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わたしが煙草の匂いを嫌がるのと同時に、兄は禁煙した。自分は兄を恋愛的な意味で好きだということを自覚した時、兄は煙草をやめていた。
◆
たった今、兄はわたしを置いて部屋から出て行った。社宅に兄妹二人でで住んでいるのはわたし達だけで、それは珍しい状況で、近所の人たちの間でそこそこ話題になっている……らしい。今時、戦災孤児同士の寄り合いなんて珍しくないだろうに。宇宙開発なんて行うような大企業に勤めている人たちとわたしとでは、見ているものが違いすぎるのかもしれない。
兄が出て行った伽藍堂の部屋で、やることといえば細々とした家事と、通信教育で受けている大学のカリキュラムをこなすことだけだった。
さっきまでソファで寝っ転がりながら新聞を読んでいたが、どれもこれも自分とは関わりのない大きな世界の出来事のように思えて、読んでいて特に面白さを感じることはできなかった。
起き上がってテーブルの上を見ると、兄が作って置いて行った朝ご飯と、一週間ほど留守にするといったメモがあった。兄はああ見えて几帳面な人で、目玉焼きもきちんと、わたし好みのターンオーバーで作ってくれている。わたしは本当はスクランブルエッグが好きなんだけど、兄は目玉焼きを作りたがる。卵なんてどれも一緒だと言って、彼は笑う。わたしはどうにも言い返せなくなる。
……カーテンを開けて、陽の光を室内に入れるべきなのかもしれない。
それでも、わたしはカーテンを開けたくなかった。高層階に位置するわたしたちの部屋は、窓から見下ろすと見たくもない、企業に支配された地上が嫌というほど見えてしまう。ここだってその巨大な巣の一つなのに、どうしてもわたしはそれを認めたくなくて、光を閉ざす。まだ午前中だというのに蛍光灯の光が、わたしの頭上で輝いている。兄のいないこの部屋は、どうしようもなく居心地が悪い。
ラップを剥がす、白い皿に盛り付けられたサラダと、目玉焼きと、冷めたベーコンを一気にかき込む。わたしはおよそ文明人がやらないであろう、テーブルマナーを全て捨てて栄養の摂取だけを目的とした、グロテスクな食事を終える。こんなみっともない姿を兄が見たら幻滅するだろう。でも、彼のいない食卓なんて、意味なんてないんだから。
わたしは極めて冷静だ。寝起きであるが脳は冴えわたっている。新聞の内容を読んで理解することができるし、時計を見て時刻を知ることもできる。今が何時何分で、今日の日付がいつであるかもしっかりと理解している。大丈夫、大丈夫、わたしはお兄ちゃんがいなくてもちゃんとできてる。オッケー、深呼吸しよう。食器を食洗機に入れて、顔を洗って歯も磨こう。わたしは大丈夫、大丈夫だから。冷静であれ、クールに行こう。お兄ちゃんがいなくてもちゃんとできてるんだってば! お兄ちゃんを心配させないようにしようね。そうしないと、そばに置いてもらえなくなるでしょ。
◆
煙草を吸わなくなった兄と入れ替わるように、わたしは電子煙草に手を伸ばす。今日は甘いフレーバーがいい。これを吸うと脳がスッとする。兄はこんな甘ったるいものを吸わなかったはずだ。彼から香ってきたのは、もっと鼻につくような、パンチのあるどっしりとした匂い。それこそ大人の男の人とでもいうような香りだった。
人に禁煙を求めておいて、わたしだけこんなことをしているのは罪悪感がある。昔、煙草の煙でむせていたわたしを見かねて、兄は「自主的に」禁煙したのだと言っていたが、自主的もなにも、わたしがそうさせてしまったようなものだった。
わたし達が出会ってまもない時、兄がふざけてわたしの顔に煙草の煙を吹きかけていた。当時のわたしは幼くて、それが意味するところを理解していなかった。今になっては、とんでもないことをしてくれたなと思うけれど、兄は恐らくその行為が意味するところを知らなかったのだろう。ただ単に、煙に咽せるわたしを見て面白がっていただけだ。
──煙を肺に吸い込んでいると、そんな昔話を思い出してしまう。一応、喫煙の習慣は兄に隠しているつもりだけど、きっと目敏い彼のことだからとっくに見抜いているだろう。自分も昔はしていたことだからと黙って見ているだけだ。
