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エロあるよ笑
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夏の初めに相応しい暑さだった。風もなく、日の盛りが目に痛い。
「うわ……。あっちぃ……」
誰に聞こえるでもない独り言が、湿気た空気の中に消えていく。エーデルローズの寮には緑が多いが、それでもこの暑さを誤魔化すことはできないようだった。
東京の中でも稀有である閑静な土地に建てられた旧校舎は、その場所に相応しく落ち着いて静かだ。しかし生き物は、人の声がない分余計にその緑に呼応するように騒がしく声を上げていた。
夏の気配を察して地面から這い出てきた蝉の鳴き声に混じって、呼び鈴が鳴る音がリョウの耳に届いた。彼は怪訝な顔をして手帳のページを捲る。
「……今日は、何もなかったよな」
氷室主宰を訪ねてやってくる来客や、工事や宅配の予定もなかったはずだった。エーデルローズの旧校舎を、アポイントなしでわざわざ訪ねてくる人というのは限られている。シュワルツの嫌がらせもわざわざこんなところまで及ぶようになったのだろうか。
リョウは不信感を抱きながら、門に向かって歩き出した。ぼんやりと見える黒い人影に、彼はじっと目を細めた。そして、すぐに気づいた。
「は……」
見覚えのあるシルエットだった。体躯に不似合いに見える大きな旅行鞄の肩紐を固く握りながら、彼女はじっと耐えるように背中を丸めていた。接近する気配を察してナマエはリョウを見つけた。一瞬、目を大きく見開かれた。何か言いたげにナマエの唇が震えたが、かすかな声はリョウに届くことはない。
ナマエの手が熱く焼けた門の柵を掴んだ。
「馬鹿!」
門前に立つ妹の顔は、最早生きている人のものとは思えないほど青白く色褪せていた。老人のようなおぼつかない雰囲気で、若い女性のそれとは見えないほど不安定だった。すぐに倒れてもおかしくないように見えた。自分の足で立っているのが精一杯といった様子のナマエだったが、その目だけが猫の目じみたギラギラした光を放っている。
リョウは思わず後ずさった。じっとこちらを見るナマエの顔つきは、記憶の中のものと寸分もたがわないが、気迫のこもった表情にはただならぬ雰囲気を感じた。
「お兄ちゃん!」
数週間ぶりに聞く妹の肉声である。かすれた声だが、声量だけはやけに大きかった。リョウは、必死に柵にしがみつきながら、こちらを見つめるナマエの目つきにただならぬものを感じた。
「…………」
観念して、普段なら決して誰も通すことのない門の内鍵を開けると、ナマエは「待て」を命じられた犬のように大人しく、リョウを見上げた。
「――入れよ」
妹は、四ツ谷の寮をどこで知ったのか。……そもそも、なぜこんなところまでやってきたのだろう。
そもそもリョウは自分の仕事について、妹にきちんと説明したことがなかった。そして、どこまで両親が彼女に知らせていたのかもわからない。
ただ、実家に宛てて何度か荷物を送ったことはあったので、その時の送り元を辿ってナマエはここまでやってきたのだということは、なんとなく察せられた。平日にきたのも、この日ならばここに自分がいるのだと推測しての行動なのだろう。
突発的に見えるが、動機がわからない。動機がわからないが、そうするに至った理由に当たりがないわけではない。
――今日が平日で、寮生が全員学校にいる時間帯でよかった。
本来なら部外者である妹をここに入れるわけにはいかない。
「……うん」
ただ、着の身着のまま福岡から単身東京にやってきた妹を無碍に帰すわけにもいかない。事情を聞かないことには、どうしようもないだろうと思った。これは一度言い出したらきかない性質だ。葬儀以来に会うナマエの背中が、以前よりもやけに小さく見えた。
喪も明けないうちではあるが、リョウは完全に両親の死を吹っ切れていた――という表現が適切であるかは分からないが、特段落ち込んだりはしていなかった。一度地元に戻って葬儀をすませ、規定の忌引休暇を終えた後はいつも通りの仕事をこなして、なるべく何事もなかったようにふるまっている。
ナマエも同じようにできるのだと、内心期待していた。もう二人とも一人で暮らしていける――実際のところ、彼女はそうすべき年齢ではあった。
客用のソファに浅く腰かけ、淹れたての茶を視界に入れながらナマエは決してそれに手を付けようとはしない。
リョウは少年の時分から、両親とは離れて暮らしていた。そうしないと追うことができない夢を持っていたこともあるが、元から親にべったりしていた訳でもなく、人並みの愛情はあったが――生活に支障をきたすほどのホームシックになったことはなかった。対して、ナマエはずっと実家から出たこともない上に、随分両親にべったりしていたように思う。――それも、子供の時の記憶なので漠然とした印象ではあるが、自分よりも年下で、世の中の酸いも甘いも知らないお子様の妹が、落ち込んで生気を失うのもおかしな話ではない……だろう。
「氷室さんが――俺の上司が、しばらくうちの客間を使っていいって言ってくれたから」
「そうなんだ」
「来てもいいけど、連絡くらいしてくれてもよかっただろ」
「……ごめん」
「建物は別だけど……、うちって一応男所帯だから。いきなり女の子一人で泊まりっていうのは結構大変なんだ。……わかるよな?」
ナマエは気の抜けた返事をするばかりだった。妹のことを氷室聖に連絡した時に、彼が二つ返事で寮の空き部屋を使ってよいと言ってくれなければ、今頃リョウはナマエを追い出していただろう。
兄妹仲良く、と念を押されたが、葬儀以降まともな会話もしていない妹とどんな話をすればいいかわからない。エアコンの冷気が首を撫ぜる。しばらく動かしていなかったから、部屋には少し埃がたっていた。
「それでも帰れって、言わないんだね。リョウのそういうところが優しくて、好きだよ」
外での憔悴しきっていた様子がまるで嘘のように、ナマエはソファで足を組み、リョウを見上げてじっと笑った。しかし生白い肌はそのままに、痩せて曲線を欠いたその面立ちは、リョウのよく知る幼げな様子とはほとんど異なっていたのだった。
小さなテーブルごしに、二人の兄妹はようやく向き合った。法事の折にはろくに目もあわせようとしなかった兄が、こうして自分を正面から見つめていることにナマエは喜びを隠しきれなかった。
彼女の指がそっとグラスの表面を撫ぜる。結露によってできた水が皮膚に沁みていく感覚が、あった。
「東京のお茶って、ちょっと苦いんだね」
「おい、高いんだぞ。それは……」
「上京してお茶くみなんてしてるんだね」
ナマエの言い方には皮肉と侮蔑が混ざっていた。露骨な悪意に対して、彼は特段何か想ったりはしなかった。そういった段階はすでに通り越していた。――未練がないわけではないが、自分が生家でどういった扱いを受けていたか考えればナマエの口からそのような言葉が出ることはなんら不思議ではないのだから。
「そうだよ。それが管理人の仕事だからな」
リョウの言葉に対して、ナマエは興味なさげに眉を動かすだけであった。その仕草には見覚えがあった。妹は、昔から「つまらない」という態度を露骨に隠さないこどもだった。よく言えば素直でわかりやすい、悪く言えばガキっぽいと評することができたし、周囲の大人からの評価も概ねそのように思われていた。
しかし、リョウにとってはそうではなかった。
昔からナマエという生き物が理解できなかった。
長男であるリョウの才能を――未成年のうちに単身上京し、キングにまでなった山田リョウという麒麟児を、やや保守的な気質のある田舎の両親は持て余していた。
その反動ではないが、ナマエは情緒として幼いところがあったが、まだ普通の子供らしい子供として見られていたように思う。
ナマエが山田の家に生まれた時、家の跡目を作るという目的を果たしていた両親は、新しい子供の誕生に対しても落ち着きをもって接していた。家庭は暖かな空気に包まれていた。万事が順調で、大きな問題はない。この時点で、二人は単なる子供でしかなかった。
リョウは白い毛布に包まれた妹の顔を初めて見た時、弟が欲しかったと騒いだ時のわがままを酷く恥じた。母の腕に抱かれて穏やかな寝息を立てる小さな存在を愛おしいと思った。
「リョウはこれからお兄ちゃんになるんだよ」
腹の大きくなった母親と、その傍らで妻を見守る父に何度も同じようなことを言われた。そして、今も。
今までろくになかった実感が、ようやく幼いリョウの胸に湧き上がってきた。少しでも力を込めれば壊れてしまいそうで、脆い――。かつての自分がそんな存在であったことが信じられない。自分が生まれて間もないころの写真を彼は見たことがあった。しかし自分のそれと妹は、同じような見目でも大きく違う種類のモノであるように、思えた。
同じ腹から生まれて、同じ家で育ち、ほとんど二人は均一に育てられた。過ちと呼べるような失敗や虐待、あらゆる子供にとって有害とされる概念から引き離され、幸せな家庭時代だった――というのがリョウにとっての――客観的に山田家の様子を見た時に下される正当な評価である。物質的に満たされていたのだけは、誰の目から見てもあきらかだった。
――いっそのこと、一人では身動きも取れないほど貧しければこんなことになっていなかったのだろうか。今となってはなにもわからない。その兆しを読み取ることができなかったのが落ち度だと言われてしまえばそれまでだ。山田リョウの人生の中で、唯一墓場まで持っていくと決めている汚点を、ただ一人の妹も同じように抱え込んでいるとは限らない。
リビングの中央に位置するダイニングテーブル。その卓上に置かれたエーデルローズの入学願書をナマエが見つけたのは、リョウが実際に上京する日から遡って四か月前のことだった。
学校から帰ってきたばかりのナマエは、クラブ活動の帰りでいつもより帰宅時間が遅かった。裸足のままフローリングをぱたぱたと歩く彼女を、両親は特に咎めなかった。それよりも、リョウの進路についてナマエがどう言い出すか。それの方が気がかりであった。
ナマエは手にしたパンフレットの文字を見て、すぐ裏面を確認した。知らない学校――自分のためのものではないことは明白だった。横文字のよくわからないものというのは、たいてい自分ではなく兄に関わるものであるのが相場だ。中身を捲ると、大きなスケートリンクが映った見開きが見えた。お揃いの練習着に身を包んだ学生たちが、ジャンプの練習に励んでいる。
「これ、何……?」
「お兄ちゃんはね、東京の学校に行くことになったから」
「なんで? 受験しないって――。うちはそういうことしないって、ずっと言ってたのに」
周囲の同級生が、受験のために早くから学習塾に通っていたのをナマエは知っていた。兄も自分も、そうでないのなら兄は地元の学校に進学する。急に約束を反故にされたような気になった。
「お兄ちゃん、なんで黙ってたの――」
ナマエは今この場に兄がいないことを見て、両親の顔を見た。二人は曖昧に笑っていた。単に嫌だとごねているのだと、思われている。
「お兄ちゃんも別に、ナマエに黙っていたわけじゃないんだよ。これもかなり急に決まったことだし……」
「なんで……」
吐き出した声は冷え切っていた。両親がナマエを説得しようと、今までに聞いたことないような言葉を並びたてた。兄と離れるだけでここまでショックを受けるとは思っていなかったのだろう。単にお兄ちゃん子であるという認識の両親と、ナマエの態度は恐ろしく乖離していた。
何も頭に入らない。ある程度わかっていたこととはいえ、いざそれが本当になると、自分が思っていたよりも傷ついた。
子供部屋へと続く階段を、いつもより時間をかけてのぼった。壁一枚隔てて、二人の部屋は並んでいた。新築の家だから、よほど大きな音を出さない限り兄の部屋から物音がするということはなかった。それでも――少なくともあと六年は兄が帰ってくることはない。離れて自分を惜しんでくれることはあるだろうか。ナマエは兄のことがあまりよく分からなかった。歳の差と性差を考慮したとしても、単に兄妹である以上に兄を理解していたとは言い難い。趣味も特技も、真似してみたところでたんにうわべをなぞっているだけのように思えた。もっと深いところで、自分たちは繋がっていたい。――そうでなければ、出ていくことなんて到底許せない。同じ腹から生まれてきたのだから、一番兄のことを想っていて、効果的に傷つけられるのは自分だけだ。
