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ヴェスパー部隊の食べログ
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暴力・捏造・ペイターの一人称に関して独自設定
虫の羽音のように体が震えている。
女は、自室の中で息を殺して縮こまっていた。
冷房や暖房は切られ、空気清浄機の音だけが虚しく響いている。自分の権限ではオフにできないからだ。
やがて来るであろう最悪の状況に対して抗う術を持っていなかった。
だから、部屋の隅っこで丸まってガタガタ震えているしかない。信じる神はいない。だから誰に祈るべきかわからない。
──畜生畜生、死ねばいいのに。
全てを呪うしかない。救ってくれる神がいないのであれば、自分で危害を願うしかない。
強化手術によって、彼女は人並み外れた聴覚を持っていた。だから、今部屋の前に立つ男の息遣いすらも、潜水艦のレーダーのように正確に拾うことができた。
──全員、裏切った。わたしを裏切った!
在らん限りの呪詛を吐いて、世界の全てを呪った。
「入りますよ」
男は、マスターキーでロックを解除すると、部屋の防犯用チェーンも素手で引きちぎった。彼は最新型の強化手術を受けていて、女よりも一世代秀でていた。
「…………く、くるな!」
「ダメじゃないですか。無断欠勤、今日で一週間ですよ」
「お、おお、おっ、お前がっ、お前がいるから……っ! こんなことになってるんだろうがぁっ……!」
「不登校ですか? 昔もこんなことがありましたね」
女は手に果物用ナイフを持っていた。部屋の隅でバリケードを作り、出鱈目に振り回しながら威嚇している。
その様子を観察しながら、男──ぺイターは臆することなく、悠々と歩み寄ってくる。
テロリストと交渉する警察のような構図だが、彼がここにやってきた理由は、企業にとっては毛ほどもどうでもいいような深刻さの欠片もない問題を解決するためだった。
「しっ……しねっ! マジでこれ以上入ったら殺すからな!」
「……無理ですよ。貴方が私を殺すのは」
「昔っから、その偉そうで抜け目のない態度が嫌いだったんだよ! そのスカした態度、なんでもわかってますみたいな顔しやがって……!」
女の顔は、怒りと混乱が入り混じって複雑な様相が浮かんでいる。
ペイターはそれを見て、素直に懐かしいな、と思った。数年前、全く同じ表情を浮かべる女を見たことを思い出した。それすらも、彼にとってはアルバムに収めておく素敵な思い出の一つだった。
「貴方に関するよくない噂を聞きました。あれも全て、嘘だって分かってますよ。貴方がそんな、誰とでも寝るような人間じゃないっていうのは、私が一番分かっていますから」
「き、気持ち悪いんだよ……昔は僕とか言ってたくせに……社会人になって一人称変えるとか、マジでつまんねぇの……!」
ペイターは、女が工夫して作り上げたバリケードを一蹴した。そうなることは分かりきっていたが、やはり時間をかけて組んだものを一発で壊されると、中々に堪えるものがあった。
「教練通りに組んでる。なんだかんだ授業は真面目に聞くタイプでしたよね」
「思い出語りなんて、クソほどどうでもいいんだよ。それより、今すぐわたしの前から消えてくれないですか……。……お前がアーキバスから消えたら、全部解決するんですけどっ!」
「うーん、入ってすぐ転職は、流石にマズいと思うんですよね。それに、せっかく入ったらトップになりたいじゃないですか」
「…………」
何も言う気がなくなった。
ナイフの切先を向けたままにしながら、隙を伺う。短期間の戦闘訓練しか受けていない割に、微塵も隙を見せてこない。
──昔から、こういうところが苦手、ってか嫌いだった。
「で、いつから出社してくれるんですか?」
「お前が死んだら」
「あはは、イルカのアシスタントじゃないんですから」
子供を諭すような口調で、顔には笑みを浮かべ、両手を上げながら近寄ってくる。
「僕たち、長い付き合いじゃないですか。そんなひどい言い方は辞めてください。流石に、傷つきます」
女は声にならない声を上げて、手に持っていたナイフを振り回した。
※
「…………ウソでしょ」
彼女がつぶやいた独り言は、誰の耳にも届かずに消えた。
現在眺めているブリーフィングの画面には、自分たちと他の部隊を含め、作戦に参加する全ての部隊員の名前が表示されている。
普段はなら何気なく流しで見るその一覧の中に、よく知った名前を見つけてしまった。
それは、女が学部生だった時に一瞬だけ交際していた男の名前だった。
思い出す度に吐き気を催すような男だった。非道なわけではなかった。意地が悪いわけでもなかった。犯罪者でも、クズでもなく、逆だった。真面目な人だった。周りから信頼され、頼られ、愛されていた。ちょっと空気が読めないところもご愛嬌で──けれど、だからこそ、嫌だった。
彼といると、自分が汚れていて、世界一醜いのではないかと錯覚してしまう。ただそこにいるだけなのに、生理的に嫌だった。その他にも、相手は悪くないけれど、どうしても噛み合わない、ムカつく、嫉妬する、感情の抑えが効かなくなるような、そんな漠然とした怒りに襲われた。
そして別に、好きでもなかった。
はっきり言えば、トロフィーワイフだった。
なんで自分のことを好きなのか、わからなかった。
──だから、卒業する前に切ってやったのに!
第五部隊の所属者の欄を指でなぞる。見間違いであるように期待を込めてそうしたが、残念なことにスペルまで完全に一致していた。
──絶対、こんなところで……ありえない。たまたま被っただけでしょ。
上層部から説明される任務の内容に必死に集中しようとするが、どうにも動悸がおさまらない。
明らかに顔色が悪くなって寒気すらも感じている女を案じる人間は、一人としていなかった。理由は分かり切っていて、彼女自身も自分の自業自得であることを理解していた。
敵基地への侵入方法について説明を受ける中、女は吐き気を堪えていた。全てが終わるとトイレに駆け込み、全て戻した。
生まれて初めて脱出装置のレバーを引いた時、たとえ助かっても誰も救いになんて来てくれないだろうな、と女は思った。
敵の射角から外れるように退避行動を取りつつ、燃料タンクから引火したメインエンジンと機体に見切りをつけて、コックピットを射出する。凄まじい衝撃と共に、申し訳程度にクッションが膨らんだ。
モニタがイカれているせいで、外の様子がわからない。
元からメインカメラとコンピュータが壊れていたので期待はしていなかったが、それでも閉鎖空間に一人きりというのは居心地が悪い。
この調子だと、脱出地点を知らせる信号も飛ばせたのか定かではないだろう。
……本当に着の身着のままどこかへ吹っ飛んでしまった。
教練に従ってその場で動かずにいるが、心は落ち着かなかった。絶対に使うまいと思っていたものを使ってしまった。自殺志願者ではなかったけれど、捕虜になって死んだ方がマシな目に遭うくらいだったら、苦しまずに爆散した方が絶対にいいと思う。
それでも女は予備電源を作動し、国際チャンネルに向けて救難信号を打ち込む。アーキバスで教えられる「有事の際の対応」のマニュアルが世界的に正しいかはわからないが、やらないよりはマシだろう。
「…………はぁ」
アドレナリンを出し切った体にドッと疲労感が押し寄せてくる。
弾幕を掻い潜りながら敵の戦艦に突貫させられた時は、本当にここで死ぬのではないかと思った。
まことしやかに囁かれている、「上層部はヴェスパーを使い潰すつもりだ」という不吉な噂は、新人を弾幕避けに使う作戦内容を見て確信に変わった。
どうせ死ぬんだったら、ここで死のうが後で死のうが、一緒だ。
目を閉じて、体を動かさないようにじっとしていると、嫌な光景が想像できた。脱出が間に合わずに爆発四散する自分の機体。先ほど一瞬でも判断を間違えたらきっとそうなっていただろう。
死が訪れる瞬間は、安らかであるらしい。ベッドの上だろうがコックピットの中だろうが同じだと思っているならばそれは間違いだ。窒息する人と老衰で死ぬ人が同じ感覚で死ねると思っているのだとしたら、嘘を信じているのだと教えてあげた。
「…………」
女は収納トレーから錠剤を取り出すと、ゼリーと一緒に飲み込んだ。数分経つと、意識は途切れた。
騒がしいな、と思って目を開けると、眩しいくらいに真っ白い天井が目に飛び込んできた。
しばらく閉じていたせいか、全ての物が自分にとって明るすぎた。体を起こしたかったけれど、身体中に何らかの管が刺されているらしく(点滴であると推察される)、動かそうとすると血管に刺さった針が存在を主張してくる。無理に上半身を起こそうとすると肩や腕がバキバキいうし、筋肉や贅肉がそげ落ちて体が軽くなりすぎているのがわかった。
考えすぎると、脳がミシミシと音を立ててきいきいと頭痛がしてくる。
なので、ぼーっとしていることにした。
女はナースコールの存在を知っていたが、押さなかった。仕切りの衝立越しに隣に人がいるのが気配でわかったので、ここが病院であることは何となく理解していたが、いきなり口を開いて、看護師に自分が何に困っているかを説明できる自信がなかった。
すみません、困っているんです。
どうしたんですか?
