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エロあるよ笑
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姉が借りていた部屋の合い鍵を持っているのは、世界でたった一人わたしだけだと思っていた。けれど違っていたらしい。
「……誰」
玄関を開けて目の前に立っていた男の人に対して、わたしは思わず訪ねてしまう。部屋の鍵が回る音がして、姉の帰宅だと思って駆け寄ってみたら、全然知らない人が立っていたのだ。動揺しない方がおかしい。
「あー、その……。この家に住んでる人に――用があったんだけど」
「お姉ちゃんの家の鍵――なんで」
ここまで言ったところで、わたしはようやく状況を理解した……というか、察した。若い男の人。合い鍵を持っている。そこから考えられる関係性というのはおおよそ限られてくる。
「――の妹?」
姉の名前を出された。
「え、あぁ。はい……」
彼はわたしの顔をじっと見つめた。確認して値踏みされているような気分になる。見た目がかなり派手な人だ。着ている服もちょっと高そうだし、歳はお姉ちゃんとそんなに変わらないけれど、成功しているお金持ち――みたいな印象を受ける。少なくともわたしの周りには滅多にいないタイプだ。しかも結構綺麗な人だし、よくこんな人と付き合って貰えているんだな、と若干姉がうらやましくなった。
「きょうだいがいるなんて聞いてなかったけどな。……まぁ、いい。上がっても?」
わたしは黙ってうなずく。玄関マットに擦り付けた革靴は、磨いたばかりみたいに綺麗だった。少し潔癖のきらいがあるタイプかもしれない。だとしたら――姉と一緒に暮らすのは無理だろう。
近頃、部屋が妙に片付いていると思っていたけれど、彼の私物らしき物はここにはなかった。今回初めて会ったくらいだし、付き合ってまだ長くはない。あるいは女の家には寄り付かないタイプか。
家の敷地をまたぐと、彼は勝手知ったるといった様子で、ソファに深く腰かけた。そこはいつもわたしが座っている定位置だった。お茶の一杯でも淹れてやろうかと思ったけれど、いつもの場所に座られて腹がたったのでやめておく。
わたしはそこからかなり間を空けて、ソファの角に座った。低いテーブルには開きっぱなしの参考書と、飲み差しのお茶を置いたままにしてあったけれど、片付けるタイミングを完全に失った。
「お兄さんはお姉ちゃんと――付き合ってる、とかですか」
「付き合ってる?」
若干馬鹿にしたような言い方に、わたしはあからさまに不機嫌ですと表明することを躊躇わなかった。大人って「付き合ってる」とか、わざわざ言わないものなのだろうか。
「……」
「家の鍵を渡しておいて付き合ってないんだったら、はっ倒しますよ」
「はは……。それは怖いなぁ。そうならないように努力するよ」
映画俳優みたいにきざったらしく笑うと、彼は上着のポケットに手を入れた。何を取り出すのか注意深く見ていると、白い紙切れが見えた。
「何ですか、これ」
「俺の店のカード。ほら、ここに俺の名前もあるだろ」
「……本当に?」
受け取った紙に印刷されたそれっぽいデザインの店のロゴと、目の前の彼を見比べて、少し納得してしまった。お姉ちゃんはこういう夜の店……みたいなところで彼氏を捕まえたのか。派手な雰囲気もそういう職業の人だと分かってしまえば、違和感はない。
「そこにいけば俺もいるし、嘘じゃないって分かると思うけど?」
「未成年なんで行けませんよ……」
「へぇ、まだ子供なんだ。あまり見えないな」
「…………」
――明らかに揶揄われているな、と思った。こんな野暮ったい見た目のわたしを大人だと思う人はどこを探してもいないだろう。こういうのにコロッと騙されて、お姉ちゃんもいっちゃったんだろう。
少し目を細めて笑う顔にいやらしさが感じられないのも、きっと計算の上なんだろうか。
こういう人と普段話すことは絶対にないから、どうしていいのかわからない。
「あの……。お姉ちゃんからは、何も聞いてなくって」
「お姉ちゃん、って普段呼んでるんだ」
「え、あぁ……。そうですけど」
「姉妹だけど、あんまり似てないな」
「…………」
お姉ちゃんとあんまり似てないね、というのはよく言われる言葉だ。その言葉に悪意――嘲笑や同情、憐憫の類が混ざっていることが多い。わたしはその度に深く傷ついて、心を開くのなんてやめてしまおうと絶望する。
この場合、わたしが何も言えなくなったのは悲しかったからじゃない。彼の言葉になんの感情も感じられなかったから。
さっきの発言にはなんの意味もこもっていないのだ。
白と黒が違う色であるのと同じように、足し算と引き算が別の計算方法であるのと同じように、この人はただ当たり前の違いを確認するような風にさらっと言ってのけたのだ。
もしかしたら、この人にとってわたしはどうでもいい人間なのかもしれない。
でも、それがかえってよかった。周りの人は皆誰それと比較したがるけれど、彼はそういった村社会じみた根性とは無縁の場所にいるようだった。
人の輪に交じっても何も思わないのかもしれない。でもどうしてこんな人が姉のような人種と付き合っているのだろうか。
膝をくっつけたり離したりしながら、浮かれそうになっている自分に気づいて恥ずかしくなる。この歳で――というか、こういう年齢だから、自分が誰かに興味を抱いて興奮しているのが恥ずかしかった。
横目に彼を見ると、病院の待合室にいるみたいにじっと落ち着いている姿が目に映った。女二人で座っていると大きく感じるソファも、この人は長い足を持て余すように腰かけている。
男の人、だなぁ……。
密室に異性と二人きりっていうのも中々ないシチュエーションだ。早くお姉ちゃんに帰ってきてほしいような、ほしくないような……。でもずっと沈黙を続けていたら気まずいような。お腹の奥で蝶々が羽ばたいているみたいに、モゾモゾしてしまう。
「お、お姉ちゃん……。遅いですね。いつもならこれくらいに帰ってくるはず、なんですけど……」
「へぇ、そうなんだ」
この人がどれくらいお姉ちゃんの家に来ているかわからないけれど、ちょっと驚いているみたいだった。わたしの発言を聞いて少し喉元を触ったのだけは見えたから、多分初めて知ったことなのかもしれない。
壁にかけた時計の秒針が進む音が、やけにうるさく感じる。
「……そろそろ出るよ。お邪魔しました」
「え、あ、はい……」
時計を見たかと思うと、彼はさっと立ち上がった。
「仕事があるから。元々は忘れ物を取りにきただけだったし」
「そうなんですね……」
玄関まですぐなのに……大して親しい仲でもないのに、立って見送ろうとするのは変かもしれない。わたしは座ったまま彼を見上げていた。
キッチンの脇に置かれた箱の中から何かをさっと取り出すと、そのままわたしに背を向けて行ってしまう――。
「それじゃ。また会えたらいいな」
二度目なんてなければいいのに。全て忘れられたならよかったけど、わたしは早くも浮き足立ってしまって。みっともない。
その日の夜、シャワーを浴びる前にポケットに手を潜り込ませると、入れたままにしていた彼の名刺に手が触れた。誰もいないのをいいことに、鼻先に少し近づけると、女物の香水に混じって少し刺すような匂いがした。お姉ちゃんの部屋では絶対に吸っていないであろう、ツンとする――ニコチンの刺激臭だ。学校の裏で、駅前の喫煙所でしか嗅いだことのない、うっとする重たい不快臭。今時オジサンみたいだと思うよりも先に、脱いだ服にこんな匂いが染みついていないか心配になった。お姉ちゃんはともかく、親にバレたら面倒くさい。
ちょっとの間一緒に座っていただけなのに、馬鹿みたいだ。絵に描いたような夜の人の匂い、だった。目を細めてじっと嗅いでいると、指先に香水臭さがしみ込んで離れないような気がした。あくまで気がした、だけでシャワーを浴びた後の手からはなんの匂いもしなかったけど。
◇
「えぇっ。ディミトリさんと会ったの?」
姉はソファに身体を横たえながら、そう言った。声こそ大きかったけれど表情に変わりはないように見えた。化粧を落とした彼女の顔は学生の頃とたいして変わらず、幼い。こうして見ていると、わたしは姉がまだ実家にいた時のことを思い出す。
「ディミトリさんていうの、あの人」
「うん。あんたとバッティングすることはないと思ってたんだけど。こんなこともあるかぁ」
「付き合ってるの? どのくらい? どういう人なのか分かってる?」
「なぁに。なんでそんなに知りたがりなの? 好きになっちゃった? かっこいいもんねぇ」
姉が恋人を代わる代わる取り替えているのは今に始まった話ではない。両親が不在の折に帰宅すると、知らない人が階段を下りてくるのが見えた――などというのも、別に珍しいことではない。わたしがしょっちゅう入り浸っているとはいえ、男が途切れることはないだろうというのは容易に想像がつく。
わたしにそのような積極性はなかった。間近で見ていて食傷気味というのもあったけれど、特にこれといって好きになれるような相手も見つけられなかった。元々友達も少ないのに、そんな人が恋人を作ろうなどと思っても難しいだろう。
姉はケラケラと笑いながら、テレビの画面を食い入るように見つめている。それに比べてわたしは、何が楽しくて生きているんだろうと思われても仕方がない生き方をしている。
「あのねぇ、別に、お母さんの再婚相手とかじゃないんだからさぁ」
「うん……」
「そんなに嫌なら自分の家に帰ったら?」
「嫌じゃないよ。ちょっとびっくりしただけ」
「ここはあんたの家じゃなくて、わたしが家賃を払ってるんだからね」
怒ってはいない。あくまで冗談ぽい口調。いつものお姉ちゃんだ。
――まるでわたしが入り浸っていて邪魔みたい。
なんて、ない言葉の裏を読もうとしてしまっている。
「ねーこれ見て。超おいしそう~」
享楽的な彼女が、わたしに対してけん制しているわけでも、言外で苛立っているわけでもないのは、分かっている。
ただ猛烈に、肥大化した自意識が罰を求めているのだ。
まだ何もしていない。勝手にちょっと気になっているだけ、だから。浮気とかじゃない。まだ……。
「お姉ちゃん、食べ物のことばっかりだね」
「えー。いいでしょ、別にっ!」
「太るよ」
何を食べても細いままの人を見つめて、わたしは己の身体の重さを思い出す。
◇
魚の腐った目のような物を思いだしていた。死んでからしばらく経って、濁り切った魚の目。
恋で人は変わるなんて、嘘だ。毎日ガラスに反射する自分の目を見て、市場で売られている死んだ魚の目をと自分を重ねてしまう。
この歳で? 本当に?
