未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
遊戯王
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
1
丸藤亮は、自身の対戦カードを見て非常に驚いた。マネージャーから手渡された書類の中に、見知った名前があったからである。彼がしばらくそれを見つめたまま黙っていると、不審がったマネージャーから心配するような目線が投げかけられた。
「なんでもない」と口では言ってみせているものの、明らかに動揺している彼の姿を見て、帝王と呼ばれる男がここまで取り乱すなど、珍しいと彼のマネージャーは思った。
「彼女の情報は少なくてですね、まあ、貴方なら大丈夫だとは思いますが」
「ああ……」
「まあ、一回戦の間にデータも出るでしょうから」
どこか遠いところを見ているような亮の表情から、疲れているのだと勘違いしたマネージャーは、そそくさと彼の待機室から退散した。
「ナマエ……」
一人きりになった個室で、薄いコピー用紙に印字された名前を独りごちた。
同じ名前の別人などではなく、亮のよく知る相手である、「ホンモノ」のミョウジナマエの情報が、無遠慮に列挙されていた。
紙束の一枚目を捲ると見える、精悍そうな女性の顔写真は、最後に会った卒業式の日よりも垢抜けた雰囲気をまとっていた。彼女の意思の強そうな瞳は、同窓として学んだあの時と全く変わらない輝きを秘めている。
ナマエの進路について、亮は彼女に問うたこともなければ、誰かから聞くこともなかった。
彼女は自分のことを他人に打ち明けることを拒否していたのだった。
まさか、プロのデュエリストとして身を立てていくと決めていたとは、夢にも思わなかった。
堅実が売りのナマエから最もかけ離れた進路のように思えたが、納得できる線をいっている。亮はそう考えながら、ページをめくっていく。
資料によく目を通すと、彼女は一般企業に所属しながら、そこの広告塔として辣腕を奮っているようだということがわかった。
そこは亮でも聞いたことのあるような有名な企業で、今回の大会のスポンサーでもあった。
ナマエの使用するデッキや、今までの戦歴なども大まかに記されていたが、そこに関しては目を通さずとも良いと思った。アカデミア時代のデュエルからさらに成長しているであろう、それは再会した時の楽しみに置いておくことにする。
亮はため息をつくと、久しく仕事以外で手に取っていなかった携帯電話に手を伸ばして、やめた。もうお互いプロ同士なのだから、余計な馴れ合いは良くないだろうと思ったのだ。ナマエも同じことを彼女のマネージャーから聞かされているだろう。向こうもそのようなことはしないと予想する。
早めの同窓会で、かつての友人と戦う。その事実に、久しぶりに亮の胸は期待でいっぱいになった。
2
観客席が期待で胸を膨らませながら、本日の対戦カードを見守っていた。しかし、それらの期待は次第に苛立ちへと変化していく。理由は単純で、決闘開始直前になってもデュエリストが現れないからであった。
「一体向こうはどうしたんだ」
「さあ、どうしたのか」
マネージャーの口振りは、不戦勝にでもなればいいというような投げやりなものだった。
亮はそれを聞き流し、向かい側の入場口を睨みつけた。開始時刻までもう5分もない。
様子を見る限り、ナマエ本人のみがまだ現れない状態らしい。慌ただしそうに動くスタッフを横目に、亮はこの事態を静観しようと努めていた。
ミョウジナマエは遅刻などで周りに迷惑をかけるような人間ではないことを、丸藤亮は心得ていた。
何か事故にでも巻き込まれたのか、そうでもないとあり得ない状況であった。
自分がナマエという人間に、そこまで信を置いているということに、亮は微塵も疑いを持っていなかった。
開始ちょうどの時刻になり、もう既に大勢の観客、関係者が諦めかけていたところだった。
会場の扉が開き、ミョウジナマエが登場を果たした。どよめきの中、彼女は壇上に上がり、懐から自分のデッキを取り出し、手慣れた手つきでデュエルディスクに装着した。
会場では、しばらくどよめきが止まらななかった。それは、ナマエがギリギリの登場をしたからではない。もちろん、それもあるのだが、遅刻寸前などということは、もうどうでもよかった。
ナマエの顔には、青あざや擦り傷のようなものが大量にあった。
右頬ではガーゼが傷口を抑えており、頭には包帯が巻かれていた。見るからに痛々しい、負傷者の姿で彼女は壇上に上がったのだ。
亮も、変わり果てた旧友の姿に驚きを隠せなかった。 企業のロゴが印字されたパーカーは真新しく、ついさっき事故にあったようには見えなかった。
なぜ、彼女がそこまでしてここにやってきたのか、どうしてひどい傷を負っているのか、何も説明がなかった。
カメラのフラッシュや、人々の視線が無遠慮にナマエに突き刺さった。
それでも、彼女は淡々として、冷静だった。一人静かに、デュエル開始の宣言を待っているようだった。
「ナマエ……どうしたんだ」
「丸藤。久しぶりだね。ああ、この傷? ちょっと転んでさ」
どう見ても、ちょっと転んだ程度でできる傷には見えなかった。
「そうか。終わった後に病院にでも行ったほうがいい」
「ああ、そうするけど。それよりも、今は試合しようよ」
二人は試合開始前に握手をすると、審判に合図を仰いだ。
3
審判から、決闘開始の合図が出された。その瞬間、観客は先ほどのことなど忘れたかのように、目の前の二人がこれから繰り広げる試合に期待を寄せ、会場の視線はふたりに真っ直ぐ寄せられ、大勢が固唾を飲んで見守った。
「わたしの先攻!」
手札を見て、ナマエは頷いた。彼女がフィールドに一気に全ての手札を伏るのを見て、亮は緊張と期待で脳が痺れる感覚を覚えた。
「これで、わたしはターンを終了する。丸藤、腕は訛ってないよね?」
数ターンを重ね、熱い攻防が続き、観客席は沸き立ち、双方のマネージャーは、どちらが勝ってもいいアピールになったと、早々に満足した。
久しぶりに味わったナマエのデュエルは、見事の一言に尽きた。
