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テニスの王子様
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彼の指は、鍵盤の上を跳ねる小鹿だ。跳ね上がった指と、それに伴って軽快に刻まれる三拍子のリズムは、否応なしに私を興奮させる。彼の手は魔法の指。彼がピアノを弾くのを見るのが、私は本当に好きだった。
窓から漏れる日の光が、背中を照らしている。普通の部屋なのに、鳳くんがピアノを弾くとコンサート会場に様変わりしてしまうのだ。ショパンでもドビュッシーでも、鳳くんはなんでも弾ける。繊細なメロディーも、力強いリズムも、型にはまった演奏じゃなくって、きちんと個性がある。とにかく、私は彼の演奏に心奪われている。だからこそ、それを奪ったものが許せない。
「ナマエちゃん、連弾しない?」
部活の練習帰り、貴重な午後を使って鳳くんは私の家にピアノを弾きにくる。鳳くんの家のピアノの方が立派なのに、私の家にわざわざ寄って、私のピアノを使うのだ。
「えっ、いいよ。今日はどれ弾く?」
机の引き出しからスコアを取り出して、弾けそうなものがないかペラペラとめくった。ベートーヴェンは先週やったし、モーツァルトはさっき演奏してくれた。
「俺はこれがいいかな」
鳳くんが指さしたのは、ドヴォルザークの子供の遊び。
「この曲、好きなんだ」
「私も好きだなぁ、これ」
そういえば、昔発表会で連弾したことがあった気がする。
「懐かしいよね、昔一緒に弾いたっけ」
「覚えてた?」
「うん。ナマエちゃんは他にも一曲弾いてたよね。えーっと、なんだっけ……」
「あはは、私も覚えてないや」
嘘だ。私はちゃんと覚えている。鳳くんは別れの曲、私は野ばらに寄せて。初めての発表会で、鳳くんは緊張していた私の手を握ってくれたから。これだけはずっと覚えている。プログラムは今でも引き出しの中に大事にしまっておいてある。当時、私たちはまだ小学生だった。
教師用の椅子に座ると、一気に距離が近くなる。
「じゃあ、いくよ……」
私が急ぎすぎると鳳くんはゆっくりになる。私を導くような演奏は、昔から変わらない。この曲はもう、目を瞑っても弾けるくらいには何度も何度も練習した。鳳くんと一緒に演奏していると、まるで自分とは思えないくらいにうまく弾ける気がする。指が軽くなる。いつもならつっかえてしまうようなところがうまく通る。針の穴に糸が通るように、すっきりする。
嬉しくて、泣きそうなくらい。
こっそり、鳳くんの顔を見た。真剣だけど、楽しそうだ。改めて彼の手を見ると、以前よりも指が長くなっている気がして、何故だか恥ずかしくなった。
彼の音に恋するように、私は彼のことが好きだった。
「また、うちにきてね」
「うん。じゃあ、またね」
夕方になって、鳳くんは家に帰って行った。うちと彼の家は近所だから、会おうと思えばいつだって会えるけど、いつも部活で忙しいから、休みの日くらいしか一緒にいられない。私も私で友達と会ったりすることがあるから、彼と私の休みが一致するのは貴重な機会だ。
前はそんなことなかったのに。
なんだか、自分だけが取り残された気がして悲しくなる。早朝、鳳くんがテニスラケットを背負って学校に行くのを見ると距離が遠くなるような気がして寂しい。
私と鳳くんが出会ったきっかけは、私のお母さんがやっているピアノ教室に彼がきたことだ。私のお母さんと鳳くんのお母さんはお友達で、息子にピアノを習わせるならここ、と決めていたらしい。初対面の時は昔すぎて覚えていないけれど、とにかく彼は子供ながらに流暢な演奏をするから、私はかないっこないんだと早々に諦めた記憶がある。幼稚園から小学校まで、鳳くんは週に二回お稽古を受けにうちにきた。受験の時も来てたんじゃないかな。私は小学校まで氷帝にいたけれど、音楽科のある中学に行きたくて外部受験をした。鳳くんは、中学に上がってテニス部に入ると練習が忙しいからと言って習い事をやめてしまった。正直、レッスンの時に鳳くんがうちにきてくれることが楽しみの一つだったから、彼がテニスにのめり込むのが嫌だった。というか、今でもそう思っている。
