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九龍城砦
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「歌えよ~ナマエ」
「嫌だ。やりません」
一瞬ドキっとした。わたしはさっきまで、ぼーっと椅子に座って周りを眺めていた。この面子の中に混じると時々そういうことがある。
ニヤニヤ笑いながら、信一がわたしにマイクを突きつける。これで素面だというのが信じられないくらい声が大きい。そしてウザい。
「わたしは絶対に歌わないから。他の人にやらせれば?」
周囲にいる信一のご友人たちに目線を投げた。みんなそれなりにこういうことが好きそうな人たちばかりだ。――というか、このカラオケをするための機械をもって来たのは彼らだ。わたしは別に欲しいとも使いたいとも言ったことはない。ただこの場所にいて、置かれている物を使わないでいるだけでなぜかウザ絡みされている。
「歌いたくないなら、無理に……」
「いやいやいや。こいつすげえ好きなんだよ、アイドル。家にとんでもない量のレコードが……」
「あーあー、わたしの話はいいから! 自分が歌いなよ!」
洛軍たちにはあまり話す気にならない趣味のことまでバラされたし。別に隠すつもりはないんだけど、ちょっと子供っぽいかなって気にしてるのに、信一はなんでもお構いなしらしい。
「とんでもないって、どれくらい?」
「壁一面、全部それなんだよ」
「へぇ、すげ~な……」
「お、オタク乙ってバカにされてる……」
「誰もそんな事言ってないぞ」
「そうそう、アダルトビデオ集めてるやつには霞むって」
「俺のはマニア趣味じゃない」
「あーっ! 今のそれ! マニアックでニッチで日陰のキモいロリコンだって!」
「……お前、自分で墓穴掘ってるぞ」
「…………」
自分で集めているヘアヌードとかもあるような写真集を思い出してちょっと焦ってしまった。だって十代の子が水着になるような本を売っているのが悪い。日本人がロリコンなのが悪い。わたしは可愛い女の子が歌って踊っているのが好きなだけで、これも全部信一が悪い。
「へぇ~、意外」みたいな顔をしている十二少と相変わらず無表情な四仔に、わたしのせいで困った顔をしている洛軍を見ていると、ああ、全部信一のせいで変な空気になっちゃったじゃん……。と、全部彼のせいにしたくなる。というか、余計なことまで勝手にバラしたの、そっちだし。
当人はこっちを見て余裕そうな表情をしているのが余計になんか嫌だった。
「アイドルは好きなだけだし。別に歌とか……人前で歌うの好きじゃない」
視線がわたしに全部集まって、もうなんか、それだけで十分恥ずかしい。どうにかして話の流れを変えたい。
「信一が歌えばいいじゃん。女の子のアイドルの、歌、とか……。ひ、ひひっ。似合わないね、ははっ。ごめん、嘘、忘れて」
わたしのジョークにみんなちょっとだけ笑った。そうそう、これでいい。絶対に、何があっても、人前では歌わない。歌いたい人が歌おう、それでいい。
「え、俺? ……いいけど?」
「あっ、ちょ、やだ。冗談だってば!」
「何番だったっけ」とかなんとか言いながら本を開く信一を見て、わたしは慌てた。
「大丈夫、俺なんでも歌えるから。ナマエがそんなにして欲しいならしょうがないよな。ちゃんとコールも入れろよ」
「もうわたし、帰っていいかな」
前に見たなんかクネクネしながら歌っていた彼の姿がちょっと、嫌だった。別に他の歌ならいいけどわたしが信奉している女の子の歌をそんな風に使われたら、本気で、殴っちゃうかも。
「えー、せっかく信一がお前の為に歌うって言ってんだぞ! 聞いて行けよ!」
「頼んでないんですけど!」
「信一、早く選べ!」
「あーしまった。これ、読めねえわ。ナマエ、日本語でもタイトルは分かってるだろ。教えてくれよ」
「なんでわたしがそこまでしなきゃいけないの」
「お前だってさー、歌う時分からないと困るだろ。一緒に探してやるからさ」
「なんで、わたしが、やりたいみたいに、言うの?」
「怒るなって、な? 可愛い顔がもったいないから怒るなって」
「怒ってない。別に怒ってないから。面倒なだけ。わたし、本当に、怒ってない……」
あんまり感情的になっているところを人に見せるつもりはなかった。信一がいるからこんなことになっている。
「怒ってない、から……。……いや、信一はちょっとはわたしに気を遣えって感じ、だけど。別に……。洛軍、今のわたしは嘘だから。普段はこんなじゃないの。本当に。ね、四仔?」
「……ノーコメント」
わたしって必死すぎ? えっ、なんかわたしが空気読めないって感じ?
「カラオケは、無理強いする物でもないし、歌いたい時は好きな歌を歌えばいいと思う」
はい、仰る通りです。
ここら辺は家と家の間の壁が薄い。当たり前だけど、バラックだから防音なんてあってないようなものだ。わたしが夜にレコードを掛けているとよく隣の部屋のおばさんに苦情を言われる。そこまで大きな音ではないと思うんだけど、おばさんは耳が過敏だし暇だから気になって仕方がないのだろう。朝、水道のところでばったり会うと文句を言われる。当然わたしに行動を改める気はなくて、無視していた。
そうしている内にとうとうわたしの家まで乗り込んできて、ちょっとした喧嘩になった。わたしはすぐカッとなる性格だから、向こうの意地の悪い言い方にムカついて「クソババア!」とか、そういうことを言っちゃった気がする。
しばらく玄関先で揉めていたら龍兄貴と呼ばれているここのドンみたいな人が来て、怒れる女二人を仲裁してくれた。その横で仏頂面をしていた信一の顔が忘れられない。あの時、笑うのを必死に我慢していたからあんな変な顔、してたらしいけど。
信一がわたしの部屋を知っているのはそれが理由だ。開いていたドアから狭い部屋は丸見えだったから。
それだけじゃなくて信一はわたしのどうでもいい、取るに足らないことだけど恥ずかしいことをいくつか知っている。
この件に関してもすぐに噂が広まった。わたしが聞いていた曲のことは伏せられて、わたしは年上に生意気な女として砦の中で噂になったけど、別にそんなのは気にしていない。
わたしが気にしていたのはオタク部屋の方で、そっちに関して信一に弱味を握られていると感じる。外面とか、わたしは結構気になるタイプ。ここには小さな時からいるから今更だとは思うけれど、新入りに舐められるのは嫌だったし。
「お前、そういうのになりたい?」
「そういうの、って」
「ほら、山口百恵みたいな……」
「……どう言ってもネタにしてくるでしょ」
「……昔から好きだったろ。道のとこでコンサートしてた」
「忘れてよ! 人の恥ずかしい過去なんですけど!」
近所のおばあちゃん相手に歌手ごっこみたいな……そんなことをしていたのを思い出してしまった。
「七歳くらいだったかな」
「あ、ああ、ああ……鬼だ……」
まさか信一に見られていたなんて。……まあ、ここではプライバシーなんてあってないようなものだけど、それでも、ちょっと酷い話だ。
テレビで見た歌謡番組の、女の人の真似っこをしていただけだ。女の子がよくやるごっこ遊びの延長で、そんなに真剣なものじゃない。……まあ、あの時は本気だった、けど。みんなかわいいって褒めてくれたし、テレビにも出れるよって、そんなお世辞も。
「俺はさ、結構好きだったよ。なんか様になってた」
「い、言わなくていい。ほんとに、辞めて」
「あーいう系は似合わないと思うけど、こういう感じなら、まあ、いいかな」
信一が指さした先にあったのはわたしが必死になって手に入れたポスターだった。一枚目はちょっと、ボディコンっていうかセクシーなやつ。二枚目はなんだろう、清楚な感じのやつ。わたしはどっちも好き。だけどこういう風な衣装とかはもっと可愛い女の子に着てほしいなって思う。わたしじゃなくてね。
「えっ、プロデューサー?」
「お前を売り出す? やってみようか?」
「うーん、わたしよりもあんたの方がアイドルとか向いてると思うよ……」
「お、そう思う? 俺って色男だもんなぁ」
「自分で言うな~っ!」
香港出身、十七歳ですっ(嘘)。
とか、ちょっと一瞬考えてしまった。――ちょっと、よさげかもしれない。歌は……まあ、そんなに求められないから大丈夫。ダンスは運動が得意だからできそうだし、顔は言わずもがな……。
「お前なんか、今すげえ失礼なこと考えただろ」
「ううん、全然。信一の方が向いてそう、そういうの」
「俺はアイドルっていうか……兄貴のお気に入りで十分だな」
「…………」
あー、はじまった。兄貴! みたいなやつ。
これが始まったが最後、わたしにはよく分からない世界なので黙って聞くしかない。
わたしが黙っていると彼ははっとしたように口を閉じた。別に、嫌じゃないけど。自分ばっかりしゃべり通しになるとわたしが苛立つとでも思っているんだろうか。変なところで気にしいなくせに、普段から繊細なところを出してくれないんだろう。
こんな狭っ苦しい部屋に二人、ラジオからは何を喋っているのかよくわからない日本人がしゃべくっている声だけがやけに響いている。
「信一、別にいいんだよ。龍さんのこと話しても」
「……いや、いい」
わたしのコレクションに気を遣ってか煙草に火をつけようとしない信一は、いつもに比べて手が寂しいみたいだ。あっちやこっちやに手を動かして、結局ポケットの中につっこんだ。
「なんかさ、この部屋疲れるな。目線が多すぎて……」
「アイドルの子はさ、もっと見られてるんだよ。武道館なんてもうとんでもないんだから」
「俺、やっぱりこういうの向いてねぇや。……お前は、ガキん時から堂々としてたけど」
「ねぇその話やめない? 本当に恥ずかしいんだけど」
「でも俺の中のお前って、その時の感じが強いんだよな」
あーヤバい。どれだけ見られていたんだろう。信一は頭を抱えるわたしを見て、茶化すとか楽しんでいる様子もなく、ただぼーっとしている。それがなんだか気味悪くて、それなら普段みたいに笑い飛ばして弄って貰った方がマシだと思えた。
「……あのさ、眠い?」
「いや、別に。…………なんか、お前がほんとにそういうのになったらさ、俺、嫌かも」
「は、はぁ……?」
「あ、いや、なんか……悪い。こっちも変なこと言った」
「ちょっと理解できなかったから解説してよ」
「はぁ!? なんでこんな恥ずかしいこと……あっ」
「おぉ……なんかやらしいこと考えた?」
「やらしくない。断じてそういうのじゃ……」
