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テニスの王子様
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雑居ビルの中にある教室は、喋り声と鉛筆が滑る音が響いていた。外は粉雪が降っていて、夕方五時にしてはとても明るい空が、少しだけ見えた。頭上には鳥が集団で空を旋回していた。
パーテーションで仕切られたブースの中で、俺は座椅子に座って、ノートを走るシャーペンを見つめていた。
几帳面で大きな字が、枠線の上に刻み込まれる。
そのペンの持ち主は、何かにうなされるような険しい表情をしていた。受験生特有の気迫と、独特の熱気でこの教室はとても暑いような気がした。
ふと、彼女が顔をあげた。
「先生、ここの式がわからないんですけど」
「どれどれ、見せてみ」
この厄介な数式に手を焼いていたのが彼女、ミョウジナマエだ。
俺の受け持つ数人の生徒の一人で、この近くの女子校に通っている。
ちなみに、俺は塾から3駅離れた大学の生徒で、ここでバイトしている。ただの医学生だ。
ミョウジナマエはこの塾に中学生の時から通っていて、もう6年になるらしい。
前任の女子大生が就職でやめてから、俺が引き継いで一年と半年になった。
ミョウジは冗談は言わないし、無駄話や馬鹿話もしないような真面目な子だ。大人しい生徒で授業態度は真面目。今まで遅刻や無断欠席はない。
元々、この塾は国公立を目指すような生徒が通う塾なので、授業をしっかり受けるのは当たり前なのだが、彼女は俺のちょっとした雑談の内容までしっかり覚えていた。それだけ記憶力がいい、ということだろう。
俺が彼女の担当になったのは、彼女の志望校が俺の通う大学で、しかも同じ医学部志望だったから。
彼女の高校からエスカレーターで上がれる女子大には、薬学部と看護学部はあっても医学部はなく、外部受験をすることに決めたそうで。
「あぁ、それはこの公式の応用や。参考書の、ここ見て」
俺が一通り解説すると、水色の細いシャーペンを手に取り、彼女は改めて問題に取り掛かり始めた。
伸びた髪がノートの先にふわりと落ちていて、制汗剤の匂いがふわりと香ってきた。
人工的なレモングラスの歪な香りは、ミョウジの真面目な印象とは抱え離れているように思えた。
そうか、高校生だった。
あまりにも一般的な、というか俺が知っている高校生像とはかけ離れていたから、彼女のことを大人か何かだと思っていたのだろうか。
「……あ、わこれでかりました。ありがとうございます。忍足先生」
「そっか、じゃあ丸つけといて」
ミョウジは考え込むとき、シャーペンのノック部分を唇に押し当てるくせがある。
彼女の目が、分厚いほんの文字列を眺めるとき、無意識にそうしてしまうのだろう。
報告書を書くついでに彼女の横顔を眺めていると、真面目な表情で問題を解く彼女が見える。
ゆっくりと、彼女は俺の方を向いた。
「……」
何か言いたげな視線を向けるミョウジは、やっぱり年下の高校生で、まだ子供だ。
俺のしょうもない考えは置いておこう。
彼女は少しだけ俯いて、ページをめくった。
そろそろ授業も終わる。俺のシフトはここで終わり。
問題を少し解いて、一時間半×2の退屈な授業は終わった。
「そろそろセンターやな」
「そうですね。だから、今日は残って自習しようと思って」
「おっ、偉いやん。頑張りや」
「……忍足先生、ありがとうございます」
片付けようとしたノートをぎゅっと抱きしめて、ミョウジは微笑んだ。
正月休みが終わって、センター試験が終わった。
シフトで入っていた生徒が風邪で急に欠席したので、次のコマまで俺は暇だった。
入り口で、カードをかざして入室するミョウジの姿が見えた。
「こんにちは……」
「こんにちは」
挨拶だけして自習室に入ったミョウジは、追い詰められたような、やつれた顔をしていた。結果が芳しくなかったのだろうか、と俺は勝手に想像した。備え付けのウォーターサーバーの水は、まるで水道水のような味がする。
今日は彼女との授業はなかった。
自習室は満員で、二次試験を控えた学生たちでいっぱいだった。自習室では飲み食いもできる。ミョウジは塾にいる日は、ここでお弁当を食べているようだった。
以前は手作りの大きなお弁当箱を広げて食べていたのだが、今はカロリーメイトやチョコバーだ。お世辞にも食べ盛りの子供の夕飯とは言えない。俺も忙しい時はそうしてしまっていたので、人のことは言えないけれど、老婆心からか、どうしても口を出しそうになってしまう。
職員室からぼうっと見つめていると、それに気づいた彼女がガラス越しにハッと表情を変えた。驚かせたに違いない、と少し反省しかけたとき、ミョウジは立ち上がって自習室から出てきた。
「先生……」
「どうしたん?分からんとこでもあったん?」
「はい……この問題なんですけど」
「おっ、今年のセンターの問題やな」
その長文問題は、問題文こそややこしいものだったが、基本の公式を使えば難なく解けるものだった。
「はい、これでいけたと思うわ」
「わかりました。ありがとうございます」
「……それにしても、他に数学の先生もおったのに、何で俺に聞いたん?」
普段の彼女なら、この程度の問題はスルスル解けてしまうはずだった。それに、わざわざ俺を捕まえなくても、他にも手のあいた数学の教師はいる。大学生のバイトじゃなくて、社員の先生だっているのだ。
変なことを聞いてしまった。
口走った直後、少し気まずくなった。
「……えっと」
「あ!悪い!俺の質問、変やったな!気にしやんといて!」
ミョウジは、俺がそんな風に誤魔化そうとすると、俺よりも焦った顔でこう言った。
「先生の教え方が、一番わかりやすいんです」
「俺のが?嬉しいわ」
なんだ、そういうことか。胸の内で、どこか変な気持ちになってしまっていた。それを静めるような、ミョウジの声は少し恥ずかしげだった。
「……実は、センターの自己採点があんまり良くなかったんです」
「そうか……だから毎日朝から来て勉強しとったんやな」
「それは、受験生だから当たり前です……。でも、もし、落ちちゃったらどうしようって、考えたら夜も寝れなくて」
気付いたら、ずっと机に向かっているんです、と悲痛な表情で言った彼女の目は、どこから遠くを見つめているような気がした。
……確かに、調子が悪そうに見える、というか本人も自覚しているのだから実際に本調子ではないのだろう。
「私、お医者さんになりたいのに、こんな弱音言っちゃダメですよね。……先生は、受験生の時どうだったんですか?」
「俺は、推薦で入ったからなぁ……あんまり参考にならへんかもしれんけど、昔、部活で失敗したらあかん!って時にやらかしたことがあるねん」
「部活……?あぁ、先生はテニス部でしたね」
「そう。で、そん時俺思ったわ、終わりや!もうあかん!って。でも、なんとかなってん。試合には負けたけど、なんていうか……結局いい感じになってん
……俺の語彙だと伝えきれんけど、その……受験って個人戦やと思うやろ?問題解くのも一人やし、自分の力しか使えへんからな。でもな、実はそうじゃないねん。ミョウジさんの周りには、友達もおるやろ?家族も、それに、塾来たら先生もおる。だから、そんなに気ィ張らんでもええねん。もし、失敗しても大丈夫や。……こんなこと言ったらあかんと思うけど、最悪志望校に落ちても、浪人しても、最後にはお医者さんになれればええんやから……ミョウジさんなら、できる。大丈夫や」
苦し紛れに絞り出した言葉で、彼女が納得したのかはわからない。
ミョウジは、何か言いたげな顔をして、ありがとうございます、と言って戻って行った。
浪人してもいい、だなんて言うのは講師としてどうだったのか。
また、やつれた顔で問題集を開いた彼女の顔を見て、どうしても気になってしまった。
私は必死だったし、ばかだった。
医者になろうと決めたのは、母親がそう望んだからでもあるし、私が漠然と医者という存在に憧れていたから。
おおらかな校風は気に入っていたけれど、大学で医学部のある中高一貫に合格できなかったせいで、どことなく私は居心地の悪さというか、宙ぶらりんな立ち位置にいたと思う。つまり、一応進学校の特進クラスの中でも、私は結構がっついていた方だと思う。
だから、付き合いも悪いし、世間一般の何が流行っているか、とかジャニーズの誰がかっこいいか、とかそういうのはよくわからない。変な感じ。