誰に相談できるわけでもなく、悶々と悩む日々が続いた。その間に、わたしが姉の家を訪れることはなかった。テストがあって、それで忙しかったのもあったし、最近バイトを始めようと思って仕事を探していたのも、関係していたかもしれない。
何度もインターネットで彼の名刺に書いてあった住所を検索した。店自体は、あった。紛れもなく本当に。そこはわたしが想像していたようないかがわしい店ではなくて、むしろ逆に、センスのいい隠れ家的な大人のために作ったような、写真だけでそんな雰囲気が漂っている。ただでさえ不毛なのに、これを見ていると余計にみじめな思いをしてしまう。だったら見なきゃいいのに。
――執拗に、暇さえあれば、わたしはその店の口コミを見てしまうのだった。
その痕跡に彼はいない。お店の従業員の紹介なんてどこにも載っていない。公式サイトも営業日とメニュー、お店の所在以外の情報はまるでなかった。
当たり前だけれど、どこからどう見ても普通のお店という感じだ。風営法か何かにも引っかかりそうな気配はない。
ディミトリさんが詐欺師か何かだったら、とことん用意周到に姉を騙したのだろう。ここまで作り込んでいて偽物なんてことは、多分ないと思う。
妄執という言葉がよく似合う。姉はあのソファの上で彼と寝ているのかもしれない。昔、この家で――今は空き部屋になっている姉の部屋、ベッドの膨らみが繭のようで。それがモゾモゾと動いて、白い足一本が殻を破ったように飛び出してきたのを、わたしは見た。懇ろになっている姿のなんとも醜いことか。日曜の夕方のことだった。どれだけテレビの音を大きくしても、ギシギシ揺れる不気味な音だけはわたしの耳から離れることはない。
壁一枚を挟んで、妹がいることなどお構いなしに男を連れ込んで、あまつさえ行為に及ぶ姉のことが心底嫌いだった。
両親も姉のことは、態度こそあからさまではないものの、うっすらと軽蔑するとともに、存在を持て余しているようだった。
親のこともわたしは嫌いだった。だったらまだ姉の方がマシだったけど、お姉ちゃんのことも好きっていうほど好きじゃない。本当にまだそっちの方が嫌じゃなかったってだけで。
お姉ちゃんはおさがりの服を気前よくくれたし、買ったけど飽きた化粧品も譲ってくれた。彼女は飽き性というよりも、買って手に入れてしまえば満足するタイプみたいだった。じゃあ、男だって飽きたらゆずってくれたらいいのに。お姉ちゃんがあの人に飽きるなんてこと、あるの?
その日はばかみたいに冷えていた。町全体が黒ずんだように薄暗くて、壊れた街灯の明かりには虫がたかっていた。辛うじて雪だけは降っていない。そんな天気だ。
まるで世界がわたしを主役にした舞台のように動いていた。
陰気で、ムシャクシャしていたわたしに合わせたような気候。
今日は学校の行事があって、帰るのが少し遅くなっていた。親は出張か何か――仕事の関係で、家を留守にしていた。
――久しぶりに姉の家に遊びに行ってみようと思った。
あれからしばらく時間がたって、わたしの怒りはかなり曖昧になっていた。別に喧嘩をしたわけでもない。まだ合い鍵で勝手に入っても、許される関係だとわたしは思っている。
駅の出口に立つ人影を見つけた時に、何も期待しなかったわけじゃない。
なにも持たずに行きたくはなかったから、お姉ちゃんのマンションに近い駅前のキオスクで、何か買っていこう。なんて思って立ち寄った先に、あの人はそこにいた。
こんな気温だから、前に会った時とは違って、彼は暖かそうなコートを着ていた。手には何か袋を抱えて、何か買い物でもした帰りに見えたけれど――プライベートのためにしていたかまでは、いまいちわからなかった。
本当にディミトリさんなのか、と一瞬疑ったけれど、あんな派手な人を他人と見間違えるなんてありえない話。
わたしの目は間違っていないだろうという確信だけはあった。
そのまますぐそばまで行って、挨拶をする勇気はなかった。せっかくのチャンスなのに、わたしはそのまま、彼の前を通り過ぎようとしていた。
その時だった。
向こうから、彼がこちらに向かってくる。
勘違いかもしれない。もしかしたら、わたしの後ろに彼の知り合いだとか――別の誰かに向かっているのかと思って、確認したくて仕方がなかった。それでも、振り返ることはできずにわたしはただ、足が動くのに任せて前進する。
――どうしよう。わたしが舞い上がりすぎていただけだったら、ほんとうに最悪だ。
考えあぐねて地面を見つめていた。そんなわたしの真正面にディミトリさんが、来ていた。
「こんにちは」
奇遇だね。なんて、ニコニコと人当たりのよさそうな笑みを浮かべて。
わたしも小さな声で「こんにちは」と挨拶を返したが、ちゃんとそう言えていたかまでは気が回らなかった。
駅前のこの道は、家に帰る人と迎えに来た車とで、せわしなく人がごった返していた。電車が走りすぎていく音と、人の声、様々な雑踏が重なってそこそこ五月蠅いはずの中で、彼の声は天からまっすぐ降ってきたみたいにわたしに届いた。
本当の意味で、わたしは泣きそうだった。
彼はわたしを見るなり一言、
「久しぶりに顔を見た気がする。忙しかったのか? ああ、中間テストとか?」
「はい……。それです。だからあんまり、お姉ちゃんの家とかは、行ってなくて」
「勉強を教えてもらったりとかはしないんだ?」
「そういうのは、あんまり……」
歯を見せて、彼は笑った。今までに見たこともないような子供じみた笑い方だった。そんな笑い方をする大人の人を、わたしは初めて見た気がする。
「お姉ちゃん、勉強は得意じゃなくて」
「ははっ。なんとなく、想像はつくけどさ」
「それって、ちょっとバカにしてません?」
いない人の悪口を言うのは、楽しい。
男の前ではよく回る口と、駆け引きの機転が利くわりに、姉は学校の勉強は今一つだった。それでも人に良いように見られるのだけは得意で、就職にも苦労していなかったように見えたけれど。
ディミトリさん。今度はぐらかすように笑った。
「家族を悪く言うのは良くないな」
「だって……。ディミトリさんも言ってた! ちょっと悪口みたいなこと言ってましたよ」
「そうだったか?」
「お姉ちゃんのこと、勉強もできなさそうって」
「まぁ、あの感じだから。優等生でっていう風には見えないだろう?」
先生から隠れていたずらをしているような気分だった。
わたしは平べったい鞄にスニーカーで、いかにも学生感が丸出しだったのに対して、ディミトリさんは垢抜けた恰好をしていた。わたしたち二人は到底きょうだいには見えないし、友達というには距離が遠い。
周りからどう見られているんだろう。もし、知り合いか誰かに見られてしまっても――それはそれでいいかもしれない。
当然のように、わたしたちを見ている人たちは彼がわたしの姉の男であるという情報を知らないし、わたしが身内からモノを盗むように男を奪ってやろうという企てをしているということも、きっとわかりっこないのだから。
男友達――といってもいいのだろうか。
学校以外でろくに人と関わらないし、大人の交友関係の中に、わたしたちの関係を表す単語があったとしても、わたしはそれを知らないから、どうしようもない。
「今から予定は?」
「ないです」
「じゃあ、ちょっと付き合って欲しいんだ。もうすぐ誕生日だろう?」
ああ、とわたしは思い出した。姉の生まれた日なんて、なぜだかすっかり忘れていた。
うちでは誕生日を祝う習慣は――あったけれど、あんまり派手じゃなかったから。
わたしは聞き分けの良い子のように頷いて、「大丈夫ですよ」と言った。何があっても投げ出していただろう。優しくて、いい子だと思われたかった。
「何が欲しいとか、そういう話はしないんですか」
「欲しいと思ったら、自分で買うってタイプだろう? 俺に言いながら通販で決済してたよ」
「……へぇ」
あの人らしいと思った。あの家は、物で溢れかえっていた。
「わたしも――あんまりそういう話は。どこに行きたいとか、テレビを見ながら喋ったりはしますけど」
それとなく、わたしの鞄が彼の腕に移動していた。
目抜き通りを歩きながら、ディミトリさんはずっと車道側について歩いている。足取りは軽くてゆっくりだった。
まだ五時を過ぎたころなのに、日が落ちるのが早い。街灯の明かりが光って綺麗だった。光がガラスに反射して、チカチカと煌めいている。ちょっと眩しいくらいに。
「ボーナスが出たから、買い物客が多いですね」
彼に変なことを言って嫌われたくなくて、わたしは当たり障りのないコメントしかできない。
「あぁ。言われてみれば、そんな時期だな」
バーテンダーなんてやっている人にとって今は繫忙期かも、しれない。こんな時に気分よく飲みたくて、人はそんな店に入るんだろう。……多分、わからないけど。
「お姉ちゃん、とは、いつくらいから……お付き合いをされてるんですか」
モゴモゴと、わたしは尋ねた。いつから付き合ってるとか、本当はそんなことが聞きたかったわけじゃないのに。
――姉のどんなところが好きなんですか。好きだから、付き合ってるんですよね。
絶対に聞けないであろう疑問は次々と湧いて出るのに対して、現実のわたしは酷く臆病だった。ガタガタと震えているのも、寒さのせいにしてほしかった。何か一つ言葉を発するたびに、間違っていないか、気が気ではなかった。
ディミトリさんは、ただ笑って「どうだったかな」と言った。そして、「ナマエからは、どれくらいに見える? ずっと自分が気づいていなかったってことにしたいか?」そう言われれば、わたしはなんとも言えなかった。
彼はきっと、わたしが発した質問についての答えを、彼は持ち合わせていないのだろう。あるいは、曖昧なまま関係が始まったせいで、きちんとした分岐点を持っていないのかもしれなかった。
わたしは鈍い人間だと思われたくなかった。
色恋沙汰に詳しすぎても駄目だし、知らなさ過ぎても相手にされないだろうから。じっと唇をかんでいることを、選ぶ。
ディミトリさんは大きな百貨店の中に入っていった。わたしはまるで、紐でつながれているみたいに、彼のあとについていった。
中に入ると、外の暗さが嘘みたいに明るい売り場が広がっていた。香水の匂いと人の多さで暑くて、なんだかたまらなくて、一瞬うっ、となった。
ウォルシーニの中にこんなに人がいるなんて、普段はあまり考えない。
わたしはこの場所はめったにくることはなかった。あの二人は、違うのかもしれない。
人の足が速くて、洪水の中を歩いているみたいだった。
その中で、ディミトリさんの足取りは真っ直ぐで、迷いがなかった。誰かにぶつかるなんて絶対にないだろう。人の隙間をぬって、よくあるジュエリーのカウンターの前で足が止まった。
