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ワックスがけされた床が軋む。
掴んだ木刀に手汗が滲む感覚が体を襲う。向かい合うと、神経がビリビリと奮い立つ。五感全てが敏感になり、目で追う前に体が勝手に動き出した。
これこそが、人の体。人の神経。
これが剣士と対峙した時の感覚なのか。と、素直に感動する。
今までに味わったことのないような緊張感と高揚の狭間に揺られ、全身の血管の流れすら刺激となり得るような繊細な状態になっているからか、普段は気にも留めないようなこと全てに過敏になっているような気がした。
もう一度、視界に収まる全てに神経を研ぎ澄ます。
そうすると、対面に立った男の顔面の眉間の皺が深いことに気づいてしまったので、内心少し小馬鹿にしてみる。
カルシウム取らないと、禿げますよ、なんて。まあ、刀剣男士が禿げることはない……と思うのだが、この男の神経質さからして、あり得ない話ではないと無銘は思った。若禿になったら、絶対に馬鹿にしてやろうと決めた。
そんな軽口を叩く暇は全くないのだが、ちょっとくらい茶化さないとやっていけないのだ。
(──まあ、それすらも長谷部には見抜かれているでしょうね)
無銘の心中を察してか、厳しい一撃が飛んできた。教わった通りに受け流したが、何かが長谷部の気に食わなかったらしい。激しい叱咤が飛んでくる。
「軸がブレている! 体幹を意識しろ!」
「……わかってますよ! ったく、スパルタ教師なんですから!」
「フン、これでも加減してやっている方だ。俺の時なんていきなり戦場に出たものだ。教練を受けれるだけありがたく思え」
つい先ほど刀の握り方を教わり、足の運び方の種類を知ったばかりだというのに、長谷部の指導は手厳しい。
初心者に優しく教える、という言葉はこの男の辞書にはないらしい。
──老害仕草。
そんな言葉が思わず浮かんでしまう。自分も苦労したのだから後発も苦労を買え、というのはいかにもそれらしい思考である。
無銘は嫌味を飛ばそうかと思ったが、鋭い一太刀が脇の間際を通ったため、口を閉じざるを得なくなった。
「今のが敵だったら、お前は死んでいたぞ」
長谷部は冷たい目でこちらを見下ろす。
言いたい言葉がないわけではないが、確かに気を抜いていたのは事実なので、閉口するしかなかった。今回は木刀同士なので大したことはなかったが、真剣で脇腹を切り裂かれていたと考えると、ゾッとする。
少しでも不足があれば、すぐさま厳しい怒号が飛んでくる。パワーハラスメントのような指導だ、と無銘は思った。いつか主さまに訴えてやろう、とも思う。
だが、長谷部の言葉に間違いはなかった。向こうの方が経験豊かで、太刀筋も迷いがなく、美しい。彼の的確な一撃で何度木刀が吹っ飛んでいったことだろう。
それに比べて、己の非力さが疎ましい。もっと強くなりたい。
長谷部と無銘の間には、やはり大きな隔たりがある。それは経験の差でもあり、やはり、体格や筋力の差でもある。ただ、それよりも大きいのは覚悟の有無だろう。
長谷部の一撃に迷いがないのは、人を切るという行為に抵抗がないからだ。己の役割とルーツを知り、主人のために、人間のために歴史を守っているという自負と誇り、それこそがこの男の強さの理由なのだと無銘は察した。
自分の存在すらもあやふやな無銘と、歴史に名を残し、華々しい来歴を持つ長谷部とでは、歴史を守るという任務に対する入れ込み方も違うだろう。
事実、無銘は己が使命に対してそこまでやる気に満ちているわけではない。自分の過去もわからないのに、他人の歴史を守ろうなどと奮起する気持ちは彼女にはないのだ。
この戦いの中で、ふとした瞬間思い出すかもしれないと審神者は彼女を励ました。
今は、そうであったらいいな、という希望に縋り、剣を振るうしかない。
確証のない希望に縋る自分と、終わりのない戦いに身を投じる刀剣男士という存在は、相性がいいのかもしれないと無銘は思った。願いが叶おうか叶うまいが、折れるまで戦うしかないのだから。それほどまでに、我々は人間にとって都合がいい存在だ。しかし、人間なしに刀は生まれない。だからこそ、憎めども愛せずにはいられない。
やはり、審神者は物使いが上手いのだ。だからこそ、審神者でいられるのだろう。
(主さまはどうしてこの男をわたしの指導係にしたんだろう)
この本丸に降り立ち、人の体を得てからずっとこのことばかりが無銘の思考を占領する。
例えば、彼と前の主人を同じくする燭台切何某という男。
食堂で嬉々として料理を振る舞う様子からして、それなりに他の刀の世話を焼くのが好きそうだった。彼ならば少なくとも、このようにキツい扱きのような訓練を課してはこなかっただろう。
それどころか──男性には不適切な言葉かもしれないが──乳母のように付き合って教えてくれたかもしれない。
