないくらいに震えているのがわかった。呼吸は荒い。うなだれたその人はやっとこちらを見つめ返す。……視線が交わって、信一は一度大きく目を見開いた。
「ナマエか、お前……」
「よかった。覚えててくれたんだ」
一歩ずつ近寄っても信一はこちらに歩み寄ることはなかった。むしろ、彼に近くなるたびに信一の顔は歪んだ。前とは少しどころか、ぜんぜん違う雰囲気になっている。そしてこの場所にいるということは、わたしには理解できない何かに巻き込まれて、失敗した――というところまでは嫌でも察することができた。
「あのね、わたし……ずっと会いたかった」
「……砦には行ったのか?」
切り込むような一言に、わたしは思わずたじろぐ。信一って、こんなしゃべり方だったかな。……違う、もっと本当は、こんな陰気な感じじゃなかった。――と思うんだけど、昔のことだから、絶対にこうだったという確証は持てなかった。自分の思い出で美化されすぎて現実が見えていないだけだったら……嫌だ。
「え、あ、うん……」
「……あそこは、もう死んだ」
「えっ」
信一はそう一言吐き捨てると、煙草を足で踏み潰した。……さっきまでそれを持っていた手の指が欠けていることに気づいて、わたしは咄嗟に目をそらす。
――何があったの。
わたしがいない間に信一の形がまるきり変わってしまったみたいで、胸が苦しくなった。息が思うように吸えなくて、心臓の鼓動がうるさい。それでも彼の横顔は、以前のそれとあまり変わらなくて、目の色も……ずっとわたしの思い出の中と重なって、余計に苦しい。
「兄貴もいない。もう全部、死んだようなモノになった。俺も……だからお前は、もうここにはこない方がいい」
死んだ人間と喋っているみたい。……だと思った。
「もう、俺と関わろうなんて思うな」
「――」
死刑宣告を受けた囚人の気持ちだった。信一が、明確にわたしを拒絶した。
……目の前がぼやけていく。あの日みたいに、わたしの全てが崩れ落ちて崩壊していく。そんな幻が見えた。
信一の目は冷ややかで、穏やかだった。聞き分けの悪い子供を見るような目で、わたしのことを見下ろしている。
なにか言われる前に、この人が目の前から消える前に何かしなくちゃいけない。
焦りで喉が渇く。信一がわたしの気持ちを殺す前に、わたしは大声で叫んだ。
「いやだ。……絶対に嫌だ。わたしがどれだけ頑張ってきたか、信一に恥じない人間になろうと思って、めちゃくちゃ、いっぱい……勉強したのに! やっと自分のこと、好きになれた。信一に会っても許されるって思ったの。……信一がどれだけ自分のことを間違えたって思っても、犯罪者でも、死人でもなんでもいい。わたしは信一のことを、い、一番に思って……ずっと頑張ってきたんだから、ほ、っ、ほめてよ! わたし、頑張ったんだから、友達、だったのに……今でもずっと、変わらない。それだけは変わらない。なかったことになんてできない。……わがままじゃん。信一がどれだけひどい人間でも、それだけは許さないから!」
子供の癇癪そのものだ。ああ、なんて格好が悪いんだろう。
自分がこれほど醜い……むき出しのまま吠えるなんて思ってもみなかった。ずっと我慢していたのは本当だし、頭が酸欠でフラフラする。
こんなに大きな声を出したのは、生まれてはじめてだったかもしれない。
「泣くなよ……ガキじゃないんだから」
「信一のせいじゃん。全部……わたしは場所なんてどうでもいい! 信一に会いたくて、それ以外はどうでもいい。なんでわかってくれないの……」
「……困るだろ。こんなところで、泣かれると」
信一ははじめてわたしに近づいた。それでも決定的な一歩――家の敷地の外には出ようとしない。わたしもわたしで、上手く足が動かなくてその場で立ち尽くして泣いていた。
弱虫だ。わたしたち。
意気地無しで……どうしようもない人間が二人。シケたスラムにお似合いのバカな二人。
わたしは信一が一歩踏み出してくれることを期待して、バカみたいに肩をふるわせて泣いていた。涙がボロボロ溢れて止まらないけれど、それ以上に意地でも泣き止んでやらないと決めていた。
人の目がないから余計に感情が爆発してしまう。今までみたいにちょっと小馬鹿にしたような顔で笑い飛ばしてくれたら、いいのに。ただそれだけでわたしは信一が困らないような聞き分けのいい人になれる。
大人になった信一は、少し困ったような顔をして棒立ちのままわたしを見下ろしていた。
「――お前は、すごいな。こんなところまで、俺を見つけに来たんだから」
「そうだよ。……わたし、信一のことになると頭がおかしくなる。人からバカだなって思われるくらい、頑張れるよ」
境界線を越えるのは、いともたやすい。他の人が思っているよりもずっと簡単だ。ただ勇気がない人が足踏みをしているだけ。
わたしの身体は羽よりも軽くて、一メートルくらいの距離なんてないようなものだった。
「今度はわたしが信一を引っ張りたいんだけど、いいでしょう」
つま先から木板の上に足をつけると、船の上でステップを踏んだみたいに足裏が震えた。
「……お前」
「煙草、ずっと同じ銘柄なんだね。わたしも同じ。……わたしたち、同じなんだよ」
「ナマエ」
信一が後ずさりするたびに、わたしは我慢できなくなっていく。自分の理性の皮が剥がされていく。ゆっくりと、どうしようもないくらい止まらない。
手を伸ばすと簡単に触れることができた。彼は嫌そうな顔をしている? わたしを拒絶している? そんなことはどうでもよくて、ただわたしが信一に触れている。その事実だけでてっぺんに実った果実をもぎ取ったような達成感が全身に広がった。
うっとりと、夢の中にいるみたいに。
「……わたし、本当に死のうとしてたんだよ? 今も、落下することは怖くないって思ってる。地面の上で男の人を一人捕まえるくらい、なんてことない」
「俺に触るな。そういうのは、今は違うだろ」
「今じゃなかったら、いつになったらいいの? わたし、欲しいものはずっと我慢させられたから、うんと欲張りになっちゃったんだ」
シャツの襟を掴んで、身を寄せると信一の匂いがした。煙草と汗と、潮の匂い。こんなところに住んでいるなら、まともにシャワーも浴びていないだろう。それが今の信一を構成する全てなのだとしたら、わたしはなんだって受け入れられる。逆にわたしはどうだろう。昔とは随分変わった。変えられるように頑張ったから。きっと信一の思っているわたしとはかなりかけ離れてしまっているかもしれない。
「……突き飛ばさないんだね。本気で嫌ならそうすればいいのに」
わたしから逃れるように信一はぐっと顔を逸らした。それでも目線だけはわたしの釘付けのままで、彼の大きな黒目にわたしの顔が反射しているのが見えたし、近くにいるから信一の呼吸が乱れているのが分かった。
人を哀れむ時の目だった。
何度も何度もわたしに向けられた目線。信一から向けられたのは初めてだった。わたしって、昔より可哀想な人間なんだろうか。信一の今置かれている状況の方がよほどひどく見えるのに。
「わたしって、怖い?」
「――お前、随分と母親に似てきたな」
思わず大げさなくらいに口角がつり上がった。こうすればわたしがひるむとでも思っているんだろうか。……だとしたら、信一はやっぱり甘い人だ。そういうところが好きで、愛してる、けど。
「あはは。そうかもね。そっくりかも。でも二人きりの時に、他の人の話はやめてね」
手に入るけど自分では触れてはいけない物に手を伸ばす。これに限ってはわたしはあの女とまったく同じ存在なのかもしれない。
でもわたしは、死んだってこの手を離さないから。そうすれば、手に入ったことと同じにならないかなぁ。
「……」
俺の真横から伸ばされた手は小さなお菓子の箱を掴むと、すっと引っ込んだ。幽霊にでも遭遇したような気分になる。この「おばさん」と会うと。
「…………」
彼女は俺を見て、ニコリと笑う。ヨーロッパの巨匠が描いた絵みたいな笑顔だ。挨拶のつもりなのだろうか。それすら俺には判別がつかない。
おばさんは俺が見ている最中で堂々と商品を手に取り、会計をせずに店の外に出て行こうとする。無重力で浮遊しているみたいにすーっと、鳥が羽ばたくような可憐さで、彼女は袖にクッキーの小箱をしまい込んでしまった。俺は咎めることはできない。俺の仕事じゃないし、それに――。
「ちょっとお! 困る困る! お金払ってちょうだい!」
「……あぁ、ああ……」
店の人が新聞から顔を上げて叫ぶ。子供に言って聞かせるような口調で、いや……万引きをしようとした子供に叱る方がキツい言い方かもしれない。
「まったく……何回目なんだかね」
「ふふっ」
「笑ってんじゃないよ。まったく……」
おばさんは怒られても窃盗の何がいけないのかわからない。そういう病気なのだとここら一帯に住んでいる人は皆知っている。咳が止まらないように物を盗むことは辞められないらしい。龍兄貴が言っていた。そういうものなんだから、仕方がない、なんて。俺はそう言われるとそういうものなのだと受け入れるしかない。
店番のお婆さんが、おばさんの手から盗もうとしたそれを奪い返した。おばさんは一瞬だけ、本当に悲しそうな顔をした。迷子になった子供みたいな今にも泣き出しそうな表情も、本当に悲しんでいるかもわからない。おばさんは盗みをする上にまともに口がきけないので、どうしてこんなことになったのか、本心はどうなのかは誰も知らない。
おばさん――というにはその人は若く見えたけど、やはり白いワンピースの襟首から見える肌には年齢相応のたるみができていた。
こんな風呂に入るのも面倒な場所なのにおばさんはまるで漂白されたみたいに綺麗だった。
もう帰りなさい。なんて言われて、言葉は理解できているのか、彼女は外に出て行った。風に流される風船みたいな足取りは見ていて不安になる。
おばさんの身なりもペラペラとした服一枚にバレエシューズのような細い靴といった格好――いつも見かけると同じ服を着ている――だったので、彼女が歩いているだけでどこかの民俗の特殊な舞踏でも見せられているような心地になった。夢みたいに一瞬だった。実在している人なのに、なんだかアニメや映画の世界の中みたいな……。
店員はおばさんが出て行くと、再び大きなため息をついた。
「手長姫には困るねぇ。ねえ、信一?」
手長姫というのが窃盗癖のあるおばさんに付けられたあだ名だ。おひいさまという言葉がなるほど似合っていて様になっていると、それを最初に聞いた時にふと思った。おばさんは手が本当に長い。バレエでもやっていたんじゃないだろうかと思う。そして顔も小さい。背丈も女の中ではデカい方で、実際に女性の横に立つと頭一つ飛び抜けて見える。青白いおおよそ水仕事なんてしたこともないような手がぬっと、隙間から伸びてきては、有無を言わせずありとあらゆる物を盗んでいってしまう。
けれどそれは一過性のものに過ぎない。オーラはあるけれど肝心な窃盗のテクニックはお粗末で、子供の万引き犯の方が手慣れていると言ってもいいくらいの出来だった。こうやってすぐにバレるような犯行しかしない――できないのだ。
そんなこんなで、あの人は浮き世離れした幽霊みたいな外見と相まってこの城砦ではよく目立った。名物おばさんってやつかもしれない。
何をしてどうやって生活しているのか分からない人がここには多い。このおばさんがどうやって今まで生きてこれたのか、どうしてそもそもこんな所にいるのかは分からないが、出自は問わないのがここのルールだ。だから俺も……気には掛けても深掘りはしない。
「……俺、別に嫌いじゃない。何かされたわけじゃないし」
「へえ……。まあ、龍捲風が何もしなくていいって言うんだから、うちらはそうするしかないけどさあ……ねぇ?」
「ここではどんな厄介者も受け入れて上手く回していくしかない」
「いっぱしの口を利くようになったねえ」
ここからまた愚痴が始まりそうだったので、俺はジュースの代金を無言で卓上に置き、そのまま外に出た。昼も夜もないような路地で、おばさんはくるくると回っていた。
スピン。回転というよりは英単語でそう表現する方が彼女には似合って見える。
まるで独楽だな、と俺は思った。
