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明日方舟
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夕暮れ、いつもその通りを歩いているとピアノの音が聞こえてきた。誰が弾いていたのかはわからなかったけれど、かしこまったクラシックのような音色は自分には聞きなじみのないものだったことを覚えている。育ちが悪いから、上品なものは疎ましく思えた。
毎日、日が暮れる手前くらいの時間に、俺はいつもその通りを歩いた。一人で、あるいは気の置けない友人たちと、時々は自分の上司にあたる人間とも。雨の日も晴れの日も、途切れることなく演奏は続いていた。まるで一日中、ラジオをつけっぱなしにしているみたいに。
そこは大きな広場にほど近くて、辺りには店が固まっていたから、常に人通りは多かった。
下手くそな演奏の時もあれば、レコードを再生したかのように丁寧な演奏の日もあった。
――ああ、今日は外れだな。
そんなことを思いながらその道を通り過ぎていくのが、ルーティンのようになっていた。
誰かが交代で弾いているのだろうか。ここらにストリートピアノのようなものはないから、恐らく同じ人間が使っている個人の所有物だろうと考える。
プロが店で弾いているに、してはあまりにもたどたどしい音色の日が多い。だから素人が趣味で使っているんだろう。どんな風に、誰が使っているのか。そこまでは分からない。きっと一生分かることがないと思っていた。
俺が真実を知ることになるのは、思っていたよりも早かった。
「あれ……」
その日はやけに静かだった。原因はすぐに分かった。今日はピアノの下手くそな音色が聞こえてこない。
「……今日はやけに静かだな」
「――ああ、ピアノか? 確かに、いつもなら聞こえてくるはずだけど……今日は弾いてないのか?」
言葉にせずとも、一緒にいた仲間はあの演奏を認識していたらしい。どうしてだろうな、と俺が口にすると一緒に歩いていた仲間の一人が、小声で教えてくれた。
「……ここの店の奥さん、亡くなったんだよ」
「じゃあその奥さんとやらがあの下手くそな演奏をしてたのか?」
「ちげえよ。その人が娘さんに毎日教えてやってたんだ。だから弾いてたのは小学生のガキ」
「……おい、人のお子さんをガキ呼ばわりするのは辞めろ」
確かここは、ベッローネにショバ代を納めていた店だ。守ってやるべきである堅気の人間を見下す発言をするのはよくない。名誉に関わる問題なので、俺は口を挟んだ。
「……あとでファミリーから、挨拶にでも行った方がいいかもな」
本日休業と書かれた板が、ドアの前に寂しげにぶら下がっている。俺はこの店に立ち寄ったことがあった。店主の奥さんとやらには会ったことがなかったが、店主の顔は知っている。
店は清潔で手入れが行き届いていた。きっと二人で手間暇をかけて維持していたんだろう。
「葬式に花は?」
「送ってあるだろ。うちのドンはそこら辺しっかりしてるっつーか、礼儀には厳しいからな」
「……そうか。ならいいんだが」
――ディーマはそういうところが真面目だよな。仲間たちがそう言いながらヘラヘラと笑う。今時、堅気を守るヤクザなどというイメージは古くさいし、時流ではない。そうだと分かってはいるが、やはり普段から信頼関係だけはしっかりと築いておきたいと思う。
いざとなった時――、刺される側ではいたくないからだ。
「そういえば、この前……」
話題はすぐに変わっていく。形だけは周りに合わせておきながら、俺の頭の中では弱々しい這いつくばるようなか細い音色が、こびりつくように頭を支配されて仕方がなかった。
しばらくして――喪が明けたからだろう、店は開いていた。
俺は一番いいスーツを着て、花を持って仕込み中だと書かれた札のかかった扉を数度ノックした。
「……今はまだですよ」
男の声がする。きっとこの店の店主だろう。
