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九龍城砦
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落としたら死ぬ。落としたら死ぬ。落としたら死ぬ……!
今のわたしの頭にあるのは、月曜一時間目の必修の授業のことだけだった。そして、それに向けて全速力でチャリを漕いでいる。絶対に絶対にこの授業だけは落としてはいけない。しかも授業を休んでも許されるラインをあと一歩ではみ出しそうだ。
ここら辺では自転車に乗っている人間はあまりいない。バスがいつでもどこにだって行けるように張り巡らされているし、第一こんなところを自転車で通り抜けようとするとかなり危ないことになる。それでもわたしは僅かなバス代をケチりたかったのと、原チャやバイクを買うお金も免許もなかったので、このボロついた自転車に乗っていた。
今日も香港の道路は荒れている。けれど今は遅刻ギリギリなので安全なんて気にしている暇はなかった。全力で大学までの道を飛ばしていると、角の死角から、人が飛び出してきた。
「あっ」
と思った時には遅かった――。
自転車と歩行者がぶつかって凄まじい音が出た。
わたしは吹っ飛ばされて、自転車とわたしは投げ出された。痛い、とか感じている暇はなかった。一瞬だけ視界がスローになったかと思うと、激痛が全身を襲った。打撲……骨折はしてないと思うけれど、立ち上がろうとすると叩きつけられた箇所が悲鳴を上げる。
「おお~……。結構飛んだな!」
「あ、あなたは……」
頭上から声がして、見上げるとわたしが跳ねた歩行者が立っていた。あんなにモロにぶつかったのに、平気そうな顔をしている。怪我がなくてよかった……と思うと同時に、頭には「謝罪」「責任」「損害賠償」「道路交通法」といったワードがぐるぐると渦巻いていく。
「俺は大丈夫。けっこう頑丈だから! それよりすげえ痛そうだけど、立てる?」
「た、立ちます……。すみません……」
彼の差し出した手を掴んで、よろよろと立ち上がる。なんとか、歩くくらいならできそうだ。これで学校に行かないと……遅刻したらヤバい。
「うわっ、血ィ出てる。マジでこれ病院行った方がよくないか?」
「えっ、あっ……。でも、お兄さんも怪我……弁償、病院代とかお支払いします!」
「ん? いやぁ。そういうのはいいって。それよりもそっちのが重傷じゃね?」
「あのっ、わたし今すごーく急いでるんで! ここに電話、書いたんでっ。申し訳ないんですが、治療費は後でお支払いします。 ほ、本当にすみませんでした……!」
「ええっ! ちょ、ちょっと待てよ。そんなボロボロでどこ行くんだよ!」
「遅刻して単位落としたら死ぬんです~っ!」
わたしは原形を留めていて、辛うじて壊れていなかった自転車を立て直すと、地面に転がってしまったリュックを再び籠に入れて、ペダルに足をかけた。
「ほんっとうに、ごめんなさいーッ!」
今この場所に警察がいなくてよかった。誰も通報していなければいいんだけど……。あの人、なんか怖そうな感じだったし、後で面倒なことにならなきゃいいな……。
などと考えながらわたしは痛む身体にムチを打って自転車を漕いだ。授業にはギリギリで間に合ったが、上着が破れてそこら中すりむいて血を出しているわたしを、全員がヤバい物でも見るかのような目で見つめてきた。当然だと思う。
「彼氏できたん? なんか電話来たけど」
「いや、それ彼氏じゃない。男友達とかでもないから」
「じゃあ何者?」
「うーん。いうなら、ひ、被害者……」
「はぁ?」
家に帰って早々面倒なことになっていた。ミチミチの授業で疲れた身体に鞭打って家に帰ると、こうなっていた。
わたしがチャリでぶつかってしまった男の人は、わたしのうちに電話をしてきたらしい。そしてその時わたしはいなかったので、ルームメイトに彼のことが知られてしまった。別に知られていてもいいんだけどね。
「なんか、角のとこのカフェで待ってるって。行った方がいいんじゃね?」
「お、了解……。えっと、夜になっても帰ってこなかったら何かあったと思って通報してね」
「お前どんな相手と会うんよ。ヤクザ?」
「…………かも」