下校の時刻はいつも通り騒がしかった。慌ただしく家に帰る生徒の群れが、サバンナの真ん中を横断するシマウマの集団みたいに広がって、校門から外に放たれていく。
今日はなんとなく一人で家まで帰ろうと思った。やることもないし、兄貴が帰ってくるまで映画でも行こうか。などと考えながらフラフラ通りを歩く。下校中の学生を待ち構えるかのように、通りには屋台が並び、その店主が客を呼び込む声とキャアキャアと騒ぐ学生のしゃべり声で辺り一帯は騒々しい。普段なら俺も、見知った顔とくだらない話でもしながら包子の買い食いでもしているところだ。ちょうどそのようにしている集団が俺の横を足早に通り過ぎていく。
そのままふと目線を横に傾けて、俺は絶句した。白い服の女が立っているのが見えた。赤い靴に濡れたような黒髪の女が一人、誰からも見られていないかのように、そっと道の脇を歩いている。
この姿には見覚えがある。この前砦で見かけたあの万引きおばさんとそっくりの立ち姿。特に後ろ姿がまるで生き写しのようにそっくりだった。決定的に違うのはその身長で、おばさんはデカいけれどこの人は普通くらいだった。背丈がまるで違っていなければ、俺は思わず叫んでいたかもしれない。
他人のそら似――もしくは、あの人の……娘、だったりするのだろうか。大きな鞄は学生が使うようなサイズだし、歩いてきた方向からして俺と同じ学校の生徒かもしれない。
俺はそっと彼女の側に近寄る。信号を待っている間に顔を拝んでやろうと思った。人のことをジロジロと見るのは失礼だと分かっているが、それでも陰気な雰囲気を醸し出すこの人のことを、おばさんと別人であるとはっきり確かめないとずっと気になり続けてしまうだろうと思ったからだ。
ここの交差点の信号は変わるまでが長い。バスやタクシーが何台も行き来する中で、その人はじっと立ち止まって信号が青になるのを待っている。俺から人を一人挟んで、横目で彼女の顔を見る。時折信号を確認する以外はずっと俯いて地面を見ているようだった。見るからに陰気な顔つきをしている。
人の美醜についてはノーコメントを貫きたいが、あのおばさんの顔つきとはあまり似ていない。険しい目付きをやめれば少しは近づくかもしれないが、やっぱり親子とか、そういう関係じゃなくて単なる偶然……後ろ姿だけが似ている他人、なのかもしれない。
でも、そんな偶然ってあるのか?
「…………」
いつの間にかじっと彼女のことを見つめていた。信号が赤に変わってすぐに彼女は足早に歩き出す。おばさんとは違って、地を踏みしめるようなしっかりとした足取りだった。
「藍男、あのーデカいおばさんって知ってるか」
「ん……?」
読んでいた本から顔を上げて、藍男は俺の方を見た。換気扇の音がやけにうるさく響いていたので聞こえていないかと思ったが、続きを促すように頷かれたので、俺はそのまましゃべり出した。
「万引きばっかりしてるっていう、あの。俺、この前初めて見たんだけど、さすがにあの感じで娘とか、いたりしないよな」
「いる。普通にわたしと同じクラス。……普通の人だよ。お母さんがああだからあんまり友達はいないみたいだけどね」
「……へぇ。そうか、ありがとう」
「女の情報を聞く暇があるなら、ちゃんと勉強すれば?」
ちゃんと卒業できないかもね。藍男はいつも通り俺に小言を言い、視線を元に戻して読書を再開した。
流石に学年が違うなら、今まで知らなかったのも無理はない。大きな学校だから生徒の数も多いし、同じ学年でも目立っていなければ名前も覚えていない人の方が多いくらいだ。
探していた答えにあっさりとたどり着いたが、別に達成感なんてものはなかった。藍男がその子に変なことを漏らしたりしなければいいが、そういうことをするタイプじゃない。……それに、多分今後そのおばさんの娘と俺は関わることはないだろうと思う。
砦の屋上には鳥がいる。誰かが飼っている生き物、無数の電柱に昼寝をするための長椅子。ここはベランダみたいな場所だ。うるさくしてもいいし、寝てもいい。隠れて煙草を吸うにはもってこいの場所で、夕暮れになると涼しげな風が吹く。俺は時々、一人でてっぺんまで登って、何も遮るものがない空を眺めながらダラダラと過ごす。今日はなんとなく、そんな気分だった。
安物のライターで火をつけると、夕暮れ時の赤い空に煙が立ち上って消える。まるで最初からなかったみたいに。
頭の後ろから物音がした。カンカンと金属が響く音がして、誰かがここへ上がってきているのだとすぐ理解できた。軽い足音だから子供か何かだろう。開けた場所はここくらいしかないから、よく子供が人の家の階段を使って上ってくる。
俺は別に、知らない人間が隣にやってきてもスルーするつもりだった。建物と建物の間の隙間はほんのわずかで、三十センチもないくらいだから子供でも落ちようがない。だからここを飛び越えてどこかに移動する方が早い時もある。ショートカットの経路として使われているくらいだから、危ういことはない――はずだった。
「……」
俺の横を通り過ぎたのは、子供ではなかった。小さな子供よりも上背がある。影が縦に長い。大人……あるいは俺と同じくらいの年の人間だ。
黒髪が風になびいて、ふわりと波打った。
別に珍しくはない。俺が一人で煙草を吸っているくらいだ。こうやって涼みたいやつや、友達と会うために登ってくる人間も多い。だから何もおかしなことはない。一瞬通り過ぎるだけ。そう思ってこの人のことも無視しようと思った。思っていた。
「……はっ?」
顔を上げて相手を確認することなく、俺は勢いよく立ち上がった。嫌な予感がよぎる前、頭が何か考える以前に反射的にそうした。その足が向かっているのは向かいの建物ではなく、砦の外周だったからだ。フェンスも何もないところに向かって止まる気配がない。ゆっくりなペースだったけれど、ブレーキのきかない車のように見えた。このままいけば真っ逆さまだ。自殺しようとしているのか、それとも狂ったジャンキーかどちらにしても、危なっかしい足取りを見て無視を決め込むことはできなかった。
――落ちる!