ショーケースの中には今月出たばかりだという、わたしでも知っているようなブランドのアクセサリーが並んでいる。一つ一つが、誰かに買われるために全力で光っていた。値段のついた札それ自体も、自ら発光しているんじゃないかと思うくらいに。
光りすぎて、もはや悪趣味だと感じるまであった。
――これも全部、姉のために行われているのだと思うと、穿った目で見ずにはいられない。
この輝きが、恋人に贈るための定番の品々が、全てがわたしの感情を咎めている――というような被害妄想におそわれるのだ。
「…………」
「ナマエは、どれがいいと思う?」
……あくまで、わたしに選ばせる気なんだ。
何を考えているのかわからない店員の笑顔が怖くて、横でじっと答えを待つ彼の顔を見るのもまた恐ろしい。
店も何もかも決まっているなら、わたしを引っ張ってきた意味は何なんだろうか。
どれも全部同じだ。
早く、早く終わらせてしまいたい。
「……一番、右のやつ」
「じゃあ、それを」
全部面倒で、早く終わらせたくて、姉が一番嫌いそうな、誰でも持っているような、年齢のわりにチープに見えるデザインのそれをわたしは指さした。
ケースから取り出されたそれは、少しの刺激でもすぐ外れてしまいそうな繊細なチェーンに、小ぶりな色石がついた、いかにも女性向けといった趣のネックレスで、思わず下品だとののしってしまいたくなるような光り方をしている。百貨店の照明の下で、ここ一番で光っておけ、とばかりに。
死ぬ間際の断末魔みたいだな。とわたしは思った。
「ギフト用にお包み致しますね」
「ああ、頼むよ」
きっと聡明そうな彼のことだから、わたしの目論見なんて見抜かれているに違いない。
ブランドの象徴的なカラーで彩られた箱に、新雪みたいな真っ白いリボンは巻かれていく。淀みなく、滞りなく、何もかもあらかじめ彼の手で決められていたような流れで買い物は進んでいく。
「……よろこんでくれるといいですね」
会計のために一旦担当者が消えたところで、わたしは彼を見て、言った。座らされた椅子は足が地面につかなくて、だらんとしていたせいでなんだか居心地が悪い。慣れない場所に、緊張する人と二人でいるということが、どれだけ大変か。
それもこれも、全部あの女のためにやっていることなんだと思うと、余計に苛立ってくる。
通路を歩く買い物客に対して、わたしたちの背中はあまりにも無防備だった。通行人からの無言の圧力――というか、彼の横顔からわたしに視線が移った時の、人々の嘲笑。肥大化した被害者妄動も、わたしの心を蝕んでいく。
一人だけ――ディミトリさんだけが、思った通りに行動できている気がする。
「なんでもいいだろ。あんなの」
「――えっ」
一瞬、耳を疑った。
吐き捨てような冷たい言い方だった。――けれど、彼はたしかにそう言ったのだ。聞き間違えで、なければ。
思わず彼の顔を見上げた……。
さっきまでの人当たりのよさそうな、営業スマイルじみた表情は消えていた。
「…………」
無表情というか、疲れて不機嫌な親がしている顔によく似ている。ずっとわたしの前で晒していた、いつもの彼ではない。似ても似つかない、おっかない男の人、だ……。
見てはいけないものを、見てしまった気がする。これからどうやって会話をすればいいのか分からない。――さっきのわたしの一言で彼の気分を損ねてしまったのだとしたら、終わりだ。
背筋に嫌な緊張感が走るとともに、横目でわたしを見ている彼の目が、品定めしているような動きをしていたのも気になった。
――わたしは、本当にどうしたらいいんだろう。
ごめんなさいと言えばいいのか、それとも黙っていればいいのか、何が良いのか全く判断がつかない。
「あ、あの……すみません……」
「なんで」
「なんでって、そんな……」
――あなたが怖いからです。なんて言えるわけがない。もう謝罪すらも相手を苛立たせる原因になるなら、何も言えないじゃないか。
綺麗な人がじっとこちらを見て、無表情でいるととてもじゃないが恐ろしくてたまらない。わたしの小さい心臓は縮みあがって、悲鳴をあげている。
「――大変お待たせ致しました」
バックヤードから店員が戻ってくると、ディミトリさんの表情は変わっていた。また人好きのするような微笑を浮かべて、領収書にサインを書いている。
開いた口がふさがらないとはこういうことを言うんだろうか。
ブランドロゴの入った袋を手渡され、そのままわたしたちは百貨店から出ていった。自動ドアから外に出ると、冷や汗で湿った肌が木枯らしに晒されて、冷たかった。思わずぎゅっと身体を強張らせて、小さな紙袋をぶら下げている彼の方を見る。
わたしの動揺、焦燥、不安を全て見透かしているのか、彼はつまらなさそうな顔でわたしを見る。
「あげるよ」
目の前にずっ、と差し出された袋は、もちろん先ほどわたしたちが購入した物だ。
「お姉ちゃんにあげるんじゃなかったんですか」
「欲しいんじゃなかったのか」
受け取らずに突き返すと、少し間の抜けた返事がかえってきた。
最初からわたしにあげるつもりで――、こんなことを仕組んだのだとしたら、回りくどすぎる。
「いらない……。いらないですよ、こんなの。お姉ちゃんにあげてください」
自分でも驚くほど冷たい声が、出た。本当にこんなチープなデザインの物をわたしが欲しがっていると思っていたんだろうか。本当に欲しいなら、わざわざ選んだりはしないのに。
――じっと、わたしはディミトリさんを睨むくらいの勢いで、見つめる。
言ってしまったという後悔は、不思議となかった。これを言った直後から、彼がわたしを見る目が変わって見えたからだった。先ほどの冷たく、見下すようなところもあった「それ」から随分と様変わりしている。
実のところ、彼はわたしの予想よりも、感情を実直に出すタイプなのかもしれない。というか、普段から取り繕っている行動が完璧すぎて逆に怪しいのだ。
「こんな……実質、あいつのおさがりみたいなの、やめてください。手垢がべったりついてるみたい」
「家族のことが嫌いなのか?」
「うん。だいっきらい。あんな女と付き合ってるあなたもおかしいですね」
「家族なのに、なぁ」
「血の繋がりで上手くいくなら、新聞の一面がマフィアのお家騒動になることなんてありませんよ」
顔が火照って熱い。今まで押さえつけていた物が、蓋が外れて漏れ出しているからかもしれない。
彼には彼で、何かしらの事情があるのかもしれなかった。兄弟の不仲なんて、珍しいものでもなんでもないのだけれど。ディミトリさんは一人っ子だったのかな、と思う。いくらシラクーザ人の家族中心主義が前提にあったとしても、わたしの感情を否定されるのは腹が立つ。
接客業従事者で人の事情なんていくらでも知っていそうな彼が、こんな古典的で道徳の授業じみた価値観を持っているだなんて、けっこう変な話だ。思ったよりも、保守的な人間なんだろうか。
「わたしはもっと別に欲しいものがあるから。これはいらないです」
彼は喉から絞りだすような笑い声をあげると、そのままタガが外れたように笑い始めた。何がそんなにおかしいのか、よくわからなかったけれどわたしもつられて笑った。次第に、自分がとんでもないことを言っていることに気づいて、本当におかしく思えてきた。子供に口説かれるなんて、彼にしても滅多にないことだろうし、おかしくなって笑っても当然だと思った。
街の真ん中で二人――変な組み合わせの男女が笑っている。おかしな光景だ。わたしたちは、どれだけ周囲から浮いているのか計りしれない。何に見えているんだろう。あるいは、世界から浮きすぎて見えないように透明になっているのかも。
「姉さんのおさがりの俺は、嫌じゃないのかな?」
「……さぁ。なんとも言えないですね」
気が付くと、少しでも動けば触れてしまいそうな距離に彼がいた。
無意識に揺らしていた尻尾が彼に触れて、その途端にカッと身体が熱くなる。
よどみない手つきで、彼の手がわたしの髪に伸びた。朝からずいぶん時間がたって、よれてねじれて、汗も埃もまとわりついたような髪だ。
無防備なところに触れられて、それを喜んでいる自分がいることが、恥ずかしい。彼はそういう男だとあらかじめ知っていたつもりで、知っているだけでは足りなかったのだ。
彼はじっと黙っていた。俯いて、まるで自分の物のようにわたしに触れている。男の人だけど、どこか女王様じみた雰囲気がある。
なんでも自分から言わないで、人から言葉を引き出すつもりなんだ……。
自分の心臓の音以外、何も聞こえない。
長い睫毛に縁取られた相貌が、わたしだけをとらえてじっと細められている。
――荒野にいるという狼のことを、わたしは思い出した。あんな危険な場所、行ったこともないので本物を見たことがあるわけじゃない。
いつだったか、写真集で見つけた獲物を追って移動する野生の獣。その佇まいと鋭い眼光――そんなものを、彼を見ていて思い出したのだ。
もうどうなってもいい、かもしれない。
「――わたしの家で、お茶でもいかがですか」
◇
ガチャンと玄関の扉を閉めたのが合図のように、わたしの身体はドアに押し付けられた。内鍵に伸ばしていた手がギュッとつまみを掴んだままなのを見て、彼は柔く固まった指先を解いていく。先ほど目の前でラッピング作業をする店員の姿を見た。彼の手つきの鮮やかさに、職業めいたものを感じずにはいられなかった。
初めてしたキスは、愛撫されているというよりは、唇を塞がれて黙らされているような気分になるものだった。こんな時に限ってわたしは野暮ったい厚手のコートを着ていたのだが、それでも彼の手が生地の上を這う動きは、何もかもわかってしまう。
よくわからないまま背中がドアノブと擦れて、痛くて仕方がなかった。
わたしたちは、まだ本当に家が無人かどうか確認をしていないのだ。誰かがいたら明かりがついているはずで、今は真っ暗だから本当に誰もいないんだろうけれど。
それでも――、離して欲しいと言おうとする口も、指先一つすら動かせない。
わたしが彼に対して何かしようとか、言おうとしたりする全てを封じられている、みたいな感じだ。
うめき声とも、喘ぎ声とも捉えられそうな声が、呼吸を求めて開こうとする口から零れ落ちる。このまま窒息死してしまうんじゃないか。彼は今、わたしを殺そうとしているのかもしれない――。
下手な妄想をしていると、よそ見するなとばかりにぎゅっと手の甲をつねられる。つねると言っても、別に嫌な痛さじゃない。軽く指先で捻るくらいの刺激に、思わず背筋がゾクゾクと震えた。
背中も痛いし、呼吸はできなくて苦しいし、意識もぼんやりとしてくる。それでも絶えず彼から鞭が飛んで来て、こちら側へと引っ張ってこられるみたいだ。
その時に目を開いて、ディミトリさんの顔を見るのが一番好き。
キスする時は目を閉じるって、誰に教わったわけでもなく常識としてインプットされているのだろうか。彼を見る時、覗き見のような罪悪感が湧き上がってきて、仕方がない。
