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6
訓練を終える頃にはどっぷりと日が暮れていた。
宿舎に戻ってシャワーを浴びて、さして不味くもおいしくもない飯をかき込んで、あとは潰れたように眠るだけの生活がしばらく続いた。
新人のうちはとにかく忙しい。昇進すればこれ以上だとも聞く。どちらにしろ、軍人という職業が過酷な生活であることには違いない。結局、レッドガンの体質がいつまで経っても変わらないのは人手不足が全てなのだと、全員が同じ結論に達するのには時間が掛からなかった。
そのような生活の中で、二人はほとんど付きっきりだった。
マンツーマンという関係の中、メンターと新人が顔を突き合わせてひたすら訓練に励む。相手の指示で動くという行為に体が慣れてくると、次第に次になにをすればいいのか理解できるようになる。
ヴィクトリアの指導は、集団の統率を取るというよりは、一人の人間を観察してコーディネートするコーチの役割で本領を発揮するタイプだとイグアスは理解した。理解して、実力を肌で実感してからは超えてみたくなった。
打ち立てられたレコードを破り、最速に到達する。
やる気を見せた生徒の様子を見て、彼女は喜ばしいことだと思った。
しかし、理想はあくまで理想に過ぎない。
描いた理想を前に敗北することの方が多い。
目標のタイムに到達せず三日目を終えたその晩、耐えきれずイグアスは壁を蹴った。
「三日で……できなかった」
「あぁ。そのことで、反省会がしたいって?」
「お前はやったんだろ。できたんだろ」
「……あ、さてはログを見たか。まぁ聞きなさい、前提条件が違うでしょ」
イグアスと同じ時間に、偶然食堂で居合わせたヴィクトリアは、仕事モードをすっかりオフにしている様子で、鬱陶しそうにしていたが、それでも構わずイグアスは話を続ける。
「なにも違わねえだろ。同じ訓練で、同じ飯を食って……同じ世代の手術を受けた。どこが違うってんだ」
「それは掃除の時にでも言ってよ。……てか、こんな人が多いところで話しかけたらあんたの同期がからかってくるでしょ。それでも大丈夫なわけ?」
「そんなクソどうでもいいことを、わざわざ気にしてんのか?」
「面倒な要素はできるだけカットする。わたしは耳がいいから。あんたらのうるさい声も全部聞こえんの、わかる? いい加減食ってる時くらいリラックスさせてよ。……休み時間に教師に質問する生徒みたい」
「俺に期待してたんじゃないのか」
「見積もりより高く目標を設定して、超えれたら御の字──それくらいだけどね」
「馬鹿にしてんのかって、聞いてんだよ」
「違う違う、わたしは元々アマチュアで競技用のACに乗ってたから。だから本来の意味の素人じゃないの。何もかも初心者のあんたと一緒にしたら、それこそおかしいでしょ」
ヴィクトリアは、水を一杯飲み干すと、じっとイグアスの顔を見上げた。全く動じていないどころか、初対面の時と同じような気だるげな表情で見つめてくるあたりが、神経に障る。
「あんた、多分今めちゃくちゃ調子悪いんだって。手術の後遺症で情緒不安定になってる。食い終わったら医務室にでも行って来たら?」
「…………」
「あのさぁ、上手くいかなかったからってこっちに八つ当たりすんの、マジでダサいからやめろっつってんだけど」
正論だった。言い返す言葉が見つからない。
大声で騒いだせいで周囲の視線が突き刺すように、痛い。
イグアスは、喉だけでなく自分の足が震えているのだと思った。
この世に一人で取り残されたような絶望が襲ってくる。
「──俺は、今まで、人に何か言われたことなんてなあ……。クソ、お前が、そんな、期待させるようなこと言わなきゃ……」
「…………」
ヴィクトリアには、イグアスが必死に訴えるそれが何であるのか全く理解できなかった。
耳まで真っ赤に染めて何かを訴えようとするイグアスを、冷ややかとも思える目線で具に観察し、おおよそ言いたいことを察して言葉をかけようと思ったが、何がそこまでショックを与えてしまったのかわからなかった。
イグアスの訴えは、彼女の理解の及ぶ範囲ではなかった。
しかし、人の思考を理解できないということが罪である場合も確かに存在する。自分は教官であり、指導する相手が不満をあらわにしている場合、往々にして自分が悪いということなのだ。
──正直納得できないが、彼に謝罪の意を示そうと口を開く。
「ごめん、わたしあんたが言いたいことがわかんないわ。ノルマはこなして、追加でわたしが出した宿題なんて、やらなくてもいい自由課題みたいなものじゃん。なんでそこまで拘るのか、理解できないんですけど」
「……っ…………‼︎」
イグアスはその場から逃げるように立ち去った。
「あ」
言い過ぎたかもしれない。追って訂正すべきか?
戦場では咄嗟の判断ができるくせに、こういう時に限って体は動かなかった。
「──」
中途半端に浮かせた腰を、椅子に下ろす。
「わたしって、馬鹿か?」
誰にも聞こえないように、ヴィクトリアは小声で独りごちた。
今更になって立ち上がって、追いかけられるほど覚悟が決まっているわけでもない。
気まずい空気が流れる中、誰に急かされているわけでもないが、彼女は残りの夕飯を強引に口に押し込み、水で流し込んだ。この食べ方をしたのはそれこそ新人の頃以来だった。
7
「初めて出撃して、どうだった?」
「どうもこうもねえよ、これから何遍もこういうことすんだろ」
「終わった後へばってただろ」
「お前もだろうが」
「まぁ、いいじゃん。ていうか何も思わなかったら逆に怖いわ」
ヴィクトリアはじっと煙草の先から昇っていく煙を見つめ、先ほどの質問の答えを脳内で反芻していた。自分は初めて任務を行った後、なんと答えたのか全く覚えていない。きっと別の上官に聞けば答えてもらえるはずだが、過去の自分は振り返らない主義なので、その答えを得ることは今後あり得ないだろう。
「こういうの、勝手に嫌ってそうだと思ってましたよ」
「……これは有害物質なんてほとんど入ってないけどね。喫煙なんて前世紀以前に滅んで、今は形だけモノなんだから、ただのポーズだけ。真似っこでしかないんだから、格好もクソもつかないでしょ」
「ああ、言えてる」
「それに、あっちは忙しそうだし。我々は端っこで休憩してた方が邪魔にならない」
ガレージでは、先程まで稼働していた機体の冷却が行われている。AC一機とMT二機が並んでメンテナンスを受けている様子を、小窓から眺める。そこに空白が生まれると、どうしようもなく胸が痛くなるのだ。
新人二人を初めて戦場に駆り出して、一時はどうなるものかと思ったが、なんとか無事に送り届けることができた。ヴィクトリアの胸は安堵感で包まれた。
「…………」
イグアスは、先ほどからやはり口数が少ない。あの食堂での一件以降、二人の間には最低限のやり取り以外沈黙が続くようになった。
試験的なメンター制度の実験に使われた二人は、コンビになった当初から、相性の上で問題があるとして、立案者(ミシガンである)と一部の現場主義者以外の上層部には効果を疑問視する声も上がった。
「試してみなければ分からない。優れたアイデアも凡庸な発想も、卓上の空論では結果が存在しないことと等しい」
弁舌を振るい、ミシガンは案を押し通し、それは試験的に導入された。
報告として上がった経過が良好だった。そのため、途中まではコストの面で不安視する声も押さえつけられていた──かろうじて。
終わりはあっけない。一件のボヤを起こした。どこからか漏れ出た二人の口論を材料に、火は起こり、反対を押し返す力はあっさりと消えてしまった。
それ以降、イグアスは一般の訓練に合流させられている。
二人はすでに教官と生徒という関係性でもなくなっていた。
初回の出撃は少人数で、新兵の訓練をやっている隊員が持ち回りで立ち会う決まりだった。
新兵に、ネズミ退治のような簡単な任務を与え、ちょっとした基地を護衛する。程度のしれた犬を噛ませて戦場の空気を吸うのが目的の、「子供のおつかい」だ。
そのクジに当たった。それだけだ。
「……あ、ミント味」
ヴィクトリアは、そっとイグアスに声をかけた。味つきの煙を吸い込む三人は、それぞれ違うフレーバーを選んで懐に忍ばせていた。
「…………」
「あーあ、無視されちゃった」
ヴィクトリアの言葉は、結果的に二つとも独り言になった。
「…………」
ヴォルタは空気を読んで、黙っていた。黙っていたというより、どう言っていいのか分からないので結果的に沈黙していた、と言った方がいいのかもしれないが。
イグアスは、ヴィクトリアに対して肯定も否定もせず、ただその場に突っ立って、ヴォルタが発する言葉以外をひたすらに無視している。
ヴィクトリアもヴィクトリアで、二人きりになった時の沈黙に耐えきれないであろうことを知っているから、緩衝材として利用している。
作戦中以外の会話は、すべてヴォルタを挟んで行われていた。
喧嘩と形容するには双方の怒りが不足しているが、決して円満な関係であるとは言い難い二人だった。
上官と部下といっても、同い年の青臭い子供が二人だ。しかも、役職つきと下っ端という隔たれた壁が存在する。お互いのプライドがこじれて上手く接することができないのは、仕方のないことかもしれない。
(――だからって俺が仲立ち役だってか?)