生来の運の良さ──引きの良さもさることながら、単純なパワーだけに頼らない、罠や搦手で相手の展開をことごとく邪魔するようなデュエルタクティクス。
それは二人が学生時代の時と変わらない、ナマエの得意とする戦術そのものであった。
デッキのモンスターの種類や魔法カードの選択には大幅な変更があるものの、それは単なる鞍替えというより、ナマエの手加減のなさの現れであると見えた。
プロの世界で経験を積み、ナマエのデュエルは原石が磨かれるように進化していた。
今、この瞬間にそれを肌で感じ、亮は自身の心が沸き立つ感覚を覚えた。
これが、世に放たれ、獰猛な猛獣たちの中で研鑽を積み、研ぎ澄まされた彼女自身のデュエルなのだ、と。
「オレはサイバー・ドラゴンを特殊召喚!」
「……丸藤、あなたのデュエルはほんっとうに変わらないね」
「本当に変わらないのかは、自分の目で確かめてみるんだな……オレは手札から、融合を発動! フィールドと手札の三体のサイバー・ドラゴンを融合して、サイバー・エンド・ドラゴンを融合召喚!」
ソリッドビジョンの派手な演出と共に、攻撃力4000──サイバー流デッキの中で最も高い火力を誇る、丸藤亮の切り札が召喚された。
さらに観客の熱狂は高まる。関係者席から、幾つものフラッシュを焚く音が聞こえてくる。
「お前の場のモンスターは、裏守備表示にしてあるものがたった一枚。オレのサイバー・エンド・ドラゴンの特殊効果はよく知っているはずだが……」
亮はそこまで言いかけ、口を閉ざした。ナマエの表情が、死んでいた。正確には、今目の前で起こっているデュエルを、他人事のように俯瞰しているような顔をしていた。たった一瞬。しかしその表情の微細な変化を見流せなかった。
「……」
一瞬の沈黙ののち、ナマエは息を吹き返したかのように、元の愛想の良い表情に戻った。
「もちろん、よく知ってるよ。で、攻撃しないわけ? カイザー亮さん?」
先ほどのことが嘘かのように、演技がかった挑発的な視線を、亮にぶつけている。観客が湧く。ナマエはこの行いを、ファンに対してのサービスとしてやっていることなのだと、亮は直感的に理解した。
先ほど見た表情は、なんだったのか。亮は疑問を胸中に秘めながら、目の前のデュエルに集中することに意識を切り替える。
「サイバー・エンド・ドラゴンでモンスターを攻撃! エターナル・エヴォリューション・バースト!」
裏守備表示のナマエのモンスターに、強力な一撃が叩き込まれる! 全員が思ったその時だった。
「トラップカード、オープン。威嚇する咆哮」
攻撃を封じられたサイバー・エンド・ドラゴンを横目に、亮はあくまで冷静にナマエを見つめた。
「時間稼ぎか」
「戦略の一つだと言って欲しいね」
これでカイザー亮の勝利は決まった。そう思って見守っていた観客への当てつけのように、ナマエはそう言った。
「オレは伏せカードを2枚セットして、ターンを終了する」
「わたしのターン、ドロー!」
ナマエがこのターン、有用なカードを引き当てられなければ、この勝負は終わりである。全員が息を潜めて見守る中、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「このターンで、わたしの勝ちは決まったかな」
周囲がドッとざわめきだした。大胆な勝利宣言に、亮も思わず、どのようなカードを引き当てたのか、興味を抱いた。
「わたしはマシュマロンを生贄に、雷帝ザボルグを攻撃表示で召喚! そして、雷帝ザボルグの効果で相手フィールドのサイバー・エンド・ドラゴンを破壊する!」
「トラップ発動! アタック・リフレクター・ユニット! オレはサイバー・エンド・ドラゴンを生贄に、サイバー・バリアドラゴンを一体、守備表示で特殊召喚する」
効果の対象を失った雷帝ザボルグの、裁きの雷は不発に終わった。二人のデュエルの結末を見守る観客たちは、二人の攻防に熱い歓声をあげた。
「そのカード、まだ入れてたんだね」
ナマエは嬉しさ半分、呆れ半分のニュアンスを込めて、そう言った。本当にそのような思いでこの言葉を発したのか、本人にもわからなかったが、少なくとも、亮にはそう聞こえた。
「マジックカード発動。サンダー・ボルト」
亮のフィールドから、盾となるカードは全て消えた。残ったのは、伏せカードがたった一枚。
ナマエはそのカードを一瞥しつつ、メインフェイズを終了し、バトルフェイズに移行した。
「これでとどめだ! 雷帝ザボルグで相手にダイレクトアタック!」
丸藤亮のライフポイントが0に削られ、勝負の決着がついた。
場内のスクリーンに、大々的にナマエの顔が映されて、場内からは叫び声までも聞こえてくる。
「勝者、ミョウジナマエ!」
観客からの拍手喝采を受けながら、ナマエは客席に向かって手を振った。表情にはやや疲労が見えたが、彼らはやり切った後の達成感と解釈するだろう。少なくとも、学生時代にナマエがこんな顔をしたことがない。亮はそう感じた。無理矢理形造った笑みが、ナマエの顔に張り付いているように、見えた。
4
傷だらけの顔で勝利者インタビューを受けるナマエを、彼女のマネージャーが渋い顔で見つめていた。
「ナマエさん、今回のデュエルお見事でした」
「ありがとうございます」
「その傷はどうされたんですか?」
「ちょっと転んで……」
青あざをいくつも作ったナマエは、なんてことのないように笑って見せた。
亮の元にも何人かのインタビュアーがやってきて、いくつか差し障りのない質問に答えるなどしたが、やはり人だかりはナマエのほうについている。
「カイザー亮、あなたはナマエさんとは同級生だったようですが、在学中彼女はどのような生徒だったのでしょう」
もはや亮に対する質問などではなかった。彼がどう返そうか言葉に詰まっている間に、マネージャーが横からやってきて、取材を中断させた。
「どうしたんだ」
「あんな質問、真面目に答える必要なんてないですよ」
「……そうか」
眩いフラッシュの中で微笑んでいるナマエを横目に、二人はその場を去った。
帰りの車の中で、今後のスケジュールや対戦カード、控えている取材や雑誌への寄稿など、さまざまな予定をマネージャーが事細かに説明している。
朝、家を出立した時に曇っていた空からはポツポツと雨が降り出していた。
