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テニスの王子様
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同じクラスのミョウジナマエさんとちゃんと話すことになったのは、つい最近。それも昨日のことだった。
きっかけは些細なことだ。たまたま席替えで隣になった女の子に話しかけた、それだけ。
「ねぇ、それ有名な神社のお守りだよね。俺もそういうの好きなんだ。俺たち、運命って感じしない?」
席替えの後、教室の騒がしさの中で、彼女はたった一人静止しているようだった。
女の子に声をかけるのは、俺の趣味のようなものだ。趣味というか、性癖というか、習慣と言ってもしっくりくるかもしれない。
こういう時、返ってくる反応は数通り。
さぁ、どうくるんだ、と俺は身構える。どんな球を打たれてもうまく返すことができるように、頭の中でシミュレーションをするのだ。
数秒後、ミョウジさんは、俺の言葉に反応して顔をあげた。
彼女鞄につけた橙色の学業成就のお守りは、学生なら持っていても珍しくないものだったが、ここから遠く離れた地方の神社のものだったから、お、すごいなと少し感心した。
ワンテンポ遅れて、「えっと」という気の抜けた声が出てきた。
「お守りで、運命……」
「うんうん、俺たち、気が合うと思うんだよね。俺もお守りとか、占いとか結構信じる方だしさ」
ふーん、と彼女は呟いた。こちらに目線が向けられて、俺は内心よっしゃ、とガッツポーズした。
「千石くん、そういうのに興味あったんだ。へぇ……男子にしては、珍しいね」
「俺のこと知っててくれたんだ! 嬉しいなぁ」
あぁー、こういう感じなのか。
なんとなく彼女の肌触りがわかってきた気がする。
少しだけホッとした次の瞬間、ミョウジさんは弾丸のように喋り出した。
「人の話を聞こうとしなくても、音として千石くんの情報は入ってくる。つまり、同じクラスの人間であれば、把握していたとしても不思議ではないと思うよ」
この時、ミョウジさんは、変わった子だということに気づいた。
話し方が、今まで声をかけた女の子の大体のパターンとは違ったし、こんな理路整然と、大学教授みたいに話す人と喋ったことはなかったから。
慌てた様子もなく、淡々と、教科書を鞄にしまいながら彼女はそう言った。
それはテレビでみた、東京大学の生徒の喋り方と似ていた。
「俺って有名人かな」
「うちの学校の中ではね」
実はというと、内心そこまで驚いていない。
クラスの中でミョウジさんに関する噂を何度か聞いたことがあるからだ。
彼女は魔女だという、オカルトじみたとんでもない噂を。
そんなおっかないあだ名を頂戴する女の子だから、声をかけても無視されるかめちゃくちゃなことを言われるかもな、と少し身構えていた。
だから、こんな意外と普通な受け答えができることに、少しだけ安心したんだ。
「ところで……私、ちょっとお願いがあって」
「え、何?」
「席を交代してほしいんだよね」
居心地が悪そうな表情で、そうミョウジさんは言った。
彼女の席は窓際の方で、教卓からみると死角になる。先生に見つからずに内職するにはうってつけの場所だった。そんなの、もちろん快くいいよと返事をするけれど、どうしてわざわざ交代したがるのか、理由がわからなかった。
「……どうしてって思ったと思うから、説明すると、ここは風水的によくない角度で、勝負運と縁故的な意味で、あんまりいたくないっていう……それだけ」
「ふ、風水……」
中学生にしては結構渋い趣味だなぁ、と思った。自分のことは言えないけれど。
「私が見てもらってる先生が言うに、この学校自体がパワースポットらしいし、悪い気が溜まりにくいはずなんだけどね、まぁ、念には念を入れたいし」
先生にみてもらう? この年で?
流石にそこまで熱心だとは思わなかったので、へぇー意外だな、と驚いてみたりする。
元々俺が座っていた椅子に、ミョウジさんは座った。
「で、どうして欲しい?」
仕舞い込まれた教科書と交代するように、ミョウジさんは鞄から何かの箱を取り出した。ぽん、と出てきたそれを見て、思わずつっ込んでしまう。
「え、何これ」
「タロットカード。先生に見つかるとちょっと微妙だから、黙っといて」
水彩調の女性が描かれた箱には、確かに筆記体でタロットカードと書かれていた。大きめの書店に行けば置いてあるような、海外製の本格的なものだった。中学校の教室に似つかわしくない、異様な雰囲気をまとっていた。
箱の中から取り出した縦長のカードを慣れた手つきで切りながら、彼女は俺の目を、何かを急かすようにじっと見ている。
見つめ返すと、長い睫毛から眼球に影が落ちているのがわかった。近くで見ると、薄ら唇にカラーリップがひかれていたから、女の子だ、なんて馬鹿みたいなことを思った。じろじろ見ると嫌われるかもしれないから、一瞬だけ見て、あとは目をそらした。
「何か占うけど、何がいい?」
「えっとじゃあ、今日の運勢でも見てもらおうかな」
「もう半分終わったのに?」
時計を見ると、短い針が12の位置を指していた。いきなりふられたせいで、良い返しが思いつかなかった。急かすような視線に、怪訝な表情だった。いつにもなく調子を狂わされて、こいつは曲者だぞ、と密かに胸が高なった。
「恋愛運、ってどうかな?」
「あぁ……そっち系にはもう関わらないようにしてる」
恐ろしく刺々しい口調だったので、閉口した。
何か嫌なことでもあったのだろうか。
とにかく、今は深く追求しないでおこう。
不機嫌になって、悪い印象でももたれたら困る。俺は手持ちのカードの中から、差し障りのないものを選んで、なるべく明るく努めようとそれを打ち出す。
「じゃあ、来週の試合! 俺が勝てるか占ってよ!」
ミョウジさんは、少しだけ考え込むような表情を見せた後、こう言った。
「結果はわからないけど、どうすればいいかはアドバイスできるかも。それでいい?」
えらく真剣な顔でそういうので、「いいよ」と答えることがせいいっぱいだった。
カードをきれいに並べると、ミョウジさんはふっと息をついた。
「真ん中の二枚、めくって」
言われた通りにそうすると、ミュシャ風のきれいな絵が印刷された面が机の上に出てきた。
「ふぅん……」
小さく唸りながら、ミョウジさんはそれを睨んだ。
俺は女の子の付き添いで占い師に占ってもらったり、素人の占いに付き合ったりしたことがあるので、基本の基本であるタロットカードについては、ある程度の知識がある。なので、今出ているカードがどういう意味を持つのか、自分なりに考察していろいろいうことはできる。