「っ、おい!」
細い腕を引っ張ってこちら側に引き寄せると、ろくな抵抗をしないなまま、彼女は倒れ込んだ。コンクリートの上に転がりこんで長い髪がばらばらと散らばった。
「死にたいのか! バカなことはよせ!」
「…………あ」
呆けたような返事をして、女は顔を上げる。そこにいたのは、つい先日見たばかりの顔で、俺は思わず「あっ」と声を上げる。生き別れの兄弟を見つけたような気持ちになった。
「お前、あの! おばさんの娘だろ!」
「…………」
再び彼女は俯いた。そうしていると初めて見かけた時と重なるようにそっくりに見える。公園の前の道を歩いていた時と同じだ。初めて話す相手に失礼だとは思うが、口にしてしまったものは仕方がない。黙って何も言おうとしない相手の目線にあわせてしゃがみながら、俺は話しかけた。
「なぁ……。いきなりで悪かった。でもあんな危なっかしい歩き方でこんなところをうろついてたら、普通に危ないだろ。俺がいてよかったな。御陀仏にならなくて済んで」
「――に」
「えっ?」
「じゃああなたがいなければ、わたしは死ねたんでしょう。放っておいてくれればよかったのに」
「ッ! お前なあ!」
俺が怒鳴りつけると、女はキッとこちらを睨みつけた。わなわなと全身を震わせて、顔が興奮して赤くなっている。先ほどまでの生気のない様子とは大違いだ。
「お前がよくてもこっちがいい迷惑だろ! 投身自殺なんて、ここらで出したら龍兄貴が困るんだよ!」
「うるさい人ですね……。人の事情に首をつっこんでいい迷惑なのはこっち。その龍兄貴……? とかいう人とわたしは無関係でしょう」
「砦全体の問題になるんだよ。お前みたいな死に急ぐやつがいると……警察も絡んでくる」
「死んだあとのことなんて知らないし。関係ないし。あなたって失礼な人ですね。あの女の娘、とか。ここの人はそればっかりで」
女はガリガリと頭をかきながら、ブツブツ呟いた。自殺未遂のことはともかく、後半に関しては俺に非がある。こいつの更生というか、もう二度とこんなことをしませんという一言を引き出さなくてはいけない気がする――今後のためにも。
「お前、藍男って知ってるだろ」
「ええ……? いきなりなんですか」
藍男の名前を出すと、女は目を丸くして目線を右往左往させた。知らない人間の口からこの名前が出てくるとは予想外だったに違いない。
「俺、そいつの兄貴だから。お前のことは一応知ってた」
「そ、そうですか。お兄さん、ですか……。でも、別に藍男さんとわたしはクラスが一緒なだけ、だし……」
「家族の知り合いがくだらないことでくたばったら、気分よくないだろ。しかも目の前で止められませんでしたとなったら、余計にな」
「…………はぁ」
激昂していたのが少しずつ落ち着いていくように見える。こちらを警戒するような視線は相変わらずだが、話を聞くモードには入ってきているような気がする。
「俺は信一。お前は? 名前あるだろ」
「……ナマエ」
ナマエは渋々といった様子で名乗った。
「ナマエ、もう二度とバカなことするなよ。命は大事だからな」
「道徳の授業みたい。先生みたい」
「さっきみたいに敬語使えよ? こっちは年上だぞ」
「未成年なのに喫煙してる人に言われたくない」
「うるせぇな。いいだろ、誰にも迷惑かけてないんだし。それにお前――チクるようなタイプでもないだろ?」
俺は煙草を一本差し出した。ナマエはわかりやすく顔を歪ませて、無言で突き返してくる。
「いらない。吸わないし」
「そうか。じゃあもう俺の邪魔するなよ」
俺は先ほどまでいた定位置に戻った。俺は受け取られなかった一本を新しく咥えて、しばらく向かい側の屋上で遊ぶ子供をぼーっと見つめていた。しばらくそうしていたが、ナマエが帰る気配はなかった。気になって振り返ると、先ほどから同じ場所に座って、俺をじっと見つめているナマエがいた。
「……帰らないのか?」
「家、いても楽しくない」
「だろうな。まあ、俺も外の方が気楽だな」
「……なんで、死のうとしてたか聞かないの」
悪いことをしたのがバレた子供みたいに怯えた声だった。もしかしたら、ちょっと泣いていたかもしれない。どうしてなんて聞かれても、こっちは別にお前の事情に興味なんてない――といったら嘘になる。でも、大体の理由は察しがつく。聞くまでもないことだ。
「話したくないだろ。……初対面の男に、いきなり聞かれても嫌だろ、普通に」
「…………」
「俺は精神科医でも補導員でもないし、人の心がわかるわけじゃない。でも苦しいから消えたくなる気持ちはまあ、分からなくはない。俺は責任も取りたくないから、お前のことは見なかったことにする」
「無責任。ここまで来たなら、わたしのことをちゃんと見てくれればいいのに」
「人を動かしたかったら、自分から働きかけろよ」
誠意を見せるとか。これは龍兄貴の受け売りで俺の言葉ではなかったけれど、自然と口からついて出てしまった。ナマエは考え込むように唇をぎゅっと結んだ。恐らく何かを考える時にする癖なのだろう。さっきからずっとソワソワしながら指を擦り合わせて落ち着きがない動きが連続している。
「信一」
「あぁ」
「またここに来る、ことはありますか……」
「また落っこちそうになっても、俺は助けてやれないからな」
ナマエは初めてぎこちないながらも、笑顔のようなものを見せた。笑うと彼女は母親に少し似ていた。
勢い余って自殺しようとしていたナマエを助けてから、俺たちはちょくちょく会うようになった。学校では相変わらず無関係というか、すれ違う暇すらなかったけれど、砦の中なら話は別だ。水をくむための列や雑貨を売っている店の前にあいつがいると、俺は声をかけた。藍男には放っておいてやれ、とかなんとか言われたけれど、そんなの俺には関係ない。あいつは俺のことをタラシか何かだと思っているんだろうか。
ナマエは普段、母親が「ああ」なので、店に行くといつも気まずそうに俯いていた。なんだかそれがかわいそうで、必要以上に平身低頭しているのが見ていられなくて、俺はなけなしの金でジュースをおごってやったりする。
「コーラ、飲んだことないのか?」
ナマエがおっかなびっくりといった様子でビンを持つので、俺は思わずそう言った。どこに行っても売られている安価な炭酸飲料を、まさか飲んだことがないなんてことはないだろうが。あまりにも物珍しそうな顔をしていたから、こっちの方が驚いてしまう。
「……そんなことない、けど。いいの?」
「いいから。もう開けちまったから飲むしかないだろ」
「お金、できたらあとでちゃんと返すから」
「だから、いいって言ってるだろ。それよりお前、その底がガバガバの靴を買い換えろよ」
「……まだ使えるから、いい」
ぬるい気温のせいでビンはいつもより汗をかいていた。俺の横でベンチに座っているナマエは、スカートの裾を何度も握っては開いて、皺を作るような仕草をしている。そろそろエアコンが欲しくなるような頃合いだ。突き抜けるような青い空には雲一つない。見た目だけは爽やかだったけれど、その下にいる俺たちは汗を流していた。
「――最近、暑いね」
「そうだな」
「吸わないの?」
「味が分からなくなるだろ、お前が。せっかく奢ってやったんだからちゃんと飲めよ」
ビンの中身がすぐなくなっていく。喉が渇いてクタクタになると、無性にジュースが飲みたくなる。こういうことが当たり前にできないなんて、やっぱりこいつは可哀想なやつだな、と同情する。一時の同情や哀れみで情けをかけるのは相手にとって失礼かもしれないけれど、こうでもしないと俺はナマエと何を話していいのか分からないという理由もあった。
「学校、そろそろ休みだな」
「あぁ……。信一は何かするの?」
「別に……龍兄貴の手伝いとか、道場とか、普段通り」
「わたしも、何にもない」
「だよなぁ。お前、喧嘩とかしないもんな」
「する意味が分からないし。怪我したら、痛いよ」
「ナマエって見るからに弱そうだし、まぁ、女だからな」
「男でもする人の方が少ないと思うけど」
ナマエはそう言いながら、鞄の中身を漁りだした。
学校から帰る道の途中で出会ったから、教科書やノートが詰まった重たい鞄をお互い抱えたままだった。……俺のはそんなに中身が入っていなかったけれど。
綺麗に整頓された鞄の中から、ナマエは一枚の紙を取りだした。俺は「あ」と声を上げる。
「学校、保護者と面談だって」
吐き捨てるような言い方だった。――たしかに、これはナマエにとっては面倒以上の何物でもないだろう。
「あの人って、ああだからさ。毎回わたしと先生が話して終わりなんだ」
「……」
「ごめん、あんま聞いてて面白くないよね」
ナマエはそのプリントをぐしゃぐしゃに丸めると、そのまま外に投げ捨てようとした。
――思わずその腕を掴んでしまった。
「えっ」
「龍兄貴。龍兄貴なら――なんとかしてくれる」
「ええぇっ?」
「ついてこい、どうにかしてやるから」
「はあっ? 待って、そういうの別に……」
「いいから!」
掴んだ腕の頼りなさに、自分でもどうにかなりそうなくらい恥ずかしい気分になった。
全然力なんてこめていないのに、ナマエは俺に引きずられるがままにされている。こいつには喧嘩とか、暴力とか、そういう世界とは関わらないで生きている。普通の女の娘なんだと頭で理解してしまった。今までどうしてそんなことを知らないで――知らないふりをしていられたのか、自分でもよくわからない。
「信一、わ、わたし……その人のこと知らないんだけど」
「…………」
「ど、どうにかしてくれるって、そんなすごい人がいるの?」
「俺の……父親みたいな人だから。たぶんお前のことも助けてくれる」
「ずっとここにいる人なの? わたし、あんまり詳しくなくって、だから……」
俺はひたすら「大丈夫」と「どうにかなる」という言葉だけを口から発しながら、困惑するナマエの腕を引いて砦の中を歩いた。自分から行動を起こしておきながら、本当にこの状況をどうにかできるのか確たる自信がなかった。兄貴にことを疑っているわけではないけれど、いきなり知らない人間を連れてきて、彼女の悩みを一発でどうにかしてくれるなんて魔法みたいなこと。希望を持たせるだけ持たせておいて、結局駄目でした、なんてことがあったら俺はこいつに顔向けできない。
自分がどうにかしようとするんじゃなくて、真っ先に兄貴を頼るのが俺の弱いところだと思う。
ナマエの困惑した声色に、俺の返事もつい荒くなってしまう。
――こんな風に思うなら、何も言わなければよかった。
よくない妄想ばかりで俺の手に汗がじわりと滲むのが分かった。
ナマエにとって俺がどんな存在だと思われているのかわからないが、マイナスに思われていることはないだろう。
俺は年上で、一応恩人になるから……嫌われているのだとしたら、こんな風に会ってくれないだろうし。少なくとも友人くらいには思っていて欲しい。――そうじゃなかったら、俺はただ空回りする痛々しいやつになってしまう。
――こいつに嫌われたくない。
こんなことを思ったのは初めてかもしれない。尊敬でもない、ただ失望されたくない。俺からちょっかいをかけたのもあるけど、ナマエは昔の俺みたいだと思ってしまった。
だから期待を裏切りたくない。兄貴に会わせるなんて言ったけれど、この時間にいつもの場所にいる確証はない。それでも俺の足は猥雑な通りを、歩き慣れた道をまっすぐ進んでいた。
「兄貴は……俺のことも助けてくれた。砦にいる人間ならあの人は見捨てない。――だから、もう二度と死にたいなんて言うなよ」
まるで魔法みたいに事は運んだ。全てが丸く収まってハッピーエンド――ナマエにとってはそうかもしれない。
「ここは好んで住み着くような場所じゃない。出て行けるならまともな場所で暮らす方がいい」
「……そうだよな。兄貴が言うなら」
