未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
相性最高で最悪!
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「おはようございます。先輩」
明朝。
寝起きの悪い審神者を起こしに離れへと向かった長谷部は、無銘と対峙した。
昨日とは違い、現代的でカジュアルな装いをしている。
ジャージに半ズボン姿──寝巻きに身を包んだ無銘が、離れの玄関で腕を組んで立っていた。いかにも寝起きという感じの怠そうな表情で、長谷部を見上げている。
立派に古風な本邸と違い、審神者の住まいとして造られた離れは、近代的な日本の戸建住宅の様相をしている。そんな場所でジャージ姿でいる無銘は、付喪神というより普通の少女のように見えた。
まるで最初からそこにいたのかと思えるほど、恐ろしく馴染んでいる。
早朝の走り込みにでも出かけようとしていたのか、昨日とは違い、唇には紅が引かれておらず、前よりも目力を感じないと思い、よく見てみれば、まつ毛のカールも取れていた。
素顔の無銘は、浮世離れした麗人という雰囲気が消え、外見の年齢相応な幼い姿であるように長谷部には見えた。
化粧で女が化けるというのは本当だったらしい。ここの審神者は、外での会合の時のみ最低限の化粧をするので、ここまで劇的に顔を変化させるというようなことはなかった。無銘は女の身で顕現されたので、その方面に対して心得があるのだろうと長谷部は考えた。どちらにしろ、長谷部自身には関係のないことである。
「……お前がなぜそこにいる」
「わたくしがここにいて、あなたに何か不都合でもありますか?」
「大有りだ。ここは主の寝所だぞ。お前ごときが立ち入っていい場所ではない」
長谷部がそう言うと、無銘は腹を抱えて笑い出した。愉快でたまらないといった風に、目には涙すら浮かべている。
「なぜ笑う!」
「わたくし、ここで寝起きするように主さまに言い付けられているんですよ。近侍のくせにそれも把握していないんですか?」
「なっ…………!」
「男世帯に女一人を放り込んではいけない、という主さまの温かなお心遣いですよ。あなたの想像しているようなねんごろの関係では『まだ』ありません。……まあ、大きな共同体の中で過ごす場合、男女で寝屋を分けるというのは一般常識ですけれどね」
無銘は「まだ」の部分をやたらと強調した。
「お前ごときに手を出す輩がいるわけがないだろう」
「…………主さまに言い付けますよ」
地を這うような声で、無銘は吐き捨てた。こいつはやると言ったらやる女であるということを失念していた。
本気で審神者に漏らしかねないだろう。
「悪かった。……今の失言だった」
「本当に反省しているんですかねぇ……甚だ疑問ですが。まあ、すぐに謝罪したので許してあげないこともありません。……あ、そういえば先輩はどうしてここにいらしたんですか? まさか主さまの寝込みを襲うようなことがあれば、あなたをこの場で処刑しますけれど……」
「お前が俺に対してどういう心象を抱いていようが勝手だが、それだけは絶対にありえないことだけは伝えておく。ただの近侍の業務だ。……入るぞ」
「ちょ、ちょっと! 主さまはまだお眠り遊ばされているんですよ! 女性の寝床に立ち入るなんて、無礼にも程がありませんか」
玄関から審神者の寝室までは、リビングダイニングを突っ切って、階段を上がる必要がある。血相を変えた無銘が、長谷部の後を追って早足で駆け寄ってくる。
「だからこそ、だ。今日は政府の職員が監査に来られるから、絶対に寝坊できないと主がおっしゃっていた。お前はまだ知らんだろうが、あのお方の寝起きの悪さは酷いぞ。だが、どんな手段を使っても起こさねばならん……お前も手伝え」
「え゛……どんな手段でも、って」
「……あのお方は、ちょっとやそっとでは起きないからな。この喧しい目覚まし時計の音が聞こえるだろう。これだけやっても、まだ獣みたいに眠りこけていらっしゃる……」
「……これは……ちょっと……ええ……合戦場でもここまでやかましくないですよね。なんだか起こすのもアレだし、と思って放置してたんですけど、やっぱ起こさないとダメですか」
二階の突き当たりにある審神者の寝室からは、戦場の砲弾もかくやというほどの爆音が鳴り響いている。
耳栓をしないでいる無銘は、聴覚がおかしくなるのではないかという不安に襲われた。
ジリジリと歩を進める無銘とは対照的に、長谷部は慣れた仕草でドアノブを捻った。
ノックもせずに入室したことを咎める人はいない。どうせしても聞こえていないからだ。
「主! 朝ですよ!」
床に所狭しと置かれた書物を跨ぎ、日光を遮っているカーテンを一気に開くと、部屋の中に日の光が取り入れられる。汚部屋と化した審神者の自室に、清らかな朝の暖かさが差し込んできた。それは、部屋に飛び交う埃を照らし、また、アイマスクに覆われた審神者の顔も照らした。
