未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
四天宝寺神話体系
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
大学二回生になり、大阪での暮らしにも順応するようになってきた。二回生になったということは、私が東京の高校から大阪の大学に進学して、高校時代に受けた授業の延長をするかのように宗教学と格闘し、テスト前には図書館に籠るような生活を送るようになって二年が経過した、ということだ。
高校時代から全く成長せず、好きなことはぐうたらと昼寝とネットサーフィン。そんな怠惰な私がなんとか留年せずに進学できたのは奇跡だ。
私は怠惰であるがプライドはある。先輩に媚び諂って過去問をもらったり、他人に泣きついて課題を手伝ってもらったり、ということは大嫌いだ。他人に頭を下げるくらいなら死んだ方がマシだし、恥ずかしい過去をバラすくらいなら死を選ぶ。武士道は嫌いだが、恥を晒すくらいなら死ぬ、という考えには共感を覚える。
少なくとも中学時代、いや小学生時代はこんな性格ではなかったはずだ。自分の性根が曲がりに曲がり、嫌いな人間は自分よりも幸せな人間であると胸を張って言うようになるまでの自分は恐ろしいほどに無垢で、可愛らしく、まるで天使のようだったと断言できる。昔のアルバムの無邪気な笑顔がそれを物語っている。しかしそれは、中学生のある日を境に無表情に変わってしまった。そんな己の性格を改めることをよしとせず、意地を貼りまくって口に出すのもおぞましいような失敗をした高校時代。その暗黒の日々を払拭せんと大学入学時に奮起したものの失敗に終わった話。語るに値しない数々の暗黒の記録を上書きしようと色々暴れた記録が、今から話す物語である。
途中で聞き苦しい箇所や一部脚色を加えた場面があることは事前に謝罪しよう。
ただ、私なりにちゃんと考えての行動だということだけは頭に入れて、この話を聞いて欲しいのだ。
話は、私が大阪の四天宝寺大学に入学した時から始まる。多くの進学希望者がそうであるように、高校三年という青春のど真ん中を大学受験に捧げた私は、ウキウキとした気分入学式を終え、その足で講堂から出て行った。講堂から生協までの道は、普段は立派な木々が建ち並ぶ広い道で、前日に訪れた際はひらひらと舞い踊る桜の花びらを見つめては、これからの生活に思いを馳せることができるようなセンチメンタルな場所であったのだが、今は桜を見上げる余裕などはなく、新入生とその倍以上はいるであろう上級生でもみくちゃになっていた。
入学式が終わってからの一週間は、サークルや部活といった学生の集団が、無垢な一年生を勧誘しようと必死になる。あの手この手で新入生を釣ろうとお祭り騒ぎの乱闘を繰り広げる恐ろしい一週間は、通称「フィッシング・ウィーク」と呼ばれているらしく、ビラを撒き餌に釣り人たちが激しくぶつかり合っていた。私はそれに遭遇したのである。
そんな騒乱の中で人をかき分けて進み、押しつけられたビラを受け取り、寮に戻って気になるものを選別してみると、以下のものが残った。
「映画制作サークル ノースキャロライナ」
「園芸サークル ナルキッソス」
「ボランティアサークル まんまる」
「お笑い同好会」
そんな中で私が目を奪われたのは、ナルキッソスという縁起の悪い名前の園芸サークルだった。女子が書いたのだろうか可愛らしい手書きのチラシには、「緑の手をもつ人大募集!」というそんな人滅多にいないだろ、と突っ込みたくなるようなコピーが掲載されていたが、それをみた瞬間、私の脳内にはあるイメージが浮かんできた。それは、バラの庭園を細身の美しい青年と私が横並びで歩いている光景である。花を愛する人間に悪い人間はいない。それに、高校時代は園芸部で花壇の世話をしていた私の血が騒いだ。勢いのまま新歓に参加し、部員になりますと声高々に宣言した私を引っ叩きたい。そんな幻想は見事に打ち砕かれた。
ナルキッソスに入部した私を待ち受けていたのは偏りまくった男女比と、倦怠的な雰囲気だった。およそ土をいじったことのないような人間が集まった園芸部には、はちゃめちゃなイケメンである白石くんと、白石くん目当てで集まった狩人たちの群れが形成されていた。新歓にいた先輩たちは全員まとめて消えており、女子に囲まれても爽やかさを存分に発揮する白石くんと、そんな白石くんにガッつく猛犬たちを横目に、私はベラドンナやらドクダミやらと戯れていた。華やかさとは無縁である。わざわざ早朝に起きては水をやりに行き、時折病院などに花を贈呈するような活動を送っていた。高校時代と全く変わらない。私はひたすらに健全で地味で硬派な女子大生になった。
同じサークルの女学生と交流らしい交流をすることもなく、花の世話をすることで孤独を紛らわしていた。まず第一に話が合わない。それに、私はそれなりに植物に関する知識があるので白石くんと話す機会が多かった。彼がいる間はそれなりに平和であったが、それ以外の時間は、筆舌にしがたい重い空気が流れた。白石くんと話す回数はそれなりにあったが、彼の爽やか善人オーラに飲まれてしまい、結局プライベートな話をすることはなかった。人間らしい会話を行うことは困難を極めた。
時は流れて二回生。私といえば、野菜の収穫や畑の整備を行い、文学部なのに文学よりも農業に詳しくなってしまった。いますぐ農学部へと編入すべきだろうか。二回生になり、白石くん目当ての女子は減ってしまった。理由は私と白石くんが農家並みに園芸栽培に熱をあげてしまったからである。最初の活動は、キャンパス近くの花壇の整備だけだったのが、今や農学部の余った畑をお借りして、野菜の栽培まで行ってしまったのだから仕方ない。朝早くから土まみれになり、ミミズと戯れるようなサークルに、男目当ての狩人は疲れ果てて撤退してしまった。男女の比率はいい塩梅になり、純粋に農業を楽しむ私たちは、今時珍しい超健全な異性交友を続けている。PTAからは文句のつけようのないクオリティである。悲しいことに、食費を浮かせるために収穫した野菜で料理をしたから自炊の腕は上がったのだが、それを振舞う相手がいなかった。