兄に何もかも見透かされていると考えると、嬉しくなる。
わたしは兄に全ての身を任せたい。……そんなことまで考えてしまうわたしは異常者でしょうか。それとも、あんな美しい人を独占しているわたしには、いつか天罰が下るのでしょうか。
……兄に捨てられたら、わたしは生きていけない。彼を失えば、もう生きている意味がない。
恐らく、わたしは近い将来彼に見捨てられるだろう。
そんな予感がして、胸の奥がドクンと脈打つ。兄が何を考えてどう生きているのか、近くにいるわたしでも皆目見当がつかない。人間は予感できないものに恐怖を覚える生き物……らしい。わたしは兄のことをよく理解していないから、怖がってしまうんだろうか。
兄はしっかりしているくせにどこかふわふわとしているような人だった。いつだってわたしの前を歩き、導いてはくれるけれど責任は取ってくれない。わたしの落とし前は自分でつけなさい、と言ってわたしを突き放す。わたしが時々、こんなくだらない妄想に取り憑かれておかしくなるのも、どうしてもニコチンに頼ってしまうのは、そんな人を好きになってしまっているからだ。
旧時代的な葉巻やシガレットではなく、電子タバコを使っているのは、たぶん……逃げ。そして節約も兼ねている。ここでは、物資はなんでも貴重品だ。こうやってわたしは兄の給料で養われているのだから、あんまり贅沢を言ってはいけない気がして。こうしてちまちまとお小遣いで嗜好品を購入して、隠れて吸っている。わたしだってもう成人しているのに。反抗期の子供みたいで、格好悪い。
兄はそこまで愛煙家というわけではなかったけれど、わたし達が出会った頃はよく付き合いで煙草を嗜んでいた。その時のことは、辛い思いでもあるからはっきりとは思い出せない。しかし五感というものは恐ろしいもので、匂いだけははっきりと思い出せた。抱きついた時にふわりと香る、少しうっとするような大人の匂い。兄はそんな人だった。
恐ろしいまでに、わたしより大人だった。年はそれなりに離れていたけれど、出会った時は今のわたしの年齢と大して変わらない。だから、余計に怖かった。愛しているのに、好きな人のことが途轍もなく怖い相手のように思える。
彼が何を思って、なんの仕事をしているのか、わたしはよく知らない。
ただ、疲れて帰ってきた兄が、ボロボロのソファに座ってわたしの頭を撫でてくれたこと、無性にキッチンをきれいに使おうとしていたこと、それだけは嫌に鮮明に覚えている。それ以外は、よく覚えていない。あの時は、兄もわたしも苦労していたから。思い出しても、何もいいことがないから。兄はわたしが不安がるとそう言って宥めてくれた。頭を撫でて、抱きしめてくれる手つきだけは、幾つ年を重ねても変わらない。兄は、そういうところだけが相変わらず不変だった。その他は……色々と変わってしまったけれど。
ストロベリーの甘ったるい匂いが気管を通り抜けて、生ぬるい風を肺に送り込んでくる。そんな風にしていると、わたしはとてつもなくセンチな気持ちになってしまう。
◆
「お兄ちゃん」
「……ん」
「助けて」
「……こっちにおいで」
兄はわたしの手に触れる。
「……なんだか、甘ったるい匂いがする」
「どういう意味?」
「…………どうだろうね」
兄は時々、ひどく意味深だ。
午前三時。わたしは兄の部屋に侵入すると、彼を揺さぶって起こした。兄は仕事の影響で夕方過ぎから泥のように眠っていた。わたしの方はというと、睡眠薬を用法以上飲んだせいか、くだらない悪夢を見てしまった。……それはいつものこと。わたしの子供じみた甘えを受け入れて、兄は毛布を広げてベッドにスペースを空けてくれる。そこに冒険家のように潜り込むと、兄は自然にわたしを抱き止めてくれた。
「どうした? 悪い夢でも見たのかな」
兄の細長い指で頭を撫でられていると、自分がこんなことでヒステリーを起こしていることが情けなく感じられてくる。そして少し…………死にたくなる。
「そうかも。でも、そうじゃないかも」
「もう大丈夫だからな」
ごめんなさい。嘘です。ごめんなさい。わたしは脳内で必死に呟く。息を張り詰めていなければ、口から漏れ出そうだった。