彼が咎めるような目をして、向こうもわたしを見ていることには変わりないのに――なんだか、わたしが悪いような気がしてくる。駄目だって言われてはいないけれど、わたしが全部間違っているような気分になってくる……。
「……寒いな」
ふと顔を上げて、そう言われた。
「こんなところで、いきなりするから」
思い切り盛っていたところを中断してそんなことを言われたものだから、わたしは少し――というか、かなりむっとして、顔をそらした。
こちらは頭が沸騰しそうになっていたのに、まるで色気も何もない台詞だ。
わたしはというと、彼についていくのに必死で、身体中熱くて仕方がなかった。もう外がどうこうとか言っていられるような状態ではなかったのだけれど、それはわたしだけだったのかもしれない。
ここは室内だけど暖房なんて一つもつけていなかったから、家は外とあまり変わらない気温で、まぁ、「寒い」と彼が言ってもおかしくはない状態ではあった。
冷静になってみると、なんとも逢い引きの場所にしてはさもしい我が家である。玄関からして、生活の匂いしかしない。熱に押されていたわたしも、ふとここが己の生家であることを思い出してしまって、若干萎えた。
彼は暇な女子高生みたいに、伸ばした髪を指先で弄っていた。
傲慢な態度だと思った。
「……部屋、行きます?」
ディミトリさんが言わんとしていること――求めているものを、わたしは先回りして言ってあげなければならないようだった。
襟元を正しながら尋ねると、彼は笑ってうなずいた。
ギシギシと音を立てて、部屋の中で知らない生き物がうごめいているようだ。
姉の部屋はたまに掃除をして、換気するくらいしか手を入れていなかったので、彼女の学生時代を凍結させたかのように時が止まっている。ベッドのシーツが埃っぽい。
そんな場所に裸で寝転がっていたら、病気か何かになるかもしれない。
ますます増してくる痛いという感覚を麻痺させるために、死ぬよりも嫌なことを考えている。下半身から感じる疼痛は、一過性のものでない分たちが悪いのだ。
上から覆いかぶさってくる大きな身体によって、わたしの全身はベッドに拘束されているようだった。耳元で荒い息がしていてようやく、この人も生きている人間だったのだと、思い出す。
「……痛いか? 痛いよな……」
かわいそうに、と彼は呟く。
わたしを慮っての言葉ではない。誰に聞かれているわけでもない。わたししか、この場所にはいないのだけど、彼の言い方はまるで誰かにアピールしているようだった。
身体の内側が燃えるように、熱い。暖房も上手く機能していないこの部屋で、彼は寒さから少しでも逃れるためなのか、繋がった下半身以外の肌も合わせて、じっとくっついてきた。
――寒い時だけくっついてくる猫みたいだな、とぼんやり思う。
元から無理やりねじ込んでいるようなものだったのに、更に奥へと割って入られる。思わず変に力が入って、額からダラダラと汗が流れ落ちてきた。……目に染みて、痛い。
「……」
「声も出ない? ……仕方ないな。辞めようか?」
痛みというよりも、気が動転して何も口から出てこなかった。あくまで優しげな口調だったが、彼がこんな中途半端で投げ出すような性分でないことは見え透いていた。
……というより、わたしが辞めさせたくなかった。痛みよりも何よりも、年上の男を、姉の男と最後までしたという充足感の方が何事に代えがたいほど欲しかった。
わたしが首を横にふると、彼は、
「偉いな。でも無理しなくてもいいからな」
と言って、わたしの頭を撫でた。
「ディ、ディミトリさん……」
「うん?」
溶けた砂糖みたいに甘ったるい声で、彼はわたしが何かを言うのを待っている。いつの間にか、シーツに縫いつけられるように、彼の手がわたしの手をぎゅっと握っていた。
息もあがって、苦しくて、全力疾走した後みたいに気だるくて、それでも止まったら死にそうだからというような理由で、わたしたちは交わっていた。
「強いお酒を飲んだみたい」
彼はふ、と笑って、
「飲んだことないだろ」
と言った。そして、広がって縺れた頭を何度も手でかき乱した。
わたしがうわごとのように「熱い」と言うと、彼は何度も舐めるようなキスをしてきた。その度に頭がカッとなって、思わず身体がぎゅっとなってしまう。ぎゅっとなると、ディミトリさんは少しだけ苛立ったように唸る。彼が余計な取り繕いをやめる様を見ているのが、好きだった。最早セックスそのものよりも、わたしは彼の態度で興奮していた。
ベタベタと肌に張り付いた汗を吸うようにして、彼はじっと舌を這わせた。ザラザラした舌が思いのほか長く伸びて、別の生き物のようにわたしの身体の上で動いた。
次第に痛みよりも、何かがわたしを貫いている――異物感の方が強くなってきて、そうなるとようやくわたしは喘ぎ声のようなものを出すようになった。内側が捲れて、抉られて、その度に喉の奥から嘘みたいな声が出てきて、唇を噛もうとすると、息ごと呑み込むように噛みつかれる。
「……あ、ぁ……ッ」
奥から揺さぶられて、ヘッドボードに頭が打ち付けられる。
わたしを思いやっているように見えてその実、自分の快楽を貪ることしか考えていないのだ、この人は。
わたしの目に不満足の色が出るのを、この人は許さなかった。
初めての性行為でポルノみたいに喘いで乱れることはないのに。それをとっくに知っているだろうこの人は、わたしが少しでも疲れを顔に出すと、ひどく狼狽して機嫌を取ろうと、ナメクジが這うようにそこら中にベタベタと口づける。
商売みたいな姿勢に、わたしは軽蔑しながらも満足していた。
実際のところ、性器が交わっているよりもそちらの方が気持ちよかったからだ。
圧倒的にわたしよりも地位があり、容姿に優れ、黙っていても誰かが身体を差し出すであろう人が、必死になって舐め犬じみたことをしているのが、愉快だった。
百回愛していると言われるより、金のリングを頂くよりも、それは幸せなことなのだろうと思った。
わたしのことを、こんな小娘一匹本気で愛してもいないくせに――きっと彼は素直に女を愛することもしてこなかったのだろう――、捨てられることを恐れるかのように、愛撫だけは怠らないのだ。
愛しているのだと自分に思いこませるために、やっているのだろう。
もう「目的」は果たしたようなものだった。
早くイってくれないかな。終わってくれないかな。
漫然と、わたしはそう考えるようになっていた。
どこまでもセックスを続けるのが男らしいのだと、彼は思っているに違いない。
「ねぇ」
「――あ、あぁ……?」
「お姉ちゃんとわたし、どっちの方がよかったですか?」
こちらとしては、豪速球を投げたつもりだった。ストレートで、一番返しにくい一撃――のつもりだったのだが、
「まだあいつとは、してないんだ……」
絶対に嘘なのだということは見え透いている。
それでも一瞬でも本当だと思わせる力が、この人にはあった。
べったりと汗が背中に張り付いていた。
性急に脱ぎ捨てた服をまた着る余裕もなかったし、ついでに言えばその着替えについてもわたしは失念していた。
わたしの服の替えはあるとして――実家だし――彼はどうするんだろう。とか、考えていたけれど野暮だったかもしれない。
掛け布団を胸元までひっぱり上げて、微妙に高さの合わない枕に頭を預けた。天井を見上げていたら、そのまま眠ってしまいそうだから、なるべく色んなことを考えるようにする。
彼もまた同じように、じっと無言で天井を見ていた。あれだけ大げさなことをしていたのに、まるで何事もなかったかのようにこざっぱりしていた。わたしだけが全力でレスリングをした後みたいで、なんだか少しイライラするかも……。
全身の力が抜けて、全部マットに吸われているみたいだ。
布団の中におさめたままの腕だけが少し動いて、彼の手と当たった。あんまり気づいていないふりをしていたけれど、ディミトリさんはセックスの最中もあのごつい指輪を外そうとしなかった。全く……それ自体が彼の身体の一部であるかのように、わたしは文句を言うことはしなかった。別に、根本まで指を突っ込むわけじゃなかったし。
骨とは少し違った固さのあるリングが、指の関節よりも少し下の位置にはまっていた。最初はまるでぶつかり事故みたいな気持ちで「触れてしまった」という感覚があったが、次第にそういった遠慮も消えて、わたしは堂々と彼の指輪に自分の爪先を這わせた。
皮膚と指輪の境目にある凹凸が自分の指に当たるたび、花を撫でた時の、花びらの弾力を思い出す。固いものと柔らかいものが同居しているのが、異常に心地良いと思った。思えば、わたしの両親は仕事柄、結婚指輪というものを身に着けていなかった……。
「……どうした?」
前戯のような動きを咎めるように、彼はそのままわたしの片手と手をつないで、ようやく顔をわたしの方に向けた。こんなに近い距離でじっと見ていると、ようやく恥ずかしいという気持ちが復活してくる。思わず目を逸らすと、手を握る力が少し強くなった。
「なんか……好きで」
「手が? 俺の指が好き?」
わたしの指の間に彼の指が挟まって、その分金属とも密に触れることになる。爪の表面を彼の指先が撫でるように引っ搔いた。そういうことをしながら、彼はわたしの顔を覗き込むように見つめてくる。
「欲しい、な……」
親指と人差し指に力を加えて、グ……っと引くと彼の指輪が引っこ抜けるように、外れた。振りほどいた手を布団の外に出して、わたしは彼からぬすんだ指輪を、見せつけた。
「盗まなくても、欲しいならそれくらいやるのに」
彼はそう言いながら、怒ることはなく嬉しそうに笑った。
「泥棒もお前がやれば上等だよ」
お店で売っていたキラキラ光るような指輪ではなかった。
どっしりとしていて重い。彼の細い指にはまっていたのが不思議なくらいゴツいデザインのシルバーだ。丁寧に磨いた痕跡があって、暗い中でも昔のコインのように鈍く光っている。普段のクラシカルな装いからは逸脱したアクセサリーも、彼がつけていると上品にまとまって見えるから不思議だ。
「本当に欲しかったのは、こっち。あんな光り物じゃなくって」
あなたの指に触れて、汚れも水も垢も何もかも混ざったものじゃないと、嫌だった。手垢がついた、って言葉があるけれど、わたしは新しいものよりも、誰かが価値を認めたものじゃないと嫌だった。
「もらっていい?」
「誕生日じゃないのに、わがまま」
そういいながら、彼はわたしの手から指輪を奪い取った。そして、慎重な手つきでこちらの指に――そっと針に糸を通すようにして、指輪を嵌めた。
金属の重みが加わって、他人のものみたいに手が重い。
「こんなに大事そうなのを、いいんですか?」
「……ナマエがちゃんと持っててくれるなら」
簡単に捨てるなよ、と彼は念押しした。
