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わたしが同級生を全力で殴ってしまって学校を退学になったのと、兄がアーキバスに就職したのはちょうど同じくらいの時期だった。学年度末に差し掛かろうとしていたその時、わたしは一人の女の顔面に、鋭い右ストレートを叩き込んだ。
◆
人生には、もうどうしようもなくて仕方ないことばっかりだ。
わたしが同級生の女──確か、企業の役員の娘のそばで、いつも金魚のフンみたいにくっついてきた面倒なやつ。名前はもう覚えていない──をぶん殴ったのは、それがどうしても必要なことだったからだ。
仕事で忙しい兄が時折学校に来ては、保護者の顔をして担任の教師と「わたし」の話をする。いつもは保護者の面談やら三者面談やら、わたしの進路の話をするのが常だったが、今回は違った。
わたしと、スーツを着た兄、担任の先生、わたしがぶん殴った女、その保護者一同と学校の校長と理事長は、学長室に集まって面談をする。わたしは最後まで黙っていようと心に誓っていた。
その時は夏真っ盛りという感じの時期だったので、クーラーがガンガンに効いていて、兄は下ろしたてサマースーツを着ていた。
普段仕事で人を殺しまくっているとは思えないほど品が良かった。父兄の鑑というか、顔の傷を除けば、オフィスワークをしているホワイトカラーの、普通のビジネスマンに見えた。そんな兄の姿が誇らしいくらいに美しくて見惚れていたら、凄みのある表情でわたしを見てくれた。見てくれた、というか呆れと怒りとどうしようもなさ、みたいなものを一気に感じさせるような、そんな顔をわたしに向けていた。……たぶん、わたしがこんなバカなことをしでかして、自分の教育を恥じてしまっていたのかもしれない。けれど、その時のわたしはあまりにもガキすぎて、そんなところまで読み取れなかった。
今思えば、わたしは兄の全てを知ろうとしてこうしたのかもしれない。試し行動、ってやつだ。ほら、よく犬がわざとトイレじゃないところでおしっこをしたりするような、幼い子供が気を引くために親に悪戯をするような……。
まあ、こうやってグダグダ喋ってみても、「今となってはこうだったかもしれない」と思うだけなので、これは後付けの理由だ。本当のところ、その時はただムカついて殴っただけ。
学長室で、わたしは徹底的に詰められ、なじられ、どうして同級生を殴ったのかと尋問された。わたしは何を言われても黙っていた。あまりにもわたしが不遜な態度を取っていたので、いつもは温厚な兄も怒り出した。当たり前だ。強化人間の手術を受けてACを乗りこなすような人間が、昼間に呼び出され、わざわざ仕事を休み、妹の起こした不祥事の後始末をさせられているのだから。
「ナマエ、──さんに謝りなさい」
静かな、それでいて厳しい声で言われる。
兄の怒った顔を見たのは、実に数年ぶりだ。兄は滅多なことでは怒らない。皿を割ろうが、アイロンがけしたシャツに焦げ目がついていようが、スーパーで横入りされても絶対に怒らないような人だ。
わたしがどれだけバカなことをしても、他人が傷付かなければ何も言わない。今回は……わたしが初めて人を害したので、今まで見たことのないような形相で怒っているのが見える。深刻な場面であるというのに、わたしはヘラヘラとしていた。怒られても屁でもないという態度をとっていた。兄は、怒りを通り越して、悲しげな表情を浮かべていた。ここに来て、自分の数少ない良心が痛むのを感じる。
向こうの家族は、とんでもない鬼の形相でわたしを見ている。わたしが謝りたいのは、兄に対してだけだ。目の前のクソ女とクソアマを産んだバカな親に対してではない。
わたしは兄のそういうところがとても好きで、大好きで……恋していた。だから今回あいつをぶん殴った。そのことを端折って、少しは話すべきだったかもしれない。けれど、話をしてわたしの恋心が少しでも露見するのをわたしは恐れた。だから、ずっとむっつりと黙っていた。