男の人を見てかっこいいと思ったのは、先生が初めてだった。学校の中では、先生のことが好きだという人もいたけれど、わたしは内心ばかにしていた。先生と生徒なんて、犯罪じゃん、と。実際に犯罪だ。未成年と交際するなんて、恥知らずだ。
いじめられたり無視されるようなことはなかった。特進クラスは勉強に対して真面目なこが多い。だからこそ、中途半端に、私がいたって面白くもないのに気を使って友達の輪に入れてもらうことがしんどかった。
それに、私がなんとなく周りをそういう風に見ているのは、彼女たちも薄々察していたんだろう。受験生になって、余計な関係に気を使わなくなっていった。それがありがたかった。
それまでずっと、成績のことだけを考えて過ごしていた。
私の第一志望は国立だったし、学校が終わった後は塾、なくても自習室で勉強していたから。
まっすぐ家に帰らなかったのは、親にあれこれ口出しされたくなかったのもあるし、塾にいる先生のことが好きだったから。
中学生の時に担当してくれた先生もそう。でも、今回はちょっと違う。
だから、余計に苦しかった。私は、自分が一等見下していた人間になってしまった。初めて、そうだと気づいたとき、それがセンター試験の前日だった。いつもより早く布団に入って、寝れないでいたときにふと先生の顔が浮かんだ。昔読んだ小説の中で、苦しい時に思い浮かんだ人が、好きな人だと書いてあった。
思い返せばそうだった。私は先生のことをよく思い浮かべる。
テスト前、先生の言葉に何回励まされただろう。それだけじゃない。私は、先生のことを気づくと目で追っていた。古典に出てきた和歌に共感した。今までそんなこと、何もわかってやいなかったのに。
先生は、私のことばかだと思っていたと思う。過去問以前に、センターの簡単な問題でもわからないフリをしていた。先生と喋りたかったから。
さすがに模試やテストで手を抜いたことはない。本当にわからない時も質問したけれど、忍足先生の教え方はわかりやすかった。目から鱗が落ちるように、スルスル理解できるから、相当才能があったんだろう。医者なんてやめて一生先生していてください、なんて言えるわけがない。言ったら、終わりだ。
それに、私以外を教えるのはやめてください、なんてもっと言えない。そんなこと言ったら本当にばかになる。
受験の時に恋愛しているやつは間抜けだ。お母さんはそう言っていた。私は間抜けなんかじゃないし、負け犬でもない。ただ、ちょっと馬鹿のフリをしているだけだ。
こんなひねくれた人、先生は好きになったりしない。ましてや、生徒だから余計にだ。
先生は関西弁喋るから、テレビで大阪の人が映るとちょっとどきっとする。
かなうなら、先生の同級生になりたかった。生徒じゃなくて、ちゃんと恋愛対象として。
でも、絶対それは無理だから私は勉強する。合格して先生に褒めてもらいたい。
私が大学生である期間と、先生が生徒である期間は一年だけ一致する。その間が勝負だ。
恋愛なんて、後でいくらでもできるから今は勉強しなさいと親はいう。でも、その相手は今の先生じゃないと、だめなんだ。
塾からの帰り道、電車の中で仲睦まじげなカップルを見て、今まではうるさいなぁとしか思わなかったけど、今は目に入れるのも辛かった。
あれから俺と彼女の二人三脚は続いた。受験の前日、こちらが驚くくらい落ち着いているように見えた。まるで、何か憑物が落ちたように。
私は自由だった。受験会場まで、一人でママチャリをこいで行くことにした。私は負け犬だった。私の私服は驚くほどシンプルで、ジーンズに黒のタートルネック姿は先生が見たら驚くだろう。私は先生にダサい子だと思われたくなくって、制服の日以外はいいとこのお嬢様がきて行くようないい服を着て行っていたから。
先生の通う大学は、オープンキャンパスで行った時よりも大きく見えた。学食が安くておいしい!と嬉しそうにいう先生の姿が目に浮かんだ。
他のこと違って、真面目でいいこだと思われたかった。だから、自分から話は振らずに、先生が漏らしてくれる情報をうまく引き出して、それとなく誘導するんだ。おかげで、数学よりも人間観察が得意になった。