そういう年齢でもないのに、風呂上りのナマエを見ていると近所にあった酒屋の広告――昭和から貼られたままになっているビールの広告にある、グラビアの女優の姿を思い出した。実際のところ、妹は一応成人してはいたが、それでも年よりも幼く見えたし、挙動も子供らしいところがあった。それでもどこか時折、昔のアイドルのように飾った仕草を見せる時があって、その時ばかりは妹に眠っていたかもしれない偶像としての才能に思いを馳せることは、ある。但し、ナマエが仮にそういった職につけたとして、行きつく先はたかがしれているだろう。人前に出して何かをするということに対して、全く才気がないことをリョウはよく知っていた。妹は、授業の発表ですらも顔を真っ赤にして、小さい声でモゾモゾと口ごもり、先生にお情けで通してもらっているような子供だった。間違っても歌って踊ってなどということには通じていないはずだ。
「ねぇ。今変なこと考えたでしょ?」
「別に……」
シンプルな病院着じみた寝巻きを着たナマエが自室のベッドに横になっている。わが物顔で兄の部屋で寝転がり、スマホを見つめながら頭を枕に埋めていた。
部屋の主であるリョウは、机とセットで置かれた椅子に追いやられていた。ナマエは完全にネットサーフィンに耽溺しているのか、滅多に目線を向けようとはしなかった。
「ひさしぶりに水入らずなんだから、もっと喜んでよ」
「……こっちは明日も仕事なんだよ」
「つまんない仕事。やめたらいいのに」
「うるさいなぁ。俺は結構気に入ってるんだぞ」
「それはよかったね。わたしは毎日……つまらないよ」頬を枕に押し付けながら、ナマエは寝転がったまま兄を見つめた。「ほんとうに苦痛、なの」
「…………」
大した距離があったわけではない。ナマエから伸ばされた手は少しでも身を乗り出せば届く距離にある。
「リョウは――怖いよね。女の人と二人で部屋にいるのって、嫌でしょう? わたしは妹だから、何にもやましいことなんてしていないのに、ね」
妹から、実家でよく使っていたシャンプーのチープな匂いが溢れてきた。ど……、と分かりやすく肩が揺れたのを見て、ナマエは兄の肩をそっと抱き寄せた。
「わたしなら、大丈夫だよ」
「や、めろ……」
「なんで? 家族なんだからこれくらい普通のことだよ。お母さんとも、お父さんともぎゅってしたよね。――なんでわたしはダメなの」
触れた先にあった妹の肉体は慎ましく、リョウが思っていたよりも華奢だった。背中に回された手に込められた力の無さに、二度驚いた。妹の身体は弛緩していたが、それとは相反して絡み取ってくる執拗さがあった。
「馬鹿、この歳で……」
「いい人ぶらないでよ」
じっと這うような声が耳の間近から聞こえてきた。
「そういう善人ぶって、普通の恰好をつけているところが、嫌だって。今さら体裁を取り繕う意味なんて、リョウにはないでしょ。……やめてよね。あんなこと、子供のうちから覚えていた癖に――善人ぶって道徳を気取るのは、辞めて」
ギリギリと、背中に爪を突き立てるようにナマエの手に力がこもっていく。
「リョウのせいで――わたしはおかしくなったんだから。その責任をとってほしいだけなの」
苛立ったような、聞き分けの悪い子供に言って聞かせるようなナマエの口調に、リョウは唖然とした。それと同時に、ズキズキと殴られたように痛む頭を抱えて、返す言葉も思いつかなかった。閉口する兄を見て、ナマエは更に勇んで声を上げた。
「全部お兄ちゃんが悪い! なんでわたしから離れたの。あれだけ愛し合っていたのに、捨てるなんて酷い!」
「愛し合ったことなんてないだろ!」
思わず突き飛ばすと、呆気なくナマエの身体は離れた。?躯はベッドに転がり、低いうめき声が上がった。
「なんでそんなこと、言うの」
酷い、酷いと言って妹は泣いた。
最早なにも言えなかった。何を言ってもこの溝が埋まることはないだろう。両親が生きている間にこの醜態が露見することがなくて、まだ良かったのかもしれない。
「もう遅いから、自分の部屋に戻れよ」
昼間とは違って、寮にはエーデルローズの生徒たちが戻っていた。全員明日に備えて眠っている時間だ。絶対にありえないことだが、万が一にでも自分の身内がそれらの子供たちに悪意を振りまいたりすることがあったなら――。リョウの脳には家族としての情は消えていた。妹の見せた色が、触れてはいけない箇所を丹念に抉ってくる。近くにいるとお互いに傷つけてしまう。
ナマエのすすり泣く声が部屋に響いた。ベッドに投げ出されたスマートフォンだけが眩く光っていた。
部屋の電気は一番目立たない明るさのものをつけて寝ると、なぜか安心できた。当時のリョウにとって、真っ暗の中で眠るのは恐ろしいことのように思えた。
ただ、その日ばかりは全ての明かりを消していた。少しでも明かりがあると暗闇の中でやけに目が冴えて、ほとんど真っ暗な中でも見えてしまうのだった。見たくもないものだけがやけにはっきりと、フィルムに現像されるが如く――克明に焼きついていく。
ろくに脂肪もついていない肢体がリョウの上を這っていた。葉の上を移動する芋虫の姿を、漠然と思い出す。
重い。全ての体重を預けられると、想像よりも妹の身体はしっかりとしているのだと気づく。
荒い呼吸のまま、ナマエはじっとリョウの上にもたれていた。妹の汗がリョウのタンクトップに滲んでいく。臭いとは思わなかった。単に、この匂いが――獣じみた交わりの残り香が親に露呈することをリョウは恐れている。そのせいで余計に汗をかいて、ナマエはそれに頭を寄せて目を細めた。
「お兄ちゃん、暑いねぇ」
「――お前がくっつくから」
「離れてほしいなら、どかせばいいのに」
リョウはただ、天井だけを見上げた。少しでも目線を下に逸らせば気まずい情交のあとが視界に入る。