「……と、いう感じなんですけど大丈夫ですか?」
「……ああ」
「なんだか最近元気ないみたいですけど、今週、休みでもとりましょうか」
「仕事に支障はない」
マネージャーは、亮の精神的な揺らぎを、多忙からくるストレスであると見当づけていたが、実際はそうではなかった。丸藤亮という人間の中で、ミョウジナマエの占めるウェイトが、本人の思った以上に大きかったということを、彼自身が気づいていない。それだけの話だった。
5
帰宅した亮は、リビングで放送されている自分のデュエルを見ながら早めの夕食をとった。
「ここでミョウジナマエ、大胆な作戦に出ました!」
「手札を一気に墓地に送りましたね」
自分達が必死になって戦っている間、実況席ではこのように言われていたらしい。
わかり切ったことではあるが、自分の手の内を世界中の人間が知っているということが、プロにとっては日常だということに、彼は未だ慣れないでいた。
ホームキーパーが作った料理を黙々と食べながら、真剣に今回の敗因を考察していると、不意にインターホンの音が聞こえてきた。
一階に設置されたカメラから、オートロックのかかった玄関に立ち、監視カメラを覗き込んでいる人の姿が見える。
宅配を頼んだ記憶はなく、基本は宅配ボックスに入れてもらうことにしている。
マネージャーなら、もうすでに帰宅していて、連絡はメールでよこしてくるはずなので、この時間に亮を訪ねてくる人間はいない。そのはずだった。
白黒の画面に目を凝らして見ていると、この人間は、カメラに向かって手を振っている。
フードをかぶっているのでよくわからなかったが、それはミョウジナマエだった。
6
マンションの階段を登ってきたナマエは、鍵を開けたばかりのドアを無遠慮に開けて、ずかずかと亮の生活空間に侵入した。
マネージャーとハウスキーパー以外が足を通したことのない来客用スリッパを履いたナマエは、リビングに置かれた大きなソファに腰をおろした。
「ここが丸藤の家? 立派だね。あ、お茶は結構だから」
「なぜここがわかった」
「聞かない方がいいかもよ……っていうか、卒業するときに連絡先聞きそびれたから、これ、はい」
滞在先のホテルのものと思わしきメモ帳の切れ端に、メールアドレスとプライベートのものと思わしき携帯電話の番号が記されていた。
亮は律儀にこれを受け取り、ポケットに入れた。
ナマエは目の前で繰り広げられている自分の試合を、興味なさそうに見つめながら、我が物顔で目の前の料理をつまんだ。
「おい」
あまりにも自然な動作で、無遠慮だった。
亮の中で彼女に対して抱いていた違和感が、ここで確信的なものへと変化した。
昔のナマエと、今のナマエはあまりにも違いすぎている。
「おいしいね、これ」
腹が減っていたのか、夢中で貪るように料理に手を伸ばすナマエを、亮は観察するように眺める。
口調や仕草こそ変わらないものの、以前とは違う。「なにか」が決定的に欠けている。しかし、その正体というのが不明瞭で、曖昧だった。
確かに、高校生の時のミョウジナマエは、おちゃらけた態度で人を試すようなところがあったが、見えないところで人の何倍も努力を重ね、研究熱心で胸の奥には熱い闘争心が芽生えていた。
言ってしまえば、彼女はクソがつくほど真面目な人間だったのだ。
「丸藤、いい家住んでるねえ。わたしもここに住んじゃおうかなぁ……あ、今は社宅住んでるから無理なんだった」
「……ナマエ」
「ん?」
「仕事でなにかあったのか」
亮にできる、精一杯の気遣いだった。何か悩みがあるなら、言ってほしいと思った。
数少ない、友人なのだから。彼は、それが言えないのだ。
「なんにもないよ」
「じゃあ、その傷は」
「朝家を出るときに階段で転けた」
「嘘だな」
「……どうして、嘘だっていうの」
「お前は、何か誤魔化したい時に目が斜め上に泳ぐクセがある」
ナマエは少し驚いたような顔をして、そのままボソボソと呟いた。
「強いて言うなら、なにもないのが問題かな」
「なにもない?」
「うん。今って全然、満たされてない」
ナマエは顔の青痣をなぞりながらそんなことを言った。
「枯れてるんだと思う、わたし……」
「枯れてる? どういう意味だ」
「今こうやって、でっかい家に住んでどこに行ってもちやほやされて、雑誌やテレビに大きく映るのって、今だけだと思うんだよね。人生の盛りって今のはずなのに、わたしには何にもない気がするんだ」
「オレと戦っても、飢えは満たされないのか」
「丸藤ってクソ真面目だよね。そういう所は好きだけど」
亮は、ナマエが試合中に見せた、どこか冷たい興味のなさげな表情や、つまらなさそうな瞳を思い出し、拳を握った。
「お前にとって、プロのデュエルというのはつまらない、凡庸なものであると、そう言いたいのか? オレとのデュエルは、つまらなかったと、そう思ったのか」
「違う、そんなつもりじゃ」
「違うわけがない。お前は、本当にオレに勝ちたいと思って戦っていたのか? アカデミアでのお前は、もっと──」
そこまで言いかけて、続きを言うのをやめた。これ以上触れると、二人の関係は破綻してしまうように思えたからだった。
「……わたし、そんなに楽しくなさそうだった? そう見えた?」
「……オレからは、そう見えた」
「お客さんに伝わってないといいんだけど」
「どうだろうな。オレにはわからない」
「……怪我した理由、丸藤にだけ教えてあげようか?」
「階段で転んだんじゃなかったのか」
「あのね、一緒にきて欲しいところがあるんだ」
ナマエはそういうやいなや、ソファから立ち上がり、玄関で靴に履き替えた。
「どこに行くつもりなんだ」
「うーん、いいとこ」
急いで鍵と携帯電話を手に持ち、亮はナマエの後を追い、階段を下りた。
外は雨が小降りに降っていたが、二人は傘もささずに──さす暇もなく、人通りもまばらな道を歩いた。思っているよりも、大した距離ではなかった。そこは、丸藤亮の自宅の近所にあった。
「行けばわかる」
ナマエの声が、導きの全てだった。
7
二人はビジネス街近くの雑居ビルに入り、地下へと続く階段を降りた。目の前にあるのは扉だけで、なんのためにあるのかわかりようがない謎の扉を、ナマエは無遠慮に開けた。