「自分でやったことも認めないのか……」
──わたしは最後まで、絶対に喋らなかった。ここで謝らなかったところで、兄はわたしを嫌わないだろうという根拠のない自信があった。兄はわたしを絶対に見捨てない。
今考えると、そんな甘ったれたことを言っていないですぐに謝罪すべきだと思うけれど、その時のわたしは本気で謝る気なんてなかった。だって、先に失礼なことを言ってきたのはそっちだし。そんな風に思っていた。
未成年の失敗は親の責任でもある。わたしの代わりに、兄は凄まじい角度で頭を下げ、退学届の「証人」の欄にサインをした。
……ここに来てわたしは少しビビった。たった一発ぶん殴ったくらいで退学になるのか、なんて。
ぶっちゃけ、この学校はつまらなくて仕方がなかった。だからいつ辞めても構わなかった。毎日卒業の日が来るのを指折り数えていたし、家で暇を持て余している間に高校のカリキュラムはほぼ自分で学び終えていた。
今はデジタルラーニングの時代で、通信授業で小学校から大学院までを修了できるのにも関わらず、兄はコミュニケーションの重要さを説いて、わたしを私学のつまらない、カビ臭い女しかいない旧世代型で男女別学で、全寮制の「学園」に入学させた。わたしは直前までずっと抵抗していたが、兄はどうしても譲れないものがあるらしく、わたしを無理やり入学させたのである。……まあ、もう退学するけど。
兄は、帰りの車の中でずっと無言だった。わたしも喋る気にならなかったので、無言で空を見上げていた。やっとこの学校から解放されたと思えば、悪い気持ちではなかった。問題は、わたしがしでかしてしまったことで兄に迷惑をかけたことだ。
……兄は近頃、なんだか忙しそうにしていた。毎日していたビデオ通話も、近頃はあまりしなくなったし。
ようやく、わたしはとんでもないことをしてしまったのだと気付いた。
でも、わたしは後悔しない。あれは絶対に必要なことだったから。わたしだけじゃなくて、あの女はわたしの兄も辱めたから。そう言い聞かせることにして、わたしは静かに目を閉じる。この時間帯の高速道路で、車はとても快適に進んでいく。
◆
わたしがあいつを殴ったのは、本当にどうしようもなく、必要に駆られてしたのだということを弁明したい。
これは言い訳というよりは、記録だ。どうしてこうしてしまったのかという説明だ。この言葉を聞く人はいない。完全にわたしだけの世界。この言葉を、わたしは墓場まで持っていく。
きっかけは、本当に些細なことだった。
今この時代においてわざわざ全寮制の女子だけしかいない、寂れた旧時代型の学舎に入学するのは、良家のお嬢様かどこかの企業の令嬢か、どこかの政治家の娘か、品行が悪すぎて矯正が必要な暴れ馬か、そのどれかだ。ちなみに、わたしはどれにも当てはまらない。まあ所謂……異分子ってやつだ。
つまり、わたしはここでとてつもなく浮いていた。成績こそ上位をキープするように自習に励んでいたけれど、友達らしい友達一人作れなかった。勉強しかしないガリ勉、というのが多分周りから見たわたしだったに違いない。
この学校では、寄付金さえ納めれば思想犯の娘であろうがスラム出身の戸籍すら不確かなガキであろうが、平等に教育を受ける機会を得る。しかも、セキュリティはガチガチで、父兄であっても訪問するのに一定の審査が必要になる。そういうところをウリにしていることもあってか、ここにはどこぞの企業の役員の娘と、どこぞの活動家の身内なんかが一緒に机を並べて勉強していて……なんというか、不思議な空気が漂っていた。
わたしなんかはお世辞にも育ちがいいとは言えないし、兄から受けた最低限の礼儀と教育以外は何も持ち合わせていなかったので、とてつもなく、蚊帳の外にいた。
学校ではいろんな女子がそれぞれ小規模のグループを作ってつるんでいたけれど、わたしはそのどこにも居場所のない、はみ出しっ子だった。いじめられはしないけれど、「いないもの」としてカウントされる。……普通の学校ならいざ知らず、全寮制の学校でぼっちになるのは、流石のわたしでも中々堪えた。
そんな中で、わたしが心の支えにしていたのは兄とのビデオ通話だ。寮の談話室の奥には自由に外の情報とアクセスできる端末が置かれており、(この学校は、わたしたちの『安全』をあらゆる面から守るという名目で、外では絶対にあり得ないほど、インターネットの利用や外部との通信が遮断されていて、わたしたちはガチガチに拘束されている。ニュースは新聞からしか見れない。しかも、紙のメディアでだけ! ヤバくない?)そこでは親や家族と連絡を取ることが許されていた。寮監督に内容は見張られているけれど、そこで兄と話す時間だけがわたしの生き甲斐だった。
毎日、部屋に戻る時間ギリギリまで兄と話した。そうしてくれるという約束で、わたしはこの学校に入学した。兄は義理堅いのでよほどのことがない限り、惑星の距離がどれだけ離れていようが、時間を割いてわたしと話してくれていた。最高の時間だった。
普段どれだけ嫌なことがあっても、絶対にバレないように努めて、兄とは楽しいことだけおしゃべりした。学校の中庭にいる猫の話や、その日図書室で読んだ本の話、学食で好きなメニューが出た時のこと。そんな取り止めのない、子供じみた話を、兄は本気で聞いてくれていたのだった。
──それを、よく思わない人がいた。
馬鹿が暴れ出したのは、つい最近の話ではない。もっと前から、そいつはわたしに細やかな嫌がらせをしてきた。
そいつはわたしと同じタイミングで家族とやり取りをしていた女で、どこぞの兵器開発事業をやっている企業の、偉いさんの娘であるらしい。
彼女はあろうことか、わたしがあんな素晴らしい兄を持っていることが気に入らなかったらしい。人の家族に嫉妬するなんて、どんな神経をしているんだか。
……おそらく、普段からわたしの態度が気に入らなくて、そこからなんとか嫌がらせをする名目を探していたに違いないが、それでも理由が馬鹿馬鹿しすぎる。わたしの兄が美しく、公正で、一目見て気に入ってしまうのはわかる。そして、わたしが兄を愛していて、家族以上の情念を向けているということも事実だ。よくぞ、あの短い会話を見ているだけで気づけたな、と思う。
でも、だからといって、わたしを兄と近親相姦しているクソ売女だと吹聴するのは違うんじゃないだろうか。
女どもは、人が恋愛をしている気配というものに恐ろしく敏感だ。
学期に一度ある、保護者を交えた三者面談でわたしの兄が来校した時、学校はにわかにざわめき出した。当然だ。兄はとてつもなく綺麗な顔立ちをしており、なおかつ男盛りを存分に体現していた。
この学校に、若い男はいない。「万が一のこと」があってはいけないと、教師は基本的に女性で、男性の教師は犯罪歴や補導歴のない、既婚の年老いた男性しかおらず、女だらけの動物園では、初老の教師は可愛がられるマスコットと化していた。
ここでは男とは、愛玩と侮蔑の対象であり、恋愛の視線を向けるそれではない。
兄は普段から人目を引くような容貌をしていた。ここにいなくても、兄の透き通るような美しさと、少し陰りのある瞳は、人目を存分に引いている。そんな人が飢えた獣の檻にやってきたら、どうなるかは分かり切っている。
校門までやってきた兄を見て、警備員は誰かの彼氏だと勘違いし、止めてしまったほどだった。
誰の親だ、兄弟だ、と学内は恐ろしくざわついた。わたしは意気揚々と、兄のそばに近寄りわざとらしく腕を組んだ。
「お兄ちゃん、来てくれてありがとう」
なんてことも言ったっけ? とにかく、それでわたしの兄は学校内の「伝説」になり、その妹たるわたしは以後好奇の視線に晒され続けることになる。それが狙いだったとは言わない。けれど、彼が誰のものであるか示しておかないとわたしの気が済まなかった。
