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遊戯王
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0
まず最初に、フィルム。そして、映写機。スクリーンは白い壁があればこと足りる。それがあれば、もうそこは映画館だ。
1
鬼柳京介がミョウジナマエと知り合ったのは、ほぼ偶然といってもよかった。廃ビルの中に二人がいた。それだけのことだった。
「ねえ、わたしの場所なんだけど」
「は? 知らねえよ」
ナマエがいつものように廃墟に足を運ぶと、自分の特等席に知らない少年が、我がもの顔で陣取っているのが見えた。
少年は薄汚れた格好で、手にはどこからか盗んできたであろう青果が握られている。
警戒して、品定めするような無遠慮な視線を浴びながら、ナマエはここで怯んではいけない、と足を踏ん張った。
「そこはわたしの場所。わかる? わたしの縄張りだから、出ていって」
「嫌だ」
「お前が汚い格好してたから、椅子が汚れただろ」
ナマエが指差した先のソファは、椅子としての役目をかろうじて果たしている程度に古く、中身の綿も飛び出していたが、それは問題ではなかった。
自分のスペースに侵入された。その一点のみがナマエの神経を苛み、警戒心を剥き出しにして威嚇させる原因になっているのだ。
「あ? この建物の持ち主でもねぇのに偉そうにしてんじゃねえぞ、ガキ」
「少なくともこの椅子はわたしの持ち物だっつってんだろ」
年のそう変わらない相手にガキと言われたこともそうだが、暴れて周りの機械をダメにされること。それをナマエは恐れていた。
せっかく使い方がわかるようになって、これからだというのに! いいところで予期せぬ侵入者に邪魔をされてしまった。
鬼柳としても、せっかく誰も手をつけていなさそうな場所を見つけたかと思えば、そう甘い話はないと思い知ったばかりであった。
殴って黙らせるのは最終手段で、口だけでどうにか退散願えないか、考えを張り巡らせていた。
ここまでのやり取りで、二人は本気でやり合おう、などとは思っていなかった。野良猫が縄張りを巡って威嚇しあうような、いわば牽制である。
ふと、ソファの後ろにシーツをかぶせてある置物が鬼柳の視界に入った。埃をかぶっていない、おそらく目の前の少女が大切にしているであろうそれを、交渉材料にできるだろうと踏んだ。予想は当たった。
「何触ってんだ!」
それに手をかけた瞬間、ナマエは烈火のごとく、怒り、飛びついた。そこまでの瞬発力を予期していなかった鬼柳は、受け身が間に合わなかった。鳩尾に、少女の渾身の拳が当たり、そのまま横に倒れる。
「汚い手で、触るなって言ってたのが聞こえないのか……!」
腹を抱えてうずくまる鬼柳を見下ろして、ナマエは息も絶え絶えに、吐き捨てるようにそう言った。
小柄な体のどこに、そんなパワーがあったのか。
ナマエ自身も、自分が躊躇いもなく人を殴ったという事実に、やや動揺した。自身の右手がひどく痛んだ。やりすぎたかもしれないと少し冷や汗をかいた。
しかし、それは今考えるべきことではない。速やかに、こいつを追い出さなければいけない。それが最優先事項だ。
ナマエが考えあぐねている間、鬼柳は少しも動かなかった。
恐る恐る近づいて、肩を叩いてみるも反応がない。
やばい、気絶してる?
ナマエが鬼柳を起こそうとした瞬間だった。
「死んでねえよ!」
さっきまでうつ伏せになって動かなかった相手が急に大きな声を出して起き上がったので、ナマエは腰を抜かした。
「なに驚いてんだよ。それくらいで死なないっての」
「なんでっ!」
「だから、お前のパンチ如きで倒れてたまるかってんだよ」
「痛かったでしょ」
「まあな」
鬼柳は立ち上がると、服の埃を払った。二人はすっかり興が削がれて、少し神妙にお互いを眺め合った。お互いがお互いのことを、変だけど悪そうなやつではないと認識し出した。
「……あんた名前は?」
「オレの?」
「それ以外ないと思うんだけど」
「キリュウキョウスケ」
「なんて字で書くの」
「あー、鬼に柳で鬼柳」
「鬼柳か。強そうな名前じゃん」
「だろ? っていうか、お前も名乗れよ」
「ミョウジナマエ」
「普通だな」
「普通で悪かったね」
強そうな名前だと言われて、鬼柳は少し機嫌が良くなった。少し不貞腐れたナマエも、本気で怒っているわけではなく、それとなく鬼柳の機嫌を伺っているようだった。
「あのさ、さっきは……」
「いい。オレも勝手に入って悪かった」
「ここ、他の人に言わないでくれる?」
「言わねえよ。言っても得にならねえだろ」
「……ここの機械壊さないなら、たまにきてもいいよ」
「機械? これのことか?」
鬼柳の指差した先には、先ほどナマエがブチギレた原因たる、古めかしい機械があった。
「うん。これね、映写機っていうんだって」
「映写機?」
「映画が見れるんだよ。フィルムを回して、映像を映し出す機械だよ」
ナマエはそう言うと、テキパキと機械の操作をした。このビルにはかろうじて自家発電のシステムが生きており、フィルムをセットしてスイッチを入れると、崩れかけた壁に90年代の映像が映し出された。
「へぇー、これが映画ってやつか」
「あっちの方では今でも人気なんだって」
ナマエがあっちと呼んだのは、もちろんシティのことである。
「見に行きたいか?」
「そうだね、ここにある分は全部見たし、シティの映画って多分ここよりもすごいでしょ……」
少し興奮して目を輝かせてたナマエは、早口でそう言ったあと、少し黙った。
「機械で回ってるやつ、あれがあればいいのか?」
「うん。DVDってやつもあるんだけど、ここでは見れないから、フィルムがあれば移せるよ」
「じゃあ、見つけたら持ってきてやるよ」
「マジ? ありがとう!」
今まで人から真っ当に感謝を述べられることