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終わりの始まりは、あの女が隣の家に引っ越してきたことだった。
ミョウジ家がオレの家の隣の空き家にやってきた時のオレはまだ子供で、世界の悪意や不条理さにまだ気づいていなかった。その片鱗を周りの大人が敏感に感じ取って守ってくれる。まだそんな年齢だった。
だから、完璧に騙されてしまったのだ。
七月。
夏休み。
海が見える一軒家。
子供を一人連れた若い母親が家のインターホンを鳴らす。
「こんにちは、こちら三井さんのお宅ですよね。私、先日こちらに引っ越してきたミョウジと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
こちらつまらない物ですが、と百貨店の紙袋を差し出す女性の横で、レモン色のワンピースを着た子どもがつまらなさそうにもじもじと玄関の天井を見つめていた。
一目見て、なんだか生意気そうだな、と思った。
この年の子どもにありがちな元気を持て余している感じが全く感じられない。ただ親に手を引かれて、義務を履行しているだけ。
ちょっと見て、すぐにわかった。オレはこの子とは絶対に気が合わない。
多分向こうも同じようなことを考えたのか、目があってもすぐに逸らされた。
二つの瞳は「早く終わらないかなあ」と静かに訴えていた。
「ナマエ、三井さんにご挨拶して」
ナマエと呼ばれた少女は、母親の足にしがみつきながらオレを見下ろしていた。
伊勢丹の紙袋を受け取ったオレを、見たことのない生き物を観察するように丹念に観察すると、か細い声で「よろしくお願いします」と囁くように言葉を口にした。
初めて聞いた声は、夏の熱気に溶けていきそうなくらい、か細い。
「無愛想ですみません。うちの子、兄弟もいなくて、人見知りなもので……」
「寿、ほらあんたも挨拶しなきゃ」
「…………三井寿、です。よろしくお願いします」
オレの声を聞いたナマエは、特に反応らしい反応もなくツンと澄まして、先ほどと変わらず母親にベッタリとくっついている。
遠足で行った水族館でコバンザメという魚を見たことを思い出した。確か、大きい魚が食べた餌のおこぼれをもらって生きているとか、そんな説明を聞いたような気がする。
大きな生き物のそばで、その力に隠れるようにして生きている生き物もいる。それは面白いと思いました、というようなことを作文に書いた気がする。国語はそんなに得意ではないけど、それだけは先生に褒められて、結構嬉しかった。
逆光に照らされた親子を見て、そんなことをぼんやりと思い出した。
ナマエたち親子の背後には、観光客の寄りつかない荒れた海が広がっている。
耳を澄ませていれば、波の音すら聞こえてきそうだ。
日傘の下で、母親に守られるように側にもたれているナマエは、ヒョロい体付きにお嬢様みたいなファッションも相まってか、生きているというよりは、生かされていると言った方が似合っていた。
この陰から出たら死んでしまいます。そんな風に傘の影に隠れている。日焼けのあとが全く見えないから、多分、見た目通り運動はしないタイプ。昼休みは図書館で静かにしてる。得意教科は美術か音楽。それか国語──そこまで考えて、ちょっとだけクラスの女子の顔が浮かんだ。
無口で静かなタイプがいじめられるとかはないけど、多分うちの学校では浮くようなタイプだ。海の近くで太陽を浴びて走り回るようなやつが大多数だから、こんなに日に焼けてないナマエは物珍しがられるかもしれない。
じろり。
唐突に、二つの瞳がオレの目を見た。
すぐに逸らされたさっきとは違って、明確に目を覗き込むようにじっと見つめられる。
地面の蟻を見るような冷たい視線ののち、一瞬表情が大きく動いた。悪い意味で。
睨まれた。
えっ?
しかも、バカにしたように笑われた。
え、オレ何かした?