あの暗黒の一回生から、変わったことがある。まず、忍足という文学部の友人がサークルメンバーとして増えた。私たちは選択している授業が結構被っているので、大学内ではだらだらとつるんで過ごしている。この忍足という男、最初見たときは面食いである私の下心がびびっと動いたのだが、「なぁ、悪いんやけど消しゴム貸してくれへん?」という一声で恋愛対象から退いた。気怠げな雰囲気とどこか人を寄せ付けないオーラ、でも人当たりはよくて話や趣味も似通っているこの男は、私の大切な腐れ縁である。
「ミョウジさんはほんまに野菜育てんのうまいよなぁ、実家は農家やったりするん?」
白石くんは優しい。私みたいな人間に優しいからみんな勘違いしてしまう。この前、聞いてしまったのだが、白石くんは自分目当てにすり寄ってくる女の子が苦手なんだそうだ。直接忍足に話しているところを聞いてしまったので間違いではない。幻聴ではないのだ。
それでも白石くんは私に優しい。それどころか、全人類に優しいのだ。苦手だという白石くん目当ての女の子にも優しかった。優しかった上に爽やかだった。どんな親御さんに育てられたらそうなるんだろう、と私は思考を巡らせた。
「いやぁ、うちの親はただの噺家と高校教師だよ。これらのスキルは全て高校時代に培ったものなので遺伝的なものではないかな」
白石くんは中学の時からこういうことをしていたらしいから、彼の方が先輩である。
「噺家?ミョウジさんの家ってすごいんやな」
「でもお母さんは教師だし、噺家って言ってもそんなに有名じゃないよ。テレビとか出なくて地方で営業してるだけだし」
長靴を履き、雑草をぶちぶちと抜きながらでも白石くんはイケメンだった。私はそんな白石くんの隣で軍手をはめて、スコップで地面をならしていた。照れちゃうじゃないか。
「んー、無駄のない作業……エクスタシーやな」
「何のこと言ってんの」
何を隠そう、私は白石くんのことが好きなのだ。いつ好きになったかなんて忘れた。気がつけば、白石くんを目で追うようになり、話しかけられるとドキドキして、寝る前にはホースで水を撒いている白石くんの顔や、温室で毒草を育てる白石くんの立ち姿を思い浮かべるようになった。授業中に先生が、ユダの裏切りについての話をしていても、フランス語の厄介な文法の教科書をめくっていても、白石くんと何を話そうかということだけを考えていた。ああ、白石くん……好きだ。心なしか、中高時代に好きだった俳優の顔も白石くんに似ている気がする。俳優の写真集のヌードを見ても白石くんのことしか考えられなくなった。恋は熱病だと言うが、これは病気である。
しかし、先ほども述べた通り、白石くんは自分に好意を寄せてすり寄ってくる人が苦手なのだ。つまり、私からアプローチしてはいけない。ということは、白石くんから好きになってもらわない限り、私に勝ち目はない。そもそも異性として意識されているかすら怪しい。前に、「ミョウジさんと話してると、男友達とおるみたいで落ち着くわ」と言われた。つまり、そういうことだ。
本当は白石くんには私の芋くさい長靴ジャージ姿ではなく、百貨店で買ったワンピースを着た姿を見せたいのだが、それは不可能なことだ。私の手持ちの洋服の中にそんないいものはないし(親が買ってきた服か、ユニクロとしまむらのセールで買った無難なやつくらいしかない)、大学に行くのには汚れていい服しか着ていかない。サークル活動中だと尚更だ。いい服を買おうにも金はない。アルバイトで稼いだ金は学費と下宿代に消えていく。忍足に泣きついて借りた2万円は教科書代で消えてしまった。
「ミョウジ、こんなんでええんか?」
「あーうん、それでいいよ。15cmくらい間開けて植えといて」
忍足は私の隣にすわり、部費で買ったトマトの苗を植えていった。順調に育てば夏には立派に実って、美味しいトマトが食べれる。私の食費も浮く。
「まさか、忍足くんと同じ大学行くようになるなんて考えとらんかったわ」
「まぁ高校まで東京いとったしな」
「エスカレーターで行かんと外部受験したんやな、意外や」
「もともとこっちで就職しよう思うとったんや」
忍足と白石くんは中学時代の部活で繋がりがあったらしく、それなりに仲がいい。私と忍足はそれなりに仲がいい。というわけで私と白石くんは忍足を共通の友人と置いて三人でいることが多くなった。
「忍足って高校どこだったっけ」
「氷帝や」
「氷帝かぁ、あそこってすごい生徒数多かったよね」
「忍足くん、テニス部のレギュラーやったんやで」
「え、普通にすごいじゃん」
「結局全国優勝はせんかったけどな」
「いやぁ、忍足くんのプレイはすごいし、氷帝自体もめっちゃ強い学校や。そういえば、ミョウジさんは高校どこやったっけ」
「え!えっとね、私は聖ルドルフだよ」
「あー、聖ルドか、あそこもめっちゃテニスに力入れとったよな。あそこの選手と合宿行った事あるで」
「そうなんだ、私あんまり運動部とか興味なくってさ、うちの部活が大会でどこまで行ったとか覚えてないよ」
えー、嘘嘘。白石くん私の母校知ってるの?東京の学校まで把握している白石くんはすごい。まぁ、テニスが強い学校をテニス部員が把握しているのは当たり前だろう。浮かれた心を冷やすように、目の前のトマトの苗に意識を集中させる。
「そうやったん?」
「ミョウジやったら納得やわ」
「納得って何さ納得って」
「ミョウジは部活とかそういうのできゃあきゃあいうタイプやないやろな、と思っただけや。他意はないで」
「忍足が言うと、ちょっと胡散臭いな」
「なんや、人を悪くいいよって」
「ごめんって!」
「っははは!なんや二人して!漫才みたいやな!」
白石くんが急に腹を抱えて笑い出した。思わずギョッとする。どうしよう。こんな風に忍足との馬鹿みたいな会話を聞かれて、下品な子だと思われないだろうか。もう恥ずかしくて穴があったら入りたい。ニヤニヤする忍足を押したが、見た目に反して体幹はしっかりしているようでびくともしなかった。