それでも兄の手つきで妹の頭を撫でてやることだけは、自然としてしまった。顔のすぐ横で、ナマエの上ずった笑い声が聞こえる。鼻の抜けたような囁きだった。
「血、多分出たと思うんだけど」
「あぁ……、それは、カッターで切ったって言っとく……」
「頭いいね……」
「練習で怪我とか、あるから。別に……」
リョウがスケートリンクでほぼ毎日のように滑るようになってから、転倒や、ちょっとした切り傷というのは日常になった。生々しい青あざがリョウの膝や腕に点在している。
「男の人って血とかあんまり見ないから、怖いってよくいうけど。リョウは違うんだね」
「呼び捨てにするなよ」
「お母さんもお父さんもいないんだから、いいでしょ」
躾けと礼儀に厳しい両親から、ナマエは比較的甘やかされているような気がした。
リョウがいくら注意しても、きちんと受け止めている気がしない。末っ子というだけで多少のわがままは許されているのだ。
もぞもぞと動く妹の身体を抱きとめていると、初めてナマエの手に触れた時のことを嫌でも思い出した。手のひらでぎゅっと閉じ込めてしまえるような子供の手だった。骨も脆くて、すぐに壊れてしまう細工のように小さなつくりをしていたことを。その中身を全部暴いて、おもちゃ箱をひっくり返したようにしてしまったのはほかならぬ自分であること。誰に教えられたわけでもないが、このまま死ねば二人とも地獄に行くだろうな、とリョウは思った。そういうことを考えていながら、彼には妹が首に寄せる唇を跳ねのける気力はなかった。
妹はこういうことをどこで覚えてきたのだろう。女の子は男の子よりもませているというけれど、この成長速度は異常だと感じた。
数か月前に、ティーンの少女向け雑誌に寄せられた「体験談」のコーナーを偶然目にして、コンビニで売られているエロ本と同じくらい過激な内容に思わず目を逸らしたこと。リビングに置かれた少女漫画の内容。共用のパソコンの閲覧履歴。それら全てが今に至るために蓄積されて、小さな身体に見合わないものを、勉強するようにため込んでいたのかもしれない。
ナマエが一人でたどり着いた知識は自分のそれよりもきっと多いはずだ。
そう考えると幾分か罪悪感は減った。
ナマエが望んで、自分はそれに付き合ってやっただけなのだから。これは犯罪ではない。了解のもと、わがままに応えてあげたという体で、人には言えないことをした。これを材料にまた何かを企てるという脳をナマエは持っていない――今のところは。
「こういうのって、捕まるんじゃないのか」
「大丈夫だよ。好き同士だから」
「家族だろ、俺ら」
「お父さんとお母さんもこういうことをしたから、わたしたちが生まれたんだよ」
「…………」
「ダメだったとしても、バレなきゃいいんだよ。みんなやってるんだって、本当だよ?」
不安で零した言葉に、ナマエは落ち着いて決まり文句のように大丈夫だと繰り返した。その根拠となるものは、見栄で書いたアンケートであったり、信頼できる情報とは言い難いが。それでも大丈夫なのだと信じ込むしかなかった。
「大人だったら大体の人がやるようになるんだから。それが早かっただけ」
「おとな……」
大人の男と言われてすぐ思い出すのは、ヒビキワタルの姿だった。それ以外は学校の先生、近所の大学生、テレビで見る芸能人。みんながこういうことを、大人同士でやっているのだと考えるとそれだけで脳が理解を拒絶するように痛み出した。胸の奥がぎゅっと痛くなる。子供がいる人は少なくともこれをしている。
「お兄ちゃんの好きな人も、みんな他人とやってると思うよ」
「いや――。それはない。絶対に、ない」
あの人がこんなことをしているのだとしたら、こんな気持ち悪いことをやっているのだとしたら――きっとあんな素敵なことはできないはずだ。だとしたら、知っている自分はもうダメなのだろうか。スタァにはなれない……?
「わたしは、リョウと一緒にできてよかったと思ってる。わたしたちは同じお腹から生まれて、ずっと一緒だったんだから。ここに知らない人が入るなんて、無理。絶対に嫌。ありえないよね」
勝手に喋りだしたナマエの姿を見て、リョウはじっと口を閉ざした。正直、相手がどうという問題ではなかった。今すぐに本当に大丈夫なのか確かめたい。こんなことを経て大人になれというのなら、永遠に子供のままがいい。
「これで本当に嫌になったよね。忘れないで、お兄ちゃん。こんなことをしてもいい人なんて作れないでしょう。東京で有名になったらゴミみたいな女が寄ってたかって寄生してくるんだから。気を付けてね。初めてがわたしでよかったって思う日が多分――くると思うんだ。わたし、詳しいの。そうなったらね、わたしにありがとうって言って欲しいの。それだけが、わたしからのお願い」
エーデルローズから四ツ谷駅までの道は、行きよりも短く感じられた。持ってきた荷物はぶちまけて置いて行ってしまったので、肩が軽い。今更戻って取りに行くのも恥ずかしい。東京に身一つでやってきて、本当に何もないことを思い出した。平日の昼時だというのに、人の群れがラッシュ時の地元より多くて怖じ気づきそうになる。
兄に明確に拒絶されたのは、一度目ではなかった。あの時はそれだけに心をとらわれていたけれど、今はそれよりも途方もない無力感の方が大きい。三度目が許されないというのも、それに拍車をかけていた。どれだけ謝っても、おそらく許されはしないだろう。両親が亡くなったのに正直ほっとしたのは、明確に罪悪感があったからだ。
自分は兄を愛していたし、同時に傷つけたいと思ってダメにしてしまった。
これからどうしようということを、また考えなくてはいけない。今すぐ死にたいのに、生きていろとリョウはナマエに言ったのだった。こういうことを許してしまえる人の傍に生まれてきてしまった。
兄が世界を恨まずにいられるようにしてあげたかった。それと同時に――それ以上に罰してほしいと思っていた。
蜃気楼のように、景色の向こうに兄が立っているように、見えた。暑さが見せた幻だった。あの姿は子供の時の山田リョウで、今の兄ではなかったのだから。
何度目をこすっても自分の立っている場所が変わることはない。首を伝う汗が、無残なくらいの存在証明を突きつけてくる。
「うわ……。あっちぃ……」
誰に聞こえるでもない独り言が、湿気た空気の中に消えていく。エーデルローズの寮には緑が多いが、それでもこの暑さを誤魔化すことはできないようだった。
東京の中でも稀有である閑静な土地に建てられた旧校舎は、その場所に相応しく落ち着いて静かだ。しかし生き物は、人の声がない分余計にその緑に呼応するように騒がしく声を上げていた。
夏の気配を察して地面から這い出てきた蝉の鳴き声に混じって、呼び鈴が鳴る音がリョウの耳に届いた。彼は怪訝な顔をして手帳のページを捲る。
「……今日は、何もなかったよな」
氷室主宰を訪ねてやってくる来客や、工事や宅配の予定もなかったはずだった。エーデルローズの旧校舎を、アポイントなしでわざわざ訪ねてくる人というのは限られている。シュワルツの嫌がらせもわざわざこんなところまで及ぶようになったのだろうか。
リョウは不信感を抱きながら、門に向かって歩き出した。ぼんやりと見える黒い人影に、彼はじっと目を細めた。そして、すぐに気づいた。
「は……」
見覚えのあるシルエットだった。体躯に不似合いに見える大きな旅行鞄の肩紐を固く握りながら、彼女はじっと耐えるように背中を丸めていた。接近する気配を察してナマエはリョウを見つけた。一瞬、目を大きく見開かれた。何か言いたげにナマエの唇が震えたが、かすかな声はリョウに届くことはない。
ナマエの手が熱く焼けた門の柵を掴んだ。
「馬鹿!」
門前に立つ妹の顔は、最早生きている人のものとは思えないほど青白く色褪せていた。老人のようなおぼつかない雰囲気で、若い女性のそれとは見えないほど不安定だった。すぐに倒れてもおかしくないように見えた。自分の足で立っているのが精一杯といった様子のナマエだったが、その目だけが猫の目じみたギラギラした光を放っている。
リョウは思わず後ずさった。じっとこちらを見るナマエの顔つきは、記憶の中のものと寸分もたがわないが、気迫のこもった表情にはただならぬ雰囲気を感じた。
「お兄ちゃん!」
数週間ぶりに聞く妹の肉声である。かすれた声だが、声量だけはやけに大きかった。リョウは、必死に柵にしがみつきながら、こちらを見つめるナマエの目つきにただならぬものを感じた。
「…………」
観念して、普段なら決して誰も通すことのない門の内鍵を開けると、ナマエは「待て」を命じられた犬のように大人しく、リョウを見上げた。
「――入れよ」
妹は、四ツ谷の寮をどこで知ったのか。……そもそも、なぜこんなところまでやってきたのだろう。
そもそもリョウは自分の仕事について、妹にきちんと説明したことがなかった。そして、どこまで両親が彼女に知らせていたのかもわからない。
ただ、実家に宛てて何度か荷物を送ったことはあったので、その時の送り元を辿ってナマエはここまでやってきたのだということは、なんとなく察せられた。平日にきたのも、この日ならばここに自分がいるのだと推測しての行動なのだろう。
突発的に見えるが、動機がわからない。動機がわからないが、そうするに至った理由に当たりがないわけではない。
――今日が平日で、寮生が全員学校にいる時間帯でよかった。
本来なら部外者である妹をここに入れるわけにはいかない。
「……うん」
ただ、着の身着のまま福岡から単身東京にやってきた妹を無碍に帰すわけにもいかない。事情を聞かないことには、どうしようもないだろうと思った。これは一度言い出したらきかない性質だ。葬儀以来に会うナマエの背中が、以前よりもやけに小さく見えた。
喪も明けないうちではあるが、リョウは完全に両親の死を吹っ切れていた――という表現が適切であるかは分からないが、特段落ち込んだりはしていなかった。一度地元に戻って葬儀をすませ、規定の忌引休暇を終えた後はいつも通りの仕事をこなして、なるべく何事もなかったようにふるまっている。
ナマエも同じようにできるのだと、内心期待していた。もう二人とも一人で暮らしていける――実際のところ、彼女はそうすべき年齢ではあった。
客用のソファに浅く腰かけ、淹れたての茶を視界に入れながらナマエは決してそれに手を付けようとはしない。
リョウは少年の時分から、両親とは離れて暮らしていた。そうしないと追うことができない夢を持っていたこともあるが、元から親にべったりしていた訳でもなく、人並みの愛情はあったが――生活に支障をきたすほどのホームシックになったことはなかった。対して、ナマエはずっと実家から出たこともない上に、随分両親にべったりしていたように思う。――それも、子供の時の記憶なので漠然とした印象ではあるが、自分よりも年下で、世の中の酸いも甘いも知らないお子様の妹が、落ち込んで生気を失うのもおかしな話ではない……だろう。
「氷室さんが――俺の上司が、しばらくうちの客間を使っていいって言ってくれたから」
「そうなんだ」
「来てもいいけど、連絡くらいしてくれてもよかっただろ」
「……ごめん」
「建物は別だけど……、うちって一応男所帯だから。いきなり女の子一人で泊まりっていうのは結構大変なんだ。……わかるよな?」
ナマエは気の抜けた返事をするばかりだった。妹のことを氷室聖に連絡した時に、彼が二つ返事で寮の空き部屋を使ってよいと言ってくれなければ、今頃リョウはナマエを追い出していただろう。
兄妹仲良く、と念を押されたが、葬儀以降まともな会話もしていない妹とどんな話をすればいいかわからない。エアコンの冷気が首を撫ぜる。しばらく動かしていなかったから、部屋には少し埃がたっていた。
「それでも帰れって、言わないんだね。リョウのそういうところが優しくて、好きだよ」
外での憔悴しきっていた様子がまるで嘘のように、ナマエはソファで足を組み、リョウを見上げてじっと笑った。しかし生白い肌はそのままに、痩せて曲線を欠いたその面立ちは、リョウのよく知る幼げな様子とはほとんど異なっていたのだった。
小さなテーブルごしに、二人の兄妹はようやく向き合った。法事の折にはろくに目もあわせようとしなかった兄が、こうして自分を正面から見つめていることにナマエは喜びを隠しきれなかった。