ただ、鳳くんが楽しそうにテニス部での話をしてくれるから、テニスなんてやめちゃいなよとは言えない。言ったらダメだ。氷帝は全国大会に行くくらいには強いし、部員の数も多い。今年は鳳くんもレギュラーになり、試合に出る回数も多くなった。まさか彼にそんな才能があったなんて、と勝手に驚いてみたり。普段の繊細な手つきから放たれる恐ろしいスピードのサーブを見て、どうか手だけは無事に、怪我をしませんようにと何度も祈った。
「今日はどうだった?」
「……無理だった」
夕食の前、学校から帰ると自主練をするのが日課だ。けれど、最近はスランプというのか、指が思うように動かない。スコアをみて、その音階通りに弾いたはずなのに、しっくりこない。そんなことが最近多い。弾いても弾いても納得するような音が出ないのだ。そんなふうに考えていると、指の動きがぎこちなくなる。
胸の奥がギリギリと痛む。焦って叩くと軽快な音が出た。違う。私の音はこんな音じゃない。正しい音じゃない。つなげて弾くと、またひどい音。こんな曲じゃない。こんな音じゃない。
乱暴に叩きつけると、ひどい音が出た。
ふとスコアの端を見ると、何かが書いてあった。
「……あ」
昔の鳳くんの字だった。小学校最後の演奏会の時、私が自身のない箇所にアドバイスをくれた時の言葉だ。
「歌うように、ゆったりと」
今の私には、できない。悲しくて悔しくて、少しだけ泣いた。
「お母さんもこういう時ってあったの?」
「まぁ、ナマエくらいの年の時は結構ね」
「有名な人もスランプになるよね……私だけじゃないよね」
演奏会が間近に迫っているのに、こんな調子じゃどうしようもない。
「しばらく休んでみたら?」
「え……でも」
「ほら、明日なんてちょうど氷帝の試合があるじゃない。行ってきなさいよ」
「なんで知ってるの?」
「長太郎くんのお母さんとラインしたの。長太郎くんのこと好きなんだったら、行って応援してあげなさい。ほら、塩飴買ってきてあげたから持って行って」
急に饒舌になった母親を見て、私は呆れた。
「っていうか、なんで私が鳳くんのこと好きだって考えたわけ?」
「あんなにベタベタしてるし、ナマエが嫌がらないからそうだと思ったんだけど、違った?」
否定も肯定もしなかった。
テニスコートを包む熱気は凄まじい。運動部の人って、なんで自分が出れない試合でも大勢詰めかけて応援するんだろう。気持ちはわからないでもないけれど、数が多すぎる。それに、悪趣味なコールはいくらなんでも子供っぽいと思う。なるべく日陰になるような位置に座った。ルールはよくわからないが、ボールを目で追いかけるのは結構面白い。テレビ中継で見るようなものよりも、迫力がある。よくあんなに走り回れるものだ。室内で座りっぱなしの私からしてみれば、試合をこなすだけでもすごいと思う。
鳳くんは、もう一人の人と一緒にコートに出てきた。ダブルスのパートナーの人が何か喋っているようだったけどうまく聞き取れなかった。最近、家にこないでこの人と練習していたのかと思うと、なんだか嫉妬してしまう。先輩か同い年の人だろうか。鳳くんは、私が聞かない限りは部活の人の話をしてくれないから、よくわからない。
鳳くんの試合自体は勝てたけど、団体戦なので他が負けたら意味がない。氷帝は関東大会で青春学園に負けてしまって、結局全国へは進めなかった。こちらから見ていても、結構キツいものがある。よく知らないとはいえ、鳳くんが必死になって打ち込んでいたのが部活動だ。二年生だから来年もチャンスはあるけれど、きっと三年の先輩たちと全国に行きたかっただろう。どんな表情をしているのか気になって、でも逆光でうまく見えない。ここにくることは伝えていないし、私が慰めに行くよりかは、先輩たちと話す方がいいだろう。鞄の中にあった塩飴は、自分で食べてしまうことにした。日焼け止めが汗で流れ落ちて、西日が顔を照らした。ぬるい汗が、首を湿らせた。選手たちが散り散りになって、客席にいた人もどこかへ消えていった。私も帰ろう。
「試合、どうだった?」
「うーん、勝ったけど負けたって感じ」
「長太郎くんは?」
「勝ってたよ。ダブルスで出てた」
「あぁ、じゃあ、団体戦で負けちゃったの」
「そうだよ」
帰ってくるなり、シャワーを浴びて麦茶をがぶ飲みした。「お腹壊すよ」なんて言われたけれど、今はやけだ。鳳くんと会話するチャンスはなかったし、私に気づいてくれたのかはわからない。炎天下の下で試合を見たので、日焼けが心配だ。ただ、ここまで行ったのに全国まで行けないのはかわいそうだ。あぁ、最近までテニスじゃなくてピアノにしたらいいのに、なんて考えていたのが嘘みたいだ。
