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四天宝寺神話体系
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大学二回生になり、大阪での暮らしにも順応するようになってきた。二回生になったということは、私が東京の高校から大阪の大学に進学して、高校時代に受けた授業の延長をするかのように宗教学と格闘し、テスト前には図書館に籠るような生活を送るようになって二年が経過した、ということだ。
高校時代から全く成長せず、好きなことはぐうたらと昼寝とネットサーフィン。そんな怠惰な私がなんとか留年せずに進学できたのは奇跡であるといえる。
私は怠惰であるがプライドはある。先輩に媚び諂って過去問をもらったり、他人に泣きついて課題を手伝ってもらったり、ということは大嫌いだ。他人に頭を下げるくらいなら死んだ方がマシだし、恥ずかしい過去をバラすくらいなら死を選ぶ。武士道は嫌いだが、恥を晒すくらいなら死ぬ、という考えには共感を覚える。
少なくとも中学時代、いや小学生時代はこんな性格ではなかったはずだ。自分の性根が曲がりに曲がり、嫌いな人間は自分よりも幸せな人間であると胸を張って言うようになるまでの自分は恐ろしいほどに無垢で、可愛らしく、まるで天使のようだったと断言できる。昔のアルバムの無邪気な笑顔がそれを物語っている。しかしそれは、中学生のある日を境に無表情に変わってしまった。そんな己の性格を改めることをよしとせず、意地を貼りまくって口に出すのもおぞましいような失敗をした高校時代。その暗黒の日々を払拭せんと大学入学時に奮起したものの失敗に終わった話。語るに値しない数々の暗黒の記録を上書きしようと色々暴れた記録が、今から話す物語である。
途中で聞き苦しい箇所や一部脚色を加えた場面があることは事前に謝罪しよう。
ただ、私なりにちゃんと考えての行動だということだけは頭に入れて、この話を聞いて欲しいのだ。
話は、私が大阪の四天宝寺大学に入学した時から始まる。多くの進学希望者がそうであるように、高校三年という青春真っ盛りの時期を大学受験に捧げた私は、ウキウキとした気分で入学式を終え、その足で講堂から出て行った。
講堂から生協までの道は、普段なら立派な木々が建ち並び、大人数で入りもんめができるくらいには広い。前日に訪れた際はひらひらと舞い踊る桜の花びらを見つめては、これからの生活に思いを馳せることができるようなセンチメンタルな場所であったのだが、今は桜を見上げる余裕などはなく、浮かれた新入生とその倍以上はいるであろう上級生でもみくちゃになっていた。
入学式が終わってからの一週間は、サークルや部活といった学生の集団が、無垢な一年生を勧誘しようと必死になる。あの手この手で新入生を釣ろうとお祭り騒ぎの乱闘を繰り広げる。この恐ろしい一週間は、通称「フィッシング・ウィーク」と呼ばれているらしく、ビラを撒き餌に釣り人たちが激しくぶつかり合っていた。私はそれに遭遇したのである。
東京の満員ラッシュでもここまでひどくはならなかったはずだ。大阪という土地柄がそうさせるのか、ここが特別特殊なのか、理由を求めることは難しいのだが、戻るにも戻れず、私は大量のビラを押し付けられ、リュックを背負った集団にタックルされ、小柄な女生徒を庇ったり、大柄な生徒の影に隠れてやり過ごしたりと、なんとか人の海を泳ぎ切ることに成功した。
一旦寮に戻り、腕いっぱいに抱え込んだ中から気になるものとゴミを選別してみたら、以下のものが残った。
「映画制作サークル ノースキャロライナ」
「園芸サークル ナルキッソス」
「ボランティアサークル まんまる」
「お笑い同好会」
私がその中で目を奪われたのは、ノースキャロライナというアメリカの州名を冠した映画サークルだった。「商業主義に捉われない、芸術を重んじる表現者求む」という小恥ずかしいコピーを見た瞬間、私の脳内にはカメラの前で大女優のように堂々と演じている自分と、それを見て拍手喝采する学生たち、というビジョンが見えた。映画の中の配役よろしく私は精悍な顔立ちの男子大学生と恋におち、芸術を愛する者同士、今の時代では絶滅危惧種である清く正しいお付き合いをし、薔薇色のキャンパスライフを送る。
もしくは、女流作家よろしく痛快な新劇を執筆してみてもいいかもしれない。高額な機材を自在に操り、頼れる人だという称号をいただくのも良いかも。
次の週、勢いのまま新歓コンパに参加し、その場で届出を提出した私を引っ叩きたい。そんな幻想は見事に打ち砕かれたのだ。
ノースキャロライナに入部した私を待ち受けていたのは厳しい現実であった。このサークル、メンバーは全員顔馴染みであった。「みんな初心者だし、すぐ馴染めるよ」の言葉を信じた私が馬鹿だ。部員は9名。女子が6人で男子が3人。同じ一回生として入った全員は、私以外全員が地元の人間であった。関西弁を使い慣れない私は関西弁ネイティブのマシンガントークとノリツッコミの応酬、ローカルトークにマニアックすぎる映画の話題などについていくことができず、空気の読めない発言を連発し、場の空気を見出しては気を遣わせ、気まずい思いをさせることしかできなかった。せめて、映画の話でもできれば、とレンタルビデオ店に足繁く通い小難しい映画の知識だけは身につけたが、その知識を披露すればするほどただの自慢したがりのように見えてしまい、滑稽な自分が阿呆らしくなった。
短期間ではあるが映画漬けの生活を送り、寝食を忘れ、授業を忘れ、映画を見続けた私は、いつの間にか完全に孤立していた。私に声をかけるものはいない。部屋の隅の埃のような扱いだ。つまり、邪魔者というわけである。
しかし、こんな惨めなサークル生活はある男の手によって劇的に変わることになる。そいつの名を忍足という。
入部早々やってきたゴールデンウィーク。そこで俳優役として派遣されてきた忍足は、あまりの演技のうまさからサークルメンバーに熱心に勧誘され、「暇つぶしに丁度ええと思ったんや」と言って連休明けからこのサークルのメンバーになってしまった。撮影には呼ばれたもののやることのなかった私は隅っこで機材をいじるしかなく、大して面白いとも思えない台本の整理をしていた。そんな私を目敏く見つけ、「そういえば同じ授業取ってたよな」とするりするりと私のスペースに侵入し、唯一気を使わずに話せた忍足にすっかり懐柔され、なんとなく二人で行動するくらいの仲になってしまった。同じ授業を取っていたのにこんなイケメンに気付かなかったのは不覚ではある。が、しかし今でも忍足と私は友人として交流している。ただ、時折胡散臭いと感じるような言動をしたり、メガネは伊達だったりと掴みどころのない人間だとは思っている。聞けば忍足は中学と高校を東京で過ごしていたらしく、かなりローカルな話題でも盛り上がることができた。同好会にちなんで映画は何が好きなのかと問うた質問に、「ラブロマンス」と答えていて何となく納得してしまった、というのは内緒にしておこう。
さて、私と忍足の友情物語はここまでにして、時は2回生の春まで一気に駆け抜ける。私と忍足は1回生の後半になると映画サークルにはあまり顔を出さないようになり、新入生歓迎のための映画を二人で撮影していた。他のメンバーは私という異分子を忍足とくっつけて安心しており、かつてのような和気藹々とした雰囲気に包まれていた。いつの間にか忍足も、私のような人間と関わっているためかカテゴリ外になってしまったらしい。やれやれと格好つけて春休みを費やして作成した映画は、2回生の春、入学式が終わってすぐに発表されることになった。
ノースキャロライナに私と忍足は所属しているのかしていないのか微妙な関係だが、一応籍は置いているし、撮影機材も編集機材も借りたから、と新歓の時の制作物発表には出してもらえることになった。学園祭時や冬休みには残りのメンバーの手伝いしかしていなかった私たちにとって、初めての自主制作映画である。映画の内容は、恋愛をテーマにした映画の連作短編で、内容はどれも大学を舞台にした物語である。私の怪演と忍足の難解かつ独創的なシナリオに、我々は納得したが新入生にはいまいちウケが悪かった。
忍足と私の体をはったキスシーンは失笑を買ったほどである。せっかく体を張ったのに!
