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あーまたか、と思いながら廊下を歩く。廊下の窓からは夕陽が差し込んでいて、それに照らされながら談笑する生徒の声がかなり大きく響いていた。今のところ、注意する気力はない。女子校なんて上品で清楚なお嬢様の集まりだと思っていた新卒のオレを引っ叩きたくなった。
実際の女子校は、シーブリーズの匂いがツンと鼻に付く女子と言う名の珍獣が闊歩する動物園だ。オレたち若い独身の男性教師は、例えるなら、荒れ狂う猛獣どもを飼い慣らすのに必死な飼育員といったところだろう。
女子校での勤めも長くなると思春期真っ盛りの猛獣たちもうまく飼い慣らせるようになる──かもしれない、と聞いてはいるが、実際にその域に達するまでオレがこの動物園に居残っているかはわからない。
──男子校を希望すればよかったのか? そんな疑問が連日連夜湧いて出てくるが、それに対するベストアンサーは今のところ出ていなかった。
右手にはプリントと筆記用具。そして教科書にワークまでも抱えながら、余計な仕事を増やしやがってと内心考えつつ、保健室へと向かう。
別に体調が悪いわけではない。向かう理由は別にある。
「失礼します」
ドアをノックして開ける。ノックの音が聞こえると、中にいる生徒たちの声が一気に静まり返ったのがわかった。……この瞬間が、一番面倒くさい。オレは今から、獰猛な獣の巣食う檻の中に単身乗り込むのだ。比喩ではなく、本当に。
養護教諭を囲むようにお茶を飲んでいた数人の生徒の目が一斉にこちらを向く。敵意と緊張が入り混じった目で見つめられると、流石に少しビビってしまう。十代のガキ相手に情けないと思うが、それでもこの瞬間だけは何回やっても慣れない。
「チッ……三井か……」
「おい、呼び捨てだけはやめろ」
まだ、ミッチーと親しげに呼んでくる奴らの方が何倍もマシだ。養護教諭も同じようなことを言って諭すが、結局無駄。
こいつ──ミョウジはオレを何故か徹底的に嫌っていて、教師として微塵も信頼を寄せない証として呼び捨てにしている。……と、本人がそう言っていた。
仕方ないけど、これも仕事だ。そう自分に言い聞かせながら、オレはプリントをミョウジに差し出す。 ミョウジは毛布に丸まりながら、それを片手で受け取って、鞄の中に放り込んだ。それと入れ替わるように、叩きつけるような乱暴な仕草で、ノートを机の上に置いた。
「言われたやつ、やってきましたよ」
「……お前、マジで授業に出ねえと留年するぞ」
ミョウジは自分で教師と交渉して、出席の代わりで課題で成績をつけて貰えるようにしていた。しかし、それだけでは成績はつけられても単位をあげる事はできない。
留年という単語を出して脅しになるような時期を、もうとっくにすぎている。無駄だとわかってはいるが、口に出さずにはいられなかった。
「はあ……」
ミョウジは分かりやすくため息をつくと、バカにしたような目線でこちらを見る。
「別に中卒でも大学は受けられますよ」
またお決まりの文句だ。
それを言うならさっさと高校なんてやめて、高卒認定でもなんでも取ってしまえばいい。そう思うけれど、オレの受け持ちから中途退学者を出すと何かと面倒なのは確かだった。一応進学校を銘打っている女子校で退学沙汰というのは、世間体が悪いというのが一般的な価値観だろう。オレにとっては、正直どちらでもいいが。
それよりも、私学の決して安くはない授業料を親に払わせているくせに保健室登校をするなんて、オレから言わせれば、金を無駄にしているとしか思えない。
おそらく、二学期が終わる前にこいつは退学する。数年教師をやっていて鍛えられた勘がオレにそう告げていた。
「でもなあ、ある程度の学歴がねえとバイトも雇ってもらえねえぞ」
「わたし、バイトする必要ないんで」
これもまた、決まりきった受け答えだった。ミョウジがオレを論破(論破って言葉マジで気持ち悪くねえか?)すると、周りの取り巻きだか友人だかの生徒たちが、ニヤニヤと笑ってこちらをバカにしたように見上げてくる。マジでやめろ。
オレもオレで、こんなやりとりをしていないで最低限の仕事だけしていればいいものを、毎回、バカみたいにこいつと口先の応酬を繰り返している。手のかかる生徒はかわいいというが、オレにはそうは思えなかった。