「おっかね~。相手が黒社会だったら警察もどうしようもないから諦めろ。まあでも、普段あんだけチャリでぶっ飛ばしてたらいつかはこうなるんじゃないかって思ってたわ」
他人事なので友人も好き勝手に喋りだす。こいつ、酒入ってるな……。
「じゃあ、いってくる」
家の鍵と財布と。それだけ持ってわたしは外に出た。猥雑な学生街の端っこに、珈琲だけで何時間も粘れるような喫茶店がある。そこに彼は待っているはずだ。
五分も歩けば店についた。ドアを開けてベルが鳴ると、朝わたしがぶつかったその人が、窓際の席に座っていた。
「あのー……来ました」
「おっ。待ってたぜ。あれからちゃんと病院行ったか?」
それはこっちの台詞だ。まあ、ぶつかってもピンピンしていたこの人に病院なんていらないかもしれないけど。
「えっと、大学の医務室で手当は……してもらいました」
「じゃあよかった」
そう言いながら、彼はオレンジジュースをに口をつけた。なんというか、あまりわたしの周りにはいないタイプの人だなと思った。若者らしいっていうか、ここまでヘアセットまでしてお洒落しているタイプの人は、友人には少ない。男友達とかも、あんまりいないし……。
「なあ、お前何飲む?」
「えっと、じゃあ同じので……」
彼は店員を呼ぶとわたしの代わりに注文までしてくれた。人を使うのになれているような感じがする。チンピラみたいな見た目だなって思ったけど、本当にギャングか何かだったりするんだろうか。先ほどの友人のジョークがあるので、堅気の人かもしれないのに少し緊張してしまう。
「あの、お怪我はありませんでした、か……?」
「えっ俺? うん大丈夫! めっちゃ元気だよ、俺」
「じゃ、じゃあよかった……です」
「うん。ナマエみたいな可愛い子とも知り合えて、一緒にお茶できてラッキー」
「えっ! な、なんでわたしの名前を……」
いきなりわたしの名前が出てきたので、驚いて大きな声を上げてしまった。静かな店内にはわたしと彼と、カフェのスタッフしかいない。だから余計に響いて聞こえた。
「ほら、これ返しに来たんだ」
彼はジャンパーのポケットからわたしの学生証を取り出した。吹っ飛んだ時に鞄の中身もぶちまけてしまったのだろう。すっと差し出されたそれを受け取って、わたしも胸ポケットにしまう。
「えっと、その、色々と申し訳ありません。落とし物まで拾っていただいて」
「全然いいって。こんなこと気にすんなって」
「で、でもっ……わたし、加害者なんですよ! 人を轢いて、警察はたまたまいなかったから違反切符切られなかったけど……でも、犯罪者、だし……。わたしに優しくする理由なんて、な、ないでしょう……」
気が動転して呼吸が荒くなる。今の状況が理解出来なさすぎて、頭が痛くなってきた……。
「まぁ……、落ち着きなって」
運ばれてきたオレンジジュースが、彼の手でぐっとわたしの方に突き出される。
「…………すみません、動揺、してて」
「あんなにむちゃくちゃな運転のやつが、ここだとすげぇ大人しいんだな」
「…………返す言葉が」
「俺はさ、ホントに気にしてないんだよ。ぶつかって怪我したわけでもないし、俺こういうの慣れてるしさ」
「……」
差し出されたそれに口をつけたけど、味らしい味がしなかった。なんだか、この人と喋っていると圧迫面接されているみたいな気分になる……。しゃべり方は優しいんだけど、言葉の一つ一つがわたしを追い立ててくるような、そんな――怖い先生と喋ってる時、みたいな……。
「それに、俺が飛び出したのわざとだし」
「…………はぁっ!?」
聞こえてきた言葉に耳を疑った。思わず身を乗り出して、卓上の飲み物の表面が波打った。
「うん。そういうわけだから、ナマエちゃんは何にも気にしなくていいワケ。まあ……安全運転は心がけた方がいいとは思うけどさ。俺もオマワリじゃないから細かいことは、どーでもいいよな?」
「い、慰謝料ですか……っ! わたし、保険とか入ってないし、そういうの困るんですけど……っ!」
わざとぶつかってきたって、そんな……。確かにいきなり衝突して怪我なしってことは、そうことなんだろうけれど。それでも大丈夫なのって、この人って何? 不死身? どうやったらあんな速い速度で移動してる物体とぶつかって無事でいられるの? この人って、プロの当たり屋ってこと?
