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審神者が鍛刀室から連れてきた「新入り」の姿を見て、長谷部はかつてないほどに度肝を抜かれた。審神者の手前、大袈裟な感情表現はしないがそれでも驚きを隠すことはできなかった。
審神者は心配するような面持ちで長谷部を見つめる。色々と言いたいことはあったが、あえて今は言わないことにした。下手に多弁になれば、動揺していることが丸わかりである。
近侍として格好のつかないような姿を、審神者は勿論、この新入りにも見せたくなかった。
「…………へえ、これがそうですか」
「うん、そうなの。無銘ちゃんっていって、号も、個体を表すような通称も何もないみたい。それに、自分を作った刀工や、元の主もわからないって言ってるの」
「見たところ、これは女にしか見えないのですが、こいつも刀剣男士なのですか」
「いや、女の子だよ。わたしもよくわかんなくてさぁ。でも、鍛刀で出てきて太刀を持ってるってことは刀の付喪神なんだよね? 一応うちにきちゃったからには仲間になるかもしれないし。……まあ、とりあえず新入りには優しくしてあげて。それと、彼女は女の子だからいつもより一層丁寧に接すること、いいね? これ主命だから」
「主命とあらば……」
応接室の畳にちょこんと座った無銘を一見し、長谷部はため息をつきたくなる気持ちを抑えた。
本来の彼の性格であれば、皮肉の一つでも飛ばしているところではあったが、主人に丁重に扱えという命を受けた以上、新入りには優しく接しなければならないのだという理性が彼を縛った。
無銘は出された茶に口をつけながら、冷たい眼差しで長谷部を見ていた。
──これは何か訳ありだな。
全く素性のわからない刀が刀剣男士──この場合刀剣女士というかもしれない──になるなど、聞いたこともない。あえて隠している可能性もなきにしもあらずだが、刀帳に登録されていない刀を顕現してしまったなどということがあれば、一大事だ。秩序が崩壊する。しかも、女の身で顕現されるなど、絶対にあり得ない話だ。
──面倒なことになったな。
審神者は長谷部の悩ましげな思考に気づいたのか、一緒に肩を落とした。
「まあ、なるようになれー! って感じ、だね」
「そうですね……」
「長谷部、ちょっと何か話してみてよ。わたしじゃわからないことも、長谷部なら引き出せそうだし」
「お、俺がですか……?」
「うん。わたしも隣にいるからさ。もしかしたら、会話の中で彼女も何か思い出すかもしれないし」
ちらりと無銘の顔を見遣る。大きく見開かれた緋色の瞳、その虹彩を縁取る長い睫毛は、筆一本程度なら乗ってしまいそうだ。喉仏のない首に、細くて小さな手。まるで人形のようだが、呼吸でわずかに体が揺れている。
「長谷部ー、どしたん? 照れてる? わっかるわー、彼女、綺麗だもんねえ」
「あ、主には遠く及びません」
「そんなことないよー!」
「なんなんですの、この茶番」
無銘は初めて長谷部の前で口を聞いた。聴覚で捉えられるか捉えられないかの狭間を突いたような、気だるげな独り言だった。この一言に気がついたのは、おそらく長谷部ただ一人だっただろう。
無銘は片方の眉だけを器用に吊り上げ、茶番と腐した二人から顔を逸らした。
長谷部は女という生き物に対する接し方を知らない。
審神者は女と思う以前に主人であるから、従僕の振る舞いをしていればよかった。時折訪れる政府の職員は、刀に深く関わろうとはしなかった。今までは、それでよかった。
だが、新しく入った仲間……しかも女の扱いなど、彼にはどうして良いやら全く検討がつかない。このようなことがあるならば、もっと文献などに触れて学を得ていればよかっただろうか?
けれど、日本刀の付喪神が女として顕現するといったことは、本来ならばあり得ない。確率にして、今すぐ地球に隕石が落ちてくるのと大して変わらないだろう。
審神者が時折口にする、「システムのバグ」というやつなのだろうか。時の政府が管轄しているといえど、人が運営している以上、時折何らかの障りが発生するものである。今回は、運悪くここが貧乏くじを引いてしまったのか。
それにしても、主が隣にいるとはいえ、女性の新入りというのはなかなかにやり難い。
「おい…………」
名前を呼ぼうとしたところで、彼女の銘を聞いていないことを思い出した。
呼ばれたことに気がついたのか、彼女は目線を長谷部に投げかけた。
「無銘、と呼んでください。わたくしは名無しの刀ですから」
「──なら無銘、お前にいくつか聞きたいことがある」
「……人に名前を聞いておいて、自分は名乗らないのかしら」
紅い瞳が、じっとこちらを見ている。品定めをするかのように、無遠慮な視線が投げかけられる。
やり難いことこの上ない。しかし、やるべきこと済ませてしまわねばならない。
「へし切長谷部、だ」
「無銘ちゃん、名前に聞き覚えはある?」
審神者は、彼女の出自を探ろうと質問を投げかけた。どこかの刀と縁があれば、自ずと彼女の来歴もわかるだろうと考えての発言だった。
「…………いいえ、特に心当たりは」
「うーん、そっかあ」
「嘘偽りはないな?」
「…………今ここでわたくしが嘘を申しても、何にもなりませんけれど」
「長谷部、尋問じゃないんだから。ごめんねー、女の子と接するのが初めてだから、ちょっと緊張してるみたいなの」
「いいえ、気にしていませんよ」
無銘は審神者の方だけを見て、にこりと笑った。先ほどまでとは打って変わって、童子のような無邪気な笑みをしているが、腹の底では何を考えているのかわからない。
時間遡行軍の何らかの企みに巻き込まれている可能性もあり得るというのに、この本丸の主は呑気に彼女を歓迎している。しかも、ご丁寧に茶まで用意して。
いつ何時こいつが本性を表してもいいように身構えておこう、と長谷部は決意を固めた。
「主に尋ねられたと思うが……改めて問おう、お前は一体何者だ。素性の不明な、得体の知れない刀が顕現した事例など、俺は聞いたことがない」
「さあ、わたくしにもわからないんですよ」
無銘は審神者だけをじっと見ている。長谷部には、一瞥もしない。
完全に、なめられている。
普段ならば、咎めてしかるべき行為だが、今回は緊急事態であることを思い出し、寸出のところで堪える。