強いていうなら、全てに。
馬鹿げた会話だ。
しばらく動かしていなかった口角を釣り上げて笑う姿は不気味だったが、誰も見ていない。
女はひとしきり笑った後、震える腕を伸ばしてナースコールを押した。
ただでさえ騒がしい病室に、慌ただしい数の足音が響いた。看護師が医者を連れてやってきて、さまざまなことを聞いてきたが、その全てに素直に答えてやった。
「わたしは何日寝てたんですか」
「二週間ですよ。その間、ずっと体を動かさずに」
「また調整入りますか」
「死にかけた人間にいきなり手術はしません!」
「わたしって死にかけたんですか」
「栄養失調、脱水、低血圧、心拍数も下がった状態で発見されました。……指の数わかりますか?」
「三本」
「とりあえずは大丈夫そうですね」
看護師に支えられながら検査をいくつかこなした後、女は一ヶ月ほど入院することになった。
欲しいものがあったけれど、取りに行くように頼める相手はいない。
二日ほど天井を見上げて過ごした後、病室に見知った顔がやってきた。
「先の任務、ご苦労でした。病院でも構わず手を出していないか一応心配していましたが、その様子だと、立ち上がるのでやっとのようですね」
「スネ……第二隊長閣下、声が頭に障ります」
スネイルが入室してきた時点で、院内は静寂に包まれた。女は一応頑張って上半身を起こし、見舞いにやってきた上司と向き合う。
彼はパイプ椅子に腰を落とし、じっと点検するように女を見つめた。
「……医者の報告よりも元気に見えますが、まぁ、いいでしょう。非常時でもないのに兵士を使い潰すのは、私の主義に反します」
「……わたし、いつ退院できますか」
「現場に戻りたい、と?」
「こんなシケた部屋じゃなくて、自分の部屋で休みたいです」
「できることなら、貴方には一生入院していただきたいのですが、無理でしょうね」
スネイルはため息をついた。女の方を見ると、相変わらずの無表情で上司を見つめている。
大袈裟なため息と嫌味は、スネイルにとって呼吸と同じようなものである。彼の下でしばらく働いていた女にとって、それは朝に聞こえる鳥の囀り声よりも身近なものだった。
「まぁ、いいでしょう。それよりも、今日は貴方に合わせる人がいますので、紹介しましょう。貴方にとっては、もう既に知った顔だとは思いますが……」
「……?」
スネイルが仕切りのカーテンを開けると、そこには男が一人立っていた。
「お久しぶりですね」
そう言って女の名前を呼ぶ男の姿を見て、彼女は咄嗟に口を押さえた。
「私は隊員個人の生活には介入しないつもりですが、彼たっての強い希望があって、今回だけ特別に貴方が搬送された先の病院を教えてやりました。貴方の救難信号を拾って、瀕死の状態から救助したのは、ここにいる彼──ペイターですよ」
スネイルはそれだけ言うと、スッと黙ってしまった。その次にくる言葉を待っているかのようだった。
「…………っ」
いつまで経っても、女がお礼の言葉を口にすることはなかった。
スネイルは、子供を躾ける母親のような目線で女を睨んだが、女はそれすらも目に入っておらず、ただ一点、ペイターの姿だけを目を見開いて、具に観察するように見つめていた。
「彼女、言語に支障はないんですよね」
「そのようですが」
「緊張して、声が出ないのかな」
まるで幼児に言い聞かせるような口調だったので、女は咄嗟に反論しようとしたが、しかし、できなかった。
いくら頑張っても、口が開いては言葉にならない息だけが出てくるだけである。やっと声が出たかと思えば、言語らしいものではない喘ぎ声のようなものが、一瞬、聞こえたか聞こえないかくらいの声量で飛び出した。
「……私は帰ります。後は旧友同士交友を深めてください」
待って! と女は叫びたくなった。しかし、声は出なかった。
「そういう風に声が出ない方が、扱いやすくて助かります」
スネイルは履き捨てるように言うと、さっさと帰ってしまった。ペイターはその背後に向かって敬礼しているが、女は布団を握りしめて、歯の根が合わない顎をガタガタ鳴らして体を縮こませていた。
「横、失礼します」
「くっ、くる……な」
ベッドの横に椅子を引っ張ってきて、ペイターはそれに静かに座った。知らない人が見れば、心理カウンセラーと患者が話しているような静かな光景に見えただろう。しかし、女は心底ペイターを恐れていた。彼がそれに気づいているかはわからなかった。
「これはお返しします」
布団の上に置かれた識別票を、女は強引にひったくるように取り上げた。兵士の遺体を見分けるときに使用されるタグの片割れを持っているということは、スネイルが言ったことは本当なのだろう。真実に、絶望する。
それを手で触ると、ひんやりと冷たかった。
「まさか貴方が前線にいるだなんて、想像もしていませんでしたよ。私がいない間、何してました?」
「…………言っとくけど、絶対に答えないからな」
「つれない人だ! でもそんなところが好きだな」
ペイターの態度は、女にとっては悪夢でしかなかった。普段から口説いてくる輩は鬱陶しくて嫌いだったが、それ以上の「恐怖」を感じる。
「用事は、終わっただろ……。もう帰れよ、二度とそのツラ見たくないんだよ。もう縁が切れたんだって、わかんねぇのか? 元カレのくせに、いつまで経ってもネチネチネチネチ、着信拒否しても掛けてくるし、無視してるんだって、なんっでわかってくれないんだよ……!」
病院という逃げられない場所で詰めてくるのも、最悪だ。
女は、ナースコールを連打した。先ほどの怯える子犬のような態度から一転して、その手つきは速射手のような速さを一定に保っている。
「ナースコールが壊れますよ」
「うるさい、うるさいっ! お前が惑星をこえて追っかけてくるから、こんなことになってるんだろうがぁっ!」
ナースステーションから、警報並みのうるささのコールが聞こえる。慌ててやってきた看護師が、激昂する女とペイターの様子を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「わたしが悪いんじゃないっ! このクズが悪さして、早くこいつ追い出してください! 出禁にして!」
「とりあえず、落ち着いて!」
「こいつが消えたら落ち着くって!」
「静かにしないといけませんね。ここは病院ですから」
女は、手当たり次第そこらにあるものをペイターに投げつけた。手に負えないと判断した看護師が、応援を呼ぶ声が聞こえる。騒ぎを聞いて動ける入院患者たちの野次馬が集まる。
「お前さぁ、鬱陶しいんだよ。マジで、嫌いだって、ずっと言ってんだろ。わたしの親にも勝手に彼氏ですとか言いにいってさ、もう最悪なんだよ。どうせ出社したらわたしがお前の女だってみんな考えるんだろ。昔からそういう根回しが得意だったもんなぁ、優等生のペイターくんは! 人の話もろくに聞かないサイコ野郎がっ! 強化して頭のネジ余計に緩んだんだろっ! いっぺん脳みそ全部飛ばして、再構築してもらえよ! 再手術しろっ!」
「再手術になりそうなのは、貴方の方ですけどね」
「そっ、そうですよ! 反抗的な人は、もう一度……! わかりますよね⁉︎」
看護師の追撃を受けて、女は黙った。乱れた髪は汗で濡れている。入院生活で全身浴ができないため、油で塗ったように髪は艶めいていた。
「再手術は、やだ……。また頭がおかしくなるの、もうやだ」
「ですから、一旦、落ち着いて……。大丈夫ですから、この人にも、一回帰ってもらいますから! ほら、彼女もこの通りですし」
看護師に促され、ペイターは椅子を立った。しばらく女を見つめたのち、静かにその場を立ち去ろうと、女に背を向ける。
女はしばらく低い声でうめくと、識別票をペイターに投げつけた。それは当然、背中に当たって床に落ちる。
リノリウムの床に当たって、一瞬高い音を立てた後に、落下の衝撃でしばらく震えた。
「もう金輪際、関わるんじゃねえボケッ!」
彼は、振り返らなかった。
それからしばらくして、女は暇を持て余していた。リハビリはしんどいし、相変わらず病院の飯はまずい。そして何よりも、やることがないというのが一番の苦痛だった。
病院の売店で新聞を買って読んだりもしたが、自由に過ごせる時間の中で、それは一瞬で終わってしまう。他の患者と交流しようもなかった。あの一件のせいで、関わってはいけない要注意人物であると認識されてしまった。
自分は孤立しているのだという自覚は、女の精神を徐々に蝕んだ。ただでさえストレスにさらされる環境であるのに、暇を潰す術がないとよくない妄想を繰り返してしまう。
──どうして、自分が助かったのだろう。
あの任務で具体的に何人が殉職したのかは、知らされていない。
それでも、それなりの被害を出したのであろうということは、慌ただしい院内の様子や、運ばれる遺体の様子を見ていると嫌でも理解してしまう。
女は性善説を信じていなかった。そもそも、正直者だったからといって助かるとは思っていない。
それでも、思わずにはいられなかった。ただの運のツキで全てが違う結果になるのならば、なぜ自分は生きているのだろう──と。
普段から自分勝手に生きているだけの、無能な怠け者の自分が特段生存に特化しているわけでもない。あの時、咄嗟にレバーを引いていなければ死んでいたのに。
ここで生き残れた人間と死んだ人間の差異は?