この話題、深掘りしても何にもならない気がする。目線をうろちょろさせている信一はまあまあ面白いけれど、多分それは返しの刃でわたしも刺しかねないからちょっと……駄目かも。とかここまで考えて、ああ、と天啓を得た。
「大丈夫。ならないから、そういうの」
「あっ? そういうのじゃねえよ!」
「あんなキラキラしてる風になれるの、本当に一握りだから。こんなスラム街から一流のスターになるより……宝くじ当てる方がまだ可能性があるからね。憧れっていうか、そういうのももう卒業したから」
信一って案外ロマンチストなんだなぁ。なんだか子供の時のイノセントな感覚を持ったまま大人になったって感じ。
こうやって青写真の中で笑顔を振りまいている女の子たちは、わたしがこうやって雨ざらしみたいな部屋で寝っ転がっている間に、大人に用意された階段を一歩ずつ歩いているのだ。
そもそもこんな場所にスカウトなんていない。ここは原宿ではない。オーディションなんてものには行けやしない。行くための服に靴に何もかもがない。
「なったところで、どうすんのって感じ……。行く当ても何もかもなくなって、破れかぶれになった夢見がち女の行き着くところ……みたいなさ。汚い酒場の貧相なステージで歌ってるのが精々関の山って未来が見えるよぉ。お先真っ暗だ……」
陰気な言葉をかき消すように、ラジオから今週発売のシングルが流れ出す。日本のヒットチャート。こんなジャンク同然のラジオからだと酷い音質でまともに聞けたものじゃない。
「夢見るのは自由だけど、ね」
「一人で長話する、おたく……」
「誰のご厚意で上げてやってると思ってんの?」
せっかくわたしの恥ずかしい語りでこいつの恥を上塗りしてあげようと思ったのに、やっぱり信一はわたし相手だと気が利かない。
「いやでも、普通だろ。綺麗なカッコしてちやほやされてぇとか、女にとって普遍的な願望じゃないのか?」
「ん……。それは否定できないな」
言われてみれば、確かに資本主義に植え付けられた女のお姫様願望みたいなアレソレと近しいものがある。アイドルはそんな価値観の固定化に拍車を掛ける要因になっているかもしれない。
結婚したら引退するのとか、あんまり考えないようにしている嫌なところ込みで。
信一は所謂そこら辺にいる平凡な女は嫌いなんだろうか。わたしは……というかここにいる女性はそういう規範からはある程度解き放たれているような気はする。少なくともここは、自活しないことには食いっぱぐれてしまう世界だ。
「俺はお前の歌、結構……いや、かなり好きだから。前も言ったけど。……お前がいるならこの世の終わりみたいなしみったれた店でも、武道館でも見に行ってやるよ」
「だから、人前では歌わないって。カラオケもしないからね。恥ずかしいし。っていうか、歌うのってそんなに楽しい?」
わたしは本当に、あんな黒歴史の歌手ごっこをしていた時期を過ぎてから今に至るまで、人前では一切歌ったことがない。たまーに口ずさむことはあってもそれは家の中で、誰にも聞こえないような小さな声でだけだ。
信一が言っているのはわたしが子供特有のキンキンした声を張り上げていた時分のことなんだろう。そんな昔の話で好きって言われても、それは美化された記憶で今のわたしとは違う、と思う。
「楽しい。たぶんお前と一緒だったら、もっと楽しい……」
「まあ……そっか」
信一は結構群れるのが好きだったなぁ。わたしはどちらかというと一人でいる時間の方が大事なタイプ。今日だって暇を持て余しているから家に遊びに来させてあげただけ。普段だったらここには人なんて尋ねてこない。
「じゃあ他の人とデュエットでもしたら?」
「そういうことじゃないんだよな……」
「……ふーん」
わたしが思いつくようなことはとっくに全部済ませてしまったんだろうな。あまり反応の芳しくない信一を横目に、わたしは聞いてもいまいち理解できない日本語の歌詞に耳をすませる。
「信一、これ、いい曲だよ」
「……そうだな」
「あ、そういうとこは気が合うね。わたしたち」
「ここの歌詞とか、なんかいいこと言ってる……気がする」
「気がするだけだね」
わたしたち、どっちも日本語わかんないじゃん。
「下手くそ! 殺すぞ!」
「マイクじゃなくてオレのをしゃぶってくれよ~」
最悪だ。死ね、クソッタレ。
灰皿が飛び交うのなんて当たり前。世界中どこを探したってこんなゴミの最終処分場みたいな場所はないだろう。
歌っているのはわたしじゃない。歌手になりたくて香港まで上京してきた女の子だ。彼女は客の下品な叫び声を無視して、マイクにかじりつくように歌っている。仏像を彫る職人のような目付きに、ああ、この人はきっと大成するんだろうな。とか、なんとなく考えてしまう。
「店長止めなくていいんですか」
「いつものことだろうが」
「……」
安酒とショーが売りであるはずのこの店で、わたしは働いていた。砦がしっちゃかめっちゃかになって、あんな所にはもういれないと思って外に出てきたけど、外の世界もどこもかしこもカオスなのは変わらなかった。寧ろ、向こうの方がここよりは秩序立っていたかもしれない。
こんな場所だから、誰かを雇ってもすぐに辞めていく。わたしみたいな後ろ盾のない人間しかいないせいで、店の治安は余計に悪くなる一方だ。
突如として、鈍器が当たった音がした。
あ、と思ってステージの方を見ると歌っていた彼女の頭にグラスが当たってしまったようだった。わたしは咄嗟に駆け寄る。こんな場末の酒屋だけど……普段から止めていないわたしも悪いけど、実際に怪我をしたとなるともう駄目だ。
「大丈夫!?」
「……すみません」
「もう今日は上がりでいいからね。店長! わたしも休憩入りますからね!」
「いや、手当くらい自分でやらせろ」
「はぁ? なにを言ってるんですか?」
「ステージが空きになるだろうが」
こ、こいつ~! わたしは思わず唸った。滅茶苦茶だ、この店。まだ反社がシノギでやっている店の方が秩序立っている。
「ナマエ、お前が歌え」
「嫌ですよ。歌えませんよ」