「漫才やって」
「うっ、そんなつもりじゃ」
「あーおもろ。ミョウジさんめっちゃツッコミ鋭かったやん。めっちゃ意外やわ」
「そうなん?俺の前やといつもこうやで」
「白石くん、忍足の言うことは気にしないでよ。さぁ、全部植えちゃおう」
「なんやミョウジ、白石の前で猫被っとったんか」
「忍足!」
さっきから白石くんはずっとニコニコ笑って私たちのやりとりを見守っている。私は一年間必死に被ってきた化けの皮があっさり剥がされたことを悔しく思った。だが、白石くんが大口開けて笑っているところを初めて見ることができたので良かったとしよう。
「ミョウジ、白石の前やったら緊張しぃになんねん」
「えっ、俺なんかした?」
少し困ったような表情を浮かべ、白石くんは私の目を見つめる。機嫌を伺うような、反省している大型犬のような顔にギュッと心臓が痛くなる。
「白石くんは何もしてないよ!その……私がちょっと気にしすぎなだけというか、まぁ、白石くんは気にしないで。本当に」
「そうなん?俺ら結構付き合い長いし、そんな気を使ってくれんでもええよ」
あぁ、ダメだ。白石くんに気を使わせてしまった。ふわりと、肖像画の中の貴婦人のように微笑む白石くんに、今すぐ五億円を進呈したい。
「ミョウジはな、白石と仲良うしたいんやけどカッコ良すぎて無理~って、前言っとったわ。なぁ、前ファミレス行った時そんな会話したやろ?覚えとるか?」
「あぁ!?」
「カッコいいって……そんなん照れるわ!ミョウジさんそんな風に見てくれてたん?」
あー、もうこんなの言われ慣れてるんじゃないの。照れないでよ、こっちが恥ずかしい。
「いやだって、白石くん男前じゃん!忍足もそう思うよね!?」
「うんうん、そうやなぁ。確かに男前やなぁ」
「ほら!白石くんがカッコいいのはもうみんな思ってるから!」
褒め殺されて、心なしか顔が赤い白石くんを見て、何だか得した気分になった。
畳に寝転がって文庫本を読んでいた。中身は小説。「二人のロッテ」は私の小学生の時からの愛読書で、お気に入りのページを開いた跡がよく残っている。私も今年の夏はサマーキャンプにでも行って双子の片割れでも探そうか。しかし、私の両親の仲はそれなりに良く、仮に双子の片割れがいても、入れ替わって仲を取り持つ必要はないのだ。
はらりとページをめくる音だけが部屋に響いている。今は平日の昼間で、普通の学生は真面目に授業に出ている時間だ。説明しておくと、今日の私は計画的休息であり、決してサボりではない。
「えっ」
ふと目を本から逸らす。壁の柱に、甲虫が止まっていた。
窓を全開にしておくと、虫が入り込んでくることがある。今まで、カナブンやハエやハチが入ってきたことがあるが、甲虫が入り込んできたのは初めてだった。キャンパスの中には草木が多く、寮のある場所はほぼ森と言ってもいい。
甲虫が移動する気配はない。私は虫が苦手というわけではない。なので、甲虫が部屋にいても平気だった。しかし、甲虫が部屋にいる、という状況自体を好ましいと思っているわけではない。間近で見てみても、それは動かない。しかし、死んでいるわけでもない。かすかに動いて柱を伝う。窓をこれみよがしに開けても移動する気配はない。摘み出して外に逃すほどの勇気はない。困った。
「師匠ー!おられますかー?」
壁を叩いて叫ぶと、隣の部屋からも同じように壁を叩く音が聞こえた。。
「入ってもよろしいでしょうか」
無音。私はそれを肯定だと捉えて、慎重にドアを閉めて隣の部屋の扉を開けた。
「ナマエ、今日はどぎゃんしたんと」
長い手足を持て余すようにあぐらをかいていた大男は、大きな口を開けてあくびをした。まるで大トトロのようだと言うと師匠は嬉しそうに笑った。師匠こと千歳千里さんは、まるで風来坊のような見かけに反して、かわいいものが好きなのだ。年齢不詳の学年不詳。聞くところによれば、ずっと前からここに住んでいるらしい。大学生というモラトリアムを最大限に有効活用している様子は見習うべきだ。私が彼を師匠と呼び慕っている理由はそこにある。
「実は部屋に甲虫が入ってきまして。外にも出てくれないし、どうしようかと思って師匠に相談しに来た次第です」
「あぁ、それならうちん知り合いに甲虫ば飼うとる人がおるけん、そん人に聞いとくるね」
「師匠にもわからないことがあるんですか?」
「まぁ、仕方なかね」
授業をさぼっている私が言えたことではないが、師匠は大学に行かなくてもいいのだろうか。常に寮かその周辺をうろつき、金曜には民放で放送される映画を誰かと一緒に見る。前に、寮の薄い壁に向かって壁打ちをして怒られて以来、空き地の丈夫なコンクリに向かってテニスボールを打ち付けている姿を何度か見かける。たまに私も付き合って軽い打ち合いをする。自由奔放で憧れるし、実際に師匠は人気者だ。
「ナマエ、ちょっと頼み事ばしたっちゃよかか」
「あぁ、いいですよ」
「どんぐり王国に行ってジジんぬいぐるみば買うてきてくれん?」
「はいはい、どうせ暇ですしね。いいですよ」
「ほんなこつ暇なんか?今ん時間は授業があるんよね」
「……どうして知ってるんですか:
「学生ん本文は勉強ばい。頑張りなっせ」
「師匠もたまには学校行きましょうね。単位大丈夫じゃないでしょ」
「俺は大丈夫やけん」
師匠から可愛い丸文字で書かれたメモと、皮財布を渡されて、私は部屋着のまま寮を出た。部屋着といっても、ユニクロの服だから別に変だということはない。大学前から出るバスに乗り、そのまま駅の中のどんぐり王国でジジのぬいぐるみを購入した。平日の昼間だというのに人通りは多く、自分が場違いのような気がしてゾッとした。店の中は外国人観光客が多く、やはり海外でも人気なのだな、と日本のアニメの偉大さを実感した。
もうすぐ夏といえばそうなのだが、まだ夏には入っていない。冬になると、寒さゆえに本当に夏は来るのか心配になるが、今年の夏は思ったよりも早くやってきたらしい。真昼間で太陽が燦々と照りつけるせいか、私の喉は砂漠のように乾き切っており、反対に額からは滝のように汗が流れ出ていた。