「っていうか、三井みたいな教師に言われたくないし」
「……さっきから、オレはお前のためを思って言ってんだけどな」
これは嘘ではない。面倒だと思っているが、別にミョウジが憎くてこんな面倒なことをしているわけではない。まだ高一なら全然取り戻せる時期だ。……ミョウジはオレみたいに、高三の途中までグレていたのではなく、ただ単に教室に来ないだけなんだから。
「うるっさいなあ! もう渡すもの渡したし出てってよ」
「……明日は教室来いよ」
「行かない。絶対に行かないから」
ヤケクソにデカい声でミョウジは叫んで、オレに背を向けて毛布を頭まで被った。
そこから応答はない。
数名の中等部の生徒の痛い視線を受けながら、オレは仕方なく保健室を後にした。
◆
ミョウジを初めて知った時、そいつはすでに不登校になっていた。
中高一貫校であるうちの学校で、中学三年から不登校をしていたナマエは、内申点が足りずに公立の高校に行くことができず、かといって他の学校に転入する体力はないということでお情けで高等部に進学したらしい。
オレは今年からミョウジのクラスで倫理の授業を受け持つことになっており、彼女の事情について去年の担任から聞かされたのだ。
不登校になった理由に関しては本人が決して口を割らず、クラスでも特に問題はなかったとのことなので全くわからない。とにかく、中三の夏休み明けから、ミョウジは通学してこなくなった。それだけが確かな事実だった。
そこまでならまあ、よくある不登校だろう。
しかし、ミョウジの面倒なところは別にある。
うちの学校では教室に入ることが困難な生徒のために保健室を開放している。要はどこにでもある保健室登校なのだが、ミョウジは平日月曜から金曜までの全ての時間(うちは私学なので土曜の午前も授業があるが、その曜日は保健室を開放していない)をそこで過ごしていた。
──つまり授業には来ないくせに、保健室にだけは律儀に通っていたというわけだ。
そこには、ミョウジの他にもなんらかの事情で教室に入れない生徒たちが数名通っていた。そこで、ミョウジは女王のように振る舞っているというらしいのだ。
オレも、最初に聞いた時は訳がわからなかった。しかし実際に見てみると、そうとしか言い表せなかった。
ミョウジを囲うように、不登校児のサークルが築かれている。
囲っているメンバーは様々だが、数名の女子生徒(ほとんどは中等部生)は、ミョウジを神か何かのように崇めていた。オレがミョウジに何かを言うと、ヒソヒソと声を顰めて囁き合い、逆にミョウジが何か言うたびに、一字一句聞き逃しまいと必死に耳を立てているのだ。
正直、薄気味悪いったらありゃしない。
養護教諭は生徒の管理をミョウジに委託して、楽をしているからそれを止めようともしない。
実際に、ミョウジは不登校でなかった頃は成績もトップで優秀な生徒だったらしいので、彼女らに勉強を教えて信頼を勝ち取っていったのだろう。
そのリーダーシップやカリスマ性は是非とも教室で発揮してもらいたいものだが。
保健室で築かれたミョウジ帝国に足を踏み入れるオレは、彼女らから野蛮人でも見るかのような視線に晒されていた。
……正直言って、この環境は異常だ。しかし、この環境にメスを入れようとする人はいない。誰一人として、この厄介な案件に首を突っ込む奇特な人間はいないのだ。
◆
日曜日は完全なオフの日だ。オレは日用品の買い出しをしに家族連れで賑わう近所のモールに来ていた。
一週間でこの日だけは煩わしい何もかもから解放される。洗剤が切れかけていたし、今日の夕飯のことも考えなければいけない。そろそろ掃除機も買い替えたいとかなんとか考えながらモールの中を練るように歩いていた。
本当なら全て通販で済ませられる用事だった。それでもたまには外に出ないと、と思って出かけたのだ。
ダラダラと買い物をし、惣菜は冷蔵ロッカーに預けてそろそろ甘い物でも食べるかー、とオレはコメダに入った。中は日曜にしては空いていて、入るとすぐに二人用のテーブル席に案内される。
店員がメニューやら、お冷やらを持ってきて、あとは注文するだけだなとメニューを開くと、左隣の席から何やら鋭い視線を感じた。
…………は? オレ何かしたか?