「ベッローネの者だ」
「…………どうぞ」
静かに扉が開いた。店の中は薄暗く、窓からわずかに差し込む光だけが中を照らしている。
「……あの、何かご用でしょうか」
「こんにちは。いきなり押しかけて申し訳ない。……この度は、ご愁傷様です。心からお悔やみを」
「ありがとうございます。ベッローネの方には、すでに弔電もいただいておりましたが、まさか直接ご挨拶に来ていただけるとは……。こんな格好で申し訳ありません」
「いえ、こちらも連絡もなしに来てしまったので。……これは、こちらからの気持ちです。どうぞ受け取ってください」
……本当なら、俺のような末端の構成員ではなく、幹部クラスの人間が向かうべきだ。しかし、これあくまでは非公式の訪問。
誰かに命令されたわけでもなく、俺の独断で行っていることでしかない。相手を信用させるためにファミリーの名前を出したが、これも本当ならする必要のないことだ。
「あの、少し聞きたいことが……」
俺が口を開きかけた瞬間、耳に飛び込んできたのは聞き慣れたメロディだった。
「ナマエ! 辞めなさい!」
店の奥、隅に置かれたピアノを弾き始めた少女の姿が見えた。店主の娘とやらは、この子なのか。
店主は大声を上げてすぐ彼女に駆け寄る。拙い演奏を始めた彼女を無理矢理ピアノから引き剥がすと、血相を変えて怒鳴りだした。
「弾いてはいけないと、あれほど言っただろう! 今は偉い人も来ているんだ! どうして……、どうして今弾こうとした? 言いなさい!」
「……一日弾かないと、三日分下手くそになるよ」
父親は彼女をぶった。まるで俺がいないかのように、突如として娘に暴力を振るったその様は、先ほどの丁寧な印象からはほど遠い。
「……」
顔を強く叩かれても、彼女は反応しなかった。代わりに、ガラス越しに物を見るかのようにこちらをじっと見つめている。
「……娘さんを、殴るのは辞めた方がいいですよ」
俺は精々、こんなことを言うことくらいしかできない。
顔を真っ赤にした店主は、俺の声を聞いて渋々といった様子で娘から手を離した。
「……すみません、ベッローネの方の前でこんな」
「……ピアノ、娘さんが好きなら弾かせてあげたらいいのでは」
「ああ、それだけは勘弁してください……」
――妻を思い出すんだろう。
言葉にせずとも、彼が言いたいことは理解できた。
「お辛い気持ちは理解できます。けれど、暴力だけはいけません。あなたの奥さんだって、きっと悲しむ」
「そんなことないよ」
「……ナマエ!」
意外にも、ナマエと呼ばれた少女ははっきりと声を出した。
「お母さんは、わたしが間違えるとすぐ手をぶったよ。でも、上手くなるにはそうするしかないんだって。わたしには才能がないから、体で覚えるのが早いって言ってた」
制服の腕を捲って、彼女はこちらに腕を見せてくる。子供らしい柔らかそうな腕には、無数の赤い痕が走っている。
「お母さんの言いつけを守らないと、よくないんだよ。練習したいからお父さんは仕事してて」
なんてことはない。当たり前のことのように、平然と彼女は言ってのけた。
「…………虐待、じゃないか」
ピアノの上にはナマエと、この前亡くなったばかりの母親であろうと思われる女性が、ドレスを着て並んで立っている写真が飾られていた。コンクールか何かの写真だろう。母親の優しそうな顔と、ナマエの体の傷はあまりにも結びつかない。
――こんな時、俺はどうしたらいいのだろう。
マフィアが暴力はいけませんなんて言っても、なんの説得力もない。だからといって、子供が殴られているのを黙っているわけにもいかない。
「すみません、すみません……。このことは、どうか、内密に……」
「児童相談所には」
自分でも何を言っているのだろうと思う。公的な機関が腐敗しているのは周知の事実だ。反社会的分子の癖に、一丁前にまともな事を言う自分が馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
「すみません……すみません……許してください……」
「――っ!」
誰に対して謝罪しているのだろう。俺に対してなのか、それとも……全てにだろうか。
自分よりも年嵩の……恐らくドンと同じくらいの年の男性が、俺のような若造に対して必死に頭を下げている。娘は親に殴られても無感動で、助けてくれとも言われない。
――狂っている。
しかし、よくある不幸だと言われてしまえば何も言い返せない。
ごく普通の、どこにでもある話だ。俺一人が介入したって改善するかは分からない。なら……何もしない方が賢明なんじゃないか。
「…………」
ずっと床を見つめながら頭を下げ続ける父親、そして全くの初対面である俺を無視して、彼女はピアノを弾き始めた。
どこからどう見ても、彼女に音楽の才能がないことがわかった。運指はおぼつかないし、楽譜が読めているのかすら怪しい。毎日母親とつきっきりで練習してもこんな程度ならば、ピアノを続ける意味なんてないように思える。
けれど、ナマエは弾くことを辞めない。
何のためにそうしているのか、俺には理解できなかった。恐ろしいとすら感じるほどに、執拗に、譜面通りに指を動かそうともがしている。
「……ナマエ」
俺は彼女の横に歩み寄った。彼女の母親もきっと同じように横に立ってずっと娘を見ていたのだろう。
「ピアノ、続けたいか?」
「……マフィアの人、お母さんと同じこと言うんだ」
鍵盤の蓋にセットされている執拗に赤入れされて端も切れ切れな楽譜に目をやる。それを彼女の細い指が穏やかにめくる。何度も何度もそうしていたのだろう。
――メゾフォルテ=やや強く。ここは押しすぎに注意する。
子供の字だ。恐らく、彼女自身が書いた文字だろうということは容易に推察できた。
「俺なら、叩いたりしない先生を用意できる」
「……そうなんだ」
「俺はピアノは弾けないけど、ナマエにとっていい先生は見つけられるかもしれない。そうしたらもっと、上手くなれるよ」
「お母さんじゃない先生もいるの?」
「そうだよ。ナマエだって、学校に音楽の先生がいるのはわかるだろう? それと同じように、習い事で子供に音楽を教えてくれる先生がいるんだ」
俺と話をしながら、ナマエは一切こちらを見ようとしなかった。
答えてはくれるが反応は鈍い。
「それって、幾らするの?」
「……」
「お父さんは、音楽なんて金ばっかり掛かって儲からないから辞めさせろってお母さんによく言ってた。でも、お母さんは自分が教えるんだって言って、それでやらせてもらってたの。音楽って、食べていけないからって。うちにはそんな余裕ないんだって」
俺は横目で、店主の顔を見た。
赤裸々に家庭の事情をマフィアに暴露され、彼の顔は怯えきって青白くなってしまっている。
「……なぁ」
「…………娘が、大変失礼なことを……。も、もう、我が家の事情はお分かり頂けたでしょう。これ以上恥を晒したくないのです。お願いします、お帰り下さい……」
平身低頭でか細い声を上げる父親に、俺はそっと近づく。
「娘に手を上げる親父を、俺が黙って見過ごすと思うのか? ベッローネのファミリーが、守ってやるべき子供が、こんなとこになっているのに?」
――辞めておけばいい。放っておけ、見て見ぬふりをしろ。
自分の心の中でそんな叫びが聞こえてくる。介入すべきではないし、余計なお節介だ。これから先、もっと悲惨な目にあっている人間に俺はごまんと出会うだろう。ありふれた悲劇だ。自分一人で背負い込むのは、現実的ではない。
しかし、口は勝手に動いていた。
「娘のやりたいことくらい、やらせてやれ」
「わかっています。けれど、うちにはもう余裕がないんです……!」
悲痛な叫びが店に響いた。その後やってきた静けさをかき消すように、俺は口を開く。
「責任は、俺が取る。金なら幾らでも出す。あんたがやらないなら、俺がこの子に……なんだってやらせてやる」
息を呑む音が聞こえた。彼女は変わらず鍵盤を叩き続ける。穏やかなワルツの調べが激昂した俺を落ち着かせるように響いていた。
「……俺だって、今はただのヒラの構成員だ。金だって、そんなにあるわけじゃない。でも俺は、この状況に黙っているわけにはいかないんだ」
俺は財布からあるだけの札を取り出すと、机の上に叩きつけた。
「この金はあんたに貸してもない、俺はシラクーザの未来に投資しただけだ。もし別のことに……酒にでも使ったら、殺すからな」
はぁ、と俺はため息をつく。変わらず一定のリズムでピアノを奏でるナマエの横に、再び歩み寄る。
「……さっきのとこ、もっと優しく弾いたらいいんじゃないか」
mezzo piano――やや弱く、と書かれた箇所を指さしながら言うと、初めて彼女はこちらを向いた。
正面から見ると、やはり子供らしい丸みのある頬と、大きな二つの目がかわいらしい子供だと思った。
はじめて俺に興味を持ったのか、やっとピアノを演奏する手が止まる。小さな子供の手には、このピアノは大きすぎるように見えた。
「……いつも、お母さんにあなたのピアノがガサツだって言われてた」
俺はあのガタガタ響くような彼女の演奏を思い出した。たしかに、言われていることは概ね正しい。こんな軽いリズムの曲ですら、力いっぱい叩くように必死になって弾いているのだから。
――でも、それを俺は嫌いになれなかった。
こんなに細い指のどこからこんな力が出ているのか、もしかしたらもっとすごいことができるかもしれない。自分にはない能力を持った子供に、自分の夢を託すようで格好が悪いかもしれないが、俺は彼女に期待をかけることにした。
「大丈夫、いつか正しく弾けるようになるさ。……いや、俺がそうできるようにする」
「お兄さんが?」
「俺は楽譜なんてちょっとしか読めない」
「じゃあなんでそんなことを言ったの?」
くすくすと、初めて彼女が笑う。鈴を転がしたような笑い方に、仄かにだが母親の気配がした。
「――ナマエのこと、俺がずっと見ていてやるから」
「ずっと?」
「ああ。俺はもう、お前のことが結構好きなんだ」
願わくば、これがドンの理想を叶える一歩になればいい。
何もわかっていないナマエに微笑みかけると、彼女も模倣したようににこりと笑った。
毎日、日が暮れる手前くらいの時間に、俺はいつもその通りを歩いた。一人で、あるいは気の置けない友人たちと、時々は自分の上司にあたる人間とも。雨の日も晴れの日も、途切れることなく演奏は続いていた。まるで一日中、ラジオをつけっぱなしにしているみたいに。
そこは大きな広場にほど近くて、辺りには店が固まっていたから、常に人通りは多かった。
下手くそな演奏の時もあれば、レコードを再生したかのように丁寧な演奏の日もあった。
――ああ、今日は外れだな。
そんなことを思いながらその道を通り過ぎていくのが、ルーティンのようになっていた。
誰かが交代で弾いているのだろうか。ここらにストリートピアノのようなものはないから、恐らく同じ人間が使っている個人の所有物だろうと考える。
プロが店で弾いているに、してはあまりにもたどたどしい音色の日が多い。だから素人が趣味で使っているんだろう。どんな風に、誰が使っているのか。そこまでは分からない。きっと一生分かることがないと思っていた。
俺が真実を知ることになるのは、思っていたよりも早かった。
「あれ……」
その日はやけに静かだった。原因はすぐに分かった。今日はピアノの下手くそな音色が聞こえてこない。
「……今日はやけに静かだな」
「――ああ、ピアノか? 確かに、いつもなら聞こえてくるはずだけど……今日は弾いてないのか?」
言葉にせずとも、一緒にいた仲間はあの演奏を認識していたらしい。どうしてだろうな、と俺が口にすると一緒に歩いていた仲間の一人が、小声で教えてくれた。
「……ここの店の奥さん、亡くなったんだよ」
「じゃあその奥さんとやらがあの下手くそな演奏をしてたのか?」