そこまで考えて、たかが消耗品である兵士は、作戦上は変動する数値としてしか見られない以上、今の思考は無意味な考えであると切り捨てた。こういうことは、頭のいい人間が考えるべきことで、自分が思考を巡らせる必要はない。
外は真っ暗で、気が滅入りそうな空模様だ。耳をすませば、ポツボツと雨音が聞こえてくる。──その日は予報通り大雨が降った。
(何もすることがないなら……寝るか)
女は目を閉じた。リハビリを終えて酷使した全身の筋肉が悲鳴をあげている。
うとうととしながら睡魔に身を委ねようとする時、不意にカーテンが開いた。
「おや、昼寝の邪魔をしてしまいましたか」
「帰れ」
顔を見た瞬間水に頭を突っ込まれたように、眠気はどこかに飛んでいった。手に持った傘から雫が垂れている。そして、背中に大きなリュックサックを背負っていた。猛烈に嫌な予感がする。
「……まぁまぁ、今回は有意義な物も持ってきてあげましたから。っていうか、何もないのにここ一週間何してたんですか?」
ペイターはベッドに備え付けてあるサイドテーブルを引っ張り出すと、リュックサックを床におろし、その中から取り出したさまざまな物を、綺麗に並べ始めた。
「これがさっき本屋で買った新刊で、面白そうだったのでシリーズごと買ってきました。あとは、数学の参考書とか……大学を出てから、なにもしてないでしょう? ちょっとは勉強した方がいいんじゃないかと思って」
「はぁ……、余計なお世話なんですけど。今更赤本とか、見たくないし」
そう言うと、ペイターはムッとした顔をして、「勉強は大事ですよ!」と言い出した。その様子が子供のようだったので、女はため息をつく。
「……わたしと違って、あんたはちゃんと試験受けて入社したんだもんなァ。それなのにこーんな僻地に飛ばされて、超カワイソ」
「可哀想じゃないですよ」
「……ア?」
「私は、望んでヴェスパーに入りました」
そこまで聞いて、女は嫌な予感がした。それに続く言葉を聞いたら終わりだと思った。
「あなたがいるからですよ」
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃!
「……配属先は、ちょっとズルしちゃいました」
はにかみながらそう言ってモジモジし出したペイターを見て、女は素直に気味が悪いと感じた。自分から死にに行くようなものだ。アーキバスの実働部隊は「ハズレ」の場所なのに。配属ガチャの中で最も最悪な部類なのに。
こいつは、自ら、志願して、裏技まで使って、学生時代の女のために、命懸けのストーキングを。
「マゾ?」
「いいえ、痛いのは別に好きじゃないです。あぁ、そうだ。他にもお土産はあったんでした」
「お菓子ならいらないからね。ここ、飲食持ち込み禁止」
「私が規則を読まないでくると思いますか? ほら、貴方の好きなやつですよ」
そう言ってペイターが取り出したのは、ピンク色の玩具──ローターだった。
女は叫び出したくなるのを抑えて、大きく息を吸い込んだ。カーテンが閉まっているか、誰にも見られていないか、今まで気にしたことのないことが急激に気になり出してきた。
咄嗟に投げたローターを、ペイターは器用にキャッチする。
「……なぁ、わたしのこと馬鹿にしてんの⁉︎ ジョークなら一ミリも面白くないから!」
「失礼な! 真面目ですよ! 貴方が性依存のジャンキーだから、入院生活はさぞ苦労しているだろうという気遣いですよ」
「こんなモン置いてたら、わたしがド変態みたいじゃん! 使えるかっ! こんなの! 死ねっ!」
「性欲は恥ずべきことではありません」
「そういう話じゃねぇんだよ! この馬鹿!」
「パートナーの面倒を見るのも私の役目なので……」「お前にだけはお世話されたくないんですけど〜。しかも今、さらっとメチャクチャなこと言いやがったし。誰がパートナーだ、大学の時にちょろっと付き合ったくらいで夫気取りやがって……」
「え、夫ですか? 照れますね」
「国語0点か⁇」
「国語の成績は、小学校の初めてのテストで九十五点……次の小テストで満点……」
「自分のテストの結果全部覚えてんの、マジでキモいって!」
ここまで会話を続けて、女は自分がペイターのペースにうまい具合に嵌められていることに気づいた。
この夫婦漫才みたいなくだらない会話を止めないと、いつまでも中身のない話をして、相手を喜ばせてしまうだけだ。
「…………」
導き出した答えは、沈黙。
「え、どうしたんですか? お腹痛いんですか?」
「……」
「…………あの、月のアレですか?」
もう何も言うまい。女はわざとらしく大きなため息をつく。
ダメ押しとばかりに、出口の方も指差す。
「他の患者に迷惑だから、お前はもう帰れ。二度と来ないでください」
「…………仕方ないですね」
(何が仕方ないんだよ)
名残惜しそうに帰っていくペイターの背中を見て、女は軽く舌打ちする。
他の患者という言葉を出したおかげか、ごねられることもなく、あっさりと追い出せた。
(あーあ、入院先からは追い出せても、こいつは同じ会社にいるんだもんなー。ヴェスパーやめよっかな。操縦してんのも飽きたし、またドンパチやらされるのも嫌だし、もっと遠い田舎の星に行くのめっちゃだるいし。でも無職になると、実家から縁切られちゃうしなー。それはそれで死ぬよりだるいな……)
布団の上でゴロゴロしながら、将来について思いを馳せる。親は出来損ないの娘を勘当──もとい完璧な調和のとれた美しい家系図という共同体から存在を抹消したくて、こんなところに自分を捩じ込んだのだと思うと、死ぬほど泣けてきた。
戦死したら、名誉が得られるから、一回で二個お得だ。社員にもアピールになるし。
(どーせ、わたしが死んでも悲しむのはあのキモいやつ一人なんだろうなぁ……。色々やっちゃったし。あれも全部、手術のせいだけどさぁ……)
頭を少し横にずらすと、サイドチェストの上に筆記具が置いてあるのが見えた。枠線のついた紙も一緒にある。
「……」
それとなしに手を伸ばしてみると、久方ぶりに触る紙の感触があった。天井の蛍光灯の灯りを受けて、それはやや生ぬるい温度を伴っている。
──暇だし、何か書こうかな。
女は、かつて読んだ病床の少女の日記を思い出した。それは世界的ベストセラーの一冊で、未成年が難病で死に至ったというよくある感傷的なストーリーラインを差し引いても、それなりに読ませる内容だった。人間は死に瀕すると、筆が冴えるのだ。
「……あ」
脳内で、ある一つのくだらないアイデアを思いつてしまった。
(無職になっても、本が売れたら生活は大丈夫じゃん)
女はそんな下心を元に、筆を取った。名誉も人権意識も女には欠如していた。──書いた内容は、そういうことだ。
※
「ス……閣下、少しお話ししたいことが」
「……なんですか、手短に言いなさい」
退院してからしばらく経った。
怪我の後遺症もあってか、女はしばらく前線には出なくても良いというお達しが出て、訓練の時間は同じような復帰兵とリハビリに取り組み、それ以外は事務方の仕事をするようになった。
「あのー、第五隊長のとこの、デュアルネイチャーに乗ってるやつについてなんですけど……。あいつ、わたしがいない間に何か言ってましたか?」
「…………はぁ、私は部下のプライベートには関わらないと前々から何度も言っているでしょう。修羅場に巻き込まれたくはありませんので、黙秘します」
「そーですか……」
「えぇ、そういうことです。そんなくだらないことよりも、このスネイルの部下だという自覚を持ち、より一層仕事に励みなさい」
「…………」
いつだってスネイルは、本当に必要な情報を素直に教えてくれない。女がこの会社でまともに会話ができるのは、一応の上司であるスネイルただ一人だけであるのに。
「気になって、仕事のパフォーマンスが落ちてます」「はぁ?」
「見てください、これが復帰前の数値。こっちが復帰して以降の数値。グラフにすると一目瞭然、わたしのパフォーマンスは以前に比べて低下しています。この明らかに注意力が散漫している原因は、メンタルヘルスの異常によるものです。上司として解決すべき問題なのでは」
スネイルは、女が三秒ででっち上げた嘘のグラフをみると、こめかみを抑えて大きなため息をついた。これだけで、小心な人間は怯えて声も出なくなるであろうパワハラじみた行為だった。
「それに、わたしは閣下の個人的な趣味を知っていることをお忘れなく」
「…………っ!」
女が小声で囁くと、スネイルはわかりやすく動揺した。周りに人がいないことを確認すると、早口の小声で捲し立てるように喋り出す。
「…………いいですか、これは私が個人的に聞いた話であり、ここにいる誰でも知っているようなくだらない噂話です。あの新卒と、貴方が、交際しているという噂は、確かにあります。だから、なんだと言うんです。色恋の馬鹿げた噂なんて、無視していればすぐに忘れられます。戯言を気にしたら負けです。いいですね? わかりましたか? ……私はこれ以上、低俗な、高校生のお喋り以下のやりとりをすることを拒否します。これ以上は他の社員に聞くことですね」
あぁ馬鹿馬鹿しい、くだらない。
そんなことをぶつぶつと言いながら、スネイルは部屋から出ていった。
「あーあ……」
──予想していたこととはいえ、スネイルの耳に入るまで裏工作をしていたとは。
先ほど淹れたコーヒーを一気飲みすると、カフェインを注入して少しスッキリした頭で、先ほどの言葉を反芻する。
「あの馬鹿、一回わからせてやる……」