彼女の指がそっとグラスの表面を撫ぜる。結露によってできた水が皮膚に沁みていく感覚が、あった。
「東京のお茶って、ちょっと苦いんだね」
「おい、高いんだぞ。それは……」
「上京してお茶くみなんてしてるんだね」
ナマエの言い方には皮肉と侮蔑が混ざっていた。露骨な悪意に対して、彼は特段何か想ったりはしなかった。そういった段階はすでに通り越していた。――未練がないわけではないが、自分が生家でどういった扱いを受けていたか考えればナマエの口からそのような言葉が出ることはなんら不思議ではないのだから。
「そうだよ。それが管理人の仕事だからな」
リョウの言葉に対して、ナマエは興味なさげに眉を動かすだけであった。その仕草には見覚えがあった。妹は、昔から「つまらない」という態度を露骨に隠さないこどもだった。よく言えば素直でわかりやすい、悪く言えばガキっぽいと評することができたし、周囲の大人からの評価も概ねそのように思われていた。
しかし、リョウにとってはそうではなかった。
昔からナマエという生き物が理解できなかった。
長男であるリョウの才能を――未成年のうちに単身上京し、キングにまでなった山田リョウという麒麟児を、やや保守的な気質のある田舎の両親は持て余していた。
その反動ではないが、ナマエは情緒として幼いところがあったが、まだ普通の子供らしい子供として見られていたように思う。
ナマエが山田の家に生まれた時、家の跡目を作るという目的を果たしていた両親は、新しい子供の誕生に対しても落ち着きをもって接していた。家庭は暖かな空気に包まれていた。万事が順調で、大きな問題はない。この時点で、二人は単なる子供でしかなかった。
リョウは白い毛布に包まれた妹の顔を初めて見た時、弟が欲しかったと騒いだ時のわがままを酷く恥じた。母の腕に抱かれて穏やかな寝息を立てる小さな存在を愛おしいと思った。
「リョウはこれからお兄ちゃんになるんだよ」
腹の大きくなった母親と、その傍らで妻を見守る父に何度も同じようなことを言われた。そして、今も。
今までろくになかった実感が、ようやく幼いリョウの胸に湧き上がってきた。少しでも力を込めれば壊れてしまいそうで、脆い――。かつての自分がそんな存在であったことが信じられない。自分が生まれて間もないころの写真を彼は見たことがあった。しかし自分のそれと妹は、同じような見目でも大きく違う種類のモノであるように、思えた。
同じ腹から生まれて、同じ家で育ち、ほとんど二人は均一に育てられた。過ちと呼べるような失敗や虐待、あらゆる子供にとって有害とされる概念から引き離され、幸せな家庭時代だった――というのがリョウにとっての――客観的に山田家の様子を見た時に下される正当な評価である。物質的に満たされていたのだけは、誰の目から見てもあきらかだった。
――いっそのこと、一人では身動きも取れないほど貧しければこんなことになっていなかったのだろうか。今となってはなにもわからない。その兆しを読み取ることができなかったのが落ち度だと言われてしまえばそれまでだ。山田リョウの人生の中で、唯一墓場まで持っていくと決めている汚点を、ただ一人の妹も同じように抱え込んでいるとは限らない。
リビングの中央に位置するダイニングテーブル。その卓上に置かれたエーデルローズの入学願書をナマエが見つけたのは、リョウが実際に上京する日から遡って四か月前のことだった。
学校から帰ってきたばかりのナマエは、クラブ活動の帰りでいつもより帰宅時間が遅かった。裸足のままフローリングをぱたぱたと歩く彼女を、両親は特に咎めなかった。それよりも、リョウの進路についてナマエがどう言い出すか。それの方が気がかりであった。
ナマエは手にしたパンフレットの文字を見て、すぐ裏面を確認した。知らない学校――自分のためのものではないことは明白だった。横文字のよくわからないものというのは、たいてい自分ではなく兄に関わるものであるのが相場だ。中身を捲ると、大きなスケートリンクが映った見開きが見えた。お揃いの練習着に身を包んだ学生たちが、ジャンプの練習に励んでいる。
「これ、何……?」
「お兄ちゃんはね、東京の学校に行くことになったから」
「なんで? 受験しないって――。うちはそういうことしないって、ずっと言ってたのに」
周囲の同級生が、受験のために早くから学習塾に通っていたのをナマエは知っていた。兄も自分も、そうでないのなら兄は地元の学校に進学する。急に約束を反故にされたような気になった。
「お兄ちゃん、なんで黙ってたの――」
ナマエは今この場に兄がいないことを見て、両親の顔を見た。二人は曖昧に笑っていた。単に嫌だとごねているのだと、思われている。
「お兄ちゃんも別に、ナマエに黙っていたわけじゃないんだよ。これもかなり急に決まったことだし……」
「なんで……」
吐き出した声は冷え切っていた。両親がナマエを説得しようと、今までに聞いたことないような言葉を並びたてた。兄と離れるだけでここまでショックを受けるとは思っていなかったのだろう。単にお兄ちゃん子であるという認識の両親と、ナマエの態度は恐ろしく乖離していた。
何も頭に入らない。ある程度わかっていたこととはいえ、いざそれが本当になると、自分が思っていたよりも傷ついた。
子供部屋へと続く階段を、いつもより時間をかけてのぼった。壁一枚隔てて、二人の部屋は並んでいた。新築の家だから、よほど大きな音を出さない限り兄の部屋から物音がするということはなかった。それでも――少なくともあと六年は兄が帰ってくることはない。離れて自分を惜しんでくれることはあるだろうか。ナマエは兄のことがあまりよく分からなかった。歳の差と性差を考慮したとしても、単に兄妹である以上に兄を理解していたとは言い難い。趣味も特技も、真似してみたところでたんにうわべをなぞっているだけのように思えた。もっと深いところで、自分たちは繋がっていたい。――そうでなければ、出ていくことなんて到底許せない。同じ腹から生まれてきたのだから、一番兄のことを想っていて、効果的に傷つけられるのは自分だけだ。
