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「わっ、海だ」
生まれてから何度も、飽きるほど見ているそれを車窓から眺めて、息を弾ませながらナマエはそう言った。
「ねえ見て楓、綺麗だね」
「別に、フツー」
「えぇ、冷めてるなぁー」
ナマエは窓ガラスを全開にすると、車が風を切って走る音とうみねこの鳴き声が車内に入り込んできた。
ラジオを聞きながらうつらうつらとしていた楓は、生ぬるい風が自分の頬を撫でるのを感じて、ゆっくりと意識を覚醒させる。
横にいるナマエは上機嫌で、合宿所に向かう道とは真逆に車を走らせていた。高速道路の速度制限ギリギリを、何かに追われるような真剣さで攻めている。
「死ぬならさぁ、海と山どっちがいい?」
ナマエは冗談めかして言う。夕飯に何を食べたいのか聞くような口調だった。
「オレは死にたくねえ」
「ダメだよ、楓はわたしと一緒に死ぬの」
話が通じない。
楓はしばらく黙っていることにした。ここで下手に反論すると、彼女が泣いてうるさくなる。それでは安眠は阻害されてしまう。どうせ本気で死ぬわけがないから、無視しても問題はない、はずだ。おそらく。
ラジオからは今週のヒットチャートと称して、海外の最新曲が流れていた。この前レコード屋に行った時に平積みされていた曲が、スピーカーから流れてくる。しばらく耳を傾けていると、ナマエが気づいて口を開いた。
「いい曲だねえ。楓は好き?」
「まあまあ」
「本当に無愛想だよねえ、楓は」
無愛想でかわいくない。
それがナマエの流川楓に思う印象だった。
不運にも美しく生まれてしまった幼馴染みに、苛立ちと嫉妬と焦燥感を覚えながら、勿体無いと身を案じてしまう繊細な気持ち、もといおせっかい根性からこんな言葉を吐いてしまう。実際に流川が無口で少々愛想に欠ける部分があることには違いがないのだが。
「まあ、顔で許されてるか」
そう言っていつも言葉を締めくくる。今回もそうだった。美人で愛想が良ければなにかと不都合もあるだろう。この場合、主に女性関係で問題が起こりそうだし、高校生にして父親になったら困るし、とナマエは己を納得させる。
「顔は……関係ねえ」
「うんうん、そっかあ」
ナマエは眼鏡の上に遮光性のレンズをかけると、まばゆい日差しから逃げるようにアクセルをベタ踏みする。
「おい」
速度の上限をいつ超えてもおかしくない荒い運転に、思わず流川も声を上げた。まだ若葉マークをつけた新人ドライバーのくせに、度胸だけは人一倍あるのだ。そういうところが、楓にとっても恐ろしい。
「どーせわたししか運転できないんだから、黙ってて」子供を叱る母親のような声色だった。「西へ、とにかく西へ行くよ……」
うなされるように呟くナマエに、楓は反論の気力も失った。一度決めたらテコでも動かない。ナマエは昔からそうだった。
流川楓とミョウジナマエの関係は、五歳の時から始まった。二人は所謂「幼馴染み」というやつで、そのきっかけは母親同士の横の繋がりである。それ以上でもそれ以下でもない。
幼稚園のママ友同士の縁で、異性同士であるにも関わらず、楓とナマエの関係はそれなりに良好だった。ナマエが楓を気に入ったのと、楓が後ろからついてくるナマエを特段嫌がらなかったからである。それに、ナマエはやけに面倒見が良かった。一人っ子でお姉さんぶりたいところがあったナマエにとって、楓は合法的にたくさん世話を焼けるお人形のような存在だったのである。
楓の母親も、抜けたところのある自分の息子を気にして、ナマエちゃんが一緒にいてくれるなら安心だと言い、ナマエに楓の面倒を見させるように「外注」するようになった。
需要の一致により、ナマエはバスケット以外の流川楓の生活の一端を、陰ながら支える黒子になったのである──といっても、それは表向きの話。
実際のところ、ナマエも楓に負けず劣らずの変人だった。彼女は昔からやや気性が難しいところがあり、外ではうまく取り繕っていたが、気を許した人間の前だと突拍子もない行動に出ることがあった。
突然、明日地球が終わるといって騒ぎ出し、登校を渋ったり、前髪が気に入らないと自殺すると言い出してこれまた学校に遅刻したりした。それまでならまだかわいい方で、ひどい時は自傷行為に走ることもあった。こういうヒステリーを起こした時、ナマエの様子を窺いに来た楓を見つけると、彼女は落ち着きを取り戻す。実際のところ、二人は持ちつ持たれつの関係にあった。
外ではすぐ眠ったり忘れ物を繰り返したり、喧嘩をすぐに買ってしまう楓の奇行が目立っていただけで、ナマエも十分変人だったのである。
「楓、わたし、学校やめたわ」
楓が湘北高校に入学してしばらく経ち、バスケ部が全国大会の切符を手にした頃、ナマエは通っていた公立の中高一貫校を退学した。