双方の何か言いたげな視線が飛び交う中、ヴォルタはすぐにこの場から退散したい衝動に襲われた。
友人だからといって何でも知ってる訳でもなければ、ましてや上官との仲直りを助ける手伝いをしてやれる訳でもない。
ヴィクトリアは表情こそ平然としているが、時折視線を悩ましげに伏せる回数が多い。
イグアスもイグアスで、チラチラと様子を窺ってはいるが、決して口を開こうとはせず、強固な態度をとり続けている。
「ドリンクバーのジュース混ぜたみたいな味がする」
「ガキかよ……」
イグアスが初めてヴィクトリアの言葉に返事をした。だがその直後、虫を踏みつけたような表情で舌打ちをする。
面倒くさい。
そうとしか言いようがない。
戦闘やその合間の時間は雑談すらする余裕がなかったのであまり不審に感じなかったがやはり、この二人の間に流れる空気はヒリヒリと張り詰めていた。
変な会話の切り出し方しかできない上司をフォローしようにも、小学生みたいな語彙で会話をしたくない気持ちのほうが内心上回っていた。
しかし今後のことを考えると、このままの関係性でいられたら面倒が多いだけだとも思う。
どうせ、今やるか、後でやるかの違いでしかないのだ。
――なら、面倒ごとは早いうちに片付けるべきだろう。そっちの方が、結果的に楽なのだから。
「イグアス、お前ちゃんと喋れ」
「──はぁ? 喋ってんだろ普通に」
「俺越しじゃないと上官とも喋れねえのか」
イグアスとヴィクトリア両名の視線がヴォルタに刺さった。直球に物を言いすぎたのかもしれないが、回りくどい会話は苦手だ。それにきっと、何ら有益なものは生み出せないだろう。
「なんでお前にゴチャゴチャ言われないといけねえんだよ。関係ねえだろ」
「ジメジメしてて気色悪ィんだよ。お前がナメクジみたいにチンタラ悩んでるとよ、場の空気ってやつが終わるんだよ」
「ンだよ……。人のことを気味悪い例えしやがって……」
「俺はお前の保護者じゃねえんだぞ。それなのにこんなことさせやがって……。何も気づいてない訳ないだろ。もう昔のこと引きずんのはやめろ」
「……これに関しては、わたしが謝った方がいいかもしれない」
一触即発で掴み合いになりかねない二人を見かねて、ヴィクトリアは制止に入った。
先ほど戦場で見せていた頼りがいのある姿が、まるで嘘のようだった。
修羅場に巻き込まれた間男の様相(当事者なのでその表現は適切ではないかもしれないが)で、肩を落として気まずそうな表情をしている。
「あー、その、なんだか期待させちゃって、ごめん」
「……‼」
――煽りだ、それは。
寸でのところでヴォルタの口から罵倒が飛び出すことはなかったが、それでも手にもったカートリッジを握りつぶしてしまいそうなほどには動揺してしまった。それも仕方がないことである。この場において、全く謝罪になっていない言葉を、イグアスが一番言われたくないであろうワードを、あろうことかこの女は真剣かつ大真面目に言ってしまったのだ。
本人に悪気がなくてもこれは……、犯罪に匹敵する行為だ。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
「頑張ってくれてたんでしょ。なんか見ててすごいじゃんって思ったのはマジだから。今回も命令聞いてくれたし、上々の出来だと思うから、うん。一人でも十分やってけると思うよ」
見通しが甘かった。謝るとかそういうことで解決する次元ではないのだ、これは。
「また頑張りたかったらさ、この調子でいっぱい任務をやってればいいと思う」
「言いたいことは、それだけか」
「え……」
「死体に砂掛けて楽しいかよ」
「……」
ヴォルタは、ヴィクトリアの表情を見るのが怖くて見れなかった。イグアスの威圧感は鬼気迫るものがあった。
それを真正面から受け止めるとなると、相応のショックを受けていないか、こっちが心配になる。
「お前のその偽善者面に苛ついて仕方ねえ。……お前に負けて、取り返せないことに悩んでる自分が馬鹿みたいで仕方ないのに、なんだよ。上手く丸めれば仲直りできるとか思ったのか? そういうところがあるからお前って──」
「はぁ……、そんなこと、マジでどうでもいい」
ヴィクトリアは、髪の毛をくるくると指先に絡みつけながら、煙を肺からフ、と見せつけるように吐き出した。
「……一回負けたからって、ウジウジしてんのマジでキモ。わたしは仕事であんたの面倒を見てるだけだったんだけど、そこ勘違いしないでよ。まぁ、見習いの分際で挑んできて生意気だと思ってたけど、今はその気概だけは評価してる。……けど、やっぱあんたの考えてることがわからない。一回失敗して、落ち込むのはわかるけど、それが長すぎ。あんたってミシガンにも一発入れたいんでしょ、わたしに負けたくらいでへこたれるようなタマじゃないって思ってたけど、結構メンタル雑魚だったんだ。こっちだってやりたくて下手に出てたわけじゃないし、こういう話し方を公共の場でしたら上にチクる馬鹿がいるのも知らないで、ちゃんと最後まで人の話聞け、馬鹿。
……まぁ、とにかく言いたいのは――、これに懲りないでまた挑んでくればいいでしょ。何回でも」
ヴィクトリアは胸ポケットから端末を取り出すと、その画面をイグアスの目前に突きつけた。
――果たし状を掲げるかのように。
「これがわたしの戦績、戦果、シミュレータの記録、全部。あんたのIDにアクセス権ごと送っておいたから、後で見とけば? あのタイムを見たんだったら、もう知ってるかもしれないけど」
「は――」
「あー、ガラにもなくいい人ぶっちゃったから疲れた。各自休憩を切り上げて、今日はもう帰ること!」
「お、お前……」
「そんじゃ。G13は伊達じゃないって、わかっておいてねー。百回負かして、あんたの偉そうな態度へし折って、こんなことでわざわざ泣けなくしてやるから」
「俺は泣いてねえ!」
ひらひらと手を振ってロッカーの方へ消えていったヴィクトリアの背中を、二人はただ見送ることしかできなかった。
「あのアマ、ぜってー泣かす」
再び煙を吸い込みながら青筋を立てる相方の様子を見て、ヴォルタはこの基地に配属される前の訓練期間を思い出した。つまり、最初の関係性に戻ったように見えた。すなわち、元に戻ったと言ってもよいのかもしれない――。
(ケツ叩かれて喜んで、単純なやつ)
それ以上考えると罵倒語の二文字が思い浮かびそうだったので、ヴォルタは思考を止めた。何事も考えすぎるのはよくないということを、この男はよく理解していた。
一人分の質量が減ると、この部屋がやけに広くなったように感じられた。
「…………」
「おい、なんか鳴ってる」
「あー、勝手になり出しやがった。ボタンがイカれたか?」
ジャンク品の、今や化石同然のプレーヤーを手に持ち、独り言のようにイグアスはつぶやいた。音の出所はそこなのだろう。
教科書や博物館の展示でしか見ることのできないような、小さな機械だった。音楽を聴くことに特化した、ただそれだけのための機能しかない、プレーヤー。
未だにそんなものを使うのは、アナログに拘る好き者だけだと思っていたが――。
聞き慣れない、今や失われて久しいであろう言語で、哀愁漂うシックなメロディが流れている。――明らかに、イグアスの趣味ではないはずのモノだ。