しばらく沈黙が続いた。彼女は本気でやっているんだと思う。期末試験の真っ最中みたいに、ミョウジさんは真剣な顔をしていた。
ちょっと軽率だったかな、と反省する。こちらとしては本気の占いを求めているのではなく、ただ単にちょっとしたお喋りをしたかっただけなのだから、向こうの時間を浪費させてしまっていることには変わりないのだ。
「お待たせ、出たよ」
これから始まる長い解説は割愛する。要約すると、
「これから変化があるね。良いとは限らないかもしれないけれど、このカードの位置としては最終的にうまく収まる可能性が高い……」
とのことだった。
そんな結果を言われて、俺がどう返したかというと、
「すごいねぇ! いやー、同い年でこんなにすごい占いができる人がいたんだ……俺、驚いちゃった。ミョウジさん、ありがとうね」
みたいなことを言ったと思う。
できる限り全力で褒めたつもり(実際、手つきはプロのそれと遜色なかった)だったが、彼女は普段と変わらない様子で、「どういたしまして」と言ってカードを片付けた。ちょうどそれくらいに、公民の教師が教室に入ってきて、予鈴がなったからそれでお開きになった。
その後、ご飯を一緒に食べようとか俺は適当に誘ったけれど、ミョウジさんにはあっさり断られた。
「ねーね、キヨくん、今日はテニス部ないんでしょ? 一緒にカラオケいこ」
コートの整備で部活が休みになって、塾もないし適当に帰ろうとしたら、昇降口で同じクラスの女の子に声をかけられた。
彼女の毎朝頑張ってコテ使って巻いてるんだろうなっていう感じのゆるふわ~な髪の毛は、夕方になってもケープによってきれいにキープされたまんまだった。俺はこういう、女の子の努力が結構好きだったりする。かわいいじゃん。
どうしようかな、とちょっとだけ考えるふりをして、周りを見ると、ロビーの隅っこに女子の人だかりができているのがわかった。
学校のロビーには柔らかくて大きな椅子があって、放課後はそこに集まって駄弁ったりできる。
派手目な女の子軍団の真ん中で、ミョウジさんはアイドルみたいにきゃあきゃあ言われていた。トランプだかオラクルカードだかわからないが、何かをめくっては、真剣な表情をした乙女たちをぎゃあぎゃあ言わせている様子が見える。
思わず立ち止まって、じっと見つめる。
一瞬だけ、時間が止まったみたいに目があう。ぱっちりとした目が、少しだけ大きく見開かれた。
「キヨくん、キヨくんも、占いキョーミあるの? ナマエちゃんの占い? けっこー有名だよねぇ、うちも占ってもらったことあるよ。すっごい当たるの、百発百中なの!」
「へぇー、それはすごいや」
「キヨくんも占ってもらいなよ、ってか、うちもまた占ってもらいたいよぉ、サカモトさんたち終わったらうちらもみてもらお?」
「そうだねー」
俺たちは、ねーねー何してんの? っていう感じでその集団の中に合流した。よくよく見ると、全員俺の顔見知りで、わーキヨだーみたいなノリでおんなともだち集団に入れてもらった。
「ミョウジさん、いいかな?」
「……順番、あるから」
「いいよいいよ、全然待つよ」
微妙な表情で、ミョウジさんはうなずいた。
え、なんだったんだろう。俺は何か彼女に嫌なことでもしてしまったとか?
変な空気のまま俺との会話が終わると、また別の子が横からぐっと入ってきて、「次私だったよねー」と言った。
そのまま順繰りに占いを終え、とうとう俺のところにーーというところでミョウジさんはすっくと立ち上がって、鞄に机の上の道具を一切合切詰め込んだ。
え、と思ったがすぐに、
「私、今日、帰る。続きは後日でっ」
と言って昇降口まで逃げるように走って行った。
取り残された待機組の面々は、それぞれ納得したような、がっかりしたような変な気持ちのまま取り残されて、自然と解散していった。
俺が「じゃあ、帰ろうか」と号令を出す前に、隣の彼女が不満そうに声を上げる。
「えー、キヨくん占ってくれなかった。かわいそー」
「いやでも、実は俺、一回前にみてもらったことあるんだよね」
「へー! そーなんだ! でも、なんであんなにすぐ帰っちゃうんだろ。後ろで待ってる人いっぱいいたのにさぁ……っていうか、あの子、教室でもなんか暗いよね。ほんと、魔女って感じ、するわぁー」
「多分、ミョウジさんも用事とかあったんじゃないかな。ってかそれより、そろそろカラオケ行かないとダメなんじゃない?」
「アッ! ほんとだぁ。早く行かないと、えっちゃんたち待ってる!」
靴を履きながら、「あのね、キヨくんもくるって! そう、そうなの、今日テニス部ないんだって」と慌ただしく電話する様子を横目に、なんとなーく走って帰るミョウジさんの後ろ姿を思い出した。
あの後カラオケに行って、〆にラーメンもみんなで食べに行ったから帰りは結構遅くなった。
部活のある日よりも遅い時間の電車に乗って、最寄り駅まで戻ると、塾帰りの学生や残業を終えたサラリーマンは疲れた顔で家に帰っていく。その横を、俺も同じ顔をして通り過ぎた。
あー、今日は楽しかったな、なんて月並みなことを考え、スマホを弄りながら歩いていると、正面にふらふらと歩く制服姿の女の子が見えた。
酔っ払いみたいな千鳥足で、見ていて少し不安になる歩き方だったから、注視していると、その子が着ている制服が俺と同じ学校のものだとわかった。
うちの地元にも山吹の生徒はいるんだな、なんて適当に関心してみる。
そこそこ急いでいたので、早足で追い越そうとした時、不意に名前を呼ばれた。
「……ミョウジさん?」
振り返ると、よく知った顔だった。
街灯と、民家の明かりに照らされて、彼女の黒髪が煌々と輝いていた。
迷子の子供のように心許ない表情と足取りで、こっちに向かって少しだけ歩み出した。
「こんばんは……その、実は……」
「こんばんは。もう十時だけど、どうしたの?」
彼女はもごもごと、喉に骨がつっかえたような話し方で、何かを訴えようとしていた。
何度も周囲をチラチラと見て、カバンの紐を手で弄りながら、不安定な目線は挙動不審で、見ているこちらが心配になる。
もう近頃、夜は寒くなるというのに、上着も何も羽織らず真っ白な制服のままずっとうろついていたのだろうか。
「家に、入れなくて……」
必死にひり出した声は、小さくてか細かった。
学校で聞いた、教鞭をとる教師みたいな自信たっぷりな声ではなく、死にかけの小鳥みたいな小さな声だった。
え、家に入れない?
