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遊戯王
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デュエルアカデミアは誰でも入学できるような場所ではない。だから、その中で誰よりも努力すれば、素晴らしいキャリアを築けるはずだ。
わたしはそう固く信じ、この学園の門をくぐった。
海の真ん中にポツンと浮かんだ火山島。
名だたるデュエリストを輩出した名門。
頑張って、ここで一番になろう。そして、プロとして世界に羽ばたく存在になる。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
入学してから何度目かのテストを終えた。
一年目は慌ただしく、学校生活に適応するのに精一杯だったので、二年目からは落ち着いて勉学に打ち込む予定だったのだが、わたしの所属する学年はイレギュラーの世代らしい。
わたしの周りでは、常にトラブルに事欠かなかった。思い返せば、慌ただしい一年だった。
おかげで、勉学に身を入れるどころか、揉め事に巻き込まれないように神経をすり減らすばかりだ。慣れない寮生活は、適度にわたしの精神に苦痛を与えた。わたしは、規律で自分を縛ることが好きだと思っていたが、他人と共同生活を送る上で、他人から縛られることは不快だと感じるタチだったらしい。
それが当たり前と言われれば、そうだけど。
廊下に張り出されたテストの順位を見て、わたしは自分の眉間にシワができているのがわかった。
女子生徒の数が少ない我が校では、女子は成績に関係なく、全員もれなくオベリスクブルー寮に居続けることになるのだが、これがなんとなく嫌だった。
生活環境がかかっている男子は、上に行く・現状を維持するために躍起になって勉強して、その結果成績がメキメキ上がるというのに、女子にはそれがない。
うちの学校の女子は、そのせいもあってかなんとなく全員がのほほんとした、おっとりした雰囲気を醸し出していた。
もちろん、手を抜いているとか、真面目じゃないと言うつもりはない。
実際、みんなテスト前になると談話室に集まって勉強会をしたり、自主的にデュエルの試合を組んで練習したりと結構頑張っている。
けれど、闘争心がないのだ。
もっと上に行きたい、そういう向上心というか、野心がここには足りない。
三沢くんや万丈目くんを見てほしい。上に行きたくて常にギラギラしてるって感じ。
確かに、みんな良い成績を残したい、テストで上の順位に行きたいといったそういう気持ちはあるんだろう。でも、それは他者と闘争して勝ち取るものではない。そんな空気が蔓延している。
……今回も上位10人にはどうにか食い込んだ。
わたしもそんな空気に毒されているのか、最近は勉強に力が入らない。絶対に将来プロになる。そんな決意をして入学したのに、ここで一番に慣れなくてどうするんだろう。
いつも順位の頂点に名前を連ねている、天上院明日香さんの顔をこっそり盗み見た。
凛々しい横顔に、優等生然とした佇まい。彼女だけは、どこか他の人と違っていた。どこか遠くを見据えるような瞳に見つめられると、わたしは自分の最も弱い場所を晒しているような、不安な気持ちに襲われる。
彼女こそが、オベリスクの青を背負うにふさわしい。
明日香さんが背筋を真っ直ぐ伸ばして授業を聞いている様子を見ると、いつも気を引き閉めなければいけない、と意識を新たにさせてくれるのだった。
最近のわたしは、どこかおかしかった。
例えば、寮で夕食を食べている時──その日のメニューは洋食だったので付け合わせはパンだった──ふと、ちょうどわたしの斜め前に座っている明日香さんの指が気になった。
彼女はいつもの友人二人を挟むようにして座っていて、楽しそうに会話をしながら話していた。
指先で器用にパンを一口大の大きさに千切り、バターを塗り、それをなめらかな動きで口に運んでいた。
余計なパンくずをテーブルの上に散らかすなんてことはなく、マナーの本に載っているお手本のような手つきだった。
おそらく、彼女はそれを当然のことだと思っている。そうすると、急に自分の食べ方が間違っているような気がして、顔に体温が集積するのがわかった。
別に、自分の作法が間違っていて、彼女が正解というわけでもない。
わたしだって、食べ物を落としたりすることのないように細心の注意を払っているし、パンくずなんて、食いちらかそうとしなくても自然に発生して、テーブルの上に飛び散ってしまうものだ。
その後、わたしはパンを食べるのが恐ろしくなった。
一口にちぎる手が震えて、不恰好な大きさのパンが分裂した。余計に恥ずかしくなって、それを無理やり口に押し込んだ。
天上院明日香さんは、わたしが必死になってしようとしていることを、いとも容易く、呼吸するかのような自然さでやってのけてしまう。
柔らかそうな薄い唇に、発酵した小麦粉の塊が押し入れられる。
どうか、どうかあの人に気づかれませんように。わたしは水を飲むふりをしながら、彼女の指と、唇をずっと見つめていた。
気がつくと、わたしはずっと明日香さんのことを目で追ってしまっていた。
それどころか、彼女本人がその場にいない時でも、ずっと彼女のことを考えている始末だ。
わたしと明日香さんの面識は、同じ寮の顔見知り程度でしかない。授業こそ一緒に受けてはいるが、教師に指名されて答えを述べる時しか、彼女はわたしを見ていないだろう。
なぜ脳にこびり付いて離れないのか。夜間の自由時間に、デッキの構成を考えたり、数学の課題をこなしている間にも、または図書室で借りた小説を読んでいる間すら、明日香さんの挙動を思い返すのだ。
──憧れが昂る余り、疑似的な恋愛感情に陥っているのだろうか。
その思考に至った時、わたしは思わず椅子から立ち上がりそうになった。
授業中だった。
エウレカと叫んだギリシャの哲学者のように、なりふり構わず叫んでやりたかった。
「ミス・ミョウジ、何か質問があるノーネ?」
いきなり挙動不審になったわたしを見て、教卓のクロノス先生はこちらを怪訝そうな視線で見つめている。
「あ……大丈夫です。すみません」
全員の視線がわたしに集まる。その中には、彼女が不思議そうにわたしを見つめるその顔もあった。
やけに顔が熱くなっているのは、こんなに注目を浴びてしまったからじゃない。けれど、この秘密に気づいている人はいないだろう。
自分の納得する答が見つかったことで、余計にわたしは明日香さんに熱中するようになった。
勉強は身につかない。集中力は持続しない。やけに自分の姿が醜く見える。
けれど、これは思春期の女性にはよくある事例。だから、わたしは全くおかしくなったわけではないのだ。
そう信じることで、わたしは正気を保っている。
「君は今、恋をしているね」
授業がもう終わりがけの時、なんとなく海を見たくなった。
浜辺で何を書くでもなく、棒切れを持って突っ立っているわたしの横に、いつの間にか誰かが立っていた。
夕焼けを背に、絵画の中の住人のように佇む彼を見て、わたしの心臓は不協和音じみた高鳴りを覚えた。
なぜだかよく説明することはできないが、第六感が危険シグナルを鳴らしまくっている。
まるで誰だかわからなかったけれど、オベリスクブルーの制服を着用していることからして、彼は同じ学校の生徒なのだろう。
ブルー寮の男子生徒と、わたしはあまり関わりがない。
いきなりわたしに話しかけてくる相手なんて、全く思いつかなかったし、この人のことも、誰だかなんてわからなかった。
「すみません、どういうことでしょうか?」
わたしは、思った疑問をそのまま返してみることにした。
全く知らない人にそんなことを言われて、全く気にならないわけがない。恋をしているなんて、何を根拠に言っているんだろう。
そもそも、彼は何者なのか。