試合をしている鳳くんは、ピアノを弾いているときとはまた別の迫力があって凄まじかった。真剣にボールを追いかける彼は格好良かった。
……そういえば、私服だったからわからなかったけれど、氷帝の女子生徒が応援に来ていたような気がする。
鳳くんはレギュラーだし、背も高くて雰囲気も親しみやすいタイプだからきっとモテるだろう。もしかしたら、彼女だっているかもしれない。
顔からさーっと血の気がひいた。エアコンをつけたばかりなのに、急に体温が下がった気がする。まさか、いや、ありえない話ではない。私たちは、もう中学二年生だ。恋愛の一つや二つあってもなんらおかしくない。むしろ、私の方が考えが足りなかったのだ。もし、鳳くんに好きな人がいたら、私は一生ピアノなんて弾けなくなる。
八つ当たりのように鍵盤を叩いたら、思いの外力強く、体の芯に響くような音が出た。
それは私が求めていた音だったのかもしれない。彼が弾くような優しい音色は、私には一生だせそうにない。その瞬間、悟った。私は鳳くんの音色になりたかったんだ。
「長太郎。ナマエちゃん来てたの、知ってた?」
家に帰ると、母さんがそんなことを尋ねた。ジャージを洗濯カゴに入れて、二階に上がろうとした時に声をかけられた。試合が終わってから部室でミーテイングがあって、やっと解放されたばかりだった。
「ナマエちゃんが!?」
「あれ、会ってないの?」
「うん。何もそんな連絡もらってないし……それに、今日は客席がほぼ満員だったから。気づかなくて」
今日の試合の応援は、相当気合が入っていたように思えた。だから、あの観衆の中にナマエちゃんがいたなんてわからなかった。以前ほど合わなくなって、俺の目も衰えたのだろうか。以前なら、どこに座っていたってすぐ分かったのに。
こんな暑い中、俺のために試合を見に来てくれたのが嬉しくなった。今の時期、コンクールが近いはずだ。休みの日もずっと練習しているような真面目な彼女のことを、邪魔したくなくて黙っていたが、まさか親を介して情報が漏れるなんて思ってもみなかった。それに、きてくれたナマエちゃんのことを思うと申し訳ない。せっかく応援に来てくれたのに、うちの学校は負けてしまったから。
「ナマエちゃん、疲れてるかもしれないからって気を使ってくれたのね、多分。せっかくだからお礼いってきなさいね」
百貨店の袋の中に、ファミリーサイズのクッキーが入っていた。一旦部屋で着替えて、ナマエちゃんの家を目指す。うちからは歩いて10分くらいの距離で、見慣れた位置にあるインターホンを押すと、ナマエちゃんのお母さんが出てくれた。
「あの、今日ナマエちゃんが俺の試合に来てくれたって聞いたんですけど」
「あらあら、すれ違っちゃったのかしら。ナマエなら上にいるわよ。お菓子もありがとうね、お母さんにお礼を言っといてね」
ナマエちゃんの部屋に入るのは久しぶりだ。いつも、アップライトピアノがある先生の部屋で弾くから。
「ナマエちゃん、俺だよ。入っていいかな?」
かわいいネームプレートには、ナマエという文字を抱えたシナモンロールが描かれている。こういうかわいい持ち物を見ると、ナマエちゃんは女の子なんだなと実感する。これは彼女が幼稚園の時に作ったものだ。俺も家に、似たようなネームプレートがある。
「う、鳳くん……ちょっと待って……片付ける」
中で物音がして、しばらく待ってから、扉が開いた。
「久しぶり……だね」
日焼けで肌が赤くなっていて、驚いた。会うのはしばらくぶりだ。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
部屋の中には、電子ピアノに机、タンスに本棚なんかがあって、ハンガーには彼女の学校の制服がかけられていた。適度に散らばっていて、机に音楽雑誌や参考書が積み上げられているのが見えた。ナマエちゃんっぽくて面白い。
「えっと、試合、お疲れ様でした……」
クッションの上を勧められ、二人してカーペットの上に座った。
「試合、見に来てくれてありがとう。俺たち、勝てなかったけど、来年は頑張るよ」
「どういたしまして……来年も、応援してるね。あと、鳳くんのサーブ凄かった。あんなに早く打てるなんて、すごいね」
「うん、すごく練習したから」
「一緒にいた人って何年生?」
「先輩だよ。俺の憧れの人なんだ……」
一瞬、ナマエちゃんの目線が下を向いた。