目前に広がっているのは、ただのコンクリートで打ちっぱなしの部屋だった。
薄暗い部屋にあるのは、剥き出しの電球のみで、他にはなにもない。
大体広めの倉庫のような場所に、十数人の人間がいた。男もいれば、女もいた。さまざまな服装、年齢の人間が、何かを取り囲むように立っている。
なんの集まりであるかは理解ができなかったが、行われていることについては、すぐにわかった。
「殺せ! 殺せ!」
太っちょの女が、細い首の中年男性を締め上げている。それは格闘技の技でもなんでもない、ただの漠然とした暴力そのものであった。
ギャラリーが囃し立て、女はさらに腕に力を込めた。男が追い縋るように手を伸ばすと、女は何事もなかったかのように、男の首から手を離した。
拍手もなにもなく、二人は立ち上がり、また別の人間が周りの輪から出てきて、再び殴り合った。
ナマエは、それを食い入るように見ていた。感動して、泣いている人間もいた。殴り合った人間は、憑き物がとれたように爽やかな顔をして、それを見ていた。
なにもかもが異常な世界。
亮は今すぐここから出て行きたかったが、ナマエがいつの間にか、強い力できつく手を握っていたので逃げ出すことはできなかった。
「これだけ見て。他は考えないで」
亮の考えていることなど全て分かりきったように、ナマエは囁いた。
目の前では、派手な見た目の男性と、作業着を着た男性二人が殴り合っいる。片方は鼻血を出してもなお、懸命に戦っていた。
「お前は、これを……」
ふと横のナマエを見ると、笑っていた。笑いながら、感動して泣いていた。他の人も皆、厳かな表情を浮かべ、神聖な儀式を見守るかのように、真面目な目をしてそれを眺めていた。
全てが歪んでいる。
この地下室だけ、世の中の常識が狂ったようだった。ナマエはもう、この空気に呑まれて戻ってこれなくなったのだと、亮は理解した。
「わたしは、ここがあるから生きていける。丸藤にも、見てほしかったんだ」
作業着の男が降参を叫んだ瞬間、全てが終わった。
分かりたくない。分かってたまるか。亮は心の中で叫んだ。
しかし、殴り合った人間たちの、爽やかな顔を見ていると、本当の闘争とは、こういうことなのではないかと、雰囲気に飲まれそうになる。
「決闘とは」ナマエは語り出す。
「本来、決闘とは命を賭けた、名誉の戦いだった。
痛いから、命を賭けているから価値がある。決闘はスポーツじゃない。本気の、戦いだから」
「……オレにはわからない」
「いつか、わかるよ」
そう言って、ナマエは傷ついた顔のまま微笑んだ。輪の中から、入れ替わり立ち替わりで人間が殴り合う。
骨の軋む音や、本当に流れる血を見て、亮はこの世の終わりを連想しながらも、完全に目を逸らす事ができなかった。
8
ナマエとの久々の邂逅は、亮がエド・フェニックスに負けた日からしばらく経った後のことだった。
亮がカイザー改め、ヘルカイザーを名乗り出してすぐの試合で、彼は観客席の中にナマエの姿を見た。
以前のように、顔に傷や目立った痣はなかったが、腕にギプスをつけていた。またあのおかしな殴り合いの会合に、足繁く通っているので、そうなっているのだろうと、特段驚きもしなかった。
デュエリストでなくても、それなりに世間に顔の知られているはずの彼女は、変装も何もせずに、堂々と地下デュエルを見にきていた。どこで噂を聞いてやってきたのか、亮は少し気になりはしたが、目の前のデュエルに集中しようと気持ちを切り替えた。
ナマエは現在も、プロリーグで辣腕を振るっている。 ただ、新人の旬は過ぎ、メディアで取り上げられることは減っていた。
カイザー亮に黒星をつけたデュエリストとして、紹介されることも、もうない。それでも彼女は、プロとしてコツコツとキャリアを積んでいるようだった。
試合中、ナマエの視線はずっと亮に向いていた。騒ぎもせず、亮が勝つ事が最初から決まっていたかのように、ナマエは頷くだけだった。
地下の闘技場で、意外にも名前の姿は馴染んで見えた。
試合後、ナマエは亮に接近した。
「久しぶり。それと、デュエルお疲れ様」
「……ああ」
「あのね、丸藤がここにいるって聞いて、すごく嬉しかった。その機械、すごく面白そう……わたしもそれ、してみよっかな」
亮が身につけている装置に目をやり、ナマエは面白がるようにそう言った。
「……オレが勝利を求めた結果だ。気安く触れてくれるなよ」
「マゾヒストだったんでしょ」
「違う」
「あんな体に悪そうな電流流して、喜んでたね」
「お前も人のことが言えるのか?」
「うーん、確かに!」
ナマエはゲラゲラと笑い、その後急に静かになった。
「亮」
「どうした」
「わたしのこと、思いっきり殴ってよ」
彼女は、真顔でそう言ってみせた。
「ダメだ」
そう言うと、ナマエは神妙な顔をして、頷いた。
「やっぱりそう言うと思った。実を言うとさ、亮は絶対にわたしみたいになってほしくなかったし、わたしと暴力で向き合う人間だったら、わたしは亮のことを好きじゃなかったと思うんだよね」
あの日、暴力で浄化される人間たちを見て、ナマエの本性を知り、彼は心動かされたのかと問われれば、そうでもなかった。
すでに、ナマエという人間がデュエルで心満たされることはないにしろ、それで亮が傷つくことはない。
あの刺激的な風景は、似たような生きるために中身を空洞にした人間が集まった、一種の互助会のようなものであると、時を経た今なら理解できる。
「ナマエ、お前はなぜデュエルをしているんだ」
「……生きるため」
「それは、金のためか?」
「そうだよ。わたしには、これくらいしかないから……」
「お前が立っている道は、そう簡単に進めるものではない。それなのに、本気ではない? そんなことを言うくらいなら、とっととやめてしまえばいいだけの話だ」
「……」
「オレは必ず這い上がる。それまで、お前も戦い抜け。二度とデュエルがつまらないなどと言えないようにしてやる」
そう言うと、ナマエは豆鉄砲を食らったような、気の抜けた顔になった。亮なりの叱咤激励であると理解し、彼女は少し笑った。
「じゃあ、わたしなんか飛び越えてさ、もっともっと強くなってよ!」
「ナマエも、負けるなよ」
ナマエは固く頷き、「そろそろ戻らないと。またね」と言い残し、地上へ続く階段を登っていった。