「瞳を見ればわかるよ。恋をする人は、瞳の輝きが増すんだ!」
そう言う彼の瞳は、陽の光に透かした硝子細工のように、煌めいていた。
彼はわたしの手を取って、顔を間近に近づける。
「ち、近……」
「僕はね、君みたいな人を助けてあげたいんだ」
「……別に、助けてほしいなんてわたしは」
手を振り解いて逃げようとしたら、余計に力を込めて手をつかまれた。
「君は明日香に恋をしているね」
「…………は?」
どこから漏洩したのか。
なぜバレたのか。
体が固まって、わかりやすく図星だとバレてしまう。
何か言い返さないと。
わたしの明日香さんへの感情は、ただの憧れであると、恋愛感情は、思春期特有の気の迷いであって、本物ではないと。
言わないといけない。
「そんな、こと」
「僕はね、自分の妹に恋する人をたくさん見てきたんだ。そして、僕はその全てを等しく応援すると決めているんだ」
全てを受け入れるような微笑みに、絆されそうになる。夕景を背負って微笑む彼は、慈愛という言葉を体現したような微笑を浮かべて、わたしだけをまっすぐ見ていた。
透き通るような双眸に射抜かれて、わたしは頷いてしまった。
認めてしまった。
わたしの感情。
誤魔化していた嘘の全てを。
「女同士でも、いいんですか」
「愛に貴賤はないよ」
これがわたしと天上院吹雪さんとの出会いだった。
それからしばらく、わたしと吹雪さんはいつとは定めず、お互いの時間がある時にチャットをしたり、海辺で会って話すようになった。
まるでわたしが彼と逢瀬を重ねているようだったが、現実としては全くそういうことにはならず、彼はわたしに恋の駆け引きとやらを授けて、わたしはそれをクソ真面目に受け取り、知識として蓄えるという、奇妙な師弟関係が発生していた。
自分の妹の将来のパートナーが誰になるのか、それで頭がいっぱいであるようだ。
わたしが奥手で全くコンタクトを取ろうとしないことにご立腹らしく、毎回「君には期待しているのだから、もっとガンガン行きなさい」だの、一緒に昼食を食べるようにセッティングしようか、だとか、とにかく仲人もびっくりの提案を毎回丁重に断っては、後で少し後悔するという不毛な作業を繰り返している。
「ナマエっ! 明日香を好きな男子はいっぱいいるんだよ? 取られてしまってもいいのかい!?」
「……よくはないですけど、明日香さんが納得されたお相手とお付き合いされるなら別にわたしは──」
「謙虚さは恋愛において美点にはならないんだよっ!」
「でも、別にわたしは明日香さんとお付き合いしたい訳ではないんです。明日香さんの隣には、わたしよりもふさわしい人間がいるべきなんです」
わたしがそう言うと、吹雪さんは何か考え込むような顔つきになった。
数秒の沈黙ののち、彼は大きな声でこんなことを言った。
「明日の放課後、明日香とデュエルしなさい」
「…………えっ?」
我ながらいいことを思いついた。そう言いたげな笑みを浮かべて、吹雪さんはわたしを見つめている。
──入学してから今まで、わたしは明日香さんとデュエルをしたことがなかった。授業でのデュエルは、基本的に教員が対戦相手を指定するのだが、わたしは彼女と当たってこなかった。
いつも横から彼女のデュエルを眺めているしかしてこなかったので、吹雪さんの提案に心が揺らいだのも事実。そして、一人のデュエリストとして、明日香さんと戦ってみたいという気持ちがある。
「わたしでもいいんでしょうか」
「誰からの挑戦も拒まないさ。明日香は真面目だからね」
「……検討します」
口ではこう言いつつも、わたしは内心、いいアイデアだと感心していた。
これでなら、疑われることなく明日香さんとお近づきになれる。明日香さんは優等生だから、彼女と手合わせしたいという生徒は多いはず。だから、決して不自然ではない。
決行は明日。彼女の時間が空いた時間に頼んでみよう。
今夜はデッキの調整で忙しくなりそうだ。彼女にお粗末なデュエルを見せるわけにはいかないから──
「デュエル? 構わないわ。今日の放課後なら相手になれると思うけれど、いいかしら」
その言葉を聞いてからわたしの頭はずっとふわふわとしていた。昼休みに声をかけたのは、間違いだったかもしれない。だって、午後の授業なんて全く耳に入らなかった。
教科書の文字も、外国語のように見えた。昨日早朝までデッキの調整をしていたせいもあって、眠気と緊張で授業の内容は、ほとんどと言っていいほど頭に入っていない。
終了のチャイムが鳴ると、わたしはすぐさま鞄にノートやら筆箱やらを突っ込んで、すぐにでも教室を出れるように張り切っていた。
ホームルームの時間すら惜しい。一分一秒でも早く終わってほしかった。
机の中に腕を突っ込んで、デッキーケースのプラスチックの感触を確かめる。デュエルディスクは、鞄の中に入っている。すぐにでも、わたしは戦える。
「起立、気をつけ、礼、ありがとうございましたー!」
その声を合図に、わたしたち生徒はわーっと一斉に教室を飛び出していく。入口は押し合いへし合いの大行列だ。
クロノス先生が、「廊下を走ってはいけないノーネ!」と叫ぶ声が聞こえる。もう高校生なのに、まるでみんな小学生だ。
「わたしたちもいきましょうか」
「ですね……」
わたしたちは二人きりで連れ立って、長い廊下を歩いた。教室から少し離れた、普段授業で使っている部屋を借りて対戦しようという話になっていたからだ。職員室で借りた鍵でドアを開けると、お互い慣れた手つきでデュエルディスクを装着する。
ケースから取り出したデッキをシャッフルして収めると、わたしたちはリングの上に上がった。
「確か、あなたと対戦するのは初めてだったわね。お互い、全力でがんばりましょう」
「……はい! 頑張ります! それじゃあ……」
「「デュエル!」」
※
デュエルディスクから、ライフポイントが減少する音が聞こえてくる。目の前のモンスターが砕けて墓地に送られる映像とともに、勝者の名前がモニターに映し出された。
「……わたしの負けね」
──勝ってしまった。
この景色は幻覚でも、ましてや都合のいい幻でもなかった。わたしの場に残っていたモンスターの映像が消え、それでもまだわたしは一言も発することができないでいた。
「あの、わたし……勝ったんでしょうか」
「そうよ」
挙動不審になるわたしを見て、明日香さんはこちらを不思議そうな目で見ている。
「……あなた、大丈夫? 気分でも悪かったら医務室に──」
「いえっ、大丈夫です! 明日香さんに勝てたのが、夢みたいで……その、驚いてしまって」
実際、わたしは今の状況を飲み込めていない。勝負は時の運というが、まぐれでも勝ててしまったという事実に、心臓が張り裂けそうなほど強く脈打っている。
そうか、わたしは勝ったのか。
憧れの人を、この手で──
「いいデュエルだったわね。でも、次も負けるつもりはないわ」
闘志に燃える瞳に見つめられ、わたしは息が止まりそうになった。
「次は負けるつもりはない」その言葉を何度も何度も噛み締めながら、それが決して社交辞令などではなく、彼女の本心からの台詞であることを祈った。
差し伸ばされた手を、そっと握る。手袋越しに伝わる明日香さんの手のひらの感触を、ずっと確かめていたい。けれど、今はそんな肉感的なことよりも、与えられた言葉の方がずっと重要だった。
「はい、勿論!」
わたしたちはお互い見つめ合う。やっと、わたしはここに立てたのだ。敬愛してやまない彼女と戦い、認められた。もう、今この瞬間に死んでも惜しくない。それくらい嬉しい。
今日が人生最良の日であることは間違いないだろう。握った手のひらの感触、デュエルの時の緊張感、勝利の喜び。それら全てが渦になってわたしの中でぐるぐると回っていた。
「いざ勝負! ドローッ!」