こっちが戸惑っていると、ナマエはすぐさま無表情に変わった。
…………少なくとも、表立って嫌われるようなことはしてないつもりだ。
まだ出会ってまだ五分も経ってないのに。やっぱこいつ、変わってるな。
「えぇっ⁉︎ お宅の息子さんと、うちの子って同い年なんですか!」
「そうです、この子が今小三で……」
「じゃあ、二学期から同じクラスかもしれませんね」
いつの間にか二人の母親は意気投合してしまったようで、子どもを置き去りにして会話に花を咲かせている。
「よかったらうちでお茶でもいかがです?」
「いいんですか? じゃあせっかくなのでお邪魔しようかな」
ナマエの母親は、白いレースのあしらわれた日傘を折りたたみながら娘に顔を向けた。帽子の影でこちらからは表情が見えない。
「お母さん、ちょっと三井さんとおしゃべりしてくるね」
「…………なんで?」
「ご近所の人と仲良くなるため」
「仲良くしないとダメなの」
「仲良しになると、いいことが多いの」
「ふーん、いいことってなに? わたし、友達いないけど元気だよ」
「…………いいから、あっちで寿くんと遊んでおいで」
「やだ!」
「わがままはやめなさい!」
母親に諭されてもなお、ナマエは顔を真っ赤にして拒否を示した。
まるでイヤイヤ期の子どもだ。ナマエの甲高い声が、蝉の鳴き声に紛れて静かな住宅街に響き渡る。
──こういうとき、どういう風に振る舞えばいいのかわからない。
ナマエはよほどオレと遊ぶのが嫌なのか──母親と離れるのが嫌なのか、必死で母親の手を掴んで嫌だ嫌だと駄々を捏ねている。
「じゃあナマエちゃんもお母さんと一緒に……」
「いいえ、その必要はありません。この子はわがままで育ってしまって……わたしが躾直さないといけないんです」
追い詰められたように、必死の形相で娘を引き剥がそうとするミョウジさんと、今にも泣き出しそうなナマエの二人は側から見れば虐待一歩手前くらいの危うい雰囲気で、異様なオーラを出している。平和な住宅街でここだけが修羅場と化している。
冷房がきいた室内と、蒸し暑い室内の狭間で親子が揉めている。
助けを求めるように母を見上げれば、困ったような顔をしてそれを見ているだけで、オレなんて全く視界に入っていなかった。
おそらく、「こういう事態」になるなんて全く考えていなかったのだろう。普段は頼りになる母親も、初対面の人間の諍いには無力だということを今初めて知った。
唐突に、オレがなんとかしなければいけないと思った。気がつくと、オレの右手はナマエの腕を掴んでいた。
「えっ……」
「オレ、遊んでくる!」
何かを叫ぶ母親二人の声を無視して、サンダル履きのできる限りの全力で走った。
ナマエはさしたる抵抗もしなかった。
その代わり、角を二回曲がったところで激しい声を上げてオレの腕を振り解いた。
思ったよりも力強い抵抗に、思わずたじろいでしまう。おそらく全力の力を振り絞ったのだろう。
振り返ると、獣のような声にならない声の後には、顔を下げて息切れを堪えるナマエの姿があった。
「悪ぃ……大丈夫だったか?」
掴んだ腕が思いの外細くて少し驚いた。思えば、女の子……の腕なんて掴んで走ったことはなかった。力加減、とかは大丈夫だっただろうか。女の子には乱暴にするなと言い聞かせられているから、今更になって心配になってきた。
「……っ………さいっ……てい…………走るの、早すぎ……」
額から汗を垂らしながら、こちらを睨みつけてくる。それが全然怖くなくて、思わず笑い飛ばしてしまいそうなくらいだった。こんなの、子犬に吠えられているようなもんだ。
……それにしても、体力がない。
家からここまで全力で走ったけど、五十メートルにも満たないような距離だった。ここまで肩で息をするくらいハードな運動だったとは思えない。
もやしっ子ってやつだ。多分スポーツとかやったことなんだろうな。
「まあ、鍛えてるからな」
「うっざ、キモ」
「そこまでいうことないだろ」
正直そこまではっきり言われると多少は傷つくけど、悪口を覚えたてのガキのちょっとした吠え声にわざわざ心を痛めていたら到底持たない。
母親にくっついていた時の方が賢く見えるやつだ。今のナマエは正直言って、さっきよりも幾分幼く見えた。
悪態をつきながら日陰に座り込んで、懐から取り出した白いハンカチで必死で額を拭っている。
ハンカチ持ち歩くとか、こいつも女子なんだな、とぼんやりと思う。
「なあ、せっかくだししばらく遊ぼうぜ。近くの遊べるとこ案内してやるよ」
「いらない。涼しいところがいい」
「まあ……暑いもんな。それもありか」
さっきまで息も絶え絶えだったのが嘘のように、すっと立ち上がったナマエはオレの後ろをちょこちょことついてきた。オレより身長が高いので、少しだけ威圧されているような気になる。