また、彼でなくても、例えば……平安や鎌倉の刀であれば、無銘と同じような価値観を持っているし、話もしやすかっただろう。無銘は古刀といえど、その時代に同じ場所に置かれた同輩のような存在はいない。だとしても、あの頃の話ができる相手ならば心強い存在だ。
なのに、どうして長谷部なのか。
ただでさえ近侍の業務で忙しくしているはずなのに、どうして審神者は自分に彼を選んだのか。疑問は尽きなかった。
聞けば、長谷部が新入りを指導することはそこまで多くないらしい。大抵の刀剣は、同派の者であったり、元の主人を同じくする刀に手解きを受けるのだ。
無銘にはそういう知り合いがいないから近侍の長谷部が当てられたのだろうと、皆が口を揃えてそう言っていた。
初期刀についで二番目に鍛刀された打刀であり、この本丸の古参であることは知っているのだが、それ故に全てを管理したがるきらいがあるらしい。
それは管理者にとっては手間が減って喜ばしいことなのかもしれないが、指導を受ける身からすれば、厄介な局のようにしか見えない。
審神者の采配を疑う訳ではないが、選出理由を聞きたくて仕方がなかった。
寄り合いがいないということは、別に長谷部でなくとも問題がないということである。
無銘は、初対面から長谷部のことが気に入らなかった。これは向こうも同じだろう。
同族嫌悪というべきか、それとも単に反りが合わないのか。とにかく、長谷部の挙動全てが見ていて腹立たしく思えてくる。特に、無銘が審神者と喋っている時の嫉妬の色が滲んだ瞳、そして明らかに不機嫌です、というような可愛げのない雰囲気。男の嫉妬は見苦しいと茶化せば、尻尾を踏まれた猫のように大声で怒鳴ってくる。
たわいの無い軽口ですら、長谷部は全て本気で怒って返してくるのだ。だから大袈裟な反応も、道化のようで面白く感じると同時に、うざったらしくも思う。
もちろん、これは皮肉で応える無銘自身の問題でもあるのだが、長谷部にだけは愛想良く、機嫌よく応対しようとは思えない。したとしても、この男は女に立てられて調子に乗ってくるだろう。
下に見られるくらいならば、沸点を刺激して怒らせ続ける方が良い。器の小さい男だと馬鹿にする理由もできるのだし。
無銘自身、自分が性格の良い、所謂いい子ではないと自覚しているが、それでも人に接する時の態度というものはしっかりとわきまえている。
この本丸で、審神者にだけ尻尾を振っていればいいというわけでは無いのだ。仲間とは協調し、恩を売り、いざという時には助けてもらえるようにしておかなくてはいけない。
ただでさえ変な時期にやってきた新参という立場であるのに、それに加えて自分は女だ。仲間として受け入れてもらうには労力を要するだろう。
使える道具が多い方がいいのと同様に、自分の味方は多ければ多いほどいい。
生理的に合わないと感じたのは長谷部一人だけなので、彼一人くらいならば、嫌われても別に構わない。どうせ、万人に好かれる人間などいないのだから。
どう振る舞ったところで、無銘を嫌う人間は少なからず出てくるだろう。
心があるとは、そういうことだ。芸事と人間に関わってきた者の刀として、それは良く承知している。
しかし、だ。
それにしても、長谷部は無銘以上に「別に仲間に嫌われても構わない」という気持ちが強いらしい。
長谷部の指導には私怨が含まれている。しかも、審神者が目の前にいる時はそこまで厳しく詰ったりはしない。明らかに人を見て……というか審神者からの視線しか気にしていないように見えた。
あからさまに悪口を言われたりなどはしていないし、この本丸の長谷部は古参なので信頼もされているようだが、それでも他に対する態度と比べて露骨すぎるように見えた。
主の前では忠犬のように振る舞うくせに、他の刀には自分が総裁であるかのように指示を下す。
実際一番隊の隊長という名誉ある地位にいるのだから、人を使う立場であることには違い無いのだが、それにしてもここまで人によって態度を変える姿は見ていて奇妙というか、面白さすら感じる。
どちらにしろ、自信家であることには違いない。二面性があるけれど、ある意味ブレない男だと無銘は思った。人間にはある程度の外面というものがあるが、この男は二面性があるくせして、実際のところ行動全てに矛盾がないだ。
ここまで露骨な態度を取れるのは、自分は強いという確信があるからだろう。
無銘にはそのような自信などない。自信がないからこそ、侮られないように皮肉を出任せに喋り、相手の余裕を削っているのである。
力で敵わなければ、頭脳で上回る必要がある。心を掴んで、弱ったときに助けてもらわなければいけないから……つまり、弱者の生存戦略のためにペルソナを演じているに過ぎないのだ。
(──やっぱ気に入らないなぁ。この男)
長谷部の打ち込みに合わせて神経を研ぎ澄まし、相手の出方を見ていると、自然と相手のこと全てを考えてしまう。
相手を見ながら、自分の弱みについて思いを馳せてしまい、あまり考えたくないことをつい考えてしまう。