恐る恐る視線の元へ目をやると、そこには派手な女性の姿があった。年齢はおそらく、十代半ば。最近流行っているらしい、よくあるフリフリの服を着ていた。
黒いワンピースに首元にはチョーカー、髪は巻かれていて、頭にはデカいリボン。顔には派手な化粧がされていたが、この顔つきには心当たりがあった。
「ミョウジ……?」
「……」
ミョウジは、虫でも踏み潰した後のように顔を歪めると、オレの目を見てキッと睨みつけてきた。そして、メニュー表で自分の顔を隠して、そこからはオレが何をしようが無視を続けた。……普段、オレは休日に生徒と出会しても何も特別なことはしない。今だって、隣の席を見ないようにしながらコメダのやけに大きいトーストを口に運んでいる。
しばらくすると、ミョウジは顔を隠すのをやめてカフェオレをちまちまやりながら、校則違反のネイルが施された爪先でスマホを弄り出した。……こっちのことなど、認知しないとでも言いたげな徹底っぷりだった。
「なあ」
「…………」
「月曜にはそれ、落としとけよ」
「……」
それというのは、もちろんネイルのことだ。休日はとやかく言わないが、学校にそれをしてこられると、オレは余計なことを言わなくてはいけなくなる。反省文の提出がどうだの、指導する側の手間が増えるから面倒だった。
「……チップだっての」
舌打ちしながらミョウジは答える。チップの意味を考えて少し黙っていると、向こうはバカにしたように鼻で笑ってきた。
「ようやく話してくれたか」
「休日にまで干渉しないでもらえます? マジでウザいんですけど」
「…………まあ、それは正しい意見だがな……お前は問題児だからな」
「…………はあ」
普段なら、ここで取り巻きがヒソヒソとオレの挙動を確認しながら囁き合い、非常に居心地が悪くなるのだが今回はミョウジ一人なので非常に静かだった。いつもの煽り倒すような口調もなくなり、ただただ少し生意気なだけの生徒になっている。
……これはチャンスかもしれない。
「あんまり口うるさく言いたかないけどよ、お前の単位マジでやばいからな。もう留年のボーダーギリギリってとこだ。補修に出るつもりがあるならどうにかなるかもしれねえけど……」
お前にその気、あんのか?
オレがそういうと、ミョウジはしばらくそっぽを向いて黙りこくったまま、手元のスマホをひたすらいじっていた。いじっていた、というより凄まじい速度でタイピングしていた、と言った方が正確かもしれない。
ミョウジは留年という単語を聞いても、顔色ひとつ変えなかった。こいつの親との面談もしたが、ミョウジの両親は、子供のことなんて何ひとつ考えていません、と言いたげな目をしていたのを覚えている。
このままだと、こいつは中卒で社会に放り出されてしまうだろう。高校中退でやっていけるほど社会は甘くない。そのことをわかっていてこいつは保健室登校なんてしているのか……?