鍵を忘れたとか、そういうこと?
俺が次にかける言葉に迷っていると、緊張が解けたのか、ミョウジさんの瞳から、堰を切ったように涙がボロボロ溢れてきた。
「う、うぅ……うっ……」
「家に入れなくて、今まで大変だったよね。しんどかったよね……」
スカートから取り出したハンカチで顔を覆って、嗚咽を漏らしながらミョウジさんは泣いた。
目の前でこんなに女の子に泣かれたことは、今までの人生の中で数えるほどあっただろうか。とりあえず、ティッシュを差し出すと、俺から顔をそらしてチーンとかんでいた。上着を肩にかけてあげると、余計に泣き声が大きくなった。
しゃっくりみたいな嗚咽が、夜の住宅街に響いた。
背中をさすってあげると、逆に落ち着かないのか一瞬体が強張って、びしゃびしゃのハンカチに更に染みが広がった。
俺は目の前のかわいそうな子を放って帰るなんてしない。できる? こんな風に目の前で泣かれてさ。
「飲み物! ココアでも買ってくるから!」
顔を覆ったまま、ぐすぐす泣き続けるミョウジさんの手を引き、近くの公園のベンチに座らせた。
幸い、公園には他に誰もいなくて、風に揺られたブランコがギイギイと鳴いていた。
走って自販機でココアとミルクティーと無糖コーヒーと……とにかく、体が温まるような飲み物を買った。
戻ると、泣きはらして真っ赤な目で、鼻水をずるずる垂らしたミョウジさんが、無気力な瞳でこちらを見ていた。
「とりあえず、何が好きかわからないから……」
「ん……ありがとう」
彼女は無糖コーヒーの缶を受け取ると、プルタブを開けて、一気にグイッと飲んだ。
「あっつ!」
間抜けな声に、思わず吹き出しながら、俺もミルクティーを飲んだ。ペットボトルが熱くて、火傷しそうになった。
「やっぱ、苦いなぁ」
「ココアにする?」
「うん、ありがと」
受け取ったココアも、全部飲み干す勢いで体に収めて、ミョウジさんは力なさげに微笑んだ。
「家の鍵とスマホ、忘れて……帰れなくなってた」
「あぁ……そっか、公衆電話もないもんね。俺のスマホ貸そうか?」
「……どうせ連絡しても、お母さんでないし。お金ないからどこにも行けないし、どうしていいかわからなくて歩いてたら、この時間になってた」
自分を嘲るように、ミョウジさんは笑った。
「いやでも、俺が来てよかったでしょ?」
「うん、助かった。ありがとう。飲み物も……」
財布を取り出そうとするのを見て、すぐに止めた。
それから、俺たちはしばらく黙って、月明かりと、公園の周りの家からもれる明かりが、木やブランコや、滑り台を照らすのを黙って見ていた。
人と二人きりになって、ここまで静かに過ごしたのは久しぶりだったかもしれない。
ちらりとミョウジさんの横顔を盗み見ると、視線が明後日の方に向いているのがわかった。
ずっと遠くの何かを見つめているみたいな、静かな瞳だった。こんな目をするんだ、と考えると少しだけどきっとした。
スカートの上にのせた小さな手が、ぎゅっとシワを形作るのを、生き物を観察するような気持ちで、見つめていた。
今、隣にいるミョウジさんが、同級生の女の子という存在ではなく、自分を防護する針鼠みたいな、繊細な刺で世界と向き合う、そんな一面を持ったひとだということを知ってしまった。
しばらく、車の通る音と、風がふく音だけが周りを支配した。こんな時間が、一生のうち何時間あるんだろう。
明かりに惹かれて飛んでくる蛾を眺めていると、急にミョウジさんが立ち上がった。
「よし、帰る」
そう言うと、急に鞄を背負い、缶をゴミ箱に投げ入れて、足早に公園の出口へと向かっていった。
俺も慌てて追いかける。
「俺も送るよ!」
「……大丈夫だから」
「いや、この時間に一人だったら危ないからさ」
「いつもこの時間に家にいないとか、あるし。普通に」
「俺がミョウジさんと一緒に帰りたいって言ったら、嫌かな」
ぴたり。と目の前を歩く足が止まった。
後ろに顔を見せないで、ミョウジさんは小さな声でささやくように呟いた。
「私に、もう関わらない方がいいよ」
全てを拒絶するような冷たい声は、体の内側の臓器を全て凍らせるかのように、すぅっと自分の中に入っていった。
遠くでカラスが鳴いている音が、耳にうるさい。夜風が生暖かく感じるくらい、体が冷え切ってしまう。
「それは……どうして?」
「……多分、千石くんの次の試合はダメだと思う」
「……なんで俺の試合がミョウジさんに関係があるのか、わからないよ」
「私の星が悪いから」
星だと彼女は言った。つまり、それは本当の意味の、夜空にある星ではなく、占いで使うような星ということだろう。
いきなりメルヘンな言葉が出てきて、少々面食らったが、言葉の裏にある真剣な事情を察して、茶化すようなことは言わないでおいた。
「私が生まれた時、お母さんはーー占い師なんだけど、この子には10万人に一人の大凶星がついているってわかったんだ。で、本当にそうだった。偶然じゃないから。事故で何度か死にかけたし、いろいろ気をつけていないと……他の人も巻き込むし」
「俺は、それでもいいよ」
「今日だって、巻き込んだのに?」
「俺ってさぁ、ついてるから、そういう悪い運勢でも関係ないよ。むしろ、君みたいな子と絡めてラッキーって感じ」
「……」
「それにそういうのって、意外と本人の気の持ちようでどうにかなるんだよ? 何なら、俺がミョウジさんもツキを持ってるっていうのを証明する。だから、今度の試合、俺が勝ったらそういうのはナシってことで!」
言いたいことがありすぎて、詰め込んだら自分でも驚くくらい早口になったのがわかった。
めちゃくちゃクサいことを言ったという自覚は、ある。正直、こんなに必死になって話したのもすごく久しぶりだ。