「違う違う。そーいうのじゃなくって……。うーん、恥ずかしいんだけど、俺、ナマエちゃんとお知り合いになりたくって」
「え、えぇ……?」
「俺さー、ずっと見てたんだよな。毎朝チャリで爆走してる女の子、よく見るとかわいいじゃんって。でもさぁ、あんなに急いで走ってる相手に声かけるとか、無理だろ? だから俺、自分から……来ちゃった?」
「…………」
想像を絶する理由だった。もう話のスケールについていける気がしない。下手したら入院するかもしれないようなことを、わたしと知り合うために?
「い、異常者……だ……」
「だからさぁ、わざとなんだよ。俺のワガママで怪我させちゃって、ごめんなぁ。でもこれからは絶対ナマエちゃんに怪我なんてさせないし、させるようなヤツがいたら俺がボコボコにするから。今回限りってことで!」
「り、理解できないんですけど……!」
「俺がめっちゃくちゃナマエちゃんのことが好き!」
「う、うわああああああっ!」
ニコっとアイドルよろしく微笑んだ彼を見て、ついにわたしの脳はエラーを吐き出した。も、もう駄目だ……。話の展開についていけない。
つまりこの人ってクッソ迷惑なナンパ男だったってこと? しかもわたしの通学も毎日見てたってことはストーカーでもあるのでは?
――気持ち悪い、理解できないんだけど……。
「あ、あの、もう帰っていいですか。お金ならお支払いするので、えっと、あなたと仲良くしたくないです……」
「えー、それはひどくないか? 俺のことまだ何も知らないのにさぁ!」
「わかりました。今ので全部わかったんで……」
「名前まだ知らないだろ? 俺、みんなから十二少って呼ばれてんだ。ダチは結構多い方でさぁ、だから色んなとこに俺が行くとサービスしてくれるぜ?」
「い、いりません……。そういうの結構なんで……。あの、もう帰ります」
「は? 無理だろ」
「む、無理って」
急に彼の声が低くなる。なんで、って言いかけて、わたしは口を閉ざした。
「客観的に見て、歩行者を轢いたのはお前だろ」
「…………っ」
「そうなってくると、まあ、面倒だよな? いいとこの大学行ってるじゃないか。頭いいんだろ? だったら、俺が言いたいことも分かってくれるよな?」
「………………」
もうこうなると黙るしかない。わたしは立ち上がりかけて浮かせた腰を、再び喫茶店のソファに沈める。
「いきなり彼氏ってのもアレだし、友達からはじめて……仲良くしてほしいなぁ」
「…………」
狡猾な蛇に睨まれたみたいに、わたしは動けなくなった。黙ってほしければ仲良くしろ、と。交渉ではなくこれは最初から脅しだったのだ。
つまり、わたしに拒否権なんて最初からなかったということだ。
「十二少、さん……」
「俺の名前覚えてくれた? 嬉しいな」
「友達になったら、いいんですか……」
「うん。その気になったか?」
「……まあ、はい……」
わたしが頷くと、彼は子供みたいにやったぁ、なんて声を上げた。飲んでるのはオレンジジュースで、笑った時は子供みたいで、つぶらな瞳は可愛い系なのに、醸し出している雰囲気が普通の人間のソレじゃない。……とんでもない人だ。
わたしは、たぶんヤバい人間と知り合い……しかも友達になってしまった。
「あのぉ、飽きたら海に沈めるとか、ないですよね……。え、あ、ははっ……」
「えっ、それうちの兄貴がよくやるやつじゃん。よく知ってるなぁ」
「……………………」
うわっ黒社会、怖……近寄らないでおこう……。これからなるべく会わないように、卒業したらここも離れて……そ、そうしよう! やっぱりマフィアと付き合いたくないよ! 誰か助けて!