「ちげえよ。その人が娘さんに毎日教えてやってたんだ。だから弾いてたのは小学生のガキ」
「……おい、人のお子さんをガキ呼ばわりするのは辞めろ」
確かここは、ベッローネにショバ代を納めていた店だ。守ってやるべきである堅気の人間を見下す発言をするのはよくない。名誉に関わる問題なので、俺は口を挟んだ。
「……あとでファミリーから、挨拶にでも行った方がいいかもな」
本日休業と書かれた板が、ドアの前に寂しげにぶら下がっている。俺はこの店に立ち寄ったことがあった。店主の奥さんとやらには会ったことがなかったが、店主の顔は知っている。
店は清潔で手入れが行き届いていた。きっと二人で手間暇をかけて維持していたんだろう。
「葬式に花は?」
「送ってあるだろ。うちのドンはそこら辺しっかりしてるっつーか、礼儀には厳しいからな」
「……そうか。ならいいんだが」
――ディーマはそういうところが真面目だよな。仲間たちがそう言いながらヘラヘラと笑う。今時、堅気を守るヤクザなどというイメージは古くさいし、時流ではない。そうだと分かってはいるが、やはり普段から信頼関係だけはしっかりと築いておきたいと思う。
いざとなった時――、刺される側ではいたくないからだ。
「そういえば、この前……」
話題はすぐに変わっていく。形だけは周りに合わせておきながら、俺の頭の中では弱々しい這いつくばるようなか細い音色が、こびりつくように頭を支配されて仕方がなかった。
しばらくして――喪が明けたからだろう、店は開いていた。
俺は一番いいスーツを着て、花を持って仕込み中だと書かれた札のかかった扉を数度ノックした。
「……今はまだですよ」
男の声がする。きっとこの店の店主だろう。
「ベッローネの者だ」
「…………どうぞ」
静かに扉が開いた。店の中は薄暗く、窓からわずかに差し込む光だけが中を照らしている。
「……あの、何かご用でしょうか」
「こんにちは。いきなり押しかけて申し訳ない。……この度は、ご愁傷様です。心からお悔やみを」
「ありがとうございます。ベッローネの方には、すでに弔電もいただいておりましたが、まさか直接ご挨拶に来ていただけるとは……。こんな格好で申し訳ありません」
「いえ、こちらも連絡もなしに来てしまったので。……これは、こちらからの気持ちです。どうぞ受け取ってください」
……本当なら、俺のような末端の構成員ではなく、幹部クラスの人間が向かうべきだ。しかし、これあくまでは非公式の訪問。
誰かに命令されたわけでもなく、俺の独断で行っていることでしかない。相手を信用させるためにファミリーの名前を出したが、これも本当ならする必要のないことだ。
「あの、少し聞きたいことが……」
俺が口を開きかけた瞬間、耳に飛び込んできたのは聞き慣れたメロディだった。
「ナマエ! 辞めなさい!」
店の奥、隅に置かれたピアノを弾き始めた少女の姿が見えた。店主の娘とやらは、この子なのか。
店主は大声を上げてすぐ彼女に駆け寄る。拙い演奏を始めた彼女を無理矢理ピアノから引き剥がすと、血相を変えて怒鳴りだした。
「弾いてはいけないと、あれほど言っただろう! 今は偉い人も来ているんだ! どうして……、どうして今弾こうとした? 言いなさい!」
「……一日弾かないと、三日分下手くそになるよ」
父親は彼女をぶった。まるで俺がいないかのように、突如として娘に暴力を振るったその様は、先ほどの丁寧な印象からはほど遠い。
「……」
顔を強く叩かれても、彼女は反応しなかった。代わりに、ガラス越しに物を見るかのようにこちらをじっと見つめている。
「……娘さんを、殴るのは辞めた方がいいですよ」
俺は精々、こんなことを言うことくらいしかできない。
顔を真っ赤にした店主は、俺の声を聞いて渋々といった様子で娘から手を離した。
「……すみません、ベッローネの方の前でこんな」
「……ピアノ、娘さんが好きなら弾かせてあげたらいいのでは」
「ああ、それだけは勘弁してください……」