そういえば、オレはミョウジについてそこまで踏み入って知っているわけではなかった。
ミョウジのカウンセリングを担当しているスクールカウンセラー曰く、こいつが学校の教師という存在を信用していないのはわかっていたが、どうしてそんな思考になってしまったのかまではわからない。どうせ一年以内に辞める相手に本気になるなよ、と思わなくもないが、それにしても一応担任として知っておくべきことはそれなりにあるはずだ。……といっても、本人が全く話してくれないので今の所何も進展がないのは事実だが。
「…………はあ」
ミョウジは大きなため息をついた。今まで聞いてきた中で、それは最も大きかった。
「嫌いなんだよ……三井のそういうところ、全部。必死すぎて、本当に……ムカつく。なんで休日もわざわざ仕事してるのか……本気で理解できないんだけど」
その言葉には返さず、ただじっとミョウジを見守る。
「教師って、残業代出ないしそのくせ夜遅くまで働いて、その割に給料も低いし、生徒にはバカにされるし、保護者の無茶苦茶なクレームも耐えなきゃいけなくて、学校とかいう閉じた空間の中で死ぬまでずっとおんなじことしてるんでしょ? ……三井って、何が楽しくて生きてんの?」
そこまで言われるとこちらもどう返していいのかわからなくなった。十代の悩める生徒の胸にずしんと響く素晴らしい言葉をオレは持ち合わせていない。
この時、ミョウジが初めてオレの顔をはっきりと見ていることに気づいた。苛立ちと焦燥感と、少し縋るような表情で、真っ直ぐに見つめられる。カラーコンタクトの入った丸くて大きな黒目の奥に、迷子の子供のような不安げな光が揺れていた。
何が楽しくて生きてるか、なんて尋ねられてもすぐには思いつかない。改めて思い返してみると、そんな哲学的な思考に陥ったのは高校生が最後だった。そのあとは、特に何も考えずに良いと思った選択肢を選んで生きてきた……ただそれだけだった。
「お前、難しいこと考えて生きてるんだな」
「……バカにしてんの?」
「いや、すげえなって感心してる。オレなんて昔はバスケやっときゃなんとかなるって本気で思ってたしな」
「…………バカじゃん」
ミョウジは立ち上がると、吐き捨てるようにそんなことを言った。伝票を掴んで、乱暴に鞄を背負って、レジまで消えていった。
「…………なんだよ」
睨みつけるような視線がつき刺さって、抜けなかった。
その後、オレはミョウジの親が持ってきた退学届を受け取った。
◆
「あっ」
近所のドラッグストアで買い物をしていると、ド派手なネイルの店員がいた。
「お前、ミョウジだろ」
顔を上げて名札をみると、そこには去年オレを散々苦労させた生徒の名前がしっかりと載っていた。オレに名前を呼ばれたミョウジは、見る見るうちに顔を歪ませた。ファンデーションが、少しよれる。
「…………チッ」
「なんだよお前ここでバイトしてたのか! ちゃんとやってるか?」
「うっせー三井。マジあり得ないんだけど」
ミョウジはド派手なメイクとネイルはそのままに、恐ろしい速さでレジを打っていた。(こんな速さで打ってて爪が折れないのか?)
「ポイントカードあるからつけてくれ」
「はいはい……っと。利用は?」
「オレは一応客なんだから、ちゃんと敬語使えよな……あ、ポイントは全額で」
「……了解しました」
…………初めてミョウジに敬語を使われた気がする。
「ってかお前、バイトしなくてもいいんじゃなかったのかよ」
「高認とって、あとは受験勉強かバイトしかないし……」
「高認合格したのか、おめでとう」
退学したあとが気になっていたが、ちゃんと高卒の資格を取っていたようでひとまず安心した。
そんな風にちゃんと生徒の将来を案じているオレの苦労も知らず、ミョウジは明らかにイライラした様子で袋詰めを続ける。
「うるっせ……レシートご入用ですか?」
「もらう。ってか元気そうで良かった。いきなり退学届もってこられた時は焦ったんだからな」
「過去のことはどーでもいい……ご利用ありがとうございましたー、早く帰れ」
ミョウジは早口と小声で「ありがとうございました」と言った。ヤケクソなくらい小声だったので、店のBGMにかき消されそうだった。
「また来るわ」
「もう二度とくんな!」