「主さま、起きられませんけれど」
「この方はな、たとえ本丸が襲撃されても起きんぞ。絶対にだ」
「ま……! 不吉なことを」
「いいか、寝覚めに導くためならば手段を選んでいられない。乱暴だが、主のためだ」
「…………はあ」
長谷部は審神者が包まっている掛け布団を容赦なく剥がした。そこでようやく、彼女の意識が少し覚醒する。獣のような声で唸り、布団を取り戻そうと体が動いた。
「う゛ぅ゛……さぶ……」
「主、早くお目覚めください。朝ですよ」
口は動いているものの、まだ夢の中にいるらしい審神者は、一言「眠い」と言い残すと体を丸めて再び意識を沈殿させた。
「まあ、まるで繭のようですね」
「……しょうがないな」
長谷部はため息をつくと、審神者の腰を抱えてベッドから落とした。
ゴン! とどこかを強打したような音がしたが、構わず彼女は眠っている。絶対に、体を起こそうとはしない。
「主ィ! いい加減にしてください!」
「頭をぶつけてますよ……」
「主は石頭だ。心配はいらん。…………早く起きないと朝餉は抜きですよ」
「い゛ら゛な゛い゛……どうせ朝、何にも食べらんないし……あと五分だけでも……寝かせてよ……」
審神者はテコでも立ちあがろうとしなかった。
「あ、主さま〜。無銘、主さまと初めての朝ごはん、食べたいなぁ〜!」
無銘のわざとらしい擦り寄りも、昨日ならば喜んでいただろうに、今では審神者の機嫌を損ねる要因でしかない。
今の彼女にとって、安眠を妨げるものは全て敵で、ぬくぬくと暖かい布団だけが友なのである。
この審神者、安眠のためならば政府を裏切って歴史修正主義者に付きかねないだろう。二人はそう思った。
「…………仕方ないですねぇ」
無銘は器用に、上着や本といった審神者が床に撒き散らした彼女の私物を跨ぎ、部屋の入り口から審神者のベッドまで抜足飛びでやってきた。
「起きないのなら、わたくしが……着替えさせてあげますね♡」
「あ゛⁉︎」
無銘はそう言うと、ハンガーにかけてあった審神者のシャツとスーツを持ってきた。そして、床で必死の抵抗を続けている審神者の半纏を脱がせた。
「おっ、お、おお、お前! 何をしている⁉︎」
「……何って、着替えを手伝ってるんですよ。洋装ならまあ、眠ったままでも着替えさせられますし……ああ、そうだ。後ろ向いててもらえます? 流石に下着姿を男には見られたくないでしょうし」
……長谷部は、審神者の下着を見たことがあった。本丸内の洗濯機に恥じらいもなく入れられた黒無地のスポーツブラジャーを見た時、激しく動揺したことを今でも覚えている。審神者は、刀剣男士を異性として意識しない人だった。
なので、別に今長谷部が着替えを目撃したところで、審神者は照れたりしないだろう。
そもそも、部下に着替えをさせている時点で羞恥心もクソもあったところではない。
けれど、長谷部は律儀に後ろを向いた。審神者のパジャマやらアイマスクやらが、視界の端で投げ捨てられていくのがわかった。
「はーい、バンザイしてくださいね〜」
「んー……」
無銘は器用に仰向けになった審神者のズボンを脱がし、シャツを着せ、タイピンまでつけてしまった。
審神者はなされるがまま、無銘の着せ替えに身を預けている。
長谷部は、まるで赤子の衣替えを見ているような気分になった。これは主への振る舞いというより、母が子の衣を変えてやっているようなものだ。行き過ぎた過保護な姿勢である。
無銘は、それを楽しそうにこなしている。
──羨ましい。
背後から聞こえる衣擦れの音と、無銘の鈴を転がしたような笑い声、審神者の気だるげな呻きの声を聞きながら、長谷部はそう思った。
彼の体の芯に込められた従僕の心が、僅かなことでも主のために動きたいと騒ぎ出す。審神者の体に触れることは、この体では許されていない。彼女がそれを許すこともないだろう。
そもそも、審神者は長谷部が先回りして彼女を手助けすること自体をあまり快く思っていない。
ものぐさな審神者を見ていると、自然と体が動いてしまう。
戦で敵を殺すために生まれた身ではあり、戦場で誉を取ることが喜び。
それが刀剣男士の本懐であるはずなのに、侍女の真似事をしてみたいと願う我が身の愚かさを憎む。
今でこそ、無銘が任務に就かないから優位であるものの、この女が武勇を立て、その上主の身辺の世話までするようになれば、とうとう己はこいつを許せなくなるだろう。そう長谷部は思った。
長谷部は生まれて初めて、自分の体が男であることを恨んだ。
そして、そのような考えを抱いた自分に恐れを成した。
女になりたいわけではない。
そのようなつもりで思ったわけではなかった。
無銘の体と、己の体を比べてみると、余計にその考えは際立った。
あんな細い体で、あんな柔い腕で、主を守ることができるだろうか。けれど、審神者のそばで全てを見守るためには、この体は大きく、無骨で、力が強すぎる。