「あーあっつい。死ぬ」
こんな言葉が口から自然に漏れ出るほどに、昼間は暑かった。寮で窓を全開にして読書していた時はここまで蒸し暑くなかったはずだ。次のバスが来るのは15分後らしい。行ってしまったばかりのバスを素直に待つ気になれず、涼める場所まで引き返そうとした。
そんな時、ちょうど目先にスタバが見えた。店内はそこそこ混雑しているが、どうしても冷たい飲み物が飲みたい。財布と携帯だけ持ってきたので、ここまで水分補給を一切行っていなかった。
ちょっとだけならバレないでしょう。
そんな気持ちで店内に入り、カウンター席に滑り込んでアイスミルクティーを飲むと、まるで生まれ変わったように清々しい気持ちになった。いつもトールかショートしか頼まないけれど、今日はグランデだ。
「隣、ちょっとええか?」
聞きなれた声に思わずぎょっとして隣を見ると、忍足が私の隣に腰掛けていた。
「お、忍足!」
「ミョウジさん、こんなところで会うなんて珍しいな」
「白石くんも……っていうかいつの間に」
「何や、ミョウジが注文してるときに俺ら後ろに並んどったんやで」
「俺も忍足くんも、今日はもう授業ないねん。暇やしお茶でもしたらええかなって来てみたんやけど」
「まさかミョウジが授業サボってこんなところ来とったなんて知らんかったわ」
「へぇ、ミョウジさんって授業ブッチするタイプやったんやな、意外や」
「こいつが真面目にやりよるんはサークルだけやで。去年も単位ギリギリで進学したしな」
「あのさぁ!余計なことは言わなくてもいいじゃん!」
もう白石くんの前で恥をかきたくない一心で叫ぶと、周囲の視線を集めてしまったので、余計に恥ずかしくなって縮こまった。
忍足はコーヒー、白石くんは季節限定の可愛い飲み物(名称不明)を持っていた。私の手元には半分以上飲んでしまったミルクティー。
カウンター席に、忍足を挟む形で私と白石くんが座っている。周りはPCを開いて何やら作業している人、学生、主婦のグループなどの様々な人で取り囲まれていた。私がさっき騒いでいたことなど、皆忘れてそれぞれの世界に入っている。
「そういえばなんやけど、ミョウジさんって何か飼っとる?」
「あー、飼ってるような飼ってないような」
部屋に置いたままになっている甲虫を思い出した。
「実はな、俺の飼ってたのが迷子になってしまってん」
「マジ?早く見つかるといいね」
何を飼っているかは分からないが、白石くんのことだからでっかい牧羊犬とか、長毛種の猫とか飼ってるんだろうな。絶対お上品なの飼ってるよ。早く見つかればいいな。
「私も探すの手伝うよ。何か特徴とかある?」
困り顔の白石くんを早く笑顔にしてあげたい。ただ、それだけだ。
「そうなん?助かるわ。そうや、写真あるからこれでええわ。ほら、これが俺の家族。名前はカブリエルって言うねん。可愛いやろ?」
急に饒舌になった白石くんが突き出したスマホの画面には、黒黒と艶光りした甲虫が写っていた。
「ん、んん……甲虫?」
「そうやで」
「あー、甲虫ね……甲虫。私の部屋にもいるんだよね、甲虫」
「えっ」
急に白石くんが真顔になり、こちらにグイッと詰め寄った。
「それってミョウジさんが飼っとるん?」
「いや、さっき部屋に入ってきてさ」
「ミョウジさんの部屋に行ってもええ?」
「すごい場所やな……:」
鍵のかかっていない下宿の扉を開け、土足のままで廊下を歩いた。当たり前すぎて感覚が麻痺してしまっていたが、廊下にゲーム機や段ボールや下着で散らばっているという環境が異常なものであることを私は今やっと理解した。
下宿先へとやってきた白石くんは、歩くところも限られる、もので溢れた廊下を恐る恐る進んだ。私は慣れたものでスイスイと歩けてしまう。
「ここが私の部屋でーす」
ノブを捻ると素直に扉が開く。
「ミョウジさん、鍵つけてへんの」
「えっ、あぁ、うん」
信じられない、といった風に白石くんは顔を歪ませた。
えへへと笑って誤魔化した。
「白石、おったんか」
ノックもせずに部屋に入ってきた師匠を、抗議の声をあげる気にもなれずに迎え入れた。
「久しぶりやな」
「しばらく学校来てへんかったやろ」
「お二人とも、知り合い?」
「中学の時の部活で一緒やってん」
「ナマエは知らんかったんか」
「初耳なんですけど……あ、そういえば師匠、前に甲虫を飼ってる人に連絡するって行ってたのは」
「あぁ、それが白石」
「なるほどね」
私は柱の影にひっついている甲虫を掴んで白石くんに見せた。
「これ、カブリエル?」
「あ……そうや!カブリエルや!ほんまにおった!おおきに!ミョウジさんありがとう!」
あ、もうだめ。本当に嬉しそうな顔で甲虫を手に乗せる白石くんをみて、心臓がギュンと高鳴った。
「あれからどうなったん?」
「どうにもこうにも、どうにもなってないよ」
次の教室に移動している時に、忍足がそんなことを聞くので私はため息をついた。
「あのさぁ……そんな簡単に白石くんが私のこと好きになるわけないって。もう無理だよ無理無理あんなイケメンと付き合うのは無理なんだって」
あの甲虫事件からすでに数ヶ月が経過していた。夏休みが終わり、季節はすっかり秋。学園祭が近づき、私は積りに積もった課題に苦しみ喘いでいた。
「無理や言うとったらほんまに無理になるで」
「はぁーーー、無理だって。音沙汰ないもん。LINEも全然やってないし」
「ミョウジがLINE送りまくってただけやろ」
「えぇ~~?二日に一回に抑えてたんだけど」
「送りすぎや」
ウダウダ言いながら階段をおりて、3階まで降りた。
「あー、私次はここだから。バイバイ」
「ん、また昼な」
「なんや白石、聞いとったんか」
「………ごめんな」
「別にええやろ、ミョウジがあんな大声で喋っとるからしゃあないって」
「あ、あぁまぁでもな、女の子の会話盗み聞きするのはあかんやろ思ってな」
「盗み聞きも何もないやろ、でっかい声で喋ってるんやし」
「っていうか二人って付き合っとるんとちゃうんやな」
「そうやけど」
「そうやんな、でも俺、これからどうしよ」