暗がりの天井に腕をまっすぐ伸ばして、自分の指の根本まで嵌まった指輪を見た。重みという重力に引っ張られて、指はへにゃっと不格好に曲がっている。握りしめると明らかに異物感があった。今までになかったものがくっついているのだから、当たり前だけど。
「こんなに貰ってもよかったのかな」
「お前が欲しがったんだろ」
彼の手がわたしの顎を掴むように触れた。一つ忘れたように空いた指のところだけ他より浮いていて、その空欄にわたしがいる……ような気がする。
「……誰」
玄関を開けて目の前に立っていた男の人に対して、わたしは思わず訪ねてしまう。部屋の鍵が回る音がして、姉の帰宅だと思って駆け寄ってみたら、全然知らない人が立っていたのだ。動揺しない方がおかしい。
「あー、その……。この家に住んでる人に――用があったんだけど」
「お姉ちゃんの家の鍵――なんで」
ここまで言ったところで、わたしはようやく状況を理解した……というか、察した。若い男の人。合い鍵を持っている。そこから考えられる関係性というのはおおよそ限られてくる。
「――の妹?」
姉の名前を出された。
「え、あぁ。はい……」
彼はわたしの顔をじっと見つめた。確認して値踏みされているような気分になる。見た目がかなり派手な人だ。着ている服もちょっと高そうだし、歳はお姉ちゃんとそんなに変わらないけれど、成功しているお金持ち――みたいな印象を受ける。少なくともわたしの周りには滅多にいないタイプだ。しかも結構綺麗な人だし、よくこんな人と付き合って貰えているんだな、と若干姉がうらやましくなった。
「きょうだいがいるなんて聞いてなかったけどな。……まぁ、いい。上がっても?」
わたしは黙ってうなずく。玄関マットに擦り付けた革靴は、磨いたばかりみたいに綺麗だった。少し潔癖のきらいがあるタイプかもしれない。だとしたら――姉と一緒に暮らすのは無理だろう。
近頃、部屋が妙に片付いていると思っていたけれど、彼の私物らしき物はここにはなかった。今回初めて会ったくらいだし、付き合ってまだ長くはない。あるいは女の家には寄り付かないタイプか。
家の敷地をまたぐと、彼は勝手知ったるといった様子で、ソファに深く腰かけた。そこはいつもわたしが座っている定位置だった。お茶の一杯でも淹れてやろうかと思ったけれど、いつもの場所に座られて腹がたったのでやめておく。
わたしはそこからかなり間を空けて、ソファの角に座った。低いテーブルには開きっぱなしの参考書と、飲み差しのお茶を置いたままにしてあったけれど、片付けるタイミングを完全に失った。
「お兄さんはお姉ちゃんと――付き合ってる、とかですか」
「付き合ってる?」
若干馬鹿にしたような言い方に、わたしはあからさまに不機嫌ですと表明することを躊躇わなかった。大人って「付き合ってる」とか、わざわざ言わないものなのだろうか。
「……」
「家の鍵を渡しておいて付き合ってないんだったら、はっ倒しますよ」
「はは……。それは怖いなぁ。そうならないように努力するよ」
映画俳優みたいにきざったらしく笑うと、彼は上着のポケットに手を入れた。何を取り出すのか注意深く見ていると、白い紙切れが見えた。
「何ですか、これ」
「俺の店のカード。ほら、ここに俺の名前もあるだろ」
「……本当に?」
受け取った紙に印刷されたそれっぽいデザインの店のロゴと、目の前の彼を見比べて、少し納得してしまった。お姉ちゃんはこういう夜の店……みたいなところで彼氏を捕まえたのか。派手な雰囲気もそういう職業の人だと分かってしまえば、違和感はない。
「そこにいけば俺もいるし、嘘じゃないって分かると思うけど?」
「未成年なんで行けませんよ……」
「へぇ、まだ子供なんだ。あまり見えないな」
「…………」
――明らかに揶揄われているな、と思った。こんな野暮ったい見た目のわたしを大人だと思う人はどこを探してもいないだろう。こういうのにコロッと騙されて、お姉ちゃんもいっちゃったんだろう。
少し目を細めて笑う顔にいやらしさが感じられないのも、きっと計算の上なんだろうか。
こういう人と普段話すことは絶対にないから、どうしていいのかわからない。
「あの……。お姉ちゃんからは、何も聞いてなくって」
「お姉ちゃん、って普段呼んでるんだ」
「え、あぁ……。そうですけど」
「姉妹だけど、あんまり似てないな」
「…………」
お姉ちゃんとあんまり似てないね、というのはよく言われる言葉だ。その言葉に悪意――嘲笑や同情、憐憫の類が混ざっていることが多い。わたしはその度に深く傷ついて、心を開くのなんてやめてしまおうと絶望する。
この場合、わたしが何も言えなくなったのは悲しかったからじゃない。彼の言葉になんの感情も感じられなかったから。
さっきの発言にはなんの意味もこもっていないのだ。
白と黒が違う色であるのと同じように、足し算と引き算が別の計算方法であるのと同じように、この人はただ当たり前の違いを確認するような風にさらっと言ってのけたのだ。
もしかしたら、この人にとってわたしはどうでもいい人間なのかもしれない。
でも、それがかえってよかった。周りの人は皆誰それと比較したがるけれど、彼はそういった村社会じみた根性とは無縁の場所にいるようだった。
人の輪に交じっても何も思わないのかもしれない。でもどうしてこんな人が姉のような人種と付き合っているのだろうか。
膝をくっつけたり離したりしながら、浮かれそうになっている自分に気づいて恥ずかしくなる。この歳で――というか、こういう年齢だから、自分が誰かに興味を抱いて興奮しているのが恥ずかしかった。
横目に彼を見ると、病院の待合室にいるみたいにじっと落ち着いている姿が目に映った。女二人で座っていると大きく感じるソファも、この人は長い足を持て余すように腰かけている。
男の人、だなぁ……。
密室に異性と二人きりっていうのも中々ないシチュエーションだ。早くお姉ちゃんに帰ってきてほしいような、ほしくないような……。でもずっと沈黙を続けていたら気まずいような。お腹の奥で蝶々が羽ばたいているみたいに、モゾモゾしてしまう。
「お、お姉ちゃん……。遅いですね。いつもならこれくらいに帰ってくるはず、なんですけど……」
「へぇ、そうなんだ」
この人がどれくらいお姉ちゃんの家に来ているかわからないけれど、ちょっと驚いているみたいだった。わたしの発言を聞いて少し喉元を触ったのだけは見えたから、多分初めて知ったことなのかもしれない。
壁にかけた時計の秒針が進む音が、やけにうるさく感じる。
「……そろそろ出るよ。お邪魔しました」
「え、あ、はい……」
時計を見たかと思うと、彼はさっと立ち上がった。
「仕事があるから。元々は忘れ物を取りにきただけだったし」
「そうなんですね……」
玄関まですぐなのに……大して親しい仲でもないのに、立って見送ろうとするのは変かもしれない。わたしは座ったまま彼を見上げていた。
キッチンの脇に置かれた箱の中から何かをさっと取り出すと、そのままわたしに背を向けて行ってしまう――。
「それじゃ。また会えたらいいな」
二度目なんてなければいいのに。全て忘れられたならよかったけど、わたしは早くも浮き足立ってしまって。みっともない。
その日の夜、シャワーを浴びる前にポケットに手を潜り込ませると、入れたままにしていた彼の名刺に手が触れた。誰もいないのをいいことに、鼻先に少し近づけると、女物の香水に混じって少し刺すような匂いがした。お姉ちゃんの部屋では絶対に吸っていないであろう、ツンとする――ニコチンの刺激臭だ。学校の裏で、駅前の喫煙所でしか嗅いだことのない、うっとする重たい不快臭。今時オジサンみたいだと思うよりも先に、脱いだ服にこんな匂いが染みついていないか心配になった。お姉ちゃんはともかく、親にバレたら面倒くさい。
ちょっとの間一緒に座っていただけなのに、馬鹿みたいだ。絵に描いたような夜の人の匂い、だった。目を細めてじっと嗅いでいると、指先に香水臭さがしみ込んで離れないような気がした。あくまで気がした、だけでシャワーを浴びた後の手からはなんの匂いもしなかったけど。
◇
「えぇっ。ディミトリさんと会ったの?」
姉はソファに身体を横たえながら、そう言った。声こそ大きかったけれど表情に変わりはないように見えた。化粧を落とした彼女の顔は学生の頃とたいして変わらず、幼い。こうして見ていると、わたしは姉がまだ実家にいた時のことを思い出す。
「ディミトリさんていうの、あの人」
「うん。あんたとバッティングすることはないと思ってたんだけど。こんなこともあるかぁ」
「付き合ってるの? どのくらい? どういう人なのか分かってる?」
「なぁに。なんでそんなに知りたがりなの? 好きになっちゃった? かっこいいもんねぇ」
姉が恋人を代わる代わる取り替えているのは今に始まった話ではない。両親が不在の折に帰宅すると、知らない人が階段を下りてくるのが見えた――などというのも、別に珍しいことではない。わたしがしょっちゅう入り浸っているとはいえ、男が途切れることはないだろうというのは容易に想像がつく。
わたしにそのような積極性はなかった。間近で見ていて食傷気味というのもあったけれど、特にこれといって好きになれるような相手も見つけられなかった。元々友達も少ないのに、そんな人が恋人を作ろうなどと思っても難しいだろう。
姉はケラケラと笑いながら、テレビの画面を食い入るように見つめている。それに比べてわたしは、何が楽しくて生きているんだろうと思われても仕方がない生き方をしている。
「あのねぇ、別に、お母さんの再婚相手とかじゃないんだからさぁ」
「うん……」
「そんなに嫌なら自分の家に帰ったら?」
「嫌じゃないよ。ちょっとびっくりしただけ」
「ここはあんたの家じゃなくて、わたしが家賃を払ってるんだからね」
怒ってはいない。あくまで冗談ぽい口調。いつものお姉ちゃんだ。
――まるでわたしが入り浸っていて邪魔みたい。
なんて、ない言葉の裏を読もうとしてしまっている。
「ねーこれ見て。超おいしそう~」
享楽的な彼女が、わたしに対してけん制しているわけでも、言外で苛立っているわけでもないのは、分かっている。
ただ猛烈に、肥大化した自意識が罰を求めているのだ。
まだ何もしていない。勝手にちょっと気になっているだけ、だから。浮気とかじゃない。まだ……。
「お姉ちゃん、食べ物のことばっかりだね」
「えー。いいでしょ、別にっ!」
「太るよ」
何を食べても細いままの人を見つめて、わたしは己の身体の重さを思い出す。
◇
魚の腐った目のような物を思いだしていた。死んでからしばらく経って、濁り切った魚の目。
恋で人は変わるなんて、嘘だ。毎日ガラスに反射する自分の目を見て、市場で売られている死んだ魚の目をと自分を重ねてしまう。
この歳で? 本当に?
