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えたーなる
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夏の、蒸し暑い夜だった。
何度も何度も踏みつけられて伸びる余裕がない芝のコースを、私は一人で走っていた。
いくら日が落ちたとはいえ、この時期に走るといやでも汗をかく。結んだ髪の中から、首筋を伝う汗が、私の微かな集中力を鈍らせる。
ストップウォッチでタイムを測ってくれる人もいない、ひたすらコースを往復しては、体力が尽きるのを待つだけ。周りに人のいないこの時間は、隠れて自主トレするにはうってつけだった。
頭の中でカウントをとりながら、走り慣れたコースの曲線を曲がる。脳裏に浮かぶのは、春の決定的な惨敗の光景だけ。
あの残り400メートルを、私は心臓がはちきれそうな気持ちで走っていた。ウマ娘として生まれて、地元では誰にも負けたことがなかった。でも、全国区となると話は違う。
一丁前にプライドだけが高かった私は、自分が落ちこぼれの、井の中の蛙であることを、そこで初めて知ったのだ。
残りの坂を駆け上がると、昔の失敗が嫌に思い出させられて、気が散る。
私の足が、コースを蹴って動いている。動いているのに、前との距離は縮まらない。前を走る背中が一つ、二つと増えていって、いつの間にか私は最後尾を走っているーー
そこまで思い出して、急に足が止まった。足下の芝が、私の急ブレーキによって少しだけえぐれた。
走馬灯にように蘇るあの景色は、時折私の脳内に現れて、陽炎のような幻覚を見せる。
……まだ、正式戦にも出たことがないのに、何をトラウマみたいに考えているのだろう。
今日もまた、走ることが一段と嫌になった。それでも無理やり走っているのは、どうしてだろう。
ペットボトルの水を飲む時、決まって泣きそうになる。だから私は、空を見るようにしていた。上を向いていれば涙はこぼれない。そんな歌があった気がしたから。
地元の空とは違って、東京の空はいつも星が見えない。けれど、その中でも輝いている一等星だけはべつだ。私は、この光る星のようになれるだろうかーー
「星が綺麗だね」
「……そうですね」
ふと、横を見ると、いつの間にか誰かが立っていた。声を聞いて、顔を見てハッとした。
「寮長ーーフジキセキ先輩!」
どうしてこんなところに、と口に出す前に、腕時計を見て気づいた。門限はとっくに過ぎている。
「自主トレに熱心なのはいいけれど、もうとっくに寮にいないといけない時間だよ」
「……すみません、気をつけます」
注意されただけというのにもかかわらず、私は内心、ちょっとだけ浮かれた。
フジキセキ先輩といえば、G1なんかも走っているすごい人だし。
「今回は口頭注意だけで済ませたけど、次からは反省文もあるからね」
「はい……」
何度も頭を下げてから寮に戻ろうとして、ふと思った。
先輩は、なぜ、わざわざ私を探しに来てくれたのだろうか。
「君の同室の子が心配していたよ。遅くなっても戻ってこないってね」
私が考えていることなどお見通しというように、先輩は言った。
「……そうですか」
大して気にしてもいないルームメイトの顔を思い浮かべた。部屋が同じというだけで、特段親しいわけでもない相手だ。私も向こうも、部屋にいる時間は少ないし。
寮までいく道を、ゆっくりと歩いて戻った。じりじりと、昼間の熱の名残が残っているような暑さと、セミの泣き声がうるさい。
私の目の前を、先輩は歩いていく。その背中は堂々としていた。
「ナマエ」
不意に名前を呼ばれて、思わず足が止まった。先輩がどういう顔で私の名前を呼んだのかはわからなくて、でも、ただならぬ雰囲気を感じ取って、私は心臓がきゅっと縮み上がった。
先輩の声だけが、私の胸を支配している。どことなく、私は彼女を恐れていた。自分と同じ人間じゃない、神様に声をかけられたような気持ちだった。
「辛い時は、私に話してくれてもいいからね」
先輩はそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまった。どんな言葉が飛び出すのかと、密かに緊張していたのが馬鹿らしい。
寮に戻って、シャワーを浴びてから部屋に戻ると、ルームメイトは蹄鉄の手入れをしていた。遅くなってごめんとだけ謝って、私は布団をかぶって、ベッドの中に潜り込んだ。
フジキセキ先輩、うちの寮長、すごい人。
そんな人が、一瞬だけ見せた変な空気に、私は少し、驚いてしまった。
カチンカチンという、ハンマーを振り下ろす音が、少しづつ私を眠りへ誘い込む。明日はちゃんと、走れるようにならないといけない。
休み時間、先生に呼び出されて、私が今週末の模擬レースに出ることになったと知らされた。私は、今までの間レースに出ることをなるべくしないようにしていたから、そろそろでなさいという無言の勧告だった。