兄貴の言う言葉は常に正しい。そして今回もそうだった。龍捲風という存在が采配を振るうと大抵のことは上手くいく。兄貴だって万能というわけではないから、救える規模はしれているが、ナマエの場合は本人の希望と未成年であるという事情も相まって、予想よりもあっさりと「問題は解決」した。
「――寂しいか?」
「別に、そういうことじゃないけど。学校に行けば会えるし、それに……兄貴が思ってるような関係じゃないから」
「……なるほど?」
自分でも墓穴を掘ってしまったと感じる。余計な一言だった。――でも、俺は別にあいつのことが好きとか、そういう邪な下心はなかった。単純に、どうにかしてやりたいと思った。それを好意だというならそうだろうけれど、色っぽい話ではない。
兄貴は俺を見て、これ以上何か聞いてくることはなかった。
それで本当によかったと思う。ナマエについて考えていると、自分のことが時々わからなくなる。
「よかったと思ってる。ナマエ、ずっと困ってたから。……兄貴、ありがとう」
「ああ……」
なんでもないことのように、この人は他人を救ってしまう。ナマエの人生はこれでよくなるんだと思う。そうなってくれないと、俺も悲しい。
「わたし、ずっと忘れないから」
ナマエが砦を去ると決まってから俺たちは不思議と忙しく、とうとう彼女が次の家に居を移す前日になって、ようやく二人で話すことができた。
夜で晴れていたけれど、昼間より眩しいほどの夜の光で星なんて見えやしない。俺たちが横並びで日に焼けてボロボロの椅子に座ったところで、ナマエはいきなりさっきの言葉を言った。
「……いきなりごめん。重いよね。でも、わたしは信一のこと忘れられないと思う。わたしに優しくしてくれて、あの人のことにわざわざ触れてこない人って、信一しかいないくって。……話してくれて、バカにしないでくれたのが、嬉しかった」
痛いほど真っ直ぐな視線が俺を打ち抜くように見つめている。
ナマエは時々、こちらが苦しくなるくらいに澄んだ目をする。俯いて地面を見ながら歩いていた人がこんな顔をするなんて、助けてやらなかったらきっと知らないままだっただろう。
「……俺も、同じ。忘れようにも忘れられるわけないだろ」
「わたしね、ずっとこの靴が嫌いだった。服が地味なのにこれだけ目立つでしょ。でも信一と初めて会った時に、履いてたから。好きになれたんだよ」
肩と肩が触れあいそうになった。
――思わず避けてしまう。
彼女が身を乗り出したからだ。今日の俺たちは手元に何も持っていなかった。普段なら、ジュースの一本でも片手にここまでやってくるのに。……今日に限って何もない。俺たちの距離を取る理由が。
二人の間にあった拳一つ分くらいの隙間に、ナマエの手が伸びた。こちらに向かって近づいてくる。段々と……。
「離れても、ずっと信一のこと覚えてる。それで、わたしが自分のことを本当に好きになれたら、また遊びに来ていい?」
正直なところ、俺は怯えていた。
この関係が居心地よくて、俺にとっても安心できる距離だったから。
男女の仲とかそういう言葉になってしまう繋がりを作ったら、もう二度と元の形には戻らない。ナマエはそういう人じゃない。そういう女じゃない。
俺がロマンスを求めて人助けしただなんて思われたくない。今はまだ、女がどうとか、そういうことをして束縛したりされたりなんて話は嫌だ。
ナマエが致命的な一言を言う前に、俺は黙って煙草を一本差し出した。
「吸うか?」
「……」
「誰も見てないから」
俺がそう言うと彼女は黙って一度首を縦に振った。
人差し指と中指の間に煙草を挟んで、ナマエはまじまじとそれを見つめていた。宝石でも眺めるような神妙な顔つきだった。
ライターでその先端に火を灯す前に、向こうから一度風が吹いた。不意にナマエ自身の匂いが飛び込んでくるように香る。向かい風が収まるまで、俺はナマエの指先をじっと見つめていた。どこか草木を思わせるような青臭い匂いがする。たぶん、どこにでも売っている薬用石けんの香りだ。そこに混じって少しだけ汗の匂いがした。臭いって意味じゃなくて、その人からするような甘ったるい、女の匂いだ。
カチ、カチとライターをつけようと何度か試してみた。残りが少ないので一瞬小さな火花のような見えたかと思うと、すぐに消える。その間ずっと下を見つめていて、ナマエの赤い靴が見えた。
映画を見せられる授業で見た映像を思い出す。ほとんど眠っていたから内容は覚えていないけれど、赤い靴を履いて踊るダンサーの場面があった。この靴はそれにそっくりだった。到底学校にはいていくようなデザインじゃない。華奢で華美で、作り物の足に履かせるような形をしている。
「あの人がね、盗んだ靴じゃないの。……昔から履いてた靴。でも、わたしにくれたから。うちにはこれくらいしかなかったから」
「似合ってる」
ナマエはくく、と笑った。目の前で、あの時手を伸ばしたおばさんと、彼女の姿が一瞬重なって見える。暗くて夜空に溶けそうなナマエの顔が、ぼんやりと溶けていく。
「炎って、あんまり赤くならないね」
「……ああ。どっちかっていうと、青……みたいだよな」
「じゃあわたし、青を見る度に思い出すね。信一のこと、名前だってそうでしょう」
ようやくまともに点火した煙草に、ナマエはゆっくりと口元まで運んでいき、一瞬だけ吸い込むとすぐに離した。
「吸ったことは」
それが慣れた仕草のように見えて、俺は思わず尋ねた。
「ないよ。これがはじめて。信一がずっと吸ってるの、見てたから。……煙って、全然美味しくないね。苦いよ。……バカみたい。こんなのを真剣に吸ってたの?」
本当に煙草の味が嫌いなようだった。ナマエは顔をしかめて、それ以上煙草をのむことはなかった。
じっと目を細めて、ナマエは煙が空に消えるさまを見つめていた。――それまでずっと、彼女が俺のことを見ていたことに気づいた。
「高いところに登る時は気をつけろよ。もう俺が支えてやれないから」
「わかった。じゃあ、信一がいないところでは屋上に行くのはやめる」