実際に無銘の戦いを見たわけではないが、女の体というのは、たいてい男より脆く弱い。生物学的な特徴が神にも当てはまるかは定かではないが、体格差や、射程の違いだけはどうしても不利に働く時があるだろう。
けれども、それでも、たった一度。それを羨ましいと思った。弱い体など、無駄だと切り捨てる己が、蔑んでいた者に憧れたのだ。
肉体的な壁ではなく、社会の通念とこの時代の道徳が長谷部の悲願の成就を拒んだ。
──昨日と同じだ。
昨日の宴会の席で、此岸と彼岸の超えられない溝があると感じた時のようなものを、今も味わっている。
敗北感から舐めさせられる辛辣とは違う、生まれながらの差異による、無力さ。
人間と付喪神。使役するものと使われるもの。それらの違いから幾度となく無力感に襲われてきたが、耐えられた。
なぜならば、他の刀も皆そうだったからだ。
けれど、無銘は違う。
前提が違う。
異分子。
全てが間違い。
あり得てはいけない存在。
イレギュラー。
バグ。
エラー。
観測してはいけない事象。
不穏。
偶然の産物。
どれもこれも、常識ではあり得ないことでしかない。
「………………間違いは正さなければ」
虚空に向かって放たれた言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
間違いを「正す」と口走った。その言葉の意味を深く考えることなく、長谷部は対岸の風景を眺めた。
「…………あぁん? 何これぇ……?」
半分眠ったまま鏡台の前の椅子に座らされていた審神者は、無銘がドライヤーで髪をセットしている音でようやく完全に目を覚ました。
「ふふっ。わたくしが着替えさせておきました。これから、わたくしが全部お召替えを担当してもよろしいのですよ」
審神者は鏡に映った己の姿を見た。
そこに見えたのは、髪の毛以外はどこからどう見ても『ちゃんとしたところの勤め人』をしている自分の姿だった。
シャツはアイロンをかけた記憶もないのにパリッとしていて、まるでクリーニングに出したかのように見えた。首元のネクタイもきっちりと美しく左右対称な結び目が作られている。
「うぉー、すげ。全自動着替えマシーンじゃん! ってかこれ、無銘ちゃんがやってくれたの? スーツなんて、着るの就活の時以来だよー。ってかマジすごくない? 自分で着替えなくてもちゃんとした格好にしてくれるんだよ?」
「主、着替えくらいご自分でなさってください。あなたは乳飲み子ではなく、成人なされた大人なのですから」
「……あなたが口を挟むところではないですよ。どうなさるかは、主さまが決めること」
「んー…………朝だけなら。わたし、寝起き悪いし」
「主ッ!」
「ええ、ええ。喜んで、わたくしが着替えさせて、起こして差し上げますよ」
「やったー!」
長谷部の叱咤は届かなかった。
完全に二人の世界である。
百歩譲って、簡単な着替えを手伝う程度なら長谷部も納得できた。昔から、貴人が使用人に着替えを手伝わせることは、特段珍しいことではない。
けれど、問題はその方法である。
仮にも成人した女性が、おむつ替えの要領で他人に着替えを命じるなど狂気の沙汰でしかない。長谷部はそう考えているが、ここには彼に同調する者はいなかった。
そこまでくると、もしやおかしいのは自分の方ではないかとすら思えてくる。この狂ったペースに乗せられている己の主人は最早、自分が仕えている主とは別の人間なのではないかとすら思えてくる。
ものぐさで面倒臭がりの審神者の心に漬け込んで、あれこれ自分の都合のいいように事を運ぶ無銘は、鴉のような狡猾さを持っている。
──このままいけば、この女に何もかも取られてしまうのではないだろうか。
思わずそんな未来を想像し、身震いする。
審神者はあくまで刀剣男士の主人なのだから、彼女から奪える物など何もないはずなのに、しかし、物にも独占欲という感情がある。無銘は部を弁えない……自分と違って。
己は従僕として、出過ぎた真似はしないよう心掛けているのに、この女は長谷部の自重したラインを平気で踏み荒らし、土足で審神者の心に踏み入っている。それが気に入らないのだ。
目の前を見やれば、長谷部などお構いなしに、無銘が審神者の髪を梳かし、細々と世話を焼いてやっている様子が見える。側から見れば、仲の良い姉妹に見えた。
長谷部はその様子をじっと見つめていた。
物音一つ立てず、空気に徹し、決して何一つ口を出さなかった。
腹立たしさはあった。憎たらしかった。彼女の髪に手を入れることは、憧れだった。けれど、先に取られてしまった。
しかし、それ以上に審神者の頭髪に輝きが加わる場面を眺めるのは面白かった。スタイリングに対する才能だけは認めざるを得ないかもしれない。
色づいていく。
椿油のぬらつくような湿度を持った香りが部屋に漂う。
押し絵のような光景の中で、長谷部ただ一人だけが異端であった。