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九龍城砦
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「いつまでそんな場所にいるつもりだ?」
「信一が来なければ、ずっと」
膨らんだ毛布の中から声がした。女の声で、その声に信一は安堵した。とりあえず、死んではいない。
開きっぱなしの窓から中に入ると、強引に丸まった布団を剥がしにかかった。机の上に置かれた花瓶や小さな置物がガタガタと揺れる。ナマエは「ぎゃあ!」と叫んだ。
「ちょっと邪魔しないでよ」
「はぁ? 飲まず食わずでやることじゃないだろ……。健康なんだからちゃんと、働けっ」
「乱暴される! 助けて!」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ!」
ナマエは必死になって抵抗した。普段は風に吹かれたら飛んで行きそうなくらいフラフラしているのに、こういう時だけバカ力だ。
「破れる!」
「じゃあ大人しく出てこい」
「…………」
「最近冷えるだろ? 困るよなぁ……。ご自慢の本物の羽毛布団をボロボロにされたら。俺の手にかかればこんな物、三秒で――」
「……クソ野郎」
「おぉ、お出ましだな」
彼女は怒った猫のようだった。全身の毛を逆立てて威嚇する野良猫。信一からすれば怖くもなんともなかったが、この女は一度怒るとしばらく引きずるタイプなので対応が面倒くさい。ナマエが信一をじっと睨みつける目付きは鋭く、相当頭にきている、といった様子を隠すことはなかった。
「龍兄貴も心配してたぞ。顔くらい見せに行け。……そんで、ちゃんと飯も食え」
「はぁ……。人のこと、瘋癲みたいに言ってくれて失礼な奴」
「あと、風呂にも入れ」
「……どうしよう。これに関しては反論の余地がない。信一が正しい。ああ、どうしよう……」
「……お前、俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「なんか……民生委員的なやつでしょ。それで……ここのドンパチ担当。あとはアレ、珍走団。一人でやってるけど」
「あのなぁ!」
信一は指折り数えながら自分への雑言を並べ立てるナマエに肩を落とした。
彼女の無遠慮な物言いは常のことだったので怒るという次元はとっくに通り越していたが、それでも嬉々として口を回すナマエを見ていると、本当にどうして今までこの女が誰にも刺されることなく生きてきたのか不思議に思えて仕方がない。
同時に、それはそれでいいことだと思った。
信一の普段の行動を茶化すということは、それだけナマエが信一を見ているということの裏返しでもある。これに関して嘘をつくことはできない。ナマエの交友関係が狭窄であることを差し引いても、彼女の中で自分が大きな存在を占めているのだという実感があるから、怒るに怒れなかった。
「…………」
薄っぺらい布団の上でナマエは調子に乗ってケタケタと笑い出した。子供じみた大きな声だ。ナマエはいつもそうやって笑う。それを見ると、ムカつくけれど少しほっとする。
「……お前さ、結構俺のこと詳しいんだな」
「なんか、ずっと近くにいるし」
「……それで?」
「わたしが一人でいたい時も……ご飯誘ってくるし。今日だって、邪魔してきたし……」
「それはお前が土竜みたいになってるのが悪い」
「いーじゃん別にさぁ! そのくらい見逃してよ」
「駄目」
「……ケチ」
ナマエは布団に寝転がった。黒い髪が白い布団にインクのように広がった。オレンジ色の照明が彼女の手足を照らしている。蠅が蛍光灯に群がって、チラチラと音を立てた。
部屋は鬱屈とした空気で満ちている。外はまだ活気づいているが、この部屋だけ酸素が循環していないどん詰まりのようだった。
こんなところにナマエは一人で、一週間外にも出ずに過ごしている。
自分だったら考えられないことだと信一は思った。何がどうしてそんなことになっているのか、外に連れ出す前に理由を聞きたいと思った。
