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遊戯王
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サテライトとシティの往来ができるようになったと聞いた時、混乱のあまり少しの間息が止まった。
それはつまり、わたしの存在を知る人間がこの街にも来るということであり、わたしが最も恐れていた事態そのものだった。
……なぜ、こうなってしまったのか。
この事態に不快感を表すシティの住民もいるが、彼らの不平不満は、わたしの不安とは根本的に違っている。わたしは彼らに対して表面的には同意を示しながらも、胸の中ではもっと異なる原因で、この衝撃に対してどう向き合うかを考えていた。
ストレスで胃が潰れそうになる日々が続き、わたしは仕事を休職することにした。
何も考える必要がないという日常は、余計に心身を疲弊させることにつながる。
かかった医者からの勧めで、朝は走ることにした。ジョギングは昔から得意だったから、苦になることはなかったが、目の前を通り過ぎる街並みを見ていると、嫌な記憶が押し寄せてくるのだった。
今日の朝のことだった。わたしはいつものように近所を走っていた。曲がり角で、誰かとぶつかった。一瞬のことで、何が起こったかわからず、気がつくとわたしは地面に尻餅をついていた。
「悪ぃ! 大丈夫か!」
声の主は、男性のようだった。わたしはその人の手をとって立ち上がろうとした。その瞬間、左足から鋭い痛みが走った。「ったぁ!」と、大声を上げて、わたしは少し情けなくなった。折れてはないと思うけれど、捻挫したのだと思う。
「捻ったのか?」
「ええ、多分……」
勢いよく顔を上げて、後悔した。
「まずいな……ちょっと冷やすもの持ってくる!」
わたしが一番会いたくない相手が、そこにいた。
あのスラム街──サテライトにいた頃、わたしは名乗っている名前が今と違っていた。その理由は後で話すとして、大事なのはそこで何をしていたかということだ。
わたしはデュエリストだった。
あの頃、徒党を組んで他のデュエリストたちを襲うという行為が、ある種の熱病のように流行していた。今でも、その理由はわからない。何もすることのないわたしとその仲間たちは、くだらない遊びに熱中した。
今となっては、なんて危険な遊びに熱中していたんだろうと思う。
けれど、その時確かに、わたしたちの間には仲間と生きているという実感があったのだ。
しかし、それは長くは続かなかった。
当時、チーム・サティスファクションと名乗る一団が勢いを増しているらしいという噂を聞いた。
なんでも、苛烈なデュエルで多くのチームを潰してきたというらしい。
無謀な我々は、そいつらに挑んで、負けた。彼らに手ひどくやられたわたしたちは、次第にチームとしてのまとまりをなくし、疎遠になった。
だから、わたしはあの男に個人的な恨みというか、忌避感があるのだ。あの人はわたしを覚えていないと思うが、それでも今会いたい相手ではなかった。
「これで冷やすとマシになるはずなんだが……」
クロウ・ホーガンはどこからか氷嚢を持ってきて、わたしの足にそれを巻きつけた。
「どうも……」
わたしがどんな思いでいるかも知らずに、彼は親切心を発揮している。それが、逆に困るのだ。
「支えがあれば立てるか?」
「多分」
「わかった。ここ持って、捕まってくれ」
言われるがままに従っているわたしもわたしである。彼の肩に捕まり、わたしと正面衝突した彼のバイクの座席に乗せられる。彼はわたしの傷の具合を確認して、「病院に行った方がいい」と言った。
「青くなってないから折れてはいないと思うんだが……」
もう、折れていようがそれでなかろうが、どうでもよかった。
「オレの不注意で捻挫させて、悪かった。せめて病院までは送らせてくれよ」
「いや、いいですよ」
わたしは今すぐこの場を離れたくてどうしようもなかった。
「遠慮すんなって! このまま置いといたら俺の方が気になるし」
「……はあ」
わたしの乗ったバイクを押して、彼は近くの病院までわたしを運搬してくれた。
親切な町医者の診療でサポーターを巻いてもらい、痛み止めも処方された。
「あ、保険証忘れました」
「オレが払っといた」
「あ、ありがとうございます」
医療費の立て替えとか大丈夫なんだろうか、と思ったが、特に止められなかったということは、大丈夫なのだろう。
「元はといえばオレが悪いんだから、気にすんなって」
「……」
サポーターを巻いてもらった足は、嘘のように痛みが引いていた。まあ、家に帰ってそれを解いたら、またズキズキと痛み出すのだろうけど。そうじゃなかったら、わざわざ処方箋を出す意味がない。
「なあ、お詫びと言ってはアレだけどよ、生活必需品とか、そういうのでいる物があったら、家まで届けさせてくれねえか? その足じゃ買い物に行くのもつれえだろうし」
何を言い出すのかと思った。
「え、住所、教えるんですか……」
「ま、待て! 誤解しないで欲しいぜ。オレは個人で運送業をやってんだ! ブラックバードデリバリーって名前で検索すれば、出てくると思うんだが……」
「……」
わたしはポケットから端末を出して、言われた通りに検索してみた。そしたら、サイトがヒットした。
住所が知りたいと言われて、引くほど驚いたが、そういうことならなるほど、理解した。理解したくないけれど。
かつて暴力や恐喝に明け暮れていたチーム・サティスファクションのメンバーが、今は運送業などという堅気の仕事についていることが、なんとなく、似合わないな、と思った。
わたしが彼らとデュエルしたのは一度きりだったが、それでもあの時の殺伐とした空気は覚えている。現在のクロウは、もうかつてのようにピリピリとした雰囲気を持っていないようだった。
「じゃあ、番号に電話するので、その時はよろしくお願いします」
……絶対使いたくない。
彼は頷いて、「オレの不注意で悪かったよ」と謝罪した。
「わたし、そろそろ家に戻るので」
「わかった。気ぃつけてな!」
最後までわたしを送っていこうとする気遣いを丁重に断り、わたしはゆっくりと家まで歩いて帰った。マンションにエレベーターが付いていて、本当に良かったと思う。
部屋に入り、痛み止めを飲んでからテレビをつけた。走ること以外に今の趣味はなく、地上波で流れるくだらない情報番組や、海外のドラマを見るか、ネットサーフィンくらいしかできることがない。部屋には難しそうな本や、資格の参考書などがあるが、今はそれらに手をつける暇なんてなかった。
テレビの声が耳障りになってきたのでスイッチを切ると、途端に部屋が静かになった。昼間は他の住民たちが仕事や学校に行っているので、ここら辺はゾッとするほど静寂に包まれている。
鳥の鳴き声ひとつも聞こえてこない部屋は、静かであればあるほど、不気味な雰囲気がした。
これはわたしの主観なので、実際、客観的にこれらの光景を見たときに、そんなことを思うのはわたし一人だけのはずだ。
わたしが恐れるのは、この部屋の元の住民のことで、ここで一人でいると、時々目線のようなものを感じることがあった。
ここ最近、それが酷くなっているような気がする。
理由は、本当に自業自得でしかないのだが、ここまで追い詰められていることを医者に語っても、薬を出されるだけだと思うから、言えない。
いや、誰であってもこれについては話すことができない。もしもバレたら、わたしはここにいられなくなるだろう。
いてもたってもいられなくなったので、わたしはゆっくりと立ち上がり、パソコンを立ち上げた。元の持ち主が、パスワード管理が杜撰で助かった。近々、全てのパスを書き換えなければいけないだろうけれど。
タイピングに慣れた手で検索窓に情報を打ち込み、過去の掲示板の内容を片っ端から漁った。インターネットというものは、実に雑多な情報で溢れている。政治から今日のおかずまで。なんでもアリだ。
サテライトの英雄、不動遊星がこの街とサテライトをつなぐ英雄となった。そのことに関して、ネットの意見は好意的だった。
しばらくそれを漁っていると、来年開催されるライディングデュエルの世界大会に、不動遊星たちのチームが再結成して参加するのではないかというレスが書き込まれていた。
……ライディングデュエル。わたしもバイクさえ買えれば、もう一度チャレンジしてみても良いかもしれない。なんて絵空事を考えてみる。
あの時のメンバーも、今はどこで何をしているかなんてわからない。
サテライトの外に出ていったやつもいた気がするし、全く足取りが掴めない。
今はそれが都合が良かったりするのだけど。
しばらくパソコンを見て目が疲れたので、何か別のことをしようと思った。けれど、立ち上がって何かすることは不可能なので、どうしようかと迷った結果、お昼を食べるという結論に辿り着いた。
いつものデリバリーに電話した後、限界まで這っていった。
これからしばらくはまともな料理ができないだろうから、宅配か、冷凍食品だけで過ごさないといけないだろう。
冷蔵庫の中に後どれだけ、冷凍唐揚げとパスタが残っているか考えて、わたしは頭が痛くなった。
今日のスーパーの特売で買い足そうと思っていたのに、怪我をしたからその予定も飛んだのだ……。
ずっとデリバリーで腹を満たすのは、財布に優しくない。冷凍食品なら、まとめ買いをして宅配で送ってもらえるよう頼めば、少しは安くつくのではないだろうか。
わたしは少し迷って、財布の中身を確認し、今月のクレジットカードの限度額を考えて、ブラックバード・デリバリーのサイトに記載されている電話番号を打ち込んだ。
「もしもし、わたしですけど」
一時間も待たずに、彼はきた。
その間、わたしは食べ終えたパックを流しで洗って、水切りの上で乾かすという、一連の作業を終えるところまでやってしまっていた。
「これと、これ。あとこれも。ちゃんと持ってきたぜ」
「ああ、ご苦労様です」
「おう、また頼ってくれよな。あ、一応サインも書いてもらえるか? 適当でいいから」
自分の名前でない名前を書くのにも、やっと慣れてきたところだ。
わたしはなんでもないという風に、他人の名前をそこに書いた。
「つーか、その年でいい家住んでんだな。羨ましい限りだぜ」
「へえーそうなんですね」
適当に返事をしておく。当たり前だ。ここは、わたしの力で手に入れたものじゃない。
「家賃も高いんじゃないのか?」
「そうですね。でも、一応今の収入でちゃんと払えるんで」
「はあー! オレもそれくらい稼いでみたいもんだぜ。金はいくらあっても足りないのに、稼いだそばから浪費するデカい子供がいるからな」
「デカい子供?」
デカい子供というのは誰のことなのだろうか。パッと思いつかない。
そういえば、わたしはチーム・サティスファクションのことは知っていても、個々人のパーソナルな情報を知らない気がする。
「あー、オレの仲間のことだ」
「仲間って、グループで何かをされているんですか?」
「今度のライディングデュエルの大会に出る予定でさ、それの資金集めをしてんだよな」
「世界大会ですよね? すごいじゃないですか!」
「まあな、うちのチームには遊星とジャックもいるし、結構いいとこ──優勝も夢じゃねえと思うんだ」
「不動遊星とジャック・アトラスっていえば、すごい有名人じゃないですか! そんな人と組むなんて、クロウさんってデュエルお強いんですか?」
「へへッ、まあな! 二人とは昔からのダチでよ」
クロウは照れたように笑いながら、嬉しそうに夢を語っていた。
今でも、彼らは面識のある仲間同士なのか……しかも、世界大会に出場すると言い張っている。腕も鈍っていないのだろう。
わたしの方は、あれ以降カードに全く触っていないから、デュエルのルールを思い出すことすら危うい程度にまで、実力が落ちてしまっている。
今のわたしがデュエルするところをかつての仲間が見ることがあれば、笑われてしまうに違いない。
「なあ、あんたはデュエルするのか?」
「一応できますよ。って言っても、持ってるカードがそんなに強くないんですけどね」
いきなり確信を突かれてしまったので、作った笑顔が引き攣った。
向こうとしては、探るようなつもりで言ったわけではないだろうから、不自然に誤魔化すようなことを言ってはダメだ。
この街では、自分のデッキを持っていない人の方が珍しいのだから、下手に嘘をつくより今の対応でよかった……はずだ。
「そっか! 時間があったらデュエルするところなんだが、あいにくこれから時間指定の配達があってな」
「そうですか。お仕事頑張ってください」
「おう! そっちも頑張って足治せよ!」
そう言うと、彼は颯爽と階段を駆け降りていった。
元気な人だ。
そして、ある意味怖い人だった。もうこれ以上、彼に頼ることがないように努めたいと思う。
わたしはそんなことを考えながら、ドライアイスの入った袋を手に、キッチンに向かった。
それから2週間が経過した。
わたしの足は快調に回復し、今ではサポーターを使えば痛みなく歩けるくらいには怪我が癒えてきている。
怪我で動けない間、クロウのデリバリーに頼ったのは一度きりだった。しかし、彼はわたしの家を知っている上に、ある程度以上の個人情報を握られてしまっている。
……潰すか?
そんな物騒な考えがふと浮かんで、すぐに冷静になった。
まだ決定的なミスを犯しているわけでもないのに、すぐ暴力に走ろうとするのは、よくない。まだ全然カバーできている範囲のはずだ。
殺すか口を封じるようなことをしたところで、わたしは司法によって裁かれてしまうだけだ。
再び出会わないようにすればいい。
それができれば、わたしの勝ちだ。
でも、今はその時ではない。
わたしは悶々としながら、今日の買い出しを終えた。
スーパーからは、歩きで帰ることにしている。ゆっくり歩いていると、ある一角でデュエルをしているようで、何人かのギャラリーがついていた。
あー、やってるなあ。
わたしはそんなことを思って、そこを通り過ぎようとした。
「黒槍のブラストでダイレクトアタック!」
よく知った声がその中から聞こえてきた。思わず足を止めて、密かに耳を澄ませる。どうやら彼の攻撃は通ったようで、そこでデュエルは終了した。
クロウ・ホーガンは野良デュエルもするのか。まあ、らしいといえばそうかもしれない。
周りのギャラリーが次々とデュエルを申し込んでいる。伝説のチーム、サティスファクションの元メンバーと戦えるのだから、デュエリストとしては嬉しいのだろう。 わたしだって、元はデュエルのチームでサテライトを荒らして暴れていたのだから、血が騒がないわけではない。
でも、今はそれをしてはいけないのだ。もうわたしのデュエルは終わりだから。
バレてはいけない。
万が一、過去のわたしを知っている人がいれば、ここで人生が終わってしまう。
だから、わたしは素通りをしようとした。
「なあ、そこの人! もっと近くで見てもいいんだぜ」
やめてくれ。
クロウ・ホーガンは、わたしの背中にそんな声をぶつけた。
確信犯め。
わたしは返事をせざるを得なくなってしまった。
「……じゃあ、言葉に甘えて」
「久しぶりだな。足はもういいのか?」
「サポーターがあれば歩けますよ」
「そうか! 治ってきてるみたいで安心したぜ」
それだけ言うと、彼は再び別のデュエリストと対戦し始めた。すぐに帰るわけにもいかないから、わたしは近くのベンチに腰掛けて、それを見る。
現役の時。という言い方はおかしいかもしれないけれど、全く衰えていない。逆に、進化したデュエルを彼は披露していた。
大会前なのに、そんなに手の内を明かしてしまってもいいのか。逆に心配になるくらい、クロウは自分のデュエルを妥協せず、持ちうる技術の全てを出して戦っていた。
「オレの勝ちだな!」
そう言って、彼は相手と握手をした。わたしは完全に、彼のデュエルに見入っていた。悔しいけれど、なぜ自分が負けたのかいやでもわからされたような気持ちになった。
「デュエルしたいって顔、してたぜ」
考え込んで俯いていると、ふと頭上から声がした。クロウがわたしの顔を見て、ニヤニヤと笑っている。
「デッキ持ってませんよ」
「ンなモン、オレの予備を貸してやるよ」
そう言って、彼は自分のポケットからそれを取り出し、わたしの手に握らせた。
「オレの魂のカードを貸してやるよ。だから、お前も本気でぶつかってきな!」
デュエルをコミュニケーションとして楽しむつもりはなく、あくまでわたしの本気を見たいのか。
……ここで断ってはいけない気がする。
自分の理性がやめた方がいいと言ってくるが、あえて無視することにした。戦いたい。デュエルはやっぱり、自分の手で動かしてこそだ。
「久しぶりに血が騒いできた! やりましょう!」
「おう!」
「……なあ、BFデッキを回した経験があるんじゃないか?」