次に会うときは、体の傷なんてついていない彼女に会いたいと、亮は思った。
丸藤亮は、自身の対戦カードを見て非常に驚いた。マネージャーから手渡された書類の中に、見知った名前があったからである。彼がしばらくそれを見つめたまま黙っていると、不審がったマネージャーから心配するような目線が投げかけられた。
「なんでもない」と口では言ってみせているものの、明らかに動揺している彼の姿を見て、帝王と呼ばれる男がここまで取り乱すなど、珍しいと彼のマネージャーは思った。
「彼女の情報は少なくてですね、まあ、貴方なら大丈夫だとは思いますが」
「ああ……」
「まあ、一回戦の間にデータも出るでしょうから」
どこか遠いところを見ているような亮の表情から、疲れているのだと勘違いしたマネージャーは、そそくさと彼の待機室から退散した。
「ナマエ……」
一人きりになった個室で、薄いコピー用紙に印字された名前を独りごちた。
同じ名前の別人などではなく、亮のよく知る相手である、「ホンモノ」のミョウジナマエの情報が、無遠慮に列挙されていた。
紙束の一枚目を捲ると見える、精悍そうな女性の顔写真は、最後に会った卒業式の日よりも垢抜けた雰囲気をまとっていた。彼女の意思の強そうな瞳は、同窓として学んだあの時と全く変わらない輝きを秘めている。
ナマエの進路について、亮は彼女に問うたこともなければ、誰かから聞くこともなかった。
彼女は自分のことを他人に打ち明けることを拒否していたのだった。
まさか、プロのデュエリストとして身を立てていくと決めていたとは、夢にも思わなかった。
堅実が売りのナマエから最もかけ離れた進路のように思えたが、納得できる線をいっている。亮はそう考えながら、ページをめくっていく。
資料によく目を通すと、彼女は一般企業に所属しながら、そこの広告塔として辣腕を奮っているようだということがわかった。
そこは亮でも聞いたことのあるような有名な企業で、今回の大会のスポンサーでもあった。
ナマエの使用するデッキや、今までの戦歴なども大まかに記されていたが、そこに関しては目を通さずとも良いと思った。アカデミア時代のデュエルからさらに成長しているであろう、それは再会した時の楽しみに置いておくことにする。
亮はため息をつくと、久しく仕事以外で手に取っていなかった携帯電話に手を伸ばして、やめた。もうお互いプロ同士なのだから、余計な馴れ合いは良くないだろうと思ったのだ。ナマエも同じことを彼女のマネージャーから聞かされているだろう。向こうもそのようなことはしないと予想する。
早めの同窓会で、かつての友人と戦う。その事実に、久しぶりに亮の胸は期待でいっぱいになった。
2
観客席が期待で胸を膨らませながら、本日の対戦カードを見守っていた。しかし、それらの期待は次第に苛立ちへと変化していく。理由は単純で、決闘開始直前になってもデュエリストが現れないからであった。
「一体向こうはどうしたんだ」
「さあ、どうしたのか」
マネージャーの口振りは、不戦勝にでもなればいいというような投げやりなものだった。
亮はそれを聞き流し、向かい側の入場口を睨みつけた。開始時刻までもう5分もない。
様子を見る限り、ナマエ本人のみがまだ現れない状態らしい。慌ただしそうに動くスタッフを横目に、亮はこの事態を静観しようと努めていた。
ミョウジナマエは遅刻などで周りに迷惑をかけるような人間ではないことを、丸藤亮は心得ていた。
何か事故にでも巻き込まれたのか、そうでもないとあり得ない状況であった。
自分がナマエという人間に、そこまで信を置いているということに、亮は微塵も疑いを持っていなかった。
開始ちょうどの時刻になり、もう既に大勢の観客、関係者が諦めかけていたところだった。
会場の扉が開き、ミョウジナマエが登場を果たした。どよめきの中、彼女は壇上に上がり、懐から自分のデッキを取り出し、手慣れた手つきでデュエルディスクに装着した。
会場では、しばらくどよめきが止まらななかった。それは、ナマエがギリギリの登場をしたからではない。もちろん、それもあるのだが、遅刻寸前などということは、もうどうでもよかった。
ナマエの顔には、青あざや擦り傷のようなものが大量にあった。
右頬ではガーゼが傷口を抑えており、頭には包帯が巻かれていた。見るからに痛々しい、負傷者の姿で彼女は壇上に上がったのだ。
亮も、変わり果てた旧友の姿に驚きを隠せなかった。 企業のロゴが印字されたパーカーは真新しく、ついさっき事故にあったようには見えなかった。
なぜ、彼女がそこまでしてここにやってきたのか、どうしてひどい傷を負っているのか、何も説明がなかった。
カメラのフラッシュや、人々の視線が無遠慮にナマエに突き刺さった。
それでも、彼女は淡々として、冷静だった。一人静かに、デュエル開始の宣言を待っているようだった。
「ナマエ……どうしたんだ」
「丸藤。久しぶりだね。ああ、この傷? ちょっと転んでさ」
どう見ても、ちょっと転んだ程度でできる傷には見えなかった。
「そうか。終わった後に病院にでも行ったほうがいい」
「ああ、そうするけど。それよりも、今は試合しようよ」
二人は試合開始前に握手をすると、審判に合図を仰いだ。
3
審判から、決闘開始の合図が出された。その瞬間、観客は先ほどのことなど忘れたかのように、目の前の二人がこれから繰り広げる試合に期待を寄せ、会場の視線はふたりに真っ直ぐ寄せられ、大勢が固唾を飲んで見守った。
「わたしの先攻!」
手札を見て、ナマエは頷いた。彼女がフィールドに一気に全ての手札を伏るのを見て、亮は緊張と期待で脳が痺れる感覚を覚えた。
「これで、わたしはターンを終了する。丸藤、腕は訛ってないよね?」
数ターンを重ね、熱い攻防が続き、観客席は沸き立ち、双方のマネージャーは、どちらが勝ってもいいアピールになったと、早々に満足した。
久しぶりに味わったナマエのデュエルは、見事の一言に尽きた。
生来の運の良さ──引きの良さもさることながら、単純なパワーだけに頼らない、罠や搦手で相手の展開をことごとく邪魔するようなデュエルタクティクス。
