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遊戯王
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わたしの本当の父親と母親は、もうこの世にはいない。それを知ったのは、わたしが物心ついてまもないころで、つまり、わたしの自意識が芽生えた瞬間から、両親というものはわたしにはいなかったのだ。
だから、そんな風に知らされても、わたしの心は全く動揺しなかった。わたしの肉体を形作った両親という存在は、古ぼけたアルバムの一葉でしかない。親というものに養育された記憶を、わたしは持っていなかったので、悲しもうにも悲しめなかった。周りの大人は、それをみて不気味がったけれど、わたしの父だけは、無関心そうに「そうか」と呟くだけだった。
父親と呼べる人がいる。
わたしの養育資金を出している人のことだ。その人の元で養子になってから、きちんと顔を合わせたのは三回ほどしかない。それでも、勉学の進捗を問う手紙だけは、季節ごとにきっちりと送ってくる。
親というより、わたしの出資者、あるいは監督と言った方がいいかもしれないな、と時々考える。
その人は、わたしと横に並ぶと、親子というよりは、兄弟のように見えた。
当たり前だけど、わたしは父と血のつながった娘ではないから、全然顔や姿は似ていない。
それに、父はまだ三十路に差し掛かったばかりという非常に若い年で、わたしを養子に迎えた。その年にして、すでに結婚というものを自分の選択肢の中から手放している人だった。じゃなきゃ、アラサーで養子を取ろうなんて、考えもしないだろう。
親子というには、あまりにも切り離した関係のように思えた。わたしは、父を父とは思えず、どちらかというと、あしながおじさんのような、わたしの支援者であると捉えることにしていた。
父のことは、海馬さん、と呼び、わたしは学校では旧姓を用いて過ごしていた。
アカデミアに、一通の封筒が届いた。寮で、やけに分厚い封筒を開けると、中には航空機のチケットと、一筆書きの便箋が入っていた。
わたしに荷物を送ってくる相手というのは、本当に限られているので、消去法で父親からの手紙であることは、あらかじめ予想できていた。
無愛想な手紙は、手書きですらなく、ワードソフトの画面をそのままプリントアウトしたような、無機質な文字で「クリスマスはこちらで食事をする。恥ずかしくない服装で来るように」と書かれていた。
思わず、わたしの手はその小さな便箋を握りつぶしてしまいそうになった。恐る恐る、照明に照らして隠されたメッセージなんかがないか確認したけれど、変な小細工は施されていなかった。
これが、何かしらのテストであるなら、わたしは彼の期待を裏切ることなど許されないだろう。見放されて、学費を振り込んでもらえなくなれば、わたしはこの年にして路頭に迷うことになる。それだけは、絶対に嫌だ。
恥ずかしくない格好、ということはフォーマルな服装でこいということだろう。まあ、それに関しては平気だ。学校の制服で行けばいいから。
問題は、場所である。こうして呼び出される場合、決まって多忙な父親に合わせた場所にいかされることになる。それは決まって、海外の取引先であったりするのだ。
チケットの日付を見ると──ちょうどクリスマスの前日に、東京の国際空港からロンドン行きの、ビジネスクラスの席が用意されていた。
食堂でこれらに一度目を通し、誰かに見つからないようにそっとポケットにこれらを隠した。
どうして今になって、こんなことをしようとしているのだろう。普段の冬休みは、養父の持ち物であるマンションで一人過ごしているし、今年もそうだろうと思って、色々と東京見物の計画も立てていた。
一体なんの気まぐれか、今更になって親子らしいことでもしようとしているのか。それとも、サービスのつもりか、他所へのアピールか。
父の考えることは、いつもわたしの理解の及ばない領域にまで飛躍している。ビジネスの上での駆け引きであったり、世間からの視線というものは、閉ざされた学生生活を送る上では、知ることのできない世界での話だ。
わたしはただの、後継者候補の子供でしかないはずで、そういう条件でここに引き取られている。なのに、どういう風の吹き回しなのか。毎回、わたしの頭を混乱させるだけさせておいて、父は何も答えを教えてくれない。彼はそういう人だった。
──その手紙が来たのは、後期試験が終わった後くらいのことだった。
わたしは今、空港の第三ターミナルの中から、バス乗り場へと向かう道を、ガタガタ小さなスーツケースを引いて歩いている。大きい方のスーツケースは、すでに現地のホテルへと送った。
一歩外に出ると、思わず身震いをして、分厚いダウンの前をしめた。
アカデミアのあった島や、東京と違って、イギリスの冬というのは、体感の寒さが全く違う。枯葉のような、乾いた冷たさがあった。
タクシーの窓から、ホテルへと向かう道を車窓から眺める。随分と積もった雪と、針葉樹の並ぶ道をみて、ああ、今わたしはヨーロッパにいるんだな、と思った。そんな子供みたいなことを考えていたら、父に怒られそうだ。
随分と長い時間車に揺られたのち、タクシーはホテルの送迎エリアに停まった。父の名義のカードで運賃を払い、小銭でチップを渡すと、運転手は気前よくトランクを運び出してくれた。
父の気まぐれという名の期待、そしてわたし自身の脅迫的なまでの思い込みから、こういう場所でどう振る舞えば、周囲から孤立しないか、溶け込めるかということを、わたしはよく承知していた。
豪奢な扉が開き、ロビーに入ると、まず目の前に、三階建ての建物ほどの大きさがあろうかという、巨大なクリスマスツリーが見えた。各国のVIPをもてなすほどのホテルなのだから、きっとこのもみの木は、偽物ではなくどこかの森から切り出してきたのだろうと、わたしは思った。
それらをぼーっと見上げていると、ふと、天使の飾りが目についた。
雪を模したわたの中に、ポツンと一つ、木彫りの天使が漂っていた。周囲にある、鈴やプレゼントボックス、松ぼっくりや、結ばれたリボンなどの飾りと調和したそれは、ほんの小さな飾りに過ぎなかったけれど、わたしには何か特別なもののように見えた。
天使というには、小さく、少しやぼったい飾りは、そのまま木の中に引っ込んで行ってもおかしくないように感じた。届かないと分かっていても、手を伸ばしてしまいそうになる。少し、もどかしい気持ちが心の中で渦を巻いている。
クリスチャンの信仰の中で、天使がどのような意味を持つのか、詳しくは知らない。もうそれは、個々人の心に語りかけるしかない。でも、それでも、わたしはあの小さな飾りに、畏怖を覚えた。それと同時に、どこかに連れて行ってくれような、そんな気もしていた。
わたしは信仰を持たないけれど、あんな小さな天使でも、誰かの幸いを祈る声を聞いてくれるなら、声を上げてみたいと思った。わたしは幸せになりたいのだろうか。今が幸せでないと、心のどこかでは感じているのだろうか。
チェックインを済ませて、部屋でゴロゴロと寝転がっていると、スマホに着信が入った。
わたしは、父からのショートメッセージを見て、すぐに起き上がった。来るべき瞬間が迫っている。わたしはそれに、完璧に応じる必要があった。無駄な行動など一つも許されない父との面会が、すぐそばまで近寄ってくる。
まるで、影のように、父はわたしの背後に立ち、心の一番大事な部分を占領している。そんな風に、わたしは父の存在を、父の影を、父の肉体を、精神を、魂を、感じ取りながら生きてきた。
父がわたしのそばにいたことなんて、今まで一度もなかった。それでも、わたしは感じることができた。ラジオの周波数を合わせるように、時折父の手紙を読みながら、わたしは父の魂のありかを、いつも探っていた。それは、霧の中で行く道を辿りながら歩くような、コンパスも海図もないまま航海を続けるような、不確かで、困難なことだった。
正直な話、ここまでやってきておいて今更だけど、わたしは、父に会いたくなかった。
ただ、駄々っ子みたいにドタキャンしてしまうのが──世間的にも、プライド的にも──恥ずかしいから、黙っていい子を演じているだけだった。
父は、仕事着であり、一種の鎧でもあるスーツの上に、黒のトレンチコートを羽織ってやってきた。外では雪が降っているらしく、肩には少しだけ雪が積もっていた。
わたしは、ホテルのロビーに置かれた小さなソファに腰掛け、父がわたしを見つけてくれることを祈って、彼の来訪に気づかないふりをした。
冬の寒さに、アカデミアの制服は寒すぎるから、空港で暖かい服を買ったのだ。だから、彼はわたしの見慣れない私服姿を見ることになる──と言っても、制服で会ったのも一度きりだったから、父は本当に、見慣れていない娘を探して、必死でロビー中を見回すだろう。たったそれだけの光景を夢見て、ささやかな抵抗を、わたしは行った。
結論から言うと、わたしは、望んだ景色を見ることはできなかった。
父は、まるで全然大したことではないような顔をして、わたしの背後に立った。わたしも、なんでもないという風にスマホをいじくり回していた。父から与えられた最新型のそれを、別にネット中毒ってわけでもないのに、必死で画面をスクロールしていた。セーターがちくちくして、なんでこんなものを選んで着てしまったのだろうと思った。
「待たせたか」
「……いいえ、全然」
父とわたしは、並んで歩くと歩幅が違い過ぎて、まるで巨人と歩いているみたいに感じられた。だから、わたしはそれを悟られないように、早足で歩いた。
父が予約したレストランは、窓からホテルの中庭の見える、伝統的な、大層歴史のあるであろう、古風で伝統的で、少しくどいくらいに英国的な、そんなところだった。
本当はそんなことはないのだろうけれど、あまりに定番すぎて、わたしは少しカビくささすら覚えた。あまりにも、伝統的な英国家庭のクリスマスの団欒を参照したのだろう。わたしには、そう見えた。
レストランでは、チェロとピアノの生演奏で、クリスマスの定番曲が流れていた。きよしこの夜、キャロル、その他諸々、お決まりのナンバー。
父は、ウエイターにコートを預けたけれど、自分の心臓と呼ぶべきジュラルミンケースだけは、絶対に誰にも──わたしにも──触らせず、傍に置いた。
わたしたちは席に座ったが、メニューはどこにも見当たらない。
当たり前だ。予約の電話を入れた瞬間から、メニューはすでに決まっている。 わたしはコースの流れに身を委ね、それを口に運び、胃におさめるだけでよかった。