ミョウジはそう言って、もう二度とオレの方を向かなかった。今が平日の昼間という、客の少ない時間帯で良かったと思う。他の客が見ていたら、クレーム案件だ。
……大人になったなあ。
教え子の労働する姿を見て、別に見守っていたわけでもないのに、そう思う。
オレもジジイみたいになったな。
つまらないことを考えながら後頭部席に荷物を放り込み、オレは車のエンジンをかける。
実際の女子校は、シーブリーズの匂いがツンと鼻に付く女子と言う名の珍獣が闊歩する動物園だ。オレたち若い独身の男性教師は、例えるなら、荒れ狂う猛獣どもを飼い慣らすのに必死な飼育員といったところだろう。
女子校での勤めも長くなると思春期真っ盛りの猛獣たちもうまく飼い慣らせるようになる──かもしれない、と聞いてはいるが、実際にその域に達するまでオレがこの動物園に居残っているかはわからない。
──男子校を希望すればよかったのか? そんな疑問が連日連夜湧いて出てくるが、それに対するベストアンサーは今のところ出ていなかった。
右手にはプリントと筆記用具。そして教科書にワークまでも抱えながら、余計な仕事を増やしやがってと内心考えつつ、保健室へと向かう。
別に体調が悪いわけではない。向かう理由は別にある。
「失礼します」
ドアをノックして開ける。ノックの音が聞こえると、中にいる生徒たちの声が一気に静まり返ったのがわかった。……この瞬間が、一番面倒くさい。オレは今から、獰猛な獣の巣食う檻の中に単身乗り込むのだ。比喩ではなく、本当に。
養護教諭を囲むようにお茶を飲んでいた数人の生徒の目が一斉にこちらを向く。敵意と緊張が入り混じった目で見つめられると、流石に少しビビってしまう。十代のガキ相手に情けないと思うが、それでもこの瞬間だけは何回やっても慣れない。
「チッ……三井か……」
「おい、呼び捨てだけはやめろ」
まだ、ミッチーと親しげに呼んでくる奴らの方が何倍もマシだ。養護教諭も同じようなことを言って諭すが、結局無駄。
こいつ──ミョウジはオレを何故か徹底的に嫌っていて、教師として微塵も信頼を寄せない証として呼び捨てにしている。……と、本人がそう言っていた。
仕方ないけど、これも仕事だ。そう自分に言い聞かせながら、オレはプリントをミョウジに差し出す。 ミョウジは毛布に丸まりながら、それを片手で受け取って、鞄の中に放り込んだ。それと入れ替わるように、叩きつけるような乱暴な仕草で、ノートを机の上に置いた。
「言われたやつ、やってきましたよ」
「……お前、マジで授業に出ねえと留年するぞ」
ミョウジは自分で教師と交渉して、出席の代わりで課題で成績をつけて貰えるようにしていた。しかし、それだけでは成績はつけられても単位をあげる事はできない。
留年という単語を出して脅しになるような時期を、もうとっくにすぎている。無駄だとわかってはいるが、口に出さずにはいられなかった。
「はあ……」
ミョウジは分かりやすくため息をつくと、バカにしたような目線でこちらを見る。
「別に中卒でも大学は受けられますよ」
またお決まりの文句だ。
それを言うならさっさと高校なんてやめて、高卒認定でもなんでも取ってしまえばいい。そう思うけれど、オレの受け持ちから中途退学者を出すと何かと面倒なのは確かだった。一応進学校を銘打っている女子校で退学沙汰というのは、世間体が悪いというのが一般的な価値観だろう。オレにとっては、正直どちらでもいいが。
それよりも、私学の決して安くはない授業料を親に払わせているくせに保健室登校をするなんて、オレから言わせれば、金を無駄にしているとしか思えない。
おそらく、二学期が終わる前にこいつは退学する。数年教師をやっていて鍛えられた勘がオレにそう告げていた。
「でもなあ、ある程度の学歴がねえとバイトも雇ってもらえねえぞ」
「わたし、バイトする必要ないんで」
これもまた、決まりきった受け答えだった。ミョウジがオレを論破(論破って言葉マジで気持ち悪くねえか?)すると、周りの取り巻きだか友人だかの生徒たちが、ニヤニヤと笑ってこちらをバカにしたように見上げてくる。マジでやめろ。
オレもオレで、こんなやりとりをしていないで最低限の仕事だけしていればいいものを、毎回、バカみたいにこいつと口先の応酬を繰り返している。手のかかる生徒はかわいいというが、オレにはそうは思えなかった。