「お前には記憶がないのか?」
焼け落ちた際に、記憶の抜け落ちが発生してしまった男士、骨喰藤四郎のように、モノとして使われていた時の記憶が曖昧な刀、というものは特段珍しくない。
無銘はその点、どこまでが本人の頭に残っていて、どこからが存在しないのか、ということを彼女自身がわかっていない様子だった。
己が何者であるかを理解していない、というのはモノの記憶を拠り所に神性を帯びている付喪神にとっては、不安定な状態でしかない。いつ糸が切れてもおかしくないような、綱渡をしているのかもしれない、と審神者は長谷部に伝えていた。
そのような状態で、彼女はどこまで持つだろうか。審神者はそれを気掛かりにしていた。
せっかく顕現したのだから、ちゃんと安定した状態に持っていってあげたい、と彼女は心配そうにそう言っていた。
だから、長谷部は審神者の期待を裏切るわけにも、この新人──もとい新刀のあるべき姿、その輪郭を捉える必要があった。
本丸に来たばかりで霊素が不安定な無銘をなるべく刺激せず、また、異性ばかりの環境で男を怖がらないように親切にしてやるべき、と審神者は長谷部に伝えていたが、彼は納得していなかった。
この忙しい時期に想定外の新入り、しかも女。その存在がか弱く、主人の手を煩わせるお荷物であるならば、この本丸には不要。
「わたくしの記憶、あればよかったけれど、残念ながら全く」
「断片的にも、何か些細なことでもいい。何か覚えていないのか」
「そうですね……へし切長谷部、わたくしの格好を見て何も思わないの?」
「格好……?」
「そうです。わたくし、男の格好をしていますけれど。ここから何か掴めないでしょうか?」
長谷部は改めて、無銘の服装に目をやる。
男の格好と言われてみればそう見えなくもないが、男装であると胸を張るにはいささか説得力に欠ける装いであるように長谷部には思えた。
振袖のような長い袖の衣装は、おおよそ着物を模してはいるが肩口の部分でざっくりと断たれている。それは着物というよりは、洋服に着物の袖をくっつけたような奇妙な服である。シルエットの見ようによっては西洋のローブのようにも見えなくはない。
下に履いているのは袴とズボンの中間のような作りをしており、靴は革のブーツと奇妙な和洋折衷、妙な格好としか形容し難い不思議な格好をしていた。
そのような服を纏っている刀剣男士は少なくはないものの、これで男装をしていると主張するのはずれているように思えた。
これが、何らかの手がかりになるならば、真剣に考えなくてはいけない。彼女の勿体ぶった言い方には腹が立ったが、小娘の虚勢だと考えて気にしないことに決めた。
「うーん、わたし的には思い当たる節はないかな。無銘ちゃんが着ているってことに、何か意味があるんだろうけれど……」
審神者は電子端末を片手に云々と唸り出した。
無銘は大人しく座ってはいたが、考えあぐねている審神者のそばに行きたそうな顔をしていた。
長谷部は、彼女の少し浮いた体の手前にある刀が気になった。
拵はなく、鞘の部分に銀の金具があるだけの地味な作りをしている。白鞘の状態とほぼ変わらないそれは、この本丸では見かけたことのないような淡白な外見をしていた。この女の見目とは真逆に、この本体は簡素で質素な風貌である。
刀身を見てみないことには本当の価値というものはわからないが、この刀の銘が存在しない理由が何となく察せられた。
ごくありふれた、どこぞの刀工が打ったであろうありふれた刀だ。歴史に名前を刻むような業物でもなければ、有名な逸話があるわけでもない。古物屋の片隅に置かれているのが似合うような、ただ積み重ねた年月が古いだけの一振り。
──少なくとも、自分とは違う。
そこまで考えて、長谷部は胸を撫で下ろした。ここの主は刀剣に対する教養を、最低限度しか持ち合わせていない。国宝であれば、名だたる名刀と他人から称賛される物であれば、無条件に良いと評価を下す。もちろん、戦績の上で全員が平等に評価されるし、彼女は特別な贔屓をしない。それでも、女の新入りが特別な寵愛を受ける可能性があるならば、その芽は早くから摘んでおきたい。
「無銘、少し帯刀して歩いてみろ」
「え、えぇ……構いませんけれど」
無銘は刀を腰に差すと、執務室をぐるりを歩いた。彼女が歩いていると、書類やら資料やらで占領されているこの部屋も、武家屋敷のように見える。
「無銘ちゃん、姿勢が良くて綺麗だね」
「お褒めに預かり光栄です」
無銘の媚を売るような声が耳に痛い。主に気に入られようと必死すぎて見るに耐えない。主も主で、もうこの女を甘やかす気でいるらしい。
……まあ、そうしていられるのも今のうちだけだ。戦場に出ると、小細工など一歳通用しないということを、嫌でもわからされる。戦で役に立たなければ、刀としての意味がない。それを理解する時が来るだろう
……やはり、こいつは気に食わない刀だ。
審神者に誉められたことよりも、無銘の小癪な態度が長谷部の思考を占領した。
無銘は自分を陥れ、主の寵愛を一身に受けようとする生意気な刀であること、そして、ある程度の敵意を持ってこちらを観察していることが、これで証明された。無銘の小細工や手練手管に、主はきっと気づかないだろう。
そして万が一、絶対にあり得ないが──近侍の座を盗み取られ、審神者の興味関心があの女に移ってしまうようなことがあれば、長谷部の本丸内での立場はなくなる。
これだけは、何としてでも防がなくてはならない。
無銘はどこからか取り出した扇で顔を隠し、目線だけで長谷部をじっとみている。目つきは先ほど変わらないが、おそらく隠された口元は笑ってはいないだろう。
二人が睨み合っていることに気づいていない審神者は、畳から腰を上げると、現代的なデスクの前に腰をかけた。
「さて……わたしはそろそろ政府に出す書類作ってくるね! 女の子の刀剣なんて、聞いたことのない事例だし、お上に判断を仰がないとね」
「書類仕事なら、俺が手伝いますよ」
「いや、いいよ。長谷部は無銘ちゃんに本丸を案内してあげて! ここも広いし、早く覚えて慣れないと不便だと思うし!」
「……主命とあらば」
「早く慣れるように頑張りますね」
「うんうん、多分政府の人の判断が下るまではここで暮らすことになるだろうし、人の体の使い方に慣れるためにも歩くのは大事だからね。じゃ、とりあえず本丸をお散歩しといで〜」