「じゃあ脱ぐか? お前が渋ったらこの女もクビにするぞ」
もう本当に我慢の限界。
「こんなとこ、もう、やめてやる! 辞めてやるからっ!」
「……邪魔だった?」
わたしがヤケクソになっている最中でふと、声がした。釘付けになっていた視線が急に、入り口の方に集まる。やけに通る声だった。その先にいた男の顔を見て、わたしは「あっ!」と叫んだ。
「信一っ!」
「美人の歌手がいるって聞いたんだが、お前だったか」
「ち、違う。わたしじゃなくって……。それにわたし、もう今日でここ辞めるし……」
「えっ、そうだったのか……。大胆だなぁ、お前も」
久しぶりに会った知り合いは、前とは随分様子が変わっていた。それでもすぐに信一だとわかったのはなんでなんだろう。脳に直接信号を送り込まれたみたいに、様変わりしてしまった信一を眺める。
「んじゃあ、俺と上がるか」
「そうしよ……っかなぁ……。――うん、そうする!」
わたしはネクタイをポイっと放り投げると、ステージに向かって歩み寄ってくる信一の手を取った。
「というわけで、給料は口座に入れておいてください」
店から抜けて通りまでわたしたちは走った。こんな全力で走ったのは久しぶりで、子供の時に戻ったみたいだ。
無職になったけど、全然問題なし。むしろ気分は晴れやかだった。ネオンがギラギラしている道を、人をかき分けて全力で駆けていると、光を後ろに通り過ぎて真っ直ぐな線になる。信一の手を握るとぎゅっと握り替えされる。見た目がおっさんぽくなった癖に、仕草はガキの時のまんま。わたしはどうだろう。大人の女って感じになれたかな。なれてないかな。なってない方がいいかもしれない。
「あ~! 生きてるって感じ!」
キャアキャア声を上げて、本当に小学生に戻ったみたいだ。足が痛くなるまで走って、たどり着いた先の公園のベンチに腰を下ろす。
「はあっ……。本当に、久しぶり、かも。そんなに経ってないはずなのに、何年も一人だった気分」
「……俺も、おんなじ気持ち」
砦にいた時の好青年風な容貌から、随分とまあ様変わりしたものだ。ちょっとくたびれて野生っぽくなったっていうか、顔付きが以前とは少し違う。それでも笑い方は前のまんまだ。
「あのさ、今は外で暮らしてるんだろ」
「うん。一回すごい乱闘になったときにさ、もう出て行ってやるって思って……。前から外に行きたいなって思ってたし。引っ越した。でも……ははっ、無職になっちゃったよ」
「なんか……すごい場面を引き当てたみたいだな、俺」
「すごいラッキー? だね」
「うん、ナマエと会えたから。すげぇツイてる」
風の噂で、わたしがいない間に色々あったのは知っていた。それに修羅場をくぐり抜けたって感じを見れば、嫌でも何かあったんだなと察してしまう。いいことも悪いことも両方。わたしはもうあそこの住民ではないし、向こうから言われない限り聞くそれについてわたしから権利はない。
普段なら夜の公園なんて気味が悪いし発展場とかもあるし不気味なので近寄らないけど、信一が隣にいてくれるとなんだか何があっても大丈夫な気がする。この男は喧嘩だけは誰よりも上手だから。
「なんであんな……汚い店に用があったの? 酒もぼったくりだし、ステージなんて言ってもあんなの、あってないような……クソみたいなとこだよ」
「前に言ってただろ。自分の行き着く先は場末の酒屋か何かだって。ずっとテレビとか、雑誌も見てたんだけど、出てこないから。日本にでも行ったのかって思ったけど、お前は海外とか、行くような性格じゃないって思って。……で、一件一件歌が聴ける店を探した」
「わたし、アイドルになるつもりなんてないって、言ったのに。バカみたい。そんなに必死で探して、見つからなかったら大損じゃん」
「人の性癖ってのは変えられねえからな」
本当に変なことをバカ正直にやる人だ。でもわたしのことを信一は見つけることができたんだから、このやり方は間違っていなかった。結局勝ったのは向こうだ。全部彼の読み通りに動いてたみたいで、悔しいなぁ。
「デッカい舞台の上で、セーラー服を着たお前を見つけたとかだったらさ、洒落にならねえよな。俺、お前の親衛隊とかにリンチされる。絶対」
「信一だったら返り討ちにできるでしょ」
今更そんなことするような年齢でもないし、アイドルを目指すにはちょっとわたしは遅すぎる。美人じゃないし歌も下手だし、鈍くさいし……。嘘みたいな夢物語を語り出す信一って、本当に世界一バカだ。そういう中毒者の見てる夢みたい。
「なぁにバカみたいなこと言ってんだろうね、信一は」
「でもさ、一山当てたらデカいぜ」
「それはそうだね。でも実際のところ、事務所がほとんど持って行きそうだなぁ」
「こえぇ~。芸能界ってとんでもないな」
「黒社会の人が言う台詞? 宝くじでも買おうかな。お金欲しい! 大きい家に住みたい!」
わたしは思わず立ち上がって叫んだ。信一が横で笑ってる。今の夢っていうか、普通に目標。
「俺、カラオケ屋をやりたいって思ってたんだけどさ……」
「えっ何? 雇ってくれる? 今ノージョブなんだよね」
わたしがぐっと身を乗り出すと、急に信一はうつむいた。え、何……と思っていると、彼の口から絞り出すような声が出てきた。
「――俺って全部、兄貴ありきだったんだよな」
「……そうだね」
ああ、と納得してしまった。信一がこんなになったのも、風の噂で聞いていたことも、何もかも。
急に湿っぽくなったのって、多分わたしは悪くないんだけど、さすがに可哀想――っていうか、悲しんで当然だ。わたしもあの人にはお世話になっていたし、う、わ……なんか、わたしも泣いちゃいそう……なんだけど。
うなだれて濡れた子犬みたいになっている信一が見ていられなかった。わたしはそっと彼の肩を抱き寄せた。
「ナマエ……っ」
「うん、うん……」
酔っ払った時ウザ絡みしてくるくせに、こういう時に硬くなるのがこの男の可愛いところだ。これだと信一の方がメロドラのヒロインみたい。