いきなり中卒になった娘に、彼女の両親は怒り心頭といった様子だったらしい。夜中にヘラヘラと悪びれる様子もなく楓の家に電話をかけ、そう言ったナマエは特段気にした様子もなく、高校を辞めた理由についてもいつまでも明かさなかった。
中学受験をした時に「あんたのそばにいると女に嫉妬されて困る」と堂々と言い放った幼馴染みが、退学理由については意地でも話さなかったので、楓はそれ以上追求しようがなかった。
それに、聞く理由も見当たらない。多少は驚いたが、あいつが学校に行こうが行くまいが関係ねー。流川楓が出した結論はそれだった。
そして、それに加えてバスケットのインターハイが控えていた楓にとって、部活の練習が第一であり、幼馴染みのお家騒動なんかよりも、いかに多く練習をこなすかの方が重要だったのである。
そんなこんなで、ナマエは大検を取るとフリーター兼予備校生になった。昼間はバイトで夜は大学受験のために予備校に通う生活を始めたのである。
楓はそもそも、高校に三年通わなくても高卒扱いになる試験があるということを知らなかった。なのでナマエからその話を聞いたときに、楓は「俺もそれやりてえ」と言いかけた。試験さえパスしてしまえばバスケをやり放題というのは彼にとっては夢のような話だった。
……が、「学校通ってないと全国行けないからね」というナマエの冷静な一言を聞いて考えを改めた。「それにあんた勉強駄目なんだからさあ」とも言われた。正論だった。
楓が高校三年になった今、ナマエはバイトを辞めた。二年間の貯金で予備校代を稼いだナマエは、ひたすら志望校に向かって直進する機械のように勉強漬けになった。楓にとってのバスケへの熱量と同じものを、ナマエは受験に向けていたのである。
しかし、全く遊んでいないわけではなかった。寝坊して学校から合宿所へと向かうバスに乗り遅れた楓を、ナマエは自分の車で送り届けると申し出た。ナマエは最近中古の軽自動車を安く譲り受けたのだと自慢していた。鎌倉から合宿所までは上の道を使っても二時間程度で行ける場所なので、ドライブがてら送っていくと彼女から言い出したのである。
ナマエが勉強の息抜きにドライブをするのは楓の両親も知っていることだった。それに、どうしたものかと流川の家族全員が困っていたところだったのでその提案はまさしく渡りに舟だったのである。
かくして、流川楓はナマエに誘拐された。
「腹減った」
「前のとこでパン買えばよかったのに」
一時間ほど揺られていたところで、楓は異変に気づいた。
「道、間違ってる」
合宿所は去年と同じ場所だった。全員でリムジンバスに乗り込んで、その道中楓はずっと眠っていたのだが、それでも地理的に真逆に進んでいることはわかった。
ナマエはそれを聞いても焦りもしない。楓を無視するかのようにハンドルを握り、動揺はまったくなかった。
「いいの、これで」
「あ?」
「楓、あんたが全国で優勝する前に死ぬのは可哀想だと思ってる。でもね、わたしは今死ぬの。というか、あんたも一緒だけどね」
耳を疑うような言葉が彼女の口から滔々と流れた。心中。そんな言葉が古典の授業で出てきた気がする。自分と一緒に自殺しようとしているのだ、と理解した時にはナマエは泣き出していた。
「ごめん……。本当に」
「なんでそんなこと、オレと」
「なんでかな、わかんない」
ナマエが泣き出した時には、下手なことは言わない方がいい。今すぐ道路の脇に突っ込んで事故に見せかけた自殺をしかねない人なのだ。この女は。
「ごめんね、ごめん……」
いつもの発作だ。
楓はナマエの情緒不安定でぶっ飛んでいる性格に付き合うことになれている。だから、合宿に遅刻して全員に迷惑をかけることはヤバいと思っていたが、それ以上にどうしようもないことは理解できた。今すぐに降りてヒッチハイクをする、ということも考えたがそれはナマエをなだめて方向転換することよりも困難かもしれない。
彼女が落ち着いて、そして逆戻りして正しい方向に進んで貰う。そうしてもらうしかないと楓は結論づけた。
(――めんどくせー)
そもそも寝坊した自分が悪いので、あまり文句をつけられないのは事実だった。
「そこのサービスエリア、行こ」
「トイレ?」
「いや、電話」
「ああ……。いいよ」
車を降りると、公衆電話から合宿所の番号まで電話をかけた。荷物の中に合宿のしおりが入っていたからよかったと楓は思った。
「バカキツネ! お前どこにいんだよっ!」
「……うるせえ」
耳が痛くなるような声が響いた。桜木花道は相当ご立腹らしい。無理もない話だ。……というか、当然だ。無断欠席している形になるのだから。
「電話して聞いてもお前の親も知らねえって言うし、行方不明扱いで警察にも届けたらしいしよお。こっちは練習どころじゃねえんだよ! オレはお前がどーなろうが知ったこっちゃねえけど、部員のやつらがうるせえし、そもそも親に心配かけてんじゃねえよ!」
「……送ってもらってる」