審神者は手をひらひらと振って、早速立ち上げたパソコンに視線を落とした。
そんな主に一礼してから退室し、執務室の扉を後ろ手で閉めると、無銘と長谷部は廊下に二人きりになった。
現在、内番を任された一部の刀以外はそれぞれ遠征任務に就いているため、本丸内は静けさに満たされていた。大所帯の本丸がここまで静かなのは、長谷部が鍛刀された本丸創立初期の頃以来かもしれない。平静な日であったはずなのに、予期せぬ来訪者が現れてしまったので、本来やるべき仕事の他に、新入りの世話というイレギュラーが発生してしまった。
仕事には余裕を持ってこなしている長谷部ではあったが、それでも予定を崩されることは好ましく思えなかった。誰それ構わず世話を焼きたがるお人好しの刀であれば、こんなことを考えないだろうが。
「……いくぞ」
「ええ」
板張りの廊下を歩くと、ミシミシと音が鳴った。 建物自体が老朽化しているわけではなく、そういう風に音が鳴る仕様だと、審神者が自慢げに言っていたことを思い出した。アインシュタインも気に入ったんだって、と胸を張っていたが、別に風流さのための物ではない。不審者対策である。
無銘はそのことを知ってか知らずか、音を立てないように努めている。その態度がわざとらしいので、長谷部は苛立った。
あえて、早足で歩く。無銘は女性にしては上背がある方だったが、やはり男性の体躯には追いつかない。彼女は小走りで長谷部の後を追う。この場に審神者がいたならば、無銘ちゃんに合わせてもっとゆっくり歩いてあげないと。なんてことを言うだろう。だが、ここに審神者はいない。プライドの高い無銘は、わざわざ謙って申し出ることはない。新入りだから、女の身だからと舐められないように必死なのだ。
同族だから、同じような性格をしているから、彼女の心根が手に取るようにわかる。自分も同じ立場であれば、同じように考えるだろう。だからこそ、その傲慢さをたたき折る時の快感に勝るものはない。
長谷部は内心愉悦を感じながら、廊下を歩いた。無銘の視線が背中につき刺さる。早くこいつと手合わせがしたい。あの自信に溢れた顔を叩き潰して、敗北の味を味合わせてやりたくて仕方がない。きっと、無銘も似たようなことを考えているはずだ。
「何をモタモタしている、そんな調子では日が暮れるぞ」
背中にわずかに殺気だった視線を感じたが、反論は返ってこなかった。
人が増えるたびに増改築を繰り返した本丸は、今や小さな村ほどの広さを持っている。平家造りなので上下の移動はないが、寝所と共有スペースとの間にはそれなりに距離があった。この本丸にくる刀剣たちにとって最初のネックとなるのが、この広さだ。増築を繰り返した結果、小迷宮のように入り組んだ作りになってしまっているのだ。迷った刀を探しに行った者がさらに行方知れずになる。といったことも珍しくなかった。
「恐らくお前は政府に引き渡されることになるだろうから、全ての場所を真剣に覚えなくても構わんが、迷って他の者の手を使わせるようなことがあれば、主にも迷惑がかかるからな。最低限、必要な施設の位置は脳に叩き込め」
「政府に? 主さまがそう仰られたんですか?」
「お前のような異分子、一先ず政府が検分するに決まっているだろう」
「フン、主さまがおっしゃったことでないのなら、貴方の妄想じゃないの。過去に類事例はあるのかしら、実例を出してくれませんか?」
「生意気な……!」
「エビデンスもないのに適当なことを言った長谷部が悪いんじゃない。主さまに言い付けておこうっと」
「古臭い刀のくせに、横文字を使って反論とはな」
「あら、最近の言葉も知らないようでは主さまとお話ができなくてよ。お爺さま」
「お、俺が爺だと……⁉︎」
脅そうとしたが逆に馬鹿にされてしまい、何か言い返そうとしたが言葉がうまく出てこなかった。
この本丸において、長谷部は審神者の次に初期刀と並んで近侍という、実質的なナンバーツーの座を占有していた。
建前では、審神者の前に全ての刀剣男士は平等であるというお題目があるが、それはあくまでも建前である。現場ではそういうわけにもいかない。誰かが指揮を取り、統率を取る。その役目を担っていた彼に、正面から楯突く者はいなかった。いくら本丸が生活を営む場であっても、あくまでここは戦いの場であり、実態は厳しい軍隊となんら変わらないからである。
それを無銘は、無視した。
無銘は扇を扇ぎながら、オホホホ、と古風なお嬢様めいた高笑いを披露する。憎たらしいほど、それが実に様になっている。
エビデンスの意味くらい、長谷部も理解していた。咄嗟に出てきた横文字に動揺しただけだ。無銘のバカにしたような態度に腑が煮え繰り返る。
お爺さまなどと今まで一度も言われたことがなかった。時代で言えば、三日月や源氏兄弟と同輩のお前の方が俺よりも婆だろうに、とは言えない。言えなかった。
さらに詭弁を捲し立てられて、負けることを恐れてしまった。
この本丸で近侍を務める自分が、新入りの女一人に負けを恐れるなど、あってはならないはずなのに……。
「先ほどわたくしを走らせた仕返しです。戦ごとはともかく、口先でわたくしを弄するなど、百年早くてよ!」
無銘は、鼻を明かしてやったとばかりに自慢げに微笑んだ。
二人の関係は犬となんら変わりない。新入りが、群れの中で上の地位にいる個体に喧嘩を売りに行ったのだ。
長谷部は主の命令の手前、所謂『教育的指導』を行うことができなかった。何か言い返して口論を始めることや、喧嘩を売られたと判断して私闘を始めることは禁止されている。本丸の運営において、なんのメリットもないからである。
それを理解しているので、長谷部はあえて何も反論しなかった。決して、爺呼ばわりされたことに衝撃を受けているからではない。
(──戦場に出ればその減らず口も叩けなくなるだろう)
先ほど政府に受け渡すなどと口走ったことは忘れ、長谷部の脳内には「こいつを戦いの場でわからせてやる」といった感情しか残っていなかった。新入りがいくら吠えて反抗してこようが、こちらの方が練度も切れ味も経験も上回っていると考えることで、溜飲を下げたのである。
「あ!」
不意に無銘が足を止めた。換気と景観のために開け放たれている縁側に出た瞬間だった。ここは特段説明することはないので素通りをしようとしたが、無銘が足を止めたので先に進めなくなった。