「ナマエちゃん、どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。ただ、鳳くんもいろいろあるんだなって思っただけ。良かったね、そんな人と出会えて」
なんだか、以前よりも元気がない気がする。前にあった時よりも痩せているし、目線も心許ない。
「ねぇ、ピアノ弾こうよ」
「ピアノ……」
「俺、久しぶりにナマエちゃんの演奏が聞きたい」
「……なんだか、今はそういう気分じゃないんだ。ごめんね」
「……もしかして、コンクールのことで悩んでるの?」
思い切り目を見開いて、まるで逸れた子供のような表情のナマエちゃんを見て、俺は後悔した。
「もう、ピアノは無理かも」
「どうしてーー」
「私の音、なんだか違うの。気持ち悪い。楽譜通り弾いても変な音しか出ない。私、長太郎くんみたいに弾けないーー!前みたいに、下手でも楽しく弾ければいいって、思えない」
「……コンクールでは何を弾くの?」
「野ばらに寄す、にしようと思ってる」
「俺はナマエちゃんの音が好きだよ。俺の出せない音を、ナマエちゃんは出せる。ずっと見てきたんだよ、信じてよ」
電子ピアノの電源を入れた。埃なんて全くかぶっていない、綺麗なピアノだ。
「俺はナマエちゃんみたいに弾けないし、ナマエちゃんも俺みたいに弾かないで。大丈夫、俺が見てる。本当に変な音が出たら、直せばいいんだよ」
ナマエちゃんはゆっくりと立ち上がり、鍵盤を撫でた。
「鳳くんが言うなら、ちょっとやってみようかな」
目を閉じて、ゆっくりと開く。腫れ物に触れるような触れ方だった。最初は躊躇いがちに動いていた指が、次第に滑らかに、水面を撫でるような手つきに変わっていく。吸い込まれるような音だ。彼女がコンクールに出ると、毎回賛否両論になるのもわかる。どんな音も、彼女の音になってしまうからだ。それは冒涜と受け取られることもあれば、個性として受け止められるようになる。きっと、学校でいろいろな人の演奏を聞いて、自分の音がわからなくなっただけ。そのはずだ。俺が楽譜をめくると、勢いよく滑り出すように彼女の音が紡がれる。俺は、ナマエちゃんの音が好きだ。小さい時からずっと、そうだった。ナマエちゃんのお母さんと、俺のお母さんが友達で本当に良かった。そうじゃなかったら、きっとこの音には出会えていなかっただろう。
目を閉じると、森の中に咲いた一輪のバラが見える。タイトル通り、ナマエちゃんは野ばらだ。棘があっても綺麗で、一人で凛としている。俺はナマエちゃんが好きだ。願わくば、ずっとこの音を聞いていたい。
「……すごい、できた。何これ。すごい!」
「良かったね、大丈夫だったでしょ?」
「……うん、鳳くん、ありがとう!鳳くんが見てくれるだけで変わっちゃった!」
目を爛々と輝かせるナマエちゃんは可愛かった。俺は何もしていない。ただ、隣に立って聞いていただけだ。
「あのね、私今日の試合を見るまでは、鳳くんがテニスするの、嫌だったんだ。だって、こんなに才能があるのに、テニスに取られちゃったから、腐らせちゃうんじゃないかって、心配してた」
「……うん」
「でも、今はそうじゃないよ。鳳くん、テニスしてる時楽しそうだった。ピアノの時と同じくらい、生き生きしてた。だからね、たまにうちに来て、弾いて、忘れなかったらいいよ。多分、あの学校でテニスできるのって今だけだからね」
「また来るよ。俺も、ピアノ好きだから」
ナマエちゃんのために、次は何を弾こう。書き込みがされた楽譜の上に、俺の昔の字があって懐かしくなった。擦り切れてボロボロで、本当に小さい時から使っているものだ。
「さっき私が弾いたやつ弾いてみて」
「ナマエちゃんよりも上手く弾けるかなぁ」
「鳳くん、私よりも上手いじゃん。ね、早く早く」
「久しぶりに二人で弾こうよ」
「うん、いいよ」
夏は日が落ちるのが遅い。夕方なのに、まだまだ太陽が燦々と輝いていた。カーテンの隙間から漏れる光が、ナマエちゃんの顔に影を作る。集中している時の真剣な瞳が、あまりにも透き通ってガラス細工のようだったので、肩のあたりを掴まれたような気がした。長い睫毛が影を作って、頬にできた面皰の痕が、少しだけ残っていた。
「……これからもずっと聞かせてね、ナマエちゃんの演奏。大人になっても、一緒に弾きたいんだ」
「うん。死ぬまで聞かせてね」
細い指の先が、俺の指と触れた。熱を感じる。形を確かめるように、ゆっくりとなぞられる。
「手、怪我しないでね」
「うん」