――妻を思い出すんだろう。
言葉にせずとも、彼が言いたいことは理解できた。
「お辛い気持ちは理解できます。けれど、暴力だけはいけません。あなたの奥さんだって、きっと悲しむ」
「そんなことないよ」
「……ナマエ!」
意外にも、ナマエと呼ばれた少女ははっきりと声を出した。
「お母さんは、わたしが間違えるとすぐ手をぶったよ。でも、上手くなるにはそうするしかないんだって。わたしには才能がないから、体で覚えるのが早いって言ってた」
制服の腕を捲って、彼女はこちらに腕を見せてくる。子供らしい柔らかそうな腕には、無数の赤い痕が走っている。
「お母さんの言いつけを守らないと、よくないんだよ。練習したいからお父さんは仕事してて」
なんてことはない。当たり前のことのように、平然と彼女は言ってのけた。
「…………虐待、じゃないか」
ピアノの上にはナマエと、この前亡くなったばかりの母親であろうと思われる女性が、ドレスを着て並んで立っている写真が飾られていた。コンクールか何かの写真だろう。母親の優しそうな顔と、ナマエの体の傷はあまりにも結びつかない。
――こんな時、俺はどうしたらいいのだろう。
マフィアが暴力はいけませんなんて言っても、なんの説得力もない。だからといって、子供が殴られているのを黙っているわけにもいかない。
「すみません、すみません……。このことは、どうか、内密に……」
「児童相談所には」
自分でも何を言っているのだろうと思う。公的な機関が腐敗しているのは周知の事実だ。反社会的分子の癖に、一丁前にまともな事を言う自分が馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
「すみません……すみません……許してください……」
「――っ!」
誰に対して謝罪しているのだろう。俺に対してなのか、それとも……全てにだろうか。
自分よりも年嵩の……恐らくドンと同じくらいの年の男性が、俺のような若造に対して必死に頭を下げている。娘は親に殴られても無感動で、助けてくれとも言われない。
――狂っている。
しかし、よくある不幸だと言われてしまえば何も言い返せない。
ごく普通の、どこにでもある話だ。俺一人が介入したって改善するかは分からない。なら……何もしない方が賢明なんじゃないか。
「…………」
ずっと床を見つめながら頭を下げ続ける父親、そして全くの初対面である俺を無視して、彼女はピアノを弾き始めた。
どこからどう見ても、彼女に音楽の才能がないことがわかった。運指はおぼつかないし、楽譜が読めているのかすら怪しい。毎日母親とつきっきりで練習してもこんな程度ならば、ピアノを続ける意味なんてないように思える。
けれど、ナマエは弾くことを辞めない。
何のためにそうしているのか、俺には理解できなかった。恐ろしいとすら感じるほどに、執拗に、譜面通りに指を動かそうともがしている。
「……ナマエ」
俺は彼女の横に歩み寄った。彼女の母親もきっと同じように横に立ってずっと娘を見ていたのだろう。
「ピアノ、続けたいか?」
「……マフィアの人、お母さんと同じこと言うんだ」
鍵盤の蓋にセットされている執拗に赤入れされて端も切れ切れな楽譜に目をやる。それを彼女の細い指が穏やかにめくる。何度も何度もそうしていたのだろう。
――メゾフォルテ=やや強く。ここは押しすぎに注意する。
子供の字だ。恐らく、彼女自身が書いた文字だろうということは容易に推察できた。
「俺なら、叩いたりしない先生を用意できる」
「……そうなんだ」
「俺はピアノは弾けないけど、ナマエにとっていい先生は見つけられるかもしれない。そうしたらもっと、上手くなれるよ」
「お母さんじゃない先生もいるの?」
「そうだよ。ナマエだって、学校に音楽の先生がいるのはわかるだろう? それと同じように、習い事で子供に音楽を教えてくれる先生がいるんだ」
俺と話をしながら、ナマエは一切こちらを見ようとしなかった。