振り返って彼女の方を見ると、無銘はそこに座り込んでいた。
「おい、もう行くぞ」
「ちょっとだけ待っていてもらえませんか。この庭がとても綺麗なので少し見ていたいだけです」
「…………少しだけだ」
「長谷部も座って見てみればいいのに。あの籾の木にメジロがとまっていてよ、見えますわよね?」
この庭は、審神者の就任からまだ一月ほどの時期に造園されたものだった。
春は桜、夏は緑陽、秋は紅葉、冬は枯れ木に雪が積もって、四季折々に変わった表情が見れるように設計されている。審神者のポケットマネーで作られたそれは、当時の数少ない刀たちの意見も取り入れられて作成され、今でも彼らの手をかけて整備されている。
彼女の霊力によって維持されているので本来ならば手入れなどしなくても問題ないのだが、刀たちの情操教育のためと、単に暇な時は庭いじりをしていればいいという都合で、そういった仕事が好きな男士たちが勝手に世話をしている。
長谷部もその列に時折加わり、木を剪定したり、雑草を抜いたりと植物の世話を焼いていた。そうすると、審神者が喜ぶからそうしている。けれど、全く愛着がないわけではない。やはり、世話をした分だけ美しくなるからだろうか。
現在の景色は、春。つい三日前に桜が満開を迎えたばかりだった。庭の池の水面に風で散らされた花びらが浮かんでいる。
「風流ですね。歌でも詠んで主さまに差し上げようかしら」
「お前もその口か。喜べ、その手の文化を嗜むやつはここには多い」
「ふぅん。まあそれは追々で構いませんけれど」
「満足したか、ちょうどいい。庭から正門までの道を案内する。ついてこい」
「はーい……ねえ、このつっかけ大きすぎて脱そうなんですけど」
「…………後でお前のサイズを用意しておく。今は主のものをお借りしておけ」
「あなたって足が大きいんですね……主さまの履き物、可愛らしいけれどなんだかトゲトゲしてます。あっ、痛! 何ですのこれ⁉︎ ちょっと長谷部、歩くのが早いじゃないですか! 置いて行かないで……クソ痛ってぇんですけど! どうなってるんですの⁉︎」
「それが健康サンダルだ。足ツボも鍛錬だと思って耐えろ」
飄々としていた態度が嘘のように、生まれたての子鹿のように足を震わせている無銘を見て、長谷部はほくそ笑んだ。先ほど皮肉を言った罰にはちょうどいいだろうと思った。
「ああ、もう! わざとわたくしに履かせたでしょう!」
無銘はサンダルを元の場所に戻すと、先ほどの男性用の外履きを履いて走ってきた。長谷部は、そのナヨナヨとした足取りを見て、恐るほどの器ではないと確信を得た。しかしその評価はすぐに覆されることになる。
長谷部が本丸の正門付近を案内していた折に、遠征に出かけていた第三部隊が帰還してきた。彼らは新入りの顔を見るとワラワラと取り囲み、動物園の珍獣でも見るかのような目つきでジロジロと観察した。
女の付喪神とは、刀にしては珍しい。第三部隊は新しい物好きの男士が多い。こんな特異な現象を前にして、特に動揺することなく、まあそんなこともあるかと早速受け入れてしまった。柔軟性が高いことは良点だが、絶対に他の刀に言いふらすだろう。
主から内緒にしろと言われた訳ではないが、本丸内に混乱を生みかねないのでできれば隠しておきたかった。
「お前たち、いい加減さっさと湯浴みをしてこい。汗と埃で汚らしいぞ」
「長谷部、早速騎士面かよ。機動に違わず手が早いな」
「五月蝿い。主からこいつの世話をしろと言い付けられたからやっているだけだ。そら、こいつは見せ物じゃないんだ。早く散れ!」
「へし切長谷部、わたくしは別に構わないですよ。これから本丸で共に暮らす方々なんでしょう? お互いのことは、隠さず開示すべきです。主さまも、わたくしが皆さんと仲良くすることを望まれると思いますよ?」
先ほど人を小馬鹿にするような態度をとっていたのと同一人物とは思えなかった。無銘は人当たりの良い笑みを浮かべ、全員の自己紹介と激励を一身に受け、嬉しそうに機嫌良くしている。
「わたくし、実は元の主人も、誰の作かも全て覚えていないんです。皆さんの中にわたくしと縁のある方がいれば良いのですが……」
「おお、記憶喪失とは! それは大変だ。早く思い出すといいな」
「寛大なお気遣いに感謝いたします。早く記憶を取り戻して、主さまのお役に立ちたいです……!」
「うん、僕たちの中にもそういう子はいるから大丈夫だよ。まあ、思い出せるに越したことはないけれどね。うちの連中に色々聞いてみるといい。きっと快く協力してくれると思うよ」
「そうですね、後で伺ってみます。ご親切に、ありがとうございます」
「ううん、全然! 僕たち仲間なんだから、助け合うのは当然だよ」
…………嘘だ。
今目の前で喋っている女が、無銘であるなどと信じられなかった。審神者に媚びる時に甘ったるい声でもなく、長谷部に向ける小馬鹿にしたような声色でもなく、今までに聞いたこともないような声色を使っている。全くの別人のように見えて仕方がない。
現在の無銘は、利発で愛嬌のある女にしか見えなかった。どこにも裏がありません、と言わんばかりに、清純な少女を気取っている。
──理解できない。
小一時間程度一緒にいただけなのに、この人物の大まかな輪郭すら掴むことができない。どこまでが素面でやっていることなのか。
全ての動作が、まるで染みついたように自然なので、多重人格を疑うほどだった。あるいは、天才的な役者。刀としてどのように扱われたのか読めない相手というのは、非常に厄介であることを、身に染みて感じた。
無銘の挙動は、あまりにも自分と違いすぎた。
こちらは男で向こうは女なのだから当たり前と言われれば黙るしかないのだが、それでも決定的な何かが違っている。それを理解するためには、時間を要するだろう。だが、焦ることはない。
幸か不幸か、長谷部は審神者から無銘の世話を見るようにと言いつけられていた。この女の化けの皮を剥がすのは、こいつがここに馴染んでからの方が面白いだろう。それまで無垢で清らかな女でも、尻尾を振る犬でも、懐に潜り込んでくる猫でもなんでも、演じ続けていればいいのだ。
「無銘、ここで無駄足を踏んでいれば日が暮れる。行くぞ」