「大丈夫、そういう野蛮なことからは俺が守ってやるから!」
「…………わ、わぁ……頼もしいなぁ」
この人自身がわたしを「そう」しないとは言ってないんだよなあ。
引きつった笑みを浮かべて動きもぎこちないわたしを見て、十二少さんは満足そうに笑った。圧倒的に、最初から不利だった。勝ち目なんてない。そもそもあの電話を渡したのはわたしだった。
――何もかもがこの人の手のひらの上だったのだ。
「じゃあ、今度の日曜どっか行こう!」
カフェの本棚からガイドマップを引っ張り出しながら浮かれてはしゃぐ彼を見て、わたしの口からは絶対にノーなんて言えるわけもなかったのであった。
今のわたしの頭にあるのは、月曜一時間目の必修の授業のことだけだった。そして、それに向けて全速力でチャリを漕いでいる。絶対に絶対にこの授業だけは落としてはいけない。しかも授業を休んでも許されるラインをあと一歩ではみ出しそうだ。
ここら辺では自転車に乗っている人間はあまりいない。バスがいつでもどこにだって行けるように張り巡らされているし、第一こんなところを自転車で通り抜けようとするとかなり危ないことになる。それでもわたしは僅かなバス代をケチりたかったのと、原チャやバイクを買うお金も免許もなかったので、このボロついた自転車に乗っていた。
今日も香港の道路は荒れている。けれど今は遅刻ギリギリなので安全なんて気にしている暇はなかった。全力で大学までの道を飛ばしていると、角の死角から、人が飛び出してきた。
「あっ」
と思った時には遅かった――。
自転車と歩行者がぶつかって凄まじい音が出た。
わたしは吹っ飛ばされて、自転車とわたしは投げ出された。痛い、とか感じている暇はなかった。一瞬だけ視界がスローになったかと思うと、激痛が全身を襲った。打撲……骨折はしてないと思うけれど、立ち上がろうとすると叩きつけられた箇所が悲鳴を上げる。
「おお~……。結構飛んだな!」
「あ、あなたは……」
頭上から声がして、見上げるとわたしが跳ねた歩行者が立っていた。あんなにモロにぶつかったのに、平気そうな顔をしている。怪我がなくてよかった……と思うと同時に、頭には「謝罪」「責任」「損害賠償」「道路交通法」といったワードがぐるぐると渦巻いていく。
「俺は大丈夫。けっこう頑丈だから! それよりすげえ痛そうだけど、立てる?」
「た、立ちます……。すみません……」
彼の差し出した手を掴んで、よろよろと立ち上がる。なんとか、歩くくらいならできそうだ。これで学校に行かないと……遅刻したらヤバい。
「うわっ、血ィ出てる。マジでこれ病院行った方がよくないか?」
「えっ、あっ……。でも、お兄さんも怪我……弁償、病院代とかお支払いします!」
「ん? いやぁ。そういうのはいいって。それよりもそっちのが重傷じゃね?」
「あのっ、わたし今すごーく急いでるんで! ここに電話、書いたんでっ。申し訳ないんですが、治療費は後でお支払いします。 ほ、本当にすみませんでした……!」
「ええっ! ちょ、ちょっと待てよ。そんなボロボロでどこ行くんだよ!」
「遅刻して単位落としたら死ぬんです~っ!」
わたしは原形を留めていて、辛うじて壊れていなかった自転車を立て直すと、地面に転がってしまったリュックを再び籠に入れて、ペダルに足をかけた。
「ほんっとうに、ごめんなさいーッ!」
今この場所に警察がいなくてよかった。誰も通報していなければいいんだけど……。あの人、なんか怖そうな感じだったし、後で面倒なことにならなきゃいいな……。
などと考えながらわたしは痛む身体にムチを打って自転車を漕いだ。授業にはギリギリで間に合ったが、上着が破れてそこら中すりむいて血を出しているわたしを、全員がヤバい物でも見るかのような目で見つめてきた。当然だと思う。
「彼氏できたん? なんか電話来たけど」
「いや、それ彼氏じゃない。男友達とかでもないから」
「じゃあ何者?」
「うーん。いうなら、ひ、被害者……」
「はぁ?」
家に帰って早々面倒なことになっていた。ミチミチの授業で疲れた身体に鞭打って家に帰ると、こうなっていた。
わたしがチャリでぶつかってしまった男の人は、わたしのうちに電話をしてきたらしい。そしてその時わたしはいなかったので、ルームメイトに彼のことが知られてしまった。別に知られていてもいいんだけどね。
「なんか、角のとこのカフェで待ってるって。行った方がいいんじゃね?」