――あいつの影響だ。
ヴォルタは直感的に、そう確信した。
相棒の音楽の趣味なんて、前からわかりきっている。こんな辛気くさいクラシックを聴くようなガラではないことは、過去を振り返らずとも確信的である。
「……」
何かを言おうと思ったが、詮索すると怒ることが目に見えていたので、ヴォルタは口を閉ざした。代わりにとでもいうように、ピアノの静かな旋律とヴィオラの音色が辺りに響いている。
イグアスは、古い車の修理をするような手つきで、手元の小さな機械をいじくっていた。
「……よし、黙ったか」
「それ、前から持ってんのか」
「ジャンク屋で買った。曲は、前のやつがそのまま残ってた」
「そんなよくわかんねえような曲、聞いてて楽しいのか?」
「――そうか?」
イグアスは、目を伏せると静かな口調で言葉を続けた。
「たまにはこういうのも、悪くねえだろ」
8
「なんで、こんなになるまで飲んだんだよ」
「……」
「黙ってないで、なんか言え」
イグアスは、肩に寄りかかる一人分の重みを感じながら、無言を貫く上官の顔をじっと睨みつけた。
うつむいているせいで、彼女の表情はあまりわからない。そして、時折鼻にちらつくのは、明らかにアルコールの匂いではなかった。
――こいつ。
気がつくと、言葉にせずにはいられなかった。
「素面のくせに、酔ったフリしやがって……」
「……だって、飲み会とか嫌いだし。あんたもそうでしょ?」
「お前の送別会だろうが」
「ううん、それにかこつけて騒ぎたいだけ。どうせわたしがいなくても誰も気づかないって。それに、アルコールなんて体温調整にしか使いたくない。中毒者もいるし、実質毒物じゃん」
すっと顔を上げたヴィクトリアは、そっけない口調でそう言うと、イグアスの肩に頭を乗せた。
「重い」
「義体だから、しょうがないでしょ」
「……なるほどな。それにしても、重いってわかってんなら早くどけよ」
「やだ、寒い」
「調節機能が死んでるんじゃねえか」
「そっかな。でも暑いとか寒いとか考えられる方が人間っぽくない?」
「……わかんねえ、弄りすぎて何がなんだか」
「それも、まぁ、一理ある」
「……哲学の話は向こうでやってろ。俺にはするな。学がねえんだからわかるわけないだろ」
「…………どこまで知ってる?」
「お前がここを出てくってことだけしか、知らねえ」
「へえ、それだけでここまで核心を付いてくるとは」
「名探偵か、俺は」
ヴィクトリアがケタケタと声を上げて笑うと、口から白い息が頭上に昇っていった。
冬みたいだ、とイグアスは思う。彼の故郷には四季と呼べるものは存在していなかった。
彼らが今いるのは、資源の採掘しかまともに行われていない――人も碌に住んでいない、そんな小惑星だった。
いくつかの惑星を移動して、行く先々で様々な戦闘を行った。それのどれにも疑問を抱いたり、反感を覚えたことはない。
死ぬかもしれない恐怖よりも、食い扶持を得ること、ただひたすらに強くなっていく実感がそれを上回った。弄りすぎた、というのはつまりはそういうことだった。
基地の外に一歩でも出るとそこは雪原がただ広がるだけの、自然のただ中だった。ベイラムが整備したコンクリートの道路の上にも、雪と呼ばれる結晶体が、カーペットを敷くようにうっすらと埋め尽くしている。それに似たものは幾度か目にしたことはあるが、実際に目の前で舞う様子を見たことはなかった。
綺麗だとも、無様だとも思わない。
ただ眼前に広がる光景に対してなにかを言おうとは思わなかった。そんな語彙すらも、持ち合わせていない。
「雪がそんなに珍しい?」
「たかが自然現象だろ」
「わたしの地元じゃいつも降ってた。それで、たまに晴れたら、白夜になる。夜がない星だったから」
「変なとこにいたんだな」
「そう、何もなかったから出て行った」
「お前、レッドガンやめたらどうするんだよ」
「…………辞めるわけじゃないけどね」
「はぁ……?」
「辞めないけど戻ってこないだけ、だから」
「意味分かんねえ。お前の話って、いつも小難しくて回りくどい」
「ああ……、それは悪かった」
睫毛も凍りそうなほど、寒い。
夜中の光源というものがほとんど存在しないこの場所では、星が鬱陶しいほど鮮明に見える。強化した視覚のせいかもしれないが、それにしても、プラネタリウムで見るよりも鮮やかな夜空は、六等星ですら肉眼で見えるのではないかと思うほど、くっきりとした光が方々で輝いていた。
「おぉ、まだこれ使ってたんだ」
ヴィクトリアは、イグアスの上着のポケットに手を突っ込むと、無遠慮に中にある機械を取り出した。人肌の近くで埋もれていたとはいえ、この寒さなので触れるとすこしひんやりする。
「何聞いてたの」
彼は、これに返事をしなかった。無言でいると、勝手に電源を入れられ、再生リストを確認される。
「なにこれ、教えてあげたやつ何にも入ってないじゃん」
「俺の趣味じゃなかった」
「真似されたらぶっ殺してた」
「じゃあ教えんなよ」
「型を知らないと何もできないのと同じで、発破かけてやらないとそんなことしないと思った」
針を落とす音すら聞こえそうな静けさの中で、不意に音楽が鳴り出した。
「それ……、タイトルに夏って書いてあんだろ」
「気持ちだけでも温かくしないと、凍死しそう」
「凍死しそうなところでもこき使ってくるからな、うちの上層部は。お前が出て行きたくなる気持ちも……」
ここまで言いかけて、決定的な言葉を言うことをためらった。舌先が固まって、息を吸うだけで喉が絞められたように苦しい。
「奨学金と、推薦。それが理由」
――知っているとは言いたくなかった。
「幹部向けのプログラム……で、ある程度まで勤め上げることを条件に、学費を出してもらえるってやつ。わたし以外に使おうとしてる人は見たことないけど」
「それで二度と戻ってこねえっていうなら、会社にとっちゃ無駄金だな」
「人員の穴埋めしてあげたんだから、きっちり精算しないと。それに、有名大学への切符なんてコネがないと今時手に入らないし」
「……児童労働させられてたんだもんな」
「大企業のコンプライアンス的ににはどうかと思うけど、まあこのご時世で法令遵守を徹底してる企業なんて、ないようなものだし。昔から、年齢をちょろまかして入隊なんて、よくある話でしょう。あんたも、総長の口利きがなければ書類で落とされてたはずだろうし……わたしもまあ、似たような物だから」
「身の上話なら、聞かねえからな」
「しねえって。聞かせるようなものでもないわ」
吐き捨てるように言った、その言葉の裏をかくわけではないが、何か脛に傷を持っていることはどことなく匂わせるような言い方だと感じた。感じただけで、確証があるわけでもない。ましてや、探ってやろうとも思わない。ここでは過去は詮索しない。意味がない行為だからだ。
今ここに立っていることが、すべてだ。
「勝ち逃げって卑怯だと思わないか」
「否、今追い越せなくても最終的にゴールを切るとき、わたしより先に走ってればいいだけでしょ」
「厳しいこと言うじゃねえか」
「――やっぱりね、あんたには期待してんの。多分あんたは、世界をぶっ壊す魔王にでも、英雄に弓引く悪魔にでもなれるんじゃないか、ってね」