しかし、つい最近まで高校生だったであろう集団の中で、たった一人だけが私たちの映画を熱心に見ていた。そんな有望な新入生は人間科学部の一回生で、名を財前光くんという。
時間は飛んで、現在二回生の夏。私と忍足は次回作のため、春から温めていた脚本の練り直しに頭を痛めていた。脚本の骨組み自体は完成している。毎夜二人でしこしこと紡いでいる小説のバトンは、最終的に超大作大河ドラマと化して、自主制作映画の粋を超えるような複雑なものになっていた。
部員でもあるにも関わらずノースキャロライナに顔を出さ図に、冷房の効いたマクドナルドでノートパソコンとにらめっこしている。今頃部室では、他のメンバーが馴れ合い舐め合い、大してクオリティも高くない映画の企画を練っているのだろう。
「ミョウジ、それ、ブーメランやで」
「忍足、まさか思考まで読めるようになったのか」
ビッグマックの箱の底に落ちたキャベツを拾い、目の前の男はため息をついた。
「素人の大学生に作れる映画なんてたかが知れてるやろ、しかも、俺ら芸大生とかとちゃうんやで」
彼の意見はごもっともである。
「でも、私はこの映画制作に命削ってるよ。大学に入ったのはこのためだと思うし、私はきっと一生映画を作って生きていくと思う。日本のキューブリックって呼ばれたいわけ。わかる?」
「命とちゃう、単位を削ってるんやろ」
炭酸が抜けたコーラを飲み、私は目の前のテキストファイルを睨んだ。忍足の得意とするラブロマンスと、私の好きな前衛芸術と小粋なギャグを掛け合わせ、アカデミー賞審査員も真っ青になるような鋭い作品を作りたい。あわよくば、若手天才監督として名を轟かせたい。
「やっぱり、パリが舞台の作品を大阪で撮るんは無理あるで。ボンジュールなんて言っとる人誰もおらん。フランス革命前みたいなおっちゃんはおるけど」
「でも、大阪が舞台はマンネリしちゃうよ」
「じゃあ京都か兵庫あたりでええんとちゃうか?ほら、京都とか映えるような場所いっぱいあるやん」
「でも、ラストシーンで凱旋門の向こう側と通天閣がドッキングする場面は大阪じゃないと無理だよ」
「新世界に凱旋門て、ヤバイな」
「そこ私が酒飲みながら書いたとこだし」
「CGで何とかできるっちゃできると思うで、パリも」
「えー、使えるの?ソフト」
「……他の部員なら」
「え、それだけは嫌」
「何でこう、自分は他の人ら嫌がっとんの」
「なんかさぁ、社畜感が無理。宗教サークルと同じ匂いがする」
「それは言い過ぎやで、まぁわからんでもないけど」
仲良しグループの面々は、それはそれは楽しそうに映画を作成していた。作成中にメンバーが留年しかけても、熱中症になっても撮影は続行された。私たちはグロッキーになりながらその作業を手伝っていた。詳しくは聞かないが、やはり宗教サークルなのではないだろうか。話に道徳的な押し付けが多すぎる。
「でもさぁ、この映画はそこがクライマックスだし、ちゃんとやらないとそれまでの一時間が無駄になるよ」
「まぁそうやな」
「部員以外でそういうの作れそうな人いない?」
そう言いながら、少し思考を張り巡らせる。
残念ながら、私の片手で数えられるほどの交友関係のなかでそれに該当する人間は思い浮かばなかった。
「……あ、一人おったわ」
忍足の口から財前くんの名前が出た。
歓迎会で映画を見てくれた財前くんだが彼は結局、サークルに入部しなかった。
それは正解だと思う。私は面食いなので、正直なところ、イケメンを逃したのは惜しかったと少し後悔している。片付けの準備をしているときにスッと現れ、「演技と荒唐無稽な内容は往年の無声映画を思わせて、結構おもろかった」という感想をくれて「また新作できたら教えてください」と言い残して去っていこうとした。それに舞い上がった私は半ば無理やりに連絡先を交換した。時折送られてくる公開中の映画の感想は、かなり斜に構えたものではあったがとても面白かった。
忍足と財前くんは昔からの顔見知りらしく、久しぶりの再会にどこかよそよそしい挨拶を交わしていた。
今でも、たまに三人で昼休みにあって話すことがある。今回の撮影機材を貸してくれたのは彼だった。新歓で吹っ切れた私たちは、あれから次々と映画を制作し、寮や講堂で作品を公開しては様々な生徒に引かれたりしているのだが、財前くんは毎回律儀に参加しては、私たちの奇抜なラブロマンス劇で笑ってくれていた。
「また変なものを作りましたね」
毎回新作を見るたびに、彼はそんな風に言う。そのときに浮かべる呆れたような笑みが好きだった。普段無愛想な人間が、心の柔らかいところを晒すととんでもない破壊力がある。それを思い知った。
また、大学の中で会ったときは挨拶をしてくれる。基本的に面倒くさがりだが、やるべきことはきちんとする。無愛想だがいい人なのだ。
私は彼のことを友達と呼んでいいのかわからなかった。そうなると、私は大学で忍足以外に友人と呼べる人がいないということになってしまう。
忍足がラインで財前くんにメッセージを送って、すぐに既読がついた。次の日から制作を手伝ってくれることになった。授業終わりにマクドナルドに集まり、ポテトを食べながら脚本や演出について議論を交わし、ときに知恵熱が出るほど考えたり。
財前くんが提案してくれるアイデアは実にユニークで、それに触発されて脚本がさらに分厚くなった。一人で盛り上がる私は、妙に冷静な二人のおかげでマクドナルドを出禁になることを免れた。
テストに悪戦苦闘しつつもなんとか撃破し、やっと本腰を入れて撮影できるぞ、と気合を入れ直して重い腰をあげたときには、すでに夏休みが始まっていた。
夏休みに入り、大阪で一人暮らしをしていた忍足は東京の家族のところに一時帰省することになり、財前くんはバイトが繁忙期に入ったために映画の撮影をすることはできなくなった。
私は東京に帰る交通費のことを考え、夏休みは今暮らしている寮で過ごすことにした。やることもないし、と学生らしく勉学に励もうにも開いた形跡のない教科書は隅に追いやられ、何かものでも書こうかと原稿用紙を買ってきたが、脚本制作段階で燃え尽きてしまったせいで満足のいくものは書けない。それらをスランプだと思い込み、ならばと部屋の掃除をしてみるが俳優の写真集をめくっているうちに夕方になっていた。気づけば、昼食をとることも忘れて漫画を全巻読破していたらしく、お腹が空いたが自炊する気も起きないので外に出てみることにした。
寮生活を送る中で、誰にいつ見られてもいいようにと最低限の身嗜みは整えるとようにしている。そのおかげで外に出るための格好は整っていた。すっぴんなのは普段からなので気にしない。
私が住んでいるこの寮は、男女共用の風呂トイレ台所共用という、近代にあるまじきレトロなものであった。建物自体は築数十年経っているが、水回りを定期的にリフォームしているのでそこそこ小綺麗な印象を受ける。
しかし、建築された時期のせいか壁が薄く、廊下を歩けばミシミシと不穏な音がする。毎夜、上の住民の足音が聞こえる。共同スペースに置かれた物は大抵誰かの個室に連れ込まれる。住人は曲者揃いで、留学生から留年して長く大学に留まる者まで出る者追わず来るもの拒まずで受け入れていた。
個室の四畳半に物を詰め込む感覚は好きだ。寮には友人こそいないものの、顔見知りはいる。
「ナマエ、外に出るんと?」
ぬっと大男が出てきたので彼を見上げる形になった。
部屋のドアを開けた時に声をかけてきたのは、隣の部屋の住人、千歳千里さんである。彼はこの寮に何年も住み着いているらしく、まるで風来坊のような外見から、私は彼を師匠と呼んでいる。実際の年は知らないが、まさか同い年ということはないだろう。
師匠はすごい人だ。
私が第二外国語で選択しているのに全く喋れない中国語を、師匠は一ミリも知らないのに中国からきた留学生と親しげに談笑することができる。ボディランゲージが多く放浪癖があり、醸し出す雰囲気は仙人か妖精に似ている。
大阪にずっといるのに熊本弁だし、学内で顔を合わせることはない。そもそもどこの学部かもわからない。寮に住み着いているにも関わらず、学生をしている空気を微塵も感じ取れない。二階に住んでいる石田銀さんという、これもまた大学生に見えない方とお友達である。
そのせいで、大学の単位は大丈夫なのかと他人事ながら考えてしまう。そして何より、顔面がいい。これは最重要項目である。ここまで語ってはみたものの、よくわからない謎の人である。それでも、よく喋る機会がある顔馴染みと呼べる人だろう。
「そうです」
「じゃあ、神社でベビーカステラば買うてきてくれんか」
師匠と呼ぶ人にそう言われたら、断れない。私は無言でうなずいた。
それをみた師匠は満足げな表情を浮かべた。私に財布を預けると、部屋に入ってしまった。
神社。あぁ、今日はお祭りだったか。
外が少し騒がしいと思っていたが、お祭りがあったなら納得だ。
ちょうど神社あたりに行こうと思っていたし、小銭でいっぱいになった皮財布から少しだけ拝借してもバレないだろう。
私は寮を出て、踏切を渡り、人混みでごった返す神社へ赴き、列に並んでベビーカステラを購入し、そこから一個だけ拝借して神社近くの屋台に向かった。
道中同じ大学の人に出会さないかと心配したが、小学生の集団とすれ違っただけであった。祭りの喧騒から外れるような場所にポツンと立っているいつもの屋台に安心し、私はラーメンを注文する。
ここのラーメンは味は美味しいのだが、何やら得体の知れないもので出汁を取っているとの噂があり、まともな女子大生はこのような場所でラーメンを食べない。
しかし、とんでもなく美味しく、安く、ボリューミーであるため、私はここでよく夕食を食べていた。
無愛想な店主が、熱々の豚骨ラーメンを私の目の前においた。
早速、むわりと湯気が漂うラーメンに感動する。割り箸をパキンと割って一気にすする。ある程度食べ終わったとき、気づくと隣に一人の男性が座っていた。
間隔を開けようと少し右にずれると、その人は食べる手を止めて私の顔を見た。
「貴女、四天宝寺大の人?」
明らかに私にそう聞いているのだろうが、咄嗟のことに反応できなかった。
随分と老けた顔のその人は、私の返答を待っている。とにかく、どこかで会ったことはないだろう。完全に初対面だが、無視することもできないので「そうですが」と、短く返した。
「あの大学、アタシの友達が通ってんねん、お嬢ちゃんもここらの屋台を知ってるってことはそこの人ちゃうんかなと思って」
変わった喋り方をする人だ。私が頷いてチャーシューを食べるとまた喋り出した。友達、と言っているがもしかして同い年なのだろうか。いや、まさか。
「今はもう夏休みやね、屋台で晩ご飯ってことは家はここら辺なん?」
「寮に住んでます」
「あら!あの寮に女の子が住んどるなんて知らんかったわ!大変とちゃうん?」
「いや、そうでもないですよ、家賃安いし、結構楽しいです」
「へぇ〜、ようやりはる」
その後も色々と喋ってみて、その人の名前が小春さんであること、大阪にある別の大学に通っていて同い年であることなどが判明した。
話し上手で聞き上手なので、スルスルと心太のように話が進む。ラーメンの替え玉を注文し、会話を続行することにした。
「ここのラーメンまじで美味しいから何回でも行っちゃうんですよ、自炊する気も起きなくって、あはは」
ニキビも出来まくりですよ、と笑っておでこを見せると、小春さんは苦笑いした。
「それもそうなんやけど、ナマエちゃんは好きな人とかおらへんの?」
「えっ、すごく急ですね。そうですねぇ、彼氏もいませんし今のところ気になる人も……」
そこまで言いかけたところで、私の脳裏に財前くんの顔が浮かび上がった。
浮かび上がったのは彼が笑う顔だ。前に映画を見せたときの笑った顔が可愛かった。いつも無表情だったから、あの笑顔はなんとなく心に残っている。
しかし、雑念を取り払うように頭を横に降った。萎えるもの、と想像して忍足のしたり顔が浮かんできたところでようやく落ち着いた。
彼はただの後輩で顔見知りだ。本当に。
「えぇ〜〜!めっちゃ可愛かったでナマエちゃん!おるんやな!好きな人!」
「好きな人は!いないです!」
誤魔化すようにスープを飲むと、急に小春さんは真顔になった。
「嘘ついたらあかんで、ナマエちゃん」
「嘘なんてついてませんって!いやなんで嘘ついたって思ったんですか、マジで意味わからないですから」
「恋、しとるやろ」
「恋?」
「ナマエちゃんはその後輩くんに恋しとるんや」
「はぁ!?まさか私が財前くんを!?」
しまった。名前まで出してしまうとは。今まで生きてきた中で一番の不覚である。
「……私が恋していたらどうだっていうんですか」
「うん、あなたには今二つの星がついているんよ。一つは五億人に一人の幸運の星。もう一つは三万人に一人の凶星。特に、恋愛運が最高潮なんやけど、もう一つの星、つまりナマエちゃんの守護星がそれを邪魔してるんや」
「守護星って、それどれだけ私嫌われてるんですか」
「いや、逆にその星がついてるから守られていることもある。けど、一つ道を踏み外せば、恐ろしい暗闇が広がっているんや。そうならないように、幸運の星が守ってくれているんやで」
「はぁ、なるほど」
全く訳のわからない話だった。雑誌の星座占いで一喜一憂していた過去があるので面白くない話ではなかったが、こうも初対面の人にずばりと言われてしまうと、どうも感想を抱くことができない。
「ナマエちゃんに向かい合う形でいくつもの星が蠢いとる。これが人生で最後の幸運を掴むチャンスやな」
「えっ、これを逃したらどうなるんですか」
「そうやねぇ、アタシの口からはよう言えんわ。でもナマエちゃん、これだけはよく覚えといて、好機は凱旋門にあるんやで」
そう言うと、小春さんは霧のように消えていった。何度瞬きしてももういなかった。夢だったのか幻だったのかはわからないが、小春さんが食べていたラーメンの丼の横には千円札が置かれていた。
次の日また屋台のあった場所に行くと、それは跡形もなく消えていた。
盆が明け、忍足は戻ってきて財前くんはアルバイトのシフトが落ち着いてきたので撮影は最後の大詰め、クライマックスシーンの撮影に入った。
大学内にあったグリーンバックのあるスタジオで凱旋門と通天閣の融合シーンを撮影した。財前くんがいい感じにCGを作成し編集してくれるとのことで、私と忍足は彼にエナジードリンクと焼肉を奢ろうと密かに計画している。
財前くんはカメラを構えて、私たちが抱き合おうとしているところを笑いもせずに大真面目に撮影していた。逆に私が笑いそうになった。
最後の大詰めのキスシーン、何度も「したふり」をやってきた私たちは慣れたもので、まるで本当にキスしているかのように撮影することができた。出会った当初、最初に演じたときはこっぱずかして笑ってしまったが、一回生の時の忍足が大真面目にキスシーンの重要性を説いてきたので、今ではもう何とも思わない。まさにプロだ。大女優 ミョウジナマエである。
フランス外人傭兵部隊風のミリタリージャケットを着込んだ忍足と、高校時代の制服に身を包んだ私のキスシーンなど、面白くて仕方ないだろう、とちらりと財前くんをみたが、いつものような仏頂面を浮かべているだけだった。
撮影が終わり、普通の服に着替え、すぐさま編集作業に取り掛かる。撮影が終わっただけで喜ぶことはできない。むしろ、これからが一番大変なくらいだ。
夏休みの大学、平日とは違い人は少ない。いつものような騒がしさはなく、祭りが終わったようにぽつんと取り残されたような気分になる。運動部の元気な掛け声だけが響いていた。
PC室に陣取り、私は財前くんがわざわざ作ってきてくれた曲を映像に入れ込み、忍足は特殊効果をかけ、財前くんは事前に作成したCGをはめ込んでいる途中だった。
ソフトを読み込んでいる間に化粧落としシートでメイクを剥ぎ取っていると、飲み物を買うわと言って忍足が一時退出した。
「ミョウジ先輩、化粧あんま似合ってなかったからすっぴんの方がいいと思います」
「えっ、それって私の化粧が下手ってこと!?」
財前くんはモニターに映る私の顔を加工しながらそういった。
正直自覚はあった。ブルベイエベだのわけのわからない言葉は呪文のようだし、化粧品だってサークルの部室から拝借したものを、わからないなりにネットの記事を参照して塗りたくっただけだ。
「この口紅似合ってへんわ、先輩はオレンジ系のとか似合うと思うんやけど」
「えっ、口紅って赤だけじゃないの」
「……先輩、ホンマに女子大生っすか」
そういえば、青の口紅とかあった気がする、と何となく最後に訪れたデパートのコスメコーナーの光景を思い出した。財前くんが呆れるのも納得がいく。同じ学部の女子たちはキラキラとしたお化粧で自分を飾り立てていた。私のような人間の方がマイノリティなのだ。