今日は、それだけの仕事をしに、わざわざ日本からやってきたのだ。
父とわたしがまともに顔を合わせたのは、実に数年ぶりのことだった。あの時は春で、わたしはデュエルアカデミアの中等部から、高等部に進学しようとしていた。
春休みにアカデミア高等部の入試が、海馬ランドという、父の夢という名の思想と、理想という名の虚栄を詰め込んだ、カルフォルニアにある巨大遊園地の劣化版のような施設で行われるので、同級生と一緒に視察という体で冷やかしに行った。その時、わたしは父に呼び出された。
わたしが海馬瀬人の養子であることは、わたしの希望で伏せられていたので、わたしはスマホの着信を切った後、「あー、ちょっと親に呼び出されちゃってさ、親、近くに住んでるから顔だせってうるさくってさ、ほんとほんと、パパッと行ってくるよ。すぐ戻ってくる!」と誤魔化して、試験会場を飛び出し、ダッシュで父の元まで向かった。
嘘はついていない、嘘は。
わたしが息も絶え絶えで父の元に向かうと、彼は椅子から立ち上がって、早口で、こう言った。
「久しぶりだな。勉強は順調か?」
と。
ビルの最上階、彼は太陽の逆光を浴びて、不気味に口角を吊り上げた。
すぐさま、試されていることと、彼が求めていることを理解した。
瞬間、頭にカッと血が昇って、すぐさまここを出て行ってやろうかという衝動に駆られた。
それはいつもの、お決まりの文句だった。
ほぼ三ヶ月に一度のペースで、世界のあらゆる郵便局──アメリカ、中国、エジプト、タイ、ロシア、ドイツ、ブラジル、インド、南アフリカ、クロアチアなど──から送られてくる、地元の有名人からの祝辞のように退屈な、わたしにとっては脅迫の手紙の、書き出しと全く同じ言葉だった。
わざわざ呼び出しておいて、書面で渡す内容と同じ言葉を言う。
父は、その言葉しか知らないのかと、わたしは思った。
今思えば、これらの言動は全てわたしの心根を見る試験だったのかも、しれない。それでも、わたしは許せなかった。
父は、わたしのことなんて何も見ていない。信用されていないのだと感じたのだ。
昔の不良漫画よろしく窓ガラスを割って、暴れてやりたかったけれど、彼の秘書の目線が、それを咎めた。
わたしの突発的な暴力性を、きっと彼らは感じ取っていたのだろう。何度も何度も、死にかけた父のことだから、きっとわたしがどう思っているのかも、全てお見通しだったのだと思う。
わたしは、ぐっと唇を噛んで、
「はい、問題ありません」
と、言った。これも、定型分のようなものだった。わたしのパソコンは、は、と打つとはい、問題ありませんと変換されるようになっていた。
父はそれだけ聞くと、回転する座椅子を半回転させて、わたしに背をむけ、「もう帰っていい」
と言った。
磨き上げられた窓ガラスに反射した父の顔は──笑っていた。
わたしは、無言で社長室から退室すると、エレベーターの「降りる」ボタンを乱暴に叩いた。帰りのエントランスまで、彼の秘書だという、磯野とかいう男がついてきた。
全てが父の手のひらの上で踊っているような感覚を覚えて、正直に言えば、気味が悪かった。磯野は、わたしの目を見て、一瞬驚いたような、同情するような目つきをした。
そんな目を向けられるのが、嫌だった。
もう誰にもわたしの弱みを見られたくなかった。ここまで屈辱的な目に遭わされたのは、初めてだった──。
わたしは、監視カメラで全てを見られていることを承知の上で、磯野に話しかけた。
「どうして、あなたは父の側近なんてしているんですか……こんなところじゃなくても、もっといい働き口はあるでしょうに」
彼は、仏頭面のまま急に口を開いたわたしを見て、少し眉を吊り上げた。そして、すぐに背筋を伸ばし、はっきりとこう言ったのだ。
「瀬人さまは……私が一生をかけてお支えするのにふさわしい人間であると、信じています」
と。
それを聞いた瞬間、再び顔に血液が集まり、居ても立ってもいられらないような、そんな気分になった。頭をかきむしって暴れたくなるような、そんな感じだ。 どうして、世界はわたしを追い詰めるんだろう。どうして、あんなに打算的な男には忠臣がいて、わたしの周りには、誰もいないのか。
そう考えると、胃に溜まったものが逆流しそうになった。足りないのだ。わたしには圧倒的に、力がない。
あの男に生かされているだけの木偶人形。
それが、自分。
地上一階にエレベーターが到着し、わたしはすぐに飛び出した。
走って、おそらく試験会場に戻ったはずだけれど、それ以降のことは、記憶にない。
そんなことを思い出しながら、わたしはテーブルの上に置かれた前菜を口に運んだ。
父は、あの時のことを覚えているだろうか? わたしにとっては大事件だったけれど、彼からすれば、取るに足らない思い出なのかもしれない。
いや、そっちの方が有難いか。……言わば、あれはわたしの「黒歴史」なのだから。
わたしはそっと顔を持ち上げて、彼の顔を見た。あまりにも浮世離れした雰囲気の父は、まるで機械のように、ナイフとフォークを器用に操っていた。美味しい、とも不味い、とも言わず、ただ義務的に食事をしているだけだった。
──わたしはそれが、嫌に不気味に感じて思わず目を逸らした。
アレはまるで、機械だ。父の醜聞を広める人間の声に、わたしは頷かざるを得ない。……本当に血が繋がった親子だったら、わたしは彼に耐えられなかっただろうな。
「ここに来るまで、寒くはなかったか」
まるで、静かな水面に石を投げ入れるように。
父が口を開くと、わたしはすぐさま思考を張り巡らせた。この場合、どう答えれば不自然に見えないか、脳内のシミュレーターがガタガタと音を立てて動き出す。
「タクシーで来たので、特には」
「そうか……それが合理的だな」
スプーンを持ち上げて、口に運んだけれど、味らしい味はしなかった。
再びの沈黙が訪れ、わたしたちは、また機械のように運ばれてくる料理を胃におさめた。
シェフが丹精込めて作ったであろう、皿の上に乗った美しい食べ物たちが、とてもグロテスクなものに見えた。父の虚栄を彩る犠牲者たち、生産者や料理長なんかが出てきたりでもすれば、わたしは絶対に吐いてしまうだろう。
ホテルが気を利かせてサプライズなどしないよう、必死に祈った。
沈黙に耐えることは、何らかの修練だったのかもしれない。これを耐えた後、わたしの行手には地獄しかない。外から見れば、父と娘のクリスマの会食なのに、わたしにとっては、命を縮める呪いの儀式に過ぎなかった。
わたしはもう一度、父の顔をみた。新聞記事の写真と何一つ変わらない、彼の瞳は、わたしではないどこかを見ている。父が観測する事象の全ては、完璧に調和の取れた、美しいものでなければいけない。わたしという人間は、そのために雇われた看守であり、奴隷であり、舞台装置である。
父の思い描く地平とは、どのようなものであるか。予想はつくが、確たるものは何一つとしてない。我々親子の間には、幾つもの壁と溝が横たわっているが、お互いにそれを飛び越えようとしたことはない。ぼんやりとした情景だけを見て、わたしは父の思いを理解したふりをする。苦しみも、悲しみも、父の間にある磨りガラス越しにぼやけて、消えていく。
「ナマエ」
なんでもないような顔をして、わたしは父と目を合わせた。
卓上に置かれた、ギフトラッピングの施された小箱を見て、次の言葉に備えようと構えた。
「クリスマスプレゼントだ」
拷問器にかけられているような痛みが、わたしの神経を蝕んだ。血管を流れている血潮が、暴れ出しているようだった。
もちろん、それが病ではなく、幻で、わたしの心が生み出したファントム・ペインだ。
──ここから離れれば、わたしはこの痛みから逃げられるだろうか。
窓の外は、チラチラと雪が降っている。わたしは、この包み紙を開けて、にこりと笑わないといけない。それが、この場で求められている全てで、父に満足と、仮初の達成感を与えるのが、わたしに与えられた任務だ。
「……」
丁寧にリボンを解き、緑色の包み紙の向こう側に、小さい箱があった。それを開けると、小さな宝石のついたネックレスが入っていた。わたしはそれを、雑誌の広告でみたことがあった。寮でファッション誌を回し読みしているときに、偶然、一瞬、目に入ったのだ。でも、たったそれだけだった。
わたしにはもっと欲しいものがあった。好きな作家の新刊小説だとか、有名メーカーの化粧品だとか、海外ブランドのブーツ、もっと安価なもの──それこそ、腕時計とか、鞄とか、美術館の目録とか、精巧な城の模型、無線のイヤフォン、そういったものが欲しかったのだ。
決して、アクセサリーが欲しかったわけじゃない。これをつけていく場所なんて、どこにもない。
父は、なんでも持っているから、なんでも与えられるはずだった。彼は、子供好きな笑顔を浮かべることもできたはずなのに、わたしに何もしなかった。
わたしが少し顔を歪ませてしまったのを、父は見ただろうか。知っているだろうか。そして、少しでも後悔しただろうか。あなたは、娘という生き物を深く失望させる天才だ。
「……ありがとうございます」
小さなサファイアのついた、まるで恋人への贈り物のようなそれを見て、嫌悪感が湧き上げてきた。このものには何も罪はないのに。
キリキリと、頭が痛い。今この場で、これを身につけれるのが自然なのだろうか。揺らぐ紅茶の水面を見ながら、わたしは無表情を被った自分の顔を、見た。なんて、醜いのか。
水鏡は揺れる。わたしは席を立ち、薄着のままフラフラとレストランを出た。流れるままに、中庭への通路を歩くと、外に出た。この姿は、きっと彼にも見えているはずだ。なんせ、庭が一番美しく見える席をわざわざ予約したのはこの男だからだ。
小さな雪が、雨のようにわたしの体に降り注いだ。そこから、わたしは窓越しにひどく動揺した、情けない顔を浮かべる父の姿を観測した。正直な話、それが何より嬉しかった。
冬の夕暮れは、もう夜に近い。暗い中で、電飾の灯りと、ホテルの窓から漏れる光だけが、わたしを照らしている。
まるで舞台に立つエトワールのような気持ちだった。星の光は、スポットライトで、白い雪の敷き詰められた床の真ん中で、わたしは踊るのだ。
──このまま、どこかへ消えてしまえばいいかもしれない。
わたしはそう考え、実際にそうしようとしたけれど、血相を変えて走ってきた父によって、それは未然に防がれてしまった。
父はわたしの肩を掴んで、何か喚き散らした。それは、説教というより、動揺して、取り乱し、混乱しているだけだった。
彼がその時何を言ったか、わたしは全く覚えていない。けれど、父の肩越しに見たホテルの建物と、キリストが生まれた時にあったかもしれない星がやけに美しくて、それを見るために生きてきたのだと思った。
だから、そんな風に知らされても、わたしの心は全く動揺しなかった。わたしの肉体を形作った両親という存在は、古ぼけたアルバムの一葉でしかない。親というものに養育された記憶を、わたしは持っていなかったので、悲しもうにも悲しめなかった。周りの大人は、それをみて不気味がったけれど、わたしの父だけは、無関心そうに「そうか」と呟くだけだった。
父親と呼べる人がいる。
わたしの養育資金を出している人のことだ。その人の元で養子になってから、きちんと顔を合わせたのは三回ほどしかない。それでも、勉学の進捗を問う手紙だけは、季節ごとにきっちりと送ってくる。
親というより、わたしの出資者、あるいは監督と言った方がいいかもしれないな、と時々考える。
その人は、わたしと横に並ぶと、親子というよりは、兄弟のように見えた。
当たり前だけど、わたしは父と血のつながった娘ではないから、全然顔や姿は似ていない。
それに、父はまだ三十路に差し掛かったばかりという非常に若い年で、わたしを養子に迎えた。その年にして、すでに結婚というものを自分の選択肢の中から手放している人だった。じゃなきゃ、アラサーで養子を取ろうなんて、考えもしないだろう。
親子というには、あまりにも切り離した関係のように思えた。わたしは、父を父とは思えず、どちらかというと、あしながおじさんのような、わたしの支援者であると捉えることにしていた。
父のことは、海馬さん、と呼び、わたしは学校では旧姓を用いて過ごしていた。
アカデミアに、一通の封筒が届いた。寮で、やけに分厚い封筒を開けると、中には航空機のチケットと、一筆書きの便箋が入っていた。
わたしに荷物を送ってくる相手というのは、本当に限られているので、消去法で父親からの手紙であることは、あらかじめ予想できていた。
無愛想な手紙は、手書きですらなく、ワードソフトの画面をそのままプリントアウトしたような、無機質な文字で「クリスマスはこちらで食事をする。恥ずかしくない服装で来るように」と書かれていた。
思わず、わたしの手はその小さな便箋を握りつぶしてしまいそうになった。恐る恐る、照明に照らして隠されたメッセージなんかがないか確認したけれど、変な小細工は施されていなかった。
これが、何かしらのテストであるなら、わたしは彼の期待を裏切ることなど許されないだろう。見放されて、学費を振り込んでもらえなくなれば、わたしはこの年にして路頭に迷うことになる。それだけは、絶対に嫌だ。
恥ずかしくない格好、ということはフォーマルな服装でこいということだろう。まあ、それに関しては平気だ。学校の制服で行けばいいから。
問題は、場所である。こうして呼び出される場合、決まって多忙な父親に合わせた場所にいかされることになる。それは決まって、海外の取引先であったりするのだ。
チケットの日付を見ると──ちょうどクリスマスの前日に、東京の国際空港からロンドン行きの、ビジネスクラスの席が用意されていた。
食堂でこれらに一度目を通し、誰かに見つからないようにそっとポケットにこれらを隠した。
どうして今になって、こんなことをしようとしているのだろう。普段の冬休みは、養父の持ち物であるマンションで一人過ごしているし、今年もそうだろうと思って、色々と東京見物の計画も立てていた。
一体なんの気まぐれか、今更になって親子らしいことでもしようとしているのか。それとも、サービスのつもりか、他所へのアピールか。
父の考えることは、いつもわたしの理解の及ばない領域にまで飛躍している。ビジネスの上での駆け引きであったり、世間からの視線というものは、閉ざされた学生生活を送る上では、知ることのできない世界での話だ。
わたしはただの、後継者候補の子供でしかないはずで、そういう条件でここに引き取られている。なのに、どういう風の吹き回しなのか。毎回、わたしの頭を混乱させるだけさせておいて、父は何も答えを教えてくれない。彼はそういう人だった。
──その手紙が来たのは、後期試験が終わった後くらいのことだった。
わたしは今、空港の第三ターミナルの中から、バス乗り場へと向かう道を、ガタガタ小さなスーツケースを引いて歩いている。大きい方のスーツケースは、すでに現地のホテルへと送った。
一歩外に出ると、思わず身震いをして、分厚いダウンの前をしめた。
アカデミアのあった島や、東京と違って、イギリスの冬というのは、体感の寒さが全く違う。枯葉のような、乾いた冷たさがあった。
タクシーの窓から、ホテルへと向かう道を車窓から眺める。随分と積もった雪と、針葉樹の並ぶ道をみて、ああ、今わたしはヨーロッパにいるんだな、と思った。そんな子供みたいなことを考えていたら、父に怒られそうだ。
随分と長い時間車に揺られたのち、タクシーはホテルの送迎エリアに停まった。父の名義のカードで運賃を払い、小銭でチップを渡すと、運転手は気前よくトランクを運び出してくれた。
父の気まぐれという名の期待、そしてわたし自身の脅迫的なまでの思い込みから、こういう場所でどう振る舞えば、周囲から孤立しないか、溶け込めるかということを、わたしはよく承知していた。