「お、了解……。えっと、夜になっても帰ってこなかったら何かあったと思って通報してね」
「お前どんな相手と会うんよ。ヤクザ?」
「…………かも」
「おっかね~。相手が黒社会だったら警察もどうしようもないから諦めろ。まあでも、普段あんだけチャリでぶっ飛ばしてたらいつかはこうなるんじゃないかって思ってたわ」
他人事なので友人も好き勝手に喋りだす。こいつ、酒入ってるな……。
「じゃあ、いってくる」
家の鍵と財布と。それだけ持ってわたしは外に出た。猥雑な学生街の端っこに、珈琲だけで何時間も粘れるような喫茶店がある。そこに彼は待っているはずだ。
五分も歩けば店についた。ドアを開けてベルが鳴ると、朝わたしがぶつかったその人が、窓際の席に座っていた。
「あのー……来ました」
「おっ。待ってたぜ。あれからちゃんと病院行ったか?」
それはこっちの台詞だ。まあ、ぶつかってもピンピンしていたこの人に病院なんていらないかもしれないけど。
「えっと、大学の医務室で手当は……してもらいました」
「じゃあよかった」
そう言いながら、彼はオレンジジュースをに口をつけた。なんというか、あまりわたしの周りにはいないタイプの人だなと思った。若者らしいっていうか、ここまでヘアセットまでしてお洒落しているタイプの人は、友人には少ない。男友達とかも、あんまりいないし……。
「なあ、お前何飲む?」
「えっと、じゃあ同じので……」
彼は店員を呼ぶとわたしの代わりに注文までしてくれた。人を使うのになれているような感じがする。チンピラみたいな見た目だなって思ったけど、本当にギャングか何かだったりするんだろうか。先ほどの友人のジョークがあるので、堅気の人かもしれないのに少し緊張してしまう。
「あの、お怪我はありませんでした、か……?」
「えっ俺? うん大丈夫! めっちゃ元気だよ、俺」
「じゃ、じゃあよかった……です」
「うん。ナマエみたいな可愛い子とも知り合えて、一緒にお茶できてラッキー」
「えっ! な、なんでわたしの名前を……」
いきなりわたしの名前が出てきたので、驚いて大きな声を上げてしまった。静かな店内にはわたしと彼と、カフェのスタッフしかいない。だから余計に響いて聞こえた。
「ほら、これ返しに来たんだ」
彼はジャンパーのポケットからわたしの学生証を取り出した。吹っ飛んだ時に鞄の中身もぶちまけてしまったのだろう。すっと差し出されたそれを受け取って、わたしも胸ポケットにしまう。
「えっと、その、色々と申し訳ありません。落とし物まで拾っていただいて」
「全然いいって。こんなこと気にすんなって」
「で、でもっ……わたし、加害者なんですよ! 人を轢いて、警察はたまたまいなかったから違反切符切られなかったけど……でも、犯罪者、だし……。わたしに優しくする理由なんて、な、ないでしょう……」
気が動転して呼吸が荒くなる。今の状況が理解出来なさすぎて、頭が痛くなってきた……。
「まぁ……、落ち着きなって」
運ばれてきたオレンジジュースが、彼の手でぐっとわたしの方に突き出される。
「…………すみません、動揺、してて」
「あんなにむちゃくちゃな運転のやつが、ここだとすげぇ大人しいんだな」
「…………返す言葉が」
「俺はさ、ホントに気にしてないんだよ。ぶつかって怪我したわけでもないし、俺こういうの慣れてるしさ」
「……」
差し出されたそれに口をつけたけど、味らしい味がしなかった。なんだか、この人と喋っていると圧迫面接されているみたいな気分になる……。しゃべり方は優しいんだけど、言葉の一つ一つがわたしを追い立ててくるような、そんな――怖い先生と喋ってる時、みたいな……。
「それに、俺が飛び出したのわざとだし」
「…………はぁっ!?」
聞こえてきた言葉に耳を疑った。思わず身を乗り出して、卓上の飲み物の表面が波打った。
「うん。そういうわけだから、ナマエちゃんは何にも気にしなくていいワケ。まあ……安全運転は心がけた方がいいとは思うけどさ。俺もオマワリじゃないから細かいことは、どーでもいいよな?」
「い、慰謝料ですか……っ! わたし、保険とか入ってないし、そういうの困るんですけど……っ!」
わざとぶつかってきたって、そんな……。確かにいきなり衝突して怪我なしってことは、そうことなんだろうけれど。それでも大丈夫なのって、この人って何? 不死身? どうやったらあんな速い速度で移動してる物体とぶつかって無事でいられるの? この人って、プロの当たり屋ってこと?