「ねぇ、まだ」
「まだって、まだ三分も経ってないぞ」
「…………」
照りつけるような太陽がアスファルトとオレたちを炙り続けている。黙りこくってしまったナマエと並んで住宅街をしばらく歩いていると、急に手を握られた。
「なっ、なんだよ」
「外出る時は、手を繋がないと……怒られる」
主語は抜いていたけれど、多分ナマエのお母さんのことだろう。
この年でまだお母さんと手ェ繋いでんのかよ、とは言えなかった。女子は親と仲いいやつが多いから、多分普通なんだ、と自分に言い聞かせる。
「…………オレ、手汗やばいかも」
「でも、離したら道わかんなくなる」
遠足以外で女子と手を繋いだことはなかった。前はこんなにぬるぬるするくらい手汗がひどくなったことはなかった。多分、暑いせいだ。
「あっつい」
ナマエは自分からくっついてきたくせに、そんな文句を言った。
「もう直ぐだから我慢しろよ」
「着いたらジュース買って! 強炭酸のやつ!」
「金持ってねえよ。お前、百円持ってね?」
「女子にたかるとか、キモ」
「キモくねえよ!」
思わず大きな声を出してしまう。
こんなに明確に悪口を言われるとは思っていなかった。オレが知らないだけで最近の子供って毒舌なんだろうか。それとも、こいつの口が極端に悪いだけか?
多分、後者なんだろうけど。
「キモい。マジでキモい。あんた終わってるね」
キモ、キモと言葉を覚えたインコのように叫ぶナマエに反論している間に近所のスーパーまで来た。徒歩五分の距離なのに、一時間近くかかったような気分だ。
「あぁー生き返るー」
自動ドアを通ると、過剰なくらいにキンキンに冷えた冷風が目一杯に満ちていた。大量に設置されたカートと買い物かごを横目に、隣のナマエを見る。
「おっさんみたい、キモ」
道端のゴミでも見るような目でオレを見ていた。
「あぁ? お前と同い年だぞ」
「このくらいの冷房で生き返るとか、マジ素人すぎてキモい。わたしレベルになると、冷凍コーナーの風じゃないと満足できない」
極端なドヤ顔。
「盛ってねえか?」
「フン……」
なぜか誇らしげに胸を張るナマエを置いて、オレはフードコートまで足を運ぶ。
「お金ないのに、いいの?」
「座ってるだけのやつも結構いる。人がいないからいいんだよ」
「お母さんが見たら、怒るよ」
「うちの親は怒んねえよ。ナマエの親って結構厳しい系?」
「うーん」
ナマエは考え込むように少し俯いた。
「わっかんない」
「わからねえのかよ。自分の親だろ?」
「お母さん、普段はあんまり家にいないから」
ミョウジ家の家庭環境が、少しだけわかってきた気がする。
マイペースの化身みたいなこいつに、親が手を焼いている様子が目に見える。
「へー、お前、鍵っ子ってやつ?」
「わたし、鍵じゃない……」
「あー、違う違う。鍵っ子っていうのは物の例えで……」
「……どーでもいい」
ナマエはそれだけ言うと、靴を脱いでソファの上で体育座りをした。
対話拒否。
「…………」
こっちをみないでずっと自分の膝だけを見つめている。
「なぁ」
「…………急に話しかけないでよ、キモい」
「お前、オレのこと嫌いなのか?」
「…………」
再び、沈黙。
こいつ自身が自分で「友達がいない」と言っていた理由が身にしみて理解できた。そして、こいつのお母さんがちょっとヒステリーなくらい厳しく当たる理由も。
「嫌いとか、好きとか、わかんない」
ラブソングの歌詞みたいなことを言い出すナマエに、思わず吹き出しそうになった。
一応本人も真剣に悩んでることかもしれないから、茶化さずに答えた方がいい、と思う。
「わかんないって……お前、好きな物とか、趣味とか、ないのかよ……」
「なんで言わないといけないわけ?」棘のある口調「そんなこと言っても意味ないじゃん」そう言うと、再びナマエは顔を膝に埋めた。ダンゴムシみたいに丸まって、凝り固まったまま動かない。
「オレがナマエのことを知りたいから」
ビク、とナマエの体が震える。
「……知って、どうするの」
「仲良くなれる」
「バッカみたい……」
「なんとでも言っとけ。それにな、お前が拒否しても無駄だからな。うちの親のコミュ力を舐めんなよ! ぜーったいお前んちのお母さんと仲良くなって、ママ友ランチとかし始めるぜ。そうなったらオレたちは嫌でも一緒に遊べ、とか言われて近所の公園とかに放り出される。その時に、今日みたいにずっと二人きりでいて、つまんねえことしてたら最悪だ。お前も、オレも……」
我ながら必死に、相手にも伝わるように言葉を選んだつもりだった。
「……必死すぎでしょ」
顔を上げてオレを嘲笑うように笑みを浮かべるナマエは、わずかに頬を引き攣らせていた。
引いている……っていうか、引き笑い?