信一は綺麗な人だから、こっちも触れるのを躊躇ってしまう。だからわたしは今の今までちゃんと彼のことを見ていなかったのかも、しれない。幻みたいな人だから、目を離したら蜃気楼のようにそっといなくなってしまうんじゃないかと思って。
「信一はわたしのこと、ちゃんと見つけてくれたじゃん」
なんだか今日は夢の中のできごとみたいで、全部嘘でしたって言われてもすっと納得できてしまいそう。でも、嫌だな……。二度と会えないって思っていた人にせっかく会えたのに取り上げられるなんて。
今、ここにはわたしたちの関係を邪魔する人もいない。昔のままなら、信一もわたしの前で泣くことなんてなかったはずだ。
でも泣いてるままなのも、嫌だな。信一にそういう顔はあまり似合わない。必死になってわたしのことを探してくれたんだから、こっちだって何か返してあげたいって、それくらいは考える。
「……せっかく会えたんだし、カラオケでも行こうよ」
朝まで飲んで、ぱーっと歌って、それで全部チャラになるわけじゃない。けど……。
「わたし、歌いたい曲があるんだよね。レコードも全部売っちゃったから、歌詞もうろ覚えだけど。ねえ、今から行かない?」
このまま眠ったら今までのこと全部が嘘になってしまいそう。そしてわたしは二度と彼に会えないで、湿ったらしく影を追うことになるかもしれない。歌謡曲の歌詞みたいな人生なんて嫌だ。
「……いく。行くに決まってるだろ」
「点数低かった方が奢りだからね?」
夜でも五月蠅い方の道に向かって、わたしたちは一歩進んだ。
「嫌だ。やりません」
一瞬ドキっとした。わたしはさっきまで、ぼーっと椅子に座って周りを眺めていた。この面子の中に混じると時々そういうことがある。
ニヤニヤ笑いながら、信一がわたしにマイクを突きつける。これで素面だというのが信じられないくらい声が大きい。そしてウザい。
「わたしは絶対に歌わないから。他の人にやらせれば?」
周囲にいる信一のご友人たちに目線を投げた。みんなそれなりにこういうことが好きそうな人たちばかりだ。――というか、このカラオケをするための機械をもって来たのは彼らだ。わたしは別に欲しいとも使いたいとも言ったことはない。ただこの場所にいて、置かれている物を使わないでいるだけでなぜかウザ絡みされている。
「歌いたくないなら、無理に……」
「いやいやいや。こいつすげえ好きなんだよ、アイドル。家にとんでもない量のレコードが……」
「あーあー、わたしの話はいいから! 自分が歌いなよ!」
洛軍たちにはあまり話す気にならない趣味のことまでバラされたし。別に隠すつもりはないんだけど、ちょっと子供っぽいかなって気にしてるのに、信一はなんでもお構いなしらしい。
「とんでもないって、どれくらい?」
「壁一面、全部それなんだよ」
「へぇ、すげ~な……」
「お、オタク乙ってバカにされてる……」
「誰もそんな事言ってないぞ」
「そうそう、アダルトビデオ集めてるやつには霞むって」
「俺のはマニア趣味じゃない」
「あーっ! 今のそれ! マニアックでニッチで日陰のキモいロリコンだって!」
「……お前、自分で墓穴掘ってるぞ」
「…………」
自分で集めているヘアヌードとかもあるような写真集を思い出してちょっと焦ってしまった。だって十代の子が水着になるような本を売っているのが悪い。日本人がロリコンなのが悪い。わたしは可愛い女の子が歌って踊っているのが好きなだけで、これも全部信一が悪い。
「へぇ~、意外」みたいな顔をしている十二少と相変わらず無表情な四仔に、わたしのせいで困った顔をしている洛軍を見ていると、ああ、全部信一のせいで変な空気になっちゃったじゃん……。と、全部彼のせいにしたくなる。というか、余計なことまで勝手にバラしたの、そっちだし。
当人はこっちを見て余裕そうな表情をしているのが余計になんか嫌だった。
「アイドルは好きなだけだし。別に歌とか……人前で歌うの好きじゃない」
視線がわたしに全部集まって、もうなんか、それだけで十分恥ずかしい。どうにかして話の流れを変えたい。
「信一が歌えばいいじゃん。女の子のアイドルの、歌、とか……。ひ、ひひっ。似合わないね、ははっ。ごめん、嘘、忘れて」
わたしのジョークにみんなちょっとだけ笑った。そうそう、これでいい。絶対に、何があっても、人前では歌わない。歌いたい人が歌おう、それでいい。
「え、俺? ……いいけど?」
「あっ、ちょ、やだ。冗談だってば!」
「何番だったっけ」とかなんとか言いながら本を開く信一を見て、わたしは慌てた。
「大丈夫、俺なんでも歌えるから。ナマエがそんなにして欲しいならしょうがないよな。ちゃんとコールも入れろよ」
「もうわたし、帰っていいかな」
前に見たなんかクネクネしながら歌っていた彼の姿がちょっと、嫌だった。別に他の歌ならいいけどわたしが信奉している女の子の歌をそんな風に使われたら、本気で、殴っちゃうかも。
「えー、せっかく信一がお前の為に歌うって言ってんだぞ! 聞いて行けよ!」
「頼んでないんですけど!」
「信一、早く選べ!」
「あーしまった。これ、読めねえわ。ナマエ、日本語でもタイトルは分かってるだろ。教えてくれよ」
「なんでわたしがそこまでしなきゃいけないの」
「お前だってさー、歌う時分からないと困るだろ。一緒に探してやるからさ」
「なんで、わたしが、やりたいみたいに、言うの?」
「怒るなって、な? 可愛い顔がもったいないから怒るなって」
「怒ってない。別に怒ってないから。面倒なだけ。わたし、本当に、怒ってない……」
あんまり感情的になっているところを人に見せるつもりはなかった。信一がいるからこんなことになっている。
「怒ってない、から……。……いや、信一はちょっとはわたしに気を遣えって感じ、だけど。別に……。洛軍、今のわたしは嘘だから。普段はこんなじゃないの。本当に。ね、四仔?」
「……ノーコメント」
わたしって必死すぎ? えっ、なんかわたしが空気読めないって感じ?