昼休みに、人参のケーキを突っつきながら、一人で参考書を読んでいると、フジキセキ先輩が私の真正面に座った。
「せ、先輩……」
「こんにちは。今日は一人?」
「そうです……」
「私も今日はゆっくりしようと思ってね。あ、その本懐かしいなぁ。私も中等部の時、それをよく読んでいたよ」
レモンティーを飲みながら、先輩は流れるように話を続ける。なんで私のところに来たのか、恐らく、世話焼きな先輩は私のような問題児を放っておけないのだろう。
時間を浪費させている気がして申し訳なかった。私は元々話がうまい方ではなくて、先輩のように上手く言葉を選ぶことができない。
「あの、先輩。私なら大丈夫なんで……私と話すより、他の子のところに行ってもらったら……」
「え、どうして? 私はナマエと話したいだけなんだけどなぁ」
というように、笑顔で言われるとどうしようもないのだ。
反論できない、回り道を一つ、塞がれたような気持ちになった。
夕方、この時間はトレーナーについてもらってトレーニングをする子が多いから、私はコートに立たないことにしていた。一周回って正門まで戻る。ちょっと小休憩しようと、自販機のところまで行くと、ただならぬ気配を感じた。
「先輩、好きです!あの、受け取ってください」
おお、告白現場か! と思わず隠れて聞き耳を立てる。動こうにも動けないので、音に神経を集中させる。
「ごめんね、今はレースに集中したいんだ。ポニーちゃんの気持ちは受け取っておくよ」
よく聞かなくても、それが先輩の声であることを私は理解した。
ふられた方の子が啜り泣きながら、だーっとこの場から走り去っていく。先輩は、ふぅ、とため息をついてその後ろ姿を見送った。
「そこに、いるんだろう?」
私は自首を勧められた犯人のような気持ちで、先輩に姿を見せた。
「あの、すみません」
「珍しくないことだよ、別に」
「さっきの子はーー」
「うん、知ってる子だよ」
先輩は、受け取ったラブレターらしきものをスカートのポケットに仕舞い込むと、それと交代するように財布を取り出した。
「口封じってわけじゃないけど、何か飲む?」
「あ、すみません……スポーツドリンク系の何かで」
ここで断るのもどうかな、と思ったので素直に甘えることにした。
「ううん、トレーニングの途中でしょう? ああいうところ、見せちゃって、大丈夫だった?」
そう言うと、先輩は缶ジュースのプルタブを開けると、グイッと一気飲みした。唇の端から溢れでた透明の液体が、首筋を伝って制服の合わせを濡らす。その光景から目が逸らせなかった。王子様然とした先輩の首が白くて、何かいけないものを見たような気持ちになった。
何度も何度も踏みつけられて伸びる余裕がない芝のコースを、私は一人で走っていた。
いくら日が落ちたとはいえ、この時期に走るといやでも汗をかく。結んだ髪の中から、首筋を伝う汗が、私の微かな集中力を鈍らせる。
ストップウォッチでタイムを測ってくれる人もいない、ひたすらコースを往復しては、体力が尽きるのを待つだけ。周りに人のいないこの時間は、隠れて自主トレするにはうってつけだった。
頭の中でカウントをとりながら、走り慣れたコースの曲線を曲がる。脳裏に浮かぶのは、春の決定的な惨敗の光景だけ。
あの残り400メートルを、私は心臓がはちきれそうな気持ちで走っていた。ウマ娘として生まれて、地元では誰にも負けたことがなかった。でも、全国区となると話は違う。
一丁前にプライドだけが高かった私は、自分が落ちこぼれの、井の中の蛙であることを、そこで初めて知ったのだ。
残りの坂を駆け上がると、昔の失敗が嫌に思い出させられて、気が散る。
私の足が、コースを蹴って動いている。動いているのに、前との距離は縮まらない。前を走る背中が一つ、二つと増えていって、いつの間にか私は最後尾を走っているーー
そこまで思い出して、急に足が止まった。足下の芝が、私の急ブレーキによって少しだけえぐれた。
走馬灯にように蘇るあの景色は、時折私の脳内に現れて、陽炎のような幻覚を見せる。
……まだ、正式戦にも出たことがないのに、何をトラウマみたいに考えているのだろう。
今日もまた、走ることが一段と嫌になった。それでも無理やり走っているのは、どうしてだろう。
ペットボトルの水を飲む時、決まって泣きそうになる。だから私は、空を見るようにしていた。上を向いていれば涙はこぼれない。そんな歌があった気がしたから。
地元の空とは違って、東京の空はいつも星が見えない。けれど、その中でも輝いている一等星だけはべつだ。私は、この光る星のようになれるだろうかーー
「星が綺麗だね」
「……そうですね」
ふと、横を見ると、いつの間にか誰かが立っていた。声を聞いて、顔を見てハッとした。
「寮長ーーフジキセキ先輩!」
どうしてこんなところに、と口に出す前に、腕時計を見て気づいた。門限はとっくに過ぎている。
「自主トレに熱心なのはいいけれど、もうとっくに寮にいないといけない時間だよ」
「……すみません、気をつけます」
