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テニスの王子様
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柳生比呂士がゴルフ部をやめた。聞いたところによると、昨日付で退部届を提出したらしい。挨拶はない。今日の部活の点呼。彼の名前だけがよみあげられなかった。ロッカーで着替え終わった後、顧問の教師に詰め寄り、彼のことを尋ねた。
「テニス部に転部するからだとさ」
「そうだったんですね」
顔の全神経、筋肉を総動員させて、まともな顔を作ろうと試みた。自分が今、どんな表情でこんなことを言っているか。考えると恐ろしく思えた。
喉から搾り出した声は、自分でも驚くくらい低かった。
「まさか今やめるなんて、俺も驚いてるよ。とても優秀なプレイヤーだったし、惜しいなぁ」
「私も、同じ気持ちです」
紛れもない、事実。
これ以上話すと自分の中で煮えたぎっている衝動を、無関係な先生にぶちまけてしまう。わかりました。ありがとうございます。それだけなんとか言い終えた。
私は部室を後にした。夕方と夜とが切り替わるくらいの時間で、風がびゅうびゅうと強く吹いていた。強風警報でも、電車は止まらない。ベランダに干した洗濯物が煽られている。背中の追い風を受けて、駅からの坂道を、勢いに任せて走り抜けた。こんなに力強く走ったことが今までの人生であっただろうか。
風よ吹け、全部吹っ飛ばして、更地にしてしまえばいい。
地獄は頭の中にあって、私の意識そのものが辛い状況を生み出しているという。脳みそのシワに支配される人間は気持ち悪い。
真っ直ぐ家に帰ってシャワーを浴びて、眠った。部活の後に疲れて、死んだように眠ることは別に珍しいことではない。家族は黙って、夕ご飯にラップをかけてくれていた。さめた野菜炒めを白米と一緒に胃に収めると、途端に浮き上がるような吐き気を覚えた。急いでトイレに飛び込んで、便器に向かって唸ってみたが、嘔吐することはなかった。手洗い場の鏡を見て、自分の顔がひどく青ざめているのに気がついた。まるで死人の顔だ。瞳だけが、それとは違っている。夜の空で1番輝く星のような力強い光があった。燃え尽きる寸前の炎の中に、意志を見出した。
怒りである。
吐き気ではない。シンプルに、私は柳生比呂士がテニス部なんてものに転部してしまったことに怒っている。ゴルフクラブからテニスラケットに乗り換えて、今までの努力を全部捨てたことに腹を立てている。
裏切り者。
自分の中で、これほどまでに激しい感情というものがあったことに対して、ひどく驚き、動揺していた。この体をはち切れさせそうなほどに暴れ狂う獣を、飼い慣らすことができたら、どれほどよかっただろう。
自分という人間の最も脆弱な箇所。欠点を刺激される苦しみ。許さない。
柳生比呂士。
私は彼に、ある種のオカルト的な神秘性を抱いていた。幽霊画の美人みたいな人だなというのが初見の時の感想。中学生なのに、思春期特有の、熱を発散させてくてたまらない感じがなかったのだ。
ある日、彼が廊下を歩いているのを見た。ちょうど男子トイレがある場所から、教室に戻ろうとしているようだった。柳生は青いタータンチェックのハンカチで、手を拭いていた。父の日にプレゼントでもらうようなハンカチを、男子中学生が持っているというのは、可笑しみのある光景であった。が、私は笑えなかった。ハンカチを持ち歩くという行為。真面目さというものに私は弱かった。きっと彼は、将来大物になるだろうという確信を、その時から抱いていた。
ゴルフ部に入部後も、柳生との直接的な交際はないに等しかった。時折挨拶をする顔見知り──にすぎないと彼は思っているだろう。
私は彼のプレイのみを愛していた。愛しているのに裏切られた。もうすでに、柳生比呂士を愛する私は消えた。
燃えカスになった青春に、私は決着をつけなければならない。