「どう進むにしても悪者かよ」
「うちらが英雄になれることなんてないでしょうよ。侵略と略奪、資本主義の奴隷にして悪魔」
「……お前、やっぱ飲んでねえか」
「愚行権を行使した」
「飲んでるじゃねえか!」
「なるほどね、後から酔いが回ってくる体質なのか、わたしは……」
背中を丸めてブツブツとつぶやく様子を見ていると、やはり職業軍人のそれには見えない。
「お前は古代なんちゃらの思想家の本でも読んで、同じようなインテリと議論してる方が似合うだろうな。俺らとは、違うタイプだ――」
「ああ、うん。全く金にならない学問を修める予定だから、存分にそうさせてもらうつもり」
「……」
「理解できなくていいよ。人間みんな一緒の考えだったら、つまらないし」
芝生の上で寝転がりながら、分厚い本を読むヴィクトリアの姿を想像した。……大学という建築物を実際に見たことはない。映像や資料で見たそれの中に、彼女はきっちりと収まるようになじんでいた。
平和な世界で、こことはまるで違う、豊かな場所。日の当たる場所で、野暮ったい軍服ではなく、学生らしいとされるシンプルな服装で。血を流すこともない、監視もされない。 ――自分とは違う。
あまりにも。
たかが妄想一つの間に、決して超えられない溝があるような気すらしてきた。
くだらないと吐き捨てたかった。だからといって、ついていきたい訳でもない。そういうことでは、決してない。現実に即していないイメージだ。本当にそうなるかは、誰にもわからない。何も知らせてくれない。非確定の未来のわりには、不気味なほどに精彩だった。
「そんなもん、行こうとも思わねえ。考えたことすらない」
「…………ま、それも人それぞれってことで。わたしは回り道したけど、あんたもいつか自分のやりたいこと、見つけられるといいね」
「知らねえ、興味ねえ。誰も彼も……、お前みたいに意識高くやってるわけじゃねえからな」
「じゃあとりあえず、ここで一番になれば?」
「あぁ……?」
「ミシガンの横っ面に一撃食らわせてやれよ、ルーキー……って歳でもないか」
そこそこ気合いの入った構えで、虚空にパンチを放つ。格闘訓練の組手の相手をさせられて、何度も受け身の練習をしたことを思い出した。
「お前に言われなくても、前からそのつもりだっての」
「よかった。なんかそれ聞いて、安心した――あんた、わたしのこと結構好きだったもんね」
「はぁ――!?」
自信満々にそう言い放つ。
その顔は、恥や照れ、それに準ずるような内向的な何か――それらは一切存在していなかった。
満面の笑み。
ただその一点のみが、曇りなく彼女の顔に浮かんでいた。
ここは舞台の上ではない。スポットライトどころか、自然の光しか存在しない。それも頭上に輝く遠い星々だけだ。
それなのに、ほんの些細な表情の変化一つで、どうしようもなく苦しくなる。
ただ、このきらめきをどう表現しようにも、イグアスには言葉の一つすら浮かんでこなかった。一瞬の衝撃で心を潰されそうになった。
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、彼女がこんな表情をするのだということを知らずにいた。
――この瞬間まで、取りこぼしてきたことがあまりにも多すぎた。
「……そんな寂しそうな顔すんなって。13なんて不吉な数字、降りられたんだからちょっとは祝ってくれてもいいじゃん」
「……………………行くなよ」
やっとのことで絞り出した言葉はたったの三文字だった。
それを言い終わると、高熱が出たように頬が火照った。
前なんてろくに見えやしない。耳鳴りが脳の奥底から這い出るように鳴り響いて、周りの音なんかろくに聞こえてきやしない。
視界がまともに働かなくなる。
「――――」
何かを伝えようとしている。それだけはわかった。
声すら聞こえない。しかし不思議と悔しさや不条理を恨む気持ちはなかった。
おそらく二度と会えない相手だろう。別れが惜しいと思う気持ちよりも、この光景を目に焼き付けたい意思の方が強かったのかもしれない。
――寂しそうな顔をしてるのは、お前もだろ。
そう言って何か行動すれば――、結果は変わったのだろうか。
いくら卓上で賽子を振ったところで結果は変わらないのに、いくらでもイフを求めてしまうのは、人間の性だと誰かが言っていたきがする。それも暇つぶしに見た映画の台詞だとしたら……、愉快だ。
あの時ヴィクトリアがなんと言ったのか、結局のところ、正しい答えはわからなかった。
思い出そうとしても音なんて何も聞こえない。否、最早記憶ですら朧げだった。ノイズがかかったように、思い出の中の世界は半透明になる。
――半分忘れていたような思い出のはずだった。それも今際で思い出すということは、相当の未練があったのかもしれない。
しかしそれも、この景色の前では大した意味を持たなくなるだろう。
「ルビコン川を渡れ、か。――これも運命ってやつか? だとしたら……」
嘲笑の籠もった笑いが、思わず口の端から漏れた。聖書の一節かどこかで聞いた言葉かは分からないが、どちらにしろ、それは本当にどうでもいいことだ。
「結局、俺とお前は違う人間だからな」
訓練を終える頃にはどっぷりと日が暮れていた。
宿舎に戻ってシャワーを浴びて、さして不味くもおいしくもない飯をかき込んで、あとは潰れたように眠るだけの生活がしばらく続いた。
新人のうちはとにかく忙しい。昇進すればこれ以上だとも聞く。どちらにしろ、軍人という職業が過酷な生活であることには違いない。結局、レッドガンの体質がいつまで経っても変わらないのは人手不足が全てなのだと、全員が同じ結論に達するのには時間が掛からなかった。
そのような生活の中で、二人はほとんど付きっきりだった。
マンツーマンという関係の中、メンターと新人が顔を突き合わせてひたすら訓練に励む。相手の指示で動くという行為に体が慣れてくると、次第に次になにをすればいいのか理解できるようになる。
ヴィクトリアの指導は、集団の統率を取るというよりは、一人の人間を観察してコーディネートするコーチの役割で本領を発揮するタイプだとイグアスは理解した。理解して、実力を肌で実感してからは超えてみたくなった。
打ち立てられたレコードを破り、最速に到達する。
やる気を見せた生徒の様子を見て、彼女は喜ばしいことだと思った。
しかし、理想はあくまで理想に過ぎない。
描いた理想を前に敗北することの方が多い。
目標のタイムに到達せず三日目を終えたその晩、耐えきれずイグアスは壁を蹴った。
「三日で……できなかった」
「あぁ。そのことで、反省会がしたいって?」
「お前はやったんだろ。できたんだろ」
「……あ、さてはログを見たか。まぁ聞きなさい、前提条件が違うでしょ」
イグアスと同じ時間に、偶然食堂で居合わせたヴィクトリアは、仕事モードをすっかりオフにしている様子で、鬱陶しそうにしていたが、それでも構わずイグアスは話を続ける。
「なにも違わねえだろ。同じ訓練で、同じ飯を食って……同じ世代の手術を受けた。どこが違うってんだ」
「それは掃除の時にでも言ってよ。……てか、こんな人が多いところで話しかけたらあんたの同期がからかってくるでしょ。それでも大丈夫なわけ?」