「誰に」
「……知り合い」
「お前今どこなんだ? まさか道に迷ったなんていわねえよな」
「――の道の駅」
「……おい、真反対じゃねえか。お前どうなってんだ」
「誘拐された」
「……は?」
「一緒に死のうって言われて、俺はどうしようもねえから車に乗ってる」
「――はぁ? ってそれ犯罪じゃ……」
「なんでそんなことまで言うの?」
ガチャン、と乱暴に電話が切られた。ナマエの指が、受話器を戻す箇所を指で押さえている。
「……車の中にいたんじゃ」
「逃げようとするかなって思って」
「逃げねー」
「わたしに付き合ってくれないんだ。そういう魂胆なんでしょ」
「一緒に死んでやるとは言ってない」
夕暮れ時、茜色の空よりも真っ赤な顔でナマエは怒っていた。真剣にキレている時の顔だ。
「オレだって合宿行きてえけどお前に合わせてやってる」
「……っ、そうだけど、さぁ」
「勉強」
「……は」
「死んだら今まで頑張ったの、無駄になる」
「あんたに、何が分かるの」
ナマエは楓の無表情な顔を見上げて、吐き捨てた。
「わかんねー。オレには、なにも」
「――好き勝手言われたって、わたしだってわかんないのにさぁ!」
「でも、ずっとナマエが頑張ってたのはわかる」
朝練に出る時間から机に張り付いているナマエの姿を、自分が帰宅するよりも数時間遅く予備校から帰ってくるナマエの姿を、学校が嫌になって自分にだけ泣き顔を見せたナマエの姿を、流川楓は知っている。
できる限り言葉にして伝えても、事態は一向に改善しなかった。
「……楓の方が、頑張ってるよ。わたしなんて、中卒だし、何にもないもん」
「何にもないやつなんて、いない」
「……そうだとしても、わたしは楓と一緒に死にたい。だって、わたしあんた以外に友達いないし」
「友達だったら一緒に死んでくれると思ってるのか」
「……一人は、嫌だから」
「やっぱわかんねえ」
「……心中するなら、あんたと一緒がいいって思ってた」
「嬉しくない」
「……好きだから。その上でムカつくから」
「……」
「ごめん、今の忘れて」
「オレが好き?」
「…………そうかも。他の女の子に何回も言われてるだろうから、珍しくもなんともないだろうけど」
「……今はバスケしたいから」
「絶対そう言うと思った。……ごめん、やっぱ好きじゃないかも」
「どっち」
「だから、わかんないって言ってんじゃん。もう」
ナマエはフラフラとした足取りで歩き出した。手にはペットボトルが一本、車にたどり着くころには顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「……それじゃあ、もうちょっとで目的地につくから。泊まりのお金、ないから飛ばすね」
涙をダラダラと流しながらエンジンをかけるナマエを見て、これだと前が見えないのではないかと楓は不安になった。しかし、不意に眠気が襲ってくる。
「寝たかったら、寝ていいよ」
「寝れるか、こんなんで」
日が沈んで道が暗くなってきた。車の中のゴミ箱はティッシュで一杯になった。
湘南から西、にどれだけ進んだかわからない。楓はもはや成り行きに全てを任せていた。死ぬつもりは毛頭なかったが、きっと彼女のやりたいようにするしかないのだと諦めるしかなかった。「諦める」という選択をするのは、本当にナマエが絡んだ時くらいだ。
外はもうすっかり暗くなっていた。楓が半分眠り欠けていたその時、ナマエは下の道に降りた。
「……今日、今、ここで、するの」
「……勝手にやってろ」
名前も聞いたことのないような田舎の道……辺りは畑と潰れそうな旅館と、空き地……民家はどれも古ぼけていた。十数年前、生まれた時分にタイムスリップしたような光景が延々と続いている。
「ここも、海沿い」
「わたし……死ぬなら海の近くでくたばるって決めてるんだ」
「……映画?」
「天国じゃみんな、海の話をするんだよ」
ナマエとは、一緒になってレンタルショップに通った。楓は音楽でナマエはビデオを借りて、帰りにはアイスを食べる。
それが日常で、崩れることがない。
今この瞬間まで、楓はナマエが何を見ているのか全く知らなかった。お互いの好きな物には不干渉だったし、それに――興味もなかった。
音楽の好みも知らない。好きな映画も。ずっと一緒にいたのに。でも……、それで問題なかった。
きっとさっきの言葉もどこかの映画から引っ張ってきた文句なんだろう。誰もタイトルを知らないような変な映画ばかり見ていたナマエのことだから、きっとそうだろう。
「天国だなんて、くだらねー」
「楓はそういうの、信じてないもんね」
道は時折ある電灯の光以外は真っ暗で、完全に夜になっていた。腹減った。何か食いてえ、というように楓の腹は訴えかけていたのだが、冷静なようで興奮して瞳孔の開ききったナマエに言っても何も意味がないだろう。こんなところはコンビニもないし、言って止まるようなら最初から自殺なんて企てない。そういう女だ。