気が済まなかったのは、馬鹿女も同じだったらしい。
次の日には、わたしはとんでもないブラザーコンプレックスで、兄とあり得ないほどベチャついているという噂が流れた。……まあ、事実だ。だから黙っていた。わたしは兄が好きで、兄はわたしを妹として最大限に可愛がってくれていたし。全く嘘というわけじゃないから、反論したところで逆効果になるだろう。……それに、わたしも目一杯見せつけてやったぜ、という意識がないわけでもなかったので、その時は噂の波が落ち着くのを待っていた。
問題は、それからしばらく経ってからだった。
全く落ち込む様子のないわたしを見て、向こうは余計に腹が立ったのだろう。兄とわたしが兄妹同士で、その……やることをやっているという、根も葉もない噂を流された。
流石に、その時はもうダメだと思った。それと同時に、わたしだけでなく兄を辱められたことで自分の中の怒りの感情が頂点に達した。
犯人を、探さなくてはいけない。
探してどうするかは全く考えていなかった。少なくとも、その時はまだ一発ぶん殴ってやろうとか暴力に訴えかけることは考えていなくて、録音でもして上の人間に裁いてもらおうと、穏便に考えていたはずだ。
今までつらっとして、平静を装っていたけれど、もう我慢の限界だった。
わたしが犯人探しを始めてから、比較的短期間で犯人は見つかった。あの女が、自ら寮の談話室で犯行内容を自供──自慢しているのをわたしが見つけた。わたしがそれを目の前で聞いていたにもかかわらず、向こうは焦っていなかった。わたしに聞かれようが、どうでもいいと思っていたのだろう。大人しそうだから、反抗しないと思っていたのだろう。だとしたら、それは怠慢で、めちゃくちゃ舐めてるってことで、つまり、大きな間違いだ。
そこからの行動は早かった。午後七時三十分、わたしはその場であのカスを殴りつけた。
後悔はなく、行動は迅速だった。わたしの全体重を乗せた渾身の右ストレートは、ソファの上でふんぞり返って、油断をしていたあの女の頬にまっすぐ突き刺さり、握りしめた拳からは確かに肉と骨を歪ませた実感があった。
わたしはその日、初めて人を殴った。
この行動に関して、わたしは死ぬまで後悔しない。謝ったら許してやるぞと拷問にかけられても決して謝らない。この点において、わたしは昔から頑固だった。
悲鳴が響く。誰かが走って寮監督を呼びに行く。わたしが殴った相手は、目を見開いて口汚い言葉を叫んだ。ああ、まだ喋れるんだ……。わたしはもう一回殴ろうとして、周りの生徒に取り押さえられる。空虚な平和を保っていた生徒寮が、嵐の渦中のようにざわめき出した。
◆
家に帰ってからの兄は、わたしに何も言わなかった。何事もなかったかのように、寮から持って帰ってきた荷物をわたしの部屋に入れると、そのまま仕事に行ってしまった。
しばらく経ってから、世間でいう「夏休み」のシーズンになった。やめた学校からは単位の証明書を取り寄せた。なぜなら、わたしは次の学校を探す必要に迫られているからだ。
わたしはもう、女子校に行くのは嫌だった。だから、それ以外で学校を探すことにした。ネットで中途編入できるところを探していると、兄が仕事から戻ってきた。
「急で悪いが、転職が決まった」
「へぇ……」
わたしは何にも言う事がなかった。兄がどこに勤めていようが、不安定な勤務、不規則な休日、そして、わたしが家で一人寂しく暮らすのはほぼ確定事項だからだ。だから、何にも変わらない。そのくせ、兄は律儀に自分の環境が変わることを教えてくれる。
「ナマエが、会社が運営している学校に秋から転入できるように話をつけてきた」
「……え?」
兄は、わたしの目の前に封筒を差し出してきた。中身はパンフレットと、書類一式。しかも保護者が書く欄は全て記入済みという用意周到さ。