答えてはくれるが反応は鈍い。
「それって、幾らするの?」
「……」
「お父さんは、音楽なんて金ばっかり掛かって儲からないから辞めさせろってお母さんによく言ってた。でも、お母さんは自分が教えるんだって言って、それでやらせてもらってたの。音楽って、食べていけないからって。うちにはそんな余裕ないんだって」
俺は横目で、店主の顔を見た。
赤裸々に家庭の事情をマフィアに暴露され、彼の顔は怯えきって青白くなってしまっている。
「……なぁ」
「…………娘が、大変失礼なことを……。も、もう、我が家の事情はお分かり頂けたでしょう。これ以上恥を晒したくないのです。お願いします、お帰り下さい……」
平身低頭でか細い声を上げる父親に、俺はそっと近づく。
「娘に手を上げる親父を、俺が黙って見過ごすと思うのか? ベッローネのファミリーが、守ってやるべき子供が、こんなとこになっているのに?」
――辞めておけばいい。放っておけ、見て見ぬふりをしろ。
自分の心の中でそんな叫びが聞こえてくる。介入すべきではないし、余計なお節介だ。これから先、もっと悲惨な目にあっている人間に俺はごまんと出会うだろう。ありふれた悲劇だ。自分一人で背負い込むのは、現実的ではない。
しかし、口は勝手に動いていた。
「娘のやりたいことくらい、やらせてやれ」
「わかっています。けれど、うちにはもう余裕がないんです……!」
悲痛な叫びが店に響いた。その後やってきた静けさをかき消すように、俺は口を開く。
「責任は、俺が取る。金なら幾らでも出す。あんたがやらないなら、俺がこの子に……なんだってやらせてやる」
息を呑む音が聞こえた。彼女は変わらず鍵盤を叩き続ける。穏やかなワルツの調べが激昂した俺を落ち着かせるように響いていた。
「……俺だって、今はただのヒラの構成員だ。金だって、そんなにあるわけじゃない。でも俺は、この状況に黙っているわけにはいかないんだ」
俺は財布からあるだけの札を取り出すと、机の上に叩きつけた。
「この金はあんたに貸してもない、俺はシラクーザの未来に投資しただけだ。もし別のことに……酒にでも使ったら、殺すからな」
はぁ、と俺はため息をつく。変わらず一定のリズムでピアノを奏でるナマエの横に、再び歩み寄る。
「……さっきのとこ、もっと優しく弾いたらいいんじゃないか」
mezzo piano――やや弱く、と書かれた箇所を指さしながら言うと、初めて彼女はこちらを向いた。
正面から見ると、やはり子供らしい丸みのある頬と、大きな二つの目がかわいらしい子供だと思った。
はじめて俺に興味を持ったのか、やっとピアノを演奏する手が止まる。小さな子供の手には、このピアノは大きすぎるように見えた。
「……いつも、お母さんにあなたのピアノがガサツだって言われてた」
俺はあのガタガタ響くような彼女の演奏を思い出した。たしかに、言われていることは概ね正しい。こんな軽いリズムの曲ですら、力いっぱい叩くように必死になって弾いているのだから。
――でも、それを俺は嫌いになれなかった。
こんなに細い指のどこからこんな力が出ているのか、もしかしたらもっとすごいことができるかもしれない。自分にはない能力を持った子供に、自分の夢を託すようで格好が悪いかもしれないが、俺は彼女に期待をかけることにした。
「大丈夫、いつか正しく弾けるようになるさ。……いや、俺がそうできるようにする」
「お兄さんが?」
「俺は楽譜なんてちょっとしか読めない」
「じゃあなんでそんなことを言ったの?」
くすくすと、初めて彼女が笑う。鈴を転がしたような笑い方に、仄かにだが母親の気配がした。
「――ナマエのこと、俺がずっと見ていてやるから」
「ずっと?」
「ああ。俺はもう、お前のことが結構好きなんだ」
願わくば、これがドンの理想を叶える一歩になればいい。
何もわかっていないナマエに微笑みかけると、彼女も模倣したようににこりと笑った。