「次の映画で使う化粧品買いにいきませんか、俺おごるんで。なんかみてられへんわ」
「奢りはいいよ、どうせ就活で使うから私が買うよ」
特殊メイクでも買うなら流石に全部払わせるのはしんどいし、普通のメイク用具なら後々使うので自分で買いたい。
そして、次の映画も手伝ってくれる気満々の財前くんに嬉しくなった。
「いや、俺が指摘したことなんで俺が買います……ってか先輩、俺と買い物行くことには嫌って言わないんすね」
「別に嫌がる理由もないと思うけど」
本心だった。異性と二人きりで買い出しというシチュエーションは文化祭で経験済みだし、別に財前くんのために休日を割くことに抵抗はない。しかし、「恋やで」という意味深な小春さんがが脳内に浮かんでしまう。
「じゃあ明日にでもどうですか」
「あー、いいよ、うん」
もうどうにでもなれ。
「明日の十二時、駅の北口で待ってますわ」
そう言うと、財前くんは何事もなかったかのようにPCの画面に向き直った。勢いのままに約束をして、まともに作業できなかった。その後に作業した箇所は、全没にされた。
だらだらと雑談しながら作業していたら、夕方になっていた。
財前くんはバイト先に向かい、私と忍足は突発的に激辛カレーが食べたくなり、カレー屋にきていた。
「うわー、キーマカレー美味しそう。でもバターチキンカレーも捨てがたい」
「俺キーマカレー頼むから、半分こせぇへん?」
「あ、マジ?いいの?ありがと」
くだらない雑談をしてカレーが来るのを待っていると、忍足が急に爆弾を投げてきた。
「ミョウジ、財前とデートするんやって?」
「は!?」
思わず飲んでいた水が変なところに入ってむせてしまった。
「コスメ買いに行くんやって?ええやん、彼氏彼女みたいやで。ってか付きあっとるんとちゃうん?」
「いやいやいや、ないないない!……ってかなんで知ってんのさ!?」
俺の知らんことはないで、と不敵に笑った忍足に寒気がした。
「ミョウジと財前、ええカップルになると思うで」
「それ言うなら、私と忍足も周りから見たらカップルに見えると思うんだけど……」
忍足はすっと真顔に戻った。
「俺とミョウジは、運命の緑の糸で結ばれとるんや」
「何それ」
前々から変な人だと思っていたが、緑の糸とはなんのことなのだろうか。頭でも打ったのか。理解不能である。
「まぁまぁ、俺は恋の邪魔者やないから、何も言わんとこ」
「は!?何それ!超気になるんだけど!」
「いずれわかるで」
「いずれってさぁ」
ちょうどカレーがきたので二人して夢中で食べていたら、何もかもがどうでも良くなった。
当日の朝、珍しくワンピースを着て駅に向かった。昨日は興奮で眠れず、師匠と一緒にジブリ映画を見た。師匠が途中で寝たので一人で最後まで見た。姉妹二人の絆に感動して泣いた。私も涙脆くなったものである。
北口についたら、ちょうど待ち合わせ時間の五分前で、ジャストタイミングだ!と喜んでいると、ちょうど財前くんが改札からこちらへ向かってくるのが見えた。
「おはようございます」
「おはよう、なんか今日人多くない?」
「あぁ、今日アートフェスタやってるみたいなんで」
映画という芸術に携わっている身としては少し気になってしまったが、今日のメインは化粧品選びだ。駅の中にあるショッピングセンターをみて回ることにした。
「これとかいいんとちゃいます」
「うーん、じゃあこれでいいかな」
化粧品のことなど全くわからない私とは正反対に、財前くんはぽいぽいと選んで私の肌に塗りたくってはカゴに放り込んでいる。
「ねぇ、何でこんなに詳しいの」
「あー、義理の姉が家にいるんで、それで」
「へぇ」
普通はそれくらいの理由でここまで詳しくなることはないと思うんだけど。
「そういや、先輩今日の服可愛いっすね」
「それさぁ今言う!?ありがとう!」
チェック柄のワンピースは私の一張羅だ。他はTシャツとジーンズくらいしかない。しかも、ユニクロかGUのセールで買った安物だけだ。
「このリップ試したいんで、先輩ちょっとこっちむいてください」
薬指にリップグロスをつけた財前くんは、私の唇に指を乗せた。
心なしか距離が近いような気がする。今まで顔やら腕やらに触られたことがあったが、唇に触られたのは初めてなので思わずドキドキしてしまう。
「これ、パリのブランドのやつなんで、前の映画と一緒っすね」
「あ、そうだね」
よく見ると、パッケージに凱旋門があしらわれている。
凱旋門……凱旋門だ。
小春さんの顔が脳裏に浮かぶ。好機とは、まさに今この瞬間なのではないだろうか。
「はい、できました」
今、死んでもいいかもしれない。もう、押せばいけるんじゃないかと勘違いしてしまう。だって、絶対私のこと好きでしょこんなの。
鏡を見ると何だか唇が光って結構いい感じになっていた。今までのグロスは揚げ物を食べた後のようだったので、財前くんの慧眼は見事なものだと感じた。美容部員になれるんじゃないか、この人。
「じゃあ、これ買ってきます」
「えっ、待ってよこれ全部って結構な量じゃん」
カゴいっぱいに入ったフルメイクセットに私は焦る。プチプラ系のやつでも全譜かえばいい値段になるんじゃないだろうか。アルバイトまでしている財前くんにそんなお金を払わせるわけにはいかないとレジの前で財布を開く。が、
「カードで」
と先に払われてしまった。一括で。
「うっ、ありがとう……でもごめん……」
「いや、気にしないでください。俺がやりたくてやったんで」
休憩しようと入った喫茶店では、お洒落なBGMがかかっていた。落ち着こうと紅茶を飲み、パフェのてっぺんに乗ったアイスをすくった。
「あ、この曲先輩知ってます?」
「うーん、聞き覚えがあるちょっと待って、思い出せそう」
少し唸って考えると、ある映画のワンシーンが浮かんできた。
「あ!アメリ!」
確か財前くんの好きな映画がそれだったはずだ。
「先輩と会って最初の方に言ったのに、覚えてくれてたんすね」
「いやー、財前くんがアメリ好きってさ、ギャップがすごいよ。絶対スピルバーグとかタランティーノとかそっちが好きって言うと思った」
「それミョウジ先輩が好きな監督やん」
「あはは、ばれた」
財前くんも私の好きな監督を覚えておいてくれたんだな、とジーンとなってしまう。あれだけ無愛想で他人に興味がなさそうな彼が私の個人的な好みを覚えておいてくれたとは。
「じゃあ忍足の好きな監督って覚えてる?」
「いや、何でそこで忍足さんの話になるんや」
「え、ダメだった?」
急に声が冷たくなった財前くんに、何か地雷を踏んでしまったのかと心配になる。別にふたりの仲が悪いような様子はなかったと思うけど。
「俺と一緒におるのに他の男の話しやんといてください」
「え」
「別に忍足さんと付き合ってないんですよね」
「うん、あいつは腐れ縁だよ」
「じゃあ、俺でもいいですよね」
「ん!?」
「って言うか先輩、キスシーンとか撮ってて恥ずかしくないんですか。忍足さんとはキスしても照れへんのに俺に顔近づけられたら照れて、でも俺とは食事とか全然誘ってくれへんし、忍足さんとべったりやし、俺、もうどうしたらええかわからんわ」
「待って待って待って待って」
「いや、待ちません。結局俺は忍足さんより下なんですか、男として見てくれへんのですか」
「忍足は友達!サークルメンバー!」
「じゃあ俺は」
「財前くんは……後輩でサークルメンバー?」
「忍足さんより格下やん」
もうなんかアホらしくなってきました、と財前くんはため息をついた。
「俺はただの先輩にコスメ奢らへんし、そもそも、一緒に買い物行こうなんて言わへん。先輩はのこのこポヤポヤしてるけど、ここまでしたら気づくと思ってました」
困ったことに財前くんはここで黙ってしまった。
「つまるところ、財前くんにとって私はただの先輩じゃないってこと?」
彼が少し恥ずかしそうにうなずいたとき、私の凱旋門パフェのアイスは溶け出していた。
全く、かわいい奴め。
ここから私と彼がどうなったかは火を見るよりも明らかであろうからあえて語らない。残りの夏休みを全て編集作業に注ぎ込んだ渾身の映画のフィルムは文化祭で上映され、なぜか大好評をいただいてしまった。完全にノースキャロライナから足抜けした私と忍足は、財前くんと三人で映画を作る日々を送っている。