「っていうか、三井みたいな教師に言われたくないし」
「……さっきから、オレはお前のためを思って言ってんだけどな」
これは嘘ではない。面倒だと思っているが、別にミョウジが憎くてこんな面倒なことをしているわけではない。まだ高一なら全然取り戻せる時期だ。……ミョウジはオレみたいに、高三の途中までグレていたのではなく、ただ単に教室に来ないだけなんだから。
「うるっさいなあ! もう渡すもの渡したし出てってよ」
「……明日は教室来いよ」
「行かない。絶対に行かないから」
ヤケクソにデカい声でミョウジは叫んで、オレに背を向けて毛布を頭まで被った。
そこから応答はない。
数名の中等部の生徒の痛い視線を受けながら、オレは仕方なく保健室を後にした。
◆
ミョウジを初めて知った時、そいつはすでに不登校になっていた。
中高一貫校であるうちの学校で、中学三年から不登校をしていたナマエは、内申点が足りずに公立の高校に行くことができず、かといって他の学校に転入する体力はないということでお情けで高等部に進学したらしい。
オレは今年からミョウジのクラスで倫理の授業を受け持つことになっており、彼女の事情について去年の担任から聞かされたのだ。
不登校になった理由に関しては本人が決して口を割らず、クラスでも特に問題はなかったとのことなので全くわからない。とにかく、中三の夏休み明けから、ミョウジは通学してこなくなった。それだけが確かな事実だった。
そこまでならまあ、よくある不登校だろう。
しかし、ミョウジの面倒なところは別にある。
うちの学校では教室に入ることが困難な生徒のために保健室を開放している。要はどこにでもある保健室登校なのだが、ミョウジは平日月曜から金曜までの全ての時間(うちは私学なので土曜の午前も授業があるが、その曜日は保健室を開放していない)をそこで過ごしていた。
──つまり授業には来ないくせに、保健室にだけは律儀に通っていたというわけだ。
そこには、ミョウジの他にもなんらかの事情で教室に入れない生徒たちが数名通っていた。そこで、ミョウジは女王のように振る舞っているというらしいのだ。
オレも、最初に聞いた時は訳がわからなかった。しかし実際に見てみると、そうとしか言い表せなかった。
ミョウジを囲うように、不登校児のサークルが築かれている。
囲っているメンバーは様々だが、数名の女子生徒(ほとんどは中等部生)は、ミョウジを神か何かのように崇めていた。オレがミョウジに何かを言うと、ヒソヒソと声を顰めて囁き合い、逆にミョウジが何か言うたびに、一字一句聞き逃しまいと必死に耳を立てているのだ。
正直、薄気味悪いったらありゃしない。
養護教諭は生徒の管理をミョウジに委託して、楽をしているからそれを止めようともしない。
実際に、ミョウジは不登校でなかった頃は成績もトップで優秀な生徒だったらしいので、彼女らに勉強を教えて信頼を勝ち取っていったのだろう。
そのリーダーシップやカリスマ性は是非とも教室で発揮してもらいたいものだが。
保健室で築かれたミョウジ帝国に足を踏み入れるオレは、彼女らから野蛮人でも見るかのような視線に晒されていた。
……正直言って、この環境は異常だ。しかし、この環境にメスを入れようとする人はいない。誰一人として、この厄介な案件に首を突っ込む奇特な人間はいないのだ。
◆
日曜日は完全なオフの日だ。オレは日用品の買い出しをしに家族連れで賑わう近所のモールに来ていた。
一週間でこの日だけは煩わしい何もかもから解放される。洗剤が切れかけていたし、今日の夕飯のことも考えなければいけない。そろそろ掃除機も買い替えたいとかなんとか考えながらモールの中を練るように歩いていた。
本当なら全て通販で済ませられる用事だった。それでもたまには外に出ないと、と思って出かけたのだ。
ダラダラと買い物をし、惣菜は冷蔵ロッカーに預けてそろそろ甘い物でも食べるかー、とオレはコメダに入った。中は日曜にしては空いていて、入るとすぐに二人用のテーブル席に案内される。
店員がメニューやら、お冷やらを持ってきて、あとは注文するだけだなとメニューを開くと、左隣の席から何やら鋭い視線を感じた。
…………は? オレ何かしたか?