「この海、なんか荒れてるね」
「お気に召さないか」
「ううん。すっごく好き、泳げそうにない海、好きだよ」
「昔――行ったよな。渦潮、船で」
「よく覚えてるね」
「オレも、好き」
「わたしたち、ちゃんと通じ合ってるじゃん。よかったぁ」
黒い海が、全ての波が、丘の物を阻むようにとぐろを巻いている。ナマエは堤防の近くに車を止めると、シートベルトをさっと外して外に出て行った。
「は、や、くぅ! 楓も来なよぉ!」
何も持たずにナマエは出て行った。ここがどこだかさっぱり分からないが、横浜ナンバーの車はさぞ目立つだろう。楓も言われるがままに外に出た。自殺ごっこに付き合ってやる気は一切ない。でも一人で置いていけば何があるかわからない。ひらひらと宙を舞う凧のように、手を離せばどこに飛んで行くのかわからない。それがナマエだから。
「おい、勝手に死ぬな!」
「それって新手のアイラブユーかなぁ」
外に出ると、ツンと刺すような寒さが身に染みた。ナマエは月明かりの下、コンクリの防波堤の上でゆらゆらと揺れていた。――昔、合唱コンクールの時にじっとしていられなくてずっと怒られていた。その時のことを思い出す。楓の人生にはずっとナマエがいて、それが普通で、ずっと続くと思い込んでいた。思い込んでいる――ずっとそうするようにする。ナマエが少しでも海に身を投げようとしたら、どんな手段を使ってでも、止める。
へらへらと笑ってナマエは楓の方を見た。先生に怒られた時と、まったく同じ顔をしている。
「楓……。本当にごめんね」
「謝ってんじゃねえ」
「楓は絶対謝らないもんなぁ」
夜の闇と夜空を反射した海が、ごうごうと渦巻いている。静かなはずなのに、五月蠅い。
ナマエは楓の手を取った。小さい手だった。何気ない仕草で右手を掴まれて、ゾッとした――。というよりは、心臓が急激に激しく鼓動した。ナマエはすでに、半分死んでいるのではないか。奇妙な妄想だが、このほぼ真っ暗な空間においてナマエはカメレオンのように溶け込んでいた。視界が白と黒しかないせいで、滲んだ模様のようにするするとナマエが真っ暗な中に溶けていく、そんな妄想……幻覚。
「わたし、多分楓以上に一緒に死にたい相手なんていない。多分一人だったら一人で死んでるけど……大好きだから、わたしの双子――オレンジの片割れだって、思ってるから。気持ちは無理でも、事実はわたしにちょうだい」
ナマエの細い腕が楓の腰に回された。抱きしめられている――多分、小さな子供のときはこうやっていたけれど、大きくなってからはこんなこと、いつの間にかしなくなっていた。ふわりとナマエの髪が揺れて、真っ黒な中に混じる前に一瞬光った。星が消える直前のような光。
「バカなことしてんじゃねえ、どあほう」
楓はそっと、自分にくっついているナマエをどかした。
「ひどいよ。なんでわたしがやりたいこと、応援してくれないのおっ」
「オメーが変なことしたら、オレが止めるしかないだろ」
ナマエはその場にへたり込んだ。子供にかんしゃくを起こすと毎回そうやって、地面に座って大泣きしていた。これも、本当に昔のままだった。ギャアギャアと泣くのはもうしなくなったが、ナマエはひどいひどいと言って楓の足を殴った。
「ポーズだな」
「う、る、せ~! ポーズちがうし! ほんとに辛いんだもん! さっき泣いたのにっ、信じてくれないんだぁ!」
「あ、ケーサツ」
「あ……っ」
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。消防かもしれないが、きっと警察だ。親が心配して警察を呼んだとか、そんなことを桜木花道が言っていたことを、楓は思い出した。
「田舎だから県外ナンバーで通報されたんだ……」
「……あぁ」
「きっしょ~! 地方マジでキモ! 封鎖社会キモっ!」
「夜の海に地元の人間じゃねぇのがいたら、怪しまれる」
「う」
「家帰って、勉強しろ。受験生。オレは合宿行きてえし。お前のせいで無駄になった」
「楓ぇ……。やっぱ可愛くないよ~! 嫌いだ! 嫌い嫌い嫌いっ!」
「……うるさい」
車に積まれていた「完全自殺マニュアル」なる本を、楓は黙って夜の海に放り投げた。
「あっ」
「オレはまだ、死にたくない。オレが、お前に死んで欲しくない。これだけ」
膝を抱えて泣き出したナマエを、昔のように背中をさすってやることしかできない。これ以上何をすればいいのかわからなかった。
「……わかんない、何も。わかんないんだもん、全部。どうしたらいいか……わかってたら、こんなことしてない」
「それなら……オレも一緒に考える」
「んん……」
「犯罪は駄目だ」
「わかってるよ」
楓が差し出した手をとって、ナマエはそっと立ち上がった。道沿いに走ってくるパトカーのランプが、こちらに向かって落ちてくる彗星のようだと彼女は思った。