「うるっせえな」オレは思わず頭を掻きながら反論する「で、お前はこれを聞いても動かないのかよ」
「まあ、一理なくもないけど……しょうがないし、付き合ってあげなくも、ない。その代わり、一つ条件がある」
「……んだよ」
真面目な顔つきになったナマエは、顔の前で手を組むと、交渉の場にやってきたサラリーマンよろしくおちついた声で喋り出した。
「絶対に、運動はしたくない。あんた見るからにスポーツ少年って感じがするし、さっきも無理やり走らされたし」ナマエは一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。「汗をかくようなことを強要してきてきそうだから、最初に言っとく」
「……で?」
「わたしは見ての通りか弱い乙女だから、あんたといる時どうするかはこっちが決める」
自称・か弱い乙女は自分の胸をポンと叩いた。それは言動と矛盾してないか?
「待て。それは無理だ」
「じゃあ、五回に一回はそっちが決めていい」
「それが譲歩のつもりかぁ? お前マジでわがまますぎるだろ」
「交渉ってのはこうやってやるんだよ。まあ、覚えとけば? 三回に一回にまけたげる」
再びドヤ顔でそんなことを言うナマエに、文句を言う気力を全て吸い取られてしまう。
こいつが集団生活においてどんなふうに扱われているか、いやでも予想ができてしまう。
「三井寿、あんたがわたしと仲良くしたいんだったら、わたしの言うことは聞いておいた方がいいと思うよ」
「はぁ?」
「だってわたし──社会的弱者だから」
ミョウジ家がオレの家の隣の空き家にやってきた時のオレはまだ子供で、世界の悪意や不条理さにまだ気づいていなかった。その片鱗を周りの大人が敏感に感じ取って守ってくれる。まだそんな年齢だった。
だから、完璧に騙されてしまったのだ。
七月。
夏休み。
海が見える一軒家。
子供を一人連れた若い母親が家のインターホンを鳴らす。
「こんにちは、こちら三井さんのお宅ですよね。私、先日こちらに引っ越してきたミョウジと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
こちらつまらない物ですが、と百貨店の紙袋を差し出す女性の横で、レモン色のワンピースを着た子どもがつまらなさそうにもじもじと玄関の天井を見つめていた。
一目見て、なんだか生意気そうだな、と思った。
この年の子どもにありがちな元気を持て余している感じが全く感じられない。ただ親に手を引かれて、義務を履行しているだけ。
ちょっと見て、すぐにわかった。オレはこの子とは絶対に気が合わない。
多分向こうも同じようなことを考えたのか、目があってもすぐに逸らされた。
二つの瞳は「早く終わらないかなあ」と静かに訴えていた。
「ナマエ、三井さんにご挨拶して」
ナマエと呼ばれた少女は、母親の足にしがみつきながらオレを見下ろしていた。
伊勢丹の紙袋を受け取ったオレを、見たことのない生き物を観察するように丹念に観察すると、か細い声で「よろしくお願いします」と囁くように言葉を口にした。
初めて聞いた声は、夏の熱気に溶けていきそうなくらい、か細い。
「無愛想ですみません。うちの子、兄弟もいなくて、人見知りなもので……」
「寿、ほらあんたも挨拶しなきゃ」
「…………三井寿、です。よろしくお願いします」
オレの声を聞いたナマエは、特に反応らしい反応もなくツンと澄まして、先ほどと変わらず母親にベッタリとくっついている。
遠足で行った水族館でコバンザメという魚を見たことを思い出した。確か、大きい魚が食べた餌のおこぼれをもらって生きているとか、そんな説明を聞いたような気がする。
大きな生き物のそばで、その力に隠れるようにして生きている生き物もいる。それは面白いと思いました、というようなことを作文に書いた気がする。国語はそんなに得意ではないけど、それだけは先生に褒められて、結構嬉しかった。
逆光に照らされた親子を見て、そんなことをぼんやりと思い出した。
ナマエたち親子の背後には、観光客の寄りつかない荒れた海が広がっている。
耳を澄ませていれば、波の音すら聞こえてきそうだ。
日傘の下で、母親に守られるように側にもたれているナマエは、ヒョロい体付きにお嬢様みたいなファッションも相まってか、生きているというよりは、生かされていると言った方が似合っていた。
この陰から出たら死んでしまいます。そんな風に傘の影に隠れている。日焼けのあとが全く見えないから、多分、見た目通り運動はしないタイプ。昼休みは図書館で静かにしてる。得意教科は美術か音楽。それか国語──そこまで考えて、ちょっとだけクラスの女子の顔が浮かんだ。
無口で静かなタイプがいじめられるとかはないけど、多分うちの学校では浮くようなタイプだ。海の近くで太陽を浴びて走り回るようなやつが大多数だから、こんなに日に焼けてないナマエは物珍しがられるかもしれない。
じろり。
唐突に、二つの瞳がオレの目を見た。
すぐに逸らされたさっきとは違って、明確に目を覗き込むようにじっと見つめられる。
地面の蟻を見るような冷たい視線ののち、一瞬表情が大きく動いた。悪い意味で。
睨まれた。
えっ?
しかも、バカにしたように笑われた。
え、オレ何かした?
こっちが戸惑っていると、ナマエはすぐさま無表情に変わった。
…………少なくとも、表立って嫌われるようなことはしてないつもりだ。
まだ出会ってまだ五分も経ってないのに。やっぱこいつ、変わってるな。
「えぇっ⁉︎ お宅の息子さんと、うちの子って同い年なんですか!」
「そうです、この子が今小三で……」
「じゃあ、二学期から同じクラスかもしれませんね」
いつの間にか二人の母親は意気投合してしまったようで、子どもを置き去りにして会話に花を咲かせている。
「よかったらうちでお茶でもいかがです?」
「いいんですか? じゃあせっかくなのでお邪魔しようかな」
ナマエの母親は、白いレースのあしらわれた日傘を折りたたみながら娘に顔を向けた。帽子の影でこちらからは表情が見えない。
「お母さん、ちょっと三井さんとおしゃべりしてくるね」
「…………なんで?」
「ご近所の人と仲良くなるため」
「仲良くしないとダメなの」
「仲良しになると、いいことが多いの」
「ふーん、いいことってなに? わたし、友達いないけど元気だよ」
「…………いいから、あっちで寿くんと遊んでおいで」
「やだ!」
「わがままはやめなさい!」
母親に諭されてもなお、ナマエは顔を真っ赤にして拒否を示した。
まるでイヤイヤ期の子どもだ。ナマエの甲高い声が、蝉の鳴き声に紛れて静かな住宅街に響き渡る。
──こういうとき、どういう風に振る舞えばいいのかわからない。
ナマエはよほどオレと遊ぶのが嫌なのか──母親と離れるのが嫌なのか、必死で母親の手を掴んで嫌だ嫌だと駄々を捏ねている。
「じゃあナマエちゃんもお母さんと一緒に……」
「いいえ、その必要はありません。この子はわがままで育ってしまって……わたしが躾直さないといけないんです」
追い詰められたように、必死の形相で娘を引き剥がそうとするミョウジさんと、今にも泣き出しそうなナマエの二人は側から見れば虐待一歩手前くらいの危うい雰囲気で、異様なオーラを出している。平和な住宅街でここだけが修羅場と化している。
冷房がきいた室内と、蒸し暑い室内の狭間で親子が揉めている。
助けを求めるように母を見上げれば、困ったような顔をしてそれを見ているだけで、オレなんて全く視界に入っていなかった。