左手の薬指に触れた時、少しだけ名残惜しそうな表情をしていた、というのは俺の錯覚だろうか。演奏を止めると、途端にセミの鳴き声がうるさく感じる。そういえば、薔薇が弱る季節は夏だった気がする。そんなこと、今はどうでもいいけれど。
窓から漏れる日の光が、背中を照らしている。普通の部屋なのに、鳳くんがピアノを弾くとコンサート会場に様変わりしてしまうのだ。ショパンでもドビュッシーでも、鳳くんはなんでも弾ける。繊細なメロディーも、力強いリズムも、型にはまった演奏じゃなくって、きちんと個性がある。とにかく、私は彼の演奏に心奪われている。だからこそ、それを奪ったものが許せない。
「ナマエちゃん、連弾しない?」
部活の練習帰り、貴重な午後を使って鳳くんは私の家にピアノを弾きにくる。鳳くんの家のピアノの方が立派なのに、私の家にわざわざ寄って、私のピアノを使うのだ。
「えっ、いいよ。今日はどれ弾く?」
机の引き出しからスコアを取り出して、弾けそうなものがないかペラペラとめくった。ベートーヴェンは先週やったし、モーツァルトはさっき演奏してくれた。
「俺はこれがいいかな」
鳳くんが指さしたのは、ドヴォルザークの子供の遊び。
「この曲、好きなんだ」
「私も好きだなぁ、これ」
そういえば、昔発表会で連弾したことがあった気がする。
「懐かしいよね、昔一緒に弾いたっけ」
「覚えてた?」
「うん。ナマエちゃんは他にも一曲弾いてたよね。えーっと、なんだっけ……」
「あはは、私も覚えてないや」
嘘だ。私はちゃんと覚えている。鳳くんは別れの曲、私は野ばらに寄せて。初めての発表会で、鳳くんは緊張していた私の手を握ってくれたから。これだけはずっと覚えている。プログラムは今でも引き出しの中に大事にしまっておいてある。当時、私たちはまだ小学生だった。
教師用の椅子に座ると、一気に距離が近くなる。
「じゃあ、いくよ……」
私が急ぎすぎると鳳くんはゆっくりになる。私を導くような演奏は、昔から変わらない。この曲はもう、目を瞑っても弾けるくらいには何度も何度も練習した。鳳くんと一緒に演奏していると、まるで自分とは思えないくらいにうまく弾ける気がする。指が軽くなる。いつもならつっかえてしまうようなところがうまく通る。針の穴に糸が通るように、すっきりする。
嬉しくて、泣きそうなくらい。
こっそり、鳳くんの顔を見た。真剣だけど、楽しそうだ。改めて彼の手を見ると、以前よりも指が長くなっている気がして、何故だか恥ずかしくなった。
彼の音に恋するように、私は彼のことが好きだった。
「また、うちにきてね」
「うん。じゃあ、またね」
夕方になって、鳳くんは家に帰って行った。うちと彼の家は近所だから、会おうと思えばいつだって会えるけど、いつも部活で忙しいから、休みの日くらいしか一緒にいられない。私も私で友達と会ったりすることがあるから、彼と私の休みが一致するのは貴重な機会だ。
前はそんなことなかったのに。
なんだか、自分だけが取り残された気がして悲しくなる。早朝、鳳くんがテニスラケットを背負って学校に行くのを見ると距離が遠くなるような気がして寂しい。
私と鳳くんが出会ったきっかけは、私のお母さんがやっているピアノ教室に彼がきたことだ。私のお母さんと鳳くんのお母さんはお友達で、息子にピアノを習わせるならここ、と決めていたらしい。初対面の時は昔すぎて覚えていないけれど、とにかく彼は子供ながらに流暢な演奏をするから、私はかないっこないんだと早々に諦めた記憶がある。幼稚園から小学校まで、鳳くんは週に二回お稽古を受けにうちにきた。受験の時も来てたんじゃないかな。私は小学校まで氷帝にいたけれど、音楽科のある中学に行きたくて外部受験をした。鳳くんは、中学に上がってテニス部に入ると練習が忙しいからと言って習い事をやめてしまった。正直、レッスンの時に鳳くんがうちにきてくれることが楽しみの一つだったから、彼がテニスにのめり込むのが嫌だった。というか、今でもそう思っている。
ただ、鳳くんが楽しそうにテニス部での話をしてくれるから、テニスなんてやめちゃいなよとは言えない。言ったらダメだ。氷帝は全国大会に行くくらいには強いし、部員の数も多い。今年は鳳くんもレギュラーになり、試合に出る回数も多くなった。まさか彼にそんな才能があったなんて、と勝手に驚いてみたり。普段の繊細な手つきから放たれる恐ろしいスピードのサーブを見て、どうか手だけは無事に、怪我をしませんようにと何度も祈った。
「今日はどうだった?」
「……無理だった」