豪奢な扉が開き、ロビーに入ると、まず目の前に、三階建ての建物ほどの大きさがあろうかという、巨大なクリスマスツリーが見えた。各国のVIPをもてなすほどのホテルなのだから、きっとこのもみの木は、偽物ではなくどこかの森から切り出してきたのだろうと、わたしは思った。
それらをぼーっと見上げていると、ふと、天使の飾りが目についた。
雪を模したわたの中に、ポツンと一つ、木彫りの天使が漂っていた。周囲にある、鈴やプレゼントボックス、松ぼっくりや、結ばれたリボンなどの飾りと調和したそれは、ほんの小さな飾りに過ぎなかったけれど、わたしには何か特別なもののように見えた。
天使というには、小さく、少しやぼったい飾りは、そのまま木の中に引っ込んで行ってもおかしくないように感じた。届かないと分かっていても、手を伸ばしてしまいそうになる。少し、もどかしい気持ちが心の中で渦を巻いている。
クリスチャンの信仰の中で、天使がどのような意味を持つのか、詳しくは知らない。もうそれは、個々人の心に語りかけるしかない。でも、それでも、わたしはあの小さな飾りに、畏怖を覚えた。それと同時に、どこかに連れて行ってくれような、そんな気もしていた。
わたしは信仰を持たないけれど、あんな小さな天使でも、誰かの幸いを祈る声を聞いてくれるなら、声を上げてみたいと思った。わたしは幸せになりたいのだろうか。今が幸せでないと、心のどこかでは感じているのだろうか。
チェックインを済ませて、部屋でゴロゴロと寝転がっていると、スマホに着信が入った。
わたしは、父からのショートメッセージを見て、すぐに起き上がった。来るべき瞬間が迫っている。わたしはそれに、完璧に応じる必要があった。無駄な行動など一つも許されない父との面会が、すぐそばまで近寄ってくる。
まるで、影のように、父はわたしの背後に立ち、心の一番大事な部分を占領している。そんな風に、わたしは父の存在を、父の影を、父の肉体を、精神を、魂を、感じ取りながら生きてきた。
父がわたしのそばにいたことなんて、今まで一度もなかった。それでも、わたしは感じることができた。ラジオの周波数を合わせるように、時折父の手紙を読みながら、わたしは父の魂のありかを、いつも探っていた。それは、霧の中で行く道を辿りながら歩くような、コンパスも海図もないまま航海を続けるような、不確かで、困難なことだった。
正直な話、ここまでやってきておいて今更だけど、わたしは、父に会いたくなかった。
ただ、駄々っ子みたいにドタキャンしてしまうのが──世間的にも、プライド的にも──恥ずかしいから、黙っていい子を演じているだけだった。
父は、仕事着であり、一種の鎧でもあるスーツの上に、黒のトレンチコートを羽織ってやってきた。外では雪が降っているらしく、肩には少しだけ雪が積もっていた。
わたしは、ホテルのロビーに置かれた小さなソファに腰掛け、父がわたしを見つけてくれることを祈って、彼の来訪に気づかないふりをした。
冬の寒さに、アカデミアの制服は寒すぎるから、空港で暖かい服を買ったのだ。だから、彼はわたしの見慣れない私服姿を見ることになる──と言っても、制服で会ったのも一度きりだったから、父は本当に、見慣れていない娘を探して、必死でロビー中を見回すだろう。たったそれだけの光景を夢見て、ささやかな抵抗を、わたしは行った。
結論から言うと、わたしは、望んだ景色を見ることはできなかった。
父は、まるで全然大したことではないような顔をして、わたしの背後に立った。わたしも、なんでもないという風にスマホをいじくり回していた。父から与えられた最新型のそれを、別にネット中毒ってわけでもないのに、必死で画面をスクロールしていた。セーターがちくちくして、なんでこんなものを選んで着てしまったのだろうと思った。
「待たせたか」
「……いいえ、全然」
父とわたしは、並んで歩くと歩幅が違い過ぎて、まるで巨人と歩いているみたいに感じられた。だから、わたしはそれを悟られないように、早足で歩いた。
父が予約したレストランは、窓からホテルの中庭の見える、伝統的な、大層歴史のあるであろう、古風で伝統的で、少しくどいくらいに英国的な、そんなところだった。
本当はそんなことはないのだろうけれど、あまりに定番すぎて、わたしは少しカビくささすら覚えた。あまりにも、伝統的な英国家庭のクリスマスの団欒を参照したのだろう。わたしには、そう見えた。
レストランでは、チェロとピアノの生演奏で、クリスマスの定番曲が流れていた。きよしこの夜、キャロル、その他諸々、お決まりのナンバー。
父は、ウエイターにコートを預けたけれど、自分の心臓と呼ぶべきジュラルミンケースだけは、絶対に誰にも──わたしにも──触らせず、傍に置いた。
わたしたちは席に座ったが、メニューはどこにも見当たらない。
当たり前だ。予約の電話を入れた瞬間から、メニューはすでに決まっている。 わたしはコースの流れに身を委ね、それを口に運び、胃におさめるだけでよかった。
今日は、それだけの仕事をしに、わざわざ日本からやってきたのだ。
父とわたしがまともに顔を合わせたのは、実に数年ぶりのことだった。あの時は春で、わたしはデュエルアカデミアの中等部から、高等部に進学しようとしていた。