こんなに素晴らしい人を独占して、わたしはいつか罰が下されてしまう。いつか兄に恋人ができた時……わたしはきっと耐えきれなくなって死ぬだろう。兄がわたしよりも優先するものができた時も、同じことをする気がする。前者はともかく……後者はあり得てしまうから恐ろしい。
兄はわたしの見えていないような、遥か遠くを見渡しているような人だ。そんな人が、わたしよりも大事にしているものなんて、もうあっていてもおかしくない。言葉にしていないだけできっともう、そうなんだろうな。わたしは心の奥底で考えている。
──大丈夫って、何だっけ。
兄が呪文を唱えるようにわたしに囁きかける。もう大丈夫? 何が大丈夫なの? あなたはわたしになにか隠しているんじゃないの? いつ死んでもおかしくない仕事をしているくせに、よくそんなことをぬけぬけと言えたものだ。わたしが毎日どれだけ不安で、恐ろしくて、そのせいで何も手につかなくなっているのに、この人だけは自由に……わたしの知らない顔をいくつも持っている。わたしには彼しかいないのに。いっそのこと、不確かな言葉を吐いては傷つけてみたくなる。
わたしはたしかに情緒不安定で、癇癪持ちで、どうしようもなく普通のラインから外れているけれど、兄だけは何がなんでも傷つけたくなくて、必死に抑えていた。……彼は優しいから、わたしが暴れようが、物をめちゃくちゃに壊してしまおうが、全て許すだろう。そして……自分の監督不行届を詫びるはずだ。
今口を開いたら、とてつもない罵詈雑言が飛び出してしまいそうだ。わたしは兄を傷つけたい。自分が心の中にそんな恐ろしい感情を飼い殺していると考えると、今すぐにでも飛び降りたくなって……ダメだ。今死んだら、お兄ちゃんが悲しむ。
「お兄ちゃん……勝手に死んだら許さないからね」
わたしを置いて寝てしまった兄の首にそっと手をかける。寝息が静かすぎて、眠っているというより死体を相手にしているみたいだ。
妄想は止まらない。また変なことばかり考えてしまう。
わたしは思わずポケットに手を伸ばす。そこには電子煙草がある。寝煙草は良くないからね。そうやって言われたわけではないけれど、幼い子供に言い聞かせるようにわたしに教える兄の声が脳裏を掠めた。
今思えば、煙草は緩やかな自殺だ。わたしは兄を取られたくなくて必死で、特段気管支が弱いわけではないのに、あの時必死で兄の前でむせていたのかもしれない。体が弱いと嘘をついて、必死で気を引いて、なんだかバカみたいだ。
今、少しでも手に力を加えれば……ほら、すぐにでも殺してしまえる。男女の力の差はあれど、無防備な寝顔を晒している相手を殺すのはそこまで難しくないかもしれない……。
わたしは人を殺したことはないけれど、兄はもう大勢を手にかけている。わたしには決して仕事の話はしないけれど、毎日ニュースでも見ていれば、血生臭い仕事で大勢人が死んでいることくらいバカな子供でもわかる。…………わたしの兄は人殺しだ。それで金を稼ぎ、わたしを養っている。
唐突に考えが浮かんだ。
兄がわたしを裏切るようなことがあったら、その時はこの手で殺そう。
兄は優しいから、わたしがそんな恐ろしいことを考えているなんて、きっと知らないはずだ。
兄は聡い上に何かを隠している。秘密とわたし、どちらを選ぶか考えなくても答えはわかる。わたしの代わりはいても、兄の代わりはいない。
もし、わたしは兄のそばにいられなくなったら……とっておきの方法で死んでやろう。でも、その日が訪れて否応なく別れてしまうまでは、死んでもこの人のそばを離れない。それまではずっと、あなたが嫌だと拒否するまで、お兄ちゃんと呼ばせてほしい。どれだけ子供じみていようが、それだけは、お願いだから。
──そんなことを考えながら、わたしは兄の首を撫でる。寝顔だけは子供みたいな顔をして、くすぐったそうに身を捩る姿を見て、密かに背中を駆け上がる感覚が脳を過った。……今はまだ、その時じゃない。
翌日、わたしが目を覚ますと兄はとっくに出かけてしまっていた。いつものことだ。睡眠薬と頓服薬を併用すれば、人工的に作り出した眠気で昼前まで眠ってしまうことになる。