それは二人が学生時代の時と変わらない、ナマエの得意とする戦術そのものであった。
デッキのモンスターの種類や魔法カードの選択には大幅な変更があるものの、それは単なる鞍替えというより、ナマエの手加減のなさの現れであると見えた。
プロの世界で経験を積み、ナマエのデュエルは原石が磨かれるように進化していた。
今、この瞬間にそれを肌で感じ、亮は自身の心が沸き立つ感覚を覚えた。
これが、世に放たれ、獰猛な猛獣たちの中で研鑽を積み、研ぎ澄まされた彼女自身のデュエルなのだ、と。
「オレはサイバー・ドラゴンを特殊召喚!」
「……丸藤、あなたのデュエルはほんっとうに変わらないね」
「本当に変わらないのかは、自分の目で確かめてみるんだな……オレは手札から、融合を発動! フィールドと手札の三体のサイバー・ドラゴンを融合して、サイバー・エンド・ドラゴンを融合召喚!」
ソリッドビジョンの派手な演出と共に、攻撃力4000──サイバー流デッキの中で最も高い火力を誇る、丸藤亮の切り札が召喚された。
さらに観客の熱狂は高まる。関係者席から、幾つものフラッシュを焚く音が聞こえてくる。
「お前の場のモンスターは、裏守備表示にしてあるものがたった一枚。オレのサイバー・エンド・ドラゴンの特殊効果はよく知っているはずだが……」
亮はそこまで言いかけ、口を閉ざした。ナマエの表情が、死んでいた。正確には、今目の前で起こっているデュエルを、他人事のように俯瞰しているような顔をしていた。たった一瞬。しかしその表情の微細な変化を見流せなかった。
「……」
一瞬の沈黙ののち、ナマエは息を吹き返したかのように、元の愛想の良い表情に戻った。
「もちろん、よく知ってるよ。で、攻撃しないわけ? カイザー亮さん?」
先ほどのことが嘘かのように、演技がかった挑発的な視線を、亮にぶつけている。観客が湧く。ナマエはこの行いを、ファンに対してのサービスとしてやっていることなのだと、亮は直感的に理解した。
先ほど見た表情は、なんだったのか。亮は疑問を胸中に秘めながら、目の前のデュエルに集中することに意識を切り替える。
「サイバー・エンド・ドラゴンでモンスターを攻撃! エターナル・エヴォリューション・バースト!」
裏守備表示のナマエのモンスターに、強力な一撃が叩き込まれる! 全員が思ったその時だった。
「トラップカード、オープン。威嚇する咆哮」
攻撃を封じられたサイバー・エンド・ドラゴンを横目に、亮はあくまで冷静にナマエを見つめた。
「時間稼ぎか」
「戦略の一つだと言って欲しいね」
これでカイザー亮の勝利は決まった。そう思って見守っていた観客への当てつけのように、ナマエはそう言った。
「オレは伏せカードを2枚セットして、ターンを終了する」
「わたしのターン、ドロー!」
ナマエがこのターン、有用なカードを引き当てられなければ、この勝負は終わりである。全員が息を潜めて見守る中、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「このターンで、わたしの勝ちは決まったかな」
周囲がドッとざわめきだした。大胆な勝利宣言に、亮も思わず、どのようなカードを引き当てたのか、興味を抱いた。
「わたしはマシュマロンを生贄に、雷帝ザボルグを攻撃表示で召喚! そして、雷帝ザボルグの効果で相手フィールドのサイバー・エンド・ドラゴンを破壊する!」
「トラップ発動! アタック・リフレクター・ユニット! オレはサイバー・エンド・ドラゴンを生贄に、サイバー・バリアドラゴンを一体、守備表示で特殊召喚する」
効果の対象を失った雷帝ザボルグの、裁きの雷は不発に終わった。二人のデュエルの結末を見守る観客たちは、二人の攻防に熱い歓声をあげた。
「そのカード、まだ入れてたんだね」
ナマエは嬉しさ半分、呆れ半分のニュアンスを込めて、そう言った。本当にそのような思いでこの言葉を発したのか、本人にもわからなかったが、少なくとも、亮にはそう聞こえた。
「マジックカード発動。サンダー・ボルト」
亮のフィールドから、盾となるカードは全て消えた。残ったのは、伏せカードがたった一枚。
ナマエはそのカードを一瞥しつつ、メインフェイズを終了し、バトルフェイズに移行した。
「これでとどめだ! 雷帝ザボルグで相手にダイレクトアタック!」
丸藤亮のライフポイントが0に削られ、勝負の決着がついた。
場内のスクリーンに、大々的にナマエの顔が映されて、場内からは叫び声までも聞こえてくる。
「勝者、ミョウジナマエ!」
観客からの拍手喝采を受けながら、ナマエは客席に向かって手を振った。表情にはやや疲労が見えたが、彼らはやり切った後の達成感と解釈するだろう。少なくとも、学生時代にナマエがこんな顔をしたことがない。亮はそう感じた。無理矢理形造った笑みが、ナマエの顔に張り付いているように、見えた。
4
傷だらけの顔で勝利者インタビューを受けるナマエを、彼女のマネージャーが渋い顔で見つめていた。
「ナマエさん、今回のデュエルお見事でした」
「ありがとうございます」
「その傷はどうされたんですか?」
「ちょっと転んで……」
青あざをいくつも作ったナマエは、なんてことのないように笑って見せた。
亮の元にも何人かのインタビュアーがやってきて、いくつか差し障りのない質問に答えるなどしたが、やはり人だかりはナマエのほうについている。
「カイザー亮、あなたはナマエさんとは同級生だったようですが、在学中彼女はどのような生徒だったのでしょう」
もはや亮に対する質問などではなかった。彼がどう返そうか言葉に詰まっている間に、マネージャーが横からやってきて、取材を中断させた。
「どうしたんだ」
「あんな質問、真面目に答える必要なんてないですよ」
「……そうか」
眩いフラッシュの中で微笑んでいるナマエを横目に、二人はその場を去った。
帰りの車の中で、今後のスケジュールや対戦カード、控えている取材や雑誌への寄稿など、さまざまな予定をマネージャーが事細かに説明している。
朝、家を出立した時に曇っていた空からはポツポツと雨が降り出していた。
「……と、いう感じなんですけど大丈夫ですか?」
「……ああ」
「なんだか最近元気ないみたいですけど、今週、休みでもとりましょうか」
「仕事に支障はない」
マネージャーは、亮の精神的な揺らぎを、多忙からくるストレスであると見当づけていたが、実際はそうではなかった。丸藤亮という人間の中で、ミョウジナマエの占めるウェイトが、本人の思った以上に大きかったということを、彼自身が気づいていない。それだけの話だった。
5
帰宅した亮は、リビングで放送されている自分のデュエルを見ながら早めの夕食をとった。
「ここでミョウジナマエ、大胆な作戦に出ました!」
「手札を一気に墓地に送りましたね」
自分達が必死になって戦っている間、実況席ではこのように言われていたらしい。
わかり切ったことではあるが、自分の手の内を世界中の人間が知っているということが、プロにとっては日常だということに、彼は未だ慣れないでいた。
ホームキーパーが作った料理を黙々と食べながら、真剣に今回の敗因を考察していると、不意にインターホンの音が聞こえてきた。
一階に設置されたカメラから、オートロックのかかった玄関に立ち、監視カメラを覗き込んでいる人の姿が見える。
宅配を頼んだ記憶はなく、基本は宅配ボックスに入れてもらうことにしている。
マネージャーなら、もうすでに帰宅していて、連絡はメールでよこしてくるはずなので、この時間に亮を訪ねてくる人間はいない。そのはずだった。
白黒の画面に目を凝らして見ていると、この人間は、カメラに向かって手を振っている。
フードをかぶっているのでよくわからなかったが、それはミョウジナマエだった。
6
マンションの階段を登ってきたナマエは、鍵を開けたばかりのドアを無遠慮に開けて、ずかずかと亮の生活空間に侵入した。
マネージャーとハウスキーパー以外が足を通したことのない来客用スリッパを履いたナマエは、リビングに置かれた大きなソファに腰をおろした。
「ここが丸藤の家? 立派だね。あ、お茶は結構だから」
「なぜここがわかった」
「聞かない方がいいかもよ……っていうか、卒業するときに連絡先聞きそびれたから、これ、はい」
滞在先のホテルのものと思わしきメモ帳の切れ端に、メールアドレスとプライベートのものと思わしき携帯電話の番号が記されていた。
亮は律儀にこれを受け取り、ポケットに入れた。
ナマエは目の前で繰り広げられている自分の試合を、興味なさそうに見つめながら、我が物顔で目の前の料理をつまんだ。
「おい」
あまりにも自然な動作で、無遠慮だった。
亮の中で彼女に対して抱いていた違和感が、ここで確信的なものへと変化した。
昔のナマエと、今のナマエはあまりにも違いすぎている。
「おいしいね、これ」
腹が減っていたのか、夢中で貪るように料理に手を伸ばすナマエを、亮は観察するように眺める。
口調や仕草こそ変わらないものの、以前とは違う。「なにか」が決定的に欠けている。しかし、その正体というのが不明瞭で、曖昧だった。
確かに、高校生の時のミョウジナマエは、おちゃらけた態度で人を試すようなところがあったが、見えないところで人の何倍も努力を重ね、研究熱心で胸の奥には熱い闘争心が芽生えていた。
言ってしまえば、彼女はクソがつくほど真面目な人間だったのだ。
「丸藤、いい家住んでるねえ。わたしもここに住んじゃおうかなぁ……あ、今は社宅住んでるから無理なんだった」
「……ナマエ」
「ん?」
「仕事でなにかあったのか」
亮にできる、精一杯の気遣いだった。何か悩みがあるなら、言ってほしいと思った。
数少ない、友人なのだから。彼は、それが言えないのだ。
「なんにもないよ」
「じゃあ、その傷は」
「朝家を出るときに階段で転けた」
「嘘だな」
「……どうして、嘘だっていうの」
「お前は、何か誤魔化したい時に目が斜め上に泳ぐクセがある」
ナマエは少し驚いたような顔をして、そのままボソボソと呟いた。
「強いて言うなら、なにもないのが問題かな」
「なにもない?」
「うん。今って全然、満たされてない」
ナマエは顔の青痣をなぞりながらそんなことを言った。
「枯れてるんだと思う、わたし……」
「枯れてる? どういう意味だ」
「今こうやって、でっかい家に住んでどこに行ってもちやほやされて、雑誌やテレビに大きく映るのって、今だけだと思うんだよね。人生の盛りって今のはずなのに、わたしには何にもない気がするんだ」
「オレと戦っても、飢えは満たされないのか」
「丸藤ってクソ真面目だよね。そういう所は好きだけど」
亮は、ナマエが試合中に見せた、どこか冷たい興味のなさげな表情や、つまらなさそうな瞳を思い出し、拳を握った。
「お前にとって、プロのデュエルというのはつまらない、凡庸なものであると、そう言いたいのか? オレとのデュエルは、つまらなかったと、そう思ったのか」
「違う、そんなつもりじゃ」
「違うわけがない。お前は、本当にオレに勝ちたいと思って戦っていたのか? アカデミアでのお前は、もっと──」
そこまで言いかけて、続きを言うのをやめた。これ以上触れると、二人の関係は破綻してしまうように思えたからだった。
「……わたし、そんなに楽しくなさそうだった? そう見えた?」
「……オレからは、そう見えた」
「お客さんに伝わってないといいんだけど」
「どうだろうな。オレにはわからない」
「……怪我した理由、丸藤にだけ教えてあげようか?」
「階段で転んだんじゃなかったのか」
「あのね、一緒にきて欲しいところがあるんだ」
ナマエはそういうやいなや、ソファから立ち上がり、玄関で靴に履き替えた。
「どこに行くつもりなんだ」
「うーん、いいとこ」
急いで鍵と携帯電話を手に持ち、亮はナマエの後を追い、階段を下りた。
外は雨が小降りに降っていたが、二人は傘もささずに──さす暇もなく、人通りもまばらな道を歩いた。思っているよりも、大した距離ではなかった。そこは、丸藤亮の自宅の近所にあった。
「行けばわかる」
ナマエの声が、導きの全てだった。
7
二人はビジネス街近くの雑居ビルに入り、地下へと続く階段を降りた。目の前にあるのは扉だけで、なんのためにあるのかわかりようがない謎の扉を、ナマエは無遠慮に開けた。
目前に広がっているのは、ただのコンクリートで打ちっぱなしの部屋だった。
薄暗い部屋にあるのは、剥き出しの電球のみで、他にはなにもない。