昼休みは色々なところからさまざまな声が聞こえてくる。やかましいけれど、わたしはそんなに気にならない。学校はそういう場所だから。騒いでも許されるのは、今の間だけだし。大人になると、こういうこともできなくなると思う。
というわけで、わたしもノリノリでドローパンを開封してみた。
ぱっと見で中身はわからない。わたしたちは各々で購入したドローパンを口に運ぶ。
「うわあ、磯の味がする……」
わたしが引いたのは、どうやら海苔パンらしい。中からどろっとした海苔が出てきて、パンの小麦粉味と混ざる。味の相性は──正直よろしくない。
「ソーセージパン。可も不可もないわね」
「いいなー、わたしなんて海苔パンですよ!」
「わたしはハムにレタス!」
「いちごジャムでしたぁ」
それぞれ手にしたパンの味について報告する。そして、それに対して一喜一憂するのだ。なんだか、最近やけに変な味を引き当てている気がする。前回は抹茶カニカマパン、前々回はケチャップ納豆パン──
わたしとは反対に、みんなの方は普通に美味しそうなパンを引き当てている。羨ましい! わたしだって、普通のやつがよかったのに。
「なんでいっつもイロモノに当たっちゃうかなあ……」
「ナマエは運がいいのね」
「えーっ! そんな運いらないですよっ!」
なんて平和なんだろう。あんまり美味しくないパンをもそもそと咀嚼しながら、周りではしゃぐ3人を見つめていた。
あのデュエルの後、いろいろあってなんと、わたしは明日香さんたちとお近づきになることができた。前まで見つめているだけだった存在の隣に立つことができて、とても嬉しいと思っている。
明日香さんのお友達もとてもいい人で、話していて結構楽しかったりする。今まで友達らしい友達のいなかったわたしにとって、彼女たちの存在は貴重だ。
「キミたち、楽しそうだね」
「兄さん?」
わたしたちがはしゃいでいる横から、吹雪さんの声がした。明日香さんと一緒にいる時に彼とわたしが会ったことはなかった。ただならぬ予感がしたのだ。第六感というのだろうか、不吉な気配を感じてしまった。
「いやいや、通りがかりに楽しそうな声が聞こえたものでね。妹の学友の顔でも見ておきたいじゃないか」
「学友の顔も何も、女子生徒のことは全員分知ってるんじゃないかしら」
ニコニコと笑う吹雪さんを、他のみんなは上目遣いでチラチラと見ていた。わたしだけが、どうしたらいいのかわからなくて、自然な顔に見えるように、必死に表情を取り繕っていた。
「明日香も新しい友達が増えたようで、嬉しいよ」
わたしの目を見て、彼ははっきりとそう言った。明日香さんや、みんなの目がわたしを見ている。
「え、ええ……わたしも明日香さんと仲良くさせてもらえて、嬉しいです」
吹雪さんは、自分の妹にわたしがどのような思いでこの場にいるのか、暴露するつもりはないようだった。心臓がドッと高鳴って、他の人の目がまともに見えない。
確認のつもりなのか。自分の助言がうまく役立ったか、見にきた。そういうことなのだろうか。
「明日香のことを、よろしく頼んだよ」
最後にわたしの目をじっと覗き込むようにして、彼はヒラヒラと去っていった。まるで、嵐が通り過ぎた後のような気持ちになった。相当汗をかいていたらしい。わたしの背中はベトベトして、下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。
「わたしの兄なの。変わってる人だけど、悪気はないのよ」
残りの昼食を口に運びながら、明日香さんはそんなことを言った。
「はい。明日香さんのお兄さんなんですから、きっといい人なんだと思います」
わたしは彼女に、作り笑いで応えた。この思いに、貴女は何も応えてくれなくていい。ただ、今のままで満足しているのだから。
彼女は少しはにかんで俯いた。
これでよかったんだ、と今は思っておこう。
鳥が鳴く音が聞こえてくる。はしゃぎ疲れて眠っていたけれど、もう朝になっていたらしい。
なんだか意識が曖昧で、もう少し寝ていてもバチが当たらないかな、なんて考えたり。寝ぼけ眼で壁にかけられた時計を見ると、いつも起きる時間までもう少しある。
なら、寝てしまおう。そうして二度寝を決め込もうとしたら、横から唸り声が聞こえた。
誰かと思って横を向くと、明日香さんの顔があった。
声にならない声が口から漏れ出た。昨日、寮を上げて開催された期末試験の打ち上げがあった。当然そこにはわたしたち二人も参加していて、ちょうど並んでゲームを楽しんでいて、その後疲れてそのまま寝落ちしてしまったのだ。よく見れば、他にも数人がこのベッドの上ですやすやと眠っている。
彼女はとてもリラックスした状態でブランケットに包まれていた。しかも、わたしたちはすごく密着している。数センチ動けば、肌が触れ合ってしまうくらいには。
そうしている間に、わたしの意識は徐々に覚醒を始めた。もう、二度寝なんて考えられないくらいには、目が冴えてしまっている。
そっと横目で、明日香さんのことを眺めた。無防備に、天使のような寝顔を晒す彼女は、普段のキリッとした表情とは真逆の、赤ちゃんみたいに可愛らしい顔をしている。
やっぱり、綺麗な人はまつ毛が長いんだ。鉛筆だってのりそうな、くるっとカールした、かわいいまつ毛。
肌もニキビなんてなくて、とってもつるつるしていそうだ。 思わず、触れたくなる。少しだけ、なら。
そっと、右手を顔の前に出してみる。
この距離ですら、体温が感じられそうだった。
ちょうどその時、彼女が少し身じろいだ。ぎょっとして、慌てて手を引っ込める。それどころか、頭の向きも変えて、耐えるようにじっと天井を見上げた。天井のシミを数えて、一ミリも動けない。というか、動かせない。そもそも、ここには他の人もいるんだから、そんな馬鹿なことをして誰かに見られる可能性もあるのだ。そこまで頭が回らないなんて、わたしは愚かだった。
ならもう、さっさと起きて、こっそり出て行ってしまおう。
わたしは慎重に体を起こし、なるべく音を立てないようにベッドから降りた。散乱するスリッパと、自室から持ってきたお菓子の残り、雑誌を回収して、廊下に出る。
自分の部屋に戻ると、どっと疲れた。そして、ちょっと後悔した。もっと見ておけばよかったかもしれない。せっかくの機会を逃してしまった。
目を覚まそうと、洗面台で顔を洗おうとした時、テーブルの上に置きっぱなしにしていた端末を見つけた。一件だけメッセージが入っている。差出人の名前を見て、唇をぎゅっと噛んだ。
ふと、扉をノックする音が聞こえてきた。こんな早朝に誰が訪ねてくるのだろうと思って、そっとドアを開けた。
目の前に、明日香さんが立っていた。
「おはよう。少し話があるんだけど、いいかしら」
わたしは頷いて、彼女を招き入れた。素足にスリッパを履いた明日香さんと、二人掛けのソファに座る。
「あの、お茶でも淹れましょうか」
「……いえ、必要ないわ。ありがとう」
髪の毛だってまともにとかしていないからボサボサで、しかも急にわたしのところまで訪ねてきたのだから、わたしは何も覚悟も用意もできていなかった。
膝の上で手を重ねて、どんな話が飛び出してくるのかと、心臓が恐ろしい速さで脈打っている。
「わたし、何かしましたか……その、昨日、とかに」
「…………覚えていないの?」
明日香さんが、軽蔑するような、少し怒っているような顔でわたしを見たので、とてつもなく死にたくなった。何かやらかしてしまったのだろうか!? わたしには思い当たる節は全くなく、ただひたすらに胃が縮こまっている。
「あのね…………貴女、わたしにキスしたのよ」
「えっ?」
一瞬、時が止まった。キスという全く聞きなれない単語を彼女の口から聞いて、気が動転しているのだ。さっきの言葉が嘘でなければ、わたしは明日香さんとキスしたということになる。本当に? 嘘ではなく? 脳をフル稼働して、記憶を探し出しているが、まったくその時の記憶が見つからない。