あぁ、格好つけちゃった、と一人でもじもじしていると、ミョウジさんはまたゆっくりと歩き出した。俺を置いて、背中が遠ざかっていく。
「また明日、学校で!」
返事はない。
彼女とは反対側の出口から駐車場に出て、そのまま帰った。
それからしばらく、ミョウジさんは学校を休んだ。
なんだか変なわだかまりを抱えたまま、練習試合は当日を迎えた。相手はまぁ、近所の男子校で、交流試合みたいな適当なものだった。
万が一にでも試合に出れなかったら恥ずかしいぞ。なんて心配もしたけれど、それは完全に杞憂であったし、順調に試合は展開され、とうとう自分の出番が回ってきた。
朝ついてから、ずっとフェンスの向かいにいる人たちの中から、ミョウジさんのことを探していたけれど、今の今まで彼女がくることはなかった。
早くこれに勝って、一番に報告してあげないといけない。
そういう思いがあるから、いつもより気合を入れてコートに向かう。
最後にもう一度だけ、視線をそらしてフェンスを見たけれど、やっぱりそこにミョウジさんの姿はなかった。
ヤバい。これは結構キツいかもしれない。
まさか、相手側のチームに全国区の選手がいるとは思わなかった。今までのやり方を分析されているのだろう、的確に苦手なコースを狙ってショットを打ってくるので、返すために神経を使い、いっぱいいっぱいになってしまった。
あんなに啖呵を切っておいて、負けるのはみっともない。負けたなんて言ったら、きっとミョウジさんはあのままだろう。それは、絶対にだめだ。
自分に呪いをかけた人を、俺は救いたいと思う。そして、今この目の前にある勝負で、相手に負けたくない。絶対に、勝ちたい。
調子を狂わされて、思ったようにプレーができない。
じわじわと、確実に体力と精神力が削られていくのがわかった。
正直、食らいつくのはしんどかった。なんとかやってこれたのは、ミョウジさんに勝つと言ったから。
でも、彼女は俺のことなんてどうでもいいかもしれない。
いやいや、弱気になるな。そんなこと言ってちゃ、だめだ。
……幻でもいいから、ミョウジさんが応援に来てくれないだろうか。
そんなことを思った矢先、鋭い視線を背中に感じた。
「押されてるじゃないかっ! 勝て! 勝てよ千石っ!」
幻聴じゃなければ、それはミョウジナマエさんの声だった。
「あんだけ見栄張っといて負けるとか、格好悪いから!」
後ろを振り返ると、ミョウジさんが必死に叫んでいた。フェンスにしがみついて、姿勢が借金の返済を催促するやくざみたいで笑ってしまった。
周りの人は彼女をみて、驚いたような、困惑するような表情を浮かべている。
ベンチにいるテニス部員たちもざわめいているようだった。
「ミョウジさーーん! ちゃんと俺が勝つとこみといてよね!」
ひらひらと手を振ると、周りがドッと沸いた。そして、今更恥ずかしくなったのか、ミョウジさんは縮こまって、後ろの方へとずるずる後退した。
「じゃ、続きをやろうか」
改めて背筋を伸ばして、相手にそう突きつけた。
「ありがとーございましたー!」
整列してお辞儀をした後、真っ先にコートの外に目をやった。
試合が終わると、人がぱらぱらと散らばっていく。その中に、ミョウジさんの姿があった。
「ミョウジさん!」
駆け寄って、帰ろうとする背中に呼びかける。
「……ありがと、勝ってくれて」
「まぁね、俺、ちゃんと有言実行するタイプだし」
「試合、途中からしか見れなかった。ごめん」
「いいよ、全然そんなの気にしないし、来てくれただけで嬉しいよ。っていうか、3日くらい休んでたけど大丈夫だった?」
「まぁ、なんとかね……本当、なんとか……その、心配させて、ごめん」
それからしばらく、なんとなく恥ずかしくなって、何か言おうと口をもごもごさせながら、視線を遊ばせる、というなんだか変な雰囲気になってしまった。
後ろから、コートの清掃を行う部員たちの生暖かい、刺々しい視線が刺さるが、今はどうでもいい。
「……んじゃ、私、帰る!」
この、気怠い空気に耐えきれなくなったのか、ミョウジさんはそう言って、背中をむけてたったったと走って行った。
なんだかそれが、可愛らしくて、愛おしくて、嬉しくて仕方なくて、今すぐここから走って追いかけたくなった。けど、我慢した。
その代わりに、名一杯の声で叫んだ。
「月曜! また学校で!」
ちょっとだけ立ち止まって、ミョウジさんは会釈をした。そして、そのまま駐輪場の方へと駆け出して行った。
その背中を最後まで見守って、今まででこれ以上嬉しかったことってないな、と短い自分の人生を振り返った。
明日がくるのが、また楽しみになった。
きっかけは些細なことだ。たまたま席替えで隣になった女の子に話しかけた、それだけ。
「ねぇ、それ有名な神社のお守りだよね。俺もそういうの好きなんだ。俺たち、運命って感じしない?」
席替えの後、教室の騒がしさの中で、彼女はたった一人静止しているようだった。
女の子に声をかけるのは、俺の趣味のようなものだ。趣味というか、性癖というか、習慣と言ってもしっくりくるかもしれない。
こういう時、返ってくる反応は数通り。
さぁ、どうくるんだ、と俺は身構える。どんな球を打たれてもうまく返すことができるように、頭の中でシミュレーションをするのだ。
数秒後、ミョウジさんは、俺の言葉に反応して顔をあげた。
彼女鞄につけた橙色の学業成就のお守りは、学生なら持っていても珍しくないものだったが、ここから遠く離れた地方の神社のものだったから、お、すごいなと少し感心した。
ワンテンポ遅れて、「えっと」という気の抜けた声が出てきた。
「お守りで、運命……」
「うんうん、俺たち、気が合うと思うんだよね。俺もお守りとか、占いとか結構信じる方だしさ」
ふーん、と彼女は呟いた。こちらに目線が向けられて、俺は内心よっしゃ、とガッツポーズした。