「カラオケは、無理強いする物でもないし、歌いたい時は好きな歌を歌えばいいと思う」
はい、仰る通りです。
ここら辺は家と家の間の壁が薄い。当たり前だけど、バラックだから防音なんてあってないようなものだ。わたしが夜にレコードを掛けているとよく隣の部屋のおばさんに苦情を言われる。そこまで大きな音ではないと思うんだけど、おばさんは耳が過敏だし暇だから気になって仕方がないのだろう。朝、水道のところでばったり会うと文句を言われる。当然わたしに行動を改める気はなくて、無視していた。
そうしている内にとうとうわたしの家まで乗り込んできて、ちょっとした喧嘩になった。わたしはすぐカッとなる性格だから、向こうの意地の悪い言い方にムカついて「クソババア!」とか、そういうことを言っちゃった気がする。
しばらく玄関先で揉めていたら龍兄貴と呼ばれているここのドンみたいな人が来て、怒れる女二人を仲裁してくれた。その横で仏頂面をしていた信一の顔が忘れられない。あの時、笑うのを必死に我慢していたからあんな変な顔、してたらしいけど。
信一がわたしの部屋を知っているのはそれが理由だ。開いていたドアから狭い部屋は丸見えだったから。
それだけじゃなくて信一はわたしのどうでもいい、取るに足らないことだけど恥ずかしいことをいくつか知っている。
この件に関してもすぐに噂が広まった。わたしが聞いていた曲のことは伏せられて、わたしは年上に生意気な女として砦の中で噂になったけど、別にそんなのは気にしていない。
わたしが気にしていたのはオタク部屋の方で、そっちに関して信一に弱味を握られていると感じる。外面とか、わたしは結構気になるタイプ。ここには小さな時からいるから今更だとは思うけれど、新入りに舐められるのは嫌だったし。
「お前、そういうのになりたい?」
「そういうの、って」
「ほら、山口百恵みたいな……」
「……どう言ってもネタにしてくるでしょ」
「……昔から好きだったろ。道のとこでコンサートしてた」
「忘れてよ! 人の恥ずかしい過去なんですけど!」
近所のおばあちゃん相手に歌手ごっこみたいな……そんなことをしていたのを思い出してしまった。
「七歳くらいだったかな」
「あ、ああ、ああ……鬼だ……」
まさか信一に見られていたなんて。……まあ、ここではプライバシーなんてあってないようなものだけど、それでも、ちょっと酷い話だ。
テレビで見た歌謡番組の、女の人の真似っこをしていただけだ。女の子がよくやるごっこ遊びの延長で、そんなに真剣なものじゃない。……まあ、あの時は本気だった、けど。みんなかわいいって褒めてくれたし、テレビにも出れるよって、そんなお世辞も。
「俺はさ、結構好きだったよ。なんか様になってた」
「い、言わなくていい。ほんとに、辞めて」
「あーいう系は似合わないと思うけど、こういう感じなら、まあ、いいかな」
信一が指さした先にあったのはわたしが必死になって手に入れたポスターだった。一枚目はちょっと、ボディコンっていうかセクシーなやつ。二枚目はなんだろう、清楚な感じのやつ。わたしはどっちも好き。だけどこういう風な衣装とかはもっと可愛い女の子に着てほしいなって思う。わたしじゃなくてね。
「えっ、プロデューサー?」
「お前を売り出す? やってみようか?」
「うーん、わたしよりもあんたの方がアイドルとか向いてると思うよ……」
「お、そう思う? 俺って色男だもんなぁ」
「自分で言うな~っ!」
香港出身、十七歳ですっ(嘘)。
とか、ちょっと一瞬考えてしまった。――ちょっと、よさげかもしれない。歌は……まあ、そんなに求められないから大丈夫。ダンスは運動が得意だからできそうだし、顔は言わずもがな……。
「お前なんか、今すげえ失礼なこと考えただろ」
「ううん、全然。信一の方が向いてそう、そういうの」
「俺はアイドルっていうか……兄貴のお気に入りで十分だな」
「…………」
あー、はじまった。兄貴! みたいなやつ。
これが始まったが最後、わたしにはよく分からない世界なので黙って聞くしかない。
わたしが黙っていると彼ははっとしたように口を閉じた。別に、嫌じゃないけど。自分ばっかりしゃべり通しになるとわたしが苛立つとでも思っているんだろうか。変なところで気にしいなくせに、普段から繊細なところを出してくれないんだろう。
こんな狭っ苦しい部屋に二人、ラジオからは何を喋っているのかよくわからない日本人がしゃべくっている声だけがやけに響いている。
「信一、別にいいんだよ。龍さんのこと話しても」
「……いや、いい」
わたしのコレクションに気を遣ってか煙草に火をつけようとしない信一は、いつもに比べて手が寂しいみたいだ。あっちやこっちやに手を動かして、結局ポケットの中につっこんだ。
「なんかさ、この部屋疲れるな。目線が多すぎて……」
「アイドルの子はさ、もっと見られてるんだよ。武道館なんてもうとんでもないんだから」
「俺、やっぱりこういうの向いてねぇや。……お前は、ガキん時から堂々としてたけど」
「ねぇその話やめない? 本当に恥ずかしいんだけど」
「でも俺の中のお前って、その時の感じが強いんだよな」
あーヤバい。どれだけ見られていたんだろう。信一は頭を抱えるわたしを見て、茶化すとか楽しんでいる様子もなく、ただぼーっとしている。それがなんだか気味悪くて、それなら普段みたいに笑い飛ばして弄って貰った方がマシだと思えた。
「……あのさ、眠い?」
「いや、別に。…………なんか、お前がほんとにそういうのになったらさ、俺、嫌かも」
「は、はぁ……?」
「あ、いや、なんか……悪い。こっちも変なこと言った」
「ちょっと理解できなかったから解説してよ」
「はぁ!? なんでこんな恥ずかしいこと……あっ」
「おぉ……なんかやらしいこと考えた?」
「やらしくない。断じてそういうのじゃ……」
この話題、深掘りしても何にもならない気がする。目線をうろちょろさせている信一はまあまあ面白いけれど、多分それは返しの刃でわたしも刺しかねないからちょっと……駄目かも。とかここまで考えて、ああ、と天啓を得た。
「大丈夫。ならないから、そういうの」
「あっ? そういうのじゃねえよ!」
「あんなキラキラしてる風になれるの、本当に一握りだから。こんなスラム街から一流のスターになるより……宝くじ当てる方がまだ可能性があるからね。憧れっていうか、そういうのももう卒業したから」