生まれてから何度も、飽きるほど見ているそれを車窓から眺めて、息を弾ませながらナマエはそう言った。
「ねえ見て楓、綺麗だね」
「別に、フツー」
「えぇ、冷めてるなぁー」
ナマエは窓ガラスを全開にすると、車が風を切って走る音とうみねこの鳴き声が車内に入り込んできた。
ラジオを聞きながらうつらうつらとしていた楓は、生ぬるい風が自分の頬を撫でるのを感じて、ゆっくりと意識を覚醒させる。
横にいるナマエは上機嫌で、合宿所に向かう道とは真逆に車を走らせていた。高速道路の速度制限ギリギリを、何かに追われるような真剣さで攻めている。
「死ぬならさぁ、海と山どっちがいい?」
ナマエは冗談めかして言う。夕飯に何を食べたいのか聞くような口調だった。
「オレは死にたくねえ」
「ダメだよ、楓はわたしと一緒に死ぬの」
話が通じない。
楓はしばらく黙っていることにした。ここで下手に反論すると、彼女が泣いてうるさくなる。それでは安眠は阻害されてしまう。どうせ本気で死ぬわけがないから、無視しても問題はない、はずだ。おそらく。
ラジオからは今週のヒットチャートと称して、海外の最新曲が流れていた。この前レコード屋に行った時に平積みされていた曲が、スピーカーから流れてくる。しばらく耳を傾けていると、ナマエが気づいて口を開いた。
「いい曲だねえ。楓は好き?」
「まあまあ」
「本当に無愛想だよねえ、楓は」
無愛想でかわいくない。
それがナマエの流川楓に思う印象だった。
不運にも美しく生まれてしまった幼馴染みに、苛立ちと嫉妬と焦燥感を覚えながら、勿体無いと身を案じてしまう繊細な気持ち、もといおせっかい根性からこんな言葉を吐いてしまう。実際に流川が無口で少々愛想に欠ける部分があることには違いがないのだが。
「まあ、顔で許されてるか」
そう言っていつも言葉を締めくくる。今回もそうだった。美人で愛想が良ければなにかと不都合もあるだろう。この場合、主に女性関係で問題が起こりそうだし、高校生にして父親になったら困るし、とナマエは己を納得させる。
「顔は……関係ねえ」
「うんうん、そっかあ」
ナマエは眼鏡の上に遮光性のレンズをかけると、まばゆい日差しから逃げるようにアクセルをベタ踏みする。
「おい」
速度の上限をいつ超えてもおかしくない荒い運転に、思わず流川も声を上げた。まだ若葉マークをつけた新人ドライバーのくせに、度胸だけは人一倍あるのだ。そういうところが、楓にとっても恐ろしい。
「どーせわたししか運転できないんだから、黙ってて」子供を叱る母親のような声色だった。「西へ、とにかく西へ行くよ……」
うなされるように呟くナマエに、楓は反論の気力も失った。一度決めたらテコでも動かない。ナマエは昔からそうだった。
流川楓とミョウジナマエの関係は、五歳の時から始まった。二人は所謂「幼馴染み」というやつで、そのきっかけは母親同士の横の繋がりである。それ以上でもそれ以下でもない。
幼稚園のママ友同士の縁で、異性同士であるにも関わらず、楓とナマエの関係はそれなりに良好だった。ナマエが楓を気に入ったのと、楓が後ろからついてくるナマエを特段嫌がらなかったからである。それに、ナマエはやけに面倒見が良かった。一人っ子でお姉さんぶりたいところがあったナマエにとって、楓は合法的にたくさん世話を焼けるお人形のような存在だったのである。
楓の母親も、抜けたところのある自分の息子を気にして、ナマエちゃんが一緒にいてくれるなら安心だと言い、ナマエに楓の面倒を見させるように「外注」するようになった。
需要の一致により、ナマエはバスケット以外の流川楓の生活の一端を、陰ながら支える黒子になったのである──といっても、それは表向きの話。
実際のところ、ナマエも楓に負けず劣らずの変人だった。彼女は昔からやや気性が難しいところがあり、外ではうまく取り繕っていたが、気を許した人間の前だと突拍子もない行動に出ることがあった。
突然、明日地球が終わるといって騒ぎ出し、登校を渋ったり、前髪が気に入らないと自殺すると言い出してこれまた学校に遅刻したりした。それまでならまだかわいい方で、ひどい時は自傷行為に走ることもあった。こういうヒステリーを起こした時、ナマエの様子を窺いに来た楓を見つけると、彼女は落ち着きを取り戻す。実際のところ、二人は持ちつ持たれつの関係にあった。
外ではすぐ眠ったり忘れ物を繰り返したり、喧嘩をすぐに買ってしまう楓の奇行が目立っていただけで、ナマエも十分変人だったのである。
「楓、わたし、学校やめたわ」
楓が湘北高校に入学してしばらく経ち、バスケ部が全国大会の切符を手にした頃、ナマエは通っていた公立の中高一貫校を退学した。
いきなり中卒になった娘に、彼女の両親は怒り心頭といった様子だったらしい。夜中にヘラヘラと悪びれる様子もなく楓の家に電話をかけ、そう言ったナマエは特段気にした様子もなく、高校を辞めた理由についてもいつまでも明かさなかった。