「誰が馬鹿ですって」
「っ……⁉︎」
「わからせるって、何をですか? 私はお手伝いできますよ」
部屋にぬっと入ってきたペイターを見て、女は手に持っていた紙コップをひっくり返しそうになった。
「はっ……ハァ……なんで、ここに」
「なんでって、同じオフィスで働いてるじゃないですか。スネイルが出ていったから、誰がいるんだろうって気になっただけですよ。でも、ここに貴方がいるなんてラッキーでした。で、何を話してたんですか?」
「業務上の守秘義務」
「そうですか、でもさっき言ってた馬鹿っていうのは、誰なんでしょう」
「お・ま・え」
「私……?」
「いらない噂広めやがって……。わたしに迷惑かけてる第五部隊のペイター、お前だよ」
「噂も何も、事実ですよ!」
「卒論出し終わった後、お前をフったんだろうが!」
女の脳裏には、学部トップの成績で、首席だけが羽織れるガウンを着て、卒業式のスピーチをしていた大学時代のペイターの憎たらしい姿が浮かんだ。
思い返せば長くなるが、狡い真似をして成り上がることに罪悪感を抱かないペイターの性格は、昔から現在に至るまで一点の曇りもなく、何一つとして変わっていないであろうことは明白だった。
「あぁ……、あの時は僕らメンタルもフィジカルもボロボロでしたから……。だから、ノーカンです」
「あの後アプリも全部ブロックしたんですけど」
「大丈夫ですよ、また会えました。愛し合う二人は、決して離れることはありません。物理で遠ざかっていても、心は一つです」
「違う違う違う。運命とかじゃないから」
「はい、運命論は信用できないので、できる限り頑張りました!」
評するならば、お手本のような好青年の笑顔でペイターは微笑んだ。それと比例して、女の眉間に皺が増えていく。女は、自分は元彼と会話するとストレスで老け込むタイプなのだと悟った。スネイルもそのタイプだろうな、とも思った。
「あーあ、そんなペイターくんの頑張り物語、わたしみたいな阿婆擦れに使っちゃっていいのかな? わたし、お前がいない間に第七隊長まで全員……食ったけど」
「ええ、構いません。貴方が性依存の病人で、セックス狂いで、愛情に飢えているアダルトチルドレンで、自己愛者で、破綻した思考の持ち主で、それでいて、親の権力があって、ちょっと頭が回るからなんとか社会でやっていけてる異常者なのは、私が一番知ってます。なんなら、サークルでも全員とヤってたのも知ってますよ」
「そ、それしっ……」
「私も、貴方に殴られながらじゃないと勃たなくなりました」
ペイターは、顔をグッと女に近づけた。お互いの息使いがわかるような距離だ。
「お互い、異常者なんですよ。私は二重人格ってよく言われます。阿婆擦れとサイコパス、お似合いじゃないですか」
「それじゃあもう、わたしは一生一人でいるよ。孤独に生きて、一人で死んでやる」
女は、ペイターの顔面に向かって唾を吐いた。手袋があればそれを投げつけていただろう。毎朝丁寧に、良い人間であるようにと化粧が施され、整えられた顔がたった一つの悪意で台無しになる。
「いいですよ、別に。怒ってませんよ。前にクンニしたでしょう、あれと同じですよ」
言い方が学校の先生じみていたが、長い付き合いである女にはわかった。
ペイターは、普通に、キレている。
ポケットから取り出したハンカチで顔を拭いながら、ペイターは女をじっと見ていた。
その様子を見ていると、愉快でたまらない。普段滅多に怒らない、感情も表に出さない、自分にとって不愉快な存在が、感情を出して怒っている。
女は調子に乗った。
上手く行ったからと、調子に乗りすぎてしまった。
「隊長にでもなったら、一回くらいならヤらせてやるよ! まぁ、お前みたいなのは、戦場で油断して流れ弾かなんかで死ぬんだろうけど──」
「…………言いましたね」
脳内で、レールガンか何かに狙撃されて爆発するACの姿を思い浮かべていると、地の底を這うような声が刺さった。
「隊長になったら、セックス、させてくれるんですね」
「え、えぇ……? まーでも、どーせお前みたいなやつはスピード出世しそうだし……、あー、一年以内になったら、ヤらせてやるよ。ファンデーションでもコンシーラーでも隠せないくらいベコベコに殴ってやろうかな」
「一年ですね」
「お前さぁ……マジでなれると思ってんの? 無理だって、あの第四隊長じゃなくせに。舐めてんの?」
「そっちこそ、私を舐めているとしか言いようがない」
覇気が凄い。ペイターの背後から、何か漆黒めいたものが放出されているような気がした。
(……あれ、これもしかしてこれはわたしやっちゃった系か? ヤバい? ……まぁでも、いくらヴェスパーといえど、こいつが一年で自分の部隊持てるようになるなんて、無理でしょ……)
「なんでもやりますよ、なんでもね」
ペイターはそう言うと、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。
「…………ばーか、無理に決まってんの」
苦し紛れに呟いた声は、誰にも聞こえることなく、空虚に消えていった。
※
勲章を授与されているペイターを見た。
「なっ……」
女を救助したことや、その他様々な功績で授与されたものだった。彼の軍人──新兵の鑑としての晴れやかな姿、表彰されている様子が社内に向けて中継されている。
「お前の彼氏さぁ、すげえな」
「彼氏じゃない……」
皮肉にも、恋仲であることで噂をたてられて以降、女の自業自得で地に落ちた評価は日を追うごとに上昇していた。
「あの」ペイターの女なら、こいつは信用できるだろう。いい意味での風評被害によって、女の悪事や醜聞は上書きされていった。
伝説のヤリマン、誰とでも寝る女、阿婆擦れ、裏口入社という噂(事実)は、もうすでに過去のものになっている。
女は、かつてスネイルに言われた言葉を思い出した。最悪の方法で、それが正しいことが証明された。
「あはは、マジで冗談うまいよな〜お前」
「冗談じゃない……」
最高に美味しいはずの昼食のガパオライスがうまく喉を通らない。食堂内全ての液晶モニタに映っているので、逃げようがない。
そもそも、この集団でのランチ自体が苦痛だ。別に友達を作りに会社に来ているわけじゃない。第四隊長がいない時の第三隊長みたいに、ソロでお昼を食べたい。
画面の中のペイターは、嘘みたいに綺麗な笑顔を浮かべてインタビューに応じている。
(こいつら全員、騙されてる……)
人柄の良さで、外様の傭兵への窓口も任されているというのが信じられない。
本当はこいつ、殴られて射精するマゾなんだぞ、と言っても絶対に信じてくれないだろう。
むしろ、そんなことを言ったら自分の評価が底辺まで逆戻りだ。完全に頭がおかしいやつ扱いされてしまう。
「今の第八隊長、センター送りになったんだろ?」
「じゃあ、次の隊長はペイターかな」
「……ちょっとそれは早すぎない?」
「なんで、あの人が戻ってこない前提で話すんですか……。賄賂をもらったくらいなんですよね。じゃあすぐに戻ってくると思うんですけど」
「無理だろ。あいつはスネイルに楯突いたから、ファクトリー行きだ」
ゲラゲラと笑いながら、他の隊員たちは談笑を続ける。
「…………」
「お前、今更ファクトリーが非人道的だとか、言い出すんじゃないよな? こんなこと、どこの企業もやってるんだ。この時代にそんなこと、言ってる場合じゃないだろ。ヴェスパーはいっつも人手が足りてないんだし。……ま、あのお人好しの彼女だったら、クズの人権問題についても考えるか……」
そうじゃない、とは言えなかった。
その全てが、あいつの陰謀かもしれないと考えると末恐ろしかった。
ペイターは、全てにおいて、主席という立場を虎視眈々と狙っている上昇志向の塊だ。絶対にやらないとは言い切れない。
それと同時に、わざわざ密告するようなタイプだとは思えなかった。年上や目上の人間に対して、しっかりと甘えるタイプだ。自分からは手をかけにはいかないだろう。
「……ムカつくくらい運のいいやつ」
画面の中のペイターは、自分の父親からもらった勲章を、メディアに向けて掲げていた。
端的に言えば、複雑な気持ちだ。普段滅多に会わない、会話もしない父親が画面の中にいて、嫌いなやつに笑顔で勲章を授与している。
──羨ましいな。
外面だけがいいところが、父とペイターの共通点だと言える。嘘の笑顔でもいいのに、この顔を娘に向けてくれたことはない。
父親のことは嫌いだったが、血縁というものは生きている以上意識しない日はない。その点、ペイターの甘え上手で世渡り上手で、親にも愛されていることが羨ましい。
自分にはないものを、彼は全て持っている。
全ての運命が自分を呪っていて、ペイターには味方している。そんな気がした。
虫の羽音のように体が震えている。
女は、自室の中で息を殺して縮こまっていた。
冷房や暖房は切られ、空気清浄機の音だけが虚しく響いている。自分の権限ではオフにできないからだ。
やがて来るであろう最悪の状況に対して抗う術を持っていなかった。
だから、部屋の隅っこで丸まってガタガタ震えているしかない。信じる神はいない。だから誰に祈るべきかわからない。
──畜生畜生、死ねばいいのに。
全てを呪うしかない。救ってくれる神がいないのであれば、自分で危害を願うしかない。
強化手術によって、彼女は人並み外れた聴覚を持っていた。だから、今部屋の前に立つ男の息遣いすらも、潜水艦のレーダーのように正確に拾うことができた。
──全員、裏切った。わたしを裏切った!