「もう次のところでは、誰とも喧嘩するなよ」
わたしの目を見て、兄はそう言った。拒否権なんてない。わたしの人生は、いっつもこうだ。
◆
人生には、もうどうしようもなくて仕方ないことばっかりだ。
わたしが同級生の女──確か、企業の役員の娘のそばで、いつも金魚のフンみたいにくっついてきた面倒なやつ。名前はもう覚えていない──をぶん殴ったのは、それがどうしても必要なことだったからだ。
仕事で忙しい兄が時折学校に来ては、保護者の顔をして担任の教師と「わたし」の話をする。いつもは保護者の面談やら三者面談やら、わたしの進路の話をするのが常だったが、今回は違った。
わたしと、スーツを着た兄、担任の先生、わたしがぶん殴った女、その保護者一同と学校の校長と理事長は、学長室に集まって面談をする。わたしは最後まで黙っていようと心に誓っていた。
その時は夏真っ盛りという感じの時期だったので、クーラーがガンガンに効いていて、兄は下ろしたてサマースーツを着ていた。
普段仕事で人を殺しまくっているとは思えないほど品が良かった。父兄の鑑というか、顔の傷を除けば、オフィスワークをしているホワイトカラーの、普通のビジネスマンに見えた。そんな兄の姿が誇らしいくらいに美しくて見惚れていたら、凄みのある表情でわたしを見てくれた。見てくれた、というか呆れと怒りとどうしようもなさ、みたいなものを一気に感じさせるような、そんな顔をわたしに向けていた。……たぶん、わたしがこんなバカなことをしでかして、自分の教育を恥じてしまっていたのかもしれない。けれど、その時のわたしはあまりにもガキすぎて、そんなところまで読み取れなかった。
今思えば、わたしは兄の全てを知ろうとしてこうしたのかもしれない。試し行動、ってやつだ。ほら、よく犬がわざとトイレじゃないところでおしっこをしたりするような、幼い子供が気を引くために親に悪戯をするような……。
まあ、こうやってグダグダ喋ってみても、「今となってはこうだったかもしれない」と思うだけなので、これは後付けの理由だ。本当のところ、その時はただムカついて殴っただけ。
学長室で、わたしは徹底的に詰められ、なじられ、どうして同級生を殴ったのかと尋問された。わたしは何を言われても黙っていた。あまりにもわたしが不遜な態度を取っていたので、いつもは温厚な兄も怒り出した。当たり前だ。強化人間の手術を受けてACを乗りこなすような人間が、昼間に呼び出され、わざわざ仕事を休み、妹の起こした不祥事の後始末をさせられているのだから。
「ナマエ、──さんに謝りなさい」
静かな、それでいて厳しい声で言われる。
兄の怒った顔を見たのは、実に数年ぶりだ。兄は滅多なことでは怒らない。皿を割ろうが、アイロンがけしたシャツに焦げ目がついていようが、スーパーで横入りされても絶対に怒らないような人だ。
わたしがどれだけバカなことをしても、他人が傷付かなければ何も言わない。今回は……わたしが初めて人を害したので、今まで見たことのないような形相で怒っているのが見える。深刻な場面であるというのに、わたしはヘラヘラとしていた。怒られても屁でもないという態度をとっていた。兄は、怒りを通り越して、悲しげな表情を浮かべていた。ここに来て、自分の数少ない良心が痛むのを感じる。
向こうの家族は、とんでもない鬼の形相でわたしを見ている。わたしが謝りたいのは、兄に対してだけだ。目の前のクソ女とクソアマを産んだバカな親に対してではない。
わたしは兄のそういうところがとても好きで、大好きで……恋していた。だから今回あいつをぶん殴った。そのことを端折って、少しは話すべきだったかもしれない。けれど、話をしてわたしの恋心が少しでも露見するのをわたしは恐れた。だから、ずっとむっつりと黙っていた。
「自分でやったことも認めないのか……」