信一って案外ロマンチストなんだなぁ。なんだか子供の時のイノセントな感覚を持ったまま大人になったって感じ。
こうやって青写真の中で笑顔を振りまいている女の子たちは、わたしがこうやって雨ざらしみたいな部屋で寝っ転がっている間に、大人に用意された階段を一歩ずつ歩いているのだ。
そもそもこんな場所にスカウトなんていない。ここは原宿ではない。オーディションなんてものには行けやしない。行くための服に靴に何もかもがない。
「なったところで、どうすんのって感じ……。行く当ても何もかもなくなって、破れかぶれになった夢見がち女の行き着くところ……みたいなさ。汚い酒場の貧相なステージで歌ってるのが精々関の山って未来が見えるよぉ。お先真っ暗だ……」
陰気な言葉をかき消すように、ラジオから今週発売のシングルが流れ出す。日本のヒットチャート。こんなジャンク同然のラジオからだと酷い音質でまともに聞けたものじゃない。
「夢見るのは自由だけど、ね」
「一人で長話する、おたく……」
「誰のご厚意で上げてやってると思ってんの?」
せっかくわたしの恥ずかしい語りでこいつの恥を上塗りしてあげようと思ったのに、やっぱり信一はわたし相手だと気が利かない。
「いやでも、普通だろ。綺麗なカッコしてちやほやされてぇとか、女にとって普遍的な願望じゃないのか?」
「ん……。それは否定できないな」
言われてみれば、確かに資本主義に植え付けられた女のお姫様願望みたいなアレソレと近しいものがある。アイドルはそんな価値観の固定化に拍車を掛ける要因になっているかもしれない。
結婚したら引退するのとか、あんまり考えないようにしている嫌なところ込みで。
信一は所謂そこら辺にいる平凡な女は嫌いなんだろうか。わたしは……というかここにいる女性はそういう規範からはある程度解き放たれているような気はする。少なくともここは、自活しないことには食いっぱぐれてしまう世界だ。
「俺はお前の歌、結構……いや、かなり好きだから。前も言ったけど。……お前がいるならこの世の終わりみたいなしみったれた店でも、武道館でも見に行ってやるよ」
「だから、人前では歌わないって。カラオケもしないからね。恥ずかしいし。っていうか、歌うのってそんなに楽しい?」
わたしは本当に、あんな黒歴史の歌手ごっこをしていた時期を過ぎてから今に至るまで、人前では一切歌ったことがない。たまーに口ずさむことはあってもそれは家の中で、誰にも聞こえないような小さな声でだけだ。
信一が言っているのはわたしが子供特有のキンキンした声を張り上げていた時分のことなんだろう。そんな昔の話で好きって言われても、それは美化された記憶で今のわたしとは違う、と思う。
「楽しい。たぶんお前と一緒だったら、もっと楽しい……」
「まあ……そっか」
信一は結構群れるのが好きだったなぁ。わたしはどちらかというと一人でいる時間の方が大事なタイプ。今日だって暇を持て余しているから家に遊びに来させてあげただけ。普段だったらここには人なんて尋ねてこない。
「じゃあ他の人とデュエットでもしたら?」
「そういうことじゃないんだよな……」
「……ふーん」
わたしが思いつくようなことはとっくに全部済ませてしまったんだろうな。あまり反応の芳しくない信一を横目に、わたしは聞いてもいまいち理解できない日本語の歌詞に耳をすませる。
「信一、これ、いい曲だよ」
「……そうだな」
「あ、そういうとこは気が合うね。わたしたち」
「ここの歌詞とか、なんかいいこと言ってる……気がする」
「気がするだけだね」
わたしたち、どっちも日本語わかんないじゃん。
「下手くそ! 殺すぞ!」
「マイクじゃなくてオレのをしゃぶってくれよ~」
最悪だ。死ね、クソッタレ。
灰皿が飛び交うのなんて当たり前。世界中どこを探したってこんなゴミの最終処分場みたいな場所はないだろう。
歌っているのはわたしじゃない。歌手になりたくて香港まで上京してきた女の子だ。彼女は客の下品な叫び声を無視して、マイクにかじりつくように歌っている。仏像を彫る職人のような目付きに、ああ、この人はきっと大成するんだろうな。とか、なんとなく考えてしまう。
「店長止めなくていいんですか」
「いつものことだろうが」
「……」
安酒とショーが売りであるはずのこの店で、わたしは働いていた。砦がしっちゃかめっちゃかになって、あんな所にはもういれないと思って外に出てきたけど、外の世界もどこもかしこもカオスなのは変わらなかった。寧ろ、向こうの方がここよりは秩序立っていたかもしれない。
こんな場所だから、誰かを雇ってもすぐに辞めていく。わたしみたいな後ろ盾のない人間しかいないせいで、店の治安は余計に悪くなる一方だ。
突如として、鈍器が当たった音がした。
あ、と思ってステージの方を見ると歌っていた彼女の頭にグラスが当たってしまったようだった。わたしは咄嗟に駆け寄る。こんな場末の酒屋だけど……普段から止めていないわたしも悪いけど、実際に怪我をしたとなるともう駄目だ。
「大丈夫!?」
「……すみません」
「もう今日は上がりでいいからね。店長! わたしも休憩入りますからね!」
「いや、手当くらい自分でやらせろ」
「はぁ? なにを言ってるんですか?」
「ステージが空きになるだろうが」
こ、こいつ~! わたしは思わず唸った。滅茶苦茶だ、この店。まだ反社がシノギでやっている店の方が秩序立っている。
「ナマエ、お前が歌え」
「嫌ですよ。歌えませんよ」
「じゃあ脱ぐか? お前が渋ったらこの女もクビにするぞ」
もう本当に我慢の限界。
「こんなとこ、もう、やめてやる! 辞めてやるからっ!」
「……邪魔だった?」
わたしがヤケクソになっている最中でふと、声がした。釘付けになっていた視線が急に、入り口の方に集まる。やけに通る声だった。その先にいた男の顔を見て、わたしは「あっ!」と叫んだ。
「信一っ!」
「美人の歌手がいるって聞いたんだが、お前だったか」
「ち、違う。わたしじゃなくって……。それにわたし、もう今日でここ辞めるし……」
「えっ、そうだったのか……。大胆だなぁ、お前も」
久しぶりに会った知り合いは、前とは随分様子が変わっていた。それでもすぐに信一だとわかったのはなんでなんだろう。脳に直接信号を送り込まれたみたいに、様変わりしてしまった信一を眺める。
「んじゃあ、俺と上がるか」
「そうしよ……っかなぁ……。――うん、そうする!」
わたしはネクタイをポイっと放り投げると、ステージに向かって歩み寄ってくる信一の手を取った。