在らん限りの呪詛を吐いて、世界の全てを呪った。
「入りますよ」
男は、マスターキーでロックを解除すると、部屋の防犯用チェーンも素手で引きちぎった。彼は最新型の強化手術を受けていて、女よりも一世代秀でていた。
「…………く、くるな!」
「ダメじゃないですか。無断欠勤、今日で一週間ですよ」
「お、おお、おっ、お前がっ、お前がいるから……っ! こんなことになってるんだろうがぁっ……!」
「不登校ですか? 昔もこんなことがありましたね」
女は手に果物用ナイフを持っていた。部屋の隅でバリケードを作り、出鱈目に振り回しながら威嚇している。
その様子を観察しながら、男──ぺイターは臆することなく、悠々と歩み寄ってくる。
テロリストと交渉する警察のような構図だが、彼がここにやってきた理由は、企業にとっては毛ほどもどうでもいいような深刻さの欠片もない問題を解決するためだった。
「しっ……しねっ! マジでこれ以上入ったら殺すからな!」
「……無理ですよ。貴方が私を殺すのは」
「昔っから、その偉そうで抜け目のない態度が嫌いだったんだよ! そのスカした態度、なんでもわかってますみたいな顔しやがって……!」
女の顔は、怒りと混乱が入り混じって複雑な様相が浮かんでいる。
ペイターはそれを見て、素直に懐かしいな、と思った。数年前、全く同じ表情を浮かべる女を見たことを思い出した。それすらも、彼にとってはアルバムに収めておく素敵な思い出の一つだった。
「貴方に関するよくない噂を聞きました。あれも全て、嘘だって分かってますよ。貴方がそんな、誰とでも寝るような人間じゃないっていうのは、私が一番分かっていますから」
「き、気持ち悪いんだよ……昔は僕とか言ってたくせに……社会人になって一人称変えるとか、マジでつまんねぇの……!」
ペイターは、女が工夫して作り上げたバリケードを一蹴した。そうなることは分かりきっていたが、やはり時間をかけて組んだものを一発で壊されると、中々に堪えるものがあった。
「教練通りに組んでる。なんだかんだ授業は真面目に聞くタイプでしたよね」
「思い出語りなんて、クソほどどうでもいいんだよ。それより、今すぐわたしの前から消えてくれないですか……。……お前がアーキバスから消えたら、全部解決するんですけどっ!」
「うーん、入ってすぐ転職は、流石にマズいと思うんですよね。それに、せっかく入ったらトップになりたいじゃないですか」
「…………」
何も言う気がなくなった。
ナイフの切先を向けたままにしながら、隙を伺う。短期間の戦闘訓練しか受けていない割に、微塵も隙を見せてこない。
──昔から、こういうところが苦手、ってか嫌いだった。
「で、いつから出社してくれるんですか?」
「お前が死んだら」
「あはは、イルカのアシスタントじゃないんですから」
子供を諭すような口調で、顔には笑みを浮かべ、両手を上げながら近寄ってくる。
「僕たち、長い付き合いじゃないですか。そんなひどい言い方は辞めてください。流石に、傷つきます」
女は声にならない声を上げて、手に持っていたナイフを振り回した。
※
「…………ウソでしょ」
彼女がつぶやいた独り言は、誰の耳にも届かずに消えた。
現在眺めているブリーフィングの画面には、自分たちと他の部隊を含め、作戦に参加する全ての部隊員の名前が表示されている。
普段はなら何気なく流しで見るその一覧の中に、よく知った名前を見つけてしまった。
それは、女が学部生だった時に一瞬だけ交際していた男の名前だった。
思い出す度に吐き気を催すような男だった。非道なわけではなかった。意地が悪いわけでもなかった。犯罪者でも、クズでもなく、逆だった。真面目な人だった。周りから信頼され、頼られ、愛されていた。ちょっと空気が読めないところもご愛嬌で──けれど、だからこそ、嫌だった。
彼といると、自分が汚れていて、世界一醜いのではないかと錯覚してしまう。ただそこにいるだけなのに、生理的に嫌だった。その他にも、相手は悪くないけれど、どうしても噛み合わない、ムカつく、嫉妬する、感情の抑えが効かなくなるような、そんな漠然とした怒りに襲われた。
そして別に、好きでもなかった。
はっきり言えば、トロフィーワイフだった。
なんで自分のことを好きなのか、わからなかった。
──だから、卒業する前に切ってやったのに!
第五部隊の所属者の欄を指でなぞる。見間違いであるように期待を込めてそうしたが、残念なことにスペルまで完全に一致していた。
──絶対、こんなところで……ありえない。たまたま被っただけでしょ。
上層部から説明される任務の内容に必死に集中しようとするが、どうにも動悸がおさまらない。
明らかに顔色が悪くなって寒気すらも感じている女を案じる人間は、一人としていなかった。理由は分かり切っていて、彼女自身も自分の自業自得であることを理解していた。
敵基地への侵入方法について説明を受ける中、女は吐き気を堪えていた。全てが終わるとトイレに駆け込み、全て戻した。
生まれて初めて脱出装置のレバーを引いた時、たとえ助かっても誰も救いになんて来てくれないだろうな、と女は思った。
敵の射角から外れるように退避行動を取りつつ、燃料タンクから引火したメインエンジンと機体に見切りをつけて、コックピットを射出する。凄まじい衝撃と共に、申し訳程度にクッションが膨らんだ。
モニタがイカれているせいで、外の様子がわからない。
元からメインカメラとコンピュータが壊れていたので期待はしていなかったが、それでも閉鎖空間に一人きりというのは居心地が悪い。
この調子だと、脱出地点を知らせる信号も飛ばせたのか定かではないだろう。
……本当に着の身着のままどこかへ吹っ飛んでしまった。
教練に従ってその場で動かずにいるが、心は落ち着かなかった。絶対に使うまいと思っていたものを使ってしまった。自殺志願者ではなかったけれど、捕虜になって死んだ方がマシな目に遭うくらいだったら、苦しまずに爆散した方が絶対にいいと思う。
それでも女は予備電源を作動し、国際チャンネルに向けて救難信号を打ち込む。アーキバスで教えられる「有事の際の対応」のマニュアルが世界的に正しいかはわからないが、やらないよりはマシだろう。
「…………はぁ」
アドレナリンを出し切った体にドッと疲労感が押し寄せてくる。
弾幕を掻い潜りながら敵の戦艦に突貫させられた時は、本当にここで死ぬのではないかと思った。
まことしやかに囁かれている、「上層部はヴェスパーを使い潰すつもりだ」という不吉な噂は、新人を弾幕避けに使う作戦内容を見て確信に変わった。
どうせ死ぬんだったら、ここで死のうが後で死のうが、一緒だ。
目を閉じて、体を動かさないようにじっとしていると、嫌な光景が想像できた。脱出が間に合わずに爆発四散する自分の機体。先ほど一瞬でも判断を間違えたらきっとそうなっていただろう。
死が訪れる瞬間は、安らかであるらしい。ベッドの上だろうがコックピットの中だろうが同じだと思っているならばそれは間違いだ。窒息する人と老衰で死ぬ人が同じ感覚で死ねると思っているのだとしたら、嘘を信じているのだと教えてあげた。
「…………」
女は収納トレーから錠剤を取り出すと、ゼリーと一緒に飲み込んだ。数分経つと、意識は途切れた。
騒がしいな、と思って目を開けると、眩しいくらいに真っ白い天井が目に飛び込んできた。
しばらく閉じていたせいか、全ての物が自分にとって明るすぎた。体を起こしたかったけれど、身体中に何らかの管が刺されているらしく(点滴であると推察される)、動かそうとすると血管に刺さった針が存在を主張してくる。無理に上半身を起こそうとすると肩や腕がバキバキいうし、筋肉や贅肉がそげ落ちて体が軽くなりすぎているのがわかった。
考えすぎると、脳がミシミシと音を立ててきいきいと頭痛がしてくる。
なので、ぼーっとしていることにした。
女はナースコールの存在を知っていたが、押さなかった。仕切りの衝立越しに隣に人がいるのが気配でわかったので、ここが病院であることは何となく理解していたが、いきなり口を開いて、看護師に自分が何に困っているかを説明できる自信がなかった。
すみません、困っているんです。
どうしたんですか?