誰に相談できるわけでもなく、悶々と悩む日々が続いた。その間に、わたしが姉の家を訪れることはなかった。テストがあって、それで忙しかったのもあったし、最近バイトを始めようと思って仕事を探していたのも、関係していたかもしれない。
何度もインターネットで彼の名刺に書いてあった住所を検索した。店自体は、あった。紛れもなく本当に。そこはわたしが想像していたようないかがわしい店ではなくて、むしろ逆に、センスのいい隠れ家的な大人のために作ったような、写真だけでそんな雰囲気が漂っている。ただでさえ不毛なのに、これを見ていると余計にみじめな思いをしてしまう。だったら見なきゃいいのに。
――執拗に、暇さえあれば、わたしはその店の口コミを見てしまうのだった。
その痕跡に彼はいない。お店の従業員の紹介なんてどこにも載っていない。公式サイトも営業日とメニュー、お店の所在以外の情報はまるでなかった。
当たり前だけれど、どこからどう見ても普通のお店という感じだ。風営法か何かにも引っかかりそうな気配はない。
ディミトリさんが詐欺師か何かだったら、とことん用意周到に姉を騙したのだろう。ここまで作り込んでいて偽物なんてことは、多分ないと思う。
妄執という言葉がよく似合う。姉はあのソファの上で彼と寝ているのかもしれない。昔、この家で――今は空き部屋になっている姉の部屋、ベッドの膨らみが繭のようで。それがモゾモゾと動いて、白い足一本が殻を破ったように飛び出してきたのを、わたしは見た。懇ろになっている姿のなんとも醜いことか。日曜の夕方のことだった。どれだけテレビの音を大きくしても、ギシギシ揺れる不気味な音だけはわたしの耳から離れることはない。
壁一枚を挟んで、妹がいることなどお構いなしに男を連れ込んで、あまつさえ行為に及ぶ姉のことが心底嫌いだった。
両親も姉のことは、態度こそあからさまではないものの、うっすらと軽蔑するとともに、存在を持て余しているようだった。
親のこともわたしは嫌いだった。だったらまだ姉の方がマシだったけど、お姉ちゃんのことも好きっていうほど好きじゃない。本当にまだそっちの方が嫌じゃなかったってだけで。
お姉ちゃんはおさがりの服を気前よくくれたし、買ったけど飽きた化粧品も譲ってくれた。彼女は飽き性というよりも、買って手に入れてしまえば満足するタイプみたいだった。じゃあ、男だって飽きたらゆずってくれたらいいのに。お姉ちゃんがあの人に飽きるなんてこと、あるの?
その日はばかみたいに冷えていた。町全体が黒ずんだように薄暗くて、壊れた街灯の明かりには虫がたかっていた。辛うじて雪だけは降っていない。そんな天気だ。
まるで世界がわたしを主役にした舞台のように動いていた。
陰気で、ムシャクシャしていたわたしに合わせたような気候。
今日は学校の行事があって、帰るのが少し遅くなっていた。親は出張か何か――仕事の関係で、家を留守にしていた。
――久しぶりに姉の家に遊びに行ってみようと思った。
あれからしばらく時間がたって、わたしの怒りはかなり曖昧になっていた。別に喧嘩をしたわけでもない。まだ合い鍵で勝手に入っても、許される関係だとわたしは思っている。
駅の出口に立つ人影を見つけた時に、何も期待しなかったわけじゃない。
なにも持たずに行きたくはなかったから、お姉ちゃんのマンションに近い駅前のキオスクで、何か買っていこう。なんて思って立ち寄った先に、あの人はそこにいた。
こんな気温だから、前に会った時とは違って、彼は暖かそうなコートを着ていた。手には何か袋を抱えて、何か買い物でもした帰りに見えたけれど――プライベートのためにしていたかまでは、いまいちわからなかった。
本当にディミトリさんなのか、と一瞬疑ったけれど、あんな派手な人を他人と見間違えるなんてありえない話。
わたしの目は間違っていないだろうという確信だけはあった。
そのまますぐそばまで行って、挨拶をする勇気はなかった。せっかくのチャンスなのに、わたしはそのまま、彼の前を通り過ぎようとしていた。
その時だった。
向こうから、彼がこちらに向かってくる。
勘違いかもしれない。もしかしたら、わたしの後ろに彼の知り合いだとか――別の誰かに向かっているのかと思って、確認したくて仕方がなかった。それでも、振り返ることはできずにわたしはただ、足が動くのに任せて前進する。
――どうしよう。わたしが舞い上がりすぎていただけだったら、ほんとうに最悪だ。
考えあぐねて地面を見つめていた。そんなわたしの真正面にディミトリさんが、来ていた。
「こんにちは」
奇遇だね。なんて、ニコニコと人当たりのよさそうな笑みを浮かべて。
わたしも小さな声で「こんにちは」と挨拶を返したが、ちゃんとそう言えていたかまでは気が回らなかった。
駅前のこの道は、家に帰る人と迎えに来た車とで、せわしなく人がごった返していた。電車が走りすぎていく音と、人の声、様々な雑踏が重なってそこそこ五月蠅いはずの中で、彼の声は天からまっすぐ降ってきたみたいにわたしに届いた。
本当の意味で、わたしは泣きそうだった。
彼はわたしを見るなり一言、
「久しぶりに顔を見た気がする。忙しかったのか? ああ、中間テストとか?」
「はい……。それです。だからあんまり、お姉ちゃんの家とかは、行ってなくて」
「勉強を教えてもらったりとかはしないんだ?」
「そういうのは、あんまり……」
歯を見せて、彼は笑った。今までに見たこともないような子供じみた笑い方だった。そんな笑い方をする大人の人を、わたしは初めて見た気がする。
「お姉ちゃん、勉強は得意じゃなくて」
「ははっ。なんとなく、想像はつくけどさ」
「それって、ちょっとバカにしてません?」
いない人の悪口を言うのは、楽しい。
男の前ではよく回る口と、駆け引きの機転が利くわりに、姉は学校の勉強は今一つだった。それでも人に良いように見られるのだけは得意で、就職にも苦労していなかったように見えたけれど。
ディミトリさん。今度はぐらかすように笑った。
「家族を悪く言うのは良くないな」
「だって……。ディミトリさんも言ってた! ちょっと悪口みたいなこと言ってましたよ」
「そうだったか?」
「お姉ちゃんのこと、勉強もできなさそうって」
「まぁ、あの感じだから。優等生でっていう風には見えないだろう?」
先生から隠れていたずらをしているような気分だった。
わたしは平べったい鞄にスニーカーで、いかにも学生感が丸出しだったのに対して、ディミトリさんは垢抜けた恰好をしていた。わたしたち二人は到底きょうだいには見えないし、友達というには距離が遠い。
周りからどう見られているんだろう。もし、知り合いか誰かに見られてしまっても――それはそれでいいかもしれない。
当然のように、わたしたちを見ている人たちは彼がわたしの姉の男であるという情報を知らないし、わたしが身内からモノを盗むように男を奪ってやろうという企てをしているということも、きっとわかりっこないのだから。
男友達――といってもいいのだろうか。
学校以外でろくに人と関わらないし、大人の交友関係の中に、わたしたちの関係を表す単語があったとしても、わたしはそれを知らないから、どうしようもない。
「今から予定は?」
「ないです」
「じゃあ、ちょっと付き合って欲しいんだ。もうすぐ誕生日だろう?」
ああ、とわたしは思い出した。姉の生まれた日なんて、なぜだかすっかり忘れていた。
うちでは誕生日を祝う習慣は――あったけれど、あんまり派手じゃなかったから。
わたしは聞き分けの良い子のように頷いて、「大丈夫ですよ」と言った。何があっても投げ出していただろう。優しくて、いい子だと思われたかった。
「何が欲しいとか、そういう話はしないんですか」
「欲しいと思ったら、自分で買うってタイプだろう? 俺に言いながら通販で決済してたよ」
「……へぇ」
あの人らしいと思った。あの家は、物で溢れかえっていた。
「わたしも――あんまりそういう話は。どこに行きたいとか、テレビを見ながら喋ったりはしますけど」
それとなく、わたしの鞄が彼の腕に移動していた。
目抜き通りを歩きながら、ディミトリさんはずっと車道側について歩いている。足取りは軽くてゆっくりだった。
まだ五時を過ぎたころなのに、日が落ちるのが早い。街灯の明かりが光って綺麗だった。光がガラスに反射して、チカチカと煌めいている。ちょっと眩しいくらいに。
「ボーナスが出たから、買い物客が多いですね」
彼に変なことを言って嫌われたくなくて、わたしは当たり障りのないコメントしかできない。
「あぁ。言われてみれば、そんな時期だな」
バーテンダーなんてやっている人にとって今は繫忙期かも、しれない。こんな時に気分よく飲みたくて、人はそんな店に入るんだろう。……多分、わからないけど。
「お姉ちゃん、とは、いつくらいから……お付き合いをされてるんですか」
モゴモゴと、わたしは尋ねた。いつから付き合ってるとか、本当はそんなことが聞きたかったわけじゃないのに。
――姉のどんなところが好きなんですか。好きだから、付き合ってるんですよね。
絶対に聞けないであろう疑問は次々と湧いて出るのに対して、現実のわたしは酷く臆病だった。ガタガタと震えているのも、寒さのせいにしてほしかった。何か一つ言葉を発するたびに、間違っていないか、気が気ではなかった。
ディミトリさんは、ただ笑って「どうだったかな」と言った。そして、「ナマエからは、どれくらいに見える? ずっと自分が気づいていなかったってことにしたいか?」そう言われれば、わたしはなんとも言えなかった。
彼はきっと、わたしが発した質問についての答えを、彼は持ち合わせていないのだろう。あるいは、曖昧なまま関係が始まったせいで、きちんとした分岐点を持っていないのかもしれなかった。
わたしは鈍い人間だと思われたくなかった。
色恋沙汰に詳しすぎても駄目だし、知らなさ過ぎても相手にされないだろうから。じっと唇をかんでいることを、選ぶ。
ディミトリさんは大きな百貨店の中に入っていった。わたしはまるで、紐でつながれているみたいに、彼のあとについていった。
中に入ると、外の暗さが嘘みたいに明るい売り場が広がっていた。香水の匂いと人の多さで暑くて、なんだかたまらなくて、一瞬うっ、となった。
ウォルシーニの中にこんなに人がいるなんて、普段はあまり考えない。
わたしはこの場所はめったにくることはなかった。あの二人は、違うのかもしれない。
人の足が速くて、洪水の中を歩いているみたいだった。
その中で、ディミトリさんの足取りは真っ直ぐで、迷いがなかった。誰かにぶつかるなんて絶対にないだろう。人の隙間をぬって、よくあるジュエリーのカウンターの前で足が止まった。
ショーケースの中には今月出たばかりだという、わたしでも知っているようなブランドのアクセサリーが並んでいる。一つ一つが、誰かに買われるために全力で光っていた。値段のついた札それ自体も、自ら発光しているんじゃないかと思うくらいに。
光りすぎて、もはや悪趣味だと感じるまであった。