「えぇ? ないですよ」
対戦の直後、そんなことを言われたので、わたしは動揺して思わず声が裏返った。
「へえー、初めてなのにあそこまでやれたのかよ? すげえな」
嫌でも覚えているだけだ。
わたしに勝った相手のデッキ、そのめちゃくちゃな効果は今でも記憶に焼き付いている。
「今回は負けたんですけどね」
「でも、楽しかっただろ?」
「……悪くはなかったですね」
悔しいことに、嘘ではない。久々のデュエルは、わたしの闘志に火をつけるのに十分な役割を果たしてくれた。
カードの読み合いや、相手の効果を妨害するのに、とても頭を使った。それがとても楽しかった。またやりたい、なんて思ってしまうくらいに。
その後、彼は何人かと対戦して、その全てで勝利を収めていた。
憎たらしいくらい完璧な勝利である。
「よし、そろそろ帰るわ」
彼はそう言って、そばに停めてあるバイクに向かって歩き出した。
「またデュエルしようぜ!」
「……機会があれば」
もし、再び戦うことがあれば。そんなことは二度とないといいのだけど。
公共料金──水道代やら電気代を振込に行った帰りのこと。
ついでと思って立ち寄ったカードショップに足を運んでみると、目に入ってくるのは店内に所狭しと並べられたカードの山。
わたしは思わず後ずさりしてしまった。
サテライトにいた頃は、誰かが捨てたカードを拾って使うか、路上で売られている正規品かどうももわからないようなものを集めて、デッキを組むしかなかった。
今となっては、金さえ出せば色々なデッキが組めるのだ。やっぱり、物があるところにはなんでもあるんだな、と思った。
「お客さま、何かお求めの物はございますか?」
ぼーっとショーケースを眺めていると、店員さんから声をかけられた。
「デッキを組みたいんですけど、最近復帰したばかりなので最近のカードがわからなくて──」
ガラスケースに反射する顔を見て、胸を鷲掴みにされたような気持ちになった。
「そうなんですね。最近はシンクロ召喚が流行っているので、こちらのテーマなんてどうですか? 元キングのジャック・アトラスも使っていたので強さはお墨付きですよ」
ペラペラと饒舌に説明してくれる店員の前で、わたしは必死に表情を崩すまいと頑張っていた。
彼は、わたしのかつての仲間だった。間違いない。あの頬のマーカーは、彼のトレードマークだった。
向こうは気づいていないのだろうか。
不安で胸がいっぱいになる。気づいて欲しいような、欲しくないような、そんな矛盾で心がパンクしそうになった。
「……そうですね、元々悪魔族はよく使ってたし、それもいいかもしれないです」
「なるほど……悪魔族だとこっちのカードもおすすめですよ」
営業話術を巧みに使いこなす彼の姿は、かつてサテライトで不良じみた行為に明け暮れていたものとはかけ離れていた。
きっと、他の人だって、彼の顔のマーカーが見えない限りは、そうだとは思わないだろう。
悪魔族でカマをかけてみたが、まだわたしだと気づいていないようだった。
わたしがかつて、自分のデッキで悪魔族を採用していたのは、事実である。
だから、これで気づくんじゃないかと思った。
見た目だって、あの時からほぼ変わっていない。
少し背が伸びて、大人になったけれど、顔だちなんてほとんど変わっていないはずだ。
昔の仲間にも、わたしは忘れられたのか。
そう考えると、少し情けなくなる。結局、わたしは自分の犯した罪を裁かれずに、自分の名前で生きていたいというわがままな人間だったらしい。
わかっていたはずだ。
わたしは透明人間だった。
今までもずっと、そうやって生きていたから、今更なことじゃないか。
「……今このモンスターってシンクロ召喚に使えるんですか」
「あぁ、相性のいいチューナーもいるし、組み合わせ次第では結構強いと思いますよ」
「じゃあ、それをください。シンクロモンスターも、おすすめのを全部買います」
やけになって、財布の中身を全部出す勢いでカードを大人買いした。
本当に覚えていないのかと、彼の目を再び見つめたが、結局、かつての友人はわたしであると気づくことがなかった。
家に帰ると、見慣れない人影があった。
少なくとも、このアパートの住民ではない──その人はよく見ると、セキュリティの制服を着ていた。
わたしはこのままアパートの中に入って、自分の家に戻るか迷った。
大家と何やら話し込んでいるらしいが、どんな内容かはわからない。ここの大家を見かけたのは一度だけだったし、あの人にはわたしの正体はバレていないと思う。 治安維持局がなぜこんなところにいるのか。事件でもあったのか、それともわたしが「乗っ取った」女のことでも聞いているのか。
むしゃくしゃした帰りにこんなものに出くわすなんて、全く運が良くない。
話は長くなりそうだったので、家には帰らず、そこらで暇を潰すことにした。もちろん、警戒は怠らずに。
近所の公園のベンチに座って、財布の残りの小銭を全投入して買ったアイスコーヒーを飲む。
ここら辺は子供が少ないのか、立派な遊具は遊ばれることはなく、ほぼ無人に近い状態で置かれていた。
ブランコや滑り台なんて、サテライトにはなかった。わたしたちは、廃材の山の中や、手付かずの廃墟で遊んでいた──などと子供時代を振り返ってみる。
あの時はあの時で、楽しかった。
けれど、その相手がわたしのことが分からなかったというのだから、人間は案外あっさりとした生き物なのかもしれない。
「……よっ、久しぶりだな」
わたしの目の前に、クロウ・ホーガンがいた。
いつものような人当たりの良さそうな笑顔で、片手にはわたしと同じコーヒー缶を持っている。
「……どうも」
「飲み物でも飲もうと思ったら、知ってる顔がいたんでな」
隣に腰掛け、プルタブを開けた彼は、微糖コーヒーを一気飲みすると、口を拭った。
「そうなんですね。お疲れ様です」
「今日は暑いから、結構キツかったぜ」
彼の愛車は、公園の前に停めてあった。
本当に、今日は真夏のように暑苦しい。黒光りするバイクを眺めながら、わたしは彼の隣でコーヒーをちびちびと飲む。
「今日、カードショップに行ったんですよ」
「おお、何かいいのはあったか?」
「はい。ずっと探していた物に出会えたんです。でも、なんだかあっさり手に入るとあっけないですね」
何を話しているんだ、わたし。
「まあ、そういうこともあるよな」
「あの時は大切にしていたのに、大人になった今、こんなに簡単に手に入るんだって、悲しくなったんです。
でも、昔の自分なら、もっと喜べたんだろうなって考えると、大人って存外つまらないものに思えてきました」
わたしの言葉を聞きながら、クロウは微妙な顔で頷いた。
「でも、その時に思った嬉しいって感情は本物なんだろ? じゃあ、それは大事にしておいた上で、今本当に楽しいことを見つければいいんじゃないのか?」
「今楽しいことって、ないんですよ。わたしは多分、今のままだと何にもなれない……」
そこまで言って、はっとした。つまり、そういうことだったんだ。
わたしという人間が、現在から動くことは、決してないのだ。
他人になって生きるということは、その座標から1ミリもぶれずに、ただ案山子になって終わりまで待ち続ける。それしかできなくなるということなんだ。
「デュエルしよう」
真理に辿り着いて混乱するわたしに、彼はそう言った。
「……は?」
「この前のデュエル、あんなに楽しそうにしてたのに、楽しいことがないなんて、絶対有り得ねえ。あの顔は、演技ではできねえよ。
それにな、オレ自身、お前ともう一回戦いたい」
何を言ってるんだ、この人は。
「……ここでするんですか?」
「ソリッドビジョンがないと不満か?」
「……別に、そういうわけじゃ」
「なら、あっちでやろうぜ」
そう言って彼が指差したのは、ベンチから少し離れた場所にある東屋だった。
椅子を挟んだ真ん中に、机のようなものがあり、わたしたちはそれを囲むように座った。
やるのか。今ここで。
なんでもデュエルで解決できると思っているのだろうか。人の悩みも、人生の決断も。
強い人間だから、そう思えるだけなんじゃないか。
デュエルをしたところで、わたしの人生の空白は一生埋まらないだろう。
ただの気休め。単なる娯楽。
けれど、もう二度と負けたくないという強い意思がわたしの心で叫んでいる。
クロウ・ホーガンに負けて、チーム・サティスファクションに負けて、わたしの将来には何がある? 何が残っている?