そういう年齢でもないのに、風呂上りのナマエを見ていると近所にあった酒屋の広告――昭和から貼られたままになっているビールの広告にある、グラビアの女優の姿を思い出した。実際のところ、妹は一応成人してはいたが、それでも年よりも幼く見えたし、挙動も子供らしいところがあった。それでもどこか時折、昔のアイドルのように飾った仕草を見せる時があって、その時ばかりは妹に眠っていたかもしれない偶像としての才能に思いを馳せることは、ある。但し、ナマエが仮にそういった職につけたとして、行きつく先はたかがしれているだろう。人前に出して何かをするということに対して、全く才気がないことをリョウはよく知っていた。妹は、授業の発表ですらも顔を真っ赤にして、小さい声でモゾモゾと口ごもり、先生にお情けで通してもらっているような子供だった。間違っても歌って踊ってなどということには通じていないはずだ。
「ねぇ。今変なこと考えたでしょ?」
「別に……」
シンプルな病院着じみた寝巻きを着たナマエが自室のベッドに横になっている。わが物顔で兄の部屋で寝転がり、スマホを見つめながら頭を枕に埋めていた。
部屋の主であるリョウは、机とセットで置かれた椅子に追いやられていた。ナマエは完全にネットサーフィンに耽溺しているのか、滅多に目線を向けようとはしなかった。
「ひさしぶりに水入らずなんだから、もっと喜んでよ」
「……こっちは明日も仕事なんだよ」
「つまんない仕事。やめたらいいのに」
「うるさいなぁ。俺は結構気に入ってるんだぞ」
「それはよかったね。わたしは毎日……つまらないよ」頬を枕に押し付けながら、ナマエは寝転がったまま兄を見つめた。「ほんとうに苦痛、なの」
「…………」
大した距離があったわけではない。ナマエから伸ばされた手は少しでも身を乗り出せば届く距離にある。
「リョウは――怖いよね。女の人と二人で部屋にいるのって、嫌でしょう? わたしは妹だから、何にもやましいことなんてしていないのに、ね」
妹から、実家でよく使っていたシャンプーのチープな匂いが溢れてきた。ど……、と分かりやすく肩が揺れたのを見て、ナマエは兄の肩をそっと抱き寄せた。
「わたしなら、大丈夫だよ」
「や、めろ……」
「なんで? 家族なんだからこれくらい普通のことだよ。お母さんとも、お父さんともぎゅってしたよね。――なんでわたしはダメなの」
触れた先にあった妹の肉体は慎ましく、リョウが思っていたよりも華奢だった。背中に回された手に込められた力の無さに、二度驚いた。妹の身体は弛緩していたが、それとは相反して絡み取ってくる執拗さがあった。
「馬鹿、この歳で……」
「いい人ぶらないでよ」
じっと這うような声が耳の間近から聞こえてきた。
「そういう善人ぶって、普通の恰好をつけているところが、嫌だって。今さら体裁を取り繕う意味なんて、リョウにはないでしょ。……やめてよね。あんなこと、子供のうちから覚えていた癖に――善人ぶって道徳を気取るのは、辞めて」
ギリギリと、背中に爪を突き立てるようにナマエの手に力がこもっていく。
「リョウのせいで――わたしはおかしくなったんだから。その責任をとってほしいだけなの」
苛立ったような、聞き分けの悪い子供に言って聞かせるようなナマエの口調に、リョウは唖然とした。それと同時に、ズキズキと殴られたように痛む頭を抱えて、返す言葉も思いつかなかった。閉口する兄を見て、ナマエは更に勇んで声を上げた。
「全部お兄ちゃんが悪い! なんでわたしから離れたの。あれだけ愛し合っていたのに、捨てるなんて酷い!」
「愛し合ったことなんてないだろ!」
思わず突き飛ばすと、呆気なくナマエの身体は離れた。?躯はベッドに転がり、低いうめき声が上がった。
「なんでそんなこと、言うの」
酷い、酷いと言って妹は泣いた。
最早なにも言えなかった。何を言ってもこの溝が埋まることはないだろう。両親が生きている間にこの醜態が露見することがなくて、まだ良かったのかもしれない。
「もう遅いから、自分の部屋に戻れよ」
昼間とは違って、寮にはエーデルローズの生徒たちが戻っていた。全員明日に備えて眠っている時間だ。絶対にありえないことだが、万が一にでも自分の身内がそれらの子供たちに悪意を振りまいたりすることがあったなら――。リョウの脳には家族としての情は消えていた。妹の見せた色が、触れてはいけない箇所を丹念に抉ってくる。近くにいるとお互いに傷つけてしまう。
ナマエのすすり泣く声が部屋に響いた。ベッドに投げ出されたスマートフォンだけが眩く光っていた。
部屋の電気は一番目立たない明るさのものをつけて寝ると、なぜか安心できた。当時のリョウにとって、真っ暗の中で眠るのは恐ろしいことのように思えた。
ただ、その日ばかりは全ての明かりを消していた。少しでも明かりがあると暗闇の中でやけに目が冴えて、ほとんど真っ暗な中でも見えてしまうのだった。見たくもないものだけがやけにはっきりと、フィルムに現像されるが如く――克明に焼きついていく。
ろくに脂肪もついていない肢体がリョウの上を這っていた。葉の上を移動する芋虫の姿を、漠然と思い出す。
重い。全ての体重を預けられると、想像よりも妹の身体はしっかりとしているのだと気づく。
荒い呼吸のまま、ナマエはじっとリョウの上にもたれていた。妹の汗がリョウのタンクトップに滲んでいく。臭いとは思わなかった。単に、この匂いが――獣じみた交わりの残り香が親に露呈することをリョウは恐れている。そのせいで余計に汗をかいて、ナマエはそれに頭を寄せて目を細めた。
「お兄ちゃん、暑いねぇ」
「――お前がくっつくから」
「離れてほしいなら、どかせばいいのに」
リョウはただ、天井だけを見上げた。少しでも目線を下に逸らせば気まずい情交のあとが視界に入る。
それでも兄の手つきで妹の頭を撫でてやることだけは、自然としてしまった。顔のすぐ横で、ナマエの上ずった笑い声が聞こえる。鼻の抜けたような囁きだった。
「血、多分出たと思うんだけど」