自己分析と自己嫌悪に襲われる。まだ人の身を得てからさほど時間も経っていないのに、感情とは厄介なものだと思った。無心とは、本当に達成できるものなのだろうか。
「……おい、よそ見するなよ」
「いいえ、わたくしはあなたしか見ていませんよ。今日中に一本取りたいんですもの、余計なことを考えている余裕なんて、ありませんもの」
「ほう…………」
長谷部からの追撃が厳しくなる。
……やっぱり、単純な男だ。
一本取りたいと言ったことは本心だ。ただ、自分の中で密かに考えていたことで、口にするつもりはなかった。
面倒なことに、己の発言のせいで長谷部の本気に火をつけてしまったらしい。経験差など考えず、猛撃を叩き込んでくる。こうなるともう一本とってやるどころか、攻撃を避け続けることで精一杯だ。
「ほらほらどうした! 俺に一太刀浴びせるんじゃなかったのか⁉︎ このザマじゃ、一生かかっても受け身のままだぞ! ちょっとくらいははお前から打ちに来い!」
今までよりも饒舌に喋る長谷部は、先ほどよりも楽しそうにしていた。楽しそうに(当社比)なので、厳しい鬼教官の様相なのに変わりはないが。
はあ、とため息をつきたくなる。
まさか自分とあろう者が、火に油を注ぐような余計なことをしてしまうとは。
だが、この程度の失敗は小手先の技術でリカバリできるだろう。
「お喋りが好きなんですね、長谷部は。男性は寡黙な方がいいと思いますけれど」
「お前の好みなど聞いてないが?」
「いえ、主さまが」
「何っ⁉︎」
「隙ありっ!」
長谷部があからさまに動揺した一瞬の隙をついて、無銘は渾身の一撃を打ち込んだ。加減のない攻撃なので、当たれば脳震盪では済まないだろう。
あ、やっちゃったな。
と無銘は思ったが、その一撃の軌道は逸れた。
逸らされたのだ。
この本丸では、直接攻撃と真剣の抜刀ができないようにプログラムされている。それは道場でも同じことである。理由はもちろん、訓練で負傷したり折れては元も子もないからだ。
なので、長谷部の脳天を直撃するはずだった無銘の一撃は、安全装置の作動によって強制的に無銘の手から滑り落ちた。吹き飛ばされた木刀は、宙を描くように天井を飛んでから、衝撃音とともに床に落下した。
セーフティが有効に働いたのである。
ブロック塀の一部が崩れ落ちたような凄まじい音。それに続く沈黙ののち、静けさを切り裂くように、二人は同時に口を開いた。
「おい……」
「…………あらぁ」
動揺する女と怒りに燃える男、二人の声が道場に響く。
無銘は長谷部よりも先に床の心配をした。すごい音がしたので、もしかしたら床を傷つけてしまったのではないかと不安になったのだが、目視してみた限りでは、傷らしい傷はついていなかった。
拾い上げて手に取ると、そこまで重さがないことに驚く。
……どうやったら、あんなヤバめな音が出たんだろう。無銘は自分の仕業であるにも関わらず、現実から逃避するために他人事のように考えた。
「俺を殺す気か……?」
「戦場だったら、あなた、死んでましたね」
怒りが収まらない様子の長谷部を見て、無銘は一本取ったり、と嬉しくなった。嫌いな相手が動揺して気が動転している様子を見るのはやはり、楽しいものである。
(まあ、あの吹っ飛び方はわたしでもヤバいって思ったんですけどね)
顔には出さない。絶対に。
生きていく上で、他人に弱みを見せたくないという感情が強かった。計略の上で、あえて己を弱く見せることはあれど、絶対に自分を侮られてはいけない。
そんな思いから、無銘の顔にはいつも菩薩のような笑みと、他人を勘定するような視線が張り付いていた。
「お前っ、これは訓練だってわかってるのか⁉︎」
「本気で来いって言ってらしたじゃありませんか。まさか、小娘の一太刀もかわせないような無様な刀なんてこの本丸にはいないと思ったんですけれど、そうでもないんですね」
「…………」
心理的動揺を誘った作戦にまんまと乗せられた己を恥じているのか、長谷部は押し黙った。
力では敵わないかもしれないが、舌戦でなら簡単に籠絡できる。
本当にわかりやすくて面白い男だ。
だから少し、羨ましい。
感情をさらけ出せるということは強みでもある。自分のように、他人に心を悟られることを恐れていないのだから。
こんな奇策を使ったのは、審神者の話題という禁じ手を使わなければ一太刀浴びせることもできないという事実をも浮き彫りにする。
やはり、実戦を伴った経験の差というものは大きい。人の体に不慣れなこちらが遅れをとるのは仕方ないが、いつまでもこちらが劣勢というのは実に面白くない。
「長谷部、もう一回やりましょう。わたくしは強くならなければなりませんから」
「それはいい心掛けだ。……それと、先の奇策は本番まで取っておけよ」
無銘はジャージの上着を脱ぎ捨てると、再び木刀を握る手に力を込めた。
先ほどよりも、この硬さが手に馴染む。切っ先の向かう先や、間合いも少しづつ掴めてきた。
実際の戦では、こんな綺麗な打ち合いは通用しない。あくまでも、肉体に剣を振るう感覚をなじませるための特訓だった。