「千石くん、そういうのに興味あったんだ。へぇ……男子にしては、珍しいね」
「俺のこと知っててくれたんだ! 嬉しいなぁ」
あぁー、こういう感じなのか。
なんとなく彼女の肌触りがわかってきた気がする。
少しだけホッとした次の瞬間、ミョウジさんは弾丸のように喋り出した。
「人の話を聞こうとしなくても、音として千石くんの情報は入ってくる。つまり、同じクラスの人間であれば、把握していたとしても不思議ではないと思うよ」
この時、ミョウジさんは、変わった子だということに気づいた。
話し方が、今まで声をかけた女の子の大体のパターンとは違ったし、こんな理路整然と、大学教授みたいに話す人と喋ったことはなかったから。
慌てた様子もなく、淡々と、教科書を鞄にしまいながら彼女はそう言った。
それはテレビでみた、東京大学の生徒の喋り方と似ていた。
「俺って有名人かな」
「うちの学校の中ではね」
実はというと、内心そこまで驚いていない。
クラスの中でミョウジさんに関する噂を何度か聞いたことがあるからだ。
彼女は魔女だという、オカルトじみたとんでもない噂を。
そんなおっかないあだ名を頂戴する女の子だから、声をかけても無視されるかめちゃくちゃなことを言われるかもな、と少し身構えていた。
だから、こんな意外と普通な受け答えができることに、少しだけ安心したんだ。
「ところで……私、ちょっとお願いがあって」
「え、何?」
「席を交代してほしいんだよね」
居心地が悪そうな表情で、そうミョウジさんは言った。
彼女の席は窓際の方で、教卓からみると死角になる。先生に見つからずに内職するにはうってつけの場所だった。そんなの、もちろん快くいいよと返事をするけれど、どうしてわざわざ交代したがるのか、理由がわからなかった。
「……どうしてって思ったと思うから、説明すると、ここは風水的によくない角度で、勝負運と縁故的な意味で、あんまりいたくないっていう……それだけ」
「ふ、風水……」
中学生にしては結構渋い趣味だなぁ、と思った。自分のことは言えないけれど。
「私が見てもらってる先生が言うに、この学校自体がパワースポットらしいし、悪い気が溜まりにくいはずなんだけどね、まぁ、念には念を入れたいし」
先生にみてもらう? この年で?
流石にそこまで熱心だとは思わなかったので、へぇー意外だな、と驚いてみたりする。
元々俺が座っていた椅子に、ミョウジさんは座った。
「で、どうして欲しい?」
仕舞い込まれた教科書と交代するように、ミョウジさんは鞄から何かの箱を取り出した。ぽん、と出てきたそれを見て、思わずつっ込んでしまう。
「え、何これ」
「タロットカード。先生に見つかるとちょっと微妙だから、黙っといて」
水彩調の女性が描かれた箱には、確かに筆記体でタロットカードと書かれていた。大きめの書店に行けば置いてあるような、海外製の本格的なものだった。中学校の教室に似つかわしくない、異様な雰囲気をまとっていた。
箱の中から取り出した縦長のカードを慣れた手つきで切りながら、彼女は俺の目を、何かを急かすようにじっと見ている。
見つめ返すと、長い睫毛から眼球に影が落ちているのがわかった。近くで見ると、薄ら唇にカラーリップがひかれていたから、女の子だ、なんて馬鹿みたいなことを思った。じろじろ見ると嫌われるかもしれないから、一瞬だけ見て、あとは目をそらした。
「何か占うけど、何がいい?」
「えっとじゃあ、今日の運勢でも見てもらおうかな」
「もう半分終わったのに?」
時計を見ると、短い針が12の位置を指していた。いきなりふられたせいで、良い返しが思いつかなかった。急かすような視線に、怪訝な表情だった。いつにもなく調子を狂わされて、こいつは曲者だぞ、と密かに胸が高なった。
「恋愛運、ってどうかな?」
「あぁ……そっち系にはもう関わらないようにしてる」
恐ろしく刺々しい口調だったので、閉口した。
何か嫌なことでもあったのだろうか。
とにかく、今は深く追求しないでおこう。
不機嫌になって、悪い印象でももたれたら困る。俺は手持ちのカードの中から、差し障りのないものを選んで、なるべく明るく努めようとそれを打ち出す。
「じゃあ、来週の試合! 俺が勝てるか占ってよ!」
ミョウジさんは、少しだけ考え込むような表情を見せた後、こう言った。
「結果はわからないけど、どうすればいいかはアドバイスできるかも。それでいい?」
えらく真剣な顔でそういうので、「いいよ」と答えることがせいいっぱいだった。
カードをきれいに並べると、ミョウジさんはふっと息をついた。
「真ん中の二枚、めくって」
言われた通りにそうすると、ミュシャ風のきれいな絵が印刷された面が机の上に出てきた。
「ふぅん……」
小さく唸りながら、ミョウジさんはそれを睨んだ。
俺は女の子の付き添いで占い師に占ってもらったり、素人の占いに付き合ったりしたことがあるので、基本の基本であるタロットカードについては、ある程度の知識がある。なので、今出ているカードがどういう意味を持つのか、自分なりに考察していろいろいうことはできる。
しばらく沈黙が続いた。彼女は本気でやっているんだと思う。期末試験の真っ最中みたいに、ミョウジさんは真剣な顔をしていた。
ちょっと軽率だったかな、と反省する。こちらとしては本気の占いを求めているのではなく、ただ単にちょっとしたお喋りをしたかっただけなのだから、向こうの時間を浪費させてしまっていることには変わりないのだ。
「お待たせ、出たよ」
これから始まる長い解説は割愛する。要約すると、
「これから変化があるね。良いとは限らないかもしれないけれど、このカードの位置としては最終的にうまく収まる可能性が高い……」
とのことだった。