強いていうなら、全てに。
馬鹿げた会話だ。
しばらく動かしていなかった口角を釣り上げて笑う姿は不気味だったが、誰も見ていない。
女はひとしきり笑った後、震える腕を伸ばしてナースコールを押した。
ただでさえ騒がしい病室に、慌ただしい数の足音が響いた。看護師が医者を連れてやってきて、さまざまなことを聞いてきたが、その全てに素直に答えてやった。
「わたしは何日寝てたんですか」
「二週間ですよ。その間、ずっと体を動かさずに」
「また調整入りますか」
「死にかけた人間にいきなり手術はしません!」
「わたしって死にかけたんですか」
「栄養失調、脱水、低血圧、心拍数も下がった状態で発見されました。……指の数わかりますか?」
「三本」
「とりあえずは大丈夫そうですね」
看護師に支えられながら検査をいくつかこなした後、女は一ヶ月ほど入院することになった。
欲しいものがあったけれど、取りに行くように頼める相手はいない。
二日ほど天井を見上げて過ごした後、病室に見知った顔がやってきた。
「先の任務、ご苦労でした。病院でも構わず手を出していないか一応心配していましたが、その様子だと、立ち上がるのでやっとのようですね」
「スネ……第二隊長閣下、声が頭に障ります」
スネイルが入室してきた時点で、院内は静寂に包まれた。女は一応頑張って上半身を起こし、見舞いにやってきた上司と向き合う。
彼はパイプ椅子に腰を落とし、じっと点検するように女を見つめた。
「……医者の報告よりも元気に見えますが、まぁ、いいでしょう。非常時でもないのに兵士を使い潰すのは、私の主義に反します」
「……わたし、いつ退院できますか」
「現場に戻りたい、と?」
「こんなシケた部屋じゃなくて、自分の部屋で休みたいです」
「できることなら、貴方には一生入院していただきたいのですが、無理でしょうね」
スネイルはため息をついた。女の方を見ると、相変わらずの無表情で上司を見つめている。
大袈裟なため息と嫌味は、スネイルにとって呼吸と同じようなものである。彼の下でしばらく働いていた女にとって、それは朝に聞こえる鳥の囀り声よりも身近なものだった。
「まぁ、いいでしょう。それよりも、今日は貴方に合わせる人がいますので、紹介しましょう。貴方にとっては、もう既に知った顔だとは思いますが……」
「……?」
スネイルが仕切りのカーテンを開けると、そこには男が一人立っていた。
「お久しぶりですね」
そう言って女の名前を呼ぶ男の姿を見て、彼女は咄嗟に口を押さえた。
「私は隊員個人の生活には介入しないつもりですが、彼たっての強い希望があって、今回だけ特別に貴方が搬送された先の病院を教えてやりました。貴方の救難信号を拾って、瀕死の状態から救助したのは、ここにいる彼──ペイターですよ」
スネイルはそれだけ言うと、スッと黙ってしまった。その次にくる言葉を待っているかのようだった。
「…………っ」
いつまで経っても、女がお礼の言葉を口にすることはなかった。
スネイルは、子供を躾ける母親のような目線で女を睨んだが、女はそれすらも目に入っておらず、ただ一点、ペイターの姿だけを目を見開いて、具に観察するように見つめていた。
「彼女、言語に支障はないんですよね」
「そのようですが」
「緊張して、声が出ないのかな」
まるで幼児に言い聞かせるような口調だったので、女は咄嗟に反論しようとしたが、しかし、できなかった。
いくら頑張っても、口が開いては言葉にならない息だけが出てくるだけである。やっと声が出たかと思えば、言語らしいものではない喘ぎ声のようなものが、一瞬、聞こえたか聞こえないかくらいの声量で飛び出した。
「……私は帰ります。後は旧友同士交友を深めてください」
待って! と女は叫びたくなった。しかし、声は出なかった。
「そういう風に声が出ない方が、扱いやすくて助かります」
スネイルは履き捨てるように言うと、さっさと帰ってしまった。ペイターはその背後に向かって敬礼しているが、女は布団を握りしめて、歯の根が合わない顎をガタガタ鳴らして体を縮こませていた。
「横、失礼します」
「くっ、くる……な」
ベッドの横に椅子を引っ張ってきて、ペイターはそれに静かに座った。知らない人が見れば、心理カウンセラーと患者が話しているような静かな光景に見えただろう。しかし、女は心底ペイターを恐れていた。彼がそれに気づいているかはわからなかった。
「これはお返しします」
布団の上に置かれた識別票を、女は強引にひったくるように取り上げた。兵士の遺体を見分けるときに使用されるタグの片割れを持っているということは、スネイルが言ったことは本当なのだろう。真実に、絶望する。
それを手で触ると、ひんやりと冷たかった。
「まさか貴方が前線にいるだなんて、想像もしていませんでしたよ。私がいない間、何してました?」
「…………言っとくけど、絶対に答えないからな」
「つれない人だ! でもそんなところが好きだな」
ペイターの態度は、女にとっては悪夢でしかなかった。普段から口説いてくる輩は鬱陶しくて嫌いだったが、それ以上の「恐怖」を感じる。
「用事は、終わっただろ……。もう帰れよ、二度とそのツラ見たくないんだよ。もう縁が切れたんだって、わかんねぇのか? 元カレのくせに、いつまで経ってもネチネチネチネチ、着信拒否しても掛けてくるし、無視してるんだって、なんっでわかってくれないんだよ……!」
病院という逃げられない場所で詰めてくるのも、最悪だ。
女は、ナースコールを連打した。先ほどの怯える子犬のような態度から一転して、その手つきは速射手のような速さを一定に保っている。
「ナースコールが壊れますよ」
「うるさい、うるさいっ! お前が惑星をこえて追っかけてくるから、こんなことになってるんだろうがぁっ!」
ナースステーションから、警報並みのうるささのコールが聞こえる。慌ててやってきた看護師が、激昂する女とペイターの様子を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「わたしが悪いんじゃないっ! このクズが悪さして、早くこいつ追い出してください! 出禁にして!」
「とりあえず、落ち着いて!」
「こいつが消えたら落ち着くって!」
「静かにしないといけませんね。ここは病院ですから」
女は、手当たり次第そこらにあるものをペイターに投げつけた。手に負えないと判断した看護師が、応援を呼ぶ声が聞こえる。騒ぎを聞いて動ける入院患者たちの野次馬が集まる。
「お前さぁ、鬱陶しいんだよ。マジで、嫌いだって、ずっと言ってんだろ。わたしの親にも勝手に彼氏ですとか言いにいってさ、もう最悪なんだよ。どうせ出社したらわたしがお前の女だってみんな考えるんだろ。昔からそういう根回しが得意だったもんなぁ、優等生のペイターくんは! 人の話もろくに聞かないサイコ野郎がっ! 強化して頭のネジ余計に緩んだんだろっ! いっぺん脳みそ全部飛ばして、再構築してもらえよ! 再手術しろっ!」
「再手術になりそうなのは、貴方の方ですけどね」
「そっ、そうですよ! 反抗的な人は、もう一度……! わかりますよね⁉︎」
看護師の追撃を受けて、女は黙った。乱れた髪は汗で濡れている。入院生活で全身浴ができないため、油で塗ったように髪は艶めいていた。
「再手術は、やだ……。また頭がおかしくなるの、もうやだ」
「ですから、一旦、落ち着いて……。大丈夫ですから、この人にも、一回帰ってもらいますから! ほら、彼女もこの通りですし」
看護師に促され、ペイターは椅子を立った。しばらく女を見つめたのち、静かにその場を立ち去ろうと、女に背を向ける。
女はしばらく低い声でうめくと、識別票をペイターに投げつけた。それは当然、背中に当たって床に落ちる。
リノリウムの床に当たって、一瞬高い音を立てた後に、落下の衝撃でしばらく震えた。
「もう金輪際、関わるんじゃねえボケッ!」
彼は、振り返らなかった。
それからしばらくして、女は暇を持て余していた。リハビリはしんどいし、相変わらず病院の飯はまずい。そして何よりも、やることがないというのが一番の苦痛だった。
病院の売店で新聞を買って読んだりもしたが、自由に過ごせる時間の中で、それは一瞬で終わってしまう。他の患者と交流しようもなかった。あの一件のせいで、関わってはいけない要注意人物であると認識されてしまった。
自分は孤立しているのだという自覚は、女の精神を徐々に蝕んだ。ただでさえストレスにさらされる環境であるのに、暇を潰す術がないとよくない妄想を繰り返してしまう。
──どうして、自分が助かったのだろう。
あの任務で具体的に何人が殉職したのかは、知らされていない。
それでも、それなりの被害を出したのであろうということは、慌ただしい院内の様子や、運ばれる遺体の様子を見ていると嫌でも理解してしまう。
女は性善説を信じていなかった。そもそも、正直者だったからといって助かるとは思っていない。
それでも、思わずにはいられなかった。ただの運のツキで全てが違う結果になるのならば、なぜ自分は生きているのだろう──と。
普段から自分勝手に生きているだけの、無能な怠け者の自分が特段生存に特化しているわけでもない。あの時、咄嗟にレバーを引いていなければ死んでいたのに。
ここで生き残れた人間と死んだ人間の差異は?
