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桜木花道は女を知らない。
女という生き物を「生物」として見ていない。幻想を抱いている。どれだけ女にこっ酷く振られようとも、その幻想は崩れない。その点に関して、わたしは彼のことを心底尊敬し、同時に少し呆れている。見下していると言い換えてもいい。
女なんて、皮一枚剥いでしまえば肉の塊だというのに、桜木花道はその事実を見て見ぬふりをしているのか、お砂糖とスパイス、素敵なものでできていると多分、本気で信じている。そこが、いただけない……。そして、許せない。心の底から許せない。わたしはできることなら、女の汚い一面を見せてやりたいと思っている。単なる肉塊と内臓の集合体であると見せつけてやりたい。そして、絶望する顔が見たい。歪んだ愛情であると理解しているが、どうしても欲求が押さえつけられない。そんなことをすれば嫌われると分かっているから、絶対にしないけどね。
ここからは希望的観測の話だが、女を知らないということは彼は童貞である。
女を知らないという言葉には二重の意味がある。その二つ両方が当てはまる人間を、わたしは桜木花道しか知らない。
この世界の人間は総じて腐っている。歪んでいるし、正しい道から外れている。世の中の人間で真っ直ぐ生きているのは桜木だけだと言い切れる。それくらい、素直でいい人なんだ、彼は。でも、いい人じゃ振られちゃうね。そもそもああいう真っ直ぐな気性を見抜いている人間は少ない。大抵の女子に、彼は怖がられてしまっている。勿体無いなあ、と思うけれど実は有り難かったりもする。わたしだけが桜木花道を愛していればいい。真の意味で、わたしだけが理解していればいい。そう思っているのですが──
「マジで聞いてんの?」
壁に拳をぶつけながら、目の前の男に話しかける。男は口にマルボロを咥えながら、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「あー……なんの話だっけ」
「こ、こいつ……もう二回は言わないからな……」
桜木花道童貞説を力説するわたしに対して、向こうは興味なさげにボケーっと突っ立っていた。その姿はやけに様になっていて、並の女なら一発でアウトだろうなと思った。幸い、わたしの興味関心は桜木花道ただ一人であるので、問題ない。
水戸洋平はただの男友達の一人であって、ときめきの対象じゃない。そもそも、わたしは身長百七十センチに満たない男性には性的魅力を感じない体質だ。
「悪い、これで勘弁して」
シガレットケースの最後の一本を差し出しながら、水戸はわたしにそう言った。
……仕方ないなあ、と許すわたしもわたしだと思うけれど、こんなめちゃくちゃな話を黙って聞き流してくれる相手は彼しかいない。だから、ある程度は寛大になろう。
「ほい、火」
「んー」
口先に引っ掛けるようにして咥えていると、彼がポケットから取り出したライターが近づいてくる。小さな火がポッと移ると、先っちょから上がる煙が空に溶けていく。
「はぁ」
未成年の喫煙は何とかで罰せられます。罰せられますだっけ? 健康に悪いですだっけ? ……そんな文章が目に入ったけれど、いつものようにスルーすることにした。
煙を吸い込むと、肺に生暖かい空気が充満する。体に悪いものを吸い込むと、生きている気がする。ぬかるんだ足元じゃなくて、雨が上がったばかりの空を見上げると、濁ったインクみたいな灰色の空が見えた。多分、夕方あたりにもう一回雨が降る。そんな気がする。
「大丈夫、言わねえよ」
「……ありがと」
上ばっかり見てるのを、心配したからだと思ったのか、水戸はフォローを入れてくれる。
なんでこいつに彼女がいないのか、いつもみたいに疑問が湧いてくる。
「花道は……女の子と付き合ったことないからな」
「聞いてたんだ」
「横で怪しいことブツブツ言われて、耳に入らない方がヤバい」
「そりゃあそうだ。っていうか、それってつまり童貞確定ってことだよね。うんうん」
「オレ、ずっと一緒だから」
何回聞いても同じことしか答えない。
わかりきっている答えだった。
桜木軍団の人たちはずーっと一緒にくっついてる。どこに行くのも。この前広島でインターハイがあった時も鈍行列車でわざわざ駆けつけたらしい。
わたしも行きたかったけど、バイトがあったから無理だった。無理にでも行けばよかったかもしれない。
「行けなかった」じゃなくて、「これは行かなかった」だ。
本気でいこうと思えばバイトでも何でも休んでしまえばいいのに、行かなかった。
多分、行ってもわかんないし、と思って行かなかった。
行きたかった気持ちはあるけど、何となくで行かなかった。ってところがダメだったんだろうな。そこでわたしは、負けてるんだよな。
「水戸はいいよね。桜木花道のこと何でも知ってるから」
「何でもは知らねえよ」
灰皿がないので、水戸は地面に落としたタバコを靴の裏で擦り付けた。
吸い殻を置いとくなんて悪いやつめ。
未成年者の喫煙を咎めず、ポイ捨てに怒るわたしを知ってか知らずか、水戸は目線での抗議を華麗にスルーする。
「……意外。何でも知ってるって言うんじゃないかって思ったのに」
「なんでも知ってる、なんて言ったらただのストーカーだろ?」
「…………」
嘘だな、と思った。でも、あえてすぐには言わなかった。沈黙を作るべきタイミングがあるならば今だと思ったからだ。
水戸洋平に桜木花道に関して知り得ない情報などはないというのはあり得ない。それはこの数年で嫌というほど理解していた。
数年水戸と絡んでいながらも、桜木花道と一歩も進展らしい進展をしていないわたしと、ずっとベッタリの水戸とは、持っているカードの量が違うのは当然のことだ。
それを前提としても、水戸洋平が桜木花道について知りうる情報が多すぎる。
まだまだカードは伏せられていますよ、どうでしょう。
そう言いたげな瞳に何度屈服しそうになったか。
水戸は…………わたしが桜木花道と付き合ったら、嫌なんでしょ。
何度もそう言いかけた。
多分、水戸洋平はわたしのことを友達だとは思っていないと思う。わたしは友達だと思って、そう自認しているけれど、向こうがそうだとは限らない。多分、認識は違うと思うし……。
じゃあどうしてわたしに桜木のことを教えてくれるのか、向こうにとってそれらしいメリットがないのに。この問いに対する答えはいまだに出ていない。
わたしがうだうだしている様子に腹を立てるでもなく、淡々と情報を流してくれる。水戸洋平がわからない。何にも。
「水戸はさ、なんでわたしに桜木のことを教えてくれるわけ?」
「面白えから」
「そう?」
「うん」
「わたしはさ、桜木花道と結婚したいと思ってるけどそこに異論はない?」
「うん。花道が選んだなら誰でも」
嘘だなー。絶対。
水戸洋平は絶対的に桜木花道の味方だから、わたしのことなんて認めないはずだ。だって、わたしってヤバい女だし。桜木花道に対して犯罪行為をやらかす寸前だし。導火線に火の付いた爆弾だし。
「あ」
わかった。
セコムなんだ。
そこに考えが至ってしまうと、わたしはバカに笑えてきて、一人でニヤニヤしていると手に持っていたタバコが地面に落ちた。スニーカーでぐりぐりと踏み潰していると、水戸が「そっちもポイ捨てしてる」と茶化してくる。
「うっせー! あはは」
わたしがゲラゲラ笑っていたら、水戸はドン引きするかもしれない。こんなところを桜木花道に見られたくない。でも、ヤバい。笑い止まんねー。あはは。マジで大発見なんですけど。
「そうです、花道こそが僕の天使様です、ってか!」
「なんだよそれ」
「水戸は知らなくていいよー。エロゲの話だから。ってかこの時代はまだ出てねえか、あはは」
確かに、そうだったな。水戸洋平って、そんな人だったかも。やっぱおもしれーわ。純愛を本気でやってる人って。わたしはもう、ゴリゴリ欲に塗れてるから。ダメかもしんない。勝てねえかも。
……マジで、この人に勝てないかも。
そう思った瞬間、わたしの口角はグッと下がる。笑い声は消える。
急に挙動不審になる相手に慣れているからか、水戸洋平は動じなかった。
「やっぱ、お前見てると飽きないな」
「うーん、ありがと」
その時、昼休みが終わる予冷の鐘が鳴った。
わたし、授業「は」一応真面目に出る派なので水戸に手を振って校舎に戻る。
実はわたし水戸のこと本当にめちゃくちゃ嫌いかもしれないなあ、と初めて思っちゃったのでした。世界の真理かも?
◆
男女の友情は成立しないというのが、わたしの持論だ。水戸洋平とわたしは、お互い本気になれる相手が同じなだけで、多分本気の友達じゃない。クリスマスに兵士たちが一時休戦してサッカーするみたいなアレだ。
わたしが桜木花道を好きになった経緯について、特にドラマチックな話があったわけではないことを、ここに断っておく。
ただ単に顔が好きで、言動が好きで、気がづいたらずっと見ていて、いつの間にか本気で好きになっていた。
男はデカければデカいほど、いい。
高身長で見境なく暴れる言動がめちゃくちゃ破天荒で傍若無人な男がタイプで、それがたまたま桜木花道その人だったというだけだ。好みど真ん中ストライクでした。特に運命を感じるような絡みはない。ちなみにわたしは処女厨でもある。
桜木花道をずっと見ていた。学校にいる間ずっと見ていた。そうしたら水戸洋平に目をつけられた。セコムこと水戸洋平は、桜木花道に接近するすべての存在を完全に把握している。
赤木晴子をはじめとした花道の周辺の女、バスケ部を中心とする男の交友関係をすべて把握し、そのどこかに歪みが生じれば的確に対処し、問題の種は潰す。なんで一介の高校生にそこまで入れ込むのかと聞くのは恐ろしいのでできない。おそらくそれは愛の成せる技だとわたしは考えている。たぶん、聞いてもまともな答えは返ってこないと思うし。
今日も今日とて午後の授業は眠くて仕方がない。古典の授業は特に眠くなる。一応わたしは清楚清純で売っているつもりなので、授業はサボりません。ちゃんと出席します! タバコはちょっとしたコミュニケーションツールで、特にグレてるとか不良とか、そういうのではないです、はい。
でも、わたしの真横に座る桜木花道は、教師の視線を全く気にせず寝息を立ててすやすや寝ていた。
あー、かわいい! ラブ!
かわいすぎてちょっとイライラする! うんうん、それもまたキュアグだね。恋だね。
桜木花道、前は授業すらまともに出席していなかったことを考慮すると、ちゃんと出席しているだけ偉いじゃんってなります。なりませんか? 先生方。
これは好きで好きで仕方がなくておかしくなった人間の異常な意見なので聞かなくていいですけれどね。
ちなみに。わたしは今学期に入ってから、ずっと桜木花道の隣の席をキープしている。誰も桜木花道の隣の席になりたがらないから、裏工作は容易だった。あんなデカくて不良な男の横、喜んで座ろうとするわたしは異常者扱いされてしまいがちだ。でも大概の人は「先生が桜木を見るから内職がバレない」という嘘の言い訳を信じて納得してくれる。ふん、楽な仕事だぜ。
中学時代は影からこっそり見つめているだけの、ストーカー(じゃねえし)……純文学じみた恋愛をしていたが、高校に入ってからはしっかり名前を覚えさせて認知もバッチリに進化している。やはりこれからの時代女性からもグイグイとアピールをするべきだと、わたしは思っています。
めちゃくちゃ眠いけど、和歌の恋愛の歌だけにはしっかり感情移入するわたしです。やっぱり平安時代から今に至るまで人間の感情なんて何にも変わってない。ねえ、桜って和歌によく詠まれるよね。古典的で美しくって、本当にいい名前だと思わない?
桜木っていい名字だよね。まあ、わたしが将来それになるし、今のうちに慣れとこう的な、予行練習みたいなモンなんだけどな! ガハハ。今正気じゃないので誰も話しかけないでください。
みんなが必死こいてノートに黒板を板書している間、わたしはなんとなく窓の外を見てみる。景色と交わる光景もまた、それなりに乙なものだ。あきも深まり、木々は段々と紅葉に近づいていく。段々と赤く染まっていく葉っぱは桜木花道の頭の色にちょっと似ている気がしませんか? 皆さん!
……思い出しちゃうなぁ、あの時のこと。
…………あ、ここから回想入りまーす。
◆
中二の秋。ちょうど今くらいの季節だった。運悪く季節性の胃腸炎に罹ってしまい、ゲロを吐きまくった後の久しぶりの登校を終えたわたしは、数学の授業を待たずに早退し、帰路である公園の近くの道を一人きりで歩いていた。
学校に提出した通学経路を律儀に守る優等生のわたしは、もちろん公園で行われている喧嘩を目撃してしまう。大きく開けた入り口からバッチリとそれは見えてしまった。なんで児童公園で不良どもが大乱闘していたのかわからないが、とにかくその時は確かに「そう」だった。
わたしは思わず立ち止まり、その光景を動物園の猿山を観察するようにじっくりと観察していた。
暴力というものが蔓延る公立の中学校でも滅多にお目にかかれないくらい、彼らは暴れ回っていた。
金網に体をぶち当てて、激しく揺れる音や、顔を殴った際に地面に落ちる鼻血を眺めながら、わたしはプロレスでも観覧するような気持ちでそれを眺めていた。
見ているうちに彼らは複数人同士で徒党を組んで戦っているのではなく、赤髪のリーゼント一人を執拗に狙って攻撃しているのだと気づく。驚いたのは二回。一回目は「これ」で二回目は──赤髪のリーゼント、もとい桜木花道一人に、彼らはなすすべもなく敗北していたことだった。
……いや、強すぎるだろ。
素手一本で相手している桜木花道に対して、木刀やらメリケンサックを使ってもボロ負けしているモブ不良のダサいこと、ダサいこと。
あり得ないだろ、それで負けるの。
気がつくとわたしは、ヒーローショーを応援する子どもの如く桜木花道を応援していた。赤い人、頑張れぇー! そこだー! やっちゃえ! 口には出してないけど、確かに手に汗を握りながら見守っていた。(実際は競馬の中継見てるおっさんと大差ない)
「すべて」が終わった後、倒れる仲間を背負いながら這々の体で逃げていく不良たちを見送りながら、わたしはこっそり木陰から桜木花道を見つめていた。彼は特に怪我らしい怪我もしておらず(背中を思い切り叩かれていたのに⁉︎)、水道水で顔を洗って水を飲むと、そのまま奥の出口からどこかに消えていってしまい──消えてません。追いかけたので。
いや、追いかけたっていうか、こっそり尾行しました。おいそこ、ドン引きすんな。
すっかり見知らぬ喧嘩のバカ強い不良に一目惚れしてしまったわたしは、これからどこかへと向かう彼の自宅を割ってやろう、あわよくば生活圏を把握してしまおうと思い、病み上がりの体に鞭打って彼の自宅まで尾行しました。
愛のなせる技ですね。
鎌倉市内をぐるぐると歩きながら、帰りの道なんてどうでも良くなったわたしは、ずっと彼を追いかけた。電柱の影から、塀に隠れて、ずーっとずーっと見てたんです。
桜木花道はまっすぐ自宅に帰っていった。木造の平屋はそれなりに年季がありそうで、なんとなく彼の実家の経済状況が伺える。へー、なんだか訳ありそう。でも、愛の前にそんな障害があれば盛り上がるよなぁ。ねっ?
広い背中が素敵だなあと寝ぼけたことを考えていたわたしは、その実しっかりと彼の住所を脳に叩き込んでいた。観察しているうちに見えた校章から、わたしと同じ学校の生徒であることは確定している。つまり、ワンチャンあるってこと。
少なくとも、他校の高校生とかよりも全然チャンスは多い。接近して、まずは友達から始めよう!
次の日、彼の学年とクラスを割り出すべく、わたしははやる気持ちを抑えられず、めちゃくちゃワクワクしながら登校した。
桜木花道を見つけるのは実に簡単なことだった。
その日の昼休み、わたしは校舎の裏手をぼんやりと歩いていた。自転車の鍵を籠に入れっぱなしにしていた気がしたのと、なんとなく昨日の「彼」に会える気がしたからだ。
足取りはのんびりとしていたが脳は冴え渡っていた。だからこそ、ショックだった。
自分の自転車の鍵を弄っていると、キティちゃんのキーホルダーをつけた鍵が出てきた。ほっと胸を撫で下ろしていると、少し離れた場所から声が聞こえてきて、自動的に聴力のピントはそちらに合う。合ってしまう。
「お、お付き合いしてください!」
おー、なんだなんだ? と野次馬根性丸出しのわたしは告白現場を見物しようと足音を殺し、物陰からそっと向こう側を見つめる。
「…………」
思わず、声が漏れ出そうになった。
そこにいたのは昨日の不良と、わたしの知らない女子生徒だった。他に人はいない。
喉から悲鳴が上がりそうになったのを、よく我慢したと思う。
わたしが生まれて初めて好きなった人が、目の前で別の女に告白している。
これを叫ばなくて、いつ叫ぶ?
──振られろ! 失恋しろっ……!
意地悪く、こんなことを考えてしまう。告白を受けた方の生徒の出方を、固唾を飲んで見守る。振られろ、そうじゃなければ、向こうが死ね。呪ってやる。
この時のわたしは、おそらく人に見せられないような醜い顔をしていたことだろう。
しばらくの沈黙の後……
「ごめんなさい」
彼は清々しいほど綺麗に振られていた。
……握りしめた拳を、そっと解く。
落ち葉がひらりと、わたしと彼の間を通り過ぎた。
それからどんな顔をして教室に戻ったか、覚えていない。気がつくと、自分の席の上で予冷がなるのをじっと待っていた。
あまりにも正気が抜けているわたしを心配してくれる人はいない。なぜならわたしには友達がいないからです。
教科書とノートと筆箱を出して、もうこれ以上することがない。
自習とか予習とかしておくべきなのかな。泣きそうとかしんどいとか、そういう感情はあったけど、喜ぶべきこともあったので混乱していた……。
人が失恋するところを初めてみた。
告白があんなにもあっさりばっさり切られちゃうんだな……って。
……なんかしんどいかも。
あの人、悲しんでないといいなぁ……と、さっさとわたしのことを好きになっちゃえばいいのに、の二つがずーっと頭をめぐっている。多分このままだと知恵熱が出ちゃうな。考えすぎで寝込むなんて、わたしめっちゃダサい……。
「……じょ……ぶ?」
「へ……?」
「あの、大丈夫? 今日の授業、移動教室だけど」
「あ、そうだっけ……」
気がつけば、わたしの周りから人が消えていた。
黒板に大きく「次は化学室」と書いてあるにも関わらず、わたしはそれを見過ごしていたみたいだ。
「なんかぼーっとしてたけど、熱でもある? 保健室行こうか?」
「いや、大丈夫……」
そう言って立ちあがろうとしたけど、うまくいかなかった。
椅子を引いて立ちあがろうとしたところで、わたしの筋肉がうまく動かなくなったか、腰が砕けてしまった。
「……っ!」
地面に尾骶骨を打ちつけそうになったわたしを、彼は必死で助けてくれた。おかげで肩が外れそうになったけど。
「ごめん……あと、ありがと」
「いや、本当に保健室行った方がいいって。オレが送るよ」
その同級生は教室の鍵を閉めると、わたしを無人の保健室に連れて行ってくれた。
室内はアルコール消毒の匂いでツン、としている。校庭に面した窓のカーテンは完全に締め切られていて、見る限りベッドで寝ている人はいなさそうだった。
「あー。今、先生いないっぽい」
「…………」
知ってる。保健室の入り口に「養護教諭・会議のため不在」って書いてあったから。
彼はわたしを椅子に座らせると、扉の内鍵をギュッと捻った。
「え……なんで鍵……」
「聞かれたくない話をするから」
こいつ、確信犯だな。
これから行われることが碌でもないことだと直感的に悟る。やましいことをするために保健室に連れてきた? わざわざわたしを? なんのために?
脳内で思考を張り巡らせながら、わたしは目の前の同級生を観察する。おとなしそうな顔をしていて、結構悪いヤツだ。よく見たら髪型も結構不良って感じだし。ヤンキー漫画みたいに脅されて、その、よくない感じになるかもしれない。保健室にわざわざ連れてくるってことは、そういうこと、でしょ……。
脳に血液が集中しているのがわかる。向こうは学ランのポケットに両手を突っ込んで、わたしを見下ろしていた。慎重に睨みを利かせつつ、この場をどう切り抜けるべきか、ずっと考えを固めていた。
「あの、さ。悪いようにはしないから」
「…………で、何が欲しいのかな」
わたしが発声したのと被せるように彼は、確かそう言った。
「は?」
被せんなし。
「いや、ごめん。別に、取って食うとかそういうのじゃないから、安心して欲しくて」
「それさあ、マジで言ってる? 怪しさ満点なんですけど……ってか聞かせたくない話って、なに?」
安心っていうのはね、積み重ねと信頼なんだよ。
──そこまで言おうとして、わたしは彼の名前を知らないことに気がついた。
「オレ、水戸洋平」
「みと、ようへい……」
ちょうどいいタイミング。見計らったように、彼は自分の名前を教えてくれた。ってか、ピッタリすぎて気持ち悪いんだけど……。
「あぁ……、同じクラスだったのに、覚えてくれてなかったかぁ……」
「ごめん。人の名前覚えんの、超絶苦手で」
「そっか、じゃあしょうがないな」
一学期と二学期の半分を一緒に過ごしたというのに名前一文字も覚えていないクラスメイトに対して、彼は結構寛大らしい。
わたしだったらちょっとショックを受けてるところだよ。うちのクラス、三十八人しかいないのに。名字すら覚えてないって……。
ミトヨウヘイ、ミトヨウヘイ。うん、覚えた……かも。
「まあ、名前なんてどうでもいいや」水戸は、わたしの隣に拳一つ分のスペースを空けて座った。「桜木花道についてなんだけどさ」
「桜木……花道……」
その名前を聞いた瞬間、わたしは背筋がゾッとして、同時に、顔面に火が付いたかのような錯覚に襲われた。
「オレのダチなんだ」
「そ、そうなんだ……で、その、桜木花道がどうかしたの?」
水戸の綺麗な横顔を見ながら、わたしは正直逃げ出したくてたまらなかった。いや、逃げちゃダメなんだけど。
ここで情報を掴まなきゃ! という気持ちと逃げたい、恥ずかしいという気持ちが戦っている。
「昼休みさ、あいつが四組の──さんに告ってた時に……いただろ」
──自転車置き場に。
名探偵にズバリ当てられた犯人の気持ちって、こんなのなんだろうか。
さっきとは違う意味で顔の血流がおかしくなっているのがわかった。震える右手はスカートを握っていて、皺になってしまうのは、確定だ。
「で、それがどうしたの? わたしに何か関係があるんですか」
……緊張しすぎて、同い年相手に敬語を使ってしまった。
手汗はダラダラ。表情筋はぐちゃぐちゃ。もう、次にどんな言葉が来るのか怖くてたまらない。ってかなんであんたもそのことを知ってんの? 友達だからってそれまで知ってんのは流石にやりすぎじゃないんですか?
まるで、崖に追い詰められた犯人の気分だった。
水戸はゆっくりわたしを指さして、チェックメイトを宣言する。
「花道の、ストーカー」
「はぁぁぁぁぁっ⁉︎ んなわけっ、ないんですけどぉっ! 失礼な!」
正直、図星でした。
焦りすぎ・声裏返りすぎで、はい! わたしは桜木花道さんのストーカーでございます。と申告しているようなものだった。情けない。
「……本人が言ってたんだけど、なんか最近見られてるような気がするって気にしてた。それってつまり、そういうことだよな」
「そ、そう……そうかも……」
水戸に見つめられると結構な迫力があって怖かった。名探偵から鬼刑事にジョブチェンジした水戸は、わたしを諭すようにゆっくりと言葉を重ねる。
「花道は、自分のことが好きな女の子が影からこっそり見てるかもしれないって、喜んでもいた」
「そっ! そうなんだ……! えっ……やばい……どうしよう」
やばい! これってわたしのこと、じゃん……。本人の認知、いただきましたぁ!
「……自白、お疲れさん」
「あっ……」
飴と鞭がうますぎでしょ、この人。崖の帝王もびっくりの貫禄でしたよ……。
「気持ちはわかるけど、ストーカーはさ、流石にやめてくれね?」
「…………やだって言ったらどうする?」
「んー……その時は……」
水戸は遠くを見るような目つきでわたしを見ていたけど、目が全然笑ってなかった。
「あー、やっぱいいです。はい、もういいです。今日限りでストーカーはやめます。大変申し訳ありませんでした」
……えへっ、ビビッちゃった。
ウソ、ビビッたっていうか、ちょっとちびりそうになった。
やだー、水戸洋平ってガチの不良の方? ……桜木花道の友達っていうんだから、多分お強いんでしょうねぇ! わたしみたいなモヤシ、一発で殺せるでしょう⁉︎
「うん、よかった」
よかったって顔じゃないよ。ヤクザとおんなじだよ。最初からできない交渉はしないって顔だよ。
「ストーカーやめたら、わたしこれからどうしたらいいんですかね……。多分わたし、桜木花道とお近づきには、なれないと思うんだけど……」
「あー、まあ、そうだよな……」
水戸はわたしの姿をジロジロと見て、納得したように頷いた。いや、納得すな。そこまでわたしってやばい風に見えますかね……?
しばらく考え込むような顔をしたあと、水戸はあ、と声を出した。何、何なに〜?
「じゃあさ、折衷案で行こう」
「え……なんそれ」
「流石に人の恋を邪険にするのはよくないよな」
「う、うん……」
わたしは期待を込めて彼を見上げる。次にくる言葉をめちゃくちゃ期待している。
「だから、色々教えてやるよ。花道のこと」
「え、えー、えーっ⁉︎」
ウソ……これって、幻聴?
「だから、もう付き纏うのはナシな」
「うんっ! うん! わかった!」
水戸はさっきとは違う意味で笑顔を浮かべていた。わたしも、めちゃくちゃ興奮して、超絶でかい声で叫んだし、水戸の手を掴んでぶんぶん振った。
ああ、わたしの今までの人生で一番、人に優しくされた瞬間が、今かも……。
かくして、わたしと水戸洋平の桜木花道同盟は結成されたのである。
彼にはなーんにもメリットがない関係、わたしが一方的に得をするという謎の関係性。
水戸に何度か宿題を見せてやったくらいの恩は返してるけど、それ以外は特に何かを求められたことがない。それどころか、水戸はわたしに何故か尻尾を振るような態度ばかりとる。優しい人だ。
ここまでくると、水戸洋平と付き合ったら? って思う人もいるかもしれない。わかるよ、超絶いい人だよね。でもね、わたしの中で一七〇センチない人って人権がないんです。あ、これだと炎上する……。そう、男の人として全くタイプじゃない! こっちに修正しといて……! 水戸は、そういう目では見れない人なんですよね、残念!
一応今まで、彼はわたしを裏切ったこともなく、嘘の情報を流されたこともない。少なくとも、わたしが知りうる限りでは。
──この時のことを一生忘れないだろう。
絶対って言葉は意味がない。でも、絶対に勝てるとこの時のわたしは本気で信じていました。わたしと桜木花道が結ばれるまで、秒読みじゃ! ガハハ! と思っていました──。
この時「は」。
◆
あれから数年が経過したけれど、わたしと桜木花道は友達どころか、ただの顔見知りでしかない。全く進展がない。一応、水戸洋平からわたしの情報が桜木花道に行くことはないっぽいので、わたしから動かないと何にもならない。
そういう感じなので、わたしと桜木花道の関係は一歩も進展していないのだった。
その間、桜木花道は何十人もの女に恋をし、真剣に悩み、全員から振られた。わたしはそのたびに、嬉し泣きで枕を濡らした。
というか、毎回感情が揺さぶられまくって自律神経が乱れている。わたしの体調は毎日最悪だ。
正直、わたしは桜木花道が女に振られまくっていることを真剣に嬉しく思っている。性格が悪いけど、これが本音なんだからしょうがない。
最近は赤木晴子とかいう同学年の女子にご執心らしいが、わたしはあんまり気にしていなかったりする。だって、あの子の本命は流川楓だ。ここから彼が逆転勝ちする可能性は限りなく低い……と思う。わたしが持っている情報は九割水戸洋平経由なので、正確なところはわからないのだけど。まあ、流川に勝てる相手なんてこの世にいないからなあ。
「はあ……」
なんとなくため息もついてしまう。
窓辺でぐうぐうと寝入っている桜木花道を見つめているけれど、全く起きる気配がない。
次の授業は選択授業で、わたしは彼と同じ音楽を選択していた。ちなみに、赤木晴子も同じ授業を取っているので、彼女の隣に座ろうと頑張って策を講じているらしい。ああ、君に作戦勝ちは無理だよ。
わたしの交渉術を教えてあげたいところだけど、音楽の授業の席順は学籍番号順であると決まっている。音楽教師の気まぐれがない限り、席番の変更はないと教えてあげなきゃ。言わないけどね。
十分間の休憩時間のうち、もうすでに五分が経過していた。
教室にはわたしと桜木花道しかいない。教室の鍵を預かってるのは、もちろん日直のわたし。男子の方はわたしを裏切って先にどっかに行きやがった──というか前回の家庭科室の時に閉めてもらったので、今回はわたしの番、というわけだ。
遅刻したら可哀想だし、仕方がない、体に触れる無礼を承知で起こしてあげよう。決してこれは合法接近チャンスとかじゃない。そんなことを考えてると水戸にまた怒られるから……。
自分が思わず唾を飲み込んだ音が聞こえた。喉を鳴らしながら、わたしはゆっくりと桜木花道の肩に触れる。
「………………起きてぇ〜」
小声で呟いたけれど、全く起きる気配がなかった。
「お・き・て!」
結構強くゆすったけど、起きない。
「遅刻する! 第二音楽室っ!」
本気でわたしまで遅刻しかねなくなってきたので、わたしはありったけの力を込めて肩を揺さぶった。
ああ、これが桜木花道の肉体か……。鍛え上げられた肩はわたしのそれとは比べ物にならないほど分厚く、硬く、堅牢だった。興奮する。手に触れる学ランのゴワゴワとした質感も、その下に存在する筋肉を覆い包む鎧のようなものだ。この布の下に彼の肉体が存在すると考えると、おかしくなってしまう。っていうかおかしくないか? わたしは今全力で、冷静さを欠きながら揺さぶっている。にも拘らず、全く起きない。
向こうも向こうだけど、やめないわたしもおかしくないの? とかそういうのは置いておいても、だけど。
いや、起きるに起きられない状況でもないよ。ちょっとがっちり肩を掴んでるだけです。うん、普通ですね。
「桜木くん! 起きてよっ!」
あ、そう。わたしって普段は彼のことをフルネームで呼んでません。
耳元で大きな声で叫ぶと、彼はようやく「うぬっ!」と呻きながら目を開けた。目を見開いた先にはわたしがいる。今日はおはようの挨拶ぶりの会話。脳内のメモリに保存しなきゃ。
桜木花道はわたしの名前を呼びながら、すみません、と謝罪する。寛大なわたしはいいよいいよ、と言ってあげた。本当に気にしてないし。むしろ役得っていうかご褒美だし。ってかどこぞの流川と違って寝起きを起こしても怒らないから素敵だわー。やっぱり時代は桜木。花道しか勝たんってこと。
「次、音楽室だよ。わたし鍵閉めだから一緒に行こ」
ドヤ! どうだ! この自然な会話!