「どうもこうも、知らんわ」
これから私たちがどうなったのかは、あえて記さないでおこう。これは、白石くんと私だけの話だ。あの時、別のサークルを選んでいたらどうなったのか、気にならなくはないが、今はそんなことどうでもいい。叶った恋について語ることは、野暮である。
高校時代から全く成長せず、好きなことはぐうたらと昼寝とネットサーフィン。そんな怠惰な私がなんとか留年せずに進学できたのは奇跡だ。
私は怠惰であるがプライドはある。先輩に媚び諂って過去問をもらったり、他人に泣きついて課題を手伝ってもらったり、ということは大嫌いだ。他人に頭を下げるくらいなら死んだ方がマシだし、恥ずかしい過去をバラすくらいなら死を選ぶ。武士道は嫌いだが、恥を晒すくらいなら死ぬ、という考えには共感を覚える。
少なくとも中学時代、いや小学生時代はこんな性格ではなかったはずだ。自分の性根が曲がりに曲がり、嫌いな人間は自分よりも幸せな人間であると胸を張って言うようになるまでの自分は恐ろしいほどに無垢で、可愛らしく、まるで天使のようだったと断言できる。昔のアルバムの無邪気な笑顔がそれを物語っている。しかしそれは、中学生のある日を境に無表情に変わってしまった。そんな己の性格を改めることをよしとせず、意地を貼りまくって口に出すのもおぞましいような失敗をした高校時代。その暗黒の日々を払拭せんと大学入学時に奮起したものの失敗に終わった話。語るに値しない数々の暗黒の記録を上書きしようと色々暴れた記録が、今から話す物語である。
途中で聞き苦しい箇所や一部脚色を加えた場面があることは事前に謝罪しよう。
ただ、私なりにちゃんと考えての行動だということだけは頭に入れて、この話を聞いて欲しいのだ。
話は、私が大阪の四天宝寺大学に入学した時から始まる。多くの進学希望者がそうであるように、高校三年という青春のど真ん中を大学受験に捧げた私は、ウキウキとした気分入学式を終え、その足で講堂から出て行った。講堂から生協までの道は、普段は立派な木々が建ち並ぶ広い道で、前日に訪れた際はひらひらと舞い踊る桜の花びらを見つめては、これからの生活に思いを馳せることができるようなセンチメンタルな場所であったのだが、今は桜を見上げる余裕などはなく、新入生とその倍以上はいるであろう上級生でもみくちゃになっていた。
入学式が終わってからの一週間は、サークルや部活といった学生の集団が、無垢な一年生を勧誘しようと必死になる。あの手この手で新入生を釣ろうとお祭り騒ぎの乱闘を繰り広げる恐ろしい一週間は、通称「フィッシング・ウィーク」と呼ばれているらしく、ビラを撒き餌に釣り人たちが激しくぶつかり合っていた。私はそれに遭遇したのである。
そんな騒乱の中で人をかき分けて進み、押しつけられたビラを受け取り、寮に戻って気になるものを選別してみると、以下のものが残った。
「映画制作サークル ノースキャロライナ」
「園芸サークル ナルキッソス」
「ボランティアサークル まんまる」
「お笑い同好会」
そんな中で私が目を奪われたのは、ナルキッソスという縁起の悪い名前の園芸サークルだった。女子が書いたのだろうか可愛らしい手書きのチラシには、「緑の手をもつ人大募集!」というそんな人滅多にいないだろ、と突っ込みたくなるようなコピーが掲載されていたが、それをみた瞬間、私の脳内にはあるイメージが浮かんできた。それは、バラの庭園を細身の美しい青年と私が横並びで歩いている光景である。花を愛する人間に悪い人間はいない。それに、高校時代は園芸部で花壇の世話をしていた私の血が騒いだ。勢いのまま新歓に参加し、部員になりますと声高々に宣言した私を引っ叩きたい。そんな幻想は見事に打ち砕かれた。
ナルキッソスに入部した私を待ち受けていたのは偏りまくった男女比と、倦怠的な雰囲気だった。およそ土をいじったことのないような人間が集まった園芸部には、はちゃめちゃなイケメンである白石くんと、白石くん目当てで集まった狩人たちの群れが形成されていた。新歓にいた先輩たちは全員まとめて消えており、女子に囲まれても爽やかさを存分に発揮する白石くんと、そんな白石くんにガッつく猛犬たちを横目に、私はベラドンナやらドクダミやらと戯れていた。華やかさとは無縁である。わざわざ早朝に起きては水をやりに行き、時折病院などに花を贈呈するような活動を送っていた。高校時代と全く変わらない。私はひたすらに健全で地味で硬派な女子大生になった。
同じサークルの女学生と交流らしい交流をすることもなく、花の世話をすることで孤独を紛らわしていた。まず第一に話が合わない。それに、私はそれなりに植物に関する知識があるので白石くんと話す機会が多かった。彼がいる間はそれなりに平和であったが、それ以外の時間は、筆舌にしがたい重い空気が流れた。白石くんと話す回数はそれなりにあったが、彼の爽やか善人オーラに飲まれてしまい、結局プライベートな話をすることはなかった。人間らしい会話を行うことは困難を極めた。
時は流れて二回生。私といえば、野菜の収穫や畑の整備を行い、文学部なのに文学よりも農業に詳しくなってしまった。いますぐ農学部へと編入すべきだろうか。二回生になり、白石くん目当ての女子は減ってしまった。理由は私と白石くんが農家並みに園芸栽培に熱をあげてしまったからである。最初の活動は、キャンパス近くの花壇の整備だけだったのが、今や農学部の余った畑をお借りして、野菜の栽培まで行ってしまったのだから仕方ない。朝早くから土まみれになり、ミミズと戯れるようなサークルに、男目当ての狩人は疲れ果てて撤退してしまった。男女の比率はいい塩梅になり、純粋に農業を楽しむ私たちは、今時珍しい超健全な異性交友を続けている。PTAからは文句のつけようのないクオリティである。悲しいことに、食費を浮かせるために収穫した野菜で料理をしたから自炊の腕は上がったのだが、それを振舞う相手がいなかった。