――これも全部、姉のために行われているのだと思うと、穿った目で見ずにはいられない。
この輝きが、恋人に贈るための定番の品々が、全てがわたしの感情を咎めている――というような被害妄想におそわれるのだ。
「…………」
「ナマエは、どれがいいと思う?」
……あくまで、わたしに選ばせる気なんだ。
何を考えているのかわからない店員の笑顔が怖くて、横でじっと答えを待つ彼の顔を見るのもまた恐ろしい。
店も何もかも決まっているなら、わたしを引っ張ってきた意味は何なんだろうか。
どれも全部同じだ。
早く、早く終わらせてしまいたい。
「……一番、右のやつ」
「じゃあ、それを」
全部面倒で、早く終わらせたくて、姉が一番嫌いそうな、誰でも持っているような、年齢のわりにチープに見えるデザインのそれをわたしは指さした。
ケースから取り出されたそれは、少しの刺激でもすぐ外れてしまいそうな繊細なチェーンに、小ぶりな色石がついた、いかにも女性向けといった趣のネックレスで、思わず下品だとののしってしまいたくなるような光り方をしている。百貨店の照明の下で、ここ一番で光っておけ、とばかりに。
死ぬ間際の断末魔みたいだな。とわたしは思った。
「ギフト用にお包み致しますね」
「ああ、頼むよ」
きっと聡明そうな彼のことだから、わたしの目論見なんて見抜かれているに違いない。
ブランドの象徴的なカラーで彩られた箱に、新雪みたいな真っ白いリボンは巻かれていく。淀みなく、滞りなく、何もかもあらかじめ彼の手で決められていたような流れで買い物は進んでいく。
「……よろこんでくれるといいですね」
会計のために一旦担当者が消えたところで、わたしは彼を見て、言った。座らされた椅子は足が地面につかなくて、だらんとしていたせいでなんだか居心地が悪い。慣れない場所に、緊張する人と二人でいるということが、どれだけ大変か。
それもこれも、全部あの女のためにやっていることなんだと思うと、余計に苛立ってくる。
通路を歩く買い物客に対して、わたしたちの背中はあまりにも無防備だった。通行人からの無言の圧力――というか、彼の横顔からわたしに視線が移った時の、人々の嘲笑。肥大化した被害者妄動も、わたしの心を蝕んでいく。
一人だけ――ディミトリさんだけが、思った通りに行動できている気がする。
「なんでもいいだろ。あんなの」
「――えっ」
一瞬、耳を疑った。
吐き捨てような冷たい言い方だった。――けれど、彼はたしかにそう言ったのだ。聞き間違えで、なければ。
思わず彼の顔を見上げた……。
さっきまでの人当たりのよさそうな、営業スマイルじみた表情は消えていた。
「…………」
無表情というか、疲れて不機嫌な親がしている顔によく似ている。ずっとわたしの前で晒していた、いつもの彼ではない。似ても似つかない、おっかない男の人、だ……。
見てはいけないものを、見てしまった気がする。これからどうやって会話をすればいいのか分からない。――さっきのわたしの一言で彼の気分を損ねてしまったのだとしたら、終わりだ。
背筋に嫌な緊張感が走るとともに、横目でわたしを見ている彼の目が、品定めしているような動きをしていたのも気になった。
――わたしは、本当にどうしたらいいんだろう。
ごめんなさいと言えばいいのか、それとも黙っていればいいのか、何が良いのか全く判断がつかない。
「あ、あの……すみません……」
「なんで」
「なんでって、そんな……」
――あなたが怖いからです。なんて言えるわけがない。もう謝罪すらも相手を苛立たせる原因になるなら、何も言えないじゃないか。
綺麗な人がじっとこちらを見て、無表情でいるととてもじゃないが恐ろしくてたまらない。わたしの小さい心臓は縮みあがって、悲鳴をあげている。
「――大変お待たせ致しました」
バックヤードから店員が戻ってくると、ディミトリさんの表情は変わっていた。また人好きのするような微笑を浮かべて、領収書にサインを書いている。
開いた口がふさがらないとはこういうことを言うんだろうか。
ブランドロゴの入った袋を手渡され、そのままわたしたちは百貨店から出ていった。自動ドアから外に出ると、冷や汗で湿った肌が木枯らしに晒されて、冷たかった。思わずぎゅっと身体を強張らせて、小さな紙袋をぶら下げている彼の方を見る。
わたしの動揺、焦燥、不安を全て見透かしているのか、彼はつまらなさそうな顔でわたしを見る。
「あげるよ」
目の前にずっ、と差し出された袋は、もちろん先ほどわたしたちが購入した物だ。
「お姉ちゃんにあげるんじゃなかったんですか」
「欲しいんじゃなかったのか」
受け取らずに突き返すと、少し間の抜けた返事がかえってきた。
最初からわたしにあげるつもりで――、こんなことを仕組んだのだとしたら、回りくどすぎる。
「いらない……。いらないですよ、こんなの。お姉ちゃんにあげてください」
自分でも驚くほど冷たい声が、出た。本当にこんなチープなデザインの物をわたしが欲しがっていると思っていたんだろうか。本当に欲しいなら、わざわざ選んだりはしないのに。
――じっと、わたしはディミトリさんを睨むくらいの勢いで、見つめる。
言ってしまったという後悔は、不思議となかった。これを言った直後から、彼がわたしを見る目が変わって見えたからだった。先ほどの冷たく、見下すようなところもあった「それ」から随分と様変わりしている。
実のところ、彼はわたしの予想よりも、感情を実直に出すタイプなのかもしれない。というか、普段から取り繕っている行動が完璧すぎて逆に怪しいのだ。
「こんな……実質、あいつのおさがりみたいなの、やめてください。手垢がべったりついてるみたい」
「家族のことが嫌いなのか?」
「うん。だいっきらい。あんな女と付き合ってるあなたもおかしいですね」
「家族なのに、なぁ」
「血の繋がりで上手くいくなら、新聞の一面がマフィアのお家騒動になることなんてありませんよ」
顔が火照って熱い。今まで押さえつけていた物が、蓋が外れて漏れ出しているからかもしれない。
彼には彼で、何かしらの事情があるのかもしれなかった。兄弟の不仲なんて、珍しいものでもなんでもないのだけれど。ディミトリさんは一人っ子だったのかな、と思う。いくらシラクーザ人の家族中心主義が前提にあったとしても、わたしの感情を否定されるのは腹が立つ。
接客業従事者で人の事情なんていくらでも知っていそうな彼が、こんな古典的で道徳の授業じみた価値観を持っているだなんて、けっこう変な話だ。思ったよりも、保守的な人間なんだろうか。
「わたしはもっと別に欲しいものがあるから。これはいらないです」
彼は喉から絞りだすような笑い声をあげると、そのままタガが外れたように笑い始めた。何がそんなにおかしいのか、よくわからなかったけれどわたしもつられて笑った。次第に、自分がとんでもないことを言っていることに気づいて、本当におかしく思えてきた。子供に口説かれるなんて、彼にしても滅多にないことだろうし、おかしくなって笑っても当然だと思った。
街の真ん中で二人――変な組み合わせの男女が笑っている。おかしな光景だ。わたしたちは、どれだけ周囲から浮いているのか計りしれない。何に見えているんだろう。あるいは、世界から浮きすぎて見えないように透明になっているのかも。
「姉さんのおさがりの俺は、嫌じゃないのかな?」
「……さぁ。なんとも言えないですね」
気が付くと、少しでも動けば触れてしまいそうな距離に彼がいた。
無意識に揺らしていた尻尾が彼に触れて、その途端にカッと身体が熱くなる。
よどみない手つきで、彼の手がわたしの髪に伸びた。朝からずいぶん時間がたって、よれてねじれて、汗も埃もまとわりついたような髪だ。
無防備なところに触れられて、それを喜んでいる自分がいることが、恥ずかしい。彼はそういう男だとあらかじめ知っていたつもりで、知っているだけでは足りなかったのだ。
彼はじっと黙っていた。俯いて、まるで自分の物のようにわたしに触れている。男の人だけど、どこか女王様じみた雰囲気がある。
なんでも自分から言わないで、人から言葉を引き出すつもりなんだ……。
自分の心臓の音以外、何も聞こえない。
長い睫毛に縁取られた相貌が、わたしだけをとらえてじっと細められている。
――荒野にいるという狼のことを、わたしは思い出した。あんな危険な場所、行ったこともないので本物を見たことがあるわけじゃない。
いつだったか、写真集で見つけた獲物を追って移動する野生の獣。その佇まいと鋭い眼光――そんなものを、彼を見ていて思い出したのだ。
もうどうなってもいい、かもしれない。
「――わたしの家で、お茶でもいかがですか」
◇
ガチャンと玄関の扉を閉めたのが合図のように、わたしの身体はドアに押し付けられた。内鍵に伸ばしていた手がギュッとつまみを掴んだままなのを見て、彼は柔く固まった指先を解いていく。先ほど目の前でラッピング作業をする店員の姿を見た。彼の手つきの鮮やかさに、職業めいたものを感じずにはいられなかった。
初めてしたキスは、愛撫されているというよりは、唇を塞がれて黙らされているような気分になるものだった。こんな時に限ってわたしは野暮ったい厚手のコートを着ていたのだが、それでも彼の手が生地の上を這う動きは、何もかもわかってしまう。
よくわからないまま背中がドアノブと擦れて、痛くて仕方がなかった。
わたしたちは、まだ本当に家が無人かどうか確認をしていないのだ。誰かがいたら明かりがついているはずで、今は真っ暗だから本当に誰もいないんだろうけれど。
それでも――、離して欲しいと言おうとする口も、指先一つすら動かせない。
わたしが彼に対して何かしようとか、言おうとしたりする全てを封じられている、みたいな感じだ。
うめき声とも、喘ぎ声とも捉えられそうな声が、呼吸を求めて開こうとする口から零れ落ちる。このまま窒息死してしまうんじゃないか。彼は今、わたしを殺そうとしているのかもしれない――。
下手な妄想をしていると、よそ見するなとばかりにぎゅっと手の甲をつねられる。つねると言っても、別に嫌な痛さじゃない。軽く指先で捻るくらいの刺激に、思わず背筋がゾクゾクと震えた。
背中も痛いし、呼吸はできなくて苦しいし、意識もぼんやりとしてくる。それでも絶えず彼から鞭が飛んで来て、こちら側へと引っ張ってこられるみたいだ。
その時に目を開いて、ディミトリさんの顔を見るのが一番好き。
キスする時は目を閉じるって、誰に教わったわけでもなく常識としてインプットされているのだろうか。彼を見る時、覗き見のような罪悪感が湧き上がってきて、仕方がない。
彼が咎めるような目をして、向こうもわたしを見ていることには変わりないのに――なんだか、わたしが悪いような気がしてくる。駄目だって言われてはいないけれど、わたしが全部間違っているような気分になってくる……。
「……寒いな」
ふと顔を上げて、そう言われた。
「こんなところで、いきなりするから」