「あー! 日直の……! スミマセン、オレが寝てたばっかりに」
「いやいや、気にしないで。それよりちゃっちゃと行かないと遅刻するよ」
わたしはそんなことを言いながら、しょげてる大型犬みたいな桜木花道を廊下へと追い出した。あ、音楽の教科書も筆箱も持たないで行っちゃった……。しょうがないなあ、わたしが持っていってあげる! できる彼女(未来の)!
鍵をガチャンと閉めて、わたし達は廊下を小走りで歩く。一年の教室から音楽室は比較的近いけれど、それでもかなりギリギリなので早足で行かないと結構きつい。
わたしの目の前を、桜木花道がえっさほいさと歩いている。本人は女子の手前早歩きを頑張っているらしいが(普段は走ってる。わたしが真面目な感じの人だと思われているから、頑張って校則を守っている……んだと思う。多分)、わたしからみたら、もうこれは競歩とかそういう類の速さにしか見えなかった。やっぱ背がでかい人はいいなー! めっちゃ「男」って感じがしてめちゃくちゃ萌える。キュンキュンで気が狂いそう!
「桜木くん、歩くの速いねぇ」
「えっ⁉︎」背後のわたしに声をかけられた桜木花道が急ブレーキをかけて止まった。え、なんで? 「あ、あのっ! オレ! その、歩くのが速すぎたでしょうか!」
「あのー、どういう意味かな?」
マジでどういう意味?
「女性と歩幅が違いすぎるので、その、ついて行くのが厳しいという意味なのかなーと……!」
「いやっ! そういうのじゃないよ! 気を使わなくていいよ! ってか、早くしないと遅刻するよ!」
わたしのアホ‼︎
ぜんっぜんかわいくないよー⁉︎ なんでぇ? なんでこんなふうに答えちゃうわけ⁉︎
あーもうわたしのバカバカ! 印象最悪だよー!
とかふざけてるように見えるけど全然死活問題ですからね。ああ、これでわたしのイメージが変わっちゃう。
違う、わたしはサバサバ女ではない。もうちょい繊細な性格なんです。え、ここってなんて言うのが正解なわけ? …………ヤバ、わかんない笑。
「そっ、それは、スミマセン!」
うわっ! めっちゃ体育会系〜!
初心な反応にかわいさで気分が上がった。
それと同時に、なんだか不穏な何かを即座に感じ取ってしまう。第六感てやつ?
もじもじしてるのはめっちゃ可愛いんだけどさ、なんかちょっと違和感があるんだよね。……なんでだろ。
ってかなんで赤くなってんの? え?
わたしの直感は、悲しいかな当たってしまった。次に出てきた言葉にわたしは絶句どころか、目の前が暗くなるほどのショックを受けた。
「洋平の彼女だから、優しくしねえといけないと思って……」
「ハァ………………?」
視界、暗転──。
◆
あっという間に放課後になった。
わたしはその場で本当に倒れてしまったらしく、目が覚めたら保健室にいた。運んでくれたらしい桜木花道に後でお礼を言わなきゃ……と寝起きの頭で考えるのと同時に、早く誤解を解けるように努めなければという焦りが湧いてきた。
何がどうなってわたしと水戸洋平が交際しているという馬鹿げた噂が流れているのか、話題の出所を突き止めなければならない。
わたしはひとまず、様子を見てくれていた保険医に自宅に帰ることを伝え、保健室を退出した。向かう先は体育館。きっとそこに、水戸もいるから。
すでにバスケ部の部活は始まっていた。
体育館の入り口に忍び足で近寄ると、密偵のように水戸洋平を呼び出す。幸いにも、今日は桜木軍団の他に見学者はいなかったから、ここまでは問題なし。
わたしは人気のない場所まで水戸を連れて行くと、早速尋問に取り掛かる。
「聞きたいことがある。単刀直入にいうけど、桜木花道にわたしがあんたと付き合ってるって言われた。その情報の出所は? 水戸が情報統制してくれてるんじゃなかったの」
怒りで早口になりながらも、できる限り冷静に疑問をぶつけようと頑張る。そんなわたしの前に立ち、水戸洋平はいつものすまし顔で怒りに震えるわたしを見ていた。
「わたしの人生に関わる重大な質問だから。真面目に答えてくれないと困る」
水戸はゆっくりと息を吸うと、真面目くさった顔で次のように答えた。
「それ、オレが言った」
最後まで言わせなかった。
わたしが思いっきり右ストレートでぶん殴ったからだ。
彼はさして抵抗しなかった。そうされるとわかっていたのに全く避けるそぶりすら見せなかった。それが余計にむかついて、わたしはもう一発拳を叩き込む。
顔を殴られるのが一番痛いはずだ。
だから、頬を思い切り叩いた。わたしの全体重をかけた一撃を受けて、口の中が切れた。彼の唇の端から血が流れ落ちる。
人を殴ったのは初めてだった。……だってわたし、不良じゃないし。
今までゲーセンのパンチングマシーンしか本気で殴ったことのない拳は、もうこれだけで悲鳴をあげていた。足はガタガタ震えるし、人を殴ってしまったことへの罪悪感でいっぱいになる。もう正直、泣きそうだし。
「約束、破ったね……いや、もう約束って言葉では済まないか。わたしは水戸が嫌がることを何にもしなかったよ。でも、水戸はわたしを裏切って……あろうことか……」この先は恐ろしくて、口に出すのが怖かった。「なんであんなこと、言ったわけ……? ねえ、おい。聞いてんのかよ」
もう一発、殴る。今度は腹のあたり。わたしと水戸は体格差があまりなかったから、すごく殴りやすかった。
「花道と付き合ってほしくなかった」
「じゃあ、なんで……なんでわたしにいい夢見させるようなこと言ったんだよ」
「……」
「なあ、黙ってるなよ」わたしはもう、手だけでなく脚も出してしまっていた。鳩尾に、容赦なく蹴りを入れる。「……ああ、もしかしてわたしのこと、好きになっちゃった? だったら仕方ないなあ……とか言うわけなくない?」
水戸がわたしのことが好きで、それで花道とのことに嫉妬して「こう」したのだったら、それなら可愛いやつめ、とちょっと許してあげたかもしれなかった。だって、わたしが逆の立場で水戸のことを好きになったら、そうしなかったとは言い切れないから。
でも、違った。
「別に、好きって気持ちからこうしたわけじゃない。たぶん、言ってもわかんねえよ」
「わかんないって、わたしのことを舐めてんの⁉︎」
「そうじゃない。ただ、どうしても……」
「わっかんないって! そんな曖昧な言い方で理解できるわけないじゃん……!」
何回殴られようが唇を切って血をダラダラ出していようがヘラヘラと立っている水戸が気持ち悪くて、心底腹が立って、わたしは、ムカついて……、みっともなくて……。
「……どうしても、わたしには理解できない事情で、こんなことしたんだ……そうなんだ……意味わからねえよ……キモいよあんた……」
「…………」
わたしは今、もう鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃで汚いはずだ。それなのに、水戸は笑いもせず、見下すでも哀れむでもない、微妙な笑顔を浮かべていた。なんで殴られてるのに笑ってんの。
「取り消してよ……桜木花道にさ、全部嘘だって言ってよ。そしたら、わたしも許すよ……」
「それは、無理だ」
「なんで……」
この先は言わなかった。どうせわたしにはわからない水戸の事情が理由だから。
「本当に、悪いと思ってる。オレって最低だよな」
「うん、うん……あんたは最低だよ。世界一大嫌い。……でも、痛かったでしょ」
わたしは懐から取り出したハンカチで彼の口元を拭った。本当は桜木花道にこうしてあげたかったけど、彼はもう喧嘩はしない。黄色のハンカチが、赤黒く染まっていく。
「ごめん。絶対に水戸のしたことは許さないけど、殴ったりしたのは、謝る」
ここまでされて、わたしは水戸洋平への情を捨て切れなかった。
だって、中学の時から今まで、わたしの友達は水戸洋平ただ一人だったからだ。こんなことをされて裏切られて、馬鹿みたいだけど、わたしは水戸が嫌いで大好き。なんでなんだろう、ね。
「まあ、オレは殴られ慣れてるから。それより……すっげえ泣き顔」
「うるさいなぁ!」
水戸は自分のハンカチで、わたしの顔を乱暴に拭った。ああ、この人はハンカチを持ち歩くような男だったのか。こんなに長い付き合いなのに、わたしは水戸のこと、なぁんにも知らなかった。
「あはは……」
そう思うと、不思議と腹の底から笑えてきた。
「何笑ってんだよ」
「…………別に!」
わたしって今、すごく不思議ちゃんだと思う。泣いたり笑ったり、忙しいヤツだ。
そしたらまた涙が流れてきて、誤魔化すために上を向いた。空がめちゃくちゃ綺麗だった。
「……オレのこと、許す気になった?」
「それは絶対許さん!」
その後、わたしは水戸を保健室に連れていった。職員室で残業している先生を呼び出して、全部を洗いざらい話した。もちろん、桜木花道のことでブチギレたことは伏せた。先生に恋バナしてどうすんのかって話だし。
結果として、一週間の停学処分を受けた。まあ、妥当だよね。復学した後のことはまた考えればいい。とりあえず、今は家でのんびりとしていようと心に決めて、わたしは学校の門を潜る。
水戸洋平! いつか絶対わたしの手で葬ってやるからな!