そんな結果を言われて、俺がどう返したかというと、
「すごいねぇ! いやー、同い年でこんなにすごい占いができる人がいたんだ……俺、驚いちゃった。ミョウジさん、ありがとうね」
みたいなことを言ったと思う。
できる限り全力で褒めたつもり(実際、手つきはプロのそれと遜色なかった)だったが、彼女は普段と変わらない様子で、「どういたしまして」と言ってカードを片付けた。ちょうどそれくらいに、公民の教師が教室に入ってきて、予鈴がなったからそれでお開きになった。
その後、ご飯を一緒に食べようとか俺は適当に誘ったけれど、ミョウジさんにはあっさり断られた。
「ねーね、キヨくん、今日はテニス部ないんでしょ? 一緒にカラオケいこ」
コートの整備で部活が休みになって、塾もないし適当に帰ろうとしたら、昇降口で同じクラスの女の子に声をかけられた。
彼女の毎朝頑張ってコテ使って巻いてるんだろうなっていう感じのゆるふわ~な髪の毛は、夕方になってもケープによってきれいにキープされたまんまだった。俺はこういう、女の子の努力が結構好きだったりする。かわいいじゃん。
どうしようかな、とちょっとだけ考えるふりをして、周りを見ると、ロビーの隅っこに女子の人だかりができているのがわかった。
学校のロビーには柔らかくて大きな椅子があって、放課後はそこに集まって駄弁ったりできる。
派手目な女の子軍団の真ん中で、ミョウジさんはアイドルみたいにきゃあきゃあ言われていた。トランプだかオラクルカードだかわからないが、何かをめくっては、真剣な表情をした乙女たちをぎゃあぎゃあ言わせている様子が見える。
思わず立ち止まって、じっと見つめる。
一瞬だけ、時間が止まったみたいに目があう。ぱっちりとした目が、少しだけ大きく見開かれた。
「キヨくん、キヨくんも、占いキョーミあるの? ナマエちゃんの占い? けっこー有名だよねぇ、うちも占ってもらったことあるよ。すっごい当たるの、百発百中なの!」
「へぇー、それはすごいや」
「キヨくんも占ってもらいなよ、ってか、うちもまた占ってもらいたいよぉ、サカモトさんたち終わったらうちらもみてもらお?」
「そうだねー」
俺たちは、ねーねー何してんの? っていう感じでその集団の中に合流した。よくよく見ると、全員俺の顔見知りで、わーキヨだーみたいなノリでおんなともだち集団に入れてもらった。
「ミョウジさん、いいかな?」
「……順番、あるから」
「いいよいいよ、全然待つよ」
微妙な表情で、ミョウジさんはうなずいた。
え、なんだったんだろう。俺は何か彼女に嫌なことでもしてしまったとか?
変な空気のまま俺との会話が終わると、また別の子が横からぐっと入ってきて、「次私だったよねー」と言った。
そのまま順繰りに占いを終え、とうとう俺のところにーーというところでミョウジさんはすっくと立ち上がって、鞄に机の上の道具を一切合切詰め込んだ。
え、と思ったがすぐに、
「私、今日、帰る。続きは後日でっ」
と言って昇降口まで逃げるように走って行った。
取り残された待機組の面々は、それぞれ納得したような、がっかりしたような変な気持ちのまま取り残されて、自然と解散していった。
俺が「じゃあ、帰ろうか」と号令を出す前に、隣の彼女が不満そうに声を上げる。
「えー、キヨくん占ってくれなかった。かわいそー」
「いやでも、実は俺、一回前にみてもらったことあるんだよね」
「へー! そーなんだ! でも、なんであんなにすぐ帰っちゃうんだろ。後ろで待ってる人いっぱいいたのにさぁ……っていうか、あの子、教室でもなんか暗いよね。ほんと、魔女って感じ、するわぁー」
「多分、ミョウジさんも用事とかあったんじゃないかな。ってかそれより、そろそろカラオケ行かないとダメなんじゃない?」
「アッ! ほんとだぁ。早く行かないと、えっちゃんたち待ってる!」
靴を履きながら、「あのね、キヨくんもくるって! そう、そうなの、今日テニス部ないんだって」と慌ただしく電話する様子を横目に、なんとなーく走って帰るミョウジさんの後ろ姿を思い出した。
あの後カラオケに行って、〆にラーメンもみんなで食べに行ったから帰りは結構遅くなった。
部活のある日よりも遅い時間の電車に乗って、最寄り駅まで戻ると、塾帰りの学生や残業を終えたサラリーマンは疲れた顔で家に帰っていく。その横を、俺も同じ顔をして通り過ぎた。
あー、今日は楽しかったな、なんて月並みなことを考え、スマホを弄りながら歩いていると、正面にふらふらと歩く制服姿の女の子が見えた。
酔っ払いみたいな千鳥足で、見ていて少し不安になる歩き方だったから、注視していると、その子が着ている制服が俺と同じ学校のものだとわかった。
うちの地元にも山吹の生徒はいるんだな、なんて適当に関心してみる。
そこそこ急いでいたので、早足で追い越そうとした時、不意に名前を呼ばれた。
「……ミョウジさん?」
振り返ると、よく知った顔だった。
街灯と、民家の明かりに照らされて、彼女の黒髪が煌々と輝いていた。
迷子の子供のように心許ない表情と足取りで、こっちに向かって少しだけ歩み出した。
「こんばんは……その、実は……」
「こんばんは。もう十時だけど、どうしたの?」
彼女はもごもごと、喉に骨がつっかえたような話し方で、何かを訴えようとしていた。
何度も周囲をチラチラと見て、カバンの紐を手で弄りながら、不安定な目線は挙動不審で、見ているこちらが心配になる。
もう近頃、夜は寒くなるというのに、上着も何も羽織らず真っ白な制服のままずっとうろついていたのだろうか。
「家に、入れなくて……」
必死にひり出した声は、小さくてか細かった。
学校で聞いた、教鞭をとる教師みたいな自信たっぷりな声ではなく、死にかけの小鳥みたいな小さな声だった。
え、家に入れない?