机の上の書き置きを見る。
「煙草はほどほどにしておくこと」
今度はわたしが禁煙する番かもしれない。
◆
たった今、兄はわたしを置いて部屋から出て行った。社宅に兄妹二人でで住んでいるのはわたし達だけで、それは珍しい状況で、近所の人たちの間でそこそこ話題になっている……らしい。今時、戦災孤児同士の寄り合いなんて珍しくないだろうに。宇宙開発なんて行うような大企業に勤めている人たちとわたしとでは、見ているものが違いすぎるのかもしれない。
兄が出て行った伽藍堂の部屋で、やることといえば細々とした家事と、通信教育で受けている大学のカリキュラムをこなすことだけだった。
さっきまでソファで寝っ転がりながら新聞を読んでいたが、どれもこれも自分とは関わりのない大きな世界の出来事のように思えて、読んでいて特に面白さを感じることはできなかった。
起き上がってテーブルの上を見ると、兄が作って置いて行った朝ご飯と、一週間ほど留守にするといったメモがあった。兄はああ見えて几帳面な人で、目玉焼きもきちんと、わたし好みのターンオーバーで作ってくれている。わたしは本当はスクランブルエッグが好きなんだけど、兄は目玉焼きを作りたがる。卵なんてどれも一緒だと言って、彼は笑う。わたしはどうにも言い返せなくなる。
……カーテンを開けて、陽の光を室内に入れるべきなのかもしれない。
それでも、わたしはカーテンを開けたくなかった。高層階に位置するわたしたちの部屋は、窓から見下ろすと見たくもない、企業に支配された地上が嫌というほど見えてしまう。ここだってその巨大な巣の一つなのに、どうしてもわたしはそれを認めたくなくて、光を閉ざす。まだ午前中だというのに蛍光灯の光が、わたしの頭上で輝いている。兄のいないこの部屋は、どうしようもなく居心地が悪い。
ラップを剥がす、白い皿に盛り付けられたサラダと、目玉焼きと、冷めたベーコンを一気にかき込む。わたしはおよそ文明人がやらないであろう、テーブルマナーを全て捨てて栄養の摂取だけを目的とした、グロテスクな食事を終える。こんなみっともない姿を兄が見たら幻滅するだろう。でも、彼のいない食卓なんて、意味なんてないんだから。
わたしは極めて冷静だ。寝起きであるが脳は冴えわたっている。新聞の内容を読んで理解することができるし、時計を見て時刻を知ることもできる。今が何時何分で、今日の日付がいつであるかもしっかりと理解している。大丈夫、大丈夫、わたしはお兄ちゃんがいなくてもちゃんとできてる。オッケー、深呼吸しよう。食器を食洗機に入れて、顔を洗って歯も磨こう。わたしは大丈夫、大丈夫だから。冷静であれ、クールに行こう。お兄ちゃんがいなくてもちゃんとできてるんだってば! お兄ちゃんを心配させないようにしようね。そうしないと、そばに置いてもらえなくなるでしょ。
◆
煙草を吸わなくなった兄と入れ替わるように、わたしは電子煙草に手を伸ばす。今日は甘いフレーバーがいい。これを吸うと脳がスッとする。兄はこんな甘ったるいものを吸わなかったはずだ。彼から香ってきたのは、もっと鼻につくような、パンチのあるどっしりとした匂い。それこそ大人の男の人とでもいうような香りだった。
人に禁煙を求めておいて、わたしだけこんなことをしているのは罪悪感がある。昔、煙草の煙でむせていたわたしを見かねて、兄は「自主的に」禁煙したのだと言っていたが、自主的もなにも、わたしがそうさせてしまったようなものだった。
わたし達が出会ってまもない時、兄がふざけてわたしの顔に煙草の煙を吹きかけていた。当時のわたしは幼くて、それが意味するところを理解していなかった。今になっては、とんでもないことをしてくれたなと思うけれど、兄は恐らくその行為が意味するところを知らなかったのだろう。ただ単に、煙に咽せるわたしを見て面白がっていただけだ。
──煙を肺に吸い込んでいると、そんな昔話を思い出してしまう。一応、喫煙の習慣は兄に隠しているつもりだけど、きっと目敏い彼のことだからとっくに見抜いているだろう。自分も昔はしていたことだからと黙って見ているだけだ。
兄に何もかも見透かされていると考えると、嬉しくなる。