「お前が言うと冗談に聞こえないんだよな」
「わたしはずっと真剣だけど?」
そう言って微笑むナマエに、俺はどんな顔をして見せたのだろう。
結局俺は、ナマエから聞かれたことには何一つとして答えることはなかった。
◆
産まれてからこのかた、自分の人生はあらかじめ誰かによって書かれたシナリオに沿って動いているのだと思うようにしていた。神がもしいるのだとすれば、わたしのような人間を操って苦しんでいるさまを見ながら楽しんでいるのだろう、と。そうでないなら、わたしがここまで苦しんでいる意味がないから。苦しいだけの人生なら早く終わりたいと思っていた。でもわたしの腕をとる人がいた。――信一という人がわたしをすくい上げてくれたから。……だから生きなければならないと思った。
久々に戻った砦を歩いていると、以前よりも道が複雑になっていることに気がついた。昔歩いていた道が塞がれて行き止まりになっていて、わたしは信一との繋がりが断ちきられたような気持ちになった。ほんとうにわたしはここの人間ではなくなってしまった。
以前のように活気のある雰囲気でもなく、そこにいる人たちもみんな何かをぐっと堪えるような表情で歩いている。
――ここに信一はいない。なんとなく、そう思った。
今まで砦に一切近寄らなかったのは、自分の人生にケリをつけたかったからだった。あの場所を離れて親戚の家に行ってから、勉強漬けで忙しくしていたのと、あの学校にも通わなくなったのが一番の理由かもしれない。――行こうと思えば、いつでも行けた。実際に何度もあの砦の前を通り過ぎたことがある。
中に信一がいる。
そう思うといてもたってもいられなくて、どうにか一目見たくて身体が疼いた。足があの猥雑な道に向かっていく。それをぐっと堪える。
会いたいけれど、会ったら決意が鈍るから。じっと我慢していた。雪解けを待つ動物みたいに。
そして、今のわたしは自分の足で立っているという自覚がある。
信一に会うのに恥ずかしくないわたしがいる。
だから今すぐ会いたいのに。やっと足を踏み入れたその場所に、わたしの欲している人がいない。
「…………」
砦から一歩外に出ると、一気に人の話声や雑踏、車のクラクションが鳴る音――都会の喧噪がわたしの耳に飛び込んできた。砦の中は静かで、みんな息を潜めているみたいだった。昔はもっと人の笑い声や、生活の息使いが聞こえてきていた。
いい思い出なんて数えるくらいしかないのに、信一の顔を思い出すと辛かった記憶なんてどこかに消えていってしまう。
会いたい。
わたしは今日、彼に会いたい。
普段乗らない路線のバスがやってきたから流れに身を委ねるように飛び乗った。一番後ろの席に座ってぼんやりとしていると、車窓から海が見えた。たいした根拠はなかったけれど、ここだと思った。
どこからともなく蜃気楼のように、その人があらわれないかと妄想する。信一はわたしにとってそういうロマンスの対象で、救世主で、たった一人の友達だから。
海は綺麗だとは言い難い。磯特有のぬらつくような湿度と、風に運ばれてやってくるツンと刺すような匂いに、わたしは首に汗を流しながら歩いた。足下は不安定で、ろくに人がやってこないであろうというのは容易に想像できた。わたしは一つ一つの小屋を確認することはしない。こういう場所に住んでいる人は詮索を嫌うだろうし、わたしもできれば人と会話したくなかった。
幻のように目の前に現れた水上小屋を見て、わたしは「ここ」だと思った。……ヒールのある靴をはいてきたのは間違いだった。灰色の海の上で、わたしという存在は異物のように剥離している。
信一と繋がりのあるものを求めて、おまじないのように大切に持っていたけれど、この場所においては場違いすぎて自分だけが浮かれているみたいで恥ずかしい。
「……」
わたしがそこに足を踏み入れるまでもなかった。
扉から這い出るように出てきたその人を見て、わたしは名前を呼んだ。
「…………」
顔を上げて、彼はわたしの顔を一瞥すると、そのまま家に戻ろうとする。
「む、無視しないで……。わたし、覚えてる……?」
自分から発せられる声が情けないくらいに震えているのがわかった。呼吸は荒い。うなだれたその人はやっとこちらを見つめ返す。……視線が交わって、信一は一度大きく目を見開いた。
「ナマエか、お前……」
「よかった。覚えててくれたんだ」
一歩ずつ近寄っても信一はこちらに歩み寄ることはなかった。むしろ、彼に近くなるたびに信一の顔は歪んだ。前とは少しどころか、ぜんぜん違う雰囲気になっている。そしてこの場所にいるということは、わたしには理解できない何かに巻き込まれて、失敗した――というところまでは嫌でも察することができた。
「あのね、わたし……ずっと会いたかった」
「……砦には行ったのか?」
切り込むような一言に、わたしは思わずたじろぐ。信一って、こんなしゃべり方だったかな。……違う、もっと本当は、こんな陰気な感じじゃなかった。――と思うんだけど、昔のことだから、絶対にこうだったという確証は持てなかった。自分の思い出で美化されすぎて現実が見えていないだけだったら……嫌だ。
「え、あ、うん……」
「……あそこは、もう死んだ」
「えっ」
信一はそう一言吐き捨てると、煙草を足で踏み潰した。……さっきまでそれを持っていた手の指が欠けていることに気づいて、わたしは咄嗟に目をそらす。
――何があったの。
わたしがいない間に信一の形がまるきり変わってしまったみたいで、胸が苦しくなった。息が思うように吸えなくて、心臓の鼓動がうるさい。それでも彼の横顔は、以前のそれとあまり変わらなくて、目の色も……ずっとわたしの思い出の中と重なって、余計に苦しい。
「兄貴もいない。もう全部、死んだようなモノになった。俺も……だからお前は、もうここにはこない方がいい」
死んだ人間と喋っているみたい。……だと思った。
「もう、俺と関わろうなんて思うな」
「――」