春休みにアカデミア高等部の入試が、海馬ランドという、父の夢という名の思想と、理想という名の虚栄を詰め込んだ、カルフォルニアにある巨大遊園地の劣化版のような施設で行われるので、同級生と一緒に視察という体で冷やかしに行った。その時、わたしは父に呼び出された。
わたしが海馬瀬人の養子であることは、わたしの希望で伏せられていたので、わたしはスマホの着信を切った後、「あー、ちょっと親に呼び出されちゃってさ、親、近くに住んでるから顔だせってうるさくってさ、ほんとほんと、パパッと行ってくるよ。すぐ戻ってくる!」と誤魔化して、試験会場を飛び出し、ダッシュで父の元まで向かった。
嘘はついていない、嘘は。
わたしが息も絶え絶えで父の元に向かうと、彼は椅子から立ち上がって、早口で、こう言った。
「久しぶりだな。勉強は順調か?」
と。
ビルの最上階、彼は太陽の逆光を浴びて、不気味に口角を吊り上げた。
すぐさま、試されていることと、彼が求めていることを理解した。
瞬間、頭にカッと血が昇って、すぐさまここを出て行ってやろうかという衝動に駆られた。
それはいつもの、お決まりの文句だった。
ほぼ三ヶ月に一度のペースで、世界のあらゆる郵便局──アメリカ、中国、エジプト、タイ、ロシア、ドイツ、ブラジル、インド、南アフリカ、クロアチアなど──から送られてくる、地元の有名人からの祝辞のように退屈な、わたしにとっては脅迫の手紙の、書き出しと全く同じ言葉だった。
わざわざ呼び出しておいて、書面で渡す内容と同じ言葉を言う。
父は、その言葉しか知らないのかと、わたしは思った。
今思えば、これらの言動は全てわたしの心根を見る試験だったのかも、しれない。それでも、わたしは許せなかった。
父は、わたしのことなんて何も見ていない。信用されていないのだと感じたのだ。
昔の不良漫画よろしく窓ガラスを割って、暴れてやりたかったけれど、彼の秘書の目線が、それを咎めた。
わたしの突発的な暴力性を、きっと彼らは感じ取っていたのだろう。何度も何度も、死にかけた父のことだから、きっとわたしがどう思っているのかも、全てお見通しだったのだと思う。
わたしは、ぐっと唇を噛んで、
「はい、問題ありません」
と、言った。これも、定型分のようなものだった。わたしのパソコンは、は、と打つとはい、問題ありませんと変換されるようになっていた。
父はそれだけ聞くと、回転する座椅子を半回転させて、わたしに背をむけ、「もう帰っていい」
と言った。
磨き上げられた窓ガラスに反射した父の顔は──笑っていた。
わたしは、無言で社長室から退室すると、エレベーターの「降りる」ボタンを乱暴に叩いた。帰りのエントランスまで、彼の秘書だという、磯野とかいう男がついてきた。
全てが父の手のひらの上で踊っているような感覚を覚えて、正直に言えば、気味が悪かった。磯野は、わたしの目を見て、一瞬驚いたような、同情するような目つきをした。
そんな目を向けられるのが、嫌だった。
もう誰にもわたしの弱みを見られたくなかった。ここまで屈辱的な目に遭わされたのは、初めてだった──。
わたしは、監視カメラで全てを見られていることを承知の上で、磯野に話しかけた。
「どうして、あなたは父の側近なんてしているんですか……こんなところじゃなくても、もっといい働き口はあるでしょうに」
彼は、仏頭面のまま急に口を開いたわたしを見て、少し眉を吊り上げた。そして、すぐに背筋を伸ばし、はっきりとこう言ったのだ。
「瀬人さまは……私が一生をかけてお支えするのにふさわしい人間であると、信じています」
と。
それを聞いた瞬間、再び顔に血液が集まり、居ても立ってもいられらないような、そんな気分になった。頭をかきむしって暴れたくなるような、そんな感じだ。 どうして、世界はわたしを追い詰めるんだろう。どうして、あんなに打算的な男には忠臣がいて、わたしの周りには、誰もいないのか。
そう考えると、胃に溜まったものが逆流しそうになった。足りないのだ。わたしには圧倒的に、力がない。
あの男に生かされているだけの木偶人形。
それが、自分。
地上一階にエレベーターが到着し、わたしはすぐに飛び出した。
走って、おそらく試験会場に戻ったはずだけれど、それ以降のことは、記憶にない。
そんなことを思い出しながら、わたしはテーブルの上に置かれた前菜を口に運んだ。
父は、あの時のことを覚えているだろうか? わたしにとっては大事件だったけれど、彼からすれば、取るに足らない思い出なのかもしれない。
いや、そっちの方が有難いか。……言わば、あれはわたしの「黒歴史」なのだから。
わたしはそっと顔を持ち上げて、彼の顔を見た。あまりにも浮世離れした雰囲気の父は、まるで機械のように、ナイフとフォークを器用に操っていた。美味しい、とも不味い、とも言わず、ただ義務的に食事をしているだけだった。
──わたしはそれが、嫌に不気味に感じて思わず目を逸らした。
アレはまるで、機械だ。父の醜聞を広める人間の声に、わたしは頷かざるを得ない。……本当に血が繋がった親子だったら、わたしは彼に耐えられなかっただろうな。
「ここに来るまで、寒くはなかったか」