あの暗黒の一回生から、変わったことがある。まず、忍足という文学部の友人がサークルメンバーとして増えた。私たちは選択している授業が結構被っているので、大学内ではだらだらとつるんで過ごしている。この忍足という男、最初見たときは面食いである私の下心がびびっと動いたのだが、「なぁ、悪いんやけど消しゴム貸してくれへん?」という一声で恋愛対象から退いた。気怠げな雰囲気とどこか人を寄せ付けないオーラ、でも人当たりはよくて話や趣味も似通っているこの男は、私の大切な腐れ縁である。
「ミョウジさんはほんまに野菜育てんのうまいよなぁ、実家は農家やったりするん?」
白石くんは優しい。私みたいな人間に優しいからみんな勘違いしてしまう。この前、聞いてしまったのだが、白石くんは自分目当てにすり寄ってくる女の子が苦手なんだそうだ。直接忍足に話しているところを聞いてしまったので間違いではない。幻聴ではないのだ。
それでも白石くんは私に優しい。それどころか、全人類に優しいのだ。苦手だという白石くん目当ての女の子にも優しかった。優しかった上に爽やかだった。どんな親御さんに育てられたらそうなるんだろう、と私は思考を巡らせた。
「いやぁ、うちの親はただの噺家と高校教師だよ。これらのスキルは全て高校時代に培ったものなので遺伝的なものではないかな」
白石くんは中学の時からこういうことをしていたらしいから、彼の方が先輩である。
「噺家?ミョウジさんの家ってすごいんやな」
「でもお母さんは教師だし、噺家って言ってもそんなに有名じゃないよ。テレビとか出なくて地方で営業してるだけだし」
長靴を履き、雑草をぶちぶちと抜きながらでも白石くんはイケメンだった。私はそんな白石くんの隣で軍手をはめて、スコップで地面をならしていた。照れちゃうじゃないか。
「んー、無駄のない作業……エクスタシーやな」
「何のこと言ってんの」
何を隠そう、私は白石くんのことが好きなのだ。いつ好きになったかなんて忘れた。気がつけば、白石くんを目で追うようになり、話しかけられるとドキドキして、寝る前にはホースで水を撒いている白石くんの顔や、温室で毒草を育てる白石くんの立ち姿を思い浮かべるようになった。授業中に先生が、ユダの裏切りについての話をしていても、フランス語の厄介な文法の教科書をめくっていても、白石くんと何を話そうかということだけを考えていた。ああ、白石くん……好きだ。心なしか、中高時代に好きだった俳優の顔も白石くんに似ている気がする。俳優の写真集のヌードを見ても白石くんのことしか考えられなくなった。恋は熱病だと言うが、これは病気である。
しかし、先ほども述べた通り、白石くんは自分に好意を寄せてすり寄ってくる人が苦手なのだ。つまり、私からアプローチしてはいけない。ということは、白石くんから好きになってもらわない限り、私に勝ち目はない。そもそも異性として意識されているかすら怪しい。前に、「ミョウジさんと話してると、男友達とおるみたいで落ち着くわ」と言われた。つまり、そういうことだ。
本当は白石くんには私の芋くさい長靴ジャージ姿ではなく、百貨店で買ったワンピースを着た姿を見せたいのだが、それは不可能なことだ。私の手持ちの洋服の中にそんないいものはないし(親が買ってきた服か、ユニクロとしまむらのセールで買った無難なやつくらいしかない)、大学に行くのには汚れていい服しか着ていかない。サークル活動中だと尚更だ。いい服を買おうにも金はない。アルバイトで稼いだ金は学費と下宿代に消えていく。忍足に泣きついて借りた2万円は教科書代で消えてしまった。
「ミョウジ、こんなんでええんか?」
「あーうん、それでいいよ。15cmくらい間開けて植えといて」
忍足は私の隣にすわり、部費で買ったトマトの苗を植えていった。順調に育てば夏には立派に実って、美味しいトマトが食べれる。私の食費も浮く。
「まさか、忍足くんと同じ大学行くようになるなんて考えとらんかったわ」
「まぁ高校まで東京いとったしな」
「エスカレーターで行かんと外部受験したんやな、意外や」
「もともとこっちで就職しよう思うとったんや」
忍足と白石くんは中学時代の部活で繋がりがあったらしく、それなりに仲がいい。私と忍足はそれなりに仲がいい。というわけで私と白石くんは忍足を共通の友人と置いて三人でいることが多くなった。
「忍足って高校どこだったっけ」
「氷帝や」
「氷帝かぁ、あそこってすごい生徒数多かったよね」
「忍足くん、テニス部のレギュラーやったんやで」
「え、普通にすごいじゃん」
「結局全国優勝はせんかったけどな」
「いやぁ、忍足くんのプレイはすごいし、氷帝自体もめっちゃ強い学校や。そういえば、ミョウジさんは高校どこやったっけ」
「え!えっとね、私は聖ルドルフだよ」
「あー、聖ルドか、あそこもめっちゃテニスに力入れとったよな。あそこの選手と合宿行った事あるで」
「そうなんだ、私あんまり運動部とか興味なくってさ、うちの部活が大会でどこまで行ったとか覚えてないよ」
えー、嘘嘘。白石くん私の母校知ってるの?東京の学校まで把握している白石くんはすごい。まぁ、テニスが強い学校をテニス部員が把握しているのは当たり前だろう。浮かれた心を冷やすように、目の前のトマトの苗に意識を集中させる。
「そうやったん?」
「ミョウジやったら納得やわ」
「納得って何さ納得って」
「ミョウジは部活とかそういうのできゃあきゃあいうタイプやないやろな、と思っただけや。他意はないで」
「忍足が言うと、ちょっと胡散臭いな」
「なんや、人を悪くいいよって」
「ごめんって!」
「っははは!なんや二人して!漫才みたいやな!」
白石くんが急に腹を抱えて笑い出した。思わずギョッとする。どうしよう。こんな風に忍足との馬鹿みたいな会話を聞かれて、下品な子だと思われないだろうか。もう恥ずかしくて穴があったら入りたい。ニヤニヤする忍足を押したが、見た目に反して体幹はしっかりしているようでびくともしなかった。
「漫才やって」
「うっ、そんなつもりじゃ」
「あーおもろ。ミョウジさんめっちゃツッコミ鋭かったやん。めっちゃ意外やわ」
「そうなん?俺の前やといつもこうやで」
「白石くん、忍足の言うことは気にしないでよ。さぁ、全部植えちゃおう」