注意されただけというのにもかかわらず、私は内心、ちょっとだけ浮かれた。
フジキセキ先輩といえば、G1なんかも走っているすごい人だし。
「今回は口頭注意だけで済ませたけど、次からは反省文もあるからね」
「はい……」
何度も頭を下げてから寮に戻ろうとして、ふと思った。
先輩は、なぜ、わざわざ私を探しに来てくれたのだろうか。
「君の同室の子が心配していたよ。遅くなっても戻ってこないってね」
私が考えていることなどお見通しというように、先輩は言った。
「……そうですか」
大して気にしてもいないルームメイトの顔を思い浮かべた。部屋が同じというだけで、特段親しいわけでもない相手だ。私も向こうも、部屋にいる時間は少ないし。
寮までいく道を、ゆっくりと歩いて戻った。じりじりと、昼間の熱の名残が残っているような暑さと、セミの泣き声がうるさい。
私の目の前を、先輩は歩いていく。その背中は堂々としていた。
「ナマエ」
不意に名前を呼ばれて、思わず足が止まった。先輩がどういう顔で私の名前を呼んだのかはわからなくて、でも、ただならぬ雰囲気を感じ取って、私は心臓がきゅっと縮み上がった。
先輩の声だけが、私の胸を支配している。どことなく、私は彼女を恐れていた。自分と同じ人間じゃない、神様に声をかけられたような気持ちだった。
「辛い時は、私に話してくれてもいいからね」
先輩はそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまった。どんな言葉が飛び出すのかと、密かに緊張していたのが馬鹿らしい。
寮に戻って、シャワーを浴びてから部屋に戻ると、ルームメイトは蹄鉄の手入れをしていた。遅くなってごめんとだけ謝って、私は布団をかぶって、ベッドの中に潜り込んだ。
フジキセキ先輩、うちの寮長、すごい人。
そんな人が、一瞬だけ見せた変な空気に、私は少し、驚いてしまった。
カチンカチンという、ハンマーを振り下ろす音が、少しづつ私を眠りへ誘い込む。明日はちゃんと、走れるようにならないといけない。
休み時間、先生に呼び出されて、私が今週末の模擬レースに出ることになったと知らされた。私は、今までの間レースに出ることをなるべくしないようにしていたから、そろそろでなさいという無言の勧告だった。
昼休みに、人参のケーキを突っつきながら、一人で参考書を読んでいると、フジキセキ先輩が私の真正面に座った。
「せ、先輩……」
「こんにちは。今日は一人?」
「そうです……」
「私も今日はゆっくりしようと思ってね。あ、その本懐かしいなぁ。私も中等部の時、それをよく読んでいたよ」
レモンティーを飲みながら、先輩は流れるように話を続ける。なんで私のところに来たのか、恐らく、世話焼きな先輩は私のような問題児を放っておけないのだろう。
時間を浪費させている気がして申し訳なかった。私は元々話がうまい方ではなくて、先輩のように上手く言葉を選ぶことができない。
「あの、先輩。私なら大丈夫なんで……私と話すより、他の子のところに行ってもらったら……」
「え、どうして? 私はナマエと話したいだけなんだけどなぁ」
というように、笑顔で言われるとどうしようもないのだ。
反論できない、回り道を一つ、塞がれたような気持ちになった。
夕方、この時間はトレーナーについてもらってトレーニングをする子が多いから、私はコートに立たないことにしていた。一周回って正門まで戻る。ちょっと小休憩しようと、自販機のところまで行くと、ただならぬ気配を感じた。
「先輩、好きです!あの、受け取ってください」
おお、告白現場か! と思わず隠れて聞き耳を立てる。動こうにも動けないので、音に神経を集中させる。
「ごめんね、今はレースに集中したいんだ。ポニーちゃんの気持ちは受け取っておくよ」
よく聞かなくても、それが先輩の声であることを私は理解した。
ふられた方の子が啜り泣きながら、だーっとこの場から走り去っていく。先輩は、ふぅ、とため息をついてその後ろ姿を見送った。
「そこに、いるんだろう?」
私は自首を勧められた犯人のような気持ちで、先輩に姿を見せた。
「あの、すみません」
「珍しくないことだよ、別に」
「さっきの子はーー」
「うん、知ってる子だよ」
先輩は、受け取ったラブレターらしきものをスカートのポケットに仕舞い込むと、それと交代するように財布を取り出した。
「口封じってわけじゃないけど、何か飲む?」
「あ、すみません……スポーツドリンク系の何かで」
ここで断るのもどうかな、と思ったので素直に甘えることにした。
「ううん、トレーニングの途中でしょう? ああいうところ、見せちゃって、大丈夫だった?」
そう言うと、先輩は缶ジュースのプルタブを開けると、グイッと一気飲みした。唇の端から溢れでた透明の液体が、首筋を伝って制服の合わせを濡らす。その光景から目が逸らせなかった。王子様然とした先輩の首が白くて、何かいけないものを見たような気持ちになった。