そこまで考えて、たかが消耗品である兵士は、作戦上は変動する数値としてしか見られない以上、今の思考は無意味な考えであると切り捨てた。こういうことは、頭のいい人間が考えるべきことで、自分が思考を巡らせる必要はない。
外は真っ暗で、気が滅入りそうな空模様だ。耳をすませば、ポツボツと雨音が聞こえてくる。──その日は予報通り大雨が降った。
(何もすることがないなら……寝るか)
女は目を閉じた。リハビリを終えて酷使した全身の筋肉が悲鳴をあげている。
うとうととしながら睡魔に身を委ねようとする時、不意にカーテンが開いた。
「おや、昼寝の邪魔をしてしまいましたか」
「帰れ」
顔を見た瞬間水に頭を突っ込まれたように、眠気はどこかに飛んでいった。手に持った傘から雫が垂れている。そして、背中に大きなリュックサックを背負っていた。猛烈に嫌な予感がする。
「……まぁまぁ、今回は有意義な物も持ってきてあげましたから。っていうか、何もないのにここ一週間何してたんですか?」
ペイターはベッドに備え付けてあるサイドテーブルを引っ張り出すと、リュックサックを床におろし、その中から取り出したさまざまな物を、綺麗に並べ始めた。
「これがさっき本屋で買った新刊で、面白そうだったのでシリーズごと買ってきました。あとは、数学の参考書とか……大学を出てから、なにもしてないでしょう? ちょっとは勉強した方がいいんじゃないかと思って」
「はぁ……、余計なお世話なんですけど。今更赤本とか、見たくないし」
そう言うと、ペイターはムッとした顔をして、「勉強は大事ですよ!」と言い出した。その様子が子供のようだったので、女はため息をつく。
「……わたしと違って、あんたはちゃんと試験受けて入社したんだもんなァ。それなのにこーんな僻地に飛ばされて、超カワイソ」
「可哀想じゃないですよ」
「……ア?」
「私は、望んでヴェスパーに入りました」
そこまで聞いて、女は嫌な予感がした。それに続く言葉を聞いたら終わりだと思った。
「あなたがいるからですよ」
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃!
「……配属先は、ちょっとズルしちゃいました」
はにかみながらそう言ってモジモジし出したペイターを見て、女は素直に気味が悪いと感じた。自分から死にに行くようなものだ。アーキバスの実働部隊は「ハズレ」の場所なのに。配属ガチャの中で最も最悪な部類なのに。
こいつは、自ら、志願して、裏技まで使って、学生時代の女のために、命懸けのストーキングを。
「マゾ?」
「いいえ、痛いのは別に好きじゃないです。あぁ、そうだ。他にもお土産はあったんでした」
「お菓子ならいらないからね。ここ、飲食持ち込み禁止」
「私が規則を読まないでくると思いますか? ほら、貴方の好きなやつですよ」
そう言ってペイターが取り出したのは、ピンク色の玩具──ローターだった。
女は叫び出したくなるのを抑えて、大きく息を吸い込んだ。カーテンが閉まっているか、誰にも見られていないか、今まで気にしたことのないことが急激に気になり出してきた。
咄嗟に投げたローターを、ペイターは器用にキャッチする。
「……なぁ、わたしのこと馬鹿にしてんの⁉︎ ジョークなら一ミリも面白くないから!」
「失礼な! 真面目ですよ! 貴方が性依存のジャンキーだから、入院生活はさぞ苦労しているだろうという気遣いですよ」
「こんなモン置いてたら、わたしがド変態みたいじゃん! 使えるかっ! こんなの! 死ねっ!」
「性欲は恥ずべきことではありません」
「そういう話じゃねぇんだよ! この馬鹿!」
「パートナーの面倒を見るのも私の役目なので……」「お前にだけはお世話されたくないんですけど〜。しかも今、さらっとメチャクチャなこと言いやがったし。誰がパートナーだ、大学の時にちょろっと付き合ったくらいで夫気取りやがって……」
「え、夫ですか? 照れますね」
「国語0点か⁇」
「国語の成績は、小学校の初めてのテストで九十五点……次の小テストで満点……」
「自分のテストの結果全部覚えてんの、マジでキモいって!」
ここまで会話を続けて、女は自分がペイターのペースにうまい具合に嵌められていることに気づいた。
この夫婦漫才みたいなくだらない会話を止めないと、いつまでも中身のない話をして、相手を喜ばせてしまうだけだ。
「…………」
導き出した答えは、沈黙。
「え、どうしたんですか? お腹痛いんですか?」
「……」
「…………あの、月のアレですか?」
もう何も言うまい。女はわざとらしく大きなため息をつく。
ダメ押しとばかりに、出口の方も指差す。
「他の患者に迷惑だから、お前はもう帰れ。二度と来ないでください」
「…………仕方ないですね」
(何が仕方ないんだよ)
名残惜しそうに帰っていくペイターの背中を見て、女は軽く舌打ちする。
他の患者という言葉を出したおかげか、ごねられることもなく、あっさりと追い出せた。
(あーあ、入院先からは追い出せても、こいつは同じ会社にいるんだもんなー。ヴェスパーやめよっかな。操縦してんのも飽きたし、またドンパチやらされるのも嫌だし、もっと遠い田舎の星に行くのめっちゃだるいし。でも無職になると、実家から縁切られちゃうしなー。それはそれで死ぬよりだるいな……)
布団の上でゴロゴロしながら、将来について思いを馳せる。親は出来損ないの娘を勘当──もとい完璧な調和のとれた美しい家系図という共同体から存在を抹消したくて、こんなところに自分を捩じ込んだのだと思うと、死ぬほど泣けてきた。
戦死したら、名誉が得られるから、一回で二個お得だ。社員にもアピールになるし。
(どーせ、わたしが死んでも悲しむのはあのキモいやつ一人なんだろうなぁ……。色々やっちゃったし。あれも全部、手術のせいだけどさぁ……)
頭を少し横にずらすと、サイドチェストの上に筆記具が置いてあるのが見えた。枠線のついた紙も一緒にある。
「……」
それとなしに手を伸ばしてみると、久方ぶりに触る紙の感触があった。天井の蛍光灯の灯りを受けて、それはやや生ぬるい温度を伴っている。
──暇だし、何か書こうかな。
女は、かつて読んだ病床の少女の日記を思い出した。それは世界的ベストセラーの一冊で、未成年が難病で死に至ったというよくある感傷的なストーリーラインを差し引いても、それなりに読ませる内容だった。人間は死に瀕すると、筆が冴えるのだ。
「……あ」
脳内で、ある一つのくだらないアイデアを思いつてしまった。
(無職になっても、本が売れたら生活は大丈夫じゃん)
女はそんな下心を元に、筆を取った。名誉も人権意識も女には欠如していた。──書いた内容は、そういうことだ。
※
「ス……閣下、少しお話ししたいことが」
「……なんですか、手短に言いなさい」
退院してからしばらく経った。
怪我の後遺症もあってか、女はしばらく前線には出なくても良いというお達しが出て、訓練の時間は同じような復帰兵とリハビリに取り組み、それ以外は事務方の仕事をするようになった。
「あのー、第五隊長のとこの、デュアルネイチャーに乗ってるやつについてなんですけど……。あいつ、わたしがいない間に何か言ってましたか?」
「…………はぁ、私は部下のプライベートには関わらないと前々から何度も言っているでしょう。修羅場に巻き込まれたくはありませんので、黙秘します」
「そーですか……」
「えぇ、そういうことです。そんなくだらないことよりも、このスネイルの部下だという自覚を持ち、より一層仕事に励みなさい」
「…………」
いつだってスネイルは、本当に必要な情報を素直に教えてくれない。女がこの会社でまともに会話ができるのは、一応の上司であるスネイルただ一人だけであるのに。
「気になって、仕事のパフォーマンスが落ちてます」「はぁ?」
「見てください、これが復帰前の数値。こっちが復帰して以降の数値。グラフにすると一目瞭然、わたしのパフォーマンスは以前に比べて低下しています。この明らかに注意力が散漫している原因は、メンタルヘルスの異常によるものです。上司として解決すべき問題なのでは」
スネイルは、女が三秒ででっち上げた嘘のグラフをみると、こめかみを抑えて大きなため息をついた。これだけで、小心な人間は怯えて声も出なくなるであろうパワハラじみた行為だった。
「それに、わたしは閣下の個人的な趣味を知っていることをお忘れなく」
「…………っ!」
女が小声で囁くと、スネイルはわかりやすく動揺した。周りに人がいないことを確認すると、早口の小声で捲し立てるように喋り出す。
「…………いいですか、これは私が個人的に聞いた話であり、ここにいる誰でも知っているようなくだらない噂話です。あの新卒と、貴方が、交際しているという噂は、確かにあります。だから、なんだと言うんです。色恋の馬鹿げた噂なんて、無視していればすぐに忘れられます。戯言を気にしたら負けです。いいですね? わかりましたか? ……私はこれ以上、低俗な、高校生のお喋り以下のやりとりをすることを拒否します。これ以上は他の社員に聞くことですね」