おそらく、「こういう事態」になるなんて全く考えていなかったのだろう。普段は頼りになる母親も、初対面の人間の諍いには無力だということを今初めて知った。
唐突に、オレがなんとかしなければいけないと思った。気がつくと、オレの右手はナマエの腕を掴んでいた。
「えっ……」
「オレ、遊んでくる!」
何かを叫ぶ母親二人の声を無視して、サンダル履きのできる限りの全力で走った。
ナマエはさしたる抵抗もしなかった。
その代わり、角を二回曲がったところで激しい声を上げてオレの腕を振り解いた。
思ったよりも力強い抵抗に、思わずたじろいでしまう。おそらく全力の力を振り絞ったのだろう。
振り返ると、獣のような声にならない声の後には、顔を下げて息切れを堪えるナマエの姿があった。
「悪ぃ……大丈夫だったか?」
掴んだ腕が思いの外細くて少し驚いた。思えば、女の子……の腕なんて掴んで走ったことはなかった。力加減、とかは大丈夫だっただろうか。女の子には乱暴にするなと言い聞かせられているから、今更になって心配になってきた。
「……っ………さいっ……てい…………走るの、早すぎ……」
額から汗を垂らしながら、こちらを睨みつけてくる。それが全然怖くなくて、思わず笑い飛ばしてしまいそうなくらいだった。こんなの、子犬に吠えられているようなもんだ。
……それにしても、体力がない。
家からここまで全力で走ったけど、五十メートルにも満たないような距離だった。ここまで肩で息をするくらいハードな運動だったとは思えない。
もやしっ子ってやつだ。多分スポーツとかやったことなんだろうな。
「まあ、鍛えてるからな」
「うっざ、キモ」
「そこまでいうことないだろ」
正直そこまではっきり言われると多少は傷つくけど、悪口を覚えたてのガキのちょっとした吠え声にわざわざ心を痛めていたら到底持たない。
母親にくっついていた時の方が賢く見えるやつだ。今のナマエは正直言って、さっきよりも幾分幼く見えた。
悪態をつきながら日陰に座り込んで、懐から取り出した白いハンカチで必死で額を拭っている。
ハンカチ持ち歩くとか、こいつも女子なんだな、とぼんやりと思う。
「なあ、せっかくだししばらく遊ぼうぜ。近くの遊べるとこ案内してやるよ」
「いらない。涼しいところがいい」
「まあ……暑いもんな。それもありか」
さっきまで息も絶え絶えだったのが嘘のように、すっと立ち上がったナマエはオレの後ろをちょこちょことついてきた。オレより身長が高いので、少しだけ威圧されているような気になる。
「ねぇ、まだ」
「まだって、まだ三分も経ってないぞ」
「…………」
照りつけるような太陽がアスファルトとオレたちを炙り続けている。黙りこくってしまったナマエと並んで住宅街をしばらく歩いていると、急に手を握られた。
「なっ、なんだよ」
「外出る時は、手を繋がないと……怒られる」
主語は抜いていたけれど、多分ナマエのお母さんのことだろう。
この年でまだお母さんと手ェ繋いでんのかよ、とは言えなかった。女子は親と仲いいやつが多いから、多分普通なんだ、と自分に言い聞かせる。
「…………オレ、手汗やばいかも」
「でも、離したら道わかんなくなる」
遠足以外で女子と手を繋いだことはなかった。前はこんなにぬるぬるするくらい手汗がひどくなったことはなかった。多分、暑いせいだ。
「あっつい」
ナマエは自分からくっついてきたくせに、そんな文句を言った。
「もう直ぐだから我慢しろよ」
「着いたらジュース買って! 強炭酸のやつ!」
「金持ってねえよ。お前、百円持ってね?」
「女子にたかるとか、キモ」
「キモくねえよ!」
思わず大きな声を出してしまう。
こんなに明確に悪口を言われるとは思っていなかった。オレが知らないだけで最近の子供って毒舌なんだろうか。それとも、こいつの口が極端に悪いだけか?