「あぁ……、それは、カッターで切ったって言っとく……」
「頭いいね……」
「練習で怪我とか、あるから。別に……」
リョウがスケートリンクでほぼ毎日のように滑るようになってから、転倒や、ちょっとした切り傷というのは日常になった。生々しい青あざがリョウの膝や腕に点在している。
「男の人って血とかあんまり見ないから、怖いってよくいうけど。リョウは違うんだね」
「呼び捨てにするなよ」
「お母さんもお父さんもいないんだから、いいでしょ」
躾けと礼儀に厳しい両親から、ナマエは比較的甘やかされているような気がした。
リョウがいくら注意しても、きちんと受け止めている気がしない。末っ子というだけで多少のわがままは許されているのだ。
もぞもぞと動く妹の身体を抱きとめていると、初めてナマエの手に触れた時のことを嫌でも思い出した。手のひらでぎゅっと閉じ込めてしまえるような子供の手だった。骨も脆くて、すぐに壊れてしまう細工のように小さなつくりをしていたことを。その中身を全部暴いて、おもちゃ箱をひっくり返したようにしてしまったのはほかならぬ自分であること。誰に教えられたわけでもないが、このまま死ねば二人とも地獄に行くだろうな、とリョウは思った。そういうことを考えていながら、彼には妹が首に寄せる唇を跳ねのける気力はなかった。
妹はこういうことをどこで覚えてきたのだろう。女の子は男の子よりもませているというけれど、この成長速度は異常だと感じた。
数か月前に、ティーンの少女向け雑誌に寄せられた「体験談」のコーナーを偶然目にして、コンビニで売られているエロ本と同じくらい過激な内容に思わず目を逸らしたこと。リビングに置かれた少女漫画の内容。共用のパソコンの閲覧履歴。それら全てが今に至るために蓄積されて、小さな身体に見合わないものを、勉強するようにため込んでいたのかもしれない。
ナマエが一人でたどり着いた知識は自分のそれよりもきっと多いはずだ。
そう考えると幾分か罪悪感は減った。
ナマエが望んで、自分はそれに付き合ってやっただけなのだから。これは犯罪ではない。了解のもと、わがままに応えてあげたという体で、人には言えないことをした。これを材料にまた何かを企てるという脳をナマエは持っていない――今のところは。
「こういうのって、捕まるんじゃないのか」
「大丈夫だよ。好き同士だから」
「家族だろ、俺ら」
「お父さんとお母さんもこういうことをしたから、わたしたちが生まれたんだよ」
「…………」
「ダメだったとしても、バレなきゃいいんだよ。みんなやってるんだって、本当だよ?」
不安で零した言葉に、ナマエは落ち着いて決まり文句のように大丈夫だと繰り返した。その根拠となるものは、見栄で書いたアンケートであったり、信頼できる情報とは言い難いが。それでも大丈夫なのだと信じ込むしかなかった。
「大人だったら大体の人がやるようになるんだから。それが早かっただけ」
「おとな……」
大人の男と言われてすぐ思い出すのは、ヒビキワタルの姿だった。それ以外は学校の先生、近所の大学生、テレビで見る芸能人。みんながこういうことを、大人同士でやっているのだと考えるとそれだけで脳が理解を拒絶するように痛み出した。胸の奥がぎゅっと痛くなる。子供がいる人は少なくともこれをしている。
「お兄ちゃんの好きな人も、みんな他人とやってると思うよ」
「いや――。それはない。絶対に、ない」
あの人がこんなことをしているのだとしたら、こんな気持ち悪いことをやっているのだとしたら――きっとあんな素敵なことはできないはずだ。だとしたら、知っている自分はもうダメなのだろうか。スタァにはなれない……?
「わたしは、リョウと一緒にできてよかったと思ってる。わたしたちは同じお腹から生まれて、ずっと一緒だったんだから。ここに知らない人が入るなんて、無理。絶対に嫌。ありえないよね」
勝手に喋りだしたナマエの姿を見て、リョウはじっと口を閉ざした。正直、相手がどうという問題ではなかった。今すぐに本当に大丈夫なのか確かめたい。こんなことを経て大人になれというのなら、永遠に子供のままがいい。
「これで本当に嫌になったよね。忘れないで、お兄ちゃん。こんなことをしてもいい人なんて作れないでしょう。東京で有名になったらゴミみたいな女が寄ってたかって寄生してくるんだから。気を付けてね。初めてがわたしでよかったって思う日が多分――くると思うんだ。わたし、詳しいの。そうなったらね、わたしにありがとうって言って欲しいの。それだけが、わたしからのお願い」
エーデルローズから四ツ谷駅までの道は、行きよりも短く感じられた。持ってきた荷物はぶちまけて置いて行ってしまったので、肩が軽い。今更戻って取りに行くのも恥ずかしい。東京に身一つでやってきて、本当に何もないことを思い出した。平日の昼時だというのに、人の群れがラッシュ時の地元より多くて怖じ気づきそうになる。
兄に明確に拒絶されたのは、一度目ではなかった。あの時はそれだけに心をとらわれていたけれど、今はそれよりも途方もない無力感の方が大きい。三度目が許されないというのも、それに拍車をかけていた。どれだけ謝っても、おそらく許されはしないだろう。両親が亡くなったのに正直ほっとしたのは、明確に罪悪感があったからだ。
自分は兄を愛していたし、同時に傷つけたいと思ってダメにしてしまった。
これからどうしようということを、また考えなくてはいけない。今すぐ死にたいのに、生きていろとリョウはナマエに言ったのだった。こういうことを許してしまえる人の傍に生まれてきてしまった。
兄が世界を恨まずにいられるようにしてあげたかった。それと同時に――それ以上に罰してほしいと思っていた。
蜃気楼のように、景色の向こうに兄が立っているように、見えた。暑さが見せた幻だった。あの姿は子供の時の山田リョウで、今の兄ではなかったのだから。
何度目をこすっても自分の立っている場所が変わることはない。首を伝う汗が、無残なくらいの存在証明を突きつけてくる。
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