それに加えて、無銘は刀帳に番号の割り振られていない、実在したかも怪しい刀剣であるため実際の任務に就くことはまだ禁じられている。
政府の調査を待ち、公式に存在が発表されるまで彼女の存在は秘匿される。
いつか他の刀剣男士と同じように時間遡行軍と戦う戦に赴きたいとは思っているものの、今の現状ではそれは叶わない。
現在、本丸付きの付喪神として、備品の扱いを受けていることは不服ではあるが、それも書面の上での話であり、内番を手伝いつつ、毎日剣の稽古を続けている現状に不満はない。いつか武勇を立てて、審神者に信頼されたいとは考えているが、別に今すぐにそうなりたいわけではない。
今の特殊な状態であれば、審神者に目をかけてもらえやすいので、むしろ現状が一番好都合でもあった。任務に出かけると、しばらくむさ苦しい集団の中で居心地悪く過ごすことになるだろうし、まあ、それなら今のまま弱いままご寵愛にあずかるというのも悪くはない。
むしろ、理想かもしれないとまで思い始めていたところだった。
この態度が見え透いているせいだろうか。長谷部が無銘を厳しく扱くのは。
額に流れる汗を拭いながら、そろそろ水が飲みたいという欲求に襲われる。長谷部に進言しようか考え始めた矢先、道場の扉が開かれた。
「太刀無銘、審神者様がお呼びです。執務室まで可及的速やかに向かうように」
道場の艶やかな床に鎮座する管狐は、機械的な口調でそれだけ告げると、開かれたままの扉からそのまま外に飛び出していった。
「アレ、なんなんですか?」
「主いわく、妖精さん……だそうだ」
「妖精ィ? どっからどう見てもただの化けギツネじゃあありませんか」
奇妙な紋様の描かれた顔と無駄に愛嬌のあるくせに無機質な表情を見て、無銘はあの狐に恐れを抱いた。人に愛されるための媚態を込めてデザインされている。そのくせ自動律の機械のような動きをするので、そのアンバランスさが胸に引っかかるのである。
「あれは……こんのすけは、政府の用意した連絡係兼、アシスタントだ。あの毛むくじゃらにお前が興味を示すとはな……」
「ハア……こんのすけ、ですか。なんていうか、間抜けな名前ですのね。まあそれはそれとして、長谷部。あなたはわたくしの教育係なんですから聞かれたことくらい素直に答えてください。
それでは、主に呼ばれてるので、わたくしはもう行きます。ご指導ありがとうございました!」
無銘はそれだけ言うと、颯爽と同情から消えていった。可及的速やかに、という言葉が効いているのか、櫛も整えず、汗をかいたままの姿である。
「……………………」
長谷部はため息すらもつきたくなかった。こんなことで一々気持ちを吐露していたら、この先ずっと持たないだろうと察してしまっていたからである。
(俺の想定なら、どうせこの本丸預かりで世話をしろとか、そんなことを命じられるに決まっている……。いつもの押しつけ政策で主のところにしわ寄せがいくようになるんだ……)
そしてあの審神者は呑気に……、決してこちらがいいえとは言えないように(そもそも長谷部の脳には主に逆らうという選択肢はないに等しいのだが)、無銘の世話を見るよう頼んでくるだろう。ほかに適切な刀はいるだろうけれど、主命を賜るのはいつだって自分でありたいのだ。そこを主は一番理解している。長谷部の心理を掌握している。
(そこがあの人のいい所でもあるのだが……)
人を食ったような態度だけは、少々気に入らないところではある。しかし、それほど面の皮が厚くなければ大所帯をまとめ上げる審神者など務められないのだろう。だから、長谷部は長谷部なりに彼女を理解しようと努めてきた。しかし、その成果は散々たるものである。
(あの女…………、無銘とかいうやつ。あんなやつに俺の後釜にすわられたら…………)
考えるだけで、はらわたが煮えくり返るようである。
無銘が今、主からどんな命を受けているのか、あるいはどんな言葉を掛けられているのか、どう動くにしろ、あいつがここに居座ることになる限り長谷部の悪夢は続くのである。ほかの本丸の長谷部には決して共感されることのない、純然たる自分だけの悩みが……。
どれほど頭をひねっても、ここからあの女を負かして地位を陥れるであるとか、そういう計略が全く通用しない気がしてきた。あいつは女で、刀で、唯一であり、替えが存在しない特異点なのだ。男である自分とは、そもそも上がっているステージが違う。――別に今まで誰かと火花を散らした、ということはないが。
床に転がしたままの木刀を手に取った。
――古典的な解決法ではあるが、鍛錬。今は鍛錬で己の心を殺すしかない。
(まだあいつは戦の素人だ。…………まだ、俺が勝っている部分は存在する)
刀の本懐を遂げる。
衝動に動かされ、ひたすらに鍛錬を繰り返す。無銘のこちらを小馬鹿にしたような笑みを脳裏から消し去ろうと、長谷部は一心不乱に刀を打ち込み続けた。
「…………必死過ぎて怖い」
その様子を見た某かは、そう呟いたそうである。