夕食の前、学校から帰ると自主練をするのが日課だ。けれど、最近はスランプというのか、指が思うように動かない。スコアをみて、その音階通りに弾いたはずなのに、しっくりこない。そんなことが最近多い。弾いても弾いても納得するような音が出ないのだ。そんなふうに考えていると、指の動きがぎこちなくなる。
胸の奥がギリギリと痛む。焦って叩くと軽快な音が出た。違う。私の音はこんな音じゃない。正しい音じゃない。つなげて弾くと、またひどい音。こんな曲じゃない。こんな音じゃない。
乱暴に叩きつけると、ひどい音が出た。
ふとスコアの端を見ると、何かが書いてあった。
「……あ」
昔の鳳くんの字だった。小学校最後の演奏会の時、私が自身のない箇所にアドバイスをくれた時の言葉だ。
「歌うように、ゆったりと」
今の私には、できない。悲しくて悔しくて、少しだけ泣いた。
「お母さんもこういう時ってあったの?」
「まぁ、ナマエくらいの年の時は結構ね」
「有名な人もスランプになるよね……私だけじゃないよね」
演奏会が間近に迫っているのに、こんな調子じゃどうしようもない。
「しばらく休んでみたら?」
「え……でも」
「ほら、明日なんてちょうど氷帝の試合があるじゃない。行ってきなさいよ」
「なんで知ってるの?」
「長太郎くんのお母さんとラインしたの。長太郎くんのこと好きなんだったら、行って応援してあげなさい。ほら、塩飴買ってきてあげたから持って行って」
急に饒舌になった母親を見て、私は呆れた。
「っていうか、なんで私が鳳くんのこと好きだって考えたわけ?」
「あんなにベタベタしてるし、ナマエが嫌がらないからそうだと思ったんだけど、違った?」
否定も肯定もしなかった。
テニスコートを包む熱気は凄まじい。運動部の人って、なんで自分が出れない試合でも大勢詰めかけて応援するんだろう。気持ちはわからないでもないけれど、数が多すぎる。それに、悪趣味なコールはいくらなんでも子供っぽいと思う。なるべく日陰になるような位置に座った。ルールはよくわからないが、ボールを目で追いかけるのは結構面白い。テレビ中継で見るようなものよりも、迫力がある。よくあんなに走り回れるものだ。室内で座りっぱなしの私からしてみれば、試合をこなすだけでもすごいと思う。
鳳くんは、もう一人の人と一緒にコートに出てきた。ダブルスのパートナーの人が何か喋っているようだったけどうまく聞き取れなかった。最近、家にこないでこの人と練習していたのかと思うと、なんだか嫉妬してしまう。先輩か同い年の人だろうか。鳳くんは、私が聞かない限りは部活の人の話をしてくれないから、よくわからない。
鳳くんの試合自体は勝てたけど、団体戦なので他が負けたら意味がない。氷帝は関東大会で青春学園に負けてしまって、結局全国へは進めなかった。こちらから見ていても、結構キツいものがある。よく知らないとはいえ、鳳くんが必死になって打ち込んでいたのが部活動だ。二年生だから来年もチャンスはあるけれど、きっと三年の先輩たちと全国に行きたかっただろう。どんな表情をしているのか気になって、でも逆光でうまく見えない。ここにくることは伝えていないし、私が慰めに行くよりかは、先輩たちと話す方がいいだろう。鞄の中にあった塩飴は、自分で食べてしまうことにした。日焼け止めが汗で流れ落ちて、西日が顔を照らした。ぬるい汗が、首を湿らせた。選手たちが散り散りになって、客席にいた人もどこかへ消えていった。私も帰ろう。
「試合、どうだった?」
「うーん、勝ったけど負けたって感じ」
「長太郎くんは?」
「勝ってたよ。ダブルスで出てた」
「あぁ、じゃあ、団体戦で負けちゃったの」
「そうだよ」
帰ってくるなり、シャワーを浴びて麦茶をがぶ飲みした。「お腹壊すよ」なんて言われたけれど、今はやけだ。鳳くんと会話するチャンスはなかったし、私に気づいてくれたのかはわからない。炎天下の下で試合を見たので、日焼けが心配だ。ただ、ここまで行ったのに全国まで行けないのはかわいそうだ。あぁ、最近までテニスじゃなくてピアノにしたらいいのに、なんて考えていたのが嘘みたいだ。
試合をしている鳳くんは、ピアノを弾いているときとはまた別の迫力があって凄まじかった。真剣にボールを追いかける彼は格好良かった。
……そういえば、私服だったからわからなかったけれど、氷帝の女子生徒が応援に来ていたような気がする。
鳳くんはレギュラーだし、背も高くて雰囲気も親しみやすいタイプだからきっとモテるだろう。もしかしたら、彼女だっているかもしれない。