中学受験をした時に「あんたのそばにいると女に嫉妬されて困る」と堂々と言い放った幼馴染みが、退学理由については意地でも話さなかったので、楓はそれ以上追求しようがなかった。
それに、聞く理由も見当たらない。多少は驚いたが、あいつが学校に行こうが行くまいが関係ねー。流川楓が出した結論はそれだった。
そして、それに加えてバスケットのインターハイが控えていた楓にとって、部活の練習が第一であり、幼馴染みのお家騒動なんかよりも、いかに多く練習をこなすかの方が重要だったのである。
そんなこんなで、ナマエは大検を取るとフリーター兼予備校生になった。昼間はバイトで夜は大学受験のために予備校に通う生活を始めたのである。
楓はそもそも、高校に三年通わなくても高卒扱いになる試験があるということを知らなかった。なのでナマエからその話を聞いたときに、楓は「俺もそれやりてえ」と言いかけた。試験さえパスしてしまえばバスケをやり放題というのは彼にとっては夢のような話だった。
……が、「学校通ってないと全国行けないからね」というナマエの冷静な一言を聞いて考えを改めた。「それにあんた勉強駄目なんだからさあ」とも言われた。正論だった。
楓が高校三年になった今、ナマエはバイトを辞めた。二年間の貯金で予備校代を稼いだナマエは、ひたすら志望校に向かって直進する機械のように勉強漬けになった。楓にとってのバスケへの熱量と同じものを、ナマエは受験に向けていたのである。
しかし、全く遊んでいないわけではなかった。寝坊して学校から合宿所へと向かうバスに乗り遅れた楓を、ナマエは自分の車で送り届けると申し出た。ナマエは最近中古の軽自動車を安く譲り受けたのだと自慢していた。鎌倉から合宿所までは上の道を使っても二時間程度で行ける場所なので、ドライブがてら送っていくと彼女から言い出したのである。
ナマエが勉強の息抜きにドライブをするのは楓の両親も知っていることだった。それに、どうしたものかと流川の家族全員が困っていたところだったのでその提案はまさしく渡りに舟だったのである。
かくして、流川楓はナマエに誘拐された。
「腹減った」
「前のとこでパン買えばよかったのに」
一時間ほど揺られていたところで、楓は異変に気づいた。
「道、間違ってる」
合宿所は去年と同じ場所だった。全員でリムジンバスに乗り込んで、その道中楓はずっと眠っていたのだが、それでも地理的に真逆に進んでいることはわかった。
ナマエはそれを聞いても焦りもしない。楓を無視するかのようにハンドルを握り、動揺はまったくなかった。
「いいの、これで」
「あ?」
「楓、あんたが全国で優勝する前に死ぬのは可哀想だと思ってる。でもね、わたしは今死ぬの。というか、あんたも一緒だけどね」
耳を疑うような言葉が彼女の口から滔々と流れた。心中。そんな言葉が古典の授業で出てきた気がする。自分と一緒に自殺しようとしているのだ、と理解した時にはナマエは泣き出していた。
「ごめん……。本当に」
「なんでそんなこと、オレと」
「なんでかな、わかんない」
ナマエが泣き出した時には、下手なことは言わない方がいい。今すぐ道路の脇に突っ込んで事故に見せかけた自殺をしかねない人なのだ。この女は。
「ごめんね、ごめん……」
いつもの発作だ。
楓はナマエの情緒不安定でぶっ飛んでいる性格に付き合うことになれている。だから、合宿に遅刻して全員に迷惑をかけることはヤバいと思っていたが、それ以上にどうしようもないことは理解できた。今すぐに降りてヒッチハイクをする、ということも考えたがそれはナマエをなだめて方向転換することよりも困難かもしれない。
彼女が落ち着いて、そして逆戻りして正しい方向に進んで貰う。そうしてもらうしかないと楓は結論づけた。
(――めんどくせー)
そもそも寝坊した自分が悪いので、あまり文句をつけられないのは事実だった。
「そこのサービスエリア、行こ」
「トイレ?」
「いや、電話」
「ああ……。いいよ」
車を降りると、公衆電話から合宿所の番号まで電話をかけた。荷物の中に合宿のしおりが入っていたからよかったと楓は思った。
「バカキツネ! お前どこにいんだよっ!」
「……うるせえ」
耳が痛くなるような声が響いた。桜木花道は相当ご立腹らしい。無理もない話だ。……というか、当然だ。無断欠席している形になるのだから。
「電話して聞いてもお前の親も知らねえって言うし、行方不明扱いで警察にも届けたらしいしよお。こっちは練習どころじゃねえんだよ! オレはお前がどーなろうが知ったこっちゃねえけど、部員のやつらがうるせえし、そもそも親に心配かけてんじゃねえよ!」
「……送ってもらってる」
「誰に」
「……知り合い」
「お前今どこなんだ? まさか道に迷ったなんていわねえよな」
「――の道の駅」