私はずっとプレッシャーと闘っていた。これは、本当。先生と話していた時だけが、私にとって真に心休まる時だった。親には劇詰めされて、学校でも一人だった私は、先生に喜ばれるために勉強していたのかもしれない。だとしたら、私って本当に愚か者だ。先生に、私の愚かしいところを全部見てもらいたい。これが終わったら、告白しよう。
英語の文章題を解き終わったとき、私はそんなことを考えた。
不合格でも、合格でも、ちゃんと言わないと。
ミョウジが塾にやってきたのは、それからしばらくしてからだった。試験が終わってから合格発表までは一週間で、とても期間が短い。その間、珍しく彼女は休んでいた。
「こんにちは」
教室に入ってきた彼女は、学校帰りだからかセーラー服を着ていた。
「ど、どうやった?」
食いつくようにやってきた俺を見て、少し驚いたようだったが、すぐにカバンからゴソゴソと何かを取り出した。
「先生、受かりました!」
「おぉ!おめでとう!」
ブースにいた他の先生も、おめでとう!と声をかけていた。
その中の一人の先生が、合格者発表用の写真を撮ろうと提案してきて、
「わかりました」
と彼女と二人壁に並んだ。
花束を持って、俺の隣で笑ったミョウジさんを見て、改めて嬉しくなったし、寂しい気持ちも湧いてきた。もう俺が教えることはない。紺色のセーラー服に、彼女が袖を通すことは、もうないだろう。
「ミョウジさん頑張ってたからな、ほんまに。合格おめでとう」
「あの、先生、一つお願いしてもいいですか?」
「お願い?」
「……写真、一緒に撮ってください」
スマホを取り出して、顔を真っ赤にしながらミョウジさんがそういうので、俺は色々と考えてしまう。
ああ……いや、まさか。
「ええよ、snowで盛る?」
「ふふ、いいですよ」
俺とミョウジさんの頭にウサギの耳が生えた。
「……ありがとうございます。一生大切にします」
「俺らの世代やったらプリクラとかやったけどなぁ。今の子はスマホでやっちゃうから」
「先生、世代アピールはいいですよ」
「うわっ、ミョウジさん結構厳しいな」
二人してしょうもないことを言いながらしばらく笑っていたら、ミョウジさんの表情が急に硬いものになった。
「忍足先生。私、4月から大学生です」
「そうやな」
「だから、もう先生は先生じゃないですよね。だから、忍足さんって呼びます」
「あぁ、ええんちゃう」
「忍足さん。私、あなたのことが好きだったんですよ」
は、という声が口から出なくてよかった。
思わず、周りに人がいないか確かめてしまった。
「ミョウジさん」
「どちらにしろ、教師と生徒だったということは変わらないし、未成年に手を出してしまったというレッテルを貼られて欲しくはありません。私、ばかじゃないからそれくらいわかってます。でも、どうしても言いたかったんです。今までご指導、ありがとうございました」
そう言って去ろうとする彼女の腕を、俺はなぜか掴んでいた。
「離してください!」
彼女が叫ぶのを、初めて聞いた。
「ごめん……でも、言い逃げはひどいわ。ちゃんと俺の返事、聞いて」
振り返った彼女は、泣いていた。赤ちゃんの泣き顔そっくりだ。ドラマで女優がするような綺麗な涙じゃない。でも、それがとても愛らしかった。
「俺は先生で、ミョウジさんは生徒。それは変わらへん。多分、ずっとこれからもな。
でも、そうだからと言って俺が告白をなかったことにすることはできひん。……正直な話、ミョウジさんとはお付き合いできへんわ。俺は大人で、ミョウジさんは子供やし」
ここまで言うと、彼女の表情は余計に崩れた。
「そんなにぐだぐだ言ってないで……嫌なら嫌って言ってくださいよ」
「……ミョウジさんは、まだこれからや。俺みたいなやつとわざわざ付き合うこともない。他に、同い年でも、まぁ、年上でももっといい人が出てくるねん。女子校に行ってん年やったら男の子とちゃんと喋ったことないやろ?だから、他の人もちゃんと見て欲しいねん」
ミョウジさんは、俺の腕に触れた。細い腕だった。
「……じゃあ、待ちます。私、ちゃんと他の人も見ます。それで、大人になっても好きでい続けたら、彼女にしてください」
「……もう、会えないかもしれへんで」
「追いかけます。ずっと」
そんな風に言って俺の目を見つめる彼女のことを、俺は子供らしい愚かさだと言えるだろうか。
愚かだったのは俺だ。子供なのは、俺のほうだった。
パーテーションで仕切られたブースの中で、俺は座椅子に座って、ノートを走るシャーペンを見つめていた。
几帳面で大きな字が、枠線の上に刻み込まれる。
そのペンの持ち主は、何かにうなされるような険しい表情をしていた。受験生特有の気迫と、独特の熱気でこの教室はとても暑いような気がした。
ふと、彼女が顔をあげた。
「先生、ここの式がわからないんですけど」
「どれどれ、見せてみ」
この厄介な数式に手を焼いていたのが彼女、ミョウジナマエだ。
俺の受け持つ数人の生徒の一人で、この近くの女子校に通っている。
ちなみに、俺は塾から3駅離れた大学の生徒で、ここでバイトしている。ただの医学生だ。
ミョウジナマエはこの塾に中学生の時から通っていて、もう6年になるらしい。
前任の女子大生が就職でやめてから、俺が引き継いで一年と半年になった。
ミョウジは冗談は言わないし、無駄話や馬鹿話もしないような真面目な子だ。大人しい生徒で授業態度は真面目。今まで遅刻や無断欠席はない。
元々、この塾は国公立を目指すような生徒が通う塾なので、授業をしっかり受けるのは当たり前なのだが、彼女は俺のちょっとした雑談の内容までしっかり覚えていた。それだけ記憶力がいい、ということだろう。
俺が彼女の担当になったのは、彼女の志望校が俺の通う大学で、しかも同じ医学部志望だったから。
彼女の高校からエスカレーターで上がれる女子大には、薬学部と看護学部はあっても医学部はなく、外部受験をすることに決めたそうで。
「あぁ、それはこの公式の応用や。参考書の、ここ見て」
俺が一通り解説すると、水色の細いシャーペンを手に取り、彼女は改めて問題に取り掛かり始めた。
伸びた髪がノートの先にふわりと落ちていて、制汗剤の匂いがふわりと香ってきた。
人工的なレモングラスの歪な香りは、ミョウジの真面目な印象とは抱え離れているように思えた。
そうか、高校生だった。
あまりにも一般的な、というか俺が知っている高校生像とはかけ離れていたから、彼女のことを大人か何かだと思っていたのだろうか。
「……あ、わこれでかりました。ありがとうございます。忍足先生」
「そっか、じゃあ丸つけといて」
ミョウジは考え込むとき、シャーペンのノック部分を唇に押し当てるくせがある。
彼女の目が、分厚いほんの文字列を眺めるとき、無意識にそうしてしまうのだろう。
報告書を書くついでに彼女の横顔を眺めていると、真面目な表情で問題を解く彼女が見える。
ゆっくりと、彼女は俺の方を向いた。
「……」
何か言いたげな視線を向けるミョウジは、やっぱり年下の高校生で、まだ子供だ。
俺のしょうもない考えは置いておこう。
彼女は少しだけ俯いて、ページをめくった。
そろそろ授業も終わる。俺のシフトはここで終わり。
問題を少し解いて、一時間半×2の退屈な授業は終わった。
「そろそろセンターやな」
「そうですね。だから、今日は残って自習しようと思って」
「おっ、偉いやん。頑張りや」
「……忍足先生、ありがとうございます」
片付けようとしたノートをぎゅっと抱きしめて、ミョウジは微笑んだ。
正月休みが終わって、センター試験が終わった。
シフトで入っていた生徒が風邪で急に欠席したので、次のコマまで俺は暇だった。
入り口で、カードをかざして入室するミョウジの姿が見えた。
「こんにちは……」
「こんにちは」
挨拶だけして自習室に入ったミョウジは、追い詰められたような、やつれた顔をしていた。結果が芳しくなかったのだろうか、と俺は勝手に想像した。備え付けのウォーターサーバーの水は、まるで水道水のような味がする。
今日は彼女との授業はなかった。
自習室は満員で、二次試験を控えた学生たちでいっぱいだった。自習室では飲み食いもできる。ミョウジは塾にいる日は、ここでお弁当を食べているようだった。
以前は手作りの大きなお弁当箱を広げて食べていたのだが、今はカロリーメイトやチョコバーだ。お世辞にも食べ盛りの子供の夕飯とは言えない。俺も忙しい時はそうしてしまっていたので、人のことは言えないけれど、老婆心からか、どうしても口を出しそうになってしまう。