もう、自分を表す手段はデュエルしかない。わたしはそれに、一生苦しめられるだろう。
だから、絶対今回は負けられない。
完璧な構築にはまだほど遠い、言うなればただの紙の束をわたしは必死にシャッフルする。手はまだその動きを覚えていた。
「先攻はやるよ。どこからでもかかってきな」
「このデュエル、絶対負けない」
「「決闘!」」
*
結果から言えば、わたしはこのデュエルで負けなかった。
けれど、この勝利は試合に勝って勝負に負けたようなものだった。だから、決して名誉の勝利ということではない。
「……」
わたしはクロウの質問に無言で返した。
これはもう、肯定と捉えてくださいと言っているようなものだ。
事実上の敗北宣言。
まさか、わたしのことを一番よく見ていたのがこの人だったなんて、皮肉なものだ。
わたしの数年間の努力と沈黙は、今この時をもって破られた。
「やっぱりな。なんかどっかで見たことある顔だと思ったぜ。……で、どういうカラクリでこんなに長い期間他人に成りすませていたんだ?」
「誰にも言わないってことなら、いいけど」
「ああ」
わたしの嘘偽り、全て白日の元に晒す日が来てしまった。
「嘘だと思うだろうけど、これから話すのは、全部本当の話」
今から数年前。
わたしのチームが解散を決意し、全員が散り散りになった頃。
失うものがなくなったわたしは、やけを起こしてしまい、人生最大の賭けにでることにした。
セキュリティの目を盗んでシティに潜り込み、二度とここには戻らない。
そう決めた日、根拠のない自信で心が満たされた。
チームのみんなと、いつかここを抜け出して向こう側へ行ってみたいと語り合っていた。その思い出だけが、無気力なわたしを生かしてくれていたのだ。
その時の幻想に取り憑かれていたわたしは、そんな馬鹿みたいな計画を実行に移してしまった。
そして、それは成功した。
シティに辿り着いた後、ホームレスの不法侵入者になったわたしは、セキュリティに見つからないように警戒しながら、各所で隠れ住んで過ごしていた。
そんな生活が少し続いたある日、偶然通りかかった老時裏で、誰かが倒れているのが見えた。
血を流した女性が、倒れていた。
最初、それをスルーしようとした。
誰かに刺されたのだろう。明らかにそうとしか見えない出血量だった。
厄介な事件に巻き込まれて、自分の身が危うくなっては困る。だから、放っておこうと思った。
けれど、仰向けに倒れた人間の顔を見て、わたしは心臓を矢で射られたような衝撃を受けた。
その人は、まるで生写しのようにわたしとそっくりの顔をしていた。
瞬間、全身の神経は理性が咎めるまでもなく、勝手に動いていた。
すでにその人間の息がないことを確認すると、彼女の鞄を奪い取った。財布の中身は抜かれていたが、保険証などはそのまま残っていた。
彼女は死んでいる。
わたしは、端末のロックを無理やり外すと、位置情報から彼女の家を割り出した。
狭いマンション。
おそらく一人暮らしだろうか、と勝手に想像する。
この時すでに、わたしは彼女に“成り代わってやろう“と考えていた。
そのために、ありとあらゆる可能性を検証する必要がある──はずだったのだが。
「何これ……」
彼女のマンションの鍵は、開いたままだった。
中には、最低限の家具が置かれているだけで、その人となりを表すようなものは、全く置かれていない。
無菌室のような部屋だった。
唯一、ノートパソコンだけがそれらしく置かれていたが、履歴には何も残っていなかった。
背筋を冷や汗が伝う。
携帯端末の電話帳には、一件も連絡先が登録されていなかった。それだけではない。着信履歴も空白のままになっている。
この人間の足取りが、全く掴めない。
人間は、ここまで足取りを消して生活できるものなのだろうか。
わたしは彼女の家の中を弄り、ありとあらゆる痕跡を探ったが、それらしいものは見つからなかった。
自分は、関わってはいけない人間と出会ってしまったのではないか。
出会うという言い方は適切ではない。向こうはすでに死んでいる。
たくさん迷ったが、これ以上隠れて野宿を続けるのも嫌だった。
だから、わたしはこの人間に擬態して生活を送る、という結論に至った。それが今まで、続いている。
「……マジかよ」
わたしの話を最後まで黙って聞いていたクロウは、信じられないものを見るような目で、わたしを見つめてそう言った。
荒唐無稽な話だ。
けれど、現にこんなめちゃくちゃな話は現実のことで、実際に成立してしまっているのだし、わざわざ嘘を言っても損でしかない。
「マジだって」
「じゃあ、今までずっと他人のふりして生きてたってことだよな」
「まあね」
「その、乗っ取った相手を刺した奴はわかってないのか?」
「…………今、わたしのマンションにセキュリティがきてるんだよね」
「マジかよ……まさか、バレたのか?」
「その件だったら、ヤバいかもね」
そうだった。わたしは今、結構危うい立場にいるんだった。
「もし、たった今捕まっても、別に構わないかも」
「自分が殺したんじゃないんだろ」
「……けどさ、わたしがやったって思うでしょ。殺した相手に成り変わって暮らす殺人者、普通にあり得ると思う。サテライト出身っていうのも、調べれば出てきそうだし」
なんだか、全部洗いざらい話して、全てがどうでもよくなってきた。
結局、わたしの夢ってヤツは、かつてのチームが崩れた時点でとっくに終わっていたのだ。
今はただ、その残りカスにしがみついて生きているだけ。
「随分と悲観的だな」
「常に最悪の事態を想定して生きてきたからね」
クロウはわたしになんて声をかけていいのか迷っているのだろう。そうだろうな、と思う。わたしだって、こんなことを言われてどう返したらいいのかなんてわからない。
「で、これからどうするつもりなんだよ。今のところ、オレにしかバレてないんだろ?」
「今まで通り、かな」
「元の自分に戻るつもりはないのか」
「昔の仲間にだって忘れてるのに、戻れる気がしない」
「判断基準は他人だけか?」
「自分のこと、証明しようがないから」
「…………そうじゃねえだろ。今のままだとお前、いつか自分が本当は何者なのかわからなくなるぞ」
わからなくなる、か。
もうそうなってるよ、クロウ・ホーガン。そうでもしないと、生きていけなかったんだよ。
「そうなっても自業自得でしょ」
「自分のこと、もっと大事にしろよ!」
そんな大声を出さないでほしい。まるで、わたしがかわいそうな人間みたいじゃないか。
「……じゃあ、あんたが預かっといて。もし、わたしの全部がバレて、今の生活がダメになったら、貸した名前を取り戻しに行く。だから、それまでクロウが名前を持っといて」
「オレが、持っておくのか」
「そう。もしかしたら、墓まで持っていくことになるかもしれないけど」
「嫌だ」
「……え? 今の会話の流れで断る? 普通」
「ついていってやるから、今までのことを全部治安維持局に話してこい」
「はぁ??」
まさか、今の流れで自首を勧められるとは思っていなかった。
思いもよらない言葉に開いた口が塞がらない。
本人は、本気なんだろう。真っ直ぐな二つの目が、じっとわたしを見ている。
「じゃ、行こうぜ」
「話が急すぎるんだけど……」
「もう全部話せばいいだろ。その方がスッキリする。今の治安維持局なら大丈夫だ。変な風にはされない」
「根拠は?」
「オレの勘」
クロウはもたもたしているわたしの手を引いて、ズンズン歩き出す。
行動力だけは本当に凄まじい。そこは、素直に尊敬しよう。
「逮捕されたら責任取ってくれるの」
「逮捕なんてされねえって」
その言葉通り、わたしが逮捕されることはなかった。 代わりに、何十時間にも及ぶ取り調べに応じることになってしまった。
ウソみたいな話をしゃべってしまったので、全員から精神疾患を疑われ、検査にもかけられたが、結局わたしの話は真実であると、全員が信じてくれた。
ドラマで見るような取り調べ室で、ひたすらくる人くる人に同じ話をし、ありとあらゆる角度から突っ込まれた。
自首──というか、告白さえしなければこんなことにはならなかっただろう。
面倒くさい。というか、実際めちゃくちゃだるかった。やらなくていい苦労をさせられてしまった。
クロウはその間、わたしのことをずっと待っていてくれたらしい。
やつれてボロボロになったわたしを真っ先に出迎えてくれたのは、クロウ・ホーガンその人だった。
「お疲れさん、気分はどうだ?」
「さいっあく……疲れたし、喉痛い。ってか、まだこれで終わりじゃないらしいし、マジで無理」
わたしがぶつくさ文句を言っている間、彼はうんうんと頷いていた。
「元はといえば、あんたのせいで全部めちゃくちゃになったんだ……」