死刑宣告を受けた囚人の気持ちだった。信一が、明確にわたしを拒絶した。
……目の前がぼやけていく。あの日みたいに、わたしの全てが崩れ落ちて崩壊していく。そんな幻が見えた。
信一の目は冷ややかで、穏やかだった。聞き分けの悪い子供を見るような目で、わたしのことを見下ろしている。
なにか言われる前に、この人が目の前から消える前に何かしなくちゃいけない。
焦りで喉が渇く。信一がわたしの気持ちを殺す前に、わたしは大声で叫んだ。
「いやだ。……絶対に嫌だ。わたしがどれだけ頑張ってきたか、信一に恥じない人間になろうと思って、めちゃくちゃ、いっぱい……勉強したのに! やっと自分のこと、好きになれた。信一に会っても許されるって思ったの。……信一がどれだけ自分のことを間違えたって思っても、犯罪者でも、死人でもなんでもいい。わたしは信一のことを、い、一番に思って……ずっと頑張ってきたんだから、ほ、っ、ほめてよ! わたし、頑張ったんだから、友達、だったのに……今でもずっと、変わらない。それだけは変わらない。なかったことになんてできない。……わがままじゃん。信一がどれだけひどい人間でも、それだけは許さないから!」
子供の癇癪そのものだ。ああ、なんて格好が悪いんだろう。
自分がこれほど醜い……むき出しのまま吠えるなんて思ってもみなかった。ずっと我慢していたのは本当だし、頭が酸欠でフラフラする。
こんなに大きな声を出したのは、生まれてはじめてだったかもしれない。
「泣くなよ……ガキじゃないんだから」
「信一のせいじゃん。全部……わたしは場所なんてどうでもいい! 信一に会いたくて、それ以外はどうでもいい。なんでわかってくれないの……」
「……困るだろ。こんなところで、泣かれると」
信一ははじめてわたしに近づいた。それでも決定的な一歩――家の敷地の外には出ようとしない。わたしもわたしで、上手く足が動かなくてその場で立ち尽くして泣いていた。
弱虫だ。わたしたち。
意気地無しで……どうしようもない人間が二人。シケたスラムにお似合いのバカな二人。
わたしは信一が一歩踏み出してくれることを期待して、バカみたいに肩をふるわせて泣いていた。涙がボロボロ溢れて止まらないけれど、それ以上に意地でも泣き止んでやらないと決めていた。
人の目がないから余計に感情が爆発してしまう。今までみたいにちょっと小馬鹿にしたような顔で笑い飛ばしてくれたら、いいのに。ただそれだけでわたしは信一が困らないような聞き分けのいい人になれる。
大人になった信一は、少し困ったような顔をして棒立ちのままわたしを見下ろしていた。
「――お前は、すごいな。こんなところまで、俺を見つけに来たんだから」
「そうだよ。……わたし、信一のことになると頭がおかしくなる。人からバカだなって思われるくらい、頑張れるよ」
境界線を越えるのは、いともたやすい。他の人が思っているよりもずっと簡単だ。ただ勇気がない人が足踏みをしているだけ。
わたしの身体は羽よりも軽くて、一メートルくらいの距離なんてないようなものだった。
「今度はわたしが信一を引っ張りたいんだけど、いいでしょう」
つま先から木板の上に足をつけると、船の上でステップを踏んだみたいに足裏が震えた。
「……お前」
「煙草、ずっと同じ銘柄なんだね。わたしも同じ。……わたしたち、同じなんだよ」
「ナマエ」
信一が後ずさりするたびに、わたしは我慢できなくなっていく。自分の理性の皮が剥がされていく。ゆっくりと、どうしようもないくらい止まらない。
手を伸ばすと簡単に触れることができた。彼は嫌そうな顔をしている? わたしを拒絶している? そんなことはどうでもよくて、ただわたしが信一に触れている。その事実だけでてっぺんに実った果実をもぎ取ったような達成感が全身に広がった。
うっとりと、夢の中にいるみたいに。
「……わたし、本当に死のうとしてたんだよ? 今も、落下することは怖くないって思ってる。地面の上で男の人を一人捕まえるくらい、なんてことない」
「俺に触るな。そういうのは、今は違うだろ」
「今じゃなかったら、いつになったらいいの? わたし、欲しいものはずっと我慢させられたから、うんと欲張りになっちゃったんだ」
シャツの襟を掴んで、身を寄せると信一の匂いがした。煙草と汗と、潮の匂い。こんなところに住んでいるなら、まともにシャワーも浴びていないだろう。それが今の信一を構成する全てなのだとしたら、わたしはなんだって受け入れられる。逆にわたしはどうだろう。昔とは随分変わった。変えられるように頑張ったから。きっと信一の思っているわたしとはかなりかけ離れてしまっているかもしれない。
「……突き飛ばさないんだね。本気で嫌ならそうすればいいのに」
わたしから逃れるように信一はぐっと顔を逸らした。それでも目線だけはわたしの釘付けのままで、彼の大きな黒目にわたしの顔が反射しているのが見えたし、近くにいるから信一の呼吸が乱れているのが分かった。
人を哀れむ時の目だった。
何度も何度もわたしに向けられた目線。信一から向けられたのは初めてだった。わたしって、昔より可哀想な人間なんだろうか。信一の今置かれている状況の方がよほどひどく見えるのに。
「わたしって、怖い?」
「――お前、随分と母親に似てきたな」
思わず大げさなくらいに口角がつり上がった。こうすればわたしがひるむとでも思っているんだろうか。……だとしたら、信一はやっぱり甘い人だ。そういうところが好きで、愛してる、けど。
「あはは。そうかもね。そっくりかも。でも二人きりの時に、他の人の話はやめてね」
手に入るけど自分では触れてはいけない物に手を伸ばす。これに限ってはわたしはあの女とまったく同じ存在なのかもしれない。
でもわたしは、死んだってこの手を離さないから。そうすれば、手に入ったことと同じにならないかなぁ。
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