掴んだ木刀に手汗が滲む感覚が体を襲う。向かい合うと、神経がビリビリと奮い立つ。五感全てが敏感になり、目で追う前に体が勝手に動き出した。
これこそが、人の体。人の神経。
これが剣士と対峙した時の感覚なのか。と、素直に感動する。
今までに味わったことのないような緊張感と高揚の狭間に揺られ、全身の血管の流れすら刺激となり得るような繊細な状態になっているからか、普段は気にも留めないようなこと全てに過敏になっているような気がした。
もう一度、視界に収まる全てに神経を研ぎ澄ます。
そうすると、対面に立った男の顔面の眉間の皺が深いことに気づいてしまったので、内心少し小馬鹿にしてみる。
カルシウム取らないと、禿げますよ、なんて。まあ、刀剣男士が禿げることはない……と思うのだが、この男の神経質さからして、あり得ない話ではないと無銘は思った。若禿になったら、絶対に馬鹿にしてやろうと決めた。
そんな軽口を叩く暇は全くないのだが、ちょっとくらい茶化さないとやっていけないのだ。
(──まあ、それすらも長谷部には見抜かれているでしょうね)
無銘の心中を察してか、厳しい一撃が飛んできた。教わった通りに受け流したが、何かが長谷部の気に食わなかったらしい。激しい叱咤が飛んでくる。
「軸がブレている! 体幹を意識しろ!」
「……わかってますよ! ったく、スパルタ教師なんですから!」
「フン、これでも加減してやっている方だ。俺の時なんていきなり戦場に出たものだ。教練を受けれるだけありがたく思え」
つい先ほど刀の握り方を教わり、足の運び方の種類を知ったばかりだというのに、長谷部の指導は手厳しい。
初心者に優しく教える、という言葉はこの男の辞書にはないらしい。
──老害仕草。
そんな言葉が思わず浮かんでしまう。自分も苦労したのだから後発も苦労を買え、というのはいかにもそれらしい思考である。
無銘は嫌味を飛ばそうかと思ったが、鋭い一太刀が脇の間際を通ったため、口を閉じざるを得なくなった。
「今のが敵だったら、お前は死んでいたぞ」
長谷部は冷たい目でこちらを見下ろす。
言いたい言葉がないわけではないが、確かに気を抜いていたのは事実なので、閉口するしかなかった。今回は木刀同士なので大したことはなかったが、真剣で脇腹を切り裂かれていたと考えると、ゾッとする。
少しでも不足があれば、すぐさま厳しい怒号が飛んでくる。パワーハラスメントのような指導だ、と無銘は思った。いつか主さまに訴えてやろう、とも思う。
だが、長谷部の言葉に間違いはなかった。向こうの方が経験豊かで、太刀筋も迷いがなく、美しい。彼の的確な一撃で何度木刀が吹っ飛んでいったことだろう。
それに比べて、己の非力さが疎ましい。もっと強くなりたい。
長谷部と無銘の間には、やはり大きな隔たりがある。それは経験の差でもあり、やはり、体格や筋力の差でもある。ただ、それよりも大きいのは覚悟の有無だろう。
長谷部の一撃に迷いがないのは、人を切るという行為に抵抗がないからだ。己の役割とルーツを知り、主人のために、人間のために歴史を守っているという自負と誇り、それこそがこの男の強さの理由なのだと無銘は察した。
自分の存在すらもあやふやな無銘と、歴史に名を残し、華々しい来歴を持つ長谷部とでは、歴史を守るという任務に対する入れ込み方も違うだろう。
事実、無銘は己が使命に対してそこまでやる気に満ちているわけではない。自分の過去もわからないのに、他人の歴史を守ろうなどと奮起する気持ちは彼女にはないのだ。
この戦いの中で、ふとした瞬間思い出すかもしれないと審神者は彼女を励ました。
今は、そうであったらいいな、という希望に縋り、剣を振るうしかない。
確証のない希望に縋る自分と、終わりのない戦いに身を投じる刀剣男士という存在は、相性がいいのかもしれないと無銘は思った。願いが叶おうか叶うまいが、折れるまで戦うしかないのだから。それほどまでに、我々は人間にとって都合がいい存在だ。しかし、人間なしに刀は生まれない。だからこそ、憎めども愛せずにはいられない。
やはり、審神者は物使いが上手いのだ。だからこそ、審神者でいられるのだろう。
(主さまはどうしてこの男をわたしの指導係にしたんだろう)
この本丸に降り立ち、人の体を得てからずっとこのことばかりが無銘の思考を占領する。
例えば、彼と前の主人を同じくする燭台切何某という男。
食堂で嬉々として料理を振る舞う様子からして、それなりに他の刀の世話を焼くのが好きそうだった。彼ならば少なくとも、このようにキツい扱きのような訓練を課してはこなかっただろう。
それどころか──男性には不適切な言葉かもしれないが──乳母のように付き合って教えてくれたかもしれない。
また、彼でなくても、例えば……平安や鎌倉の刀であれば、無銘と同じような価値観を持っているし、話もしやすかっただろう。無銘は古刀といえど、その時代に同じ場所に置かれた同輩のような存在はいない。だとしても、あの頃の話ができる相手ならば心強い存在だ。