昔の人体実験で、鏡を使ったものがある。夜中に一人で、鏡の前で「お前は誰だ」と繰り返すだけ。たったそれだけで、人間の自我なんて簡単に崩壊してしまう、らしい。
次の日、男子テニス部のジャージに身を包んだ柳生比呂士が、朝練を終えて教室に入ってくるところが見えた。
私はずっと怒っている。こんなことで怒る自分が情けない! と冷静になりかけた。テニスラケットの握り方なんて真剣に勉強しているところを見せつけられると、頭が瞬間沸騰して、いてもたってもいられなくなり、悶々とする。
そして、もっといやなことに、周りは誰も柳生が部活をやめたことに対して何も触れていない。
結界が彼の周りにだけ張られているみたいに見えた。見えない隔たりが、私と彼とを妨げるバリケードのように、感じられないけれどそこに存在している。
廊下に突っ立っていた私を、みんなが避けて通る。電柱を避けるみたいに、当たり前のことなのだけれど、今はそれが恐ろしい。
あの辛子色のジャージは、まるで最初から彼用に誂えたかのように似合っていた。気持ち悪い。あたかも最初からゴルフ部なんてなかったみたいに振る舞う柳生比呂士は、私のことを視界にも入れないで、一時間目の授業の準備をしている。
現代文の教科書、大学ノート、ビジネスマンが使っているような地味な筆箱。ああ、きっと前日に今日の範囲の予習でもしてきたのだろう。そして、先に待っている期末試験の勉強だって、試験期間以前からやっているはずだ。
朝練の後だというのに全く乱れていない髪も、ゴルフクラブを握っていたあの頃と全く同じだった。違っているのは、握ったラケットだけなのに。どうしてこうも苛立ちを覚えるのだろう。
ドビュッシーの雨つぶみたいなピアノ旋律が、イヤホンから聞こえてくる。無線にしたらコードが絡まらなくて楽なんだろうけど、なんだかすぐに無くしてしまいそうで、ずっと三千円で買った有線のやつを使っている。昔は高いチケットを買わないと聞けなかったクラシック音楽を、今はYouTubeで無料で聴ける時代になった。そういう時代は、嫌いじゃない。
私は力いっぱいクラブを振り下ろした。ごん、と鈍い音がわずかに聞こえてきた。映画で人が死ぬ時、バン! という感じの銃声が響くが、今回の凶器は鈍器だったから、全然そんな音はしないのだ。
本気で人を殺すつもりで殴っているのに、頭の中だけはやけに冷静で、視界は磨りガラス越しに眺めたみたいに曇っている。
彼の体は、生き物じゃないみたいに勢いよく倒れた。
大した抵抗はなかった。力で押し負けると思ったから、奇襲を仕掛けた。中学生という成長途中の未発達な体すら、すでに体格の違い、筋力の差というものがある。
遠心力によって勢いを増したスイングは、人の脳天めがけて見事にヒットした。だから、柳生比呂士はピクリともしなかった。死にかけの魚みたいにばたばたと暴れても困るから、これで良い。おとなしい同学年の女子生徒に本気で殴られるなんて、彼は一度でも考えたことがあるのだろうか。それ以前に、柳生比呂士は私のフルネームだってちゃんと覚えていたのかすら危いのだ。
「裏切り者が……」
重さ50キログラムを超える体が、意思なんてないみたいに転がっている。校舎の裏、かび臭い、落ち葉が積み上がって柔らかい地面の上に、柳生比呂士の骸は転がっていたのだ。
夏なのに、冬みたいに凍えそうだった。鳥肌が立って落ち着かなかった。心臓だけが冷静にいつもと変わらない心拍数で動いている。
誰も近寄らない校舎裏の、倉庫の近くでたった二人きり。
魂の重さは、11グラム。肉体は、いずれ腐り落ちて、土に還る。学校の中なのに、ここだけ世界から切り離されたみたいに静かで、風の吹く音すら聞こえてこなかった。
うつ伏せになった体を、石の裏にくっついているダンゴムシを探すみたいにひっくり返した。
死んだ人間の顔というものを、私は初めて見た。ついさっき死んだばかりだというこの顔は! 清廉さのカケラもない、生まれたての子犬みたいな、可愛らしいけれどつまらない顔!
私はなぜか、彼のメガネを外して顔をベタベタと触った。柔らかい脂肪なんて1グラムもなくて、ニキビのない肌は産毛に覆われて柔らかかった。私はそれを、今まで知らなかった。人形の肌みたいに、硬質なものを想像していたから、人間らしい皮膚の感触に、全身の筋肉を削がれたような痛みを覚えた。
服の前をくつろげると、真っ白な肌があった。鎖骨が綺麗だった。喉仏だって、ちゃんとあった。ここで誰かが通りかかったら、まるで私が彼を襲ったように見えるのかな、なんて。
憧れていた人の、知性を感じさせない、そんな原始的な表情を見て、私は嘔吐した。
昼に食べた弁当であったものが、食道を逆流し、焼け付くような粘液と共に、喉を通って吐き出された。
それらは柳生比呂士の真っ白なシャツ、ネクタイにぶちまけられ、真っ白な嘔吐物で汚された死体は、虫か何かに食い殺されたみたいに、非現実的な光景を作り出した。
修正されたモザイクみたいな私のゲロが、柳生比呂士の白いカッターシャツに、奇妙な模様を描き出している。あ、と思う間も無く吐いた後でこの死体にこびりついたゲロやら、ベタベタ触った指紋とか、推定地面に落ちているであろう髪の毛やフケなんかが他の人に露見する可能性があるということを思い出した。ここから先は最悪だった。焼却炉に彼の死体を運び込み(死体の処理という点において、燃やすことが確実であると考えた)、無理矢理スイッチを入れた。うさぎを追いかけたアリスが穴に落っこちるみたいに、柳生比呂士の体はティッシュやら鉛筆の削りカスやらテープなんかが燃やされる穴に落ちていった。
そこから慌てて走って、玄関から一番近いトイレに駆け込んだ。そこは職員ですら滅多に使わない多目的トイレで、大きな鏡がついていた。手すりに体を預けて、一度だけ大きく深呼吸をした。鏡には、乱れた呼吸の私がうつっている。驚くほど不細工な表情をした私の顔、人殺しの、顔。
昨日まで部活動のための道具たったゴルフクラブは、柳生比呂士の後頭部を強打した凶器に変わってしまっていた。一度人間を殺すと、日常にありふれたどんな道具でも、人を殺す手段になり得てしまうのだ。今ポケットの中で震えている携帯電話だって、筆箱の中の鉛筆も、全部、全部。
柳生比呂士が死んでから、一年。彼が忽然と姿を消したことは粛々と受け止められ、週刊誌や新聞も囃し立てることはなかった。台風が去った後みたいに、柳生比呂士の失踪について(死亡ではなく、失踪という形になっている)の小さな噂は何もなかったかのように消え去ってしまった。学校を騒がせたゴシップの諸々を時折耳に挟みながら、私はこれで本当に良かったのかと時々考えるのだ。
私一人のエゴで、将来有望な学生の命を絶ってしまったことを。杜撰な犯行であったのに、私の罪は誰にも暴かれることなく胸のうちにある。
今年の立海は全国大会三連覇を逃してしまったらしい。
男子テニス部の部員たちは、消えてしまった柳生のことについてどう思っているのだろう。もし、彼がいたならば立海は三連覇を果たすことができただろうか。卓上の空論を並べてもどうしようもないこと、取り返しのつかないことをしてしまった。いつも何も知らない顔をして普通に通学している。あの日以来、テニスコートに近づくと、柳生比呂士がラケットを握り、ボールを打ち返す幻を視界に捉えてしまうようになった。彼の席はいつまでたっても空白のままだ。もうすぐ一回忌になる。私が彼を殺して、焼却炉に入れた日まで、後わずか。
放課後の部活で、部誌の整理をした。今年一年分の記録を眺めながら、私は春の頃を懐かしむ。手触りのザラザラとした安もののノートに、柳生比呂士の筆跡を無意識に求めた。ない。どこにも、ない。
柳生比呂士の文字も、トロフィーも、何もない。