──わたしは最後まで、絶対に喋らなかった。ここで謝らなかったところで、兄はわたしを嫌わないだろうという根拠のない自信があった。兄はわたしを絶対に見捨てない。
今考えると、そんな甘ったれたことを言っていないですぐに謝罪すべきだと思うけれど、その時のわたしは本気で謝る気なんてなかった。だって、先に失礼なことを言ってきたのはそっちだし。そんな風に思っていた。
未成年の失敗は親の責任でもある。わたしの代わりに、兄は凄まじい角度で頭を下げ、退学届の「証人」の欄にサインをした。
……ここに来てわたしは少しビビった。たった一発ぶん殴ったくらいで退学になるのか、なんて。
ぶっちゃけ、この学校はつまらなくて仕方がなかった。だからいつ辞めても構わなかった。毎日卒業の日が来るのを指折り数えていたし、家で暇を持て余している間に高校のカリキュラムはほぼ自分で学び終えていた。
今はデジタルラーニングの時代で、通信授業で小学校から大学院までを修了できるのにも関わらず、兄はコミュニケーションの重要さを説いて、わたしを私学のつまらない、カビ臭い女しかいない旧世代型で男女別学で、全寮制の「学園」に入学させた。わたしは直前までずっと抵抗していたが、兄はどうしても譲れないものがあるらしく、わたしを無理やり入学させたのである。……まあ、もう退学するけど。
兄は、帰りの車の中でずっと無言だった。わたしも喋る気にならなかったので、無言で空を見上げていた。やっとこの学校から解放されたと思えば、悪い気持ちではなかった。問題は、わたしがしでかしてしまったことで兄に迷惑をかけたことだ。
……兄は近頃、なんだか忙しそうにしていた。毎日していたビデオ通話も、近頃はあまりしなくなったし。
ようやく、わたしはとんでもないことをしてしまったのだと気付いた。
でも、わたしは後悔しない。あれは絶対に必要なことだったから。わたしだけじゃなくて、あの女はわたしの兄も辱めたから。そう言い聞かせることにして、わたしは静かに目を閉じる。この時間帯の高速道路で、車はとても快適に進んでいく。
◆
わたしがあいつを殴ったのは、本当にどうしようもなく、必要に駆られてしたのだということを弁明したい。
これは言い訳というよりは、記録だ。どうしてこうしてしまったのかという説明だ。この言葉を聞く人はいない。完全にわたしだけの世界。この言葉を、わたしは墓場まで持っていく。
きっかけは、本当に些細なことだった。
今この時代においてわざわざ全寮制の女子だけしかいない、寂れた旧時代型の学舎に入学するのは、良家のお嬢様かどこかの企業の令嬢か、どこかの政治家の娘か、品行が悪すぎて矯正が必要な暴れ馬か、そのどれかだ。ちなみに、わたしはどれにも当てはまらない。まあ所謂……異分子ってやつだ。
つまり、わたしはここでとてつもなく浮いていた。成績こそ上位をキープするように自習に励んでいたけれど、友達らしい友達一人作れなかった。勉強しかしないガリ勉、というのが多分周りから見たわたしだったに違いない。
この学校では、寄付金さえ納めれば思想犯の娘であろうがスラム出身の戸籍すら不確かなガキであろうが、平等に教育を受ける機会を得る。しかも、セキュリティはガチガチで、父兄であっても訪問するのに一定の審査が必要になる。そういうところをウリにしていることもあってか、ここにはどこぞの企業の役員の娘と、どこぞの活動家の身内なんかが一緒に机を並べて勉強していて……なんというか、不思議な空気が漂っていた。
わたしなんかはお世辞にも育ちがいいとは言えないし、兄から受けた最低限の礼儀と教育以外は何も持ち合わせていなかったので、とてつもなく、蚊帳の外にいた。
学校ではいろんな女子がそれぞれ小規模のグループを作ってつるんでいたけれど、わたしはそのどこにも居場所のない、はみ出しっ子だった。いじめられはしないけれど、「いないもの」としてカウントされる。……普通の学校ならいざ知らず、全寮制の学校でぼっちになるのは、流石のわたしでも中々堪えた。