なのに、どうして長谷部なのか。
ただでさえ近侍の業務で忙しくしているはずなのに、どうして審神者は自分に彼を選んだのか。疑問は尽きなかった。
聞けば、長谷部が新入りを指導することはそこまで多くないらしい。大抵の刀剣は、同派の者であったり、元の主人を同じくする刀に手解きを受けるのだ。
無銘にはそういう知り合いがいないから近侍の長谷部が当てられたのだろうと、皆が口を揃えてそう言っていた。
初期刀についで二番目に鍛刀された打刀であり、この本丸の古参であることは知っているのだが、それ故に全てを管理したがるきらいがあるらしい。
それは管理者にとっては手間が減って喜ばしいことなのかもしれないが、指導を受ける身からすれば、厄介な局のようにしか見えない。
審神者の采配を疑う訳ではないが、選出理由を聞きたくて仕方がなかった。
寄り合いがいないということは、別に長谷部でなくとも問題がないということである。
無銘は、初対面から長谷部のことが気に入らなかった。これは向こうも同じだろう。
同族嫌悪というべきか、それとも単に反りが合わないのか。とにかく、長谷部の挙動全てが見ていて腹立たしく思えてくる。特に、無銘が審神者と喋っている時の嫉妬の色が滲んだ瞳、そして明らかに不機嫌です、というような可愛げのない雰囲気。男の嫉妬は見苦しいと茶化せば、尻尾を踏まれた猫のように大声で怒鳴ってくる。
たわいの無い軽口ですら、長谷部は全て本気で怒って返してくるのだ。だから大袈裟な反応も、道化のようで面白く感じると同時に、うざったらしくも思う。
もちろん、これは皮肉で応える無銘自身の問題でもあるのだが、長谷部にだけは愛想良く、機嫌よく応対しようとは思えない。したとしても、この男は女に立てられて調子に乗ってくるだろう。
下に見られるくらいならば、沸点を刺激して怒らせ続ける方が良い。器の小さい男だと馬鹿にする理由もできるのだし。
無銘自身、自分が性格の良い、所謂いい子ではないと自覚しているが、それでも人に接する時の態度というものはしっかりとわきまえている。
この本丸で、審神者にだけ尻尾を振っていればいいというわけでは無いのだ。仲間とは協調し、恩を売り、いざという時には助けてもらえるようにしておかなくてはいけない。
ただでさえ変な時期にやってきた新参という立場であるのに、それに加えて自分は女だ。仲間として受け入れてもらうには労力を要するだろう。
使える道具が多い方がいいのと同様に、自分の味方は多ければ多いほどいい。
生理的に合わないと感じたのは長谷部一人だけなので、彼一人くらいならば、嫌われても別に構わない。どうせ、万人に好かれる人間などいないのだから。
どう振る舞ったところで、無銘を嫌う人間は少なからず出てくるだろう。
心があるとは、そういうことだ。芸事と人間に関わってきた者の刀として、それは良く承知している。
しかし、だ。
それにしても、長谷部は無銘以上に「別に仲間に嫌われても構わない」という気持ちが強いらしい。
長谷部の指導には私怨が含まれている。しかも、審神者が目の前にいる時はそこまで厳しく詰ったりはしない。明らかに人を見て……というか審神者からの視線しか気にしていないように見えた。
あからさまに悪口を言われたりなどはしていないし、この本丸の長谷部は古参なので信頼もされているようだが、それでも他に対する態度と比べて露骨すぎるように見えた。
主の前では忠犬のように振る舞うくせに、他の刀には自分が総裁であるかのように指示を下す。
実際一番隊の隊長という名誉ある地位にいるのだから、人を使う立場であることには違い無いのだが、それにしてもここまで人によって態度を変える姿は見ていて奇妙というか、面白さすら感じる。
どちらにしろ、自信家であることには違いない。二面性があるけれど、ある意味ブレない男だと無銘は思った。人間にはある程度の外面というものがあるが、この男は二面性があるくせして、実際のところ行動全てに矛盾がないだ。
ここまで露骨な態度を取れるのは、自分は強いという確信があるからだろう。
無銘にはそのような自信などない。自信がないからこそ、侮られないように皮肉を出任せに喋り、相手の余裕を削っているのである。
力で敵わなければ、頭脳で上回る必要がある。心を掴んで、弱ったときに助けてもらわなければいけないから……つまり、弱者の生存戦略のためにペルソナを演じているに過ぎないのだ。
(──やっぱ気に入らないなぁ。この男)
長谷部の打ち込みに合わせて神経を研ぎ澄まし、相手の出方を見ていると、自然と相手のこと全てを考えてしまう。
相手を見ながら、自分の弱みについて思いを馳せてしまい、あまり考えたくないことをつい考えてしまう。
自己分析と自己嫌悪に襲われる。まだ人の身を得てからさほど時間も経っていないのに、感情とは厄介なものだと思った。無心とは、本当に達成できるものなのだろうか。
「……おい、よそ見するなよ」