大会で入賞した時の写真、全員で撮った集合写真の中にも彼の姿を確認することはできなかった。以前私がみていた写真の中に、彼はどこの位置で写っていただろう。記憶の中の柳生比呂士の輪郭が、だんだん曖昧に溶けていく。
「柳生比呂士君ってさ、うちにいたっけ」
「ああ、失踪した先輩でしたっけ。ゴルフ部には──いましたっけ? 確か一年の時からテニス部でしたよ」
「テニス部に転部するからだとさ」
「そうだったんですね」
顔の全神経、筋肉を総動員させて、まともな顔を作ろうと試みた。自分が今、どんな表情でこんなことを言っているか。考えると恐ろしく思えた。
喉から搾り出した声は、自分でも驚くくらい低かった。
「まさか今やめるなんて、俺も驚いてるよ。とても優秀なプレイヤーだったし、惜しいなぁ」
「私も、同じ気持ちです」
紛れもない、事実。
これ以上話すと自分の中で煮えたぎっている衝動を、無関係な先生にぶちまけてしまう。わかりました。ありがとうございます。それだけなんとか言い終えた。
私は部室を後にした。夕方と夜とが切り替わるくらいの時間で、風がびゅうびゅうと強く吹いていた。強風警報でも、電車は止まらない。ベランダに干した洗濯物が煽られている。背中の追い風を受けて、駅からの坂道を、勢いに任せて走り抜けた。こんなに力強く走ったことが今までの人生であっただろうか。
風よ吹け、全部吹っ飛ばして、更地にしてしまえばいい。
地獄は頭の中にあって、私の意識そのものが辛い状況を生み出しているという。脳みそのシワに支配される人間は気持ち悪い。
真っ直ぐ家に帰ってシャワーを浴びて、眠った。部活の後に疲れて、死んだように眠ることは別に珍しいことではない。家族は黙って、夕ご飯にラップをかけてくれていた。さめた野菜炒めを白米と一緒に胃に収めると、途端に浮き上がるような吐き気を覚えた。急いでトイレに飛び込んで、便器に向かって唸ってみたが、嘔吐することはなかった。手洗い場の鏡を見て、自分の顔がひどく青ざめているのに気がついた。まるで死人の顔だ。瞳だけが、それとは違っている。夜の空で1番輝く星のような力強い光があった。燃え尽きる寸前の炎の中に、意志を見出した。
怒りである。
吐き気ではない。シンプルに、私は柳生比呂士がテニス部なんてものに転部してしまったことに怒っている。ゴルフクラブからテニスラケットに乗り換えて、今までの努力を全部捨てたことに腹を立てている。
裏切り者。
自分の中で、これほどまでに激しい感情というものがあったことに対して、ひどく驚き、動揺していた。この体をはち切れさせそうなほどに暴れ狂う獣を、飼い慣らすことができたら、どれほどよかっただろう。
自分という人間の最も脆弱な箇所。欠点を刺激される苦しみ。許さない。
柳生比呂士。
私は彼に、ある種のオカルト的な神秘性を抱いていた。幽霊画の美人みたいな人だなというのが初見の時の感想。中学生なのに、思春期特有の、熱を発散させてくてたまらない感じがなかったのだ。
ある日、彼が廊下を歩いているのを見た。ちょうど男子トイレがある場所から、教室に戻ろうとしているようだった。柳生は青いタータンチェックのハンカチで、手を拭いていた。父の日にプレゼントでもらうようなハンカチを、男子中学生が持っているというのは、可笑しみのある光景であった。が、私は笑えなかった。ハンカチを持ち歩くという行為。真面目さというものに私は弱かった。きっと彼は、将来大物になるだろうという確信を、その時から抱いていた。
ゴルフ部に入部後も、柳生との直接的な交際はないに等しかった。時折挨拶をする顔見知り──にすぎないと彼は思っているだろう。
私は彼のプレイのみを愛していた。愛しているのに裏切られた。もうすでに、柳生比呂士を愛する私は消えた。
燃えカスになった青春に、私は決着をつけなければならない。
昔の人体実験で、鏡を使ったものがある。夜中に一人で、鏡の前で「お前は誰だ」と繰り返すだけ。たったそれだけで、人間の自我なんて簡単に崩壊してしまう、らしい。