「ということなので、皆さんさようなら。また会いましょう」
貴人ぶった手つきでヒラヒラと手を振る。その様子を横目で見ながら、長谷部は何も言わずに馬小屋へと歩き出した。
審神者は心配するような面持ちで長谷部を見つめる。色々と言いたいことはあったが、あえて今は言わないことにした。下手に多弁になれば、動揺していることが丸わかりである。
近侍として格好のつかないような姿を、審神者は勿論、この新入りにも見せたくなかった。
「…………へえ、これがそうですか」
「うん、そうなの。無銘ちゃんっていって、号も、個体を表すような通称も何もないみたい。それに、自分を作った刀工や、元の主もわからないって言ってるの」
「見たところ、これは女にしか見えないのですが、こいつも刀剣男士なのですか」
「いや、女の子だよ。わたしもよくわかんなくてさぁ。でも、鍛刀で出てきて太刀を持ってるってことは刀の付喪神なんだよね? 一応うちにきちゃったからには仲間になるかもしれないし。……まあ、とりあえず新入りには優しくしてあげて。それと、彼女は女の子だからいつもより一層丁寧に接すること、いいね? これ主命だから」
「主命とあらば……」
応接室の畳にちょこんと座った無銘を一見し、長谷部はため息をつきたくなる気持ちを抑えた。
本来の彼の性格であれば、皮肉の一つでも飛ばしているところではあったが、主人に丁重に扱えという命を受けた以上、新入りには優しく接しなければならないのだという理性が彼を縛った。
無銘は出された茶に口をつけながら、冷たい眼差しで長谷部を見ていた。
──これは何か訳ありだな。
全く素性のわからない刀が刀剣男士──この場合刀剣女士というかもしれない──になるなど、聞いたこともない。あえて隠している可能性もなきにしもあらずだが、刀帳に登録されていない刀を顕現してしまったなどということがあれば、一大事だ。秩序が崩壊する。しかも、女の身で顕現されるなど、絶対にあり得ない話だ。
──面倒なことになったな。
審神者は長谷部の悩ましげな思考に気づいたのか、一緒に肩を落とした。
「まあ、なるようになれー! って感じ、だね」
「そうですね……」
「長谷部、ちょっと何か話してみてよ。わたしじゃわからないことも、長谷部なら引き出せそうだし」
「お、俺がですか……?」
「うん。わたしも隣にいるからさ。もしかしたら、会話の中で彼女も何か思い出すかもしれないし」
ちらりと無銘の顔を見遣る。大きく見開かれた緋色の瞳、その虹彩を縁取る長い睫毛は、筆一本程度なら乗ってしまいそうだ。喉仏のない首に、細くて小さな手。まるで人形のようだが、呼吸でわずかに体が揺れている。
「長谷部ー、どしたん? 照れてる? わっかるわー、彼女、綺麗だもんねえ」
「あ、主には遠く及びません」
「そんなことないよー!」
「なんなんですの、この茶番」
無銘は初めて長谷部の前で口を聞いた。聴覚で捉えられるか捉えられないかの狭間を突いたような、気だるげな独り言だった。この一言に気がついたのは、おそらく長谷部ただ一人だっただろう。
無銘は片方の眉だけを器用に吊り上げ、茶番と腐した二人から顔を逸らした。
長谷部は女という生き物に対する接し方を知らない。
審神者は女と思う以前に主人であるから、従僕の振る舞いをしていればよかった。時折訪れる政府の職員は、刀に深く関わろうとはしなかった。今までは、それでよかった。
だが、新しく入った仲間……しかも女の扱いなど、彼にはどうして良いやら全く検討がつかない。このようなことがあるならば、もっと文献などに触れて学を得ていればよかっただろうか?
けれど、日本刀の付喪神が女として顕現するといったことは、本来ならばあり得ない。確率にして、今すぐ地球に隕石が落ちてくるのと大して変わらないだろう。
審神者が時折口にする、「システムのバグ」というやつなのだろうか。時の政府が管轄しているといえど、人が運営している以上、時折何らかの障りが発生するものである。今回は、運悪くここが貧乏くじを引いてしまったのか。
それにしても、主が隣にいるとはいえ、女性の新入りというのはなかなかにやり難い。
「おい…………」
名前を呼ぼうとしたところで、彼女の銘を聞いていないことを思い出した。
呼ばれたことに気がついたのか、彼女は目線を長谷部に投げかけた。
「無銘、と呼んでください。わたくしは名無しの刀ですから」
「──なら無銘、お前にいくつか聞きたいことがある」
「……人に名前を聞いておいて、自分は名乗らないのかしら」
紅い瞳が、じっとこちらを見ている。品定めをするかのように、無遠慮な視線が投げかけられる。
やり難いことこの上ない。しかし、やるべきこと済ませてしまわねばならない。
「へし切長谷部、だ」
「無銘ちゃん、名前に聞き覚えはある?」
審神者は、彼女の出自を探ろうと質問を投げかけた。どこかの刀と縁があれば、自ずと彼女の来歴もわかるだろうと考えての発言だった。
「…………いいえ、特に心当たりは」
「うーん、そっかあ」
「嘘偽りはないな?」
「…………今ここでわたくしが嘘を申しても、何にもなりませんけれど」
「長谷部、尋問じゃないんだから。ごめんねー、女の子と接するのが初めてだから、ちょっと緊張してるみたいなの」
「いいえ、気にしていませんよ」
無銘は審神者の方だけを見て、にこりと笑った。先ほどまでとは打って変わって、童子のような無邪気な笑みをしているが、腹の底では何を考えているのかわからない。
時間遡行軍の何らかの企みに巻き込まれている可能性もあり得るというのに、この本丸の主は呑気に彼女を歓迎している。しかも、ご丁寧に茶まで用意して。
いつ何時こいつが本性を表してもいいように身構えておこう、と長谷部は決意を固めた。
「主に尋ねられたと思うが……改めて問おう、お前は一体何者だ。素性の不明な、得体の知れない刀が顕現した事例など、俺は聞いたことがない」
「さあ、わたくしにもわからないんですよ」
無銘は審神者だけをじっと見ている。長谷部には、一瞥もしない。
完全に、なめられている。
普段ならば、咎めてしかるべき行為だが、今回は緊急事態であることを思い出し、寸出のところで堪える。
「お前には記憶がないのか?」
焼け落ちた際に、記憶の抜け落ちが発生してしまった男士、骨喰藤四郎のように、モノとして使われていた時の記憶が曖昧な刀、というものは特段珍しくない。