女という生き物を「生物」として見ていない。幻想を抱いている。どれだけ女にこっ酷く振られようとも、その幻想は崩れない。その点に関して、わたしは彼のことを心底尊敬し、同時に少し呆れている。見下していると言い換えてもいい。
女なんて、皮一枚剥いでしまえば肉の塊だというのに、桜木花道はその事実を見て見ぬふりをしているのか、お砂糖とスパイス、素敵なものでできていると多分、本気で信じている。そこが、いただけない……。そして、許せない。心の底から許せない。わたしはできることなら、女の汚い一面を見せてやりたいと思っている。単なる肉塊と内臓の集合体であると見せつけてやりたい。そして、絶望する顔が見たい。歪んだ愛情であると理解しているが、どうしても欲求が押さえつけられない。そんなことをすれば嫌われると分かっているから、絶対にしないけどね。
ここからは希望的観測の話だが、女を知らないということは彼は童貞である。
女を知らないという言葉には二重の意味がある。その二つ両方が当てはまる人間を、わたしは桜木花道しか知らない。
この世界の人間は総じて腐っている。歪んでいるし、正しい道から外れている。世の中の人間で真っ直ぐ生きているのは桜木だけだと言い切れる。それくらい、素直でいい人なんだ、彼は。でも、いい人じゃ振られちゃうね。そもそもああいう真っ直ぐな気性を見抜いている人間は少ない。大抵の女子に、彼は怖がられてしまっている。勿体無いなあ、と思うけれど実は有り難かったりもする。わたしだけが桜木花道を愛していればいい。真の意味で、わたしだけが理解していればいい。そう思っているのですが──
「マジで聞いてんの?」
壁に拳をぶつけながら、目の前の男に話しかける。男は口にマルボロを咥えながら、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「あー……なんの話だっけ」
「こ、こいつ……もう二回は言わないからな……」
桜木花道童貞説を力説するわたしに対して、向こうは興味なさげにボケーっと突っ立っていた。その姿はやけに様になっていて、並の女なら一発でアウトだろうなと思った。幸い、わたしの興味関心は桜木花道ただ一人であるので、問題ない。
水戸洋平はただの男友達の一人であって、ときめきの対象じゃない。そもそも、わたしは身長百七十センチに満たない男性には性的魅力を感じない体質だ。
「悪い、これで勘弁して」
シガレットケースの最後の一本を差し出しながら、水戸はわたしにそう言った。
……仕方ないなあ、と許すわたしもわたしだと思うけれど、こんなめちゃくちゃな話を黙って聞き流してくれる相手は彼しかいない。だから、ある程度は寛大になろう。
「ほい、火」
「んー」
口先に引っ掛けるようにして咥えていると、彼がポケットから取り出したライターが近づいてくる。小さな火がポッと移ると、先っちょから上がる煙が空に溶けていく。
「はぁ」
未成年の喫煙は何とかで罰せられます。罰せられますだっけ? 健康に悪いですだっけ? ……そんな文章が目に入ったけれど、いつものようにスルーすることにした。
煙を吸い込むと、肺に生暖かい空気が充満する。体に悪いものを吸い込むと、生きている気がする。ぬかるんだ足元じゃなくて、雨が上がったばかりの空を見上げると、濁ったインクみたいな灰色の空が見えた。多分、夕方あたりにもう一回雨が降る。そんな気がする。
「大丈夫、言わねえよ」
「……ありがと」
上ばっかり見てるのを、心配したからだと思ったのか、水戸はフォローを入れてくれる。
なんでこいつに彼女がいないのか、いつもみたいに疑問が湧いてくる。
「花道は……女の子と付き合ったことないからな」
「聞いてたんだ」
「横で怪しいことブツブツ言われて、耳に入らない方がヤバい」
「そりゃあそうだ。っていうか、それってつまり童貞確定ってことだよね。うんうん」
「オレ、ずっと一緒だから」
何回聞いても同じことしか答えない。
わかりきっている答えだった。
桜木軍団の人たちはずーっと一緒にくっついてる。どこに行くのも。この前広島でインターハイがあった時も鈍行列車でわざわざ駆けつけたらしい。
わたしも行きたかったけど、バイトがあったから無理だった。無理にでも行けばよかったかもしれない。
「行けなかった」じゃなくて、「これは行かなかった」だ。
本気でいこうと思えばバイトでも何でも休んでしまえばいいのに、行かなかった。
多分、行ってもわかんないし、と思って行かなかった。
行きたかった気持ちはあるけど、何となくで行かなかった。ってところがダメだったんだろうな。そこでわたしは、負けてるんだよな。
「水戸はいいよね。桜木花道のこと何でも知ってるから」
「何でもは知らねえよ」
灰皿がないので、水戸は地面に落としたタバコを靴の裏で擦り付けた。
吸い殻を置いとくなんて悪いやつめ。
未成年者の喫煙を咎めず、ポイ捨てに怒るわたしを知ってか知らずか、水戸は目線での抗議を華麗にスルーする。
「……意外。何でも知ってるって言うんじゃないかって思ったのに」
「なんでも知ってる、なんて言ったらただのストーカーだろ?」
「…………」
嘘だな、と思った。でも、あえてすぐには言わなかった。沈黙を作るべきタイミングがあるならば今だと思ったからだ。
水戸洋平に桜木花道に関して知り得ない情報などはないというのはあり得ない。それはこの数年で嫌というほど理解していた。
数年水戸と絡んでいながらも、桜木花道と一歩も進展らしい進展をしていないわたしと、ずっとベッタリの水戸とは、持っているカードの量が違うのは当然のことだ。
それを前提としても、水戸洋平が桜木花道について知りうる情報が多すぎる。
まだまだカードは伏せられていますよ、どうでしょう。
そう言いたげな瞳に何度屈服しそうになったか。
水戸は…………わたしが桜木花道と付き合ったら、嫌なんでしょ。
何度もそう言いかけた。
多分、水戸洋平はわたしのことを友達だとは思っていないと思う。わたしは友達だと思って、そう自認しているけれど、向こうがそうだとは限らない。多分、認識は違うと思うし……。
じゃあどうしてわたしに桜木のことを教えてくれるのか、向こうにとってそれらしいメリットがないのに。この問いに対する答えはいまだに出ていない。
わたしがうだうだしている様子に腹を立てるでもなく、淡々と情報を流してくれる。水戸洋平がわからない。何にも。
「水戸はさ、なんでわたしに桜木のことを教えてくれるわけ?」
「面白えから」
「そう?」
「うん」
「わたしはさ、桜木花道と結婚したいと思ってるけどそこに異論はない?」
「うん。花道が選んだなら誰でも」
嘘だなー。絶対。
水戸洋平は絶対的に桜木花道の味方だから、わたしのことなんて認めないはずだ。だって、わたしってヤバい女だし。桜木花道に対して犯罪行為をやらかす寸前だし。導火線に火の付いた爆弾だし。
「あ」
わかった。
セコムなんだ。
そこに考えが至ってしまうと、わたしはバカに笑えてきて、一人でニヤニヤしていると手に持っていたタバコが地面に落ちた。スニーカーでぐりぐりと踏み潰していると、水戸が「そっちもポイ捨てしてる」と茶化してくる。
「うっせー! あはは」
わたしがゲラゲラ笑っていたら、水戸はドン引きするかもしれない。こんなところを桜木花道に見られたくない。でも、ヤバい。笑い止まんねー。あはは。マジで大発見なんですけど。
「そうです、花道こそが僕の天使様です、ってか!」
「なんだよそれ」
「水戸は知らなくていいよー。エロゲの話だから。ってかこの時代はまだ出てねえか、あはは」
確かに、そうだったな。水戸洋平って、そんな人だったかも。やっぱおもしれーわ。純愛を本気でやってる人って。わたしはもう、ゴリゴリ欲に塗れてるから。ダメかもしんない。勝てねえかも。
……マジで、この人に勝てないかも。
そう思った瞬間、わたしの口角はグッと下がる。笑い声は消える。
急に挙動不審になる相手に慣れているからか、水戸洋平は動じなかった。
「やっぱ、お前見てると飽きないな」
「うーん、ありがと」
その時、昼休みが終わる予冷の鐘が鳴った。
わたし、授業「は」一応真面目に出る派なので水戸に手を振って校舎に戻る。
実はわたし水戸のこと本当にめちゃくちゃ嫌いかもしれないなあ、と初めて思っちゃったのでした。世界の真理かも?
◆
男女の友情は成立しないというのが、わたしの持論だ。水戸洋平とわたしは、お互い本気になれる相手が同じなだけで、多分本気の友達じゃない。クリスマスに兵士たちが一時休戦してサッカーするみたいなアレだ。
わたしが桜木花道を好きになった経緯について、特にドラマチックな話があったわけではないことを、ここに断っておく。
ただ単に顔が好きで、言動が好きで、気がづいたらずっと見ていて、いつの間にか本気で好きになっていた。
男はデカければデカいほど、いい。
高身長で見境なく暴れる言動がめちゃくちゃ破天荒で傍若無人な男がタイプで、それがたまたま桜木花道その人だったというだけだ。好みど真ん中ストライクでした。特に運命を感じるような絡みはない。ちなみにわたしは処女厨でもある。
桜木花道をずっと見ていた。学校にいる間ずっと見ていた。そうしたら水戸洋平に目をつけられた。セコムこと水戸洋平は、桜木花道に接近するすべての存在を完全に把握している。
赤木晴子をはじめとした花道の周辺の女、バスケ部を中心とする男の交友関係をすべて把握し、そのどこかに歪みが生じれば的確に対処し、問題の種は潰す。なんで一介の高校生にそこまで入れ込むのかと聞くのは恐ろしいのでできない。おそらくそれは愛の成せる技だとわたしは考えている。たぶん、聞いてもまともな答えは返ってこないと思うし。
今日も今日とて午後の授業は眠くて仕方がない。古典の授業は特に眠くなる。一応わたしは清楚清純で売っているつもりなので、授業はサボりません。ちゃんと出席します! タバコはちょっとしたコミュニケーションツールで、特にグレてるとか不良とか、そういうのではないです、はい。
でも、わたしの真横に座る桜木花道は、教師の視線を全く気にせず寝息を立ててすやすや寝ていた。
あー、かわいい! ラブ!