「そんなクソどうでもいいことを、わざわざ気にしてんのか?」
「面倒な要素はできるだけカットする。わたしは耳がいいから。あんたらのうるさい声も全部聞こえんの、わかる? いい加減食ってる時くらいリラックスさせてよ。……休み時間に教師に質問する生徒みたい」
「俺に期待してたんじゃないのか」
「見積もりより高く目標を設定して、超えれたら御の字──それくらいだけどね」
「馬鹿にしてんのかって、聞いてんだよ」
「違う違う、わたしは元々アマチュアで競技用のACに乗ってたから。だから本来の意味の素人じゃないの。何もかも初心者のあんたと一緒にしたら、それこそおかしいでしょ」
ヴィクトリアは、水を一杯飲み干すと、じっとイグアスの顔を見上げた。全く動じていないどころか、初対面の時と同じような気だるげな表情で見つめてくるあたりが、神経に障る。
「あんた、多分今めちゃくちゃ調子悪いんだって。手術の後遺症で情緒不安定になってる。食い終わったら医務室にでも行って来たら?」
「…………」
「あのさぁ、上手くいかなかったからってこっちに八つ当たりすんの、マジでダサいからやめろっつってんだけど」
正論だった。言い返す言葉が見つからない。
大声で騒いだせいで周囲の視線が突き刺すように、痛い。
イグアスは、喉だけでなく自分の足が震えているのだと思った。
この世に一人で取り残されたような絶望が襲ってくる。
「──俺は、今まで、人に何か言われたことなんてなあ……。クソ、お前が、そんな、期待させるようなこと言わなきゃ……」
「…………」
ヴィクトリアには、イグアスが必死に訴えるそれが何であるのか全く理解できなかった。
耳まで真っ赤に染めて何かを訴えようとするイグアスを、冷ややかとも思える目線で具に観察し、おおよそ言いたいことを察して言葉をかけようと思ったが、何がそこまでショックを与えてしまったのかわからなかった。
イグアスの訴えは、彼女の理解の及ぶ範囲ではなかった。
しかし、人の思考を理解できないということが罪である場合も確かに存在する。自分は教官であり、指導する相手が不満をあらわにしている場合、往々にして自分が悪いということなのだ。
──正直納得できないが、彼に謝罪の意を示そうと口を開く。
「ごめん、わたしあんたが言いたいことがわかんないわ。ノルマはこなして、追加でわたしが出した宿題なんて、やらなくてもいい自由課題みたいなものじゃん。なんでそこまで拘るのか、理解できないんですけど」
「……っ…………‼︎」
イグアスはその場から逃げるように立ち去った。
「あ」
言い過ぎたかもしれない。追って訂正すべきか?
戦場では咄嗟の判断ができるくせに、こういう時に限って体は動かなかった。
「──」
中途半端に浮かせた腰を、椅子に下ろす。
「わたしって、馬鹿か?」
誰にも聞こえないように、ヴィクトリアは小声で独りごちた。
今更になって立ち上がって、追いかけられるほど覚悟が決まっているわけでもない。
気まずい空気が流れる中、誰に急かされているわけでもないが、彼女は残りの夕飯を強引に口に押し込み、水で流し込んだ。この食べ方をしたのはそれこそ新人の頃以来だった。
7
「初めて出撃して、どうだった?」
「どうもこうもねえよ、これから何遍もこういうことすんだろ」
「終わった後へばってただろ」
「お前もだろうが」
「まぁ、いいじゃん。ていうか何も思わなかったら逆に怖いわ」
ヴィクトリアはじっと煙草の先から昇っていく煙を見つめ、先ほどの質問の答えを脳内で反芻していた。自分は初めて任務を行った後、なんと答えたのか全く覚えていない。きっと別の上官に聞けば答えてもらえるはずだが、過去の自分は振り返らない主義なので、その答えを得ることは今後あり得ないだろう。
「こういうの、勝手に嫌ってそうだと思ってましたよ」
「……これは有害物質なんてほとんど入ってないけどね。喫煙なんて前世紀以前に滅んで、今は形だけモノなんだから、ただのポーズだけ。真似っこでしかないんだから、格好もクソもつかないでしょ」
「ああ、言えてる」
「それに、あっちは忙しそうだし。我々は端っこで休憩してた方が邪魔にならない」
ガレージでは、先程まで稼働していた機体の冷却が行われている。AC一機とMT二機が並んでメンテナンスを受けている様子を、小窓から眺める。そこに空白が生まれると、どうしようもなく胸が痛くなるのだ。
新人二人を初めて戦場に駆り出して、一時はどうなるものかと思ったが、なんとか無事に送り届けることができた。ヴィクトリアの胸は安堵感で包まれた。
「…………」
イグアスは、先ほどからやはり口数が少ない。あの食堂での一件以降、二人の間には最低限のやり取り以外沈黙が続くようになった。
試験的なメンター制度の実験に使われた二人は、コンビになった当初から、相性の上で問題があるとして、立案者(ミシガンである)と一部の現場主義者以外の上層部には効果を疑問視する声も上がった。
「試してみなければ分からない。優れたアイデアも凡庸な発想も、卓上の空論では結果が存在しないことと等しい」
弁舌を振るい、ミシガンは案を押し通し、それは試験的に導入された。
報告として上がった経過が良好だった。そのため、途中まではコストの面で不安視する声も押さえつけられていた──かろうじて。
終わりはあっけない。一件のボヤを起こした。どこからか漏れ出た二人の口論を材料に、火は起こり、反対を押し返す力はあっさりと消えてしまった。
それ以降、イグアスは一般の訓練に合流させられている。
二人はすでに教官と生徒という関係性でもなくなっていた。
初回の出撃は少人数で、新兵の訓練をやっている隊員が持ち回りで立ち会う決まりだった。
新兵に、ネズミ退治のような簡単な任務を与え、ちょっとした基地を護衛する。程度のしれた犬を噛ませて戦場の空気を吸うのが目的の、「子供のおつかい」だ。
そのクジに当たった。それだけだ。
「……あ、ミント味」
ヴィクトリアは、そっとイグアスに声をかけた。味つきの煙を吸い込む三人は、それぞれ違うフレーバーを選んで懐に忍ばせていた。
「…………」
「あーあ、無視されちゃった」
ヴィクトリアの言葉は、結果的に二つとも独り言になった。
「…………」
ヴォルタは空気を読んで、黙っていた。黙っていたというより、どう言っていいのか分からないので結果的に沈黙していた、と言った方がいいのかもしれないが。
イグアスは、ヴィクトリアに対して肯定も否定もせず、ただその場に突っ立って、ヴォルタが発する言葉以外をひたすらに無視している。
ヴィクトリアもヴィクトリアで、二人きりになった時の沈黙に耐えきれないであろうことを知っているから、緩衝材として利用している。
作戦中以外の会話は、すべてヴォルタを挟んで行われていた。
喧嘩と形容するには双方の怒りが不足しているが、決して円満な関係であるとは言い難い二人だった。
上官と部下といっても、同い年の青臭い子供が二人だ。しかも、役職つきと下っ端という隔たれた壁が存在する。お互いのプライドがこじれて上手く接することができないのは、仕方のないことかもしれない。
(――だからって俺が仲立ち役だってか?)
双方の何か言いたげな視線が飛び交う中、ヴォルタはすぐにこの場から退散したい衝動に襲われた。
友人だからといって何でも知ってる訳でもなければ、ましてや上官との仲直りを助ける手伝いをしてやれる訳でもない。
ヴィクトリアは表情こそ平然としているが、時折視線を悩ましげに伏せる回数が多い。
イグアスもイグアスで、チラチラと様子を窺ってはいるが、決して口を開こうとはせず、強固な態度をとり続けている。
「ドリンクバーのジュース混ぜたみたいな味がする」
「ガキかよ……」
イグアスが初めてヴィクトリアの言葉に返事をした。だがその直後、虫を踏みつけたような表情で舌打ちをする。
面倒くさい。
そうとしか言いようがない。
戦闘やその合間の時間は雑談すらする余裕がなかったのであまり不審に感じなかったがやはり、この二人の間に流れる空気はヒリヒリと張り詰めていた。
変な会話の切り出し方しかできない上司をフォローしようにも、小学生みたいな語彙で会話をしたくない気持ちのほうが内心上回っていた。
しかし今後のことを考えると、このままの関係性でいられたら面倒が多いだけだとも思う。
どうせ、今やるか、後でやるかの違いでしかないのだ。
――なら、面倒ごとは早いうちに片付けるべきだろう。そっちの方が、結果的に楽なのだから。
「イグアス、お前ちゃんと喋れ」
「──はぁ? 喋ってんだろ普通に」
「俺越しじゃないと上官とも喋れねえのか」
イグアスとヴィクトリア両名の視線がヴォルタに刺さった。直球に物を言いすぎたのかもしれないが、回りくどい会話は苦手だ。それにきっと、何ら有益なものは生み出せないだろう。
「なんでお前にゴチャゴチャ言われないといけねえんだよ。関係ねえだろ」
「ジメジメしてて気色悪ィんだよ。お前がナメクジみたいにチンタラ悩んでるとよ、場の空気ってやつが終わるんだよ」
「ンだよ……。人のことを気味悪い例えしやがって……」
「俺はお前の保護者じゃねえんだぞ。それなのにこんなことさせやがって……。何も気づいてない訳ないだろ。もう昔のこと引きずんのはやめろ」
「……これに関しては、わたしが謝った方がいいかもしれない」
一触即発で掴み合いになりかねない二人を見かねて、ヴィクトリアは制止に入った。
先ほど戦場で見せていた頼りがいのある姿が、まるで嘘のようだった。
修羅場に巻き込まれた間男の様相(当事者なのでその表現は適切ではないかもしれないが)で、肩を落として気まずそうな表情をしている。
「あー、その、なんだか期待させちゃって、ごめん」
「……‼」
――煽りだ、それは。
寸でのところでヴォルタの口から罵倒が飛び出すことはなかったが、それでも手にもったカートリッジを握りつぶしてしまいそうなほどには動揺してしまった。それも仕方がないことである。この場において、全く謝罪になっていない言葉を、イグアスが一番言われたくないであろうワードを、あろうことかこの女は真剣かつ大真面目に言ってしまったのだ。
本人に悪気がなくてもこれは……、犯罪に匹敵する行為だ。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
「頑張ってくれてたんでしょ。なんか見ててすごいじゃんって思ったのはマジだから。今回も命令聞いてくれたし、上々の出来だと思うから、うん。一人でも十分やってけると思うよ」
見通しが甘かった。謝るとかそういうことで解決する次元ではないのだ、これは。
「また頑張りたかったらさ、この調子でいっぱい任務をやってればいいと思う」
「言いたいことは、それだけか」
「え……」
「死体に砂掛けて楽しいかよ」
「……」
ヴォルタは、ヴィクトリアの表情を見るのが怖くて見れなかった。イグアスの威圧感は鬼気迫るものがあった。
それを真正面から受け止めるとなると、相応のショックを受けていないか、こっちが心配になる。
「お前のその偽善者面に苛ついて仕方ねえ。……お前に負けて、取り返せないことに悩んでる自分が馬鹿みたいで仕方ないのに、なんだよ。上手く丸めれば仲直りできるとか思ったのか? そういうところがあるからお前って──」
「はぁ……、そんなこと、マジでどうでもいい」
ヴィクトリアは、髪の毛をくるくると指先に絡みつけながら、煙を肺からフ、と見せつけるように吐き出した。
「……一回負けたからって、ウジウジしてんのマジでキモ。わたしは仕事であんたの面倒を見てるだけだったんだけど、そこ勘違いしないでよ。まぁ、見習いの分際で挑んできて生意気だと思ってたけど、今はその気概だけは評価してる。……けど、やっぱあんたの考えてることがわからない。一回失敗して、落ち込むのはわかるけど、それが長すぎ。あんたってミシガンにも一発入れたいんでしょ、わたしに負けたくらいでへこたれるようなタマじゃないって思ってたけど、結構メンタル雑魚だったんだ。こっちだってやりたくて下手に出てたわけじゃないし、こういう話し方を公共の場でしたら上にチクる馬鹿がいるのも知らないで、ちゃんと最後まで人の話聞け、馬鹿。
……まぁ、とにかく言いたいのは――、これに懲りないでまた挑んでくればいいでしょ。何回でも」
ヴィクトリアは胸ポケットから端末を取り出すと、その画面をイグアスの目前に突きつけた。
――果たし状を掲げるかのように。
「これがわたしの戦績、戦果、シミュレータの記録、全部。あんたのIDにアクセス権ごと送っておいたから、後で見とけば? あのタイムを見たんだったら、もう知ってるかもしれないけど」
「は――」
「あー、ガラにもなくいい人ぶっちゃったから疲れた。各自休憩を切り上げて、今日はもう帰ること!」
「お、お前……」
「そんじゃ。G13は伊達じゃないって、わかっておいてねー。百回負かして、あんたの偉そうな態度へし折って、こんなことでわざわざ泣けなくしてやるから」
「俺は泣いてねえ!」
ひらひらと手を振ってロッカーの方へ消えていったヴィクトリアの背中を、二人はただ見送ることしかできなかった。
「あのアマ、ぜってー泣かす」
再び煙を吸い込みながら青筋を立てる相方の様子を見て、ヴォルタはこの基地に配属される前の訓練期間を思い出した。つまり、最初の関係性に戻ったように見えた。すなわち、元に戻ったと言ってもよいのかもしれない――。
(ケツ叩かれて喜んで、単純なやつ)
それ以上考えると罵倒語の二文字が思い浮かびそうだったので、ヴォルタは思考を止めた。何事も考えすぎるのはよくないということを、この男はよく理解していた。