「それを言われたら何も言えなくなるだろ!?」
クロウは大袈裟に騒ぎ立てる。全く、こんなことになってもまだ元気いっぱいだなんて、羨ましい。
「禁止カード使っちゃったね」
「オレだって大変だったんだぜ? 色々書類作ったりしてよ」
「ふーん……」
それに関しては、ありがたいとお礼を言ってもいいかもしれない。
全く身寄りのないままバレてしまうよりも、頼れる相手がいる状態で告白するというのは、悪くない選択肢だったと思える。
クロウという証人がいなければ、わたしの立場はもっと危ういものになっていたかもしれないし。
「ナマエ、これからどうするんだ?」
「とりあえず、ご飯でも行こっかな。もちろん、クロウの奢りでね」
「オレかよ!? まあ、しゃあねえか……このクロウ様が一肌脱いでやるぜ!」
クロウ・ホーガンと知り合って色々わかったことがある。その中で、彼が底なしのお人好しだということが、もっとも印象深く、とても助かっている。
「クロウ」
「なんだよ」
「ありがとう。これを言いたかっただけ」
わたしの人生を変えた人に、それだけ言ってやりたかった。
「これくらいお安い御用だぜ」
「じゃ、焼肉行こ」
「お前なぁ……」
歩く足取りは不思議と軽かった。今なら、どこにでもいけそうな気がする。
それはつまり、わたしの存在を知る人間がこの街にも来るということであり、わたしが最も恐れていた事態そのものだった。
……なぜ、こうなってしまったのか。
この事態に不快感を表すシティの住民もいるが、彼らの不平不満は、わたしの不安とは根本的に違っている。わたしは彼らに対して表面的には同意を示しながらも、胸の中ではもっと異なる原因で、この衝撃に対してどう向き合うかを考えていた。
ストレスで胃が潰れそうになる日々が続き、わたしは仕事を休職することにした。
何も考える必要がないという日常は、余計に心身を疲弊させることにつながる。
かかった医者からの勧めで、朝は走ることにした。ジョギングは昔から得意だったから、苦になることはなかったが、目の前を通り過ぎる街並みを見ていると、嫌な記憶が押し寄せてくるのだった。
今日の朝のことだった。わたしはいつものように近所を走っていた。曲がり角で、誰かとぶつかった。一瞬のことで、何が起こったかわからず、気がつくとわたしは地面に尻餅をついていた。
「悪ぃ! 大丈夫か!」
声の主は、男性のようだった。わたしはその人の手をとって立ち上がろうとした。その瞬間、左足から鋭い痛みが走った。「ったぁ!」と、大声を上げて、わたしは少し情けなくなった。折れてはないと思うけれど、捻挫したのだと思う。
「捻ったのか?」
「ええ、多分……」
勢いよく顔を上げて、後悔した。
「まずいな……ちょっと冷やすもの持ってくる!」
わたしが一番会いたくない相手が、そこにいた。
あのスラム街──サテライトにいた頃、わたしは名乗っている名前が今と違っていた。その理由は後で話すとして、大事なのはそこで何をしていたかということだ。
わたしはデュエリストだった。
あの頃、徒党を組んで他のデュエリストたちを襲うという行為が、ある種の熱病のように流行していた。今でも、その理由はわからない。何もすることのないわたしとその仲間たちは、くだらない遊びに熱中した。
今となっては、なんて危険な遊びに熱中していたんだろうと思う。
けれど、その時確かに、わたしたちの間には仲間と生きているという実感があったのだ。
しかし、それは長くは続かなかった。
当時、チーム・サティスファクションと名乗る一団が勢いを増しているらしいという噂を聞いた。
なんでも、苛烈なデュエルで多くのチームを潰してきたというらしい。
無謀な我々は、そいつらに挑んで、負けた。彼らに手ひどくやられたわたしたちは、次第にチームとしてのまとまりをなくし、疎遠になった。
だから、わたしはあの男に個人的な恨みというか、忌避感があるのだ。あの人はわたしを覚えていないと思うが、それでも今会いたい相手ではなかった。
「これで冷やすとマシになるはずなんだが……」
クロウ・ホーガンはどこからか氷嚢を持ってきて、わたしの足にそれを巻きつけた。
「どうも……」
わたしがどんな思いでいるかも知らずに、彼は親切心を発揮している。それが、逆に困るのだ。
「支えがあれば立てるか?」
「多分」
「わかった。ここ持って、捕まってくれ」
言われるがままに従っているわたしもわたしである。彼の肩に捕まり、わたしと正面衝突した彼のバイクの座席に乗せられる。彼はわたしの傷の具合を確認して、「病院に行った方がいい」と言った。
「青くなってないから折れてはいないと思うんだが……」
もう、折れていようがそれでなかろうが、どうでもよかった。
「オレの不注意で捻挫させて、悪かった。せめて病院までは送らせてくれよ」
「いや、いいですよ」
わたしは今すぐこの場を離れたくてどうしようもなかった。
「遠慮すんなって! このまま置いといたら俺の方が気になるし」
「……はあ」
わたしの乗ったバイクを押して、彼は近くの病院までわたしを運搬してくれた。
親切な町医者の診療でサポーターを巻いてもらい、痛み止めも処方された。
「あ、保険証忘れました」
「オレが払っといた」
「あ、ありがとうございます」
医療費の立て替えとか大丈夫なんだろうか、と思ったが、特に止められなかったということは、大丈夫なのだろう。
「元はといえばオレが悪いんだから、気にすんなって」
「……」
サポーターを巻いてもらった足は、嘘のように痛みが引いていた。まあ、家に帰ってそれを解いたら、またズキズキと痛み出すのだろうけど。そうじゃなかったら、わざわざ処方箋を出す意味がない。
「なあ、お詫びと言ってはアレだけどよ、生活必需品とか、そういうのでいる物があったら、家まで届けさせてくれねえか? その足じゃ買い物に行くのもつれえだろうし」
何を言い出すのかと思った。
「え、住所、教えるんですか……」
「ま、待て! 誤解しないで欲しいぜ。オレは個人で運送業をやってんだ! ブラックバードデリバリーって名前で検索すれば、出てくると思うんだが……」
「……」
わたしはポケットから端末を出して、言われた通りに検索してみた。そしたら、サイトがヒットした。
住所が知りたいと言われて、引くほど驚いたが、そういうことならなるほど、理解した。理解したくないけれど。
かつて暴力や恐喝に明け暮れていたチーム・サティスファクションのメンバーが、今は運送業などという堅気の仕事についていることが、なんとなく、似合わないな、と思った。
わたしが彼らとデュエルしたのは一度きりだったが、それでもあの時の殺伐とした空気は覚えている。現在のクロウは、もうかつてのようにピリピリとした雰囲気を持っていないようだった。
「じゃあ、番号に電話するので、その時はよろしくお願いします」
……絶対使いたくない。
彼は頷いて、「オレの不注意で悪かったよ」と謝罪した。
「わたし、そろそろ家に戻るので」
「わかった。気ぃつけてな!」
最後までわたしを送っていこうとする気遣いを丁重に断り、わたしはゆっくりと家まで歩いて帰った。マンションにエレベーターが付いていて、本当に良かったと思う。
部屋に入り、痛み止めを飲んでからテレビをつけた。走ること以外に今の趣味はなく、地上波で流れるくだらない情報番組や、海外のドラマを見るか、ネットサーフィンくらいしかできることがない。部屋には難しそうな本や、資格の参考書などがあるが、今はそれらに手をつける暇なんてなかった。
テレビの声が耳障りになってきたのでスイッチを切ると、途端に部屋が静かになった。昼間は他の住民たちが仕事や学校に行っているので、ここら辺はゾッとするほど静寂に包まれている。
鳥の鳴き声ひとつも聞こえてこない部屋は、静かであればあるほど、不気味な雰囲気がした。
これはわたしの主観なので、実際、客観的にこれらの光景を見たときに、そんなことを思うのはわたし一人だけのはずだ。
わたしが恐れるのは、この部屋の元の住民のことで、ここで一人でいると、時々目線のようなものを感じることがあった。
ここ最近、それが酷くなっているような気がする。
理由は、本当に自業自得でしかないのだが、ここまで追い詰められていることを医者に語っても、薬を出されるだけだと思うから、言えない。
いや、誰であってもこれについては話すことができない。もしもバレたら、わたしはここにいられなくなるだろう。
いてもたってもいられなくなったので、わたしはゆっくりと立ち上がり、パソコンを立ち上げた。元の持ち主が、パスワード管理が杜撰で助かった。近々、全てのパスを書き換えなければいけないだろうけれど。
タイピングに慣れた手で検索窓に情報を打ち込み、過去の掲示板の内容を片っ端から漁った。インターネットというものは、実に雑多な情報で溢れている。政治から今日のおかずまで。なんでもアリだ。
サテライトの英雄、不動遊星がこの街とサテライトをつなぐ英雄となった。そのことに関して、ネットの意見は好意的だった。
しばらくそれを漁っていると、来年開催されるライディングデュエルの世界大会に、不動遊星たちのチームが再結成して参加するのではないかというレスが書き込まれていた。
……ライディングデュエル。わたしもバイクさえ買えれば、もう一度チャレンジしてみても良いかもしれない。なんて絵空事を考えてみる。
あの時のメンバーも、今はどこで何をしているかなんてわからない。
サテライトの外に出ていったやつもいた気がするし、全く足取りが掴めない。
今はそれが都合が良かったりするのだけど。
しばらくパソコンを見て目が疲れたので、何か別のことをしようと思った。けれど、立ち上がって何かすることは不可能なので、どうしようかと迷った結果、お昼を食べるという結論に辿り着いた。
いつものデリバリーに電話した後、限界まで這っていった。
これからしばらくはまともな料理ができないだろうから、宅配か、冷凍食品だけで過ごさないといけないだろう。
冷蔵庫の中に後どれだけ、冷凍唐揚げとパスタが残っているか考えて、わたしは頭が痛くなった。
今日のスーパーの特売で買い足そうと思っていたのに、怪我をしたからその予定も飛んだのだ……。
ずっとデリバリーで腹を満たすのは、財布に優しくない。冷凍食品なら、まとめ買いをして宅配で送ってもらえるよう頼めば、少しは安くつくのではないだろうか。
わたしは少し迷って、財布の中身を確認し、今月のクレジットカードの限度額を考えて、ブラックバード・デリバリーのサイトに記載されている電話番号を打ち込んだ。
「もしもし、わたしですけど」
一時間も待たずに、彼はきた。
その間、わたしは食べ終えたパックを流しで洗って、水切りの上で乾かすという、一連の作業を終えるところまでやってしまっていた。
「これと、これ。あとこれも。ちゃんと持ってきたぜ」
「ああ、ご苦労様です」
「おう、また頼ってくれよな。あ、一応サインも書いてもらえるか? 適当でいいから」
自分の名前でない名前を書くのにも、やっと慣れてきたところだ。
わたしはなんでもないという風に、他人の名前をそこに書いた。
「つーか、その年でいい家住んでんだな。羨ましい限りだぜ」
「へえーそうなんですね」
適当に返事をしておく。当たり前だ。ここは、わたしの力で手に入れたものじゃない。
「家賃も高いんじゃないのか?」
「そうですね。でも、一応今の収入でちゃんと払えるんで」
「はあー! オレもそれくらい稼いでみたいもんだぜ。金はいくらあっても足りないのに、稼いだそばから浪費するデカい子供がいるからな」
「デカい子供?」
デカい子供というのは誰のことなのだろうか。パッと思いつかない。
そういえば、わたしはチーム・サティスファクションのことは知っていても、個々人のパーソナルな情報を知らない気がする。
「あー、オレの仲間のことだ」
「仲間って、グループで何かをされているんですか?」
「今度のライディングデュエルの大会に出る予定でさ、それの資金集めをしてんだよな」
「世界大会ですよね? すごいじゃないですか!」
「まあな、うちのチームには遊星とジャックもいるし、結構いいとこ──優勝も夢じゃねえと思うんだ」
「不動遊星とジャック・アトラスっていえば、すごい有名人じゃないですか! そんな人と組むなんて、クロウさんってデュエルお強いんですか?」
「へへッ、まあな! 二人とは昔からのダチでよ」
クロウは照れたように笑いながら、嬉しそうに夢を語っていた。
今でも、彼らは面識のある仲間同士なのか……しかも、世界大会に出場すると言い張っている。腕も鈍っていないのだろう。
わたしの方は、あれ以降カードに全く触っていないから、デュエルのルールを思い出すことすら危うい程度にまで、実力が落ちてしまっている。
今のわたしがデュエルするところをかつての仲間が見ることがあれば、笑われてしまうに違いない。
「なあ、あんたはデュエルするのか?」
「一応できますよ。って言っても、持ってるカードがそんなに強くないんですけどね」
いきなり確信を突かれてしまったので、作った笑顔が引き攣った。
向こうとしては、探るようなつもりで言ったわけではないだろうから、不自然に誤魔化すようなことを言ってはダメだ。
この街では、自分のデッキを持っていない人の方が珍しいのだから、下手に嘘をつくより今の対応でよかった……はずだ。
「そっか! 時間があったらデュエルするところなんだが、あいにくこれから時間指定の配達があってな」
「そうですか。お仕事頑張ってください」
「おう! そっちも頑張って足治せよ!」
そう言うと、彼は颯爽と階段を駆け降りていった。
元気な人だ。
そして、ある意味怖い人だった。もうこれ以上、彼に頼ることがないように努めたいと思う。
わたしはそんなことを考えながら、ドライアイスの入った袋を手に、キッチンに向かった。
それから2週間が経過した。
わたしの足は快調に回復し、今ではサポーターを使えば痛みなく歩けるくらいには怪我が癒えてきている。
怪我で動けない間、クロウのデリバリーに頼ったのは一度きりだった。しかし、彼はわたしの家を知っている上に、ある程度以上の個人情報を握られてしまっている。
……潰すか?
そんな物騒な考えがふと浮かんで、すぐに冷静になった。
まだ決定的なミスを犯しているわけでもないのに、すぐ暴力に走ろうとするのは、よくない。まだ全然カバーできている範囲のはずだ。
殺すか口を封じるようなことをしたところで、わたしは司法によって裁かれてしまうだけだ。
再び出会わないようにすればいい。
それができれば、わたしの勝ちだ。
でも、今はその時ではない。
わたしは悶々としながら、今日の買い出しを終えた。
スーパーからは、歩きで帰ることにしている。ゆっくり歩いていると、ある一角でデュエルをしているようで、何人かのギャラリーがついていた。
あー、やってるなあ。
わたしはそんなことを思って、そこを通り過ぎようとした。
「黒槍のブラストでダイレクトアタック!」
よく知った声がその中から聞こえてきた。思わず足を止めて、密かに耳を澄ませる。どうやら彼の攻撃は通ったようで、そこでデュエルは終了した。
クロウ・ホーガンは野良デュエルもするのか。まあ、らしいといえばそうかもしれない。
周りのギャラリーが次々とデュエルを申し込んでいる。伝説のチーム、サティスファクションの元メンバーと戦えるのだから、デュエリストとしては嬉しいのだろう。 わたしだって、元はデュエルのチームでサテライトを荒らして暴れていたのだから、血が騒がないわけではない。
でも、今はそれをしてはいけないのだ。もうわたしのデュエルは終わりだから。
バレてはいけない。
万が一、過去のわたしを知っている人がいれば、ここで人生が終わってしまう。
だから、わたしは素通りをしようとした。
「なあ、そこの人! もっと近くで見てもいいんだぜ」
やめてくれ。
クロウ・ホーガンは、わたしの背中にそんな声をぶつけた。
確信犯め。
わたしは返事をせざるを得なくなってしまった。
「……じゃあ、言葉に甘えて」
「久しぶりだな。足はもういいのか?」
「サポーターがあれば歩けますよ」
「そうか! 治ってきてるみたいで安心したぜ」
それだけ言うと、彼は再び別のデュエリストと対戦し始めた。すぐに帰るわけにもいかないから、わたしは近くのベンチに腰掛けて、それを見る。
現役の時。という言い方はおかしいかもしれないけれど、全く衰えていない。逆に、進化したデュエルを彼は披露していた。
大会前なのに、そんなに手の内を明かしてしまってもいいのか。逆に心配になるくらい、クロウは自分のデュエルを妥協せず、持ちうる技術の全てを出して戦っていた。
「オレの勝ちだな!」
そう言って、彼は相手と握手をした。わたしは完全に、彼のデュエルに見入っていた。悔しいけれど、なぜ自分が負けたのかいやでもわからされたような気持ちになった。
「デュエルしたいって顔、してたぜ」
考え込んで俯いていると、ふと頭上から声がした。クロウがわたしの顔を見て、ニヤニヤと笑っている。
「デッキ持ってませんよ」
「ンなモン、オレの予備を貸してやるよ」
そう言って、彼は自分のポケットからそれを取り出し、わたしの手に握らせた。
「オレの魂のカードを貸してやるよ。だから、お前も本気でぶつかってきな!」
デュエルをコミュニケーションとして楽しむつもりはなく、あくまでわたしの本気を見たいのか。
……ここで断ってはいけない気がする。