明日香さんは、その可愛らしい頬を真っ赤に染めて、わたしを見ている。じっと目を逸らさずに、可憐で、痛々しくて、とってもかわいい。
「…………あの、すみませんけど全く身に覚えがないんです。その、いつどこで、誰と一緒にいる時でしたか」
今目の前の光景が、すごく非現実じみていて、他人事のようにすら思えた。
明日香さんは、わたしの顔を見てすごく大きなため息をつき、吐き捨てるようにこう言った。
「真実か挑戦か」
その言葉を聞いて、わたしははっと思い出した。
真実か、朝鮮か。アメリカとか、外国のドラマでやっているシーンをよくみる、ちょっとしたパーティーゲーム。まあ、王様ゲームの海外版だと思ってくれていい。
要は、男女でいちゃつくためのゲームなのだけど、わたしたちはなぜか、女同士でそれをやってみようとした。
そこまで思い出すと、スルスルと他の記憶も芋づる式に脳裏に蘇ってくる。
そうだ。わたしは明日香さんと軽いキスをしたのだ。挑戦を選んだのはわたしだけだった。あの時は眠くて頭がふわふわとしていて、正直何も考えていなかった。
今になって思い出す。あの柔らかい唇の歪な温もりとか、毛穴ひとつないような、透けるように白い肌。触れれば溶けてしまいそうだった。
「やっと、思い出したのね」
呆れたような表情で見上げられて、愚かにもちょっとドキドキしてしまった。あんなのキスのうちに入りませんよ、と普段のわたしなら言っていたかもしれない。誤魔化して、曖昧にしていただろう。彼女が相手でなければ、そう言えるはずだ。
「だって、真実ばっかりだと面白くないし……」
「…………それはそうだけど」
「あの、不快にさせたら申し訳ないです。でも、ゲームだし、事故みたいなものじゃないですか? 女同士だし、ノーカンってことで」
「そう……思っているの? 貴女、ちょっとだけ寂しそうな顔をしてたわよ」
核心を突かれたような気がする。なんていうか、わたしのひた隠しにしていた汚い一面を、彼女だけには見透かされているような。
なんだか全部、誤魔化しきれていなかったんだ。昨日のキスの一つで、明日香さんは見たことのない表情をいっぱい見せてくれた。
そうか。わたしは寂しそうに、していたのか。
「明日香さん的には、嫌だったんですか?」
「別に、貴女だし、こんな物数の内には」
「じゃあ、なんでここに来たんですか?」
「それは……」
「わたしは、悪い気はしませんでしたよ」
目の前にいる彼女が恐ろしいほど美しかったので、触れたら割れてしまいそうな気がした。つい最近まで、遠くから眺めているだけで満足できた相手が、今目の前で、ちょっとでも手を伸ばせば抱き寄せられそうなくらい近くにいる。
その事実だけで、体温が上がって気がおかしくなりそうだ。
「女同士でも、いいじゃないですか」
愛に貴賤はない。彼女の兄の台詞が脳をよぎった。わたしは流れに身を任せ、彼女の絹のような髪にそっと触れた。
目を合わせると、水晶のような透き通る瞳に、わたしの顔が映っているのがわかった。じっと見ていると、不意に目を逸らされた。
「ダメです、ちゃんと見て」
胸が痛いほど強く鼓動を打つのがわかった。顔を手で覆うと、彼女の頬が、少し熱を帯びていて、手のひらにカイロみたいな暖かさが伝わってくる。
「明日香さん、今こうしていて、どうですか? わたしはずっと、こうしたいって思ってたんですけど」
「どうも何も、恥ずかしい」
「じゃあ、嫌じゃないんですね」
息を閉じ込めるように口付けると、昨晩塗りあったリップの味がした。これが彼女の味なのか。閉じていた目を開けると、律儀に目を瞑ってわたしに身を委ねている姿が見えた。
明日香さんは、わたしの前では弱っていて、生まれたての子鹿みたいでかわいい。
もうすでに、わたしの憧れていた彼女はいないが、意外と悪い気はしなかった。
夕暮れ時の海を見て、わたしは少し絶望している。ゴミも流れつかない、時々寂しげな流木が浜辺に転がっている。
早足で、いつもの場所に足を運んだ。彼は制服姿で、もう何時間も待っていたみたいな顔でわたしを見つけて、ブンブンと手を振った。
「……こんにちは」
「こんにちは!」
なんでこんなに元気なんだろう。嬉しそうな子犬みたいな顔を見て、わたしは少し悲しくなる。もうわたしは、吹雪さんを必要とはしていない。それを今から言わなくてはいけない。彼はもう、恋愛の師匠という仮面を捨て去って、わたしとは無関係ですという顔をしていなくてはいけない。
だって、これ以上会って話しても何もならない。これ以上、わたしは何も求めていないから。
「あの……」
「今日は大事な話があるんだ」
わたしの言葉を遮るように、彼はそっとつぶやいた。
「僕が思うに……君は明日香にふさわしい人間だ。これ以上望んでも無理なくらいにね」
「……はあ」
正直、それ以上の言葉は不要だった。わたしにとって、それはノイズだった。もうわたしは補助輪なしでも自転車に乗れるようになったのだから。
「だから、明日香と家族になってほしいんだ」
「……はあ?」
「ナマエ、僕と結婚しよう」
わたしは開いた口が塞がらなかった。同じ遺伝子から産まれていて、どうしてこうも図々しいのだろう。
この世の全てを手に入れたいってクチなのだろうか。全て管理して、手元に置いて珍重したいタイプなのだろう、彼は。
「イヤです。日本で同性婚ができないとしても、養子縁組で家族になれます。海外に行けば、夫婦になれます。だから吹雪さん、あなたとは結婚できません」
「そんなの、ダメだよ」
「はあああああっ!? どこか、なんでダメなんですかっ!」
わたしはすでに、欲しいもの全てを手に入れていた。成績は右肩上がり、かわいい彼女もいる。全部あるのに、わたしは彼に分け与えるものなんて何一つないのだ。
わたしの体はわたしのもので、意志は全部わたしにある。結婚してほしい、家族になりたいから。わたしの感情を知っておきながら、傲慢な人間だ。妹の仲人になりたがっている、変人。どうしても嫌いになれないけれど、あなたはわたしの好きな人じゃない。
「なんだって、僕はキミが好きなんだよ!」
「嫌だって、言ってるでしょうが!」
「明日香のことが好きなキミのことが、好きなんだよ! だから、家族になりたいんだ!」
「本当に人の話が聞けないんですね、気持ち悪いです! わたしたちの幸せに割って入らないでください!」
こういうの、なんていうんだっけ、すごく嫌われるんだ。女の関係に割って入る男っていうのは。
「でも、明日香と一緒になるなら、僕の家族になるんだよ?」
「吹雪さんと親族になるのはいいですけど、結婚したくないです」
「一緒じゃないか!」
「違います!」
本性を表したわたしの元師匠の姿は、みっともないことこの上ない。彼のおかげでわたしの願いは叶ったとはいえ、なんて醜いのだろう。
絶望で、今すぐ浜辺に倒れたくなった。本当に、尊敬はしていなかったけれど、親切で慕っていたつもりだった。明日香さんの兄として、それなりに好きだったのに、どうしてこうなるんだろう。
「あなたにコントロールされたくないんですよ。もう、明日香さんとわたしは清い関係ではないので、諦めてくれませんか? 責任は取るので、認めてください。わたしはあなたとは一緒にはなれません」
今すぐにでも、寮に戻って勉強をしたい。吹雪さんの言っていることは、耳を通り過ぎてどこかへ飛んでいってしまう。波の流れを見ていると、今この場に立っていることがバカらしくなってきた。
「僕は、明日香とキミのことが大好きなんだよ」
「知ってます」
子供のわがままのように聞こえた。わたしは今、すごく絶望している。今この場に飛行機があるなら、彼女を連れてどこか遠くの、知らない国に飛んで行きたい。わたしがこんな気持ちでいることも、明日香さんはきっと知らない。
「ぜーんぶわかってますよ。吹雪さんのこと。全部喋ってくれたので」
わたしのことを好きにさせて、本当にごめんなさい。そう言って、わたしは元きた道を戻った。