一人分の質量が減ると、この部屋がやけに広くなったように感じられた。
「…………」
「おい、なんか鳴ってる」
「あー、勝手になり出しやがった。ボタンがイカれたか?」
ジャンク品の、今や化石同然のプレーヤーを手に持ち、独り言のようにイグアスはつぶやいた。音の出所はそこなのだろう。
教科書や博物館の展示でしか見ることのできないような、小さな機械だった。音楽を聴くことに特化した、ただそれだけのための機能しかない、プレーヤー。
未だにそんなものを使うのは、アナログに拘る好き者だけだと思っていたが――。
聞き慣れない、今や失われて久しいであろう言語で、哀愁漂うシックなメロディが流れている。――明らかに、イグアスの趣味ではないはずのモノだ。
――あいつの影響だ。
ヴォルタは直感的に、そう確信した。
相棒の音楽の趣味なんて、前からわかりきっている。こんな辛気くさいクラシックを聴くようなガラではないことは、過去を振り返らずとも確信的である。
「……」
何かを言おうと思ったが、詮索すると怒ることが目に見えていたので、ヴォルタは口を閉ざした。代わりにとでもいうように、ピアノの静かな旋律とヴィオラの音色が辺りに響いている。
イグアスは、古い車の修理をするような手つきで、手元の小さな機械をいじくっていた。
「……よし、黙ったか」
「それ、前から持ってんのか」
「ジャンク屋で買った。曲は、前のやつがそのまま残ってた」
「そんなよくわかんねえような曲、聞いてて楽しいのか?」
「――そうか?」
イグアスは、目を伏せると静かな口調で言葉を続けた。
「たまにはこういうのも、悪くねえだろ」
8
「なんで、こんなになるまで飲んだんだよ」
「……」
「黙ってないで、なんか言え」
イグアスは、肩に寄りかかる一人分の重みを感じながら、無言を貫く上官の顔をじっと睨みつけた。
うつむいているせいで、彼女の表情はあまりわからない。そして、時折鼻にちらつくのは、明らかにアルコールの匂いではなかった。
――こいつ。
気がつくと、言葉にせずにはいられなかった。
「素面のくせに、酔ったフリしやがって……」
「……だって、飲み会とか嫌いだし。あんたもそうでしょ?」
「お前の送別会だろうが」
「ううん、それにかこつけて騒ぎたいだけ。どうせわたしがいなくても誰も気づかないって。それに、アルコールなんて体温調整にしか使いたくない。中毒者もいるし、実質毒物じゃん」
すっと顔を上げたヴィクトリアは、そっけない口調でそう言うと、イグアスの肩に頭を乗せた。
「重い」
「義体だから、しょうがないでしょ」
「……なるほどな。それにしても、重いってわかってんなら早くどけよ」
「やだ、寒い」
「調節機能が死んでるんじゃねえか」
「そっかな。でも暑いとか寒いとか考えられる方が人間っぽくない?」
「……わかんねえ、弄りすぎて何がなんだか」
「それも、まぁ、一理ある」
「……哲学の話は向こうでやってろ。俺にはするな。学がねえんだからわかるわけないだろ」
「…………どこまで知ってる?」
「お前がここを出てくってことだけしか、知らねえ」
「へえ、それだけでここまで核心を付いてくるとは」
「名探偵か、俺は」
ヴィクトリアがケタケタと声を上げて笑うと、口から白い息が頭上に昇っていった。
冬みたいだ、とイグアスは思う。彼の故郷には四季と呼べるものは存在していなかった。
彼らが今いるのは、資源の採掘しかまともに行われていない――人も碌に住んでいない、そんな小惑星だった。
いくつかの惑星を移動して、行く先々で様々な戦闘を行った。それのどれにも疑問を抱いたり、反感を覚えたことはない。
死ぬかもしれない恐怖よりも、食い扶持を得ること、ただひたすらに強くなっていく実感がそれを上回った。弄りすぎた、というのはつまりはそういうことだった。
基地の外に一歩でも出るとそこは雪原がただ広がるだけの、自然のただ中だった。ベイラムが整備したコンクリートの道路の上にも、雪と呼ばれる結晶体が、カーペットを敷くようにうっすらと埋め尽くしている。それに似たものは幾度か目にしたことはあるが、実際に目の前で舞う様子を見たことはなかった。
綺麗だとも、無様だとも思わない。
ただ眼前に広がる光景に対してなにかを言おうとは思わなかった。そんな語彙すらも、持ち合わせていない。
「雪がそんなに珍しい?」
「たかが自然現象だろ」
「わたしの地元じゃいつも降ってた。それで、たまに晴れたら、白夜になる。夜がない星だったから」
「変なとこにいたんだな」
「そう、何もなかったから出て行った」
「お前、レッドガンやめたらどうするんだよ」
「…………辞めるわけじゃないけどね」
「はぁ……?」
「辞めないけど戻ってこないだけ、だから」
「意味分かんねえ。お前の話って、いつも小難しくて回りくどい」
「ああ……、それは悪かった」
睫毛も凍りそうなほど、寒い。
夜中の光源というものがほとんど存在しないこの場所では、星が鬱陶しいほど鮮明に見える。強化した視覚のせいかもしれないが、それにしても、プラネタリウムで見るよりも鮮やかな夜空は、六等星ですら肉眼で見えるのではないかと思うほど、くっきりとした光が方々で輝いていた。
「おぉ、まだこれ使ってたんだ」
ヴィクトリアは、イグアスの上着のポケットに手を突っ込むと、無遠慮に中にある機械を取り出した。人肌の近くで埋もれていたとはいえ、この寒さなので触れるとすこしひんやりする。
「何聞いてたの」
彼は、これに返事をしなかった。無言でいると、勝手に電源を入れられ、再生リストを確認される。
「なにこれ、教えてあげたやつ何にも入ってないじゃん」
「俺の趣味じゃなかった」
「真似されたらぶっ殺してた」
「じゃあ教えんなよ」
「型を知らないと何もできないのと同じで、発破かけてやらないとそんなことしないと思った」
針を落とす音すら聞こえそうな静けさの中で、不意に音楽が鳴り出した。
「それ……、タイトルに夏って書いてあんだろ」
「気持ちだけでも温かくしないと、凍死しそう」
「凍死しそうなところでもこき使ってくるからな、うちの上層部は。お前が出て行きたくなる気持ちも……」
ここまで言いかけて、決定的な言葉を言うことをためらった。舌先が固まって、息を吸うだけで喉が絞められたように苦しい。
「奨学金と、推薦。それが理由」
――知っているとは言いたくなかった。
「幹部向けのプログラム……で、ある程度まで勤め上げることを条件に、学費を出してもらえるってやつ。わたし以外に使おうとしてる人は見たことないけど」
「それで二度と戻ってこねえっていうなら、会社にとっちゃ無駄金だな」
「人員の穴埋めしてあげたんだから、きっちり精算しないと。それに、有名大学への切符なんてコネがないと今時手に入らないし」
「……児童労働させられてたんだもんな」
「大企業のコンプライアンス的ににはどうかと思うけど、まあこのご時世で法令遵守を徹底してる企業なんて、ないようなものだし。昔から、年齢をちょろまかして入隊なんて、よくある話でしょう。あんたも、総長の口利きがなければ書類で落とされてたはずだろうし……わたしもまあ、似たような物だから」
「身の上話なら、聞かねえからな」
「しねえって。聞かせるようなものでもないわ」
吐き捨てるように言った、その言葉の裏をかくわけではないが、何か脛に傷を持っていることはどことなく匂わせるような言い方だと感じた。感じただけで、確証があるわけでもない。ましてや、探ってやろうとも思わない。ここでは過去は詮索しない。意味がない行為だからだ。
今ここに立っていることが、すべてだ。
「勝ち逃げって卑怯だと思わないか」
「否、今追い越せなくても最終的にゴールを切るとき、わたしより先に走ってればいいだけでしょ」
「厳しいこと言うじゃねえか」
「――やっぱりね、あんたには期待してんの。多分あんたは、世界をぶっ壊す魔王にでも、英雄に弓引く悪魔にでもなれるんじゃないか、ってね」
「どう進むにしても悪者かよ」
「うちらが英雄になれることなんてないでしょうよ。侵略と略奪、資本主義の奴隷にして悪魔」
「……お前、やっぱ飲んでねえか」
「愚行権を行使した」
「飲んでるじゃねえか!」
「なるほどね、後から酔いが回ってくる体質なのか、わたしは……」
背中を丸めてブツブツとつぶやく様子を見ていると、やはり職業軍人のそれには見えない。
「お前は古代なんちゃらの思想家の本でも読んで、同じようなインテリと議論してる方が似合うだろうな。俺らとは、違うタイプだ――」
「ああ、うん。全く金にならない学問を修める予定だから、存分にそうさせてもらうつもり」
「……」
「理解できなくていいよ。人間みんな一緒の考えだったら、つまらないし」
芝生の上で寝転がりながら、分厚い本を読むヴィクトリアの姿を想像した。……大学という建築物を実際に見たことはない。映像や資料で見たそれの中に、彼女はきっちりと収まるようになじんでいた。
平和な世界で、こことはまるで違う、豊かな場所。日の当たる場所で、野暮ったい軍服ではなく、学生らしいとされるシンプルな服装で。血を流すこともない、監視もされない。 ――自分とは違う。
あまりにも。
たかが妄想一つの間に、決して超えられない溝があるような気すらしてきた。
くだらないと吐き捨てたかった。だからといって、ついていきたい訳でもない。そういうことでは、決してない。現実に即していないイメージだ。本当にそうなるかは、誰にもわからない。何も知らせてくれない。非確定の未来のわりには、不気味なほどに精彩だった。
「そんなもん、行こうとも思わねえ。考えたことすらない」
「…………ま、それも人それぞれってことで。わたしは回り道したけど、あんたもいつか自分のやりたいこと、見つけられるといいね」
「知らねえ、興味ねえ。誰も彼も……、お前みたいに意識高くやってるわけじゃねえからな」
「じゃあとりあえず、ここで一番になれば?」
「あぁ……?」
「ミシガンの横っ面に一撃食らわせてやれよ、ルーキー……って歳でもないか」
そこそこ気合いの入った構えで、虚空にパンチを放つ。格闘訓練の組手の相手をさせられて、何度も受け身の練習をしたことを思い出した。
「お前に言われなくても、前からそのつもりだっての」
「よかった。なんかそれ聞いて、安心した――あんた、わたしのこと結構好きだったもんね」
「はぁ――!?」
自信満々にそう言い放つ。
その顔は、恥や照れ、それに準ずるような内向的な何か――それらは一切存在していなかった。
満面の笑み。
ただその一点のみが、曇りなく彼女の顔に浮かんでいた。
ここは舞台の上ではない。スポットライトどころか、自然の光しか存在しない。それも頭上に輝く遠い星々だけだ。
それなのに、ほんの些細な表情の変化一つで、どうしようもなく苦しくなる。
ただ、このきらめきをどう表現しようにも、イグアスには言葉の一つすら浮かんでこなかった。一瞬の衝撃で心を潰されそうになった。
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、彼女がこんな表情をするのだということを知らずにいた。
――この瞬間まで、取りこぼしてきたことがあまりにも多すぎた。
「……そんな寂しそうな顔すんなって。13なんて不吉な数字、降りられたんだからちょっとは祝ってくれてもいいじゃん」
「……………………行くなよ」
やっとのことで絞り出した言葉はたったの三文字だった。
それを言い終わると、高熱が出たように頬が火照った。
前なんてろくに見えやしない。耳鳴りが脳の奥底から這い出るように鳴り響いて、周りの音なんかろくに聞こえてきやしない。
視界がまともに働かなくなる。
「――――」
何かを伝えようとしている。それだけはわかった。
声すら聞こえない。しかし不思議と悔しさや不条理を恨む気持ちはなかった。
おそらく二度と会えない相手だろう。別れが惜しいと思う気持ちよりも、この光景を目に焼き付けたい意思の方が強かったのかもしれない。
――寂しそうな顔をしてるのは、お前もだろ。
そう言って何か行動すれば――、結果は変わったのだろうか。
いくら卓上で賽子を振ったところで結果は変わらないのに、いくらでもイフを求めてしまうのは、人間の性だと誰かが言っていたきがする。それも暇つぶしに見た映画の台詞だとしたら……、愉快だ。
あの時ヴィクトリアがなんと言ったのか、結局のところ、正しい答えはわからなかった。
思い出そうとしても音なんて何も聞こえない。否、最早記憶ですら朧げだった。ノイズがかかったように、思い出の中の世界は半透明になる。
――半分忘れていたような思い出のはずだった。それも今際で思い出すということは、相当の未練があったのかもしれない。
しかしそれも、この景色の前では大した意味を持たなくなるだろう。
「ルビコン川を渡れ、か。――これも運命ってやつか? だとしたら……」
嘲笑の籠もった笑いが、思わず口の端から漏れた。聖書の一節かどこかで聞いた言葉かは分からないが、どちらにしろ、それは本当にどうでもいいことだ。
「結局、俺とお前は違う人間だからな」