「ふて寝すんな」
「嫌なものは、嫌」
「ガキ」
「ガキじゃない」
「そういうやつが」
「ねぇこの不毛なやりとりが一番ガキっぽいよ」
「――ん、まあ、そうだな。……というか、そもそもなんでこんなになってる?」
「信一も見る?」
「何」
「これ」
ナマエの手から一冊の本を手渡された。分厚いそれを慎重に開くと――「写真?」「うん」「どこでこんな……」「フツーに、買った」
どこでと聞く意味はない。信一はじっと見つめてくるナマエを横目に写真集のページをめくった。どこかヨーロッパか遠い国の、まったく知らないような光景ばかりが載っている。映画のワンショットを切り取ったらこんな風になるだろう。
綺麗だとは思う。けれどそこまでだ。
何かを想起させるような造りにはなっている。実際にいい本ではある。表紙からも高級そうな造りになっていて、素手でベタベタ触るのははばかられるような本だ。
「面白い?」
「うん」
「ずっとこれを見てたのか?」
「そうだよ」
「お前……マジか。ずっとこれだけ見てたのか……ここで!?」
「だからそうだって! ずっと見てても飽きないんだよ、これ!」
「へぇ…………?」
そんな必死になってじっと見つめているようなものではない。
断じて違う……と、信一は思った。
デジャヴだ、とも。そして彼の頭はすぐに思い出した。
「あー、思い出した。お前、好きになると同じのばっかずっと見てたな」
「うん。なんていうのかな、自分でもあんまり説明できないんだけど……。ずっと見ちゃうんだよね」
同じ映画ばかり繰り返し見る。店では同じメニューしか頼まない。そんな様子を信一は何度も見てきた。ずっと同じ遊びしかしないので周りの子供に飽きられて、それでも何かに突き動かされるように、頑なだったことも。
「見てんのはいいけど、引きこもるのは辞めろよ。……そのうち兄貴まで来るようになるぞ」
「あっ。それは、困る……」
――こいつ、龍兄貴にはめっぽう弱いな。
ナマエは以前に汚部屋と化したここに立ち入られた時のことを思い出したのか、分かりやすく顔を引きつらせた。
「どうせそのうち、これにも飽きるだろ」
「そうなってもこれはあげないからね」
「いらねえよ」
「はぁ~? これの良さがわからないんだ。やっぱり堅気じゃない人って、変……」
「変じゃないとお前みたいな変人と付き合ってられねぇよ」
「うん、だから信一は見てて飽きないよ」
「……」
信一は黙ってそのままナマエに近寄った。薄っぺらい布団に手をつくと、少し湿ってざらついているのがわかった。
「何してんの」
「何って、お喋り?」
「わざわざ近寄らなくてもいいでしょ。多分、臭うよ」
「お前がこれを見てるとこ、見てみたいんだよ。どこがそんなにいいのか、俺に教えて」
「……動物園?」
寝間着のズボンから伸びた白い素足が、緊張で動きを止めた。ナマエは様子を窺うような目で信一を見つめていた。顔こそ普段通りのしかめ面だが、四肢がむき出しになっていたのでどんな風なことを考えているか信一は手に取るようにわかった。つま先がぎゅっと丸まっている、から、ナマエは緊張している。瞬きも多い。
「俺もさ、ナマエのこと見てると飽きない」
「……そうなんだ」
「うん、だから俺たちさ……一緒だな」
「信一とわたしが同じとか、そういうの、違うし……」
唇を一文字に結んで、ナマエは顔を逸らした。視線は向こう正面の男に釘付けになっている。目線だけは逸らしたくても外すことはできなかった。
二人の目線がかち合って間に流れる空気がじんわりと重くなる。ナマエは肌がむず痒いような気がしていたが、身体が思うように動かなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに、普段は信一のことを怖いとか、どうにかされそうだと思ったことはなかった。けれど今は、彼がまるきり別人のように見える。
「今もなんか……いつもと、違う」
「変?」
「変、かも……」
「そりゃあ俺だっていつも同じってわけじゃないからな。飽きないだろ」
「いや、なんか……。これはちょっと、面白くはない」
「俺は結構好きだけどな。ナマエの家、小さいけどお前の好きな物で埋め尽くされてて……、巣みたいだな」
「さっきは面白くないって顔してたけど」
「そうだっけ」
涼しい顔をして誤魔化した。――こういうところが、信一のなんでも器用に乗り切ってしまうところが、一番腹立たしくて見ていてコンプレックスが刺激される箇所だった。鈍くさくて要領の悪い自分と信一はあまりにも違いすぎる。ナマエは胸の奥がヒリつくのを感じた。
――余裕ぶっていて、自分より優位に立ってアレコレ指図してくるところが嫌。兄貴みたいに並んできて、何かにつけてお節介なところが、特に。
後ずさりすると狭い部屋なのですぐ壁にぶつかった。
「あっ」
棚が揺れる。並んでいる石やら小さな人形が布団の上に落ちた。
「ぜ、全部信一のせいで落ちたんだけど」
「ああ、じゃあ元に戻してやるよ」
「近寄るなって! 動くの禁止!」
「まあまあ、そんなこと言わずに。せっかく人が手伝ってやるって言ってるのに」
信一が本格的に布団の上に乗っかってきたので、ナマエの身体は硬直した。彼女の横からすっと長い手が伸びてきて、落ちた小さな雑貨たちを器用に元の位置に戻していく。
「なんで覚えてんの……」
「何回も来てるからな」
「……う、わ」
「これとか俺が買ってあげたやつ」
子供の時に買ったおかしのおまけでついていた物だった。そんな細かいことは持ち主であるナマエ本人ですら忘れていた。信一は頭がいいから、なんでも覚えているのかもしれない。恥ずかしいこととかも全部覚えていそうだな、と考えてそれ以上考えるのを辞めた。
「光ってるの、好きだよな」
「人のことを烏みたいに言って……失礼なやつ」
「……いや、ナマエは烏じゃない。あんまり似てないし。そう……燕、だな」
「鳥頭……?」
「違うって。こうやって巣作りするの、好きなところ、とか……。それっぽい」
「変なこと、言わないで。頭が混乱する」
「俺ってさ、変だから。だからずっと見てられるだろ? そう言ってたのお前だし」
やはり信一は舌もよく回る。自分の発言、しかも数分前のことを持ち出されると何も反論できない。ナマエが気まずくて黙っていると、機嫌がよさそうな信一――いつの間にか隣に座っている――が、肩を抱いてきた。
「はあ?」
「ま、いいから」
「何もよくない」
「このままさ、引きこもって俺が餌なんて持ってくるのも面白いよな」
「何もよくないし面白くないしキモいし嫌だしわたし人間だし鳥じゃないし」
信一の顔を見るといたずらに成功した子供のような、自信満々の笑みを浮かべていた。
「えぇ、なんでだよ。引きこもってるのが好きなんだろ? 働くのは俺がやってやるからさぁ」
「嫌だよ、普通に」
「あはは、そこまで嫌か」
「……信一は委員の仕事向いてる。よくわかった」
ナマエはすっくと立ち上がった。椅子に掛けっぱなしにしていた上着に腕を通すと、出口に向かって歩き出す。
「おーい、どこ行くんだよ」
「信一のお望み通りちゃんとしに行くの! わたしに外に出て欲しいのか欲しくないのか、どっちかはっきりしろっ!」
財布にいくら入っているのか分からないが、とりあえず伸びきった髪を切ってシャワーを浴びてすっきりすることはできるだろう。
スニーカーのかかとを潰したまま外に出て行ったナマエを見送って、信一は煙草に火をつけた。置いていった本を机の上に置くと、一番見ていたであろう痕のある箇所が自然と開いた。
「…………」
平凡な写真だ。多分欧米のどこかであろう清潔な公園の、おそらく……朝の風景。信一にはそんなものよりも、ナマエの済んでいるここの窓から見える風景の方がよほど面白く思えた。差し込む光は少ないけれど、薄ぼんやりしている小さな暗い部屋の方がよほど見ていて楽しい。
「……わからねぇ」
そっと手で触れるとずっと座っていたナマエの体温がまだ残っていた。
こんなことをしていたらまた気持ち悪いと怒られる。そう思われてもいい。ナマエの関心領域から自分が外れる方が嫌だとすら思えた。
子供みたいなことをしている。子供の時からずっと見ているから。ずっと気持ちが変わらないせいで。
「似てる、そういうところ込みで」
飛び立つ鳥が親鳥のことを省みないように。
立ち上る煙が、窓からそっと高い空に溶け込んで消えていく。
「信一が来なければ、ずっと」
膨らんだ毛布の中から声がした。女の声で、その声に信一は安堵した。とりあえず、死んではいない。
開きっぱなしの窓から中に入ると、強引に丸まった布団を剥がしにかかった。机の上に置かれた花瓶や小さな置物がガタガタと揺れる。ナマエは「ぎゃあ!」と叫んだ。
「ちょっと邪魔しないでよ」
「はぁ? 飲まず食わずでやることじゃないだろ……。健康なんだからちゃんと、働けっ」
「乱暴される! 助けて!」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ!」
ナマエは必死になって抵抗した。普段は風に吹かれたら飛んで行きそうなくらいフラフラしているのに、こういう時だけバカ力だ。
「破れる!」
「じゃあ大人しく出てこい」
「…………」
「最近冷えるだろ? 困るよなぁ……。ご自慢の本物の羽毛布団をボロボロにされたら。俺の手にかかればこんな物、三秒で――」
「……クソ野郎」
「おぉ、お出ましだな」
彼女は怒った猫のようだった。全身の毛を逆立てて威嚇する野良猫。信一からすれば怖くもなんともなかったが、この女は一度怒るとしばらく引きずるタイプなので対応が面倒くさい。ナマエが信一をじっと睨みつける目付きは鋭く、相当頭にきている、といった様子を隠すことはなかった。
「龍兄貴も心配してたぞ。顔くらい見せに行け。……そんで、ちゃんと飯も食え」
「はぁ……。人のこと、瘋癲みたいに言ってくれて失礼な奴」
「あと、風呂にも入れ」
「……どうしよう。これに関しては反論の余地がない。信一が正しい。ああ、どうしよう……」
「……お前、俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「なんか……民生委員的なやつでしょ。それで……ここのドンパチ担当。あとはアレ、珍走団。一人でやってるけど」
「あのなぁ!」
信一は指折り数えながら自分への雑言を並べ立てるナマエに肩を落とした。
彼女の無遠慮な物言いは常のことだったので怒るという次元はとっくに通り越していたが、それでも嬉々として口を回すナマエを見ていると、本当にどうして今までこの女が誰にも刺されることなく生きてきたのか不思議に思えて仕方がない。
同時に、それはそれでいいことだと思った。
信一の普段の行動を茶化すということは、それだけナマエが信一を見ているということの裏返しでもある。これに関して嘘をつくことはできない。ナマエの交友関係が狭窄であることを差し引いても、彼女の中で自分が大きな存在を占めているのだという実感があるから、怒るに怒れなかった。
「…………」
薄っぺらい布団の上でナマエは調子に乗ってケタケタと笑い出した。子供じみた大きな声だ。ナマエはいつもそうやって笑う。それを見ると、ムカつくけれど少しほっとする。
「……お前さ、結構俺のこと詳しいんだな」
「なんか、ずっと近くにいるし」
「……それで?」
「わたしが一人でいたい時も……ご飯誘ってくるし。今日だって、邪魔してきたし……」
「それはお前が土竜みたいになってるのが悪い」
「いーじゃん別にさぁ! そのくらい見逃してよ」
「駄目」
「……ケチ」
ナマエは布団に寝転がった。黒い髪が白い布団にインクのように広がった。オレンジ色の照明が彼女の手足を照らしている。蠅が蛍光灯に群がって、チラチラと音を立てた。
部屋は鬱屈とした空気で満ちている。外はまだ活気づいているが、この部屋だけ酸素が循環していないどん詰まりのようだった。
こんなところにナマエは一人で、一週間外にも出ずに過ごしている。
自分だったら考えられないことだと信一は思った。何がどうしてそんなことになっているのか、外に連れ出す前に理由を聞きたいと思った。
「ふて寝すんな」
「嫌なものは、嫌」
「ガキ」
「ガキじゃない」
「そういうやつが」