追ってくる気配はない。きっと、これから先に彼がさっきのことを誰かに話すこともないだろうと思う。
そしてわたしも、もう二度と、海になんて行かないだろう。
わたしはそう固く信じ、この学園の門をくぐった。
海の真ん中にポツンと浮かんだ火山島。
名だたるデュエリストを輩出した名門。
頑張って、ここで一番になろう。そして、プロとして世界に羽ばたく存在になる。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
入学してから何度目かのテストを終えた。
一年目は慌ただしく、学校生活に適応するのに精一杯だったので、二年目からは落ち着いて勉学に打ち込む予定だったのだが、わたしの所属する学年はイレギュラーの世代らしい。
わたしの周りでは、常にトラブルに事欠かなかった。思い返せば、慌ただしい一年だった。
おかげで、勉学に身を入れるどころか、揉め事に巻き込まれないように神経をすり減らすばかりだ。慣れない寮生活は、適度にわたしの精神に苦痛を与えた。わたしは、規律で自分を縛ることが好きだと思っていたが、他人と共同生活を送る上で、他人から縛られることは不快だと感じるタチだったらしい。
それが当たり前と言われれば、そうだけど。
廊下に張り出されたテストの順位を見て、わたしは自分の眉間にシワができているのがわかった。
女子生徒の数が少ない我が校では、女子は成績に関係なく、全員もれなくオベリスクブルー寮に居続けることになるのだが、これがなんとなく嫌だった。
生活環境がかかっている男子は、上に行く・現状を維持するために躍起になって勉強して、その結果成績がメキメキ上がるというのに、女子にはそれがない。
うちの学校の女子は、そのせいもあってかなんとなく全員がのほほんとした、おっとりした雰囲気を醸し出していた。
もちろん、手を抜いているとか、真面目じゃないと言うつもりはない。
実際、みんなテスト前になると談話室に集まって勉強会をしたり、自主的にデュエルの試合を組んで練習したりと結構頑張っている。
けれど、闘争心がないのだ。
もっと上に行きたい、そういう向上心というか、野心がここには足りない。
三沢くんや万丈目くんを見てほしい。上に行きたくて常にギラギラしてるって感じ。
確かに、みんな良い成績を残したい、テストで上の順位に行きたいといったそういう気持ちはあるんだろう。でも、それは他者と闘争して勝ち取るものではない。そんな空気が蔓延している。
……今回も上位10人にはどうにか食い込んだ。
わたしもそんな空気に毒されているのか、最近は勉強に力が入らない。絶対に将来プロになる。そんな決意をして入学したのに、ここで一番に慣れなくてどうするんだろう。
いつも順位の頂点に名前を連ねている、天上院明日香さんの顔をこっそり盗み見た。
凛々しい横顔に、優等生然とした佇まい。彼女だけは、どこか他の人と違っていた。どこか遠くを見据えるような瞳に見つめられると、わたしは自分の最も弱い場所を晒しているような、不安な気持ちに襲われる。
彼女こそが、オベリスクの青を背負うにふさわしい。
明日香さんが背筋を真っ直ぐ伸ばして授業を聞いている様子を見ると、いつも気を引き閉めなければいけない、と意識を新たにさせてくれるのだった。
最近のわたしは、どこかおかしかった。
例えば、寮で夕食を食べている時──その日のメニューは洋食だったので付け合わせはパンだった──ふと、ちょうどわたしの斜め前に座っている明日香さんの指が気になった。
彼女はいつもの友人二人を挟むようにして座っていて、楽しそうに会話をしながら話していた。
指先で器用にパンを一口大の大きさに千切り、バターを塗り、それをなめらかな動きで口に運んでいた。
余計なパンくずをテーブルの上に散らかすなんてことはなく、マナーの本に載っているお手本のような手つきだった。
おそらく、彼女はそれを当然のことだと思っている。そうすると、急に自分の食べ方が間違っているような気がして、顔に体温が集積するのがわかった。
別に、自分の作法が間違っていて、彼女が正解というわけでもない。
わたしだって、食べ物を落としたりすることのないように細心の注意を払っているし、パンくずなんて、食いちらかそうとしなくても自然に発生して、テーブルの上に飛び散ってしまうものだ。
その後、わたしはパンを食べるのが恐ろしくなった。
一口にちぎる手が震えて、不恰好な大きさのパンが分裂した。余計に恥ずかしくなって、それを無理やり口に押し込んだ。
天上院明日香さんは、わたしが必死になってしようとしていることを、いとも容易く、呼吸するかのような自然さでやってのけてしまう。
柔らかそうな薄い唇に、発酵した小麦粉の塊が押し入れられる。
どうか、どうかあの人に気づかれませんように。わたしは水を飲むふりをしながら、彼女の指と、唇をずっと見つめていた。
気がつくと、わたしはずっと明日香さんのことを目で追ってしまっていた。
それどころか、彼女本人がその場にいない時でも、ずっと彼女のことを考えている始末だ。
わたしと明日香さんの面識は、同じ寮の顔見知り程度でしかない。授業こそ一緒に受けてはいるが、教師に指名されて答えを述べる時しか、彼女はわたしを見ていないだろう。
なぜ脳にこびり付いて離れないのか。夜間の自由時間に、デッキの構成を考えたり、数学の課題をこなしている間にも、または図書室で借りた小説を読んでいる間すら、明日香さんの挙動を思い返すのだ。
──憧れが昂る余り、疑似的な恋愛感情に陥っているのだろうか。
その思考に至った時、わたしは思わず椅子から立ち上がりそうになった。
授業中だった。
エウレカと叫んだギリシャの哲学者のように、なりふり構わず叫んでやりたかった。
「ミス・ミョウジ、何か質問があるノーネ?」
いきなり挙動不審になったわたしを見て、教卓のクロノス先生はこちらを怪訝そうな視線で見つめている。
「あ……大丈夫です。すみません」
全員の視線がわたしに集まる。その中には、彼女が不思議そうにわたしを見つめるその顔もあった。
やけに顔が熱くなっているのは、こんなに注目を浴びてしまったからじゃない。けれど、この秘密に気づいている人はいないだろう。
自分の納得する答が見つかったことで、余計にわたしは明日香さんに熱中するようになった。
勉強は身につかない。集中力は持続しない。やけに自分の姿が醜く見える。
けれど、これは思春期の女性にはよくある事例。だから、わたしは全くおかしくなったわけではないのだ。
そう信じることで、わたしは正気を保っている。
「君は今、恋をしているね」
授業がもう終わりがけの時、なんとなく海を見たくなった。
浜辺で何を書くでもなく、棒切れを持って突っ立っているわたしの横に、いつの間にか誰かが立っていた。
夕焼けを背に、絵画の中の住人のように佇む彼を見て、わたしの心臓は不協和音じみた高鳴りを覚えた。
なぜだかよく説明することはできないが、第六感が危険シグナルを鳴らしまくっている。
まるで誰だかわからなかったけれど、オベリスクブルーの制服を着用していることからして、彼は同じ学校の生徒なのだろう。
ブルー寮の男子生徒と、わたしはあまり関わりがない。
いきなりわたしに話しかけてくる相手なんて、全く思いつかなかったし、この人のことも、誰だかなんてわからなかった。
「すみません、どういうことでしょうか?」
わたしは、思った疑問をそのまま返してみることにした。
全く知らない人にそんなことを言われて、全く気にならないわけがない。恋をしているなんて、何を根拠に言っているんだろう。
そもそも、彼は何者なのか。
「瞳を見ればわかるよ。恋をする人は、瞳の輝きが増すんだ!」
そう言う彼の瞳は、陽の光に透かした硝子細工のように、煌めいていた。
彼はわたしの手を取って、顔を間近に近づける。