職員室からぼうっと見つめていると、それに気づいた彼女がガラス越しにハッと表情を変えた。驚かせたに違いない、と少し反省しかけたとき、ミョウジは立ち上がって自習室から出てきた。
「先生……」
「どうしたん?分からんとこでもあったん?」
「はい……この問題なんですけど」
「おっ、今年のセンターの問題やな」
その長文問題は、問題文こそややこしいものだったが、基本の公式を使えば難なく解けるものだった。
「はい、これでいけたと思うわ」
「わかりました。ありがとうございます」
「……それにしても、他に数学の先生もおったのに、何で俺に聞いたん?」
普段の彼女なら、この程度の問題はスルスル解けてしまうはずだった。それに、わざわざ俺を捕まえなくても、他にも手のあいた数学の教師はいる。大学生のバイトじゃなくて、社員の先生だっているのだ。
変なことを聞いてしまった。
口走った直後、少し気まずくなった。
「……えっと」
「あ!悪い!俺の質問、変やったな!気にしやんといて!」
ミョウジは、俺がそんな風に誤魔化そうとすると、俺よりも焦った顔でこう言った。
「先生の教え方が、一番わかりやすいんです」
「俺のが?嬉しいわ」
なんだ、そういうことか。胸の内で、どこか変な気持ちになってしまっていた。それを静めるような、ミョウジの声は少し恥ずかしげだった。
「……実は、センターの自己採点があんまり良くなかったんです」
「そうか……だから毎日朝から来て勉強しとったんやな」
「それは、受験生だから当たり前です……。でも、もし、落ちちゃったらどうしようって、考えたら夜も寝れなくて」
気付いたら、ずっと机に向かっているんです、と悲痛な表情で言った彼女の目は、どこから遠くを見つめているような気がした。
……確かに、調子が悪そうに見える、というか本人も自覚しているのだから実際に本調子ではないのだろう。
「私、お医者さんになりたいのに、こんな弱音言っちゃダメですよね。……先生は、受験生の時どうだったんですか?」
「俺は、推薦で入ったからなぁ……あんまり参考にならへんかもしれんけど、昔、部活で失敗したらあかん!って時にやらかしたことがあるねん」
「部活……?あぁ、先生はテニス部でしたね」
「そう。で、そん時俺思ったわ、終わりや!もうあかん!って。でも、なんとかなってん。試合には負けたけど、なんていうか……結局いい感じになってん
……俺の語彙だと伝えきれんけど、その……受験って個人戦やと思うやろ?問題解くのも一人やし、自分の力しか使えへんからな。でもな、実はそうじゃないねん。ミョウジさんの周りには、友達もおるやろ?家族も、それに、塾来たら先生もおる。だから、そんなに気ィ張らんでもええねん。もし、失敗しても大丈夫や。……こんなこと言ったらあかんと思うけど、最悪志望校に落ちても、浪人しても、最後にはお医者さんになれればええんやから……ミョウジさんなら、できる。大丈夫や」
苦し紛れに絞り出した言葉で、彼女が納得したのかはわからない。
ミョウジは、何か言いたげな顔をして、ありがとうございます、と言って戻って行った。
浪人してもいい、だなんて言うのは講師としてどうだったのか。
また、やつれた顔で問題集を開いた彼女の顔を見て、どうしても気になってしまった。
私は必死だったし、ばかだった。
医者になろうと決めたのは、母親がそう望んだからでもあるし、私が漠然と医者という存在に憧れていたから。
おおらかな校風は気に入っていたけれど、大学で医学部のある中高一貫に合格できなかったせいで、どことなく私は居心地の悪さというか、宙ぶらりんな立ち位置にいたと思う。つまり、一応進学校の特進クラスの中でも、私は結構がっついていた方だと思う。
だから、付き合いも悪いし、世間一般の何が流行っているか、とかジャニーズの誰がかっこいいか、とかそういうのはよくわからない。変な感じ。
男の人を見てかっこいいと思ったのは、先生が初めてだった。学校の中では、先生のことが好きだという人もいたけれど、わたしは内心ばかにしていた。先生と生徒なんて、犯罪じゃん、と。実際に犯罪だ。未成年と交際するなんて、恥知らずだ。