「ねぇこの不毛なやりとりが一番ガキっぽいよ」
「――ん、まあ、そうだな。……というか、そもそもなんでこんなになってる?」
「信一も見る?」
「何」
「これ」
ナマエの手から一冊の本を手渡された。分厚いそれを慎重に開くと――「写真?」「うん」「どこでこんな……」「フツーに、買った」
どこでと聞く意味はない。信一はじっと見つめてくるナマエを横目に写真集のページをめくった。どこかヨーロッパか遠い国の、まったく知らないような光景ばかりが載っている。映画のワンショットを切り取ったらこんな風になるだろう。
綺麗だとは思う。けれどそこまでだ。
何かを想起させるような造りにはなっている。実際にいい本ではある。表紙からも高級そうな造りになっていて、素手でベタベタ触るのははばかられるような本だ。
「面白い?」
「うん」
「ずっとこれを見てたのか?」
「そうだよ」
「お前……マジか。ずっとこれだけ見てたのか……ここで!?」
「だからそうだって! ずっと見てても飽きないんだよ、これ!」
「へぇ…………?」
そんな必死になってじっと見つめているようなものではない。
断じて違う……と、信一は思った。
デジャヴだ、とも。そして彼の頭はすぐに思い出した。
「あー、思い出した。お前、好きになると同じのばっかずっと見てたな」
「うん。なんていうのかな、自分でもあんまり説明できないんだけど……。ずっと見ちゃうんだよね」
同じ映画ばかり繰り返し見る。店では同じメニューしか頼まない。そんな様子を信一は何度も見てきた。ずっと同じ遊びしかしないので周りの子供に飽きられて、それでも何かに突き動かされるように、頑なだったことも。
「見てんのはいいけど、引きこもるのは辞めろよ。……そのうち兄貴まで来るようになるぞ」
「あっ。それは、困る……」
――こいつ、龍兄貴にはめっぽう弱いな。
ナマエは以前に汚部屋と化したここに立ち入られた時のことを思い出したのか、分かりやすく顔を引きつらせた。
「どうせそのうち、これにも飽きるだろ」
「そうなってもこれはあげないからね」
「いらねえよ」
「はぁ~? これの良さがわからないんだ。やっぱり堅気じゃない人って、変……」
「変じゃないとお前みたいな変人と付き合ってられねぇよ」
「うん、だから信一は見てて飽きないよ」
「……」
信一は黙ってそのままナマエに近寄った。薄っぺらい布団に手をつくと、少し湿ってざらついているのがわかった。
「何してんの」
「何って、お喋り?」
「わざわざ近寄らなくてもいいでしょ。多分、臭うよ」
「お前がこれを見てるとこ、見てみたいんだよ。どこがそんなにいいのか、俺に教えて」
「……動物園?」
寝間着のズボンから伸びた白い素足が、緊張で動きを止めた。ナマエは様子を窺うような目で信一を見つめていた。顔こそ普段通りのしかめ面だが、四肢がむき出しになっていたのでどんな風なことを考えているか信一は手に取るようにわかった。つま先がぎゅっと丸まっている、から、ナマエは緊張している。瞬きも多い。
「俺もさ、ナマエのこと見てると飽きない」
「……そうなんだ」
「うん、だから俺たちさ……一緒だな」
「信一とわたしが同じとか、そういうの、違うし……」
唇を一文字に結んで、ナマエは顔を逸らした。視線は向こう正面の男に釘付けになっている。目線だけは逸らしたくても外すことはできなかった。
二人の目線がかち合って間に流れる空気がじんわりと重くなる。ナマエは肌がむず痒いような気がしていたが、身体が思うように動かなかった。蛇に睨まれた蛙みたいに、普段は信一のことを怖いとか、どうにかされそうだと思ったことはなかった。けれど今は、彼がまるきり別人のように見える。
「今もなんか……いつもと、違う」
「変?」
「変、かも……」
「そりゃあ俺だっていつも同じってわけじゃないからな。飽きないだろ」
「いや、なんか……。これはちょっと、面白くはない」
「俺は結構好きだけどな。ナマエの家、小さいけどお前の好きな物で埋め尽くされてて……、巣みたいだな」
「さっきは面白くないって顔してたけど」
「そうだっけ」