「ち、近……」
「僕はね、君みたいな人を助けてあげたいんだ」
「……別に、助けてほしいなんてわたしは」
手を振り解いて逃げようとしたら、余計に力を込めて手をつかまれた。
「君は明日香に恋をしているね」
「…………は?」
どこから漏洩したのか。
なぜバレたのか。
体が固まって、わかりやすく図星だとバレてしまう。
何か言い返さないと。
わたしの明日香さんへの感情は、ただの憧れであると、恋愛感情は、思春期特有の気の迷いであって、本物ではないと。
言わないといけない。
「そんな、こと」
「僕はね、自分の妹に恋する人をたくさん見てきたんだ。そして、僕はその全てを等しく応援すると決めているんだ」
全てを受け入れるような微笑みに、絆されそうになる。夕景を背負って微笑む彼は、慈愛という言葉を体現したような微笑を浮かべて、わたしだけをまっすぐ見ていた。
透き通るような双眸に射抜かれて、わたしは頷いてしまった。
認めてしまった。
わたしの感情。
誤魔化していた嘘の全てを。
「女同士でも、いいんですか」
「愛に貴賤はないよ」
これがわたしと天上院吹雪さんとの出会いだった。
それからしばらく、わたしと吹雪さんはいつとは定めず、お互いの時間がある時にチャットをしたり、海辺で会って話すようになった。
まるでわたしが彼と逢瀬を重ねているようだったが、現実としては全くそういうことにはならず、彼はわたしに恋の駆け引きとやらを授けて、わたしはそれをクソ真面目に受け取り、知識として蓄えるという、奇妙な師弟関係が発生していた。
自分の妹の将来のパートナーが誰になるのか、それで頭がいっぱいであるようだ。
わたしが奥手で全くコンタクトを取ろうとしないことにご立腹らしく、毎回「君には期待しているのだから、もっとガンガン行きなさい」だの、一緒に昼食を食べるようにセッティングしようか、だとか、とにかく仲人もびっくりの提案を毎回丁重に断っては、後で少し後悔するという不毛な作業を繰り返している。
「ナマエっ! 明日香を好きな男子はいっぱいいるんだよ? 取られてしまってもいいのかい!?」
「……よくはないですけど、明日香さんが納得されたお相手とお付き合いされるなら別にわたしは──」
「謙虚さは恋愛において美点にはならないんだよっ!」
「でも、別にわたしは明日香さんとお付き合いしたい訳ではないんです。明日香さんの隣には、わたしよりもふさわしい人間がいるべきなんです」
わたしがそう言うと、吹雪さんは何か考え込むような顔つきになった。
数秒の沈黙ののち、彼は大きな声でこんなことを言った。
「明日の放課後、明日香とデュエルしなさい」
「…………えっ?」
我ながらいいことを思いついた。そう言いたげな笑みを浮かべて、吹雪さんはわたしを見つめている。
──入学してから今まで、わたしは明日香さんとデュエルをしたことがなかった。授業でのデュエルは、基本的に教員が対戦相手を指定するのだが、わたしは彼女と当たってこなかった。
いつも横から彼女のデュエルを眺めているしかしてこなかったので、吹雪さんの提案に心が揺らいだのも事実。そして、一人のデュエリストとして、明日香さんと戦ってみたいという気持ちがある。
「わたしでもいいんでしょうか」
「誰からの挑戦も拒まないさ。明日香は真面目だからね」
「……検討します」
口ではこう言いつつも、わたしは内心、いいアイデアだと感心していた。
これでなら、疑われることなく明日香さんとお近づきになれる。明日香さんは優等生だから、彼女と手合わせしたいという生徒は多いはず。だから、決して不自然ではない。
決行は明日。彼女の時間が空いた時間に頼んでみよう。
今夜はデッキの調整で忙しくなりそうだ。彼女にお粗末なデュエルを見せるわけにはいかないから──
「デュエル? 構わないわ。今日の放課後なら相手になれると思うけれど、いいかしら」
その言葉を聞いてからわたしの頭はずっとふわふわとしていた。昼休みに声をかけたのは、間違いだったかもしれない。だって、午後の授業なんて全く耳に入らなかった。
教科書の文字も、外国語のように見えた。昨日早朝までデッキの調整をしていたせいもあって、眠気と緊張で授業の内容は、ほとんどと言っていいほど頭に入っていない。
終了のチャイムが鳴ると、わたしはすぐさま鞄にノートやら筆箱やらを突っ込んで、すぐにでも教室を出れるように張り切っていた。
ホームルームの時間すら惜しい。一分一秒でも早く終わってほしかった。
机の中に腕を突っ込んで、デッキーケースのプラスチックの感触を確かめる。デュエルディスクは、鞄の中に入っている。すぐにでも、わたしは戦える。
「起立、気をつけ、礼、ありがとうございましたー!」
その声を合図に、わたしたち生徒はわーっと一斉に教室を飛び出していく。入口は押し合いへし合いの大行列だ。
クロノス先生が、「廊下を走ってはいけないノーネ!」と叫ぶ声が聞こえる。もう高校生なのに、まるでみんな小学生だ。
「わたしたちもいきましょうか」
「ですね……」
わたしたちは二人きりで連れ立って、長い廊下を歩いた。教室から少し離れた、普段授業で使っている部屋を借りて対戦しようという話になっていたからだ。職員室で借りた鍵でドアを開けると、お互い慣れた手つきでデュエルディスクを装着する。
ケースから取り出したデッキをシャッフルして収めると、わたしたちはリングの上に上がった。
「確か、あなたと対戦するのは初めてだったわね。お互い、全力でがんばりましょう」
「……はい! 頑張ります! それじゃあ……」
「「デュエル!」」
※
デュエルディスクから、ライフポイントが減少する音が聞こえてくる。目の前のモンスターが砕けて墓地に送られる映像とともに、勝者の名前がモニターに映し出された。
「……わたしの負けね」
──勝ってしまった。
この景色は幻覚でも、ましてや都合のいい幻でもなかった。わたしの場に残っていたモンスターの映像が消え、それでもまだわたしは一言も発することができないでいた。
「あの、わたし……勝ったんでしょうか」
「そうよ」
挙動不審になるわたしを見て、明日香さんはこちらを不思議そうな目で見ている。
「……あなた、大丈夫? 気分でも悪かったら医務室に──」
「いえっ、大丈夫です! 明日香さんに勝てたのが、夢みたいで……その、驚いてしまって」
実際、わたしは今の状況を飲み込めていない。勝負は時の運というが、まぐれでも勝ててしまったという事実に、心臓が張り裂けそうなほど強く脈打っている。
そうか、わたしは勝ったのか。
憧れの人を、この手で──
「いいデュエルだったわね。でも、次も負けるつもりはないわ」
闘志に燃える瞳に見つめられ、わたしは息が止まりそうになった。
「次は負けるつもりはない」その言葉を何度も何度も噛み締めながら、それが決して社交辞令などではなく、彼女の本心からの台詞であることを祈った。
差し伸ばされた手を、そっと握る。手袋越しに伝わる明日香さんの手のひらの感触を、ずっと確かめていたい。けれど、今はそんな肉感的なことよりも、与えられた言葉の方がずっと重要だった。
「はい、勿論!」
わたしたちはお互い見つめ合う。やっと、わたしはここに立てたのだ。敬愛してやまない彼女と戦い、認められた。もう、今この瞬間に死んでも惜しくない。それくらい嬉しい。
今日が人生最良の日であることは間違いないだろう。握った手のひらの感触、デュエルの時の緊張感、勝利の喜び。それら全てが渦になってわたしの中でぐるぐると回っていた。
「いざ勝負! ドローッ!」
昼休みは色々なところからさまざまな声が聞こえてくる。やかましいけれど、わたしはそんなに気にならない。学校はそういう場所だから。騒いでも許されるのは、今の間だけだし。大人になると、こういうこともできなくなると思う。
というわけで、わたしもノリノリでドローパンを開封してみた。