「……おい、真反対じゃねえか。お前どうなってんだ」
「誘拐された」
「……は?」
「一緒に死のうって言われて、俺はどうしようもねえから車に乗ってる」
「――はぁ? ってそれ犯罪じゃ……」
「なんでそんなことまで言うの?」
ガチャン、と乱暴に電話が切られた。ナマエの指が、受話器を戻す箇所を指で押さえている。
「……車の中にいたんじゃ」
「逃げようとするかなって思って」
「逃げねー」
「わたしに付き合ってくれないんだ。そういう魂胆なんでしょ」
「一緒に死んでやるとは言ってない」
夕暮れ時、茜色の空よりも真っ赤な顔でナマエは怒っていた。真剣にキレている時の顔だ。
「オレだって合宿行きてえけどお前に合わせてやってる」
「……っ、そうだけど、さぁ」
「勉強」
「……は」
「死んだら今まで頑張ったの、無駄になる」
「あんたに、何が分かるの」
ナマエは楓の無表情な顔を見上げて、吐き捨てた。
「わかんねー。オレには、なにも」
「――好き勝手言われたって、わたしだってわかんないのにさぁ!」
「でも、ずっとナマエが頑張ってたのはわかる」
朝練に出る時間から机に張り付いているナマエの姿を、自分が帰宅するよりも数時間遅く予備校から帰ってくるナマエの姿を、学校が嫌になって自分にだけ泣き顔を見せたナマエの姿を、流川楓は知っている。
できる限り言葉にして伝えても、事態は一向に改善しなかった。
「……楓の方が、頑張ってるよ。わたしなんて、中卒だし、何にもないもん」
「何にもないやつなんて、いない」
「……そうだとしても、わたしは楓と一緒に死にたい。だって、わたしあんた以外に友達いないし」
「友達だったら一緒に死んでくれると思ってるのか」
「……一人は、嫌だから」
「やっぱわかんねえ」
「……心中するなら、あんたと一緒がいいって思ってた」
「嬉しくない」
「……好きだから。その上でムカつくから」
「……」
「ごめん、今の忘れて」
「オレが好き?」
「…………そうかも。他の女の子に何回も言われてるだろうから、珍しくもなんともないだろうけど」
「……今はバスケしたいから」
「絶対そう言うと思った。……ごめん、やっぱ好きじゃないかも」
「どっち」
「だから、わかんないって言ってんじゃん。もう」
ナマエはフラフラとした足取りで歩き出した。手にはペットボトルが一本、車にたどり着くころには顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「……それじゃあ、もうちょっとで目的地につくから。泊まりのお金、ないから飛ばすね」
涙をダラダラと流しながらエンジンをかけるナマエを見て、これだと前が見えないのではないかと楓は不安になった。しかし、不意に眠気が襲ってくる。
「寝たかったら、寝ていいよ」
「寝れるか、こんなんで」
日が沈んで道が暗くなってきた。車の中のゴミ箱はティッシュで一杯になった。
湘南から西、にどれだけ進んだかわからない。楓はもはや成り行きに全てを任せていた。死ぬつもりは毛頭なかったが、きっと彼女のやりたいようにするしかないのだと諦めるしかなかった。「諦める」という選択をするのは、本当にナマエが絡んだ時くらいだ。
外はもうすっかり暗くなっていた。楓が半分眠り欠けていたその時、ナマエは下の道に降りた。
「……今日、今、ここで、するの」
「……勝手にやってろ」
名前も聞いたことのないような田舎の道……辺りは畑と潰れそうな旅館と、空き地……民家はどれも古ぼけていた。十数年前、生まれた時分にタイムスリップしたような光景が延々と続いている。
「ここも、海沿い」
「わたし……死ぬなら海の近くでくたばるって決めてるんだ」
「……映画?」
「天国じゃみんな、海の話をするんだよ」
ナマエとは、一緒になってレンタルショップに通った。楓は音楽でナマエはビデオを借りて、帰りにはアイスを食べる。
それが日常で、崩れることがない。
今この瞬間まで、楓はナマエが何を見ているのか全く知らなかった。お互いの好きな物には不干渉だったし、それに――興味もなかった。
音楽の好みも知らない。好きな映画も。ずっと一緒にいたのに。でも……、それで問題なかった。
きっとさっきの言葉もどこかの映画から引っ張ってきた文句なんだろう。誰もタイトルを知らないような変な映画ばかり見ていたナマエのことだから、きっとそうだろう。
「天国だなんて、くだらねー」
「楓はそういうの、信じてないもんね」
道は時折ある電灯の光以外は真っ暗で、完全に夜になっていた。腹減った。何か食いてえ、というように楓の腹は訴えかけていたのだが、冷静なようで興奮して瞳孔の開ききったナマエに言っても何も意味がないだろう。こんなところはコンビニもないし、言って止まるようなら最初から自殺なんて企てない。そういう女だ。
「この海、なんか荒れてるね」
「お気に召さないか」