いじめられたり無視されるようなことはなかった。特進クラスは勉強に対して真面目なこが多い。だからこそ、中途半端に、私がいたって面白くもないのに気を使って友達の輪に入れてもらうことがしんどかった。
それに、私がなんとなく周りをそういう風に見ているのは、彼女たちも薄々察していたんだろう。受験生になって、余計な関係に気を使わなくなっていった。それがありがたかった。
それまでずっと、成績のことだけを考えて過ごしていた。
私の第一志望は国立だったし、学校が終わった後は塾、なくても自習室で勉強していたから。
まっすぐ家に帰らなかったのは、親にあれこれ口出しされたくなかったのもあるし、塾にいる先生のことが好きだったから。
中学生の時に担当してくれた先生もそう。でも、今回はちょっと違う。
だから、余計に苦しかった。私は、自分が一等見下していた人間になってしまった。初めて、そうだと気づいたとき、それがセンター試験の前日だった。いつもより早く布団に入って、寝れないでいたときにふと先生の顔が浮かんだ。昔読んだ小説の中で、苦しい時に思い浮かんだ人が、好きな人だと書いてあった。
思い返せばそうだった。私は先生のことをよく思い浮かべる。
テスト前、先生の言葉に何回励まされただろう。それだけじゃない。私は、先生のことを気づくと目で追っていた。古典に出てきた和歌に共感した。今までそんなこと、何もわかってやいなかったのに。
先生は、私のことばかだと思っていたと思う。過去問以前に、センターの簡単な問題でもわからないフリをしていた。先生と喋りたかったから。
さすがに模試やテストで手を抜いたことはない。本当にわからない時も質問したけれど、忍足先生の教え方はわかりやすかった。目から鱗が落ちるように、スルスル理解できるから、相当才能があったんだろう。医者なんてやめて一生先生していてください、なんて言えるわけがない。言ったら、終わりだ。
それに、私以外を教えるのはやめてください、なんてもっと言えない。そんなこと言ったら本当にばかになる。
受験の時に恋愛しているやつは間抜けだ。お母さんはそう言っていた。私は間抜けなんかじゃないし、負け犬でもない。ただ、ちょっと馬鹿のフリをしているだけだ。
こんなひねくれた人、先生は好きになったりしない。ましてや、生徒だから余計にだ。
先生は関西弁喋るから、テレビで大阪の人が映るとちょっとどきっとする。
かなうなら、先生の同級生になりたかった。生徒じゃなくて、ちゃんと恋愛対象として。
でも、絶対それは無理だから私は勉強する。合格して先生に褒めてもらいたい。
私が大学生である期間と、先生が生徒である期間は一年だけ一致する。その間が勝負だ。
恋愛なんて、後でいくらでもできるから今は勉強しなさいと親はいう。でも、その相手は今の先生じゃないと、だめなんだ。
塾からの帰り道、電車の中で仲睦まじげなカップルを見て、今まではうるさいなぁとしか思わなかったけど、今は目に入れるのも辛かった。
あれから俺と彼女の二人三脚は続いた。受験の前日、こちらが驚くくらい落ち着いているように見えた。まるで、何か憑物が落ちたように。
私は自由だった。受験会場まで、一人でママチャリをこいで行くことにした。私は負け犬だった。私の私服は驚くほどシンプルで、ジーンズに黒のタートルネック姿は先生が見たら驚くだろう。私は先生にダサい子だと思われたくなくって、制服の日以外はいいとこのお嬢様がきて行くようないい服を着て行っていたから。
先生の通う大学は、オープンキャンパスで行った時よりも大きく見えた。学食が安くておいしい!と嬉しそうにいう先生の姿が目に浮かんだ。
他のこと違って、真面目でいいこだと思われたかった。だから、自分から話は振らずに、先生が漏らしてくれる情報をうまく引き出して、それとなく誘導するんだ。おかげで、数学よりも人間観察が得意になった。
私はずっとプレッシャーと闘っていた。これは、本当。先生と話していた時だけが、私にとって真に心休まる時だった。親には劇詰めされて、学校でも一人だった私は、先生に喜ばれるために勉強していたのかもしれない。だとしたら、私って本当に愚か者だ。先生に、私の愚かしいところを全部見てもらいたい。これが終わったら、告白しよう。