かわいすぎてちょっとイライラする! うんうん、それもまたキュアグだね。恋だね。
桜木花道、前は授業すらまともに出席していなかったことを考慮すると、ちゃんと出席しているだけ偉いじゃんってなります。なりませんか? 先生方。
これは好きで好きで仕方がなくておかしくなった人間の異常な意見なので聞かなくていいですけれどね。
ちなみに。わたしは今学期に入ってから、ずっと桜木花道の隣の席をキープしている。誰も桜木花道の隣の席になりたがらないから、裏工作は容易だった。あんなデカくて不良な男の横、喜んで座ろうとするわたしは異常者扱いされてしまいがちだ。でも大概の人は「先生が桜木を見るから内職がバレない」という嘘の言い訳を信じて納得してくれる。ふん、楽な仕事だぜ。
中学時代は影からこっそり見つめているだけの、ストーカー(じゃねえし)……純文学じみた恋愛をしていたが、高校に入ってからはしっかり名前を覚えさせて認知もバッチリに進化している。やはりこれからの時代女性からもグイグイとアピールをするべきだと、わたしは思っています。
めちゃくちゃ眠いけど、和歌の恋愛の歌だけにはしっかり感情移入するわたしです。やっぱり平安時代から今に至るまで人間の感情なんて何にも変わってない。ねえ、桜って和歌によく詠まれるよね。古典的で美しくって、本当にいい名前だと思わない?
桜木っていい名字だよね。まあ、わたしが将来それになるし、今のうちに慣れとこう的な、予行練習みたいなモンなんだけどな! ガハハ。今正気じゃないので誰も話しかけないでください。
みんなが必死こいてノートに黒板を板書している間、わたしはなんとなく窓の外を見てみる。景色と交わる光景もまた、それなりに乙なものだ。あきも深まり、木々は段々と紅葉に近づいていく。段々と赤く染まっていく葉っぱは桜木花道の頭の色にちょっと似ている気がしませんか? 皆さん!
……思い出しちゃうなぁ、あの時のこと。
…………あ、ここから回想入りまーす。
◆
中二の秋。ちょうど今くらいの季節だった。運悪く季節性の胃腸炎に罹ってしまい、ゲロを吐きまくった後の久しぶりの登校を終えたわたしは、数学の授業を待たずに早退し、帰路である公園の近くの道を一人きりで歩いていた。
学校に提出した通学経路を律儀に守る優等生のわたしは、もちろん公園で行われている喧嘩を目撃してしまう。大きく開けた入り口からバッチリとそれは見えてしまった。なんで児童公園で不良どもが大乱闘していたのかわからないが、とにかくその時は確かに「そう」だった。
わたしは思わず立ち止まり、その光景を動物園の猿山を観察するようにじっくりと観察していた。
暴力というものが蔓延る公立の中学校でも滅多にお目にかかれないくらい、彼らは暴れ回っていた。
金網に体をぶち当てて、激しく揺れる音や、顔を殴った際に地面に落ちる鼻血を眺めながら、わたしはプロレスでも観覧するような気持ちでそれを眺めていた。
見ているうちに彼らは複数人同士で徒党を組んで戦っているのではなく、赤髪のリーゼント一人を執拗に狙って攻撃しているのだと気づく。驚いたのは二回。一回目は「これ」で二回目は──赤髪のリーゼント、もとい桜木花道一人に、彼らはなすすべもなく敗北していたことだった。
……いや、強すぎるだろ。
素手一本で相手している桜木花道に対して、木刀やらメリケンサックを使ってもボロ負けしているモブ不良のダサいこと、ダサいこと。
あり得ないだろ、それで負けるの。
気がつくとわたしは、ヒーローショーを応援する子どもの如く桜木花道を応援していた。赤い人、頑張れぇー! そこだー! やっちゃえ! 口には出してないけど、確かに手に汗を握りながら見守っていた。(実際は競馬の中継見てるおっさんと大差ない)
「すべて」が終わった後、倒れる仲間を背負いながら這々の体で逃げていく不良たちを見送りながら、わたしはこっそり木陰から桜木花道を見つめていた。彼は特に怪我らしい怪我もしておらず(背中を思い切り叩かれていたのに⁉︎)、水道水で顔を洗って水を飲むと、そのまま奥の出口からどこかに消えていってしまい──消えてません。追いかけたので。
いや、追いかけたっていうか、こっそり尾行しました。おいそこ、ドン引きすんな。
すっかり見知らぬ喧嘩のバカ強い不良に一目惚れしてしまったわたしは、これからどこかへと向かう彼の自宅を割ってやろう、あわよくば生活圏を把握してしまおうと思い、病み上がりの体に鞭打って彼の自宅まで尾行しました。
愛のなせる技ですね。
鎌倉市内をぐるぐると歩きながら、帰りの道なんてどうでも良くなったわたしは、ずっと彼を追いかけた。電柱の影から、塀に隠れて、ずーっとずーっと見てたんです。
桜木花道はまっすぐ自宅に帰っていった。木造の平屋はそれなりに年季がありそうで、なんとなく彼の実家の経済状況が伺える。へー、なんだか訳ありそう。でも、愛の前にそんな障害があれば盛り上がるよなぁ。ねっ?
広い背中が素敵だなあと寝ぼけたことを考えていたわたしは、その実しっかりと彼の住所を脳に叩き込んでいた。観察しているうちに見えた校章から、わたしと同じ学校の生徒であることは確定している。つまり、ワンチャンあるってこと。
少なくとも、他校の高校生とかよりも全然チャンスは多い。接近して、まずは友達から始めよう!
次の日、彼の学年とクラスを割り出すべく、わたしははやる気持ちを抑えられず、めちゃくちゃワクワクしながら登校した。
桜木花道を見つけるのは実に簡単なことだった。
その日の昼休み、わたしは校舎の裏手をぼんやりと歩いていた。自転車の鍵を籠に入れっぱなしにしていた気がしたのと、なんとなく昨日の「彼」に会える気がしたからだ。
足取りはのんびりとしていたが脳は冴え渡っていた。だからこそ、ショックだった。
自分の自転車の鍵を弄っていると、キティちゃんのキーホルダーをつけた鍵が出てきた。ほっと胸を撫で下ろしていると、少し離れた場所から声が聞こえてきて、自動的に聴力のピントはそちらに合う。合ってしまう。
「お、お付き合いしてください!」
おー、なんだなんだ? と野次馬根性丸出しのわたしは告白現場を見物しようと足音を殺し、物陰からそっと向こう側を見つめる。
「…………」
思わず、声が漏れ出そうになった。
そこにいたのは昨日の不良と、わたしの知らない女子生徒だった。他に人はいない。
喉から悲鳴が上がりそうになったのを、よく我慢したと思う。
わたしが生まれて初めて好きなった人が、目の前で別の女に告白している。
これを叫ばなくて、いつ叫ぶ?
──振られろ! 失恋しろっ……!
意地悪く、こんなことを考えてしまう。告白を受けた方の生徒の出方を、固唾を飲んで見守る。振られろ、そうじゃなければ、向こうが死ね。呪ってやる。
この時のわたしは、おそらく人に見せられないような醜い顔をしていたことだろう。
しばらくの沈黙の後……
「ごめんなさい」
彼は清々しいほど綺麗に振られていた。
……握りしめた拳を、そっと解く。
落ち葉がひらりと、わたしと彼の間を通り過ぎた。
それからどんな顔をして教室に戻ったか、覚えていない。気がつくと、自分の席の上で予冷がなるのをじっと待っていた。
あまりにも正気が抜けているわたしを心配してくれる人はいない。なぜならわたしには友達がいないからです。
教科書とノートと筆箱を出して、もうこれ以上することがない。
自習とか予習とかしておくべきなのかな。泣きそうとかしんどいとか、そういう感情はあったけど、喜ぶべきこともあったので混乱していた……。
人が失恋するところを初めてみた。
告白があんなにもあっさりばっさり切られちゃうんだな……って。
……なんかしんどいかも。
あの人、悲しんでないといいなぁ……と、さっさとわたしのことを好きになっちゃえばいいのに、の二つがずーっと頭をめぐっている。多分このままだと知恵熱が出ちゃうな。考えすぎで寝込むなんて、わたしめっちゃダサい……。
「……じょ……ぶ?」
「へ……?」
「あの、大丈夫? 今日の授業、移動教室だけど」
「あ、そうだっけ……」
気がつけば、わたしの周りから人が消えていた。
黒板に大きく「次は化学室」と書いてあるにも関わらず、わたしはそれを見過ごしていたみたいだ。
「なんかぼーっとしてたけど、熱でもある? 保健室行こうか?」
「いや、大丈夫……」
そう言って立ちあがろうとしたけど、うまくいかなかった。
椅子を引いて立ちあがろうとしたところで、わたしの筋肉がうまく動かなくなったか、腰が砕けてしまった。
「……っ!」
地面に尾骶骨を打ちつけそうになったわたしを、彼は必死で助けてくれた。おかげで肩が外れそうになったけど。
「ごめん……あと、ありがと」
「いや、本当に保健室行った方がいいって。オレが送るよ」
その同級生は教室の鍵を閉めると、わたしを無人の保健室に連れて行ってくれた。
室内はアルコール消毒の匂いでツン、としている。校庭に面した窓のカーテンは完全に締め切られていて、見る限りベッドで寝ている人はいなさそうだった。
「あー。今、先生いないっぽい」
「…………」
知ってる。保健室の入り口に「養護教諭・会議のため不在」って書いてあったから。
彼はわたしを椅子に座らせると、扉の内鍵をギュッと捻った。
「え……なんで鍵……」
「聞かれたくない話をするから」
こいつ、確信犯だな。
これから行われることが碌でもないことだと直感的に悟る。やましいことをするために保健室に連れてきた? わざわざわたしを? なんのために?