あぁ馬鹿馬鹿しい、くだらない。
そんなことをぶつぶつと言いながら、スネイルは部屋から出ていった。
「あーあ……」
──予想していたこととはいえ、スネイルの耳に入るまで裏工作をしていたとは。
先ほど淹れたコーヒーを一気飲みすると、カフェインを注入して少しスッキリした頭で、先ほどの言葉を反芻する。
「あの馬鹿、一回わからせてやる……」
「誰が馬鹿ですって」
「っ……⁉︎」
「わからせるって、何をですか? 私はお手伝いできますよ」
部屋にぬっと入ってきたペイターを見て、女は手に持っていた紙コップをひっくり返しそうになった。
「はっ……ハァ……なんで、ここに」
「なんでって、同じオフィスで働いてるじゃないですか。スネイルが出ていったから、誰がいるんだろうって気になっただけですよ。でも、ここに貴方がいるなんてラッキーでした。で、何を話してたんですか?」
「業務上の守秘義務」
「そうですか、でもさっき言ってた馬鹿っていうのは、誰なんでしょう」
「お・ま・え」
「私……?」
「いらない噂広めやがって……。わたしに迷惑かけてる第五部隊のペイター、お前だよ」
「噂も何も、事実ですよ!」
「卒論出し終わった後、お前をフったんだろうが!」
女の脳裏には、学部トップの成績で、首席だけが羽織れるガウンを着て、卒業式のスピーチをしていた大学時代のペイターの憎たらしい姿が浮かんだ。
思い返せば長くなるが、狡い真似をして成り上がることに罪悪感を抱かないペイターの性格は、昔から現在に至るまで一点の曇りもなく、何一つとして変わっていないであろうことは明白だった。
「あぁ……、あの時は僕らメンタルもフィジカルもボロボロでしたから……。だから、ノーカンです」
「あの後アプリも全部ブロックしたんですけど」
「大丈夫ですよ、また会えました。愛し合う二人は、決して離れることはありません。物理で遠ざかっていても、心は一つです」
「違う違う違う。運命とかじゃないから」
「はい、運命論は信用できないので、できる限り頑張りました!」
評するならば、お手本のような好青年の笑顔でペイターは微笑んだ。それと比例して、女の眉間に皺が増えていく。女は、自分は元彼と会話するとストレスで老け込むタイプなのだと悟った。スネイルもそのタイプだろうな、とも思った。
「あーあ、そんなペイターくんの頑張り物語、わたしみたいな阿婆擦れに使っちゃっていいのかな? わたし、お前がいない間に第七隊長まで全員……食ったけど」
「ええ、構いません。貴方が性依存の病人で、セックス狂いで、愛情に飢えているアダルトチルドレンで、自己愛者で、破綻した思考の持ち主で、それでいて、親の権力があって、ちょっと頭が回るからなんとか社会でやっていけてる異常者なのは、私が一番知ってます。なんなら、サークルでも全員とヤってたのも知ってますよ」
「そ、それしっ……」
「私も、貴方に殴られながらじゃないと勃たなくなりました」
ペイターは、顔をグッと女に近づけた。お互いの息使いがわかるような距離だ。
「お互い、異常者なんですよ。私は二重人格ってよく言われます。阿婆擦れとサイコパス、お似合いじゃないですか」
「それじゃあもう、わたしは一生一人でいるよ。孤独に生きて、一人で死んでやる」
女は、ペイターの顔面に向かって唾を吐いた。手袋があればそれを投げつけていただろう。毎朝丁寧に、良い人間であるようにと化粧が施され、整えられた顔がたった一つの悪意で台無しになる。
「いいですよ、別に。怒ってませんよ。前にクンニしたでしょう、あれと同じですよ」
言い方が学校の先生じみていたが、長い付き合いである女にはわかった。
ペイターは、普通に、キレている。
ポケットから取り出したハンカチで顔を拭いながら、ペイターは女をじっと見ていた。
その様子を見ていると、愉快でたまらない。普段滅多に怒らない、感情も表に出さない、自分にとって不愉快な存在が、感情を出して怒っている。
女は調子に乗った。
上手く行ったからと、調子に乗りすぎてしまった。
「隊長にでもなったら、一回くらいならヤらせてやるよ! まぁ、お前みたいなのは、戦場で油断して流れ弾かなんかで死ぬんだろうけど──」
「…………言いましたね」
脳内で、レールガンか何かに狙撃されて爆発するACの姿を思い浮かべていると、地の底を這うような声が刺さった。
「隊長になったら、セックス、させてくれるんですね」
「え、えぇ……? まーでも、どーせお前みたいなやつはスピード出世しそうだし……、あー、一年以内になったら、ヤらせてやるよ。ファンデーションでもコンシーラーでも隠せないくらいベコベコに殴ってやろうかな」
「一年ですね」
「お前さぁ……マジでなれると思ってんの? 無理だって、あの第四隊長じゃなくせに。舐めてんの?」
「そっちこそ、私を舐めているとしか言いようがない」
覇気が凄い。ペイターの背後から、何か漆黒めいたものが放出されているような気がした。
(……あれ、これもしかしてこれはわたしやっちゃった系か? ヤバい? ……まぁでも、いくらヴェスパーといえど、こいつが一年で自分の部隊持てるようになるなんて、無理でしょ……)
「なんでもやりますよ、なんでもね」
ペイターはそう言うと、一度も振り返ることなく部屋を出ていった。
「…………ばーか、無理に決まってんの」
苦し紛れに呟いた声は、誰にも聞こえることなく、空虚に消えていった。
※
勲章を授与されているペイターを見た。
「なっ……」
女を救助したことや、その他様々な功績で授与されたものだった。彼の軍人──新兵の鑑としての晴れやかな姿、表彰されている様子が社内に向けて中継されている。
「お前の彼氏さぁ、すげえな」
「彼氏じゃない……」
皮肉にも、恋仲であることで噂をたてられて以降、女の自業自得で地に落ちた評価は日を追うごとに上昇していた。
「あの」ペイターの女なら、こいつは信用できるだろう。いい意味での風評被害によって、女の悪事や醜聞は上書きされていった。
伝説のヤリマン、誰とでも寝る女、阿婆擦れ、裏口入社という噂(事実)は、もうすでに過去のものになっている。
女は、かつてスネイルに言われた言葉を思い出した。最悪の方法で、それが正しいことが証明された。
「あはは、マジで冗談うまいよな〜お前」
「冗談じゃない……」
最高に美味しいはずの昼食のガパオライスがうまく喉を通らない。食堂内全ての液晶モニタに映っているので、逃げようがない。
そもそも、この集団でのランチ自体が苦痛だ。別に友達を作りに会社に来ているわけじゃない。第四隊長がいない時の第三隊長みたいに、ソロでお昼を食べたい。
画面の中のペイターは、嘘みたいに綺麗な笑顔を浮かべてインタビューに応じている。
(こいつら全員、騙されてる……)
人柄の良さで、外様の傭兵への窓口も任されているというのが信じられない。
本当はこいつ、殴られて射精するマゾなんだぞ、と言っても絶対に信じてくれないだろう。
むしろ、そんなことを言ったら自分の評価が底辺まで逆戻りだ。完全に頭がおかしいやつ扱いされてしまう。
「今の第八隊長、センター送りになったんだろ?」
「じゃあ、次の隊長はペイターかな」
「……ちょっとそれは早すぎない?」
「なんで、あの人が戻ってこない前提で話すんですか……。賄賂をもらったくらいなんですよね。じゃあすぐに戻ってくると思うんですけど」
「無理だろ。あいつはスネイルに楯突いたから、ファクトリー行きだ」
ゲラゲラと笑いながら、他の隊員たちは談笑を続ける。
「…………」
「お前、今更ファクトリーが非人道的だとか、言い出すんじゃないよな? こんなこと、どこの企業もやってるんだ。この時代にそんなこと、言ってる場合じゃないだろ。ヴェスパーはいっつも人手が足りてないんだし。……ま、あのお人好しの彼女だったら、クズの人権問題についても考えるか……」
そうじゃない、とは言えなかった。
その全てが、あいつの陰謀かもしれないと考えると末恐ろしかった。
ペイターは、全てにおいて、主席という立場を虎視眈々と狙っている上昇志向の塊だ。絶対にやらないとは言い切れない。
それと同時に、わざわざ密告するようなタイプだとは思えなかった。年上や目上の人間に対して、しっかりと甘えるタイプだ。自分からは手をかけにはいかないだろう。
「……ムカつくくらい運のいいやつ」
画面の中のペイターは、自分の父親からもらった勲章を、メディアに向けて掲げていた。
端的に言えば、複雑な気持ちだ。普段滅多に会わない、会話もしない父親が画面の中にいて、嫌いなやつに笑顔で勲章を授与している。
──羨ましいな。
外面だけがいいところが、父とペイターの共通点だと言える。嘘の笑顔でもいいのに、この顔を娘に向けてくれたことはない。
父親のことは嫌いだったが、血縁というものは生きている以上意識しない日はない。その点、ペイターの甘え上手で世渡り上手で、親にも愛されていることが羨ましい。
自分にはないものを、彼は全て持っている。
全ての運命が自分を呪っていて、ペイターには味方している。そんな気がした。