英語の文章題を解き終わったとき、私はそんなことを考えた。
不合格でも、合格でも、ちゃんと言わないと。
ミョウジが塾にやってきたのは、それからしばらくしてからだった。試験が終わってから合格発表までは一週間で、とても期間が短い。その間、珍しく彼女は休んでいた。
「こんにちは」
教室に入ってきた彼女は、学校帰りだからかセーラー服を着ていた。
「ど、どうやった?」
食いつくようにやってきた俺を見て、少し驚いたようだったが、すぐにカバンからゴソゴソと何かを取り出した。
「先生、受かりました!」
「おぉ!おめでとう!」
ブースにいた他の先生も、おめでとう!と声をかけていた。
その中の一人の先生が、合格者発表用の写真を撮ろうと提案してきて、
「わかりました」
と彼女と二人壁に並んだ。
花束を持って、俺の隣で笑ったミョウジさんを見て、改めて嬉しくなったし、寂しい気持ちも湧いてきた。もう俺が教えることはない。紺色のセーラー服に、彼女が袖を通すことは、もうないだろう。
「ミョウジさん頑張ってたからな、ほんまに。合格おめでとう」
「あの、先生、一つお願いしてもいいですか?」
「お願い?」
「……写真、一緒に撮ってください」
スマホを取り出して、顔を真っ赤にしながらミョウジさんがそういうので、俺は色々と考えてしまう。
ああ……いや、まさか。
「ええよ、snowで盛る?」
「ふふ、いいですよ」
俺とミョウジさんの頭にウサギの耳が生えた。
「……ありがとうございます。一生大切にします」
「俺らの世代やったらプリクラとかやったけどなぁ。今の子はスマホでやっちゃうから」
「先生、世代アピールはいいですよ」
「うわっ、ミョウジさん結構厳しいな」
二人してしょうもないことを言いながらしばらく笑っていたら、ミョウジさんの表情が急に硬いものになった。
「忍足先生。私、4月から大学生です」
「そうやな」
「だから、もう先生は先生じゃないですよね。だから、忍足さんって呼びます」
「あぁ、ええんちゃう」
「忍足さん。私、あなたのことが好きだったんですよ」
は、という声が口から出なくてよかった。
思わず、周りに人がいないか確かめてしまった。
「ミョウジさん」
「どちらにしろ、教師と生徒だったということは変わらないし、未成年に手を出してしまったというレッテルを貼られて欲しくはありません。私、ばかじゃないからそれくらいわかってます。でも、どうしても言いたかったんです。今までご指導、ありがとうございました」
そう言って去ろうとする彼女の腕を、俺はなぜか掴んでいた。
「離してください!」
彼女が叫ぶのを、初めて聞いた。
「ごめん……でも、言い逃げはひどいわ。ちゃんと俺の返事、聞いて」
振り返った彼女は、泣いていた。赤ちゃんの泣き顔そっくりだ。ドラマで女優がするような綺麗な涙じゃない。でも、それがとても愛らしかった。
「俺は先生で、ミョウジさんは生徒。それは変わらへん。多分、ずっとこれからもな。
でも、そうだからと言って俺が告白をなかったことにすることはできひん。……正直な話、ミョウジさんとはお付き合いできへんわ。俺は大人で、ミョウジさんは子供やし」
ここまで言うと、彼女の表情は余計に崩れた。
「そんなにぐだぐだ言ってないで……嫌なら嫌って言ってくださいよ」
「……ミョウジさんは、まだこれからや。俺みたいなやつとわざわざ付き合うこともない。他に、同い年でも、まぁ、年上でももっといい人が出てくるねん。女子校に行ってん年やったら男の子とちゃんと喋ったことないやろ?だから、他の人もちゃんと見て欲しいねん」
ミョウジさんは、俺の腕に触れた。細い腕だった。
「……じゃあ、待ちます。私、ちゃんと他の人も見ます。それで、大人になっても好きでい続けたら、彼女にしてください」
「……もう、会えないかもしれへんで」
「追いかけます。ずっと」
そんな風に言って俺の目を見つめる彼女のことを、俺は子供らしい愚かさだと言えるだろうか。
愚かだったのは俺だ。子供なのは、俺のほうだった。
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