「ううん。すっごく好き、泳げそうにない海、好きだよ」
「昔――行ったよな。渦潮、船で」
「よく覚えてるね」
「オレも、好き」
「わたしたち、ちゃんと通じ合ってるじゃん。よかったぁ」
黒い海が、全ての波が、丘の物を阻むようにとぐろを巻いている。ナマエは堤防の近くに車を止めると、シートベルトをさっと外して外に出て行った。
「は、や、くぅ! 楓も来なよぉ!」
何も持たずにナマエは出て行った。ここがどこだかさっぱり分からないが、横浜ナンバーの車はさぞ目立つだろう。楓も言われるがままに外に出た。自殺ごっこに付き合ってやる気は一切ない。でも一人で置いていけば何があるかわからない。ひらひらと宙を舞う凧のように、手を離せばどこに飛んで行くのかわからない。それがナマエだから。
「おい、勝手に死ぬな!」
「それって新手のアイラブユーかなぁ」
外に出ると、ツンと刺すような寒さが身に染みた。ナマエは月明かりの下、コンクリの防波堤の上でゆらゆらと揺れていた。――昔、合唱コンクールの時にじっとしていられなくてずっと怒られていた。その時のことを思い出す。楓の人生にはずっとナマエがいて、それが普通で、ずっと続くと思い込んでいた。思い込んでいる――ずっとそうするようにする。ナマエが少しでも海に身を投げようとしたら、どんな手段を使ってでも、止める。
へらへらと笑ってナマエは楓の方を見た。先生に怒られた時と、まったく同じ顔をしている。
「楓……。本当にごめんね」
「謝ってんじゃねえ」
「楓は絶対謝らないもんなぁ」
夜の闇と夜空を反射した海が、ごうごうと渦巻いている。静かなはずなのに、五月蠅い。
ナマエは楓の手を取った。小さい手だった。何気ない仕草で右手を掴まれて、ゾッとした――。というよりは、心臓が急激に激しく鼓動した。ナマエはすでに、半分死んでいるのではないか。奇妙な妄想だが、このほぼ真っ暗な空間においてナマエはカメレオンのように溶け込んでいた。視界が白と黒しかないせいで、滲んだ模様のようにするするとナマエが真っ暗な中に溶けていく、そんな妄想……幻覚。
「わたし、多分楓以上に一緒に死にたい相手なんていない。多分一人だったら一人で死んでるけど……大好きだから、わたしの双子――オレンジの片割れだって、思ってるから。気持ちは無理でも、事実はわたしにちょうだい」
ナマエの細い腕が楓の腰に回された。抱きしめられている――多分、小さな子供のときはこうやっていたけれど、大きくなってからはこんなこと、いつの間にかしなくなっていた。ふわりとナマエの髪が揺れて、真っ黒な中に混じる前に一瞬光った。星が消える直前のような光。
「バカなことしてんじゃねえ、どあほう」
楓はそっと、自分にくっついているナマエをどかした。
「ひどいよ。なんでわたしがやりたいこと、応援してくれないのおっ」
「オメーが変なことしたら、オレが止めるしかないだろ」
ナマエはその場にへたり込んだ。子供にかんしゃくを起こすと毎回そうやって、地面に座って大泣きしていた。これも、本当に昔のままだった。ギャアギャアと泣くのはもうしなくなったが、ナマエはひどいひどいと言って楓の足を殴った。
「ポーズだな」
「う、る、せ~! ポーズちがうし! ほんとに辛いんだもん! さっき泣いたのにっ、信じてくれないんだぁ!」
「あ、ケーサツ」
「あ……っ」
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。消防かもしれないが、きっと警察だ。親が心配して警察を呼んだとか、そんなことを桜木花道が言っていたことを、楓は思い出した。
「田舎だから県外ナンバーで通報されたんだ……」
「……あぁ」
「きっしょ~! 地方マジでキモ! 封鎖社会キモっ!」
「夜の海に地元の人間じゃねぇのがいたら、怪しまれる」
「う」
「家帰って、勉強しろ。受験生。オレは合宿行きてえし。お前のせいで無駄になった」
「楓ぇ……。やっぱ可愛くないよ~! 嫌いだ! 嫌い嫌い嫌いっ!」
「……うるさい」
車に積まれていた「完全自殺マニュアル」なる本を、楓は黙って夜の海に放り投げた。
「あっ」
「オレはまだ、死にたくない。オレが、お前に死んで欲しくない。これだけ」
膝を抱えて泣き出したナマエを、昔のように背中をさすってやることしかできない。これ以上何をすればいいのかわからなかった。
「……わかんない、何も。わかんないんだもん、全部。どうしたらいいか……わかってたら、こんなことしてない」
「それなら……オレも一緒に考える」
「んん……」
「犯罪は駄目だ」
「わかってるよ」
楓が差し出した手をとって、ナマエはそっと立ち上がった。道沿いに走ってくるパトカーのランプが、こちらに向かって落ちてくる彗星のようだと彼女は思った。
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