そんな中で、わたしが心の支えにしていたのは兄とのビデオ通話だ。寮の談話室の奥には自由に外の情報とアクセスできる端末が置かれており、(この学校は、わたしたちの『安全』をあらゆる面から守るという名目で、外では絶対にあり得ないほど、インターネットの利用や外部との通信が遮断されていて、わたしたちはガチガチに拘束されている。ニュースは新聞からしか見れない。しかも、紙のメディアでだけ! ヤバくない?)そこでは親や家族と連絡を取ることが許されていた。寮監督に内容は見張られているけれど、そこで兄と話す時間だけがわたしの生き甲斐だった。
毎日、部屋に戻る時間ギリギリまで兄と話した。そうしてくれるという約束で、わたしはこの学校に入学した。兄は義理堅いのでよほどのことがない限り、惑星の距離がどれだけ離れていようが、時間を割いてわたしと話してくれていた。最高の時間だった。
普段どれだけ嫌なことがあっても、絶対にバレないように努めて、兄とは楽しいことだけおしゃべりした。学校の中庭にいる猫の話や、その日図書室で読んだ本の話、学食で好きなメニューが出た時のこと。そんな取り止めのない、子供じみた話を、兄は本気で聞いてくれていたのだった。
──それを、よく思わない人がいた。
馬鹿が暴れ出したのは、つい最近の話ではない。もっと前から、そいつはわたしに細やかな嫌がらせをしてきた。
そいつはわたしと同じタイミングで家族とやり取りをしていた女で、どこぞの兵器開発事業をやっている企業の、偉いさんの娘であるらしい。
彼女はあろうことか、わたしがあんな素晴らしい兄を持っていることが気に入らなかったらしい。人の家族に嫉妬するなんて、どんな神経をしているんだか。
……おそらく、普段からわたしの態度が気に入らなくて、そこからなんとか嫌がらせをする名目を探していたに違いないが、それでも理由が馬鹿馬鹿しすぎる。わたしの兄が美しく、公正で、一目見て気に入ってしまうのはわかる。そして、わたしが兄を愛していて、家族以上の情念を向けているということも事実だ。よくぞ、あの短い会話を見ているだけで気づけたな、と思う。
でも、だからといって、わたしを兄と近親相姦しているクソ売女だと吹聴するのは違うんじゃないだろうか。
女どもは、人が恋愛をしている気配というものに恐ろしく敏感だ。
学期に一度ある、保護者を交えた三者面談でわたしの兄が来校した時、学校はにわかにざわめき出した。当然だ。兄はとてつもなく綺麗な顔立ちをしており、なおかつ男盛りを存分に体現していた。
この学校に、若い男はいない。「万が一のこと」があってはいけないと、教師は基本的に女性で、男性の教師は犯罪歴や補導歴のない、既婚の年老いた男性しかおらず、女だらけの動物園では、初老の教師は可愛がられるマスコットと化していた。
ここでは男とは、愛玩と侮蔑の対象であり、恋愛の視線を向けるそれではない。
兄は普段から人目を引くような容貌をしていた。ここにいなくても、兄の透き通るような美しさと、少し陰りのある瞳は、人目を存分に引いている。そんな人が飢えた獣の檻にやってきたら、どうなるかは分かり切っている。
校門までやってきた兄を見て、警備員は誰かの彼氏だと勘違いし、止めてしまったほどだった。
誰の親だ、兄弟だ、と学内は恐ろしくざわついた。わたしは意気揚々と、兄のそばに近寄りわざとらしく腕を組んだ。
「お兄ちゃん、来てくれてありがとう」
なんてことも言ったっけ? とにかく、それでわたしの兄は学校内の「伝説」になり、その妹たるわたしは以後好奇の視線に晒され続けることになる。それが狙いだったとは言わない。けれど、彼が誰のものであるか示しておかないとわたしの気が済まなかった。
気が済まなかったのは、馬鹿女も同じだったらしい。
次の日には、わたしはとんでもないブラザーコンプレックスで、兄とあり得ないほどベチャついているという噂が流れた。……まあ、事実だ。だから黙っていた。わたしは兄が好きで、兄はわたしを妹として最大限に可愛がってくれていたし。全く嘘というわけじゃないから、反論したところで逆効果になるだろう。……それに、わたしも目一杯見せつけてやったぜ、という意識がないわけでもなかったので、その時は噂の波が落ち着くのを待っていた。
問題は、それからしばらく経ってからだった。
全く落ち込む様子のないわたしを見て、向こうは余計に腹が立ったのだろう。兄とわたしが兄妹同士で、その……やることをやっているという、根も葉もない噂を流された。
流石に、その時はもうダメだと思った。それと同時に、わたしだけでなく兄を辱められたことで自分の中の怒りの感情が頂点に達した。
犯人を、探さなくてはいけない。
探してどうするかは全く考えていなかった。少なくとも、その時はまだ一発ぶん殴ってやろうとか暴力に訴えかけることは考えていなくて、録音でもして上の人間に裁いてもらおうと、穏便に考えていたはずだ。
今までつらっとして、平静を装っていたけれど、もう我慢の限界だった。
わたしが犯人探しを始めてから、比較的短期間で犯人は見つかった。あの女が、自ら寮の談話室で犯行内容を自供──自慢しているのをわたしが見つけた。わたしがそれを目の前で聞いていたにもかかわらず、向こうは焦っていなかった。わたしに聞かれようが、どうでもいいと思っていたのだろう。大人しそうだから、反抗しないと思っていたのだろう。だとしたら、それは怠慢で、めちゃくちゃ舐めてるってことで、つまり、大きな間違いだ。
そこからの行動は早かった。午後七時三十分、わたしはその場であのカスを殴りつけた。
後悔はなく、行動は迅速だった。わたしの全体重を乗せた渾身の右ストレートは、ソファの上でふんぞり返って、油断をしていたあの女の頬にまっすぐ突き刺さり、握りしめた拳からは確かに肉と骨を歪ませた実感があった。
わたしはその日、初めて人を殴った。
この行動に関して、わたしは死ぬまで後悔しない。謝ったら許してやるぞと拷問にかけられても決して謝らない。この点において、わたしは昔から頑固だった。
悲鳴が響く。誰かが走って寮監督を呼びに行く。わたしが殴った相手は、目を見開いて口汚い言葉を叫んだ。ああ、まだ喋れるんだ……。わたしはもう一回殴ろうとして、周りの生徒に取り押さえられる。空虚な平和を保っていた生徒寮が、嵐の渦中のようにざわめき出した。
◆
家に帰ってからの兄は、わたしに何も言わなかった。何事もなかったかのように、寮から持って帰ってきた荷物をわたしの部屋に入れると、そのまま仕事に行ってしまった。
しばらく経ってから、世間でいう「夏休み」のシーズンになった。やめた学校からは単位の証明書を取り寄せた。なぜなら、わたしは次の学校を探す必要に迫られているからだ。
わたしはもう、女子校に行くのは嫌だった。だから、それ以外で学校を探すことにした。ネットで中途編入できるところを探していると、兄が仕事から戻ってきた。
「急で悪いが、転職が決まった」
「へぇ……」
わたしは何にも言う事がなかった。兄がどこに勤めていようが、不安定な勤務、不規則な休日、そして、わたしが家で一人寂しく暮らすのはほぼ確定事項だからだ。だから、何にも変わらない。そのくせ、兄は律儀に自分の環境が変わることを教えてくれる。
「ナマエが、会社が運営している学校に秋から転入できるように話をつけてきた」
「……え?」
兄は、わたしの目の前に封筒を差し出してきた。中身はパンフレットと、書類一式。しかも保護者が書く欄は全て記入済みという用意周到さ。
「もう次のところでは、誰とも喧嘩するなよ」
わたしの目を見て、兄はそう言った。拒否権なんてない。わたしの人生は、いっつもこうだ。