鍵を忘れたとか、そういうこと?
俺が次にかける言葉に迷っていると、緊張が解けたのか、ミョウジさんの瞳から、堰を切ったように涙がボロボロ溢れてきた。
「う、うぅ……うっ……」
「家に入れなくて、今まで大変だったよね。しんどかったよね……」
スカートから取り出したハンカチで顔を覆って、嗚咽を漏らしながらミョウジさんは泣いた。
目の前でこんなに女の子に泣かれたことは、今までの人生の中で数えるほどあっただろうか。とりあえず、ティッシュを差し出すと、俺から顔をそらしてチーンとかんでいた。上着を肩にかけてあげると、余計に泣き声が大きくなった。
しゃっくりみたいな嗚咽が、夜の住宅街に響いた。
背中をさすってあげると、逆に落ち着かないのか一瞬体が強張って、びしゃびしゃのハンカチに更に染みが広がった。
俺は目の前のかわいそうな子を放って帰るなんてしない。できる? こんな風に目の前で泣かれてさ。
「飲み物! ココアでも買ってくるから!」
顔を覆ったまま、ぐすぐす泣き続けるミョウジさんの手を引き、近くの公園のベンチに座らせた。
幸い、公園には他に誰もいなくて、風に揺られたブランコがギイギイと鳴いていた。
走って自販機でココアとミルクティーと無糖コーヒーと……とにかく、体が温まるような飲み物を買った。
戻ると、泣きはらして真っ赤な目で、鼻水をずるずる垂らしたミョウジさんが、無気力な瞳でこちらを見ていた。
「とりあえず、何が好きかわからないから……」
「ん……ありがとう」
彼女は無糖コーヒーの缶を受け取ると、プルタブを開けて、一気にグイッと飲んだ。
「あっつ!」
間抜けな声に、思わず吹き出しながら、俺もミルクティーを飲んだ。ペットボトルが熱くて、火傷しそうになった。
「やっぱ、苦いなぁ」
「ココアにする?」
「うん、ありがと」
受け取ったココアも、全部飲み干す勢いで体に収めて、ミョウジさんは力なさげに微笑んだ。
「家の鍵とスマホ、忘れて……帰れなくなってた」
「あぁ……そっか、公衆電話もないもんね。俺のスマホ貸そうか?」
「……どうせ連絡しても、お母さんでないし。お金ないからどこにも行けないし、どうしていいかわからなくて歩いてたら、この時間になってた」
自分を嘲るように、ミョウジさんは笑った。
「いやでも、俺が来てよかったでしょ?」
「うん、助かった。ありがとう。飲み物も……」
財布を取り出そうとするのを見て、すぐに止めた。
それから、俺たちはしばらく黙って、月明かりと、公園の周りの家からもれる明かりが、木やブランコや、滑り台を照らすのを黙って見ていた。
人と二人きりになって、ここまで静かに過ごしたのは久しぶりだったかもしれない。
ちらりとミョウジさんの横顔を盗み見ると、視線が明後日の方に向いているのがわかった。
ずっと遠くの何かを見つめているみたいな、静かな瞳だった。こんな目をするんだ、と考えると少しだけどきっとした。
スカートの上にのせた小さな手が、ぎゅっとシワを形作るのを、生き物を観察するような気持ちで、見つめていた。
今、隣にいるミョウジさんが、同級生の女の子という存在ではなく、自分を防護する針鼠みたいな、繊細な刺で世界と向き合う、そんな一面を持ったひとだということを知ってしまった。
しばらく、車の通る音と、風がふく音だけが周りを支配した。こんな時間が、一生のうち何時間あるんだろう。
明かりに惹かれて飛んでくる蛾を眺めていると、急にミョウジさんが立ち上がった。
「よし、帰る」
そう言うと、急に鞄を背負い、缶をゴミ箱に投げ入れて、足早に公園の出口へと向かっていった。
俺も慌てて追いかける。
「俺も送るよ!」
「……大丈夫だから」
「いや、この時間に一人だったら危ないからさ」
「いつもこの時間に家にいないとか、あるし。普通に」
「俺がミョウジさんと一緒に帰りたいって言ったら、嫌かな」
ぴたり。と目の前を歩く足が止まった。
後ろに顔を見せないで、ミョウジさんは小さな声でささやくように呟いた。
「私に、もう関わらない方がいいよ」
全てを拒絶するような冷たい声は、体の内側の臓器を全て凍らせるかのように、すぅっと自分の中に入っていった。
遠くでカラスが鳴いている音が、耳にうるさい。夜風が生暖かく感じるくらい、体が冷え切ってしまう。
「それは……どうして?」
「……多分、千石くんの次の試合はダメだと思う」
「……なんで俺の試合がミョウジさんに関係があるのか、わからないよ」
「私の星が悪いから」
星だと彼女は言った。つまり、それは本当の意味の、夜空にある星ではなく、占いで使うような星ということだろう。
いきなりメルヘンな言葉が出てきて、少々面食らったが、言葉の裏にある真剣な事情を察して、茶化すようなことは言わないでおいた。
「私が生まれた時、お母さんはーー占い師なんだけど、この子には10万人に一人の大凶星がついているってわかったんだ。で、本当にそうだった。偶然じゃないから。事故で何度か死にかけたし、いろいろ気をつけていないと……他の人も巻き込むし」
「俺は、それでもいいよ」
「今日だって、巻き込んだのに?」
「俺ってさぁ、ついてるから、そういう悪い運勢でも関係ないよ。むしろ、君みたいな子と絡めてラッキーって感じ」