「いいえ、わたくしはあなたしか見ていませんよ。今日中に一本取りたいんですもの、余計なことを考えている余裕なんて、ありませんもの」
「ほう…………」
長谷部からの追撃が厳しくなる。
……やっぱり、単純な男だ。
一本取りたいと言ったことは本心だ。ただ、自分の中で密かに考えていたことで、口にするつもりはなかった。
面倒なことに、己の発言のせいで長谷部の本気に火をつけてしまったらしい。経験差など考えず、猛撃を叩き込んでくる。こうなるともう一本とってやるどころか、攻撃を避け続けることで精一杯だ。
「ほらほらどうした! 俺に一太刀浴びせるんじゃなかったのか⁉︎ このザマじゃ、一生かかっても受け身のままだぞ! ちょっとくらいははお前から打ちに来い!」
今までよりも饒舌に喋る長谷部は、先ほどよりも楽しそうにしていた。楽しそうに(当社比)なので、厳しい鬼教官の様相なのに変わりはないが。
はあ、とため息をつきたくなる。
まさか自分とあろう者が、火に油を注ぐような余計なことをしてしまうとは。
だが、この程度の失敗は小手先の技術でリカバリできるだろう。
「お喋りが好きなんですね、長谷部は。男性は寡黙な方がいいと思いますけれど」
「お前の好みなど聞いてないが?」
「いえ、主さまが」
「何っ⁉︎」
「隙ありっ!」
長谷部があからさまに動揺した一瞬の隙をついて、無銘は渾身の一撃を打ち込んだ。加減のない攻撃なので、当たれば脳震盪では済まないだろう。
あ、やっちゃったな。
と無銘は思ったが、その一撃の軌道は逸れた。
逸らされたのだ。
この本丸では、直接攻撃と真剣の抜刀ができないようにプログラムされている。それは道場でも同じことである。理由はもちろん、訓練で負傷したり折れては元も子もないからだ。
なので、長谷部の脳天を直撃するはずだった無銘の一撃は、安全装置の作動によって強制的に無銘の手から滑り落ちた。吹き飛ばされた木刀は、宙を描くように天井を飛んでから、衝撃音とともに床に落下した。
セーフティが有効に働いたのである。
ブロック塀の一部が崩れ落ちたような凄まじい音。それに続く沈黙ののち、静けさを切り裂くように、二人は同時に口を開いた。
「おい……」
「…………あらぁ」
動揺する女と怒りに燃える男、二人の声が道場に響く。
無銘は長谷部よりも先に床の心配をした。すごい音がしたので、もしかしたら床を傷つけてしまったのではないかと不安になったのだが、目視してみた限りでは、傷らしい傷はついていなかった。
拾い上げて手に取ると、そこまで重さがないことに驚く。
……どうやったら、あんなヤバめな音が出たんだろう。無銘は自分の仕業であるにも関わらず、現実から逃避するために他人事のように考えた。
「俺を殺す気か……?」
「戦場だったら、あなた、死んでましたね」
怒りが収まらない様子の長谷部を見て、無銘は一本取ったり、と嬉しくなった。嫌いな相手が動揺して気が動転している様子を見るのはやはり、楽しいものである。
(まあ、あの吹っ飛び方はわたしでもヤバいって思ったんですけどね)
顔には出さない。絶対に。
生きていく上で、他人に弱みを見せたくないという感情が強かった。計略の上で、あえて己を弱く見せることはあれど、絶対に自分を侮られてはいけない。
そんな思いから、無銘の顔にはいつも菩薩のような笑みと、他人を勘定するような視線が張り付いていた。
「お前っ、これは訓練だってわかってるのか⁉︎」
「本気で来いって言ってらしたじゃありませんか。まさか、小娘の一太刀もかわせないような無様な刀なんてこの本丸にはいないと思ったんですけれど、そうでもないんですね」
「…………」
心理的動揺を誘った作戦にまんまと乗せられた己を恥じているのか、長谷部は押し黙った。
力では敵わないかもしれないが、舌戦でなら簡単に籠絡できる。
本当にわかりやすくて面白い男だ。
だから少し、羨ましい。
感情をさらけ出せるということは強みでもある。自分のように、他人に心を悟られることを恐れていないのだから。
こんな奇策を使ったのは、審神者の話題という禁じ手を使わなければ一太刀浴びせることもできないという事実をも浮き彫りにする。
やはり、実戦を伴った経験の差というものは大きい。人の体に不慣れなこちらが遅れをとるのは仕方ないが、いつまでもこちらが劣勢というのは実に面白くない。
「長谷部、もう一回やりましょう。わたくしは強くならなければなりませんから」
「それはいい心掛けだ。……それと、先の奇策は本番まで取っておけよ」
無銘はジャージの上着を脱ぎ捨てると、再び木刀を握る手に力を込めた。
先ほどよりも、この硬さが手に馴染む。切っ先の向かう先や、間合いも少しづつ掴めてきた。
実際の戦では、こんな綺麗な打ち合いは通用しない。あくまでも、肉体に剣を振るう感覚をなじませるための特訓だった。
それに加えて、無銘は刀帳に番号の割り振られていない、実在したかも怪しい刀剣であるため実際の任務に就くことはまだ禁じられている。