無銘はその点、どこまでが本人の頭に残っていて、どこからが存在しないのか、ということを彼女自身がわかっていない様子だった。
己が何者であるかを理解していない、というのはモノの記憶を拠り所に神性を帯びている付喪神にとっては、不安定な状態でしかない。いつ糸が切れてもおかしくないような、綱渡をしているのかもしれない、と審神者は長谷部に伝えていた。
そのような状態で、彼女はどこまで持つだろうか。審神者はそれを気掛かりにしていた。
せっかく顕現したのだから、ちゃんと安定した状態に持っていってあげたい、と彼女は心配そうにそう言っていた。
だから、長谷部は審神者の期待を裏切るわけにも、この新人──もとい新刀のあるべき姿、その輪郭を捉える必要があった。
本丸に来たばかりで霊素が不安定な無銘をなるべく刺激せず、また、異性ばかりの環境で男を怖がらないように親切にしてやるべき、と審神者は長谷部に伝えていたが、彼は納得していなかった。
この忙しい時期に想定外の新入り、しかも女。その存在がか弱く、主人の手を煩わせるお荷物であるならば、この本丸には不要。
「わたくしの記憶、あればよかったけれど、残念ながら全く」
「断片的にも、何か些細なことでもいい。何か覚えていないのか」
「そうですね……へし切長谷部、わたくしの格好を見て何も思わないの?」
「格好……?」
「そうです。わたくし、男の格好をしていますけれど。ここから何か掴めないでしょうか?」
長谷部は改めて、無銘の服装に目をやる。
男の格好と言われてみればそう見えなくもないが、男装であると胸を張るにはいささか説得力に欠ける装いであるように長谷部には思えた。
振袖のような長い袖の衣装は、おおよそ着物を模してはいるが肩口の部分でざっくりと断たれている。それは着物というよりは、洋服に着物の袖をくっつけたような奇妙な服である。シルエットの見ようによっては西洋のローブのようにも見えなくはない。
下に履いているのは袴とズボンの中間のような作りをしており、靴は革のブーツと奇妙な和洋折衷、妙な格好としか形容し難い不思議な格好をしていた。
そのような服を纏っている刀剣男士は少なくはないものの、これで男装をしていると主張するのはずれているように思えた。
これが、何らかの手がかりになるならば、真剣に考えなくてはいけない。彼女の勿体ぶった言い方には腹が立ったが、小娘の虚勢だと考えて気にしないことに決めた。
「うーん、わたし的には思い当たる節はないかな。無銘ちゃんが着ているってことに、何か意味があるんだろうけれど……」
審神者は電子端末を片手に云々と唸り出した。
無銘は大人しく座ってはいたが、考えあぐねている審神者のそばに行きたそうな顔をしていた。
長谷部は、彼女の少し浮いた体の手前にある刀が気になった。
拵はなく、鞘の部分に銀の金具があるだけの地味な作りをしている。白鞘の状態とほぼ変わらないそれは、この本丸では見かけたことのないような淡白な外見をしていた。この女の見目とは真逆に、この本体は簡素で質素な風貌である。
刀身を見てみないことには本当の価値というものはわからないが、この刀の銘が存在しない理由が何となく察せられた。
ごくありふれた、どこぞの刀工が打ったであろうありふれた刀だ。歴史に名前を刻むような業物でもなければ、有名な逸話があるわけでもない。古物屋の片隅に置かれているのが似合うような、ただ積み重ねた年月が古いだけの一振り。
──少なくとも、自分とは違う。
そこまで考えて、長谷部は胸を撫で下ろした。ここの主は刀剣に対する教養を、最低限度しか持ち合わせていない。国宝であれば、名だたる名刀と他人から称賛される物であれば、無条件に良いと評価を下す。もちろん、戦績の上で全員が平等に評価されるし、彼女は特別な贔屓をしない。それでも、女の新入りが特別な寵愛を受ける可能性があるならば、その芽は早くから摘んでおきたい。
「無銘、少し帯刀して歩いてみろ」
「え、えぇ……構いませんけれど」
無銘は刀を腰に差すと、執務室をぐるりを歩いた。彼女が歩いていると、書類やら資料やらで占領されているこの部屋も、武家屋敷のように見える。
「無銘ちゃん、姿勢が良くて綺麗だね」
「お褒めに預かり光栄です」
無銘の媚を売るような声が耳に痛い。主に気に入られようと必死すぎて見るに耐えない。主も主で、もうこの女を甘やかす気でいるらしい。
……まあ、そうしていられるのも今のうちだけだ。戦場に出ると、小細工など一歳通用しないということを、嫌でもわからされる。戦で役に立たなければ、刀としての意味がない。それを理解する時が来るだろう
……やはり、こいつは気に食わない刀だ。
審神者に誉められたことよりも、無銘の小癪な態度が長谷部の思考を占領した。
無銘は自分を陥れ、主の寵愛を一身に受けようとする生意気な刀であること、そして、ある程度の敵意を持ってこちらを観察していることが、これで証明された。無銘の小細工や手練手管に、主はきっと気づかないだろう。
そして万が一、絶対にあり得ないが──近侍の座を盗み取られ、審神者の興味関心があの女に移ってしまうようなことがあれば、長谷部の本丸内での立場はなくなる。
これだけは、何としてでも防がなくてはならない。
無銘はどこからか取り出した扇で顔を隠し、目線だけで長谷部をじっとみている。目つきは先ほど変わらないが、おそらく隠された口元は笑ってはいないだろう。
二人が睨み合っていることに気づいていない審神者は、畳から腰を上げると、現代的なデスクの前に腰をかけた。
「さて……わたしはそろそろ政府に出す書類作ってくるね! 女の子の刀剣なんて、聞いたことのない事例だし、お上に判断を仰がないとね」
「書類仕事なら、俺が手伝いますよ」
「いや、いいよ。長谷部は無銘ちゃんに本丸を案内してあげて! ここも広いし、早く覚えて慣れないと不便だと思うし!」
「……主命とあらば」
「早く慣れるように頑張りますね」
「うんうん、多分政府の人の判断が下るまではここで暮らすことになるだろうし、人の体の使い方に慣れるためにも歩くのは大事だからね。じゃ、とりあえず本丸をお散歩しといで〜」
審神者は手をひらひらと振って、早速立ち上げたパソコンに視線を落とした。