恐る恐る視線の元へ目をやると、そこには派手な女性の姿があった。年齢はおそらく、十代半ば。最近流行っているらしい、よくあるフリフリの服を着ていた。
黒いワンピースに首元にはチョーカー、髪は巻かれていて、頭にはデカいリボン。顔には派手な化粧がされていたが、この顔つきには心当たりがあった。
「ミョウジ……?」
「……」
ミョウジは、虫でも踏み潰した後のように顔を歪めると、オレの目を見てキッと睨みつけてきた。そして、メニュー表で自分の顔を隠して、そこからはオレが何をしようが無視を続けた。……普段、オレは休日に生徒と出会しても何も特別なことはしない。今だって、隣の席を見ないようにしながらコメダのやけに大きいトーストを口に運んでいる。
しばらくすると、ミョウジは顔を隠すのをやめてカフェオレをちまちまやりながら、校則違反のネイルが施された爪先でスマホを弄り出した。……こっちのことなど、認知しないとでも言いたげな徹底っぷりだった。
「なあ」
「…………」
「月曜にはそれ、落としとけよ」
「……」
それというのは、もちろんネイルのことだ。休日はとやかく言わないが、学校にそれをしてこられると、オレは余計なことを言わなくてはいけなくなる。反省文の提出がどうだの、指導する側の手間が増えるから面倒だった。
「……チップだっての」
舌打ちしながらミョウジは答える。チップの意味を考えて少し黙っていると、向こうはバカにしたように鼻で笑ってきた。
「ようやく話してくれたか」
「休日にまで干渉しないでもらえます? マジでウザいんですけど」
「…………まあ、それは正しい意見だがな……お前は問題児だからな」
「…………はあ」
普段なら、ここで取り巻きがヒソヒソとオレの挙動を確認しながら囁き合い、非常に居心地が悪くなるのだが今回はミョウジ一人なので非常に静かだった。いつもの煽り倒すような口調もなくなり、ただただ少し生意気なだけの生徒になっている。
……これはチャンスかもしれない。
「あんまり口うるさく言いたかないけどよ、お前の単位マジでやばいからな。もう留年のボーダーギリギリってとこだ。補修に出るつもりがあるならどうにかなるかもしれねえけど……」
お前にその気、あんのか?
オレがそういうと、ミョウジはしばらくそっぽを向いて黙りこくったまま、手元のスマホをひたすらいじっていた。いじっていた、というより凄まじい速度でタイピングしていた、と言った方が正確かもしれない。
ミョウジは留年という単語を聞いても、顔色ひとつ変えなかった。こいつの親との面談もしたが、ミョウジの両親は、子供のことなんて何ひとつ考えていません、と言いたげな目をしていたのを覚えている。
このままだと、こいつは中卒で社会に放り出されてしまうだろう。高校中退でやっていけるほど社会は甘くない。そのことをわかっていてこいつは保健室登校なんてしているのか……?