次の日、男子テニス部のジャージに身を包んだ柳生比呂士が、朝練を終えて教室に入ってくるところが見えた。
私はずっと怒っている。こんなことで怒る自分が情けない! と冷静になりかけた。テニスラケットの握り方なんて真剣に勉強しているところを見せつけられると、頭が瞬間沸騰して、いてもたってもいられなくなり、悶々とする。
そして、もっといやなことに、周りは誰も柳生が部活をやめたことに対して何も触れていない。
結界が彼の周りにだけ張られているみたいに見えた。見えない隔たりが、私と彼とを妨げるバリケードのように、感じられないけれどそこに存在している。
廊下に突っ立っていた私を、みんなが避けて通る。電柱を避けるみたいに、当たり前のことなのだけれど、今はそれが恐ろしい。
あの辛子色のジャージは、まるで最初から彼用に誂えたかのように似合っていた。気持ち悪い。あたかも最初からゴルフ部なんてなかったみたいに振る舞う柳生比呂士は、私のことを視界にも入れないで、一時間目の授業の準備をしている。
現代文の教科書、大学ノート、ビジネスマンが使っているような地味な筆箱。ああ、きっと前日に今日の範囲の予習でもしてきたのだろう。そして、先に待っている期末試験の勉強だって、試験期間以前からやっているはずだ。
朝練の後だというのに全く乱れていない髪も、ゴルフクラブを握っていたあの頃と全く同じだった。違っているのは、握ったラケットだけなのに。どうしてこうも苛立ちを覚えるのだろう。
ドビュッシーの雨つぶみたいなピアノ旋律が、イヤホンから聞こえてくる。無線にしたらコードが絡まらなくて楽なんだろうけど、なんだかすぐに無くしてしまいそうで、ずっと三千円で買った有線のやつを使っている。昔は高いチケットを買わないと聞けなかったクラシック音楽を、今はYouTubeで無料で聴ける時代になった。そういう時代は、嫌いじゃない。
私は力いっぱいクラブを振り下ろした。ごん、と鈍い音がわずかに聞こえてきた。映画で人が死ぬ時、バン! という感じの銃声が響くが、今回の凶器は鈍器だったから、全然そんな音はしないのだ。
本気で人を殺すつもりで殴っているのに、頭の中だけはやけに冷静で、視界は磨りガラス越しに眺めたみたいに曇っている。
彼の体は、生き物じゃないみたいに勢いよく倒れた。
大した抵抗はなかった。力で押し負けると思ったから、奇襲を仕掛けた。中学生という成長途中の未発達な体すら、すでに体格の違い、筋力の差というものがある。
遠心力によって勢いを増したスイングは、人の脳天めがけて見事にヒットした。だから、柳生比呂士はピクリともしなかった。死にかけの魚みたいにばたばたと暴れても困るから、これで良い。おとなしい同学年の女子生徒に本気で殴られるなんて、彼は一度でも考えたことがあるのだろうか。それ以前に、柳生比呂士は私のフルネームだってちゃんと覚えていたのかすら危いのだ。
「裏切り者が……」
重さ50キログラムを超える体が、意思なんてないみたいに転がっている。校舎の裏、かび臭い、落ち葉が積み上がって柔らかい地面の上に、柳生比呂士の骸は転がっていたのだ。
夏なのに、冬みたいに凍えそうだった。鳥肌が立って落ち着かなかった。心臓だけが冷静にいつもと変わらない心拍数で動いている。
誰も近寄らない校舎裏の、倉庫の近くでたった二人きり。
魂の重さは、11グラム。肉体は、いずれ腐り落ちて、土に還る。学校の中なのに、ここだけ世界から切り離されたみたいに静かで、風の吹く音すら聞こえてこなかった。
うつ伏せになった体を、石の裏にくっついているダンゴムシを探すみたいにひっくり返した。
死んだ人間の顔というものを、私は初めて見た。ついさっき死んだばかりだというこの顔は! 清廉さのカケラもない、生まれたての子犬みたいな、可愛らしいけれどつまらない顔!