そんな主に一礼してから退室し、執務室の扉を後ろ手で閉めると、無銘と長谷部は廊下に二人きりになった。
現在、内番を任された一部の刀以外はそれぞれ遠征任務に就いているため、本丸内は静けさに満たされていた。大所帯の本丸がここまで静かなのは、長谷部が鍛刀された本丸創立初期の頃以来かもしれない。平静な日であったはずなのに、予期せぬ来訪者が現れてしまったので、本来やるべき仕事の他に、新入りの世話というイレギュラーが発生してしまった。
仕事には余裕を持ってこなしている長谷部ではあったが、それでも予定を崩されることは好ましく思えなかった。誰それ構わず世話を焼きたがるお人好しの刀であれば、こんなことを考えないだろうが。
「……いくぞ」
「ええ」
板張りの廊下を歩くと、ミシミシと音が鳴った。 建物自体が老朽化しているわけではなく、そういう風に音が鳴る仕様だと、審神者が自慢げに言っていたことを思い出した。アインシュタインも気に入ったんだって、と胸を張っていたが、別に風流さのための物ではない。不審者対策である。
無銘はそのことを知ってか知らずか、音を立てないように努めている。その態度がわざとらしいので、長谷部は苛立った。
あえて、早足で歩く。無銘は女性にしては上背がある方だったが、やはり男性の体躯には追いつかない。彼女は小走りで長谷部の後を追う。この場に審神者がいたならば、無銘ちゃんに合わせてもっとゆっくり歩いてあげないと。なんてことを言うだろう。だが、ここに審神者はいない。プライドの高い無銘は、わざわざ謙って申し出ることはない。新入りだから、女の身だからと舐められないように必死なのだ。
同族だから、同じような性格をしているから、彼女の心根が手に取るようにわかる。自分も同じ立場であれば、同じように考えるだろう。だからこそ、その傲慢さをたたき折る時の快感に勝るものはない。
長谷部は内心愉悦を感じながら、廊下を歩いた。無銘の視線が背中につき刺さる。早くこいつと手合わせがしたい。あの自信に溢れた顔を叩き潰して、敗北の味を味合わせてやりたくて仕方がない。きっと、無銘も似たようなことを考えているはずだ。
「何をモタモタしている、そんな調子では日が暮れるぞ」
背中にわずかに殺気だった視線を感じたが、反論は返ってこなかった。
人が増えるたびに増改築を繰り返した本丸は、今や小さな村ほどの広さを持っている。平家造りなので上下の移動はないが、寝所と共有スペースとの間にはそれなりに距離があった。この本丸にくる刀剣たちにとって最初のネックとなるのが、この広さだ。増築を繰り返した結果、小迷宮のように入り組んだ作りになってしまっているのだ。迷った刀を探しに行った者がさらに行方知れずになる。といったことも珍しくなかった。
「恐らくお前は政府に引き渡されることになるだろうから、全ての場所を真剣に覚えなくても構わんが、迷って他の者の手を使わせるようなことがあれば、主にも迷惑がかかるからな。最低限、必要な施設の位置は脳に叩き込め」
「政府に? 主さまがそう仰られたんですか?」
「お前のような異分子、一先ず政府が検分するに決まっているだろう」
「フン、主さまがおっしゃったことでないのなら、貴方の妄想じゃないの。過去に類事例はあるのかしら、実例を出してくれませんか?」
「生意気な……!」
「エビデンスもないのに適当なことを言った長谷部が悪いんじゃない。主さまに言い付けておこうっと」
「古臭い刀のくせに、横文字を使って反論とはな」
「あら、最近の言葉も知らないようでは主さまとお話ができなくてよ。お爺さま」
「お、俺が爺だと……⁉︎」
脅そうとしたが逆に馬鹿にされてしまい、何か言い返そうとしたが言葉がうまく出てこなかった。
この本丸において、長谷部は審神者の次に初期刀と並んで近侍という、実質的なナンバーツーの座を占有していた。
建前では、審神者の前に全ての刀剣男士は平等であるというお題目があるが、それはあくまでも建前である。現場ではそういうわけにもいかない。誰かが指揮を取り、統率を取る。その役目を担っていた彼に、正面から楯突く者はいなかった。いくら本丸が生活を営む場であっても、あくまでここは戦いの場であり、実態は厳しい軍隊となんら変わらないからである。
それを無銘は、無視した。
無銘は扇を扇ぎながら、オホホホ、と古風なお嬢様めいた高笑いを披露する。憎たらしいほど、それが実に様になっている。
エビデンスの意味くらい、長谷部も理解していた。咄嗟に出てきた横文字に動揺しただけだ。無銘のバカにしたような態度に腑が煮え繰り返る。
お爺さまなどと今まで一度も言われたことがなかった。時代で言えば、三日月や源氏兄弟と同輩のお前の方が俺よりも婆だろうに、とは言えない。言えなかった。
さらに詭弁を捲し立てられて、負けることを恐れてしまった。
この本丸で近侍を務める自分が、新入りの女一人に負けを恐れるなど、あってはならないはずなのに……。
「先ほどわたくしを走らせた仕返しです。戦ごとはともかく、口先でわたくしを弄するなど、百年早くてよ!」
無銘は、鼻を明かしてやったとばかりに自慢げに微笑んだ。
二人の関係は犬となんら変わりない。新入りが、群れの中で上の地位にいる個体に喧嘩を売りに行ったのだ。
長谷部は主の命令の手前、所謂『教育的指導』を行うことができなかった。何か言い返して口論を始めることや、喧嘩を売られたと判断して私闘を始めることは禁止されている。本丸の運営において、なんのメリットもないからである。
それを理解しているので、長谷部はあえて何も反論しなかった。決して、爺呼ばわりされたことに衝撃を受けているからではない。
(──戦場に出ればその減らず口も叩けなくなるだろう)
先ほど政府に受け渡すなどと口走ったことは忘れ、長谷部の脳内には「こいつを戦いの場でわからせてやる」といった感情しか残っていなかった。新入りがいくら吠えて反抗してこようが、こちらの方が練度も切れ味も経験も上回っていると考えることで、溜飲を下げたのである。
「あ!」
不意に無銘が足を止めた。換気と景観のために開け放たれている縁側に出た瞬間だった。ここは特段説明することはないので素通りをしようとしたが、無銘が足を止めたので先に進めなくなった。
振り返って彼女の方を見ると、無銘はそこに座り込んでいた。