「……」
「それにそういうのって、意外と本人の気の持ちようでどうにかなるんだよ? 何なら、俺がミョウジさんもツキを持ってるっていうのを証明する。だから、今度の試合、俺が勝ったらそういうのはナシってことで!」
言いたいことがありすぎて、詰め込んだら自分でも驚くくらい早口になったのがわかった。
めちゃくちゃクサいことを言ったという自覚は、ある。正直、こんなに必死になって話したのもすごく久しぶりだ。
あぁ、格好つけちゃった、と一人でもじもじしていると、ミョウジさんはまたゆっくりと歩き出した。俺を置いて、背中が遠ざかっていく。
「また明日、学校で!」
返事はない。
彼女とは反対側の出口から駐車場に出て、そのまま帰った。
それからしばらく、ミョウジさんは学校を休んだ。
なんだか変なわだかまりを抱えたまま、練習試合は当日を迎えた。相手はまぁ、近所の男子校で、交流試合みたいな適当なものだった。
万が一にでも試合に出れなかったら恥ずかしいぞ。なんて心配もしたけれど、それは完全に杞憂であったし、順調に試合は展開され、とうとう自分の出番が回ってきた。
朝ついてから、ずっとフェンスの向かいにいる人たちの中から、ミョウジさんのことを探していたけれど、今の今まで彼女がくることはなかった。
早くこれに勝って、一番に報告してあげないといけない。
そういう思いがあるから、いつもより気合を入れてコートに向かう。
最後にもう一度だけ、視線をそらしてフェンスを見たけれど、やっぱりそこにミョウジさんの姿はなかった。
ヤバい。これは結構キツいかもしれない。
まさか、相手側のチームに全国区の選手がいるとは思わなかった。今までのやり方を分析されているのだろう、的確に苦手なコースを狙ってショットを打ってくるので、返すために神経を使い、いっぱいいっぱいになってしまった。
あんなに啖呵を切っておいて、負けるのはみっともない。負けたなんて言ったら、きっとミョウジさんはあのままだろう。それは、絶対にだめだ。
自分に呪いをかけた人を、俺は救いたいと思う。そして、今この目の前にある勝負で、相手に負けたくない。絶対に、勝ちたい。
調子を狂わされて、思ったようにプレーができない。
じわじわと、確実に体力と精神力が削られていくのがわかった。
正直、食らいつくのはしんどかった。なんとかやってこれたのは、ミョウジさんに勝つと言ったから。
でも、彼女は俺のことなんてどうでもいいかもしれない。
いやいや、弱気になるな。そんなこと言ってちゃ、だめだ。
……幻でもいいから、ミョウジさんが応援に来てくれないだろうか。
そんなことを思った矢先、鋭い視線を背中に感じた。
「押されてるじゃないかっ! 勝て! 勝てよ千石っ!」
幻聴じゃなければ、それはミョウジナマエさんの声だった。
「あんだけ見栄張っといて負けるとか、格好悪いから!」
後ろを振り返ると、ミョウジさんが必死に叫んでいた。フェンスにしがみついて、姿勢が借金の返済を催促するやくざみたいで笑ってしまった。
周りの人は彼女をみて、驚いたような、困惑するような表情を浮かべている。
ベンチにいるテニス部員たちもざわめいているようだった。
「ミョウジさーーん! ちゃんと俺が勝つとこみといてよね!」
ひらひらと手を振ると、周りがドッと沸いた。そして、今更恥ずかしくなったのか、ミョウジさんは縮こまって、後ろの方へとずるずる後退した。
「じゃ、続きをやろうか」
改めて背筋を伸ばして、相手にそう突きつけた。
「ありがとーございましたー!」
整列してお辞儀をした後、真っ先にコートの外に目をやった。
試合が終わると、人がぱらぱらと散らばっていく。その中に、ミョウジさんの姿があった。
「ミョウジさん!」
駆け寄って、帰ろうとする背中に呼びかける。
「……ありがと、勝ってくれて」
「まぁね、俺、ちゃんと有言実行するタイプだし」
「試合、途中からしか見れなかった。ごめん」
「いいよ、全然そんなの気にしないし、来てくれただけで嬉しいよ。っていうか、3日くらい休んでたけど大丈夫だった?」
「まぁ、なんとかね……本当、なんとか……その、心配させて、ごめん」
それからしばらく、なんとなく恥ずかしくなって、何か言おうと口をもごもごさせながら、視線を遊ばせる、というなんだか変な雰囲気になってしまった。
後ろから、コートの清掃を行う部員たちの生暖かい、刺々しい視線が刺さるが、今はどうでもいい。
「……んじゃ、私、帰る!」
この、気怠い空気に耐えきれなくなったのか、ミョウジさんはそう言って、背中をむけてたったったと走って行った。
なんだかそれが、可愛らしくて、愛おしくて、嬉しくて仕方なくて、今すぐここから走って追いかけたくなった。けど、我慢した。
その代わりに、名一杯の声で叫んだ。
「月曜! また学校で!」
ちょっとだけ立ち止まって、ミョウジさんは会釈をした。そして、そのまま駐輪場の方へと駆け出して行った。
その背中を最後まで見守って、今まででこれ以上嬉しかったことってないな、と短い自分の人生を振り返った。
明日がくるのが、また楽しみになった。
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