まるで、静かな水面に石を投げ入れるように。
父が口を開くと、わたしはすぐさま思考を張り巡らせた。この場合、どう答えれば不自然に見えないか、脳内のシミュレーターがガタガタと音を立てて動き出す。
「タクシーで来たので、特には」
「そうか……それが合理的だな」
スプーンを持ち上げて、口に運んだけれど、味らしい味はしなかった。
再びの沈黙が訪れ、わたしたちは、また機械のように運ばれてくる料理を胃におさめた。
シェフが丹精込めて作ったであろう、皿の上に乗った美しい食べ物たちが、とてもグロテスクなものに見えた。父の虚栄を彩る犠牲者たち、生産者や料理長なんかが出てきたりでもすれば、わたしは絶対に吐いてしまうだろう。
ホテルが気を利かせてサプライズなどしないよう、必死に祈った。
沈黙に耐えることは、何らかの修練だったのかもしれない。これを耐えた後、わたしの行手には地獄しかない。外から見れば、父と娘のクリスマの会食なのに、わたしにとっては、命を縮める呪いの儀式に過ぎなかった。
わたしはもう一度、父の顔をみた。新聞記事の写真と何一つ変わらない、彼の瞳は、わたしではないどこかを見ている。父が観測する事象の全ては、完璧に調和の取れた、美しいものでなければいけない。わたしという人間は、そのために雇われた看守であり、奴隷であり、舞台装置である。
父の思い描く地平とは、どのようなものであるか。予想はつくが、確たるものは何一つとしてない。我々親子の間には、幾つもの壁と溝が横たわっているが、お互いにそれを飛び越えようとしたことはない。ぼんやりとした情景だけを見て、わたしは父の思いを理解したふりをする。苦しみも、悲しみも、父の間にある磨りガラス越しにぼやけて、消えていく。
「ナマエ」
なんでもないような顔をして、わたしは父と目を合わせた。
卓上に置かれた、ギフトラッピングの施された小箱を見て、次の言葉に備えようと構えた。
「クリスマスプレゼントだ」
拷問器にかけられているような痛みが、わたしの神経を蝕んだ。血管を流れている血潮が、暴れ出しているようだった。
もちろん、それが病ではなく、幻で、わたしの心が生み出したファントム・ペインだ。
──ここから離れれば、わたしはこの痛みから逃げられるだろうか。
窓の外は、チラチラと雪が降っている。わたしは、この包み紙を開けて、にこりと笑わないといけない。それが、この場で求められている全てで、父に満足と、仮初の達成感を与えるのが、わたしに与えられた任務だ。
「……」
丁寧にリボンを解き、緑色の包み紙の向こう側に、小さい箱があった。それを開けると、小さな宝石のついたネックレスが入っていた。わたしはそれを、雑誌の広告でみたことがあった。寮でファッション誌を回し読みしているときに、偶然、一瞬、目に入ったのだ。でも、たったそれだけだった。
わたしにはもっと欲しいものがあった。好きな作家の新刊小説だとか、有名メーカーの化粧品だとか、海外ブランドのブーツ、もっと安価なもの──それこそ、腕時計とか、鞄とか、美術館の目録とか、精巧な城の模型、無線のイヤフォン、そういったものが欲しかったのだ。
決して、アクセサリーが欲しかったわけじゃない。これをつけていく場所なんて、どこにもない。
父は、なんでも持っているから、なんでも与えられるはずだった。彼は、子供好きな笑顔を浮かべることもできたはずなのに、わたしに何もしなかった。
わたしが少し顔を歪ませてしまったのを、父は見ただろうか。知っているだろうか。そして、少しでも後悔しただろうか。あなたは、娘という生き物を深く失望させる天才だ。
「……ありがとうございます」
小さなサファイアのついた、まるで恋人への贈り物のようなそれを見て、嫌悪感が湧き上げてきた。このものには何も罪はないのに。
キリキリと、頭が痛い。今この場で、これを身につけれるのが自然なのだろうか。揺らぐ紅茶の水面を見ながら、わたしは無表情を被った自分の顔を、見た。なんて、醜いのか。
水鏡は揺れる。わたしは席を立ち、薄着のままフラフラとレストランを出た。流れるままに、中庭への通路を歩くと、外に出た。この姿は、きっと彼にも見えているはずだ。なんせ、庭が一番美しく見える席をわざわざ予約したのはこの男だからだ。
小さな雪が、雨のようにわたしの体に降り注いだ。そこから、わたしは窓越しにひどく動揺した、情けない顔を浮かべる父の姿を観測した。正直な話、それが何より嬉しかった。
冬の夕暮れは、もう夜に近い。暗い中で、電飾の灯りと、ホテルの窓から漏れる光だけが、わたしを照らしている。
まるで舞台に立つエトワールのような気持ちだった。星の光は、スポットライトで、白い雪の敷き詰められた床の真ん中で、わたしは踊るのだ。
──このまま、どこかへ消えてしまえばいいかもしれない。
わたしはそう考え、実際にそうしようとしたけれど、血相を変えて走ってきた父によって、それは未然に防がれてしまった。
父はわたしの肩を掴んで、何か喚き散らした。それは、説教というより、動揺して、取り乱し、混乱しているだけだった。
彼がその時何を言ったか、わたしは全く覚えていない。けれど、父の肩越しに見たホテルの建物と、キリストが生まれた時にあったかもしれない星がやけに美しくて、それを見るために生きてきたのだと思った。