涼しい顔をして誤魔化した。――こういうところが、信一のなんでも器用に乗り切ってしまうところが、一番腹立たしくて見ていてコンプレックスが刺激される箇所だった。鈍くさくて要領の悪い自分と信一はあまりにも違いすぎる。ナマエは胸の奥がヒリつくのを感じた。
――余裕ぶっていて、自分より優位に立ってアレコレ指図してくるところが嫌。兄貴みたいに並んできて、何かにつけてお節介なところが、特に。
後ずさりすると狭い部屋なのですぐ壁にぶつかった。
「あっ」
棚が揺れる。並んでいる石やら小さな人形が布団の上に落ちた。
「ぜ、全部信一のせいで落ちたんだけど」
「ああ、じゃあ元に戻してやるよ」
「近寄るなって! 動くの禁止!」
「まあまあ、そんなこと言わずに。せっかく人が手伝ってやるって言ってるのに」
信一が本格的に布団の上に乗っかってきたので、ナマエの身体は硬直した。彼女の横からすっと長い手が伸びてきて、落ちた小さな雑貨たちを器用に元の位置に戻していく。
「なんで覚えてんの……」
「何回も来てるからな」
「……う、わ」
「これとか俺が買ってあげたやつ」
子供の時に買ったおかしのおまけでついていた物だった。そんな細かいことは持ち主であるナマエ本人ですら忘れていた。信一は頭がいいから、なんでも覚えているのかもしれない。恥ずかしいこととかも全部覚えていそうだな、と考えてそれ以上考えるのを辞めた。
「光ってるの、好きだよな」
「人のことを烏みたいに言って……失礼なやつ」
「……いや、ナマエは烏じゃない。あんまり似てないし。そう……燕、だな」
「鳥頭……?」
「違うって。こうやって巣作りするの、好きなところ、とか……。それっぽい」
「変なこと、言わないで。頭が混乱する」
「俺ってさ、変だから。だからずっと見てられるだろ? そう言ってたのお前だし」
やはり信一は舌もよく回る。自分の発言、しかも数分前のことを持ち出されると何も反論できない。ナマエが気まずくて黙っていると、機嫌がよさそうな信一――いつの間にか隣に座っている――が、肩を抱いてきた。
「はあ?」
「ま、いいから」
「何もよくない」
「このままさ、引きこもって俺が餌なんて持ってくるのも面白いよな」
「何もよくないし面白くないしキモいし嫌だしわたし人間だし鳥じゃないし」
信一の顔を見るといたずらに成功した子供のような、自信満々の笑みを浮かべていた。
「えぇ、なんでだよ。引きこもってるのが好きなんだろ? 働くのは俺がやってやるからさぁ」
「嫌だよ、普通に」
「あはは、そこまで嫌か」
「……信一は委員の仕事向いてる。よくわかった」
ナマエはすっくと立ち上がった。椅子に掛けっぱなしにしていた上着に腕を通すと、出口に向かって歩き出す。
「おーい、どこ行くんだよ」
「信一のお望み通りちゃんとしに行くの! わたしに外に出て欲しいのか欲しくないのか、どっちかはっきりしろっ!」
財布にいくら入っているのか分からないが、とりあえず伸びきった髪を切ってシャワーを浴びてすっきりすることはできるだろう。
スニーカーのかかとを潰したまま外に出て行ったナマエを見送って、信一は煙草に火をつけた。置いていった本を机の上に置くと、一番見ていたであろう痕のある箇所が自然と開いた。
「…………」
平凡な写真だ。多分欧米のどこかであろう清潔な公園の、おそらく……朝の風景。信一にはそんなものよりも、ナマエの済んでいるここの窓から見える風景の方がよほど面白く思えた。差し込む光は少ないけれど、薄ぼんやりしている小さな暗い部屋の方がよほど見ていて楽しい。
「……わからねぇ」
そっと手で触れるとずっと座っていたナマエの体温がまだ残っていた。
こんなことをしていたらまた気持ち悪いと怒られる。そう思われてもいい。ナマエの関心領域から自分が外れる方が嫌だとすら思えた。
子供みたいなことをしている。子供の時からずっと見ているから。ずっと気持ちが変わらないせいで。
「似てる、そういうところ込みで」
飛び立つ鳥が親鳥のことを省みないように。
立ち上る煙が、窓からそっと高い空に溶け込んで消えていく。