ぱっと見で中身はわからない。わたしたちは各々で購入したドローパンを口に運ぶ。
「うわあ、磯の味がする……」
わたしが引いたのは、どうやら海苔パンらしい。中からどろっとした海苔が出てきて、パンの小麦粉味と混ざる。味の相性は──正直よろしくない。
「ソーセージパン。可も不可もないわね」
「いいなー、わたしなんて海苔パンですよ!」
「わたしはハムにレタス!」
「いちごジャムでしたぁ」
それぞれ手にしたパンの味について報告する。そして、それに対して一喜一憂するのだ。なんだか、最近やけに変な味を引き当てている気がする。前回は抹茶カニカマパン、前々回はケチャップ納豆パン──
わたしとは反対に、みんなの方は普通に美味しそうなパンを引き当てている。羨ましい! わたしだって、普通のやつがよかったのに。
「なんでいっつもイロモノに当たっちゃうかなあ……」
「ナマエは運がいいのね」
「えーっ! そんな運いらないですよっ!」
なんて平和なんだろう。あんまり美味しくないパンをもそもそと咀嚼しながら、周りではしゃぐ3人を見つめていた。
あのデュエルの後、いろいろあってなんと、わたしは明日香さんたちとお近づきになることができた。前まで見つめているだけだった存在の隣に立つことができて、とても嬉しいと思っている。
明日香さんのお友達もとてもいい人で、話していて結構楽しかったりする。今まで友達らしい友達のいなかったわたしにとって、彼女たちの存在は貴重だ。
「キミたち、楽しそうだね」
「兄さん?」
わたしたちがはしゃいでいる横から、吹雪さんの声がした。明日香さんと一緒にいる時に彼とわたしが会ったことはなかった。ただならぬ予感がしたのだ。第六感というのだろうか、不吉な気配を感じてしまった。
「いやいや、通りがかりに楽しそうな声が聞こえたものでね。妹の学友の顔でも見ておきたいじゃないか」
「学友の顔も何も、女子生徒のことは全員分知ってるんじゃないかしら」
ニコニコと笑う吹雪さんを、他のみんなは上目遣いでチラチラと見ていた。わたしだけが、どうしたらいいのかわからなくて、自然な顔に見えるように、必死に表情を取り繕っていた。
「明日香も新しい友達が増えたようで、嬉しいよ」
わたしの目を見て、彼ははっきりとそう言った。明日香さんや、みんなの目がわたしを見ている。
「え、ええ……わたしも明日香さんと仲良くさせてもらえて、嬉しいです」
吹雪さんは、自分の妹にわたしがどのような思いでこの場にいるのか、暴露するつもりはないようだった。心臓がドッと高鳴って、他の人の目がまともに見えない。
確認のつもりなのか。自分の助言がうまく役立ったか、見にきた。そういうことなのだろうか。
「明日香のことを、よろしく頼んだよ」
最後にわたしの目をじっと覗き込むようにして、彼はヒラヒラと去っていった。まるで、嵐が通り過ぎた後のような気持ちになった。相当汗をかいていたらしい。わたしの背中はベトベトして、下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。
「わたしの兄なの。変わってる人だけど、悪気はないのよ」
残りの昼食を口に運びながら、明日香さんはそんなことを言った。
「はい。明日香さんのお兄さんなんですから、きっといい人なんだと思います」
わたしは彼女に、作り笑いで応えた。この思いに、貴女は何も応えてくれなくていい。ただ、今のままで満足しているのだから。
彼女は少しはにかんで俯いた。
これでよかったんだ、と今は思っておこう。
鳥が鳴く音が聞こえてくる。はしゃぎ疲れて眠っていたけれど、もう朝になっていたらしい。
なんだか意識が曖昧で、もう少し寝ていてもバチが当たらないかな、なんて考えたり。寝ぼけ眼で壁にかけられた時計を見ると、いつも起きる時間までもう少しある。
なら、寝てしまおう。そうして二度寝を決め込もうとしたら、横から唸り声が聞こえた。
誰かと思って横を向くと、明日香さんの顔があった。
声にならない声が口から漏れ出た。昨日、寮を上げて開催された期末試験の打ち上げがあった。当然そこにはわたしたち二人も参加していて、ちょうど並んでゲームを楽しんでいて、その後疲れてそのまま寝落ちしてしまったのだ。よく見れば、他にも数人がこのベッドの上ですやすやと眠っている。
彼女はとてもリラックスした状態でブランケットに包まれていた。しかも、わたしたちはすごく密着している。数センチ動けば、肌が触れ合ってしまうくらいには。
そうしている間に、わたしの意識は徐々に覚醒を始めた。もう、二度寝なんて考えられないくらいには、目が冴えてしまっている。
そっと横目で、明日香さんのことを眺めた。無防備に、天使のような寝顔を晒す彼女は、普段のキリッとした表情とは真逆の、赤ちゃんみたいに可愛らしい顔をしている。
やっぱり、綺麗な人はまつ毛が長いんだ。鉛筆だってのりそうな、くるっとカールした、かわいいまつ毛。
肌もニキビなんてなくて、とってもつるつるしていそうだ。 思わず、触れたくなる。少しだけ、なら。
そっと、右手を顔の前に出してみる。
この距離ですら、体温が感じられそうだった。
ちょうどその時、彼女が少し身じろいだ。ぎょっとして、慌てて手を引っ込める。それどころか、頭の向きも変えて、耐えるようにじっと天井を見上げた。天井のシミを数えて、一ミリも動けない。というか、動かせない。そもそも、ここには他の人もいるんだから、そんな馬鹿なことをして誰かに見られる可能性もあるのだ。そこまで頭が回らないなんて、わたしは愚かだった。
ならもう、さっさと起きて、こっそり出て行ってしまおう。
わたしは慎重に体を起こし、なるべく音を立てないようにベッドから降りた。散乱するスリッパと、自室から持ってきたお菓子の残り、雑誌を回収して、廊下に出る。
自分の部屋に戻ると、どっと疲れた。そして、ちょっと後悔した。もっと見ておけばよかったかもしれない。せっかくの機会を逃してしまった。
目を覚まそうと、洗面台で顔を洗おうとした時、テーブルの上に置きっぱなしにしていた端末を見つけた。一件だけメッセージが入っている。差出人の名前を見て、唇をぎゅっと噛んだ。
ふと、扉をノックする音が聞こえてきた。こんな早朝に誰が訪ねてくるのだろうと思って、そっとドアを開けた。
目の前に、明日香さんが立っていた。
「おはよう。少し話があるんだけど、いいかしら」
わたしは頷いて、彼女を招き入れた。素足にスリッパを履いた明日香さんと、二人掛けのソファに座る。
「あの、お茶でも淹れましょうか」
「……いえ、必要ないわ。ありがとう」
髪の毛だってまともにとかしていないからボサボサで、しかも急にわたしのところまで訪ねてきたのだから、わたしは何も覚悟も用意もできていなかった。
膝の上で手を重ねて、どんな話が飛び出してくるのかと、心臓が恐ろしい速さで脈打っている。
「わたし、何かしましたか……その、昨日、とかに」
「…………覚えていないの?」
明日香さんが、軽蔑するような、少し怒っているような顔でわたしを見たので、とてつもなく死にたくなった。何かやらかしてしまったのだろうか!? わたしには思い当たる節は全くなく、ただひたすらに胃が縮こまっている。
「あのね…………貴女、わたしにキスしたのよ」
「えっ?」
一瞬、時が止まった。キスという全く聞きなれない単語を彼女の口から聞いて、気が動転しているのだ。さっきの言葉が嘘でなければ、わたしは明日香さんとキスしたということになる。本当に? 嘘ではなく? 脳をフル稼働して、記憶を探し出しているが、まったくその時の記憶が見つからない。
明日香さんは、その可愛らしい頬を真っ赤に染めて、わたしを見ている。じっと目を逸らさずに、可憐で、痛々しくて、とってもかわいい。
「…………あの、すみませんけど全く身に覚えがないんです。その、いつどこで、誰と一緒にいる時でしたか」