わたしは兄に全ての身を任せたい。……そんなことまで考えてしまうわたしは異常者でしょうか。それとも、あんな美しい人を独占しているわたしには、いつか天罰が下るのでしょうか。
……兄に捨てられたら、わたしは生きていけない。彼を失えば、もう生きている意味がない。
恐らく、わたしは近い将来彼に見捨てられるだろう。
そんな予感がして、胸の奥がドクンと脈打つ。兄が何を考えてどう生きているのか、近くにいるわたしでも皆目見当がつかない。人間は予感できないものに恐怖を覚える生き物……らしい。わたしは兄のことをよく理解していないから、怖がってしまうんだろうか。
兄はしっかりしているくせにどこかふわふわとしているような人だった。いつだってわたしの前を歩き、導いてはくれるけれど責任は取ってくれない。わたしの落とし前は自分でつけなさい、と言ってわたしを突き放す。わたしが時々、こんなくだらない妄想に取り憑かれておかしくなるのも、どうしてもニコチンに頼ってしまうのは、そんな人を好きになってしまっているからだ。
旧時代的な葉巻やシガレットではなく、電子タバコを使っているのは、たぶん……逃げ。そして節約も兼ねている。ここでは、物資はなんでも貴重品だ。こうやってわたしは兄の給料で養われているのだから、あんまり贅沢を言ってはいけない気がして。こうしてちまちまとお小遣いで嗜好品を購入して、隠れて吸っている。わたしだってもう成人しているのに。反抗期の子供みたいで、格好悪い。
兄はそこまで愛煙家というわけではなかったけれど、わたし達が出会った頃はよく付き合いで煙草を嗜んでいた。その時のことは、辛い思いでもあるからはっきりとは思い出せない。しかし五感というものは恐ろしいもので、匂いだけははっきりと思い出せた。抱きついた時にふわりと香る、少しうっとするような大人の匂い。兄はそんな人だった。
恐ろしいまでに、わたしより大人だった。年はそれなりに離れていたけれど、出会った時は今のわたしの年齢と大して変わらない。だから、余計に怖かった。愛しているのに、好きな人のことが途轍もなく怖い相手のように思える。
彼が何を思って、なんの仕事をしているのか、わたしはよく知らない。
ただ、疲れて帰ってきた兄が、ボロボロのソファに座ってわたしの頭を撫でてくれたこと、無性にキッチンをきれいに使おうとしていたこと、それだけは嫌に鮮明に覚えている。それ以外は、よく覚えていない。あの時は、兄もわたしも苦労していたから。思い出しても、何もいいことがないから。兄はわたしが不安がるとそう言って宥めてくれた。頭を撫でて、抱きしめてくれる手つきだけは、幾つ年を重ねても変わらない。兄は、そういうところだけが相変わらず不変だった。その他は……色々と変わってしまったけれど。
ストロベリーの甘ったるい匂いが気管を通り抜けて、生ぬるい風を肺に送り込んでくる。そんな風にしていると、わたしはとてつもなくセンチな気持ちになってしまう。
◆
「お兄ちゃん」
「……ん」
「助けて」
「……こっちにおいで」
兄はわたしの手に触れる。
「……なんだか、甘ったるい匂いがする」
「どういう意味?」
「…………どうだろうね」
兄は時々、ひどく意味深だ。
午前三時。わたしは兄の部屋に侵入すると、彼を揺さぶって起こした。兄は仕事の影響で夕方過ぎから泥のように眠っていた。わたしの方はというと、睡眠薬を用法以上飲んだせいか、くだらない悪夢を見てしまった。……それはいつものこと。わたしの子供じみた甘えを受け入れて、兄は毛布を広げてベッドにスペースを空けてくれる。そこに冒険家のように潜り込むと、兄は自然にわたしを抱き止めてくれた。
「どうした? 悪い夢でも見たのかな」
兄の細長い指で頭を撫でられていると、自分がこんなことでヒステリーを起こしていることが情けなく感じられてくる。そして少し…………死にたくなる。
「そうかも。でも、そうじゃないかも」
「もう大丈夫だからな」
ごめんなさい。嘘です。ごめんなさい。わたしは脳内で必死に呟く。息を張り詰めていなければ、口から漏れ出そうだった。