私はなぜか、彼のメガネを外して顔をベタベタと触った。柔らかい脂肪なんて1グラムもなくて、ニキビのない肌は産毛に覆われて柔らかかった。私はそれを、今まで知らなかった。人形の肌みたいに、硬質なものを想像していたから、人間らしい皮膚の感触に、全身の筋肉を削がれたような痛みを覚えた。
服の前をくつろげると、真っ白な肌があった。鎖骨が綺麗だった。喉仏だって、ちゃんとあった。ここで誰かが通りかかったら、まるで私が彼を襲ったように見えるのかな、なんて。
憧れていた人の、知性を感じさせない、そんな原始的な表情を見て、私は嘔吐した。
昼に食べた弁当であったものが、食道を逆流し、焼け付くような粘液と共に、喉を通って吐き出された。
それらは柳生比呂士の真っ白なシャツ、ネクタイにぶちまけられ、真っ白な嘔吐物で汚された死体は、虫か何かに食い殺されたみたいに、非現実的な光景を作り出した。
修正されたモザイクみたいな私のゲロが、柳生比呂士の白いカッターシャツに、奇妙な模様を描き出している。あ、と思う間も無く吐いた後でこの死体にこびりついたゲロやら、ベタベタ触った指紋とか、推定地面に落ちているであろう髪の毛やフケなんかが他の人に露見する可能性があるということを思い出した。ここから先は最悪だった。焼却炉に彼の死体を運び込み(死体の処理という点において、燃やすことが確実であると考えた)、無理矢理スイッチを入れた。うさぎを追いかけたアリスが穴に落っこちるみたいに、柳生比呂士の体はティッシュやら鉛筆の削りカスやらテープなんかが燃やされる穴に落ちていった。
そこから慌てて走って、玄関から一番近いトイレに駆け込んだ。そこは職員ですら滅多に使わない多目的トイレで、大きな鏡がついていた。手すりに体を預けて、一度だけ大きく深呼吸をした。鏡には、乱れた呼吸の私がうつっている。驚くほど不細工な表情をした私の顔、人殺しの、顔。
昨日まで部活動のための道具たったゴルフクラブは、柳生比呂士の後頭部を強打した凶器に変わってしまっていた。一度人間を殺すと、日常にありふれたどんな道具でも、人を殺す手段になり得てしまうのだ。今ポケットの中で震えている携帯電話だって、筆箱の中の鉛筆も、全部、全部。
柳生比呂士が死んでから、一年。彼が忽然と姿を消したことは粛々と受け止められ、週刊誌や新聞も囃し立てることはなかった。台風が去った後みたいに、柳生比呂士の失踪について(死亡ではなく、失踪という形になっている)の小さな噂は何もなかったかのように消え去ってしまった。学校を騒がせたゴシップの諸々を時折耳に挟みながら、私はこれで本当に良かったのかと時々考えるのだ。
私一人のエゴで、将来有望な学生の命を絶ってしまったことを。杜撰な犯行であったのに、私の罪は誰にも暴かれることなく胸のうちにある。
今年の立海は全国大会三連覇を逃してしまったらしい。
男子テニス部の部員たちは、消えてしまった柳生のことについてどう思っているのだろう。もし、彼がいたならば立海は三連覇を果たすことができただろうか。卓上の空論を並べてもどうしようもないこと、取り返しのつかないことをしてしまった。いつも何も知らない顔をして普通に通学している。あの日以来、テニスコートに近づくと、柳生比呂士がラケットを握り、ボールを打ち返す幻を視界に捉えてしまうようになった。彼の席はいつまでたっても空白のままだ。もうすぐ一回忌になる。私が彼を殺して、焼却炉に入れた日まで、後わずか。
放課後の部活で、部誌の整理をした。今年一年分の記録を眺めながら、私は春の頃を懐かしむ。手触りのザラザラとした安もののノートに、柳生比呂士の筆跡を無意識に求めた。ない。どこにも、ない。
柳生比呂士の文字も、トロフィーも、何もない。
大会で入賞した時の写真、全員で撮った集合写真の中にも彼の姿を確認することはできなかった。以前私がみていた写真の中に、彼はどこの位置で写っていただろう。記憶の中の柳生比呂士の輪郭が、だんだん曖昧に溶けていく。
「柳生比呂士君ってさ、うちにいたっけ」
「ああ、失踪した先輩でしたっけ。ゴルフ部には──いましたっけ? 確か一年の時からテニス部でしたよ」
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