そういえば、オレはミョウジについてそこまで踏み入って知っているわけではなかった。
ミョウジのカウンセリングを担当しているスクールカウンセラー曰く、こいつが学校の教師という存在を信用していないのはわかっていたが、どうしてそんな思考になってしまったのかまではわからない。どうせ一年以内に辞める相手に本気になるなよ、と思わなくもないが、それにしても一応担任として知っておくべきことはそれなりにあるはずだ。……といっても、本人が全く話してくれないので今の所何も進展がないのは事実だが。
「…………はあ」
ミョウジは大きなため息をついた。今まで聞いてきた中で、それは最も大きかった。
「嫌いなんだよ……三井のそういうところ、全部。必死すぎて、本当に……ムカつく。なんで休日もわざわざ仕事してるのか……本気で理解できないんだけど」
その言葉には返さず、ただじっとミョウジを見守る。
「教師って、残業代出ないしそのくせ夜遅くまで働いて、その割に給料も低いし、生徒にはバカにされるし、保護者の無茶苦茶なクレームも耐えなきゃいけなくて、学校とかいう閉じた空間の中で死ぬまでずっとおんなじことしてるんでしょ? ……三井って、何が楽しくて生きてんの?」
そこまで言われるとこちらもどう返していいのかわからなくなった。十代の悩める生徒の胸にずしんと響く素晴らしい言葉をオレは持ち合わせていない。
この時、ミョウジが初めてオレの顔をはっきりと見ていることに気づいた。苛立ちと焦燥感と、少し縋るような表情で、真っ直ぐに見つめられる。カラーコンタクトの入った丸くて大きな黒目の奥に、迷子の子供のような不安げな光が揺れていた。
何が楽しくて生きてるか、なんて尋ねられてもすぐには思いつかない。改めて思い返してみると、そんな哲学的な思考に陥ったのは高校生が最後だった。そのあとは、特に何も考えずに良いと思った選択肢を選んで生きてきた……ただそれだけだった。
「お前、難しいこと考えて生きてるんだな」
「……バカにしてんの?」
「いや、すげえなって感心してる。オレなんて昔はバスケやっときゃなんとかなるって本気で思ってたしな」
「…………バカじゃん」
ミョウジは立ち上がると、吐き捨てるようにそんなことを言った。伝票を掴んで、乱暴に鞄を背負って、レジまで消えていった。
「…………なんだよ」
睨みつけるような視線がつき刺さって、抜けなかった。
その後、オレはミョウジの親が持ってきた退学届を受け取った。
◆
「あっ」
近所のドラッグストアで買い物をしていると、ド派手なネイルの店員がいた。
「お前、ミョウジだろ」
顔を上げて名札をみると、そこには去年オレを散々苦労させた生徒の名前がしっかりと載っていた。オレに名前を呼ばれたミョウジは、見る見るうちに顔を歪ませた。ファンデーションが、少しよれる。
「…………チッ」
「なんだよお前ここでバイトしてたのか! ちゃんとやってるか?」
「うっせー三井。マジあり得ないんだけど」
ミョウジはド派手なメイクとネイルはそのままに、恐ろしい速さでレジを打っていた。(こんな速さで打ってて爪が折れないのか?)
「ポイントカードあるからつけてくれ」
「はいはい……っと。利用は?」
「オレは一応客なんだから、ちゃんと敬語使えよな……あ、ポイントは全額で」
「……了解しました」
…………初めてミョウジに敬語を使われた気がする。
「ってかお前、バイトしなくてもいいんじゃなかったのかよ」
「高認とって、あとは受験勉強かバイトしかないし……」
「高認合格したのか、おめでとう」
退学したあとが気になっていたが、ちゃんと高卒の資格を取っていたようでひとまず安心した。
そんな風にちゃんと生徒の将来を案じているオレの苦労も知らず、ミョウジは明らかにイライラした様子で袋詰めを続ける。
「うるっせ……レシートご入用ですか?」
「もらう。ってか元気そうで良かった。いきなり退学届もってこられた時は焦ったんだからな」
「過去のことはどーでもいい……ご利用ありがとうございましたー、早く帰れ」
ミョウジは早口と小声で「ありがとうございました」と言った。ヤケクソなくらい小声だったので、店のBGMにかき消されそうだった。
「また来るわ」
「もう二度とくんな!」
ミョウジはそう言って、もう二度とオレの方を向かなかった。今が平日の昼間という、客の少ない時間帯で良かったと思う。他の客が見ていたら、クレーム案件だ。
……大人になったなあ。
教え子の労働する姿を見て、別に見守っていたわけでもないのに、そう思う。
オレもジジイみたいになったな。
つまらないことを考えながら後頭部席に荷物を放り込み、オレは車のエンジンをかける。