こんなに素晴らしい人を独占して、わたしはいつか罰が下されてしまう。いつか兄に恋人ができた時……わたしはきっと耐えきれなくなって死ぬだろう。兄がわたしよりも優先するものができた時も、同じことをする気がする。前者はともかく……後者はあり得てしまうから恐ろしい。
兄はわたしの見えていないような、遥か遠くを見渡しているような人だ。そんな人が、わたしよりも大事にしているものなんて、もうあっていてもおかしくない。言葉にしていないだけできっともう、そうなんだろうな。わたしは心の奥底で考えている。
──大丈夫って、何だっけ。
兄が呪文を唱えるようにわたしに囁きかける。もう大丈夫? 何が大丈夫なの? あなたはわたしになにか隠しているんじゃないの? いつ死んでもおかしくない仕事をしているくせに、よくそんなことをぬけぬけと言えたものだ。わたしが毎日どれだけ不安で、恐ろしくて、そのせいで何も手につかなくなっているのに、この人だけは自由に……わたしの知らない顔をいくつも持っている。わたしには彼しかいないのに。いっそのこと、不確かな言葉を吐いては傷つけてみたくなる。
わたしはたしかに情緒不安定で、癇癪持ちで、どうしようもなく普通のラインから外れているけれど、兄だけは何がなんでも傷つけたくなくて、必死に抑えていた。……彼は優しいから、わたしが暴れようが、物をめちゃくちゃに壊してしまおうが、全て許すだろう。そして……自分の監督不行届を詫びるはずだ。
今口を開いたら、とてつもない罵詈雑言が飛び出してしまいそうだ。わたしは兄を傷つけたい。自分が心の中にそんな恐ろしい感情を飼い殺していると考えると、今すぐにでも飛び降りたくなって……ダメだ。今死んだら、お兄ちゃんが悲しむ。
「お兄ちゃん……勝手に死んだら許さないからね」
わたしを置いて寝てしまった兄の首にそっと手をかける。寝息が静かすぎて、眠っているというより死体を相手にしているみたいだ。
妄想は止まらない。また変なことばかり考えてしまう。
わたしは思わずポケットに手を伸ばす。そこには電子煙草がある。寝煙草は良くないからね。そうやって言われたわけではないけれど、幼い子供に言い聞かせるようにわたしに教える兄の声が脳裏を掠めた。
今思えば、煙草は緩やかな自殺だ。わたしは兄を取られたくなくて必死で、特段気管支が弱いわけではないのに、あの時必死で兄の前でむせていたのかもしれない。体が弱いと嘘をついて、必死で気を引いて、なんだかバカみたいだ。
今、少しでも手に力を加えれば……ほら、すぐにでも殺してしまえる。男女の力の差はあれど、無防備な寝顔を晒している相手を殺すのはそこまで難しくないかもしれない……。
わたしは人を殺したことはないけれど、兄はもう大勢を手にかけている。わたしには決して仕事の話はしないけれど、毎日ニュースでも見ていれば、血生臭い仕事で大勢人が死んでいることくらいバカな子供でもわかる。…………わたしの兄は人殺しだ。それで金を稼ぎ、わたしを養っている。
唐突に考えが浮かんだ。
兄がわたしを裏切るようなことがあったら、その時はこの手で殺そう。
兄は優しいから、わたしがそんな恐ろしいことを考えているなんて、きっと知らないはずだ。
兄は聡い上に何かを隠している。秘密とわたし、どちらを選ぶか考えなくても答えはわかる。わたしの代わりはいても、兄の代わりはいない。
もし、わたしは兄のそばにいられなくなったら……とっておきの方法で死んでやろう。でも、その日が訪れて否応なく別れてしまうまでは、死んでもこの人のそばを離れない。それまではずっと、あなたが嫌だと拒否するまで、お兄ちゃんと呼ばせてほしい。どれだけ子供じみていようが、それだけは、お願いだから。
──そんなことを考えながら、わたしは兄の首を撫でる。寝顔だけは子供みたいな顔をして、くすぐったそうに身を捩る姿を見て、密かに背中を駆け上がる感覚が脳を過った。……今はまだ、その時じゃない。
翌日、わたしが目を覚ますと兄はとっくに出かけてしまっていた。いつものことだ。睡眠薬と頓服薬を併用すれば、人工的に作り出した眠気で昼前まで眠ってしまうことになる。
机の上の書き置きを見る。
「煙草はほどほどにしておくこと」
今度はわたしが禁煙する番かもしれない。