思い切り盛っていたところを中断してそんなことを言われたものだから、わたしは少し――というか、かなりむっとして、顔をそらした。
こちらは頭が沸騰しそうになっていたのに、まるで色気も何もない台詞だ。
わたしはというと、彼についていくのに必死で、身体中熱くて仕方がなかった。もう外がどうこうとか言っていられるような状態ではなかったのだけれど、それはわたしだけだったのかもしれない。
ここは室内だけど暖房なんて一つもつけていなかったから、家は外とあまり変わらない気温で、まぁ、「寒い」と彼が言ってもおかしくはない状態ではあった。
冷静になってみると、なんとも逢い引きの場所にしてはさもしい我が家である。玄関からして、生活の匂いしかしない。熱に押されていたわたしも、ふとここが己の生家であることを思い出してしまって、若干萎えた。
彼は暇な女子高生みたいに、伸ばした髪を指先で弄っていた。
傲慢な態度だと思った。
「……部屋、行きます?」
ディミトリさんが言わんとしていること――求めているものを、わたしは先回りして言ってあげなければならないようだった。
襟元を正しながら尋ねると、彼は笑ってうなずいた。
ギシギシと音を立てて、部屋の中で知らない生き物がうごめいているようだ。
姉の部屋はたまに掃除をして、換気するくらいしか手を入れていなかったので、彼女の学生時代を凍結させたかのように時が止まっている。ベッドのシーツが埃っぽい。
そんな場所に裸で寝転がっていたら、病気か何かになるかもしれない。
ますます増してくる痛いという感覚を麻痺させるために、死ぬよりも嫌なことを考えている。下半身から感じる疼痛は、一過性のものでない分たちが悪いのだ。
上から覆いかぶさってくる大きな身体によって、わたしの全身はベッドに拘束されているようだった。耳元で荒い息がしていてようやく、この人も生きている人間だったのだと、思い出す。
「……痛いか? 痛いよな……」
かわいそうに、と彼は呟く。
わたしを慮っての言葉ではない。誰に聞かれているわけでもない。わたししか、この場所にはいないのだけど、彼の言い方はまるで誰かにアピールしているようだった。
身体の内側が燃えるように、熱い。暖房も上手く機能していないこの部屋で、彼は寒さから少しでも逃れるためなのか、繋がった下半身以外の肌も合わせて、じっとくっついてきた。
――寒い時だけくっついてくる猫みたいだな、とぼんやり思う。
元から無理やりねじ込んでいるようなものだったのに、更に奥へと割って入られる。思わず変に力が入って、額からダラダラと汗が流れ落ちてきた。……目に染みて、痛い。
「……」
「声も出ない? ……仕方ないな。辞めようか?」
痛みというよりも、気が動転して何も口から出てこなかった。あくまで優しげな口調だったが、彼がこんな中途半端で投げ出すような性分でないことは見え透いていた。
……というより、わたしが辞めさせたくなかった。痛みよりも何よりも、年上の男を、姉の男と最後までしたという充足感の方が何事に代えがたいほど欲しかった。
わたしが首を横にふると、彼は、
「偉いな。でも無理しなくてもいいからな」
と言って、わたしの頭を撫でた。
「ディ、ディミトリさん……」
「うん?」
溶けた砂糖みたいに甘ったるい声で、彼はわたしが何かを言うのを待っている。いつの間にか、シーツに縫いつけられるように、彼の手がわたしの手をぎゅっと握っていた。
息もあがって、苦しくて、全力疾走した後みたいに気だるくて、それでも止まったら死にそうだからというような理由で、わたしたちは交わっていた。
「強いお酒を飲んだみたい」
彼はふ、と笑って、
「飲んだことないだろ」
と言った。そして、広がって縺れた頭を何度も手でかき乱した。
わたしがうわごとのように「熱い」と言うと、彼は何度も舐めるようなキスをしてきた。その度に頭がカッとなって、思わず身体がぎゅっとなってしまう。ぎゅっとなると、ディミトリさんは少しだけ苛立ったように唸る。彼が余計な取り繕いをやめる様を見ているのが、好きだった。最早セックスそのものよりも、わたしは彼の態度で興奮していた。
ベタベタと肌に張り付いた汗を吸うようにして、彼はじっと舌を這わせた。ザラザラした舌が思いのほか長く伸びて、別の生き物のようにわたしの身体の上で動いた。
次第に痛みよりも、何かがわたしを貫いている――異物感の方が強くなってきて、そうなるとようやくわたしは喘ぎ声のようなものを出すようになった。内側が捲れて、抉られて、その度に喉の奥から嘘みたいな声が出てきて、唇を噛もうとすると、息ごと呑み込むように噛みつかれる。
「……あ、ぁ……ッ」
奥から揺さぶられて、ヘッドボードに頭が打ち付けられる。
わたしを思いやっているように見えてその実、自分の快楽を貪ることしか考えていないのだ、この人は。
わたしの目に不満足の色が出るのを、この人は許さなかった。
初めての性行為でポルノみたいに喘いで乱れることはないのに。それをとっくに知っているだろうこの人は、わたしが少しでも疲れを顔に出すと、ひどく狼狽して機嫌を取ろうと、ナメクジが這うようにそこら中にベタベタと口づける。
商売みたいな姿勢に、わたしは軽蔑しながらも満足していた。
実際のところ、性器が交わっているよりもそちらの方が気持ちよかったからだ。
圧倒的にわたしよりも地位があり、容姿に優れ、黙っていても誰かが身体を差し出すであろう人が、必死になって舐め犬じみたことをしているのが、愉快だった。
百回愛していると言われるより、金のリングを頂くよりも、それは幸せなことなのだろうと思った。
わたしのことを、こんな小娘一匹本気で愛してもいないくせに――きっと彼は素直に女を愛することもしてこなかったのだろう――、捨てられることを恐れるかのように、愛撫だけは怠らないのだ。
愛しているのだと自分に思いこませるために、やっているのだろう。
もう「目的」は果たしたようなものだった。
早くイってくれないかな。終わってくれないかな。
漫然と、わたしはそう考えるようになっていた。
どこまでもセックスを続けるのが男らしいのだと、彼は思っているに違いない。
「ねぇ」
「――あ、あぁ……?」
「お姉ちゃんとわたし、どっちの方がよかったですか?」
こちらとしては、豪速球を投げたつもりだった。ストレートで、一番返しにくい一撃――のつもりだったのだが、
「まだあいつとは、してないんだ……」
絶対に嘘なのだということは見え透いている。
それでも一瞬でも本当だと思わせる力が、この人にはあった。
べったりと汗が背中に張り付いていた。
性急に脱ぎ捨てた服をまた着る余裕もなかったし、ついでに言えばその着替えについてもわたしは失念していた。
わたしの服の替えはあるとして――実家だし――彼はどうするんだろう。とか、考えていたけれど野暮だったかもしれない。
掛け布団を胸元までひっぱり上げて、微妙に高さの合わない枕に頭を預けた。天井を見上げていたら、そのまま眠ってしまいそうだから、なるべく色んなことを考えるようにする。
彼もまた同じように、じっと無言で天井を見ていた。あれだけ大げさなことをしていたのに、まるで何事もなかったかのようにこざっぱりしていた。わたしだけが全力でレスリングをした後みたいで、なんだか少しイライラするかも……。
全身の力が抜けて、全部マットに吸われているみたいだ。
布団の中におさめたままの腕だけが少し動いて、彼の手と当たった。あんまり気づいていないふりをしていたけれど、ディミトリさんはセックスの最中もあのごつい指輪を外そうとしなかった。全く……それ自体が彼の身体の一部であるかのように、わたしは文句を言うことはしなかった。別に、根本まで指を突っ込むわけじゃなかったし。
骨とは少し違った固さのあるリングが、指の関節よりも少し下の位置にはまっていた。最初はまるでぶつかり事故みたいな気持ちで「触れてしまった」という感覚があったが、次第にそういった遠慮も消えて、わたしは堂々と彼の指輪に自分の爪先を這わせた。
皮膚と指輪の境目にある凹凸が自分の指に当たるたび、花を撫でた時の、花びらの弾力を思い出す。固いものと柔らかいものが同居しているのが、異常に心地良いと思った。思えば、わたしの両親は仕事柄、結婚指輪というものを身に着けていなかった……。
「……どうした?」
前戯のような動きを咎めるように、彼はそのままわたしの片手と手をつないで、ようやく顔をわたしの方に向けた。こんなに近い距離でじっと見ていると、ようやく恥ずかしいという気持ちが復活してくる。思わず目を逸らすと、手を握る力が少し強くなった。
「なんか……好きで」
「手が? 俺の指が好き?」
わたしの指の間に彼の指が挟まって、その分金属とも密に触れることになる。爪の表面を彼の指先が撫でるように引っ搔いた。そういうことをしながら、彼はわたしの顔を覗き込むように見つめてくる。
「欲しい、な……」
親指と人差し指に力を加えて、グ……っと引くと彼の指輪が引っこ抜けるように、外れた。振りほどいた手を布団の外に出して、わたしは彼からぬすんだ指輪を、見せつけた。
「盗まなくても、欲しいならそれくらいやるのに」
彼はそう言いながら、怒ることはなく嬉しそうに笑った。
「泥棒もお前がやれば上等だよ」
お店で売っていたキラキラ光るような指輪ではなかった。
どっしりとしていて重い。彼の細い指にはまっていたのが不思議なくらいゴツいデザインのシルバーだ。丁寧に磨いた痕跡があって、暗い中でも昔のコインのように鈍く光っている。普段のクラシカルな装いからは逸脱したアクセサリーも、彼がつけていると上品にまとまって見えるから不思議だ。
「本当に欲しかったのは、こっち。あんな光り物じゃなくって」
あなたの指に触れて、汚れも水も垢も何もかも混ざったものじゃないと、嫌だった。手垢がついた、って言葉があるけれど、わたしは新しいものよりも、誰かが価値を認めたものじゃないと嫌だった。
「もらっていい?」
「誕生日じゃないのに、わがまま」
そういいながら、彼はわたしの手から指輪を奪い取った。そして、慎重な手つきでこちらの指に――そっと針に糸を通すようにして、指輪を嵌めた。
金属の重みが加わって、他人のものみたいに手が重い。
「こんなに大事そうなのを、いいんですか?」
「……ナマエがちゃんと持っててくれるなら」
簡単に捨てるなよ、と彼は念押しした。
暗がりの天井に腕をまっすぐ伸ばして、自分の指の根本まで嵌まった指輪を見た。重みという重力に引っ張られて、指はへにゃっと不格好に曲がっている。握りしめると明らかに異物感があった。今までになかったものがくっついているのだから、当たり前だけど。
「こんなに貰ってもよかったのかな」
「お前が欲しがったんだろ」
彼の手がわたしの顎を掴むように触れた。一つ忘れたように空いた指のところだけ他より浮いていて、その空欄にわたしがいる……ような気がする。
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