「なんやミョウジ、白石の前で猫被っとったんか」
「忍足!」
さっきから白石くんはずっとニコニコ笑って私たちのやりとりを見守っている。私は一年間必死に被ってきた化けの皮があっさり剥がされたことを悔しく思った。だが、白石くんが大口開けて笑っているところを初めて見ることができたので良かったとしよう。
「ミョウジ、白石の前やったら緊張しぃになんねん」
「えっ、俺なんかした?」
少し困ったような表情を浮かべ、白石くんは私の目を見つめる。機嫌を伺うような、反省している大型犬のような顔にギュッと心臓が痛くなる。
「白石くんは何もしてないよ!その……私がちょっと気にしすぎなだけというか、まぁ、白石くんは気にしないで。本当に」
「そうなん?俺ら結構付き合い長いし、そんな気を使ってくれんでもええよ」
あぁ、ダメだ。白石くんに気を使わせてしまった。ふわりと、肖像画の中の貴婦人のように微笑む白石くんに、今すぐ五億円を進呈したい。
「ミョウジはな、白石と仲良うしたいんやけどカッコ良すぎて無理~って、前言っとったわ。なぁ、前ファミレス行った時そんな会話したやろ?覚えとるか?」
「あぁ!?」
「カッコいいって……そんなん照れるわ!ミョウジさんそんな風に見てくれてたん?」
あー、もうこんなの言われ慣れてるんじゃないの。照れないでよ、こっちが恥ずかしい。
「いやだって、白石くん男前じゃん!忍足もそう思うよね!?」
「うんうん、そうやなぁ。確かに男前やなぁ」
「ほら!白石くんがカッコいいのはもうみんな思ってるから!」
褒め殺されて、心なしか顔が赤い白石くんを見て、何だか得した気分になった。
畳に寝転がって文庫本を読んでいた。中身は小説。「二人のロッテ」は私の小学生の時からの愛読書で、お気に入りのページを開いた跡がよく残っている。私も今年の夏はサマーキャンプにでも行って双子の片割れでも探そうか。しかし、私の両親の仲はそれなりに良く、仮に双子の片割れがいても、入れ替わって仲を取り持つ必要はないのだ。
はらりとページをめくる音だけが部屋に響いている。今は平日の昼間で、普通の学生は真面目に授業に出ている時間だ。説明しておくと、今日の私は計画的休息であり、決してサボりではない。
「えっ」
ふと目を本から逸らす。壁の柱に、甲虫が止まっていた。
窓を全開にしておくと、虫が入り込んでくることがある。今まで、カナブンやハエやハチが入ってきたことがあるが、甲虫が入り込んできたのは初めてだった。キャンパスの中には草木が多く、寮のある場所はほぼ森と言ってもいい。
甲虫が移動する気配はない。私は虫が苦手というわけではない。なので、甲虫が部屋にいても平気だった。しかし、甲虫が部屋にいる、という状況自体を好ましいと思っているわけではない。間近で見てみても、それは動かない。しかし、死んでいるわけでもない。かすかに動いて柱を伝う。窓をこれみよがしに開けても移動する気配はない。摘み出して外に逃すほどの勇気はない。困った。
「師匠ー!おられますかー?」
壁を叩いて叫ぶと、隣の部屋からも同じように壁を叩く音が聞こえた。。
「入ってもよろしいでしょうか」
無音。私はそれを肯定だと捉えて、慎重にドアを閉めて隣の部屋の扉を開けた。
「ナマエ、今日はどぎゃんしたんと」
長い手足を持て余すようにあぐらをかいていた大男は、大きな口を開けてあくびをした。まるで大トトロのようだと言うと師匠は嬉しそうに笑った。師匠こと千歳千里さんは、まるで風来坊のような見かけに反して、かわいいものが好きなのだ。年齢不詳の学年不詳。聞くところによれば、ずっと前からここに住んでいるらしい。大学生というモラトリアムを最大限に有効活用している様子は見習うべきだ。私が彼を師匠と呼び慕っている理由はそこにある。
「実は部屋に甲虫が入ってきまして。外にも出てくれないし、どうしようかと思って師匠に相談しに来た次第です」
「あぁ、それならうちん知り合いに甲虫ば飼うとる人がおるけん、そん人に聞いとくるね」
「師匠にもわからないことがあるんですか?」
「まぁ、仕方なかね」
授業をさぼっている私が言えたことではないが、師匠は大学に行かなくてもいいのだろうか。常に寮かその周辺をうろつき、金曜には民放で放送される映画を誰かと一緒に見る。前に、寮の薄い壁に向かって壁打ちをして怒られて以来、空き地の丈夫なコンクリに向かってテニスボールを打ち付けている姿を何度か見かける。たまに私も付き合って軽い打ち合いをする。自由奔放で憧れるし、実際に師匠は人気者だ。
「ナマエ、ちょっと頼み事ばしたっちゃよかか」
「あぁ、いいですよ」
「どんぐり王国に行ってジジんぬいぐるみば買うてきてくれん?」
「はいはい、どうせ暇ですしね。いいですよ」
「ほんなこつ暇なんか?今ん時間は授業があるんよね」
「……どうして知ってるんですか:
「学生ん本文は勉強ばい。頑張りなっせ」
「師匠もたまには学校行きましょうね。単位大丈夫じゃないでしょ」
「俺は大丈夫やけん」
師匠から可愛い丸文字で書かれたメモと、皮財布を渡されて、私は部屋着のまま寮を出た。部屋着といっても、ユニクロの服だから別に変だということはない。大学前から出るバスに乗り、そのまま駅の中のどんぐり王国でジジのぬいぐるみを購入した。平日の昼間だというのに人通りは多く、自分が場違いのような気がしてゾッとした。店の中は外国人観光客が多く、やはり海外でも人気なのだな、と日本のアニメの偉大さを実感した。
もうすぐ夏といえばそうなのだが、まだ夏には入っていない。冬になると、寒さゆえに本当に夏は来るのか心配になるが、今年の夏は思ったよりも早くやってきたらしい。真昼間で太陽が燦々と照りつけるせいか、私の喉は砂漠のように乾き切っており、反対に額からは滝のように汗が流れ出ていた。
「あーあっつい。死ぬ」
こんな言葉が口から自然に漏れ出るほどに、昼間は暑かった。寮で窓を全開にして読書していた時はここまで蒸し暑くなかったはずだ。次のバスが来るのは15分後らしい。行ってしまったばかりのバスを素直に待つ気になれず、涼める場所まで引き返そうとした。