顔からさーっと血の気がひいた。エアコンをつけたばかりなのに、急に体温が下がった気がする。まさか、いや、ありえない話ではない。私たちは、もう中学二年生だ。恋愛の一つや二つあってもなんらおかしくない。むしろ、私の方が考えが足りなかったのだ。もし、鳳くんに好きな人がいたら、私は一生ピアノなんて弾けなくなる。
八つ当たりのように鍵盤を叩いたら、思いの外力強く、体の芯に響くような音が出た。
それは私が求めていた音だったのかもしれない。彼が弾くような優しい音色は、私には一生だせそうにない。その瞬間、悟った。私は鳳くんの音色になりたかったんだ。
「長太郎。ナマエちゃん来てたの、知ってた?」
家に帰ると、母さんがそんなことを尋ねた。ジャージを洗濯カゴに入れて、二階に上がろうとした時に声をかけられた。試合が終わってから部室でミーテイングがあって、やっと解放されたばかりだった。
「ナマエちゃんが!?」
「あれ、会ってないの?」
「うん。何もそんな連絡もらってないし……それに、今日は客席がほぼ満員だったから。気づかなくて」
今日の試合の応援は、相当気合が入っていたように思えた。だから、あの観衆の中にナマエちゃんがいたなんてわからなかった。以前ほど合わなくなって、俺の目も衰えたのだろうか。以前なら、どこに座っていたってすぐ分かったのに。
こんな暑い中、俺のために試合を見に来てくれたのが嬉しくなった。今の時期、コンクールが近いはずだ。休みの日もずっと練習しているような真面目な彼女のことを、邪魔したくなくて黙っていたが、まさか親を介して情報が漏れるなんて思ってもみなかった。それに、きてくれたナマエちゃんのことを思うと申し訳ない。せっかく応援に来てくれたのに、うちの学校は負けてしまったから。
「ナマエちゃん、疲れてるかもしれないからって気を使ってくれたのね、多分。せっかくだからお礼いってきなさいね」
百貨店の袋の中に、ファミリーサイズのクッキーが入っていた。一旦部屋で着替えて、ナマエちゃんの家を目指す。うちからは歩いて10分くらいの距離で、見慣れた位置にあるインターホンを押すと、ナマエちゃんのお母さんが出てくれた。
「あの、今日ナマエちゃんが俺の試合に来てくれたって聞いたんですけど」
「あらあら、すれ違っちゃったのかしら。ナマエなら上にいるわよ。お菓子もありがとうね、お母さんにお礼を言っといてね」
ナマエちゃんの部屋に入るのは久しぶりだ。いつも、アップライトピアノがある先生の部屋で弾くから。
「ナマエちゃん、俺だよ。入っていいかな?」
かわいいネームプレートには、ナマエという文字を抱えたシナモンロールが描かれている。こういうかわいい持ち物を見ると、ナマエちゃんは女の子なんだなと実感する。これは彼女が幼稚園の時に作ったものだ。俺も家に、似たようなネームプレートがある。
「う、鳳くん……ちょっと待って……片付ける」
中で物音がして、しばらく待ってから、扉が開いた。
「久しぶり……だね」
日焼けで肌が赤くなっていて、驚いた。会うのはしばらくぶりだ。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します」
部屋の中には、電子ピアノに机、タンスに本棚なんかがあって、ハンガーには彼女の学校の制服がかけられていた。適度に散らばっていて、机に音楽雑誌や参考書が積み上げられているのが見えた。ナマエちゃんっぽくて面白い。
「えっと、試合、お疲れ様でした……」
クッションの上を勧められ、二人してカーペットの上に座った。
「試合、見に来てくれてありがとう。俺たち、勝てなかったけど、来年は頑張るよ」
「どういたしまして……来年も、応援してるね。あと、鳳くんのサーブ凄かった。あんなに早く打てるなんて、すごいね」
「うん、すごく練習したから」
「一緒にいた人って何年生?」
「先輩だよ。俺の憧れの人なんだ……」
一瞬、ナマエちゃんの目線が下を向いた。
「ナマエちゃん、どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。ただ、鳳くんもいろいろあるんだなって思っただけ。良かったね、そんな人と出会えて」
なんだか、以前よりも元気がない気がする。前にあった時よりも痩せているし、目線も心許ない。
「ねぇ、ピアノ弾こうよ」
「ピアノ……」