「違う違う。そーいうのじゃなくって……。うーん、恥ずかしいんだけど、俺、ナマエちゃんとお知り合いになりたくって」
「え、えぇ……?」
「俺さー、ずっと見てたんだよな。毎朝チャリで爆走してる女の子、よく見るとかわいいじゃんって。でもさぁ、あんなに急いで走ってる相手に声かけるとか、無理だろ? だから俺、自分から……来ちゃった?」
「…………」
想像を絶する理由だった。もう話のスケールについていける気がしない。下手したら入院するかもしれないようなことを、わたしと知り合うために?
「い、異常者……だ……」
「だからさぁ、わざとなんだよ。俺のワガママで怪我させちゃって、ごめんなぁ。でもこれからは絶対ナマエちゃんに怪我なんてさせないし、させるようなヤツがいたら俺がボコボコにするから。今回限りってことで!」
「り、理解できないんですけど……!」
「俺がめっちゃくちゃナマエちゃんのことが好き!」
「う、うわああああああっ!」
ニコっとアイドルよろしく微笑んだ彼を見て、ついにわたしの脳はエラーを吐き出した。も、もう駄目だ……。話の展開についていけない。
つまりこの人ってクッソ迷惑なナンパ男だったってこと? しかもわたしの通学も毎日見てたってことはストーカーでもあるのでは?
――気持ち悪い、理解できないんだけど……。
「あ、あの、もう帰っていいですか。お金ならお支払いするので、えっと、あなたと仲良くしたくないです……」
「えー、それはひどくないか? 俺のことまだ何も知らないのにさぁ!」
「わかりました。今ので全部わかったんで……」
「名前まだ知らないだろ? 俺、みんなから十二少って呼ばれてんだ。ダチは結構多い方でさぁ、だから色んなとこに俺が行くとサービスしてくれるぜ?」
「い、いりません……。そういうの結構なんで……。あの、もう帰ります」
「は? 無理だろ」
「む、無理って」
急に彼の声が低くなる。なんで、って言いかけて、わたしは口を閉ざした。
「客観的に見て、歩行者を轢いたのはお前だろ」
「…………っ」
「そうなってくると、まあ、面倒だよな? いいとこの大学行ってるじゃないか。頭いいんだろ? だったら、俺が言いたいことも分かってくれるよな?」
「………………」
もうこうなると黙るしかない。わたしは立ち上がりかけて浮かせた腰を、再び喫茶店のソファに沈める。
「いきなり彼氏ってのもアレだし、友達からはじめて……仲良くしてほしいなぁ」
「…………」
狡猾な蛇に睨まれたみたいに、わたしは動けなくなった。黙ってほしければ仲良くしろ、と。交渉ではなくこれは最初から脅しだったのだ。
つまり、わたしに拒否権なんて最初からなかったということだ。
「十二少、さん……」
「俺の名前覚えてくれた? 嬉しいな」
「友達になったら、いいんですか……」
「うん。その気になったか?」
「……まあ、はい……」
わたしが頷くと、彼は子供みたいにやったぁ、なんて声を上げた。飲んでるのはオレンジジュースで、笑った時は子供みたいで、つぶらな瞳は可愛い系なのに、醸し出している雰囲気が普通の人間のソレじゃない。……とんでもない人だ。
わたしは、たぶんヤバい人間と知り合い……しかも友達になってしまった。
「あのぉ、飽きたら海に沈めるとか、ないですよね……。え、あ、ははっ……」
「えっ、それうちの兄貴がよくやるやつじゃん。よく知ってるなぁ」
「……………………」
うわっ黒社会、怖……近寄らないでおこう……。これからなるべく会わないように、卒業したらここも離れて……そ、そうしよう! やっぱりマフィアと付き合いたくないよ! 誰か助けて!
「大丈夫、そういう野蛮なことからは俺が守ってやるから!」
「…………わ、わぁ……頼もしいなぁ」
この人自身がわたしを「そう」しないとは言ってないんだよなあ。
引きつった笑みを浮かべて動きもぎこちないわたしを見て、十二少さんは満足そうに笑った。圧倒的に、最初から不利だった。勝ち目なんてない。そもそもあの電話を渡したのはわたしだった。
――何もかもがこの人の手のひらの上だったのだ。
「じゃあ、今度の日曜どっか行こう!」
カフェの本棚からガイドマップを引っ張り出しながら浮かれてはしゃぐ彼を見て、わたしの口からは絶対にノーなんて言えるわけもなかったのであった。