多分、後者なんだろうけど。
「キモい。マジでキモい。あんた終わってるね」
キモ、キモと言葉を覚えたインコのように叫ぶナマエに反論している間に近所のスーパーまで来た。徒歩五分の距離なのに、一時間近くかかったような気分だ。
「あぁー生き返るー」
自動ドアを通ると、過剰なくらいにキンキンに冷えた冷風が目一杯に満ちていた。大量に設置されたカートと買い物かごを横目に、隣のナマエを見る。
「おっさんみたい、キモ」
道端のゴミでも見るような目でオレを見ていた。
「あぁ? お前と同い年だぞ」
「このくらいの冷房で生き返るとか、マジ素人すぎてキモい。わたしレベルになると、冷凍コーナーの風じゃないと満足できない」
極端なドヤ顔。
「盛ってねえか?」
「フン……」
なぜか誇らしげに胸を張るナマエを置いて、オレはフードコートまで足を運ぶ。
「お金ないのに、いいの?」
「座ってるだけのやつも結構いる。人がいないからいいんだよ」
「お母さんが見たら、怒るよ」
「うちの親は怒んねえよ。ナマエの親って結構厳しい系?」
「うーん」
ナマエは考え込むように少し俯いた。
「わっかんない」
「わからねえのかよ。自分の親だろ?」
「お母さん、普段はあんまり家にいないから」
ミョウジ家の家庭環境が、少しだけわかってきた気がする。
マイペースの化身みたいなこいつに、親が手を焼いている様子が目に見える。
「へー、お前、鍵っ子ってやつ?」
「わたし、鍵じゃない……」
「あー、違う違う。鍵っ子っていうのは物の例えで……」
「……どーでもいい」
ナマエはそれだけ言うと、靴を脱いでソファの上で体育座りをした。
対話拒否。
「…………」
こっちをみないでずっと自分の膝だけを見つめている。
「なぁ」
「…………急に話しかけないでよ、キモい」
「お前、オレのこと嫌いなのか?」
「…………」
再び、沈黙。
こいつ自身が自分で「友達がいない」と言っていた理由が身にしみて理解できた。そして、こいつのお母さんがちょっとヒステリーなくらい厳しく当たる理由も。
「嫌いとか、好きとか、わかんない」
ラブソングの歌詞みたいなことを言い出すナマエに、思わず吹き出しそうになった。
一応本人も真剣に悩んでることかもしれないから、茶化さずに答えた方がいい、と思う。
「わかんないって……お前、好きな物とか、趣味とか、ないのかよ……」
「なんで言わないといけないわけ?」棘のある口調「そんなこと言っても意味ないじゃん」そう言うと、再びナマエは顔を膝に埋めた。ダンゴムシみたいに丸まって、凝り固まったまま動かない。
「オレがナマエのことを知りたいから」
ビク、とナマエの体が震える。
「……知って、どうするの」
「仲良くなれる」
「バッカみたい……」
「なんとでも言っとけ。それにな、お前が拒否しても無駄だからな。うちの親のコミュ力を舐めんなよ! ぜーったいお前んちのお母さんと仲良くなって、ママ友ランチとかし始めるぜ。そうなったらオレたちは嫌でも一緒に遊べ、とか言われて近所の公園とかに放り出される。その時に、今日みたいにずっと二人きりでいて、つまんねえことしてたら最悪だ。お前も、オレも……」
我ながら必死に、相手にも伝わるように言葉を選んだつもりだった。
「……必死すぎでしょ」
顔を上げてオレを嘲笑うように笑みを浮かべるナマエは、わずかに頬を引き攣らせていた。
引いている……っていうか、引き笑い?
「うるっせえな」オレは思わず頭を掻きながら反論する「で、お前はこれを聞いても動かないのかよ」
「まあ、一理なくもないけど……しょうがないし、付き合ってあげなくも、ない。その代わり、一つ条件がある」
「……んだよ」
真面目な顔つきになったナマエは、顔の前で手を組むと、交渉の場にやってきたサラリーマンよろしくおちついた声で喋り出した。
「絶対に、運動はしたくない。あんた見るからにスポーツ少年って感じがするし、さっきも無理やり走らされたし」ナマエは一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。「汗をかくようなことを強要してきてきそうだから、最初に言っとく」
「……で?」
「わたしは見ての通りか弱い乙女だから、あんたといる時どうするかはこっちが決める」
自称・か弱い乙女は自分の胸をポンと叩いた。それは言動と矛盾してないか?
「待て。それは無理だ」
「じゃあ、五回に一回はそっちが決めていい」
「それが譲歩のつもりかぁ? お前マジでわがまますぎるだろ」
「交渉ってのはこうやってやるんだよ。まあ、覚えとけば? 三回に一回にまけたげる」
再びドヤ顔でそんなことを言うナマエに、文句を言う気力を全て吸い取られてしまう。
こいつが集団生活においてどんなふうに扱われているか、いやでも予想ができてしまう。
「三井寿、あんたがわたしと仲良くしたいんだったら、わたしの言うことは聞いておいた方がいいと思うよ」
「はぁ?」
「だってわたし──社会的弱者だから」
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