自分の理性がやめた方がいいと言ってくるが、あえて無視することにした。戦いたい。デュエルはやっぱり、自分の手で動かしてこそだ。
「久しぶりに血が騒いできた! やりましょう!」
「おう!」
「……なあ、BFデッキを回した経験があるんじゃないか?」
「えぇ? ないですよ」
対戦の直後、そんなことを言われたので、わたしは動揺して思わず声が裏返った。
「へえー、初めてなのにあそこまでやれたのかよ? すげえな」
嫌でも覚えているだけだ。
わたしに勝った相手のデッキ、そのめちゃくちゃな効果は今でも記憶に焼き付いている。
「今回は負けたんですけどね」
「でも、楽しかっただろ?」
「……悪くはなかったですね」
悔しいことに、嘘ではない。久々のデュエルは、わたしの闘志に火をつけるのに十分な役割を果たしてくれた。
カードの読み合いや、相手の効果を妨害するのに、とても頭を使った。それがとても楽しかった。またやりたい、なんて思ってしまうくらいに。
その後、彼は何人かと対戦して、その全てで勝利を収めていた。
憎たらしいくらい完璧な勝利である。
「よし、そろそろ帰るわ」
彼はそう言って、そばに停めてあるバイクに向かって歩き出した。
「またデュエルしようぜ!」
「……機会があれば」
もし、再び戦うことがあれば。そんなことは二度とないといいのだけど。
公共料金──水道代やら電気代を振込に行った帰りのこと。
ついでと思って立ち寄ったカードショップに足を運んでみると、目に入ってくるのは店内に所狭しと並べられたカードの山。
わたしは思わず後ずさりしてしまった。
サテライトにいた頃は、誰かが捨てたカードを拾って使うか、路上で売られている正規品かどうももわからないようなものを集めて、デッキを組むしかなかった。
今となっては、金さえ出せば色々なデッキが組めるのだ。やっぱり、物があるところにはなんでもあるんだな、と思った。
「お客さま、何かお求めの物はございますか?」
ぼーっとショーケースを眺めていると、店員さんから声をかけられた。
「デッキを組みたいんですけど、最近復帰したばかりなので最近のカードがわからなくて──」
ガラスケースに反射する顔を見て、胸を鷲掴みにされたような気持ちになった。
「そうなんですね。最近はシンクロ召喚が流行っているので、こちらのテーマなんてどうですか? 元キングのジャック・アトラスも使っていたので強さはお墨付きですよ」
ペラペラと饒舌に説明してくれる店員の前で、わたしは必死に表情を崩すまいと頑張っていた。
彼は、わたしのかつての仲間だった。間違いない。あの頬のマーカーは、彼のトレードマークだった。
向こうは気づいていないのだろうか。
不安で胸がいっぱいになる。気づいて欲しいような、欲しくないような、そんな矛盾で心がパンクしそうになった。
「……そうですね、元々悪魔族はよく使ってたし、それもいいかもしれないです」
「なるほど……悪魔族だとこっちのカードもおすすめですよ」
営業話術を巧みに使いこなす彼の姿は、かつてサテライトで不良じみた行為に明け暮れていたものとはかけ離れていた。
きっと、他の人だって、彼の顔のマーカーが見えない限りは、そうだとは思わないだろう。
悪魔族でカマをかけてみたが、まだわたしだと気づいていないようだった。
わたしがかつて、自分のデッキで悪魔族を採用していたのは、事実である。
だから、これで気づくんじゃないかと思った。
見た目だって、あの時からほぼ変わっていない。
少し背が伸びて、大人になったけれど、顔だちなんてほとんど変わっていないはずだ。
昔の仲間にも、わたしは忘れられたのか。
そう考えると、少し情けなくなる。結局、わたしは自分の犯した罪を裁かれずに、自分の名前で生きていたいというわがままな人間だったらしい。
わかっていたはずだ。
わたしは透明人間だった。
今までもずっと、そうやって生きていたから、今更なことじゃないか。
「……今このモンスターってシンクロ召喚に使えるんですか」
「あぁ、相性のいいチューナーもいるし、組み合わせ次第では結構強いと思いますよ」
「じゃあ、それをください。シンクロモンスターも、おすすめのを全部買います」
やけになって、財布の中身を全部出す勢いでカードを大人買いした。
本当に覚えていないのかと、彼の目を再び見つめたが、結局、かつての友人はわたしであると気づくことがなかった。
家に帰ると、見慣れない人影があった。
少なくとも、このアパートの住民ではない──その人はよく見ると、セキュリティの制服を着ていた。
わたしはこのままアパートの中に入って、自分の家に戻るか迷った。
大家と何やら話し込んでいるらしいが、どんな内容かはわからない。ここの大家を見かけたのは一度だけだったし、あの人にはわたしの正体はバレていないと思う。 治安維持局がなぜこんなところにいるのか。事件でもあったのか、それともわたしが「乗っ取った」女のことでも聞いているのか。
むしゃくしゃした帰りにこんなものに出くわすなんて、全く運が良くない。
話は長くなりそうだったので、家には帰らず、そこらで暇を潰すことにした。もちろん、警戒は怠らずに。
近所の公園のベンチに座って、財布の残りの小銭を全投入して買ったアイスコーヒーを飲む。
ここら辺は子供が少ないのか、立派な遊具は遊ばれることはなく、ほぼ無人に近い状態で置かれていた。
ブランコや滑り台なんて、サテライトにはなかった。わたしたちは、廃材の山の中や、手付かずの廃墟で遊んでいた──などと子供時代を振り返ってみる。
あの時はあの時で、楽しかった。
けれど、その相手がわたしのことが分からなかったというのだから、人間は案外あっさりとした生き物なのかもしれない。
「……よっ、久しぶりだな」
わたしの目の前に、クロウ・ホーガンがいた。
いつものような人当たりの良さそうな笑顔で、片手にはわたしと同じコーヒー缶を持っている。
「……どうも」
「飲み物でも飲もうと思ったら、知ってる顔がいたんでな」
隣に腰掛け、プルタブを開けた彼は、微糖コーヒーを一気飲みすると、口を拭った。
「そうなんですね。お疲れ様です」
「今日は暑いから、結構キツかったぜ」
彼の愛車は、公園の前に停めてあった。
本当に、今日は真夏のように暑苦しい。黒光りするバイクを眺めながら、わたしは彼の隣でコーヒーをちびちびと飲む。
「今日、カードショップに行ったんですよ」
「おお、何かいいのはあったか?」
「はい。ずっと探していた物に出会えたんです。でも、なんだかあっさり手に入るとあっけないですね」
何を話しているんだ、わたし。
「まあ、そういうこともあるよな」
「あの時は大切にしていたのに、大人になった今、こんなに簡単に手に入るんだって、悲しくなったんです。
でも、昔の自分なら、もっと喜べたんだろうなって考えると、大人って存外つまらないものに思えてきました」
わたしの言葉を聞きながら、クロウは微妙な顔で頷いた。
「でも、その時に思った嬉しいって感情は本物なんだろ? じゃあ、それは大事にしておいた上で、今本当に楽しいことを見つければいいんじゃないのか?」
「今楽しいことって、ないんですよ。わたしは多分、今のままだと何にもなれない……」
そこまで言って、はっとした。つまり、そういうことだったんだ。
わたしという人間が、現在から動くことは、決してないのだ。
他人になって生きるということは、その座標から1ミリもぶれずに、ただ案山子になって終わりまで待ち続ける。それしかできなくなるということなんだ。
「デュエルしよう」
真理に辿り着いて混乱するわたしに、彼はそう言った。
「……は?」
「この前のデュエル、あんなに楽しそうにしてたのに、楽しいことがないなんて、絶対有り得ねえ。あの顔は、演技ではできねえよ。
それにな、オレ自身、お前ともう一回戦いたい」
何を言ってるんだ、この人は。
「……ここでするんですか?」
「ソリッドビジョンがないと不満か?」
「……別に、そういうわけじゃ」
「なら、あっちでやろうぜ」
そう言って彼が指差したのは、ベンチから少し離れた場所にある東屋だった。
椅子を挟んだ真ん中に、机のようなものがあり、わたしたちはそれを囲むように座った。
やるのか。今ここで。
なんでもデュエルで解決できると思っているのだろうか。人の悩みも、人生の決断も。
強い人間だから、そう思えるだけなんじゃないか。
デュエルをしたところで、わたしの人生の空白は一生埋まらないだろう。
ただの気休め。単なる娯楽。
けれど、もう二度と負けたくないという強い意思がわたしの心で叫んでいる。
クロウ・ホーガンに負けて、チーム・サティスファクションに負けて、わたしの将来には何がある? 何が残っている?