「俺、久しぶりにナマエちゃんの演奏が聞きたい」
「……なんだか、今はそういう気分じゃないんだ。ごめんね」
「……もしかして、コンクールのことで悩んでるの?」
思い切り目を見開いて、まるで逸れた子供のような表情のナマエちゃんを見て、俺は後悔した。
「もう、ピアノは無理かも」
「どうしてーー」
「私の音、なんだか違うの。気持ち悪い。楽譜通り弾いても変な音しか出ない。私、長太郎くんみたいに弾けないーー!前みたいに、下手でも楽しく弾ければいいって、思えない」
「……コンクールでは何を弾くの?」
「野ばらに寄す、にしようと思ってる」
「俺はナマエちゃんの音が好きだよ。俺の出せない音を、ナマエちゃんは出せる。ずっと見てきたんだよ、信じてよ」
電子ピアノの電源を入れた。埃なんて全くかぶっていない、綺麗なピアノだ。
「俺はナマエちゃんみたいに弾けないし、ナマエちゃんも俺みたいに弾かないで。大丈夫、俺が見てる。本当に変な音が出たら、直せばいいんだよ」
ナマエちゃんはゆっくりと立ち上がり、鍵盤を撫でた。
「鳳くんが言うなら、ちょっとやってみようかな」
目を閉じて、ゆっくりと開く。腫れ物に触れるような触れ方だった。最初は躊躇いがちに動いていた指が、次第に滑らかに、水面を撫でるような手つきに変わっていく。吸い込まれるような音だ。彼女がコンクールに出ると、毎回賛否両論になるのもわかる。どんな音も、彼女の音になってしまうからだ。それは冒涜と受け取られることもあれば、個性として受け止められるようになる。きっと、学校でいろいろな人の演奏を聞いて、自分の音がわからなくなっただけ。そのはずだ。俺が楽譜をめくると、勢いよく滑り出すように彼女の音が紡がれる。俺は、ナマエちゃんの音が好きだ。小さい時からずっと、そうだった。ナマエちゃんのお母さんと、俺のお母さんが友達で本当に良かった。そうじゃなかったら、きっとこの音には出会えていなかっただろう。
目を閉じると、森の中に咲いた一輪のバラが見える。タイトル通り、ナマエちゃんは野ばらだ。棘があっても綺麗で、一人で凛としている。俺はナマエちゃんが好きだ。願わくば、ずっとこの音を聞いていたい。
「……すごい、できた。何これ。すごい!」
「良かったね、大丈夫だったでしょ?」
「……うん、鳳くん、ありがとう!鳳くんが見てくれるだけで変わっちゃった!」
目を爛々と輝かせるナマエちゃんは可愛かった。俺は何もしていない。ただ、隣に立って聞いていただけだ。
「あのね、私今日の試合を見るまでは、鳳くんがテニスするの、嫌だったんだ。だって、こんなに才能があるのに、テニスに取られちゃったから、腐らせちゃうんじゃないかって、心配してた」
「……うん」
「でも、今はそうじゃないよ。鳳くん、テニスしてる時楽しそうだった。ピアノの時と同じくらい、生き生きしてた。だからね、たまにうちに来て、弾いて、忘れなかったらいいよ。多分、あの学校でテニスできるのって今だけだからね」
「また来るよ。俺も、ピアノ好きだから」
ナマエちゃんのために、次は何を弾こう。書き込みがされた楽譜の上に、俺の昔の字があって懐かしくなった。擦り切れてボロボロで、本当に小さい時から使っているものだ。
「さっき私が弾いたやつ弾いてみて」
「ナマエちゃんよりも上手く弾けるかなぁ」
「鳳くん、私よりも上手いじゃん。ね、早く早く」
「久しぶりに二人で弾こうよ」
「うん、いいよ」
夏は日が落ちるのが遅い。夕方なのに、まだまだ太陽が燦々と輝いていた。カーテンの隙間から漏れる光が、ナマエちゃんの顔に影を作る。集中している時の真剣な瞳が、あまりにも透き通ってガラス細工のようだったので、肩のあたりを掴まれたような気がした。長い睫毛が影を作って、頬にできた面皰の痕が、少しだけ残っていた。
「……これからもずっと聞かせてね、ナマエちゃんの演奏。大人になっても、一緒に弾きたいんだ」
「うん。死ぬまで聞かせてね」
細い指の先が、俺の指と触れた。熱を感じる。形を確かめるように、ゆっくりとなぞられる。
「手、怪我しないでね」
「うん」
左手の薬指に触れた時、少しだけ名残惜しそうな表情をしていた、というのは俺の錯覚だろうか。演奏を止めると、途端にセミの鳴き声がうるさく感じる。そういえば、薔薇が弱る季節は夏だった気がする。そんなこと、今はどうでもいいけれど。
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