「おい、もう行くぞ」
「ちょっとだけ待っていてもらえませんか。この庭がとても綺麗なので少し見ていたいだけです」
「…………少しだけだ」
「長谷部も座って見てみればいいのに。あの籾の木にメジロがとまっていてよ、見えますわよね?」
この庭は、審神者の就任からまだ一月ほどの時期に造園されたものだった。
春は桜、夏は緑陽、秋は紅葉、冬は枯れ木に雪が積もって、四季折々に変わった表情が見れるように設計されている。審神者のポケットマネーで作られたそれは、当時の数少ない刀たちの意見も取り入れられて作成され、今でも彼らの手をかけて整備されている。
彼女の霊力によって維持されているので本来ならば手入れなどしなくても問題ないのだが、刀たちの情操教育のためと、単に暇な時は庭いじりをしていればいいという都合で、そういった仕事が好きな男士たちが勝手に世話をしている。
長谷部もその列に時折加わり、木を剪定したり、雑草を抜いたりと植物の世話を焼いていた。そうすると、審神者が喜ぶからそうしている。けれど、全く愛着がないわけではない。やはり、世話をした分だけ美しくなるからだろうか。
現在の景色は、春。つい三日前に桜が満開を迎えたばかりだった。庭の池の水面に風で散らされた花びらが浮かんでいる。
「風流ですね。歌でも詠んで主さまに差し上げようかしら」
「お前もその口か。喜べ、その手の文化を嗜むやつはここには多い」
「ふぅん。まあそれは追々で構いませんけれど」
「満足したか、ちょうどいい。庭から正門までの道を案内する。ついてこい」
「はーい……ねえ、このつっかけ大きすぎて脱そうなんですけど」
「…………後でお前のサイズを用意しておく。今は主のものをお借りしておけ」
「あなたって足が大きいんですね……主さまの履き物、可愛らしいけれどなんだかトゲトゲしてます。あっ、痛! 何ですのこれ⁉︎ ちょっと長谷部、歩くのが早いじゃないですか! 置いて行かないで……クソ痛ってぇんですけど! どうなってるんですの⁉︎」
「それが健康サンダルだ。足ツボも鍛錬だと思って耐えろ」
飄々としていた態度が嘘のように、生まれたての子鹿のように足を震わせている無銘を見て、長谷部はほくそ笑んだ。先ほど皮肉を言った罰にはちょうどいいだろうと思った。
「ああ、もう! わざとわたくしに履かせたでしょう!」
無銘はサンダルを元の場所に戻すと、先ほどの男性用の外履きを履いて走ってきた。長谷部は、そのナヨナヨとした足取りを見て、恐るほどの器ではないと確信を得た。しかしその評価はすぐに覆されることになる。
長谷部が本丸の正門付近を案内していた折に、遠征に出かけていた第三部隊が帰還してきた。彼らは新入りの顔を見るとワラワラと取り囲み、動物園の珍獣でも見るかのような目つきでジロジロと観察した。
女の付喪神とは、刀にしては珍しい。第三部隊は新しい物好きの男士が多い。こんな特異な現象を前にして、特に動揺することなく、まあそんなこともあるかと早速受け入れてしまった。柔軟性が高いことは良点だが、絶対に他の刀に言いふらすだろう。
主から内緒にしろと言われた訳ではないが、本丸内に混乱を生みかねないのでできれば隠しておきたかった。
「お前たち、いい加減さっさと湯浴みをしてこい。汗と埃で汚らしいぞ」
「長谷部、早速騎士面かよ。機動に違わず手が早いな」
「五月蝿い。主からこいつの世話をしろと言い付けられたからやっているだけだ。そら、こいつは見せ物じゃないんだ。早く散れ!」
「へし切長谷部、わたくしは別に構わないですよ。これから本丸で共に暮らす方々なんでしょう? お互いのことは、隠さず開示すべきです。主さまも、わたくしが皆さんと仲良くすることを望まれると思いますよ?」
先ほど人を小馬鹿にするような態度をとっていたのと同一人物とは思えなかった。無銘は人当たりの良い笑みを浮かべ、全員の自己紹介と激励を一身に受け、嬉しそうに機嫌良くしている。
「わたくし、実は元の主人も、誰の作かも全て覚えていないんです。皆さんの中にわたくしと縁のある方がいれば良いのですが……」
「おお、記憶喪失とは! それは大変だ。早く思い出すといいな」
「寛大なお気遣いに感謝いたします。早く記憶を取り戻して、主さまのお役に立ちたいです……!」
「うん、僕たちの中にもそういう子はいるから大丈夫だよ。まあ、思い出せるに越したことはないけれどね。うちの連中に色々聞いてみるといい。きっと快く協力してくれると思うよ」
「そうですね、後で伺ってみます。ご親切に、ありがとうございます」
「ううん、全然! 僕たち仲間なんだから、助け合うのは当然だよ」
…………嘘だ。
今目の前で喋っている女が、無銘であるなどと信じられなかった。審神者に媚びる時に甘ったるい声でもなく、長谷部に向ける小馬鹿にしたような声色でもなく、今までに聞いたこともないような声色を使っている。全くの別人のように見えて仕方がない。
現在の無銘は、利発で愛嬌のある女にしか見えなかった。どこにも裏がありません、と言わんばかりに、清純な少女を気取っている。
──理解できない。
小一時間程度一緒にいただけなのに、この人物の大まかな輪郭すら掴むことができない。どこまでが素面でやっていることなのか。
全ての動作が、まるで染みついたように自然なので、多重人格を疑うほどだった。あるいは、天才的な役者。刀としてどのように扱われたのか読めない相手というのは、非常に厄介であることを、身に染みて感じた。
無銘の挙動は、あまりにも自分と違いすぎた。
こちらは男で向こうは女なのだから当たり前と言われれば黙るしかないのだが、それでも決定的な何かが違っている。それを理解するためには、時間を要するだろう。だが、焦ることはない。
幸か不幸か、長谷部は審神者から無銘の世話を見るようにと言いつけられていた。この女の化けの皮を剥がすのは、こいつがここに馴染んでからの方が面白いだろう。それまで無垢で清らかな女でも、尻尾を振る犬でも、懐に潜り込んでくる猫でもなんでも、演じ続けていればいいのだ。
「無銘、ここで無駄足を踏んでいれば日が暮れる。行くぞ」
「ということなので、皆さんさようなら。また会いましょう」
貴人ぶった手つきでヒラヒラと手を振る。その様子を横目で見ながら、長谷部は何も言わずに馬小屋へと歩き出した。