もう、自分を表す手段はデュエルしかない。わたしはそれに、一生苦しめられるだろう。
だから、絶対今回は負けられない。
完璧な構築にはまだほど遠い、言うなればただの紙の束をわたしは必死にシャッフルする。手はまだその動きを覚えていた。
「先攻はやるよ。どこからでもかかってきな」
「このデュエル、絶対負けない」
「「決闘!」」
*
結果から言えば、わたしはこのデュエルで負けなかった。
けれど、この勝利は試合に勝って勝負に負けたようなものだった。だから、決して名誉の勝利ということではない。
「……」
わたしはクロウの質問に無言で返した。
これはもう、肯定と捉えてくださいと言っているようなものだ。
事実上の敗北宣言。
まさか、わたしのことを一番よく見ていたのがこの人だったなんて、皮肉なものだ。
わたしの数年間の努力と沈黙は、今この時をもって破られた。
「やっぱりな。なんかどっかで見たことある顔だと思ったぜ。……で、どういうカラクリでこんなに長い期間他人に成りすませていたんだ?」
「誰にも言わないってことなら、いいけど」
「ああ」
わたしの嘘偽り、全て白日の元に晒す日が来てしまった。
「嘘だと思うだろうけど、これから話すのは、全部本当の話」
今から数年前。
わたしのチームが解散を決意し、全員が散り散りになった頃。
失うものがなくなったわたしは、やけを起こしてしまい、人生最大の賭けにでることにした。
セキュリティの目を盗んでシティに潜り込み、二度とここには戻らない。
そう決めた日、根拠のない自信で心が満たされた。
チームのみんなと、いつかここを抜け出して向こう側へ行ってみたいと語り合っていた。その思い出だけが、無気力なわたしを生かしてくれていたのだ。
その時の幻想に取り憑かれていたわたしは、そんな馬鹿みたいな計画を実行に移してしまった。
そして、それは成功した。
シティに辿り着いた後、ホームレスの不法侵入者になったわたしは、セキュリティに見つからないように警戒しながら、各所で隠れ住んで過ごしていた。
そんな生活が少し続いたある日、偶然通りかかった老時裏で、誰かが倒れているのが見えた。
血を流した女性が、倒れていた。
最初、それをスルーしようとした。
誰かに刺されたのだろう。明らかにそうとしか見えない出血量だった。
厄介な事件に巻き込まれて、自分の身が危うくなっては困る。だから、放っておこうと思った。
けれど、仰向けに倒れた人間の顔を見て、わたしは心臓を矢で射られたような衝撃を受けた。
その人は、まるで生写しのようにわたしとそっくりの顔をしていた。
瞬間、全身の神経は理性が咎めるまでもなく、勝手に動いていた。
すでにその人間の息がないことを確認すると、彼女の鞄を奪い取った。財布の中身は抜かれていたが、保険証などはそのまま残っていた。
彼女は死んでいる。
わたしは、端末のロックを無理やり外すと、位置情報から彼女の家を割り出した。
狭いマンション。
おそらく一人暮らしだろうか、と勝手に想像する。
この時すでに、わたしは彼女に“成り代わってやろう“と考えていた。
そのために、ありとあらゆる可能性を検証する必要がある──はずだったのだが。
「何これ……」
彼女のマンションの鍵は、開いたままだった。
中には、最低限の家具が置かれているだけで、その人となりを表すようなものは、全く置かれていない。
無菌室のような部屋だった。
唯一、ノートパソコンだけがそれらしく置かれていたが、履歴には何も残っていなかった。
背筋を冷や汗が伝う。
携帯端末の電話帳には、一件も連絡先が登録されていなかった。それだけではない。着信履歴も空白のままになっている。
この人間の足取りが、全く掴めない。
人間は、ここまで足取りを消して生活できるものなのだろうか。
わたしは彼女の家の中を弄り、ありとあらゆる痕跡を探ったが、それらしいものは見つからなかった。
自分は、関わってはいけない人間と出会ってしまったのではないか。
出会うという言い方は適切ではない。向こうはすでに死んでいる。
たくさん迷ったが、これ以上隠れて野宿を続けるのも嫌だった。
だから、わたしはこの人間に擬態して生活を送る、という結論に至った。それが今まで、続いている。
「……マジかよ」
わたしの話を最後まで黙って聞いていたクロウは、信じられないものを見るような目で、わたしを見つめてそう言った。
荒唐無稽な話だ。
けれど、現にこんなめちゃくちゃな話は現実のことで、実際に成立してしまっているのだし、わざわざ嘘を言っても損でしかない。
「マジだって」
「じゃあ、今までずっと他人のふりして生きてたってことだよな」
「まあね」
「その、乗っ取った相手を刺した奴はわかってないのか?」
「…………今、わたしのマンションにセキュリティがきてるんだよね」
「マジかよ……まさか、バレたのか?」
「その件だったら、ヤバいかもね」
そうだった。わたしは今、結構危うい立場にいるんだった。
「もし、たった今捕まっても、別に構わないかも」
「自分が殺したんじゃないんだろ」
「……けどさ、わたしがやったって思うでしょ。殺した相手に成り変わって暮らす殺人者、普通にあり得ると思う。サテライト出身っていうのも、調べれば出てきそうだし」
なんだか、全部洗いざらい話して、全てがどうでもよくなってきた。
結局、わたしの夢ってヤツは、かつてのチームが崩れた時点でとっくに終わっていたのだ。
今はただ、その残りカスにしがみついて生きているだけ。
「随分と悲観的だな」
「常に最悪の事態を想定して生きてきたからね」
クロウはわたしになんて声をかけていいのか迷っているのだろう。そうだろうな、と思う。わたしだって、こんなことを言われてどう返したらいいのかなんてわからない。
「で、これからどうするつもりなんだよ。今のところ、オレにしかバレてないんだろ?」
「今まで通り、かな」
「元の自分に戻るつもりはないのか」
「昔の仲間にだって忘れてるのに、戻れる気がしない」
「判断基準は他人だけか?」
「自分のこと、証明しようがないから」
「…………そうじゃねえだろ。今のままだとお前、いつか自分が本当は何者なのかわからなくなるぞ」
わからなくなる、か。
もうそうなってるよ、クロウ・ホーガン。そうでもしないと、生きていけなかったんだよ。
「そうなっても自業自得でしょ」
「自分のこと、もっと大事にしろよ!」
そんな大声を出さないでほしい。まるで、わたしがかわいそうな人間みたいじゃないか。
「……じゃあ、あんたが預かっといて。もし、わたしの全部がバレて、今の生活がダメになったら、貸した名前を取り戻しに行く。だから、それまでクロウが名前を持っといて」
「オレが、持っておくのか」
「そう。もしかしたら、墓まで持っていくことになるかもしれないけど」
「嫌だ」
「……え? 今の会話の流れで断る? 普通」
「ついていってやるから、今までのことを全部治安維持局に話してこい」
「はぁ??」
まさか、今の流れで自首を勧められるとは思っていなかった。
思いもよらない言葉に開いた口が塞がらない。
本人は、本気なんだろう。真っ直ぐな二つの目が、じっとわたしを見ている。
「じゃ、行こうぜ」
「話が急すぎるんだけど……」
「もう全部話せばいいだろ。その方がスッキリする。今の治安維持局なら大丈夫だ。変な風にはされない」
「根拠は?」
「オレの勘」
クロウはもたもたしているわたしの手を引いて、ズンズン歩き出す。
行動力だけは本当に凄まじい。そこは、素直に尊敬しよう。
「逮捕されたら責任取ってくれるの」
「逮捕なんてされねえって」
その言葉通り、わたしが逮捕されることはなかった。 代わりに、何十時間にも及ぶ取り調べに応じることになってしまった。
ウソみたいな話をしゃべってしまったので、全員から精神疾患を疑われ、検査にもかけられたが、結局わたしの話は真実であると、全員が信じてくれた。
ドラマで見るような取り調べ室で、ひたすらくる人くる人に同じ話をし、ありとあらゆる角度から突っ込まれた。
自首──というか、告白さえしなければこんなことにはならなかっただろう。
面倒くさい。というか、実際めちゃくちゃだるかった。やらなくていい苦労をさせられてしまった。
クロウはその間、わたしのことをずっと待っていてくれたらしい。
やつれてボロボロになったわたしを真っ先に出迎えてくれたのは、クロウ・ホーガンその人だった。
「お疲れさん、気分はどうだ?」
「さいっあく……疲れたし、喉痛い。ってか、まだこれで終わりじゃないらしいし、マジで無理」
わたしがぶつくさ文句を言っている間、彼はうんうんと頷いていた。
「元はといえば、あんたのせいで全部めちゃくちゃになったんだ……」
「それを言われたら何も言えなくなるだろ!?」
クロウは大袈裟に騒ぎ立てる。全く、こんなことになってもまだ元気いっぱいだなんて、羨ましい。
「禁止カード使っちゃったね」
「オレだって大変だったんだぜ? 色々書類作ったりしてよ」
「ふーん……」
それに関しては、ありがたいとお礼を言ってもいいかもしれない。
全く身寄りのないままバレてしまうよりも、頼れる相手がいる状態で告白するというのは、悪くない選択肢だったと思える。
クロウという証人がいなければ、わたしの立場はもっと危ういものになっていたかもしれないし。
「ナマエ、これからどうするんだ?」
「とりあえず、ご飯でも行こっかな。もちろん、クロウの奢りでね」
「オレかよ!? まあ、しゃあねえか……このクロウ様が一肌脱いでやるぜ!」
クロウ・ホーガンと知り合って色々わかったことがある。その中で、彼が底なしのお人好しだということが、もっとも印象深く、とても助かっている。
「クロウ」
「なんだよ」
「ありがとう。これを言いたかっただけ」
わたしの人生を変えた人に、それだけ言ってやりたかった。
「これくらいお安い御用だぜ」
「じゃ、焼肉行こ」
「お前なぁ……」
歩く足取りは不思議と軽かった。今なら、どこにでもいけそうな気がする。
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