政府の調査を待ち、公式に存在が発表されるまで彼女の存在は秘匿される。
いつか他の刀剣男士と同じように時間遡行軍と戦う戦に赴きたいとは思っているものの、今の現状ではそれは叶わない。
現在、本丸付きの付喪神として、備品の扱いを受けていることは不服ではあるが、それも書面の上での話であり、内番を手伝いつつ、毎日剣の稽古を続けている現状に不満はない。いつか武勇を立てて、審神者に信頼されたいとは考えているが、別に今すぐにそうなりたいわけではない。
今の特殊な状態であれば、審神者に目をかけてもらえやすいので、むしろ現状が一番好都合でもあった。任務に出かけると、しばらくむさ苦しい集団の中で居心地悪く過ごすことになるだろうし、まあ、それなら今のまま弱いままご寵愛にあずかるというのも悪くはない。
むしろ、理想かもしれないとまで思い始めていたところだった。
この態度が見え透いているせいだろうか。長谷部が無銘を厳しく扱くのは。
額に流れる汗を拭いながら、そろそろ水が飲みたいという欲求に襲われる。長谷部に進言しようか考え始めた矢先、道場の扉が開かれた。
「太刀無銘、審神者様がお呼びです。執務室まで可及的速やかに向かうように」
道場の艶やかな床に鎮座する管狐は、機械的な口調でそれだけ告げると、開かれたままの扉からそのまま外に飛び出していった。
「アレ、なんなんですか?」
「主いわく、妖精さん……だそうだ」
「妖精ィ? どっからどう見てもただの化けギツネじゃあありませんか」
奇妙な紋様の描かれた顔と無駄に愛嬌のあるくせに無機質な表情を見て、無銘はあの狐に恐れを抱いた。人に愛されるための媚態を込めてデザインされている。そのくせ自動律の機械のような動きをするので、そのアンバランスさが胸に引っかかるのである。
「あれは……こんのすけは、政府の用意した連絡係兼、アシスタントだ。あの毛むくじゃらにお前が興味を示すとはな……」
「ハア……こんのすけ、ですか。なんていうか、間抜けな名前ですのね。まあそれはそれとして、長谷部。あなたはわたくしの教育係なんですから聞かれたことくらい素直に答えてください。
それでは、主に呼ばれてるので、わたくしはもう行きます。ご指導ありがとうございました!」
無銘はそれだけ言うと、颯爽と同情から消えていった。可及的速やかに、という言葉が効いているのか、櫛も整えず、汗をかいたままの姿である。
「……………………」
長谷部はため息すらもつきたくなかった。こんなことで一々気持ちを吐露していたら、この先ずっと持たないだろうと察してしまっていたからである。
(俺の想定なら、どうせこの本丸預かりで世話をしろとか、そんなことを命じられるに決まっている……。いつもの押しつけ政策で主のところにしわ寄せがいくようになるんだ……)
そしてあの審神者は呑気に……、決してこちらがいいえとは言えないように(そもそも長谷部の脳には主に逆らうという選択肢はないに等しいのだが)、無銘の世話を見るよう頼んでくるだろう。ほかに適切な刀はいるだろうけれど、主命を賜るのはいつだって自分でありたいのだ。そこを主は一番理解している。長谷部の心理を掌握している。
(そこがあの人のいい所でもあるのだが……)
人を食ったような態度だけは、少々気に入らないところではある。しかし、それほど面の皮が厚くなければ大所帯をまとめ上げる審神者など務められないのだろう。だから、長谷部は長谷部なりに彼女を理解しようと努めてきた。しかし、その成果は散々たるものである。
(あの女…………、無銘とかいうやつ。あんなやつに俺の後釜にすわられたら…………)
考えるだけで、はらわたが煮えくり返るようである。
無銘が今、主からどんな命を受けているのか、あるいはどんな言葉を掛けられているのか、どう動くにしろ、あいつがここに居座ることになる限り長谷部の悪夢は続くのである。ほかの本丸の長谷部には決して共感されることのない、純然たる自分だけの悩みが……。
どれほど頭をひねっても、ここからあの女を負かして地位を陥れるであるとか、そういう計略が全く通用しない気がしてきた。あいつは女で、刀で、唯一であり、替えが存在しない特異点なのだ。男である自分とは、そもそも上がっているステージが違う。――別に今まで誰かと火花を散らした、ということはないが。
床に転がしたままの木刀を手に取った。
――古典的な解決法ではあるが、鍛錬。今は鍛錬で己の心を殺すしかない。
(まだあいつは戦の素人だ。…………まだ、俺が勝っている部分は存在する)
刀の本懐を遂げる。
衝動に動かされ、ひたすらに鍛錬を繰り返す。無銘のこちらを小馬鹿にしたような笑みを脳裏から消し去ろうと、長谷部は一心不乱に刀を打ち込み続けた。
「…………必死過ぎて怖い」
その様子を見た某かは、そう呟いたそうである。
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