そんな時、ちょうど目先にスタバが見えた。店内はそこそこ混雑しているが、どうしても冷たい飲み物が飲みたい。財布と携帯だけ持ってきたので、ここまで水分補給を一切行っていなかった。
ちょっとだけならバレないでしょう。
そんな気持ちで店内に入り、カウンター席に滑り込んでアイスミルクティーを飲むと、まるで生まれ変わったように清々しい気持ちになった。いつもトールかショートしか頼まないけれど、今日はグランデだ。
「隣、ちょっとええか?」
聞きなれた声に思わずぎょっとして隣を見ると、忍足が私の隣に腰掛けていた。
「お、忍足!」
「ミョウジさん、こんなところで会うなんて珍しいな」
「白石くんも……っていうかいつの間に」
「何や、ミョウジが注文してるときに俺ら後ろに並んどったんやで」
「俺も忍足くんも、今日はもう授業ないねん。暇やしお茶でもしたらええかなって来てみたんやけど」
「まさかミョウジが授業サボってこんなところ来とったなんて知らんかったわ」
「へぇ、ミョウジさんって授業ブッチするタイプやったんやな、意外や」
「こいつが真面目にやりよるんはサークルだけやで。去年も単位ギリギリで進学したしな」
「あのさぁ!余計なことは言わなくてもいいじゃん!」
もう白石くんの前で恥をかきたくない一心で叫ぶと、周囲の視線を集めてしまったので、余計に恥ずかしくなって縮こまった。
忍足はコーヒー、白石くんは季節限定の可愛い飲み物(名称不明)を持っていた。私の手元には半分以上飲んでしまったミルクティー。
カウンター席に、忍足を挟む形で私と白石くんが座っている。周りはPCを開いて何やら作業している人、学生、主婦のグループなどの様々な人で取り囲まれていた。私がさっき騒いでいたことなど、皆忘れてそれぞれの世界に入っている。
「そういえばなんやけど、ミョウジさんって何か飼っとる?」
「あー、飼ってるような飼ってないような」
部屋に置いたままになっている甲虫を思い出した。
「実はな、俺の飼ってたのが迷子になってしまってん」
「マジ?早く見つかるといいね」
何を飼っているかは分からないが、白石くんのことだからでっかい牧羊犬とか、長毛種の猫とか飼ってるんだろうな。絶対お上品なの飼ってるよ。早く見つかればいいな。
「私も探すの手伝うよ。何か特徴とかある?」
困り顔の白石くんを早く笑顔にしてあげたい。ただ、それだけだ。
「そうなん?助かるわ。そうや、写真あるからこれでええわ。ほら、これが俺の家族。名前はカブリエルって言うねん。可愛いやろ?」
急に饒舌になった白石くんが突き出したスマホの画面には、黒黒と艶光りした甲虫が写っていた。
「ん、んん……甲虫?」
「そうやで」
「あー、甲虫ね……甲虫。私の部屋にもいるんだよね、甲虫」
「えっ」
急に白石くんが真顔になり、こちらにグイッと詰め寄った。
「それってミョウジさんが飼っとるん?」
「いや、さっき部屋に入ってきてさ」
「ミョウジさんの部屋に行ってもええ?」
「すごい場所やな……:」
鍵のかかっていない下宿の扉を開け、土足のままで廊下を歩いた。当たり前すぎて感覚が麻痺してしまっていたが、廊下にゲーム機や段ボールや下着で散らばっているという環境が異常なものであることを私は今やっと理解した。
下宿先へとやってきた白石くんは、歩くところも限られる、もので溢れた廊下を恐る恐る進んだ。私は慣れたものでスイスイと歩けてしまう。
「ここが私の部屋でーす」
ノブを捻ると素直に扉が開く。
「ミョウジさん、鍵つけてへんの」
「えっ、あぁ、うん」
信じられない、といった風に白石くんは顔を歪ませた。
えへへと笑って誤魔化した。
「白石、おったんか」
ノックもせずに部屋に入ってきた師匠を、抗議の声をあげる気にもなれずに迎え入れた。
「久しぶりやな」
「しばらく学校来てへんかったやろ」
「お二人とも、知り合い?」
「中学の時の部活で一緒やってん」
「ナマエは知らんかったんか」
「初耳なんですけど……あ、そういえば師匠、前に甲虫を飼ってる人に連絡するって行ってたのは」
「あぁ、それが白石」
「なるほどね」
私は柱の影にひっついている甲虫を掴んで白石くんに見せた。
「これ、カブリエル?」
「あ……そうや!カブリエルや!ほんまにおった!おおきに!ミョウジさんありがとう!」
あ、もうだめ。本当に嬉しそうな顔で甲虫を手に乗せる白石くんをみて、心臓がギュンと高鳴った。
「あれからどうなったん?」
「どうにもこうにも、どうにもなってないよ」
次の教室に移動している時に、忍足がそんなことを聞くので私はため息をついた。
「あのさぁ……そんな簡単に白石くんが私のこと好きになるわけないって。もう無理だよ無理無理あんなイケメンと付き合うのは無理なんだって」
あの甲虫事件からすでに数ヶ月が経過していた。夏休みが終わり、季節はすっかり秋。学園祭が近づき、私は積りに積もった課題に苦しみ喘いでいた。
「無理や言うとったらほんまに無理になるで」
「はぁーーー、無理だって。音沙汰ないもん。LINEも全然やってないし」
「ミョウジがLINE送りまくってただけやろ」
「えぇ~~?二日に一回に抑えてたんだけど」
「送りすぎや」
ウダウダ言いながら階段をおりて、3階まで降りた。
「あー、私次はここだから。バイバイ」
「ん、また昼な」
「なんや白石、聞いとったんか」
「………ごめんな」
「別にええやろ、ミョウジがあんな大声で喋っとるからしゃあないって」
「あ、あぁまぁでもな、女の子の会話盗み聞きするのはあかんやろ思ってな」
「盗み聞きも何もないやろ、でっかい声で喋ってるんやし」
「っていうか二人って付き合っとるんとちゃうんやな」
「そうやけど」
「そうやんな、でも俺、これからどうしよ」
「どうもこうも、知らんわ」
これから私たちがどうなったのかは、あえて記さないでおこう。これは、白石くんと私だけの話だ。あの時、別のサークルを選んでいたらどうなったのか、気にならなくはないが、今はそんなことどうでもいい。叶った恋について語ることは、野暮である。