あいも変わらず、思いつきだけで作ってはゲリラ的に上映していた映画は、なぜかたまたま文化祭にきていた映像制作会社の人の目に入り、気に入られ、インターンとしてうちにこないか、と誘われた。だがしかし、我々は商業趣味に走ることはない。丁重にお断りした。
他に変わったことといえは、映画で私の相手役を、財前くんがやるようになったことくらいだろうか。
あの時、他のサークルを選んでいたら私は忍足とも出会うことなく、財前くんと出会うことも、暗黒の一回生の4月を過ごすこともなかっただろう。もしもを考えるのは簡単だが、目の前にある事実以外は結局妄想でしかない。
でも、もしも他の選択肢を選んだのなら、と考えることは尽きないのである。
高校時代から全く成長せず、好きなことはぐうたらと昼寝とネットサーフィン。そんな怠惰な私がなんとか留年せずに進学できたのは奇跡であるといえる。
私は怠惰であるがプライドはある。先輩に媚び諂って過去問をもらったり、他人に泣きついて課題を手伝ってもらったり、ということは大嫌いだ。他人に頭を下げるくらいなら死んだ方がマシだし、恥ずかしい過去をバラすくらいなら死を選ぶ。武士道は嫌いだが、恥を晒すくらいなら死ぬ、という考えには共感を覚える。
少なくとも中学時代、いや小学生時代はこんな性格ではなかったはずだ。自分の性根が曲がりに曲がり、嫌いな人間は自分よりも幸せな人間であると胸を張って言うようになるまでの自分は恐ろしいほどに無垢で、可愛らしく、まるで天使のようだったと断言できる。昔のアルバムの無邪気な笑顔がそれを物語っている。しかしそれは、中学生のある日を境に無表情に変わってしまった。そんな己の性格を改めることをよしとせず、意地を貼りまくって口に出すのもおぞましいような失敗をした高校時代。その暗黒の日々を払拭せんと大学入学時に奮起したものの失敗に終わった話。語るに値しない数々の暗黒の記録を上書きしようと色々暴れた記録が、今から話す物語である。
途中で聞き苦しい箇所や一部脚色を加えた場面があることは事前に謝罪しよう。
ただ、私なりにちゃんと考えての行動だということだけは頭に入れて、この話を聞いて欲しいのだ。
話は、私が大阪の四天宝寺大学に入学した時から始まる。多くの進学希望者がそうであるように、高校三年という青春真っ盛りの時期を大学受験に捧げた私は、ウキウキとした気分で入学式を終え、その足で講堂から出て行った。
講堂から生協までの道は、普段なら立派な木々が建ち並び、大人数で入りもんめができるくらいには広い。前日に訪れた際はひらひらと舞い踊る桜の花びらを見つめては、これからの生活に思いを馳せることができるようなセンチメンタルな場所であったのだが、今は桜を見上げる余裕などはなく、浮かれた新入生とその倍以上はいるであろう上級生でもみくちゃになっていた。
入学式が終わってからの一週間は、サークルや部活といった学生の集団が、無垢な一年生を勧誘しようと必死になる。あの手この手で新入生を釣ろうとお祭り騒ぎの乱闘を繰り広げる。この恐ろしい一週間は、通称「フィッシング・ウィーク」と呼ばれているらしく、ビラを撒き餌に釣り人たちが激しくぶつかり合っていた。私はそれに遭遇したのである。
東京の満員ラッシュでもここまでひどくはならなかったはずだ。大阪という土地柄がそうさせるのか、ここが特別特殊なのか、理由を求めることは難しいのだが、戻るにも戻れず、私は大量のビラを押し付けられ、リュックを背負った集団にタックルされ、小柄な女生徒を庇ったり、大柄な生徒の影に隠れてやり過ごしたりと、なんとか人の海を泳ぎ切ることに成功した。
一旦寮に戻り、腕いっぱいに抱え込んだ中から気になるものとゴミを選別してみたら、以下のものが残った。
「映画制作サークル ノースキャロライナ」
「園芸サークル ナルキッソス」
「ボランティアサークル まんまる」
「お笑い同好会」
私がその中で目を奪われたのは、ノースキャロライナというアメリカの州名を冠した映画サークルだった。「商業主義に捉われない、芸術を重んじる表現者求む」という小恥ずかしいコピーを見た瞬間、私の脳内にはカメラの前で大女優のように堂々と演じている自分と、それを見て拍手喝采する学生たち、というビジョンが見えた。映画の中の配役よろしく私は精悍な顔立ちの男子大学生と恋におち、芸術を愛する者同士、今の時代では絶滅危惧種である清く正しいお付き合いをし、薔薇色のキャンパスライフを送る。
もしくは、女流作家よろしく痛快な新劇を執筆してみてもいいかもしれない。高額な機材を自在に操り、頼れる人だという称号をいただくのも良いかも。
次の週、勢いのまま新歓コンパに参加し、その場で届出を提出した私を引っ叩きたい。そんな幻想は見事に打ち砕かれたのだ。
ノースキャロライナに入部した私を待ち受けていたのは厳しい現実であった。このサークル、メンバーは全員顔馴染みであった。「みんな初心者だし、すぐ馴染めるよ」の言葉を信じた私が馬鹿だ。部員は9名。女子が6人で男子が3人。同じ一回生として入った全員は、私以外全員が地元の人間であった。関西弁を使い慣れない私は関西弁ネイティブのマシンガントークとノリツッコミの応酬、ローカルトークにマニアックすぎる映画の話題などについていくことができず、空気の読めない発言を連発し、場の空気を見出しては気を遣わせ、気まずい思いをさせることしかできなかった。せめて、映画の話でもできれば、とレンタルビデオ店に足繁く通い小難しい映画の知識だけは身につけたが、その知識を披露すればするほどただの自慢したがりのように見えてしまい、滑稽な自分が阿呆らしくなった。
短期間ではあるが映画漬けの生活を送り、寝食を忘れ、授業を忘れ、映画を見続けた私は、いつの間にか完全に孤立していた。私に声をかけるものはいない。部屋の隅の埃のような扱いだ。つまり、邪魔者というわけである。
しかし、こんな惨めなサークル生活はある男の手によって劇的に変わることになる。そいつの名を忍足という。
入部早々やってきたゴールデンウィーク。そこで俳優役として派遣されてきた忍足は、あまりの演技のうまさからサークルメンバーに熱心に勧誘され、「暇つぶしに丁度ええと思ったんや」と言って連休明けからこのサークルのメンバーになってしまった。撮影には呼ばれたもののやることのなかった私は隅っこで機材をいじるしかなく、大して面白いとも思えない台本の整理をしていた。そんな私を目敏く見つけ、「そういえば同じ授業取ってたよな」とするりするりと私のスペースに侵入し、唯一気を使わずに話せた忍足にすっかり懐柔され、なんとなく二人で行動するくらいの仲になってしまった。同じ授業を取っていたのにこんなイケメンに気付かなかったのは不覚ではある。が、しかし今でも忍足と私は友人として交流している。ただ、時折胡散臭いと感じるような言動をしたり、メガネは伊達だったりと掴みどころのない人間だとは思っている。聞けば忍足は中学と高校を東京で過ごしていたらしく、かなりローカルな話題でも盛り上がることができた。同好会にちなんで映画は何が好きなのかと問うた質問に、「ラブロマンス」と答えていて何となく納得してしまった、というのは内緒にしておこう。
さて、私と忍足の友情物語はここまでにして、時は2回生の春まで一気に駆け抜ける。私と忍足は1回生の後半になると映画サークルにはあまり顔を出さないようになり、新入生歓迎のための映画を二人で撮影していた。他のメンバーは私という異分子を忍足とくっつけて安心しており、かつてのような和気藹々とした雰囲気に包まれていた。いつの間にか忍足も、私のような人間と関わっているためかカテゴリ外になってしまったらしい。やれやれと格好つけて春休みを費やして作成した映画は、2回生の春、入学式が終わってすぐに発表されることになった。
ノースキャロライナに私と忍足は所属しているのかしていないのか微妙な関係だが、一応籍は置いているし、撮影機材も編集機材も借りたから、と新歓の時の制作物発表には出してもらえることになった。学園祭時や冬休みには残りのメンバーの手伝いしかしていなかった私たちにとって、初めての自主制作映画である。映画の内容は、恋愛をテーマにした映画の連作短編で、内容はどれも大学を舞台にした物語である。私の怪演と忍足の難解かつ独創的なシナリオに、我々は納得したが新入生にはいまいちウケが悪かった。
忍足と私の体をはったキスシーンは失笑を買ったほどである。せっかく体を張ったのに!
しかし、つい最近まで高校生だったであろう集団の中で、たった一人だけが私たちの映画を熱心に見ていた。そんな有望な新入生は人間科学部の一回生で、名を財前光くんという。
時間は飛んで、現在二回生の夏。私と忍足は次回作のため、春から温めていた脚本の練り直しに頭を痛めていた。脚本の骨組み自体は完成している。毎夜二人でしこしこと紡いでいる小説のバトンは、最終的に超大作大河ドラマと化して、自主制作映画の粋を超えるような複雑なものになっていた。
部員でもあるにも関わらずノースキャロライナに顔を出さ図に、冷房の効いたマクドナルドでノートパソコンとにらめっこしている。今頃部室では、他のメンバーが馴れ合い舐め合い、大してクオリティも高くない映画の企画を練っているのだろう。
「ミョウジ、それ、ブーメランやで」
「忍足、まさか思考まで読めるようになったのか」
ビッグマックの箱の底に落ちたキャベツを拾い、目の前の男はため息をついた。
「素人の大学生に作れる映画なんてたかが知れてるやろ、しかも、俺ら芸大生とかとちゃうんやで」
彼の意見はごもっともである。
「でも、私はこの映画制作に命削ってるよ。大学に入ったのはこのためだと思うし、私はきっと一生映画を作って生きていくと思う。日本のキューブリックって呼ばれたいわけ。わかる?」
「命とちゃう、単位を削ってるんやろ」
炭酸が抜けたコーラを飲み、私は目の前のテキストファイルを睨んだ。忍足の得意とするラブロマンスと、私の好きな前衛芸術と小粋なギャグを掛け合わせ、アカデミー賞審査員も真っ青になるような鋭い作品を作りたい。あわよくば、若手天才監督として名を轟かせたい。
「やっぱり、パリが舞台の作品を大阪で撮るんは無理あるで。ボンジュールなんて言っとる人誰もおらん。フランス革命前みたいなおっちゃんはおるけど」
「でも、大阪が舞台はマンネリしちゃうよ」
「じゃあ京都か兵庫あたりでええんとちゃうか?ほら、京都とか映えるような場所いっぱいあるやん」
「でも、ラストシーンで凱旋門の向こう側と通天閣がドッキングする場面は大阪じゃないと無理だよ」
「新世界に凱旋門て、ヤバイな」
「そこ私が酒飲みながら書いたとこだし」
「CGで何とかできるっちゃできると思うで、パリも」
「えー、使えるの?ソフト」
「……他の部員なら」
「え、それだけは嫌」
「何でこう、自分は他の人ら嫌がっとんの」
「なんかさぁ、社畜感が無理。宗教サークルと同じ匂いがする」
「それは言い過ぎやで、まぁわからんでもないけど」
仲良しグループの面々は、それはそれは楽しそうに映画を作成していた。作成中にメンバーが留年しかけても、熱中症になっても撮影は続行された。私たちはグロッキーになりながらその作業を手伝っていた。詳しくは聞かないが、やはり宗教サークルなのではないだろうか。話に道徳的な押し付けが多すぎる。
「でもさぁ、この映画はそこがクライマックスだし、ちゃんとやらないとそれまでの一時間が無駄になるよ」
「まぁそうやな」
「部員以外でそういうの作れそうな人いない?」
そう言いながら、少し思考を張り巡らせる。
残念ながら、私の片手で数えられるほどの交友関係のなかでそれに該当する人間は思い浮かばなかった。
「……あ、一人おったわ」
忍足の口から財前くんの名前が出た。
歓迎会で映画を見てくれた財前くんだが彼は結局、サークルに入部しなかった。
それは正解だと思う。私は面食いなので、正直なところ、イケメンを逃したのは惜しかったと少し後悔している。片付けの準備をしているときにスッと現れ、「演技と荒唐無稽な内容は往年の無声映画を思わせて、結構おもろかった」という感想をくれて「また新作できたら教えてください」と言い残して去っていこうとした。それに舞い上がった私は半ば無理やりに連絡先を交換した。時折送られてくる公開中の映画の感想は、かなり斜に構えたものではあったがとても面白かった。
忍足と財前くんは昔からの顔見知りらしく、久しぶりの再会にどこかよそよそしい挨拶を交わしていた。
今でも、たまに三人で昼休みにあって話すことがある。今回の撮影機材を貸してくれたのは彼だった。新歓で吹っ切れた私たちは、あれから次々と映画を制作し、寮や講堂で作品を公開しては様々な生徒に引かれたりしているのだが、財前くんは毎回律儀に参加しては、私たちの奇抜なラブロマンス劇で笑ってくれていた。
「また変なものを作りましたね」
毎回新作を見るたびに、彼はそんな風に言う。そのときに浮かべる呆れたような笑みが好きだった。普段無愛想な人間が、心の柔らかいところを晒すととんでもない破壊力がある。それを思い知った。
また、大学の中で会ったときは挨拶をしてくれる。基本的に面倒くさがりだが、やるべきことはきちんとする。無愛想だがいい人なのだ。
私は彼のことを友達と呼んでいいのかわからなかった。そうなると、私は大学で忍足以外に友人と呼べる人がいないということになってしまう。
忍足がラインで財前くんにメッセージを送って、すぐに既読がついた。次の日から制作を手伝ってくれることになった。授業終わりにマクドナルドに集まり、ポテトを食べながら脚本や演出について議論を交わし、ときに知恵熱が出るほど考えたり。
財前くんが提案してくれるアイデアは実にユニークで、それに触発されて脚本がさらに分厚くなった。一人で盛り上がる私は、妙に冷静な二人のおかげでマクドナルドを出禁になることを免れた。
テストに悪戦苦闘しつつもなんとか撃破し、やっと本腰を入れて撮影できるぞ、と気合を入れ直して重い腰をあげたときには、すでに夏休みが始まっていた。
夏休みに入り、大阪で一人暮らしをしていた忍足は東京の家族のところに一時帰省することになり、財前くんはバイトが繁忙期に入ったために映画の撮影をすることはできなくなった。
私は東京に帰る交通費のことを考え、夏休みは今暮らしている寮で過ごすことにした。やることもないし、と学生らしく勉学に励もうにも開いた形跡のない教科書は隅に追いやられ、何かものでも書こうかと原稿用紙を買ってきたが、脚本制作段階で燃え尽きてしまったせいで満足のいくものは書けない。それらをスランプだと思い込み、ならばと部屋の掃除をしてみるが俳優の写真集をめくっているうちに夕方になっていた。気づけば、昼食をとることも忘れて漫画を全巻読破していたらしく、お腹が空いたが自炊する気も起きないので外に出てみることにした。
寮生活を送る中で、誰にいつ見られてもいいようにと最低限の身嗜みは整えるとようにしている。そのおかげで外に出るための格好は整っていた。すっぴんなのは普段からなので気にしない。
私が住んでいるこの寮は、男女共用の風呂トイレ台所共用という、近代にあるまじきレトロなものであった。建物自体は築数十年経っているが、水回りを定期的にリフォームしているのでそこそこ小綺麗な印象を受ける。
しかし、建築された時期のせいか壁が薄く、廊下を歩けばミシミシと不穏な音がする。毎夜、上の住民の足音が聞こえる。共同スペースに置かれた物は大抵誰かの個室に連れ込まれる。住人は曲者揃いで、留学生から留年して長く大学に留まる者まで出る者追わず来るもの拒まずで受け入れていた。
個室の四畳半に物を詰め込む感覚は好きだ。寮には友人こそいないものの、顔見知りはいる。
「ナマエ、外に出るんと?」
ぬっと大男が出てきたので彼を見上げる形になった。
部屋のドアを開けた時に声をかけてきたのは、隣の部屋の住人、千歳千里さんである。彼はこの寮に何年も住み着いているらしく、まるで風来坊のような外見から、私は彼を師匠と呼んでいる。実際の年は知らないが、まさか同い年ということはないだろう。
師匠はすごい人だ。
私が第二外国語で選択しているのに全く喋れない中国語を、師匠は一ミリも知らないのに中国からきた留学生と親しげに談笑することができる。ボディランゲージが多く放浪癖があり、醸し出す雰囲気は仙人か妖精に似ている。
大阪にずっといるのに熊本弁だし、学内で顔を合わせることはない。そもそもどこの学部かもわからない。寮に住み着いているにも関わらず、学生をしている空気を微塵も感じ取れない。二階に住んでいる石田銀さんという、これもまた大学生に見えない方とお友達である。
そのせいで、大学の単位は大丈夫なのかと他人事ながら考えてしまう。そして何より、顔面がいい。これは最重要項目である。ここまで語ってはみたものの、よくわからない謎の人である。それでも、よく喋る機会がある顔馴染みと呼べる人だろう。
「そうです」
「じゃあ、神社でベビーカステラば買うてきてくれんか」
師匠と呼ぶ人にそう言われたら、断れない。私は無言でうなずいた。
それをみた師匠は満足げな表情を浮かべた。私に財布を預けると、部屋に入ってしまった。
神社。あぁ、今日はお祭りだったか。
外が少し騒がしいと思っていたが、お祭りがあったなら納得だ。
ちょうど神社あたりに行こうと思っていたし、小銭でいっぱいになった皮財布から少しだけ拝借してもバレないだろう。
私は寮を出て、踏切を渡り、人混みでごった返す神社へ赴き、列に並んでベビーカステラを購入し、そこから一個だけ拝借して神社近くの屋台に向かった。
道中同じ大学の人に出会さないかと心配したが、小学生の集団とすれ違っただけであった。祭りの喧騒から外れるような場所にポツンと立っているいつもの屋台に安心し、私はラーメンを注文する。
ここのラーメンは味は美味しいのだが、何やら得体の知れないもので出汁を取っているとの噂があり、まともな女子大生はこのような場所でラーメンを食べない。
しかし、とんでもなく美味しく、安く、ボリューミーであるため、私はここでよく夕食を食べていた。
無愛想な店主が、熱々の豚骨ラーメンを私の目の前においた。
早速、むわりと湯気が漂うラーメンに感動する。割り箸をパキンと割って一気にすする。ある程度食べ終わったとき、気づくと隣に一人の男性が座っていた。
間隔を開けようと少し右にずれると、その人は食べる手を止めて私の顔を見た。
「貴女、四天宝寺大の人?」
明らかに私にそう聞いているのだろうが、咄嗟のことに反応できなかった。
随分と老けた顔のその人は、私の返答を待っている。とにかく、どこかで会ったことはないだろう。完全に初対面だが、無視することもできないので「そうですが」と、短く返した。
「あの大学、アタシの友達が通ってんねん、お嬢ちゃんもここらの屋台を知ってるってことはそこの人ちゃうんかなと思って」
変わった喋り方をする人だ。私が頷いてチャーシューを食べるとまた喋り出した。友達、と言っているがもしかして同い年なのだろうか。いや、まさか。
「今はもう夏休みやね、屋台で晩ご飯ってことは家はここら辺なん?」
「寮に住んでます」
「あら!あの寮に女の子が住んどるなんて知らんかったわ!大変とちゃうん?」
「いや、そうでもないですよ、家賃安いし、結構楽しいです」
「へぇ〜、ようやりはる」
その後も色々と喋ってみて、その人の名前が小春さんであること、大阪にある別の大学に通っていて同い年であることなどが判明した。
話し上手で聞き上手なので、スルスルと心太のように話が進む。ラーメンの替え玉を注文し、会話を続行することにした。
「ここのラーメンまじで美味しいから何回でも行っちゃうんですよ、自炊する気も起きなくって、あはは」
ニキビも出来まくりですよ、と笑っておでこを見せると、小春さんは苦笑いした。
「それもそうなんやけど、ナマエちゃんは好きな人とかおらへんの?」
「えっ、すごく急ですね。そうですねぇ、彼氏もいませんし今のところ気になる人も……」
そこまで言いかけたところで、私の脳裏に財前くんの顔が浮かび上がった。
浮かび上がったのは彼が笑う顔だ。前に映画を見せたときの笑った顔が可愛かった。いつも無表情だったから、あの笑顔はなんとなく心に残っている。
しかし、雑念を取り払うように頭を横に降った。萎えるもの、と想像して忍足のしたり顔が浮かんできたところでようやく落ち着いた。
彼はただの後輩で顔見知りだ。本当に。
「えぇ〜〜!めっちゃ可愛かったでナマエちゃん!おるんやな!好きな人!」
「好きな人は!いないです!」
誤魔化すようにスープを飲むと、急に小春さんは真顔になった。
「嘘ついたらあかんで、ナマエちゃん」
「嘘なんてついてませんって!いやなんで嘘ついたって思ったんですか、マジで意味わからないですから」
「恋、しとるやろ」
「恋?」
「ナマエちゃんはその後輩くんに恋しとるんや」
「はぁ!?まさか私が財前くんを!?」
しまった。名前まで出してしまうとは。今まで生きてきた中で一番の不覚である。
「……私が恋していたらどうだっていうんですか」
「うん、あなたには今二つの星がついているんよ。一つは五億人に一人の幸運の星。もう一つは三万人に一人の凶星。特に、恋愛運が最高潮なんやけど、もう一つの星、つまりナマエちゃんの守護星がそれを邪魔してるんや」
「守護星って、それどれだけ私嫌われてるんですか」
「いや、逆にその星がついてるから守られていることもある。けど、一つ道を踏み外せば、恐ろしい暗闇が広がっているんや。そうならないように、幸運の星が守ってくれているんやで」
「はぁ、なるほど」
全く訳のわからない話だった。雑誌の星座占いで一喜一憂していた過去があるので面白くない話ではなかったが、こうも初対面の人にずばりと言われてしまうと、どうも感想を抱くことができない。
「ナマエちゃんに向かい合う形でいくつもの星が蠢いとる。これが人生で最後の幸運を掴むチャンスやな」
「えっ、これを逃したらどうなるんですか」
「そうやねぇ、アタシの口からはよう言えんわ。でもナマエちゃん、これだけはよく覚えといて、好機は凱旋門にあるんやで」
そう言うと、小春さんは霧のように消えていった。何度瞬きしてももういなかった。夢だったのか幻だったのかはわからないが、小春さんが食べていたラーメンの丼の横には千円札が置かれていた。
次の日また屋台のあった場所に行くと、それは跡形もなく消えていた。
盆が明け、忍足は戻ってきて財前くんはアルバイトのシフトが落ち着いてきたので撮影は最後の大詰め、クライマックスシーンの撮影に入った。
大学内にあったグリーンバックのあるスタジオで凱旋門と通天閣の融合シーンを撮影した。財前くんがいい感じにCGを作成し編集してくれるとのことで、私と忍足は彼にエナジードリンクと焼肉を奢ろうと密かに計画している。
財前くんはカメラを構えて、私たちが抱き合おうとしているところを笑いもせずに大真面目に撮影していた。逆に私が笑いそうになった。
最後の大詰めのキスシーン、何度も「したふり」をやってきた私たちは慣れたもので、まるで本当にキスしているかのように撮影することができた。出会った当初、最初に演じたときはこっぱずかして笑ってしまったが、一回生の時の忍足が大真面目にキスシーンの重要性を説いてきたので、今ではもう何とも思わない。まさにプロだ。大女優 ミョウジナマエである。
フランス外人傭兵部隊風のミリタリージャケットを着込んだ忍足と、高校時代の制服に身を包んだ私のキスシーンなど、面白くて仕方ないだろう、とちらりと財前くんをみたが、いつものような仏頂面を浮かべているだけだった。
撮影が終わり、普通の服に着替え、すぐさま編集作業に取り掛かる。撮影が終わっただけで喜ぶことはできない。むしろ、これからが一番大変なくらいだ。
夏休みの大学、平日とは違い人は少ない。いつものような騒がしさはなく、祭りが終わったようにぽつんと取り残されたような気分になる。運動部の元気な掛け声だけが響いていた。
PC室に陣取り、私は財前くんがわざわざ作ってきてくれた曲を映像に入れ込み、忍足は特殊効果をかけ、財前くんは事前に作成したCGをはめ込んでいる途中だった。
ソフトを読み込んでいる間に化粧落としシートでメイクを剥ぎ取っていると、飲み物を買うわと言って忍足が一時退出した。
「ミョウジ先輩、化粧あんま似合ってなかったからすっぴんの方がいいと思います」
「えっ、それって私の化粧が下手ってこと!?」
財前くんはモニターに映る私の顔を加工しながらそういった。
正直自覚はあった。ブルベイエベだのわけのわからない言葉は呪文のようだし、化粧品だってサークルの部室から拝借したものを、わからないなりにネットの記事を参照して塗りたくっただけだ。
「この口紅似合ってへんわ、先輩はオレンジ系のとか似合うと思うんやけど」
「えっ、口紅って赤だけじゃないの」
「……先輩、ホンマに女子大生っすか」
そういえば、青の口紅とかあった気がする、と何となく最後に訪れたデパートのコスメコーナーの光景を思い出した。財前くんが呆れるのも納得がいく。同じ学部の女子たちはキラキラとしたお化粧で自分を飾り立てていた。私のような人間の方がマイノリティなのだ。
「次の映画で使う化粧品買いにいきませんか、俺おごるんで。なんかみてられへんわ」
「奢りはいいよ、どうせ就活で使うから私が買うよ」
特殊メイクでも買うなら流石に全部払わせるのはしんどいし、普通のメイク用具なら後々使うので自分で買いたい。
そして、次の映画も手伝ってくれる気満々の財前くんに嬉しくなった。
「いや、俺が指摘したことなんで俺が買います……ってか先輩、俺と買い物行くことには嫌って言わないんすね」
「別に嫌がる理由もないと思うけど」
本心だった。異性と二人きりで買い出しというシチュエーションは文化祭で経験済みだし、別に財前くんのために休日を割くことに抵抗はない。しかし、「恋やで」という意味深な小春さんがが脳内に浮かんでしまう。
「じゃあ明日にでもどうですか」
「あー、いいよ、うん」
もうどうにでもなれ。
「明日の十二時、駅の北口で待ってますわ」
そう言うと、財前くんは何事もなかったかのようにPCの画面に向き直った。勢いのままに約束をして、まともに作業できなかった。その後に作業した箇所は、全没にされた。
だらだらと雑談しながら作業していたら、夕方になっていた。
財前くんはバイト先に向かい、私と忍足は突発的に激辛カレーが食べたくなり、カレー屋にきていた。
「うわー、キーマカレー美味しそう。でもバターチキンカレーも捨てがたい」
「俺キーマカレー頼むから、半分こせぇへん?」
「あ、マジ?いいの?ありがと」
くだらない雑談をしてカレーが来るのを待っていると、忍足が急に爆弾を投げてきた。
「ミョウジ、財前とデートするんやって?」
「は!?」
思わず飲んでいた水が変なところに入ってむせてしまった。
「コスメ買いに行くんやって?ええやん、彼氏彼女みたいやで。ってか付きあっとるんとちゃうん?」
「いやいやいや、ないないない!……ってかなんで知ってんのさ!?」
俺の知らんことはないで、と不敵に笑った忍足に寒気がした。
「ミョウジと財前、ええカップルになると思うで」
「それ言うなら、私と忍足も周りから見たらカップルに見えると思うんだけど……」
忍足はすっと真顔に戻った。
「俺とミョウジは、運命の緑の糸で結ばれとるんや」
「何それ」
前々から変な人だと思っていたが、緑の糸とはなんのことなのだろうか。頭でも打ったのか。理解不能である。
「まぁまぁ、俺は恋の邪魔者やないから、何も言わんとこ」
「は!?何それ!超気になるんだけど!」
「いずれわかるで」
「いずれってさぁ」
ちょうどカレーがきたので二人して夢中で食べていたら、何もかもがどうでも良くなった。
当日の朝、珍しくワンピースを着て駅に向かった。昨日は興奮で眠れず、師匠と一緒にジブリ映画を見た。師匠が途中で寝たので一人で最後まで見た。姉妹二人の絆に感動して泣いた。私も涙脆くなったものである。
北口についたら、ちょうど待ち合わせ時間の五分前で、ジャストタイミングだ!と喜んでいると、ちょうど財前くんが改札からこちらへ向かってくるのが見えた。
「おはようございます」
「おはよう、なんか今日人多くない?」
「あぁ、今日アートフェスタやってるみたいなんで」
映画という芸術に携わっている身としては少し気になってしまったが、今日のメインは化粧品選びだ。駅の中にあるショッピングセンターをみて回ることにした。
「これとかいいんとちゃいます」
「うーん、じゃあこれでいいかな」
化粧品のことなど全くわからない私とは正反対に、財前くんはぽいぽいと選んで私の肌に塗りたくってはカゴに放り込んでいる。
「ねぇ、何でこんなに詳しいの」
「あー、義理の姉が家にいるんで、それで」
「へぇ」
普通はそれくらいの理由でここまで詳しくなることはないと思うんだけど。
「そういや、先輩今日の服可愛いっすね」
「それさぁ今言う!?ありがとう!」
チェック柄のワンピースは私の一張羅だ。他はTシャツとジーンズくらいしかない。しかも、ユニクロかGUのセールで買った安物だけだ。
「このリップ試したいんで、先輩ちょっとこっちむいてください」
薬指にリップグロスをつけた財前くんは、私の唇に指を乗せた。
心なしか距離が近いような気がする。今まで顔やら腕やらに触られたことがあったが、唇に触られたのは初めてなので思わずドキドキしてしまう。
「これ、パリのブランドのやつなんで、前の映画と一緒っすね」
「あ、そうだね」
よく見ると、パッケージに凱旋門があしらわれている。
凱旋門……凱旋門だ。
小春さんの顔が脳裏に浮かぶ。好機とは、まさに今この瞬間なのではないだろうか。
「はい、できました」
今、死んでもいいかもしれない。もう、押せばいけるんじゃないかと勘違いしてしまう。だって、絶対私のこと好きでしょこんなの。
鏡を見ると何だか唇が光って結構いい感じになっていた。今までのグロスは揚げ物を食べた後のようだったので、財前くんの慧眼は見事なものだと感じた。美容部員になれるんじゃないか、この人。
「じゃあ、これ買ってきます」
「えっ、待ってよこれ全部って結構な量じゃん」
カゴいっぱいに入ったフルメイクセットに私は焦る。プチプラ系のやつでも全譜かえばいい値段になるんじゃないだろうか。アルバイトまでしている財前くんにそんなお金を払わせるわけにはいかないとレジの前で財布を開く。が、
「カードで」
と先に払われてしまった。一括で。
「うっ、ありがとう……でもごめん……」
「いや、気にしないでください。俺がやりたくてやったんで」
休憩しようと入った喫茶店では、お洒落なBGMがかかっていた。落ち着こうと紅茶を飲み、パフェのてっぺんに乗ったアイスをすくった。
「あ、この曲先輩知ってます?」
「うーん、聞き覚えがあるちょっと待って、思い出せそう」
少し唸って考えると、ある映画のワンシーンが浮かんできた。
「あ!アメリ!」
確か財前くんの好きな映画がそれだったはずだ。
「先輩と会って最初の方に言ったのに、覚えてくれてたんすね」
「いやー、財前くんがアメリ好きってさ、ギャップがすごいよ。絶対スピルバーグとかタランティーノとかそっちが好きって言うと思った」
「それミョウジ先輩が好きな監督やん」
「あはは、ばれた」
財前くんも私の好きな監督を覚えておいてくれたんだな、とジーンとなってしまう。あれだけ無愛想で他人に興味がなさそうな彼が私の個人的な好みを覚えておいてくれたとは。
「じゃあ忍足の好きな監督って覚えてる?」
「いや、何でそこで忍足さんの話になるんや」
「え、ダメだった?」
急に声が冷たくなった財前くんに、何か地雷を踏んでしまったのかと心配になる。別にふたりの仲が悪いような様子はなかったと思うけど。
「俺と一緒におるのに他の男の話しやんといてください」
「え」
「別に忍足さんと付き合ってないんですよね」
「うん、あいつは腐れ縁だよ」
「じゃあ、俺でもいいですよね」
「ん!?」
「って言うか先輩、キスシーンとか撮ってて恥ずかしくないんですか。忍足さんとはキスしても照れへんのに俺に顔近づけられたら照れて、でも俺とは食事とか全然誘ってくれへんし、忍足さんとべったりやし、俺、もうどうしたらええかわからんわ」
「待って待って待って待って」
「いや、待ちません。結局俺は忍足さんより下なんですか、男として見てくれへんのですか」
「忍足は友達!サークルメンバー!」
「じゃあ俺は」
「財前くんは……後輩でサークルメンバー?」
「忍足さんより格下やん」
もうなんかアホらしくなってきました、と財前くんはため息をついた。
「俺はただの先輩にコスメ奢らへんし、そもそも、一緒に買い物行こうなんて言わへん。先輩はのこのこポヤポヤしてるけど、ここまでしたら気づくと思ってました」
困ったことに財前くんはここで黙ってしまった。
「つまるところ、財前くんにとって私はただの先輩じゃないってこと?」
彼が少し恥ずかしそうにうなずいたとき、私の凱旋門パフェのアイスは溶け出していた。
全く、かわいい奴め。
ここから私と彼がどうなったかは火を見るよりも明らかであろうからあえて語らない。残りの夏休みを全て編集作業に注ぎ込んだ渾身の映画のフィルムは文化祭で上映され、なぜか大好評をいただいてしまった。完全にノースキャロライナから足抜けした私と忍足は、財前くんと三人で映画を作る日々を送っている。
あいも変わらず、思いつきだけで作ってはゲリラ的に上映していた映画は、なぜかたまたま文化祭にきていた映像制作会社の人の目に入り、気に入られ、インターンとしてうちにこないか、と誘われた。だがしかし、我々は商業趣味に走ることはない。丁重にお断りした。
他に変わったことといえは、映画で私の相手役を、財前くんがやるようになったことくらいだろうか。
あの時、他のサークルを選んでいたら私は忍足とも出会うことなく、財前くんと出会うことも、暗黒の一回生の4月を過ごすこともなかっただろう。もしもを考えるのは簡単だが、目の前にある事実以外は結局妄想でしかない。
でも、もしも他の選択肢を選んだのなら、と考えることは尽きないのである。