脳内で思考を張り巡らせながら、わたしは目の前の同級生を観察する。おとなしそうな顔をしていて、結構悪いヤツだ。よく見たら髪型も結構不良って感じだし。ヤンキー漫画みたいに脅されて、その、よくない感じになるかもしれない。保健室にわざわざ連れてくるってことは、そういうこと、でしょ……。
脳に血液が集中しているのがわかる。向こうは学ランのポケットに両手を突っ込んで、わたしを見下ろしていた。慎重に睨みを利かせつつ、この場をどう切り抜けるべきか、ずっと考えを固めていた。
「あの、さ。悪いようにはしないから」
「…………で、何が欲しいのかな」
わたしが発声したのと被せるように彼は、確かそう言った。
「は?」
被せんなし。
「いや、ごめん。別に、取って食うとかそういうのじゃないから、安心して欲しくて」
「それさあ、マジで言ってる? 怪しさ満点なんですけど……ってか聞かせたくない話って、なに?」
安心っていうのはね、積み重ねと信頼なんだよ。
──そこまで言おうとして、わたしは彼の名前を知らないことに気がついた。
「オレ、水戸洋平」
「みと、ようへい……」
ちょうどいいタイミング。見計らったように、彼は自分の名前を教えてくれた。ってか、ピッタリすぎて気持ち悪いんだけど……。
「あぁ……、同じクラスだったのに、覚えてくれてなかったかぁ……」
「ごめん。人の名前覚えんの、超絶苦手で」
「そっか、じゃあしょうがないな」
一学期と二学期の半分を一緒に過ごしたというのに名前一文字も覚えていないクラスメイトに対して、彼は結構寛大らしい。
わたしだったらちょっとショックを受けてるところだよ。うちのクラス、三十八人しかいないのに。名字すら覚えてないって……。
ミトヨウヘイ、ミトヨウヘイ。うん、覚えた……かも。
「まあ、名前なんてどうでもいいや」水戸は、わたしの隣に拳一つ分のスペースを空けて座った。「桜木花道についてなんだけどさ」
「桜木……花道……」
その名前を聞いた瞬間、わたしは背筋がゾッとして、同時に、顔面に火が付いたかのような錯覚に襲われた。
「オレのダチなんだ」
「そ、そうなんだ……で、その、桜木花道がどうかしたの?」
水戸の綺麗な横顔を見ながら、わたしは正直逃げ出したくてたまらなかった。いや、逃げちゃダメなんだけど。
ここで情報を掴まなきゃ! という気持ちと逃げたい、恥ずかしいという気持ちが戦っている。
「昼休みさ、あいつが四組の──さんに告ってた時に……いただろ」
──自転車置き場に。
名探偵にズバリ当てられた犯人の気持ちって、こんなのなんだろうか。
さっきとは違う意味で顔の血流がおかしくなっているのがわかった。震える右手はスカートを握っていて、皺になってしまうのは、確定だ。
「で、それがどうしたの? わたしに何か関係があるんですか」
……緊張しすぎて、同い年相手に敬語を使ってしまった。
手汗はダラダラ。表情筋はぐちゃぐちゃ。もう、次にどんな言葉が来るのか怖くてたまらない。ってかなんであんたもそのことを知ってんの? 友達だからってそれまで知ってんのは流石にやりすぎじゃないんですか?
まるで、崖に追い詰められた犯人の気分だった。
水戸はゆっくりわたしを指さして、チェックメイトを宣言する。
「花道の、ストーカー」
「はぁぁぁぁぁっ⁉︎ んなわけっ、ないんですけどぉっ! 失礼な!」
正直、図星でした。
焦りすぎ・声裏返りすぎで、はい! わたしは桜木花道さんのストーカーでございます。と申告しているようなものだった。情けない。
「……本人が言ってたんだけど、なんか最近見られてるような気がするって気にしてた。それってつまり、そういうことだよな」
「そ、そう……そうかも……」
水戸に見つめられると結構な迫力があって怖かった。名探偵から鬼刑事にジョブチェンジした水戸は、わたしを諭すようにゆっくりと言葉を重ねる。
「花道は、自分のことが好きな女の子が影からこっそり見てるかもしれないって、喜んでもいた」
「そっ! そうなんだ……! えっ……やばい……どうしよう」
やばい! これってわたしのこと、じゃん……。本人の認知、いただきましたぁ!
「……自白、お疲れさん」
「あっ……」
飴と鞭がうますぎでしょ、この人。崖の帝王もびっくりの貫禄でしたよ……。
「気持ちはわかるけど、ストーカーはさ、流石にやめてくれね?」
「…………やだって言ったらどうする?」
「んー……その時は……」
水戸は遠くを見るような目つきでわたしを見ていたけど、目が全然笑ってなかった。
「あー、やっぱいいです。はい、もういいです。今日限りでストーカーはやめます。大変申し訳ありませんでした」
……えへっ、ビビッちゃった。
ウソ、ビビッたっていうか、ちょっとちびりそうになった。
やだー、水戸洋平ってガチの不良の方? ……桜木花道の友達っていうんだから、多分お強いんでしょうねぇ! わたしみたいなモヤシ、一発で殺せるでしょう⁉︎
「うん、よかった」
よかったって顔じゃないよ。ヤクザとおんなじだよ。最初からできない交渉はしないって顔だよ。
「ストーカーやめたら、わたしこれからどうしたらいいんですかね……。多分わたし、桜木花道とお近づきには、なれないと思うんだけど……」
「あー、まあ、そうだよな……」
水戸はわたしの姿をジロジロと見て、納得したように頷いた。いや、納得すな。そこまでわたしってやばい風に見えますかね……?
しばらく考え込むような顔をしたあと、水戸はあ、と声を出した。何、何なに〜?
「じゃあさ、折衷案で行こう」
「え……なんそれ」
「流石に人の恋を邪険にするのはよくないよな」
「う、うん……」
わたしは期待を込めて彼を見上げる。次にくる言葉をめちゃくちゃ期待している。
「だから、色々教えてやるよ。花道のこと」
「え、えー、えーっ⁉︎」
ウソ……これって、幻聴?
「だから、もう付き纏うのはナシな」
「うんっ! うん! わかった!」
水戸はさっきとは違う意味で笑顔を浮かべていた。わたしも、めちゃくちゃ興奮して、超絶でかい声で叫んだし、水戸の手を掴んでぶんぶん振った。
ああ、わたしの今までの人生で一番、人に優しくされた瞬間が、今かも……。
かくして、わたしと水戸洋平の桜木花道同盟は結成されたのである。
彼にはなーんにもメリットがない関係、わたしが一方的に得をするという謎の関係性。
水戸に何度か宿題を見せてやったくらいの恩は返してるけど、それ以外は特に何かを求められたことがない。それどころか、水戸はわたしに何故か尻尾を振るような態度ばかりとる。優しい人だ。
ここまでくると、水戸洋平と付き合ったら? って思う人もいるかもしれない。わかるよ、超絶いい人だよね。でもね、わたしの中で一七〇センチない人って人権がないんです。あ、これだと炎上する……。そう、男の人として全くタイプじゃない! こっちに修正しといて……! 水戸は、そういう目では見れない人なんですよね、残念!
一応今まで、彼はわたしを裏切ったこともなく、嘘の情報を流されたこともない。少なくとも、わたしが知りうる限りでは。
──この時のことを一生忘れないだろう。
絶対って言葉は意味がない。でも、絶対に勝てるとこの時のわたしは本気で信じていました。わたしと桜木花道が結ばれるまで、秒読みじゃ! ガハハ! と思っていました──。
この時「は」。
◆
あれから数年が経過したけれど、わたしと桜木花道は友達どころか、ただの顔見知りでしかない。全く進展がない。一応、水戸洋平からわたしの情報が桜木花道に行くことはないっぽいので、わたしから動かないと何にもならない。
そういう感じなので、わたしと桜木花道の関係は一歩も進展していないのだった。
その間、桜木花道は何十人もの女に恋をし、真剣に悩み、全員から振られた。わたしはそのたびに、嬉し泣きで枕を濡らした。
というか、毎回感情が揺さぶられまくって自律神経が乱れている。わたしの体調は毎日最悪だ。
正直、わたしは桜木花道が女に振られまくっていることを真剣に嬉しく思っている。性格が悪いけど、これが本音なんだからしょうがない。
最近は赤木晴子とかいう同学年の女子にご執心らしいが、わたしはあんまり気にしていなかったりする。だって、あの子の本命は流川楓だ。ここから彼が逆転勝ちする可能性は限りなく低い……と思う。わたしが持っている情報は九割水戸洋平経由なので、正確なところはわからないのだけど。まあ、流川に勝てる相手なんてこの世にいないからなあ。
「はあ……」
なんとなくため息もついてしまう。
窓辺でぐうぐうと寝入っている桜木花道を見つめているけれど、全く起きる気配がない。
次の授業は選択授業で、わたしは彼と同じ音楽を選択していた。ちなみに、赤木晴子も同じ授業を取っているので、彼女の隣に座ろうと頑張って策を講じているらしい。ああ、君に作戦勝ちは無理だよ。
わたしの交渉術を教えてあげたいところだけど、音楽の授業の席順は学籍番号順であると決まっている。音楽教師の気まぐれがない限り、席番の変更はないと教えてあげなきゃ。言わないけどね。
十分間の休憩時間のうち、もうすでに五分が経過していた。
教室にはわたしと桜木花道しかいない。教室の鍵を預かってるのは、もちろん日直のわたし。男子の方はわたしを裏切って先にどっかに行きやがった──というか前回の家庭科室の時に閉めてもらったので、今回はわたしの番、というわけだ。
遅刻したら可哀想だし、仕方がない、体に触れる無礼を承知で起こしてあげよう。決してこれは合法接近チャンスとかじゃない。そんなことを考えてると水戸にまた怒られるから……。
自分が思わず唾を飲み込んだ音が聞こえた。喉を鳴らしながら、わたしはゆっくりと桜木花道の肩に触れる。
「………………起きてぇ〜」
小声で呟いたけれど、全く起きる気配がなかった。
「お・き・て!」
結構強くゆすったけど、起きない。
「遅刻する! 第二音楽室っ!」
本気でわたしまで遅刻しかねなくなってきたので、わたしはありったけの力を込めて肩を揺さぶった。
ああ、これが桜木花道の肉体か……。鍛え上げられた肩はわたしのそれとは比べ物にならないほど分厚く、硬く、堅牢だった。興奮する。手に触れる学ランのゴワゴワとした質感も、その下に存在する筋肉を覆い包む鎧のようなものだ。この布の下に彼の肉体が存在すると考えると、おかしくなってしまう。っていうかおかしくないか? わたしは今全力で、冷静さを欠きながら揺さぶっている。にも拘らず、全く起きない。
向こうも向こうだけど、やめないわたしもおかしくないの? とかそういうのは置いておいても、だけど。
いや、起きるに起きられない状況でもないよ。ちょっとがっちり肩を掴んでるだけです。うん、普通ですね。
「桜木くん! 起きてよっ!」
あ、そう。わたしって普段は彼のことをフルネームで呼んでません。
耳元で大きな声で叫ぶと、彼はようやく「うぬっ!」と呻きながら目を開けた。目を見開いた先にはわたしがいる。今日はおはようの挨拶ぶりの会話。脳内のメモリに保存しなきゃ。
桜木花道はわたしの名前を呼びながら、すみません、と謝罪する。寛大なわたしはいいよいいよ、と言ってあげた。本当に気にしてないし。むしろ役得っていうかご褒美だし。ってかどこぞの流川と違って寝起きを起こしても怒らないから素敵だわー。やっぱり時代は桜木。花道しか勝たんってこと。
「次、音楽室だよ。わたし鍵閉めだから一緒に行こ」
ドヤ! どうだ! この自然な会話!