「というわけで、給料は口座に入れておいてください」
店から抜けて通りまでわたしたちは走った。こんな全力で走ったのは久しぶりで、子供の時に戻ったみたいだ。
無職になったけど、全然問題なし。むしろ気分は晴れやかだった。ネオンがギラギラしている道を、人をかき分けて全力で駆けていると、光を後ろに通り過ぎて真っ直ぐな線になる。信一の手を握るとぎゅっと握り替えされる。見た目がおっさんぽくなった癖に、仕草はガキの時のまんま。わたしはどうだろう。大人の女って感じになれたかな。なれてないかな。なってない方がいいかもしれない。
「あ~! 生きてるって感じ!」
キャアキャア声を上げて、本当に小学生に戻ったみたいだ。足が痛くなるまで走って、たどり着いた先の公園のベンチに腰を下ろす。
「はあっ……。本当に、久しぶり、かも。そんなに経ってないはずなのに、何年も一人だった気分」
「……俺も、おんなじ気持ち」
砦にいた時の好青年風な容貌から、随分とまあ様変わりしたものだ。ちょっとくたびれて野生っぽくなったっていうか、顔付きが以前とは少し違う。それでも笑い方は前のまんまだ。
「あのさ、今は外で暮らしてるんだろ」
「うん。一回すごい乱闘になったときにさ、もう出て行ってやるって思って……。前から外に行きたいなって思ってたし。引っ越した。でも……ははっ、無職になっちゃったよ」
「なんか……すごい場面を引き当てたみたいだな、俺」
「すごいラッキー? だね」
「うん、ナマエと会えたから。すげぇツイてる」
風の噂で、わたしがいない間に色々あったのは知っていた。それに修羅場をくぐり抜けたって感じを見れば、嫌でも何かあったんだなと察してしまう。いいことも悪いことも両方。わたしはもうあそこの住民ではないし、向こうから言われない限り聞くそれについてわたしから権利はない。
普段なら夜の公園なんて気味が悪いし発展場とかもあるし不気味なので近寄らないけど、信一が隣にいてくれるとなんだか何があっても大丈夫な気がする。この男は喧嘩だけは誰よりも上手だから。
「なんであんな……汚い店に用があったの? 酒もぼったくりだし、ステージなんて言ってもあんなの、あってないような……クソみたいなとこだよ」
「前に言ってただろ。自分の行き着く先は場末の酒屋か何かだって。ずっとテレビとか、雑誌も見てたんだけど、出てこないから。日本にでも行ったのかって思ったけど、お前は海外とか、行くような性格じゃないって思って。……で、一件一件歌が聴ける店を探した」
「わたし、アイドルになるつもりなんてないって、言ったのに。バカみたい。そんなに必死で探して、見つからなかったら大損じゃん」
「人の性癖ってのは変えられねえからな」
本当に変なことをバカ正直にやる人だ。でもわたしのことを信一は見つけることができたんだから、このやり方は間違っていなかった。結局勝ったのは向こうだ。全部彼の読み通りに動いてたみたいで、悔しいなぁ。
「デッカい舞台の上で、セーラー服を着たお前を見つけたとかだったらさ、洒落にならねえよな。俺、お前の親衛隊とかにリンチされる。絶対」
「信一だったら返り討ちにできるでしょ」
今更そんなことするような年齢でもないし、アイドルを目指すにはちょっとわたしは遅すぎる。美人じゃないし歌も下手だし、鈍くさいし……。嘘みたいな夢物語を語り出す信一って、本当に世界一バカだ。そういう中毒者の見てる夢みたい。
「なぁにバカみたいなこと言ってんだろうね、信一は」
「でもさ、一山当てたらデカいぜ」
「それはそうだね。でも実際のところ、事務所がほとんど持って行きそうだなぁ」
「こえぇ~。芸能界ってとんでもないな」
「黒社会の人が言う台詞? 宝くじでも買おうかな。お金欲しい! 大きい家に住みたい!」
わたしは思わず立ち上がって叫んだ。信一が横で笑ってる。今の夢っていうか、普通に目標。
「俺、カラオケ屋をやりたいって思ってたんだけどさ……」
「えっ何? 雇ってくれる? 今ノージョブなんだよね」
わたしがぐっと身を乗り出すと、急に信一はうつむいた。え、何……と思っていると、彼の口から絞り出すような声が出てきた。
「――俺って全部、兄貴ありきだったんだよな」
「……そうだね」
ああ、と納得してしまった。信一がこんなになったのも、風の噂で聞いていたことも、何もかも。
急に湿っぽくなったのって、多分わたしは悪くないんだけど、さすがに可哀想――っていうか、悲しんで当然だ。わたしもあの人にはお世話になっていたし、う、わ……なんか、わたしも泣いちゃいそう……なんだけど。
うなだれて濡れた子犬みたいになっている信一が見ていられなかった。わたしはそっと彼の肩を抱き寄せた。
「ナマエ……っ」
「うん、うん……」
酔っ払った時ウザ絡みしてくるくせに、こういう時に硬くなるのがこの男の可愛いところだ。これだと信一の方がメロドラのヒロインみたい。
信一は綺麗な人だから、こっちも触れるのを躊躇ってしまう。だからわたしは今の今までちゃんと彼のことを見ていなかったのかも、しれない。幻みたいな人だから、目を離したら蜃気楼のようにそっといなくなってしまうんじゃないかと思って。
「信一はわたしのこと、ちゃんと見つけてくれたじゃん」
なんだか今日は夢の中のできごとみたいで、全部嘘でしたって言われてもすっと納得できてしまいそう。でも、嫌だな……。二度と会えないって思っていた人にせっかく会えたのに取り上げられるなんて。
今、ここにはわたしたちの関係を邪魔する人もいない。昔のままなら、信一もわたしの前で泣くことなんてなかったはずだ。
でも泣いてるままなのも、嫌だな。信一にそういう顔はあまり似合わない。必死になってわたしのことを探してくれたんだから、こっちだって何か返してあげたいって、それくらいは考える。
「……せっかく会えたんだし、カラオケでも行こうよ」
朝まで飲んで、ぱーっと歌って、それで全部チャラになるわけじゃない。けど……。
「わたし、歌いたい曲があるんだよね。レコードも全部売っちゃったから、歌詞もうろ覚えだけど。ねえ、今から行かない?」
このまま眠ったら今までのこと全部が嘘になってしまいそう。そしてわたしは二度と彼に会えないで、湿ったらしく影を追うことになるかもしれない。歌謡曲の歌詞みたいな人生なんて嫌だ。
「……いく。行くに決まってるだろ」
「点数低かった方が奢りだからね?」
夜でも五月蠅い方の道に向かって、わたしたちは一歩進んだ。