大体広めの倉庫のような場所に、十数人の人間がいた。男もいれば、女もいた。さまざまな服装、年齢の人間が、何かを取り囲むように立っている。
なんの集まりであるかは理解ができなかったが、行われていることについては、すぐにわかった。
「殺せ! 殺せ!」
太っちょの女が、細い首の中年男性を締め上げている。それは格闘技の技でもなんでもない、ただの漠然とした暴力そのものであった。
ギャラリーが囃し立て、女はさらに腕に力を込めた。男が追い縋るように手を伸ばすと、女は何事もなかったかのように、男の首から手を離した。
拍手もなにもなく、二人は立ち上がり、また別の人間が周りの輪から出てきて、再び殴り合った。
ナマエは、それを食い入るように見ていた。感動して、泣いている人間もいた。殴り合った人間は、憑き物がとれたように爽やかな顔をして、それを見ていた。
なにもかもが異常な世界。
亮は今すぐここから出て行きたかったが、ナマエがいつの間にか、強い力できつく手を握っていたので逃げ出すことはできなかった。
「これだけ見て。他は考えないで」
亮の考えていることなど全て分かりきったように、ナマエは囁いた。
目の前では、派手な見た目の男性と、作業着を着た男性二人が殴り合っいる。片方は鼻血を出してもなお、懸命に戦っていた。
「お前は、これを……」
ふと横のナマエを見ると、笑っていた。笑いながら、感動して泣いていた。他の人も皆、厳かな表情を浮かべ、神聖な儀式を見守るかのように、真面目な目をしてそれを眺めていた。
全てが歪んでいる。
この地下室だけ、世の中の常識が狂ったようだった。ナマエはもう、この空気に呑まれて戻ってこれなくなったのだと、亮は理解した。
「わたしは、ここがあるから生きていける。丸藤にも、見てほしかったんだ」
作業着の男が降参を叫んだ瞬間、全てが終わった。
分かりたくない。分かってたまるか。亮は心の中で叫んだ。
しかし、殴り合った人間たちの、爽やかな顔を見ていると、本当の闘争とは、こういうことなのではないかと、雰囲気に飲まれそうになる。
「決闘とは」ナマエは語り出す。
「本来、決闘とは命を賭けた、名誉の戦いだった。
痛いから、命を賭けているから価値がある。決闘はスポーツじゃない。本気の、戦いだから」
「……オレにはわからない」
「いつか、わかるよ」
そう言って、ナマエは傷ついた顔のまま微笑んだ。輪の中から、入れ替わり立ち替わりで人間が殴り合う。
骨の軋む音や、本当に流れる血を見て、亮はこの世の終わりを連想しながらも、完全に目を逸らす事ができなかった。
8
ナマエとの久々の邂逅は、亮がエド・フェニックスに負けた日からしばらく経った後のことだった。
亮がカイザー改め、ヘルカイザーを名乗り出してすぐの試合で、彼は観客席の中にナマエの姿を見た。
以前のように、顔に傷や目立った痣はなかったが、腕にギプスをつけていた。またあのおかしな殴り合いの会合に、足繁く通っているので、そうなっているのだろうと、特段驚きもしなかった。
デュエリストでなくても、それなりに世間に顔の知られているはずの彼女は、変装も何もせずに、堂々と地下デュエルを見にきていた。どこで噂を聞いてやってきたのか、亮は少し気になりはしたが、目の前のデュエルに集中しようと気持ちを切り替えた。
ナマエは現在も、プロリーグで辣腕を振るっている。 ただ、新人の旬は過ぎ、メディアで取り上げられることは減っていた。
カイザー亮に黒星をつけたデュエリストとして、紹介されることも、もうない。それでも彼女は、プロとしてコツコツとキャリアを積んでいるようだった。
試合中、ナマエの視線はずっと亮に向いていた。騒ぎもせず、亮が勝つ事が最初から決まっていたかのように、ナマエは頷くだけだった。
地下の闘技場で、意外にも名前の姿は馴染んで見えた。
試合後、ナマエは亮に接近した。
「久しぶり。それと、デュエルお疲れ様」
「……ああ」
「あのね、丸藤がここにいるって聞いて、すごく嬉しかった。その機械、すごく面白そう……わたしもそれ、してみよっかな」
亮が身につけている装置に目をやり、ナマエは面白がるようにそう言った。
「……オレが勝利を求めた結果だ。気安く触れてくれるなよ」
「マゾヒストだったんでしょ」
「違う」
「あんな体に悪そうな電流流して、喜んでたね」
「お前も人のことが言えるのか?」
「うーん、確かに!」
ナマエはゲラゲラと笑い、その後急に静かになった。
「亮」
「どうした」
「わたしのこと、思いっきり殴ってよ」
彼女は、真顔でそう言ってみせた。
「ダメだ」
そう言うと、ナマエは神妙な顔をして、頷いた。
「やっぱりそう言うと思った。実を言うとさ、亮は絶対にわたしみたいになってほしくなかったし、わたしと暴力で向き合う人間だったら、わたしは亮のことを好きじゃなかったと思うんだよね」
あの日、暴力で浄化される人間たちを見て、ナマエの本性を知り、彼は心動かされたのかと問われれば、そうでもなかった。
すでに、ナマエという人間がデュエルで心満たされることはないにしろ、それで亮が傷つくことはない。
あの刺激的な風景は、似たような生きるために中身を空洞にした人間が集まった、一種の互助会のようなものであると、時を経た今なら理解できる。
「ナマエ、お前はなぜデュエルをしているんだ」
「……生きるため」
「それは、金のためか?」
「そうだよ。わたしには、これくらいしかないから……」
「お前が立っている道は、そう簡単に進めるものではない。それなのに、本気ではない? そんなことを言うくらいなら、とっととやめてしまえばいいだけの話だ」
「……」
「オレは必ず這い上がる。それまで、お前も戦い抜け。二度とデュエルがつまらないなどと言えないようにしてやる」
そう言うと、ナマエは豆鉄砲を食らったような、気の抜けた顔になった。亮なりの叱咤激励であると理解し、彼女は少し笑った。
「じゃあ、わたしなんか飛び越えてさ、もっともっと強くなってよ!」
「ナマエも、負けるなよ」
ナマエは固く頷き、「そろそろ戻らないと。またね」と言い残し、地上へ続く階段を登っていった。
次に会うときは、体の傷なんてついていない彼女に会いたいと、亮は思った。