「あー! 日直の……! スミマセン、オレが寝てたばっかりに」
「いやいや、気にしないで。それよりちゃっちゃと行かないと遅刻するよ」
わたしはそんなことを言いながら、しょげてる大型犬みたいな桜木花道を廊下へと追い出した。あ、音楽の教科書も筆箱も持たないで行っちゃった……。しょうがないなあ、わたしが持っていってあげる! できる彼女(未来の)!
鍵をガチャンと閉めて、わたし達は廊下を小走りで歩く。一年の教室から音楽室は比較的近いけれど、それでもかなりギリギリなので早足で行かないと結構きつい。
わたしの目の前を、桜木花道がえっさほいさと歩いている。本人は女子の手前早歩きを頑張っているらしいが(普段は走ってる。わたしが真面目な感じの人だと思われているから、頑張って校則を守っている……んだと思う。多分)、わたしからみたら、もうこれは競歩とかそういう類の速さにしか見えなかった。やっぱ背がでかい人はいいなー! めっちゃ「男」って感じがしてめちゃくちゃ萌える。キュンキュンで気が狂いそう!
「桜木くん、歩くの速いねぇ」
「えっ⁉︎」背後のわたしに声をかけられた桜木花道が急ブレーキをかけて止まった。え、なんで? 「あ、あのっ! オレ! その、歩くのが速すぎたでしょうか!」
「あのー、どういう意味かな?」
マジでどういう意味?
「女性と歩幅が違いすぎるので、その、ついて行くのが厳しいという意味なのかなーと……!」
「いやっ! そういうのじゃないよ! 気を使わなくていいよ! ってか、早くしないと遅刻するよ!」
わたしのアホ‼︎
ぜんっぜんかわいくないよー⁉︎ なんでぇ? なんでこんなふうに答えちゃうわけ⁉︎
あーもうわたしのバカバカ! 印象最悪だよー!
とかふざけてるように見えるけど全然死活問題ですからね。ああ、これでわたしのイメージが変わっちゃう。
違う、わたしはサバサバ女ではない。もうちょい繊細な性格なんです。え、ここってなんて言うのが正解なわけ? …………ヤバ、わかんない笑。
「そっ、それは、スミマセン!」
うわっ! めっちゃ体育会系〜!
初心な反応にかわいさで気分が上がった。
それと同時に、なんだか不穏な何かを即座に感じ取ってしまう。第六感てやつ?
もじもじしてるのはめっちゃ可愛いんだけどさ、なんかちょっと違和感があるんだよね。……なんでだろ。
ってかなんで赤くなってんの? え?
わたしの直感は、悲しいかな当たってしまった。次に出てきた言葉にわたしは絶句どころか、目の前が暗くなるほどのショックを受けた。
「洋平の彼女だから、優しくしねえといけないと思って……」
「ハァ………………?」
視界、暗転──。
◆
あっという間に放課後になった。
わたしはその場で本当に倒れてしまったらしく、目が覚めたら保健室にいた。運んでくれたらしい桜木花道に後でお礼を言わなきゃ……と寝起きの頭で考えるのと同時に、早く誤解を解けるように努めなければという焦りが湧いてきた。
何がどうなってわたしと水戸洋平が交際しているという馬鹿げた噂が流れているのか、話題の出所を突き止めなければならない。
わたしはひとまず、様子を見てくれていた保険医に自宅に帰ることを伝え、保健室を退出した。向かう先は体育館。きっとそこに、水戸もいるから。
すでにバスケ部の部活は始まっていた。
体育館の入り口に忍び足で近寄ると、密偵のように水戸洋平を呼び出す。幸いにも、今日は桜木軍団の他に見学者はいなかったから、ここまでは問題なし。
わたしは人気のない場所まで水戸を連れて行くと、早速尋問に取り掛かる。
「聞きたいことがある。単刀直入にいうけど、桜木花道にわたしがあんたと付き合ってるって言われた。その情報の出所は? 水戸が情報統制してくれてるんじゃなかったの」
怒りで早口になりながらも、できる限り冷静に疑問をぶつけようと頑張る。そんなわたしの前に立ち、水戸洋平はいつものすまし顔で怒りに震えるわたしを見ていた。
「わたしの人生に関わる重大な質問だから。真面目に答えてくれないと困る」
水戸はゆっくりと息を吸うと、真面目くさった顔で次のように答えた。
「それ、オレが言った」
最後まで言わせなかった。
わたしが思いっきり右ストレートでぶん殴ったからだ。
彼はさして抵抗しなかった。そうされるとわかっていたのに全く避けるそぶりすら見せなかった。それが余計にむかついて、わたしはもう一発拳を叩き込む。
顔を殴られるのが一番痛いはずだ。
だから、頬を思い切り叩いた。わたしの全体重をかけた一撃を受けて、口の中が切れた。彼の唇の端から血が流れ落ちる。
人を殴ったのは初めてだった。……だってわたし、不良じゃないし。
今までゲーセンのパンチングマシーンしか本気で殴ったことのない拳は、もうこれだけで悲鳴をあげていた。足はガタガタ震えるし、人を殴ってしまったことへの罪悪感でいっぱいになる。もう正直、泣きそうだし。
「約束、破ったね……いや、もう約束って言葉では済まないか。わたしは水戸が嫌がることを何にもしなかったよ。でも、水戸はわたしを裏切って……あろうことか……」この先は恐ろしくて、口に出すのが怖かった。「なんであんなこと、言ったわけ……? ねえ、おい。聞いてんのかよ」
もう一発、殴る。今度は腹のあたり。わたしと水戸は体格差があまりなかったから、すごく殴りやすかった。
「花道と付き合ってほしくなかった」
「じゃあ、なんで……なんでわたしにいい夢見させるようなこと言ったんだよ」
「……」
「なあ、黙ってるなよ」わたしはもう、手だけでなく脚も出してしまっていた。鳩尾に、容赦なく蹴りを入れる。「……ああ、もしかしてわたしのこと、好きになっちゃった? だったら仕方ないなあ……とか言うわけなくない?」
水戸がわたしのことが好きで、それで花道とのことに嫉妬して「こう」したのだったら、それなら可愛いやつめ、とちょっと許してあげたかもしれなかった。だって、わたしが逆の立場で水戸のことを好きになったら、そうしなかったとは言い切れないから。
でも、違った。
「別に、好きって気持ちからこうしたわけじゃない。たぶん、言ってもわかんねえよ」
「わかんないって、わたしのことを舐めてんの⁉︎」
「そうじゃない。ただ、どうしても……」
「わっかんないって! そんな曖昧な言い方で理解できるわけないじゃん……!」
何回殴られようが唇を切って血をダラダラ出していようがヘラヘラと立っている水戸が気持ち悪くて、心底腹が立って、わたしは、ムカついて……、みっともなくて……。
「……どうしても、わたしには理解できない事情で、こんなことしたんだ……そうなんだ……意味わからねえよ……キモいよあんた……」
「…………」
わたしは今、もう鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃで汚いはずだ。それなのに、水戸は笑いもせず、見下すでも哀れむでもない、微妙な笑顔を浮かべていた。なんで殴られてるのに笑ってんの。
「取り消してよ……桜木花道にさ、全部嘘だって言ってよ。そしたら、わたしも許すよ……」
「それは、無理だ」
「なんで……」
この先は言わなかった。どうせわたしにはわからない水戸の事情が理由だから。
「本当に、悪いと思ってる。オレって最低だよな」
「うん、うん……あんたは最低だよ。世界一大嫌い。……でも、痛かったでしょ」
わたしは懐から取り出したハンカチで彼の口元を拭った。本当は桜木花道にこうしてあげたかったけど、彼はもう喧嘩はしない。黄色のハンカチが、赤黒く染まっていく。
「ごめん。絶対に水戸のしたことは許さないけど、殴ったりしたのは、謝る」
ここまでされて、わたしは水戸洋平への情を捨て切れなかった。
だって、中学の時から今まで、わたしの友達は水戸洋平ただ一人だったからだ。こんなことをされて裏切られて、馬鹿みたいだけど、わたしは水戸が嫌いで大好き。なんでなんだろう、ね。
「まあ、オレは殴られ慣れてるから。それより……すっげえ泣き顔」
「うるさいなぁ!」
水戸は自分のハンカチで、わたしの顔を乱暴に拭った。ああ、この人はハンカチを持ち歩くような男だったのか。こんなに長い付き合いなのに、わたしは水戸のこと、なぁんにも知らなかった。
「あはは……」
そう思うと、不思議と腹の底から笑えてきた。
「何笑ってんだよ」
「…………別に!」
わたしって今、すごく不思議ちゃんだと思う。泣いたり笑ったり、忙しいヤツだ。
そしたらまた涙が流れてきて、誤魔化すために上を向いた。空がめちゃくちゃ綺麗だった。
「……オレのこと、許す気になった?」
「それは絶対許さん!」
その後、わたしは水戸を保健室に連れていった。職員室で残業している先生を呼び出して、全部を洗いざらい話した。もちろん、桜木花道のことでブチギレたことは伏せた。先生に恋バナしてどうすんのかって話だし。
結果として、一週間の停学処分を受けた。まあ、妥当だよね。復学した後のことはまた考えればいい。とりあえず、今は家でのんびりとしていようと心に決めて、わたしは学校の門を潜る。
水戸洋平! いつか絶対わたしの手で葬ってやるからな!
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