今目の前の光景が、すごく非現実じみていて、他人事のようにすら思えた。
明日香さんは、わたしの顔を見てすごく大きなため息をつき、吐き捨てるようにこう言った。
「真実か挑戦か」
その言葉を聞いて、わたしははっと思い出した。
真実か、朝鮮か。アメリカとか、外国のドラマでやっているシーンをよくみる、ちょっとしたパーティーゲーム。まあ、王様ゲームの海外版だと思ってくれていい。
要は、男女でいちゃつくためのゲームなのだけど、わたしたちはなぜか、女同士でそれをやってみようとした。
そこまで思い出すと、スルスルと他の記憶も芋づる式に脳裏に蘇ってくる。
そうだ。わたしは明日香さんと軽いキスをしたのだ。挑戦を選んだのはわたしだけだった。あの時は眠くて頭がふわふわとしていて、正直何も考えていなかった。
今になって思い出す。あの柔らかい唇の歪な温もりとか、毛穴ひとつないような、透けるように白い肌。触れれば溶けてしまいそうだった。
「やっと、思い出したのね」
呆れたような表情で見上げられて、愚かにもちょっとドキドキしてしまった。あんなのキスのうちに入りませんよ、と普段のわたしなら言っていたかもしれない。誤魔化して、曖昧にしていただろう。彼女が相手でなければ、そう言えるはずだ。
「だって、真実ばっかりだと面白くないし……」
「…………それはそうだけど」
「あの、不快にさせたら申し訳ないです。でも、ゲームだし、事故みたいなものじゃないですか? 女同士だし、ノーカンってことで」
「そう……思っているの? 貴女、ちょっとだけ寂しそうな顔をしてたわよ」
核心を突かれたような気がする。なんていうか、わたしのひた隠しにしていた汚い一面を、彼女だけには見透かされているような。
なんだか全部、誤魔化しきれていなかったんだ。昨日のキスの一つで、明日香さんは見たことのない表情をいっぱい見せてくれた。
そうか。わたしは寂しそうに、していたのか。
「明日香さん的には、嫌だったんですか?」
「別に、貴女だし、こんな物数の内には」
「じゃあ、なんでここに来たんですか?」
「それは……」
「わたしは、悪い気はしませんでしたよ」
目の前にいる彼女が恐ろしいほど美しかったので、触れたら割れてしまいそうな気がした。つい最近まで、遠くから眺めているだけで満足できた相手が、今目の前で、ちょっとでも手を伸ばせば抱き寄せられそうなくらい近くにいる。
その事実だけで、体温が上がって気がおかしくなりそうだ。
「女同士でも、いいじゃないですか」
愛に貴賤はない。彼女の兄の台詞が脳をよぎった。わたしは流れに身を任せ、彼女の絹のような髪にそっと触れた。
目を合わせると、水晶のような透き通る瞳に、わたしの顔が映っているのがわかった。じっと見ていると、不意に目を逸らされた。
「ダメです、ちゃんと見て」
胸が痛いほど強く鼓動を打つのがわかった。顔を手で覆うと、彼女の頬が、少し熱を帯びていて、手のひらにカイロみたいな暖かさが伝わってくる。
「明日香さん、今こうしていて、どうですか? わたしはずっと、こうしたいって思ってたんですけど」
「どうも何も、恥ずかしい」
「じゃあ、嫌じゃないんですね」
息を閉じ込めるように口付けると、昨晩塗りあったリップの味がした。これが彼女の味なのか。閉じていた目を開けると、律儀に目を瞑ってわたしに身を委ねている姿が見えた。
明日香さんは、わたしの前では弱っていて、生まれたての子鹿みたいでかわいい。
もうすでに、わたしの憧れていた彼女はいないが、意外と悪い気はしなかった。
夕暮れ時の海を見て、わたしは少し絶望している。ゴミも流れつかない、時々寂しげな流木が浜辺に転がっている。
早足で、いつもの場所に足を運んだ。彼は制服姿で、もう何時間も待っていたみたいな顔でわたしを見つけて、ブンブンと手を振った。
「……こんにちは」
「こんにちは!」
なんでこんなに元気なんだろう。嬉しそうな子犬みたいな顔を見て、わたしは少し悲しくなる。もうわたしは、吹雪さんを必要とはしていない。それを今から言わなくてはいけない。彼はもう、恋愛の師匠という仮面を捨て去って、わたしとは無関係ですという顔をしていなくてはいけない。
だって、これ以上会って話しても何もならない。これ以上、わたしは何も求めていないから。
「あの……」
「今日は大事な話があるんだ」
わたしの言葉を遮るように、彼はそっとつぶやいた。
「僕が思うに……君は明日香にふさわしい人間だ。これ以上望んでも無理なくらいにね」
「……はあ」
正直、それ以上の言葉は不要だった。わたしにとって、それはノイズだった。もうわたしは補助輪なしでも自転車に乗れるようになったのだから。
「だから、明日香と家族になってほしいんだ」
「……はあ?」
「ナマエ、僕と結婚しよう」
わたしは開いた口が塞がらなかった。同じ遺伝子から産まれていて、どうしてこうも図々しいのだろう。
この世の全てを手に入れたいってクチなのだろうか。全て管理して、手元に置いて珍重したいタイプなのだろう、彼は。
「イヤです。日本で同性婚ができないとしても、養子縁組で家族になれます。海外に行けば、夫婦になれます。だから吹雪さん、あなたとは結婚できません」
「そんなの、ダメだよ」
「はあああああっ!? どこか、なんでダメなんですかっ!」
わたしはすでに、欲しいもの全てを手に入れていた。成績は右肩上がり、かわいい彼女もいる。全部あるのに、わたしは彼に分け与えるものなんて何一つないのだ。
わたしの体はわたしのもので、意志は全部わたしにある。結婚してほしい、家族になりたいから。わたしの感情を知っておきながら、傲慢な人間だ。妹の仲人になりたがっている、変人。どうしても嫌いになれないけれど、あなたはわたしの好きな人じゃない。
「なんだって、僕はキミが好きなんだよ!」
「嫌だって、言ってるでしょうが!」
「明日香のことが好きなキミのことが、好きなんだよ! だから、家族になりたいんだ!」
「本当に人の話が聞けないんですね、気持ち悪いです! わたしたちの幸せに割って入らないでください!」
こういうの、なんていうんだっけ、すごく嫌われるんだ。女の関係に割って入る男っていうのは。
「でも、明日香と一緒になるなら、僕の家族になるんだよ?」
「吹雪さんと親族になるのはいいですけど、結婚したくないです」
「一緒じゃないか!」
「違います!」
本性を表したわたしの元師匠の姿は、みっともないことこの上ない。彼のおかげでわたしの願いは叶ったとはいえ、なんて醜いのだろう。
絶望で、今すぐ浜辺に倒れたくなった。本当に、尊敬はしていなかったけれど、親切で慕っていたつもりだった。明日香さんの兄として、それなりに好きだったのに、どうしてこうなるんだろう。
「あなたにコントロールされたくないんですよ。もう、明日香さんとわたしは清い関係ではないので、諦めてくれませんか? 責任は取るので、認めてください。わたしはあなたとは一緒にはなれません」
今すぐにでも、寮に戻って勉強をしたい。吹雪さんの言っていることは、耳を通り過ぎてどこかへ飛んでいってしまう。波の流れを見ていると、今この場に立っていることがバカらしくなってきた。
「僕は、明日香とキミのことが大好きなんだよ」
「知ってます」
子供のわがままのように聞こえた。わたしは今、すごく絶望している。今この場に飛行機があるなら、彼女を連れてどこか遠くの、知らない国に飛んで行きたい。わたしがこんな気持ちでいることも、明日香さんはきっと知らない。
「ぜーんぶわかってますよ。吹雪さんのこと。全部喋ってくれたので」
わたしのことを好きにさせて、本当にごめんなさい。そう言って、わたしは元きた道を戻った。
追ってくる気配はない。きっと、これから先に彼がさっきのことを誰かに話すこともないだろうと思う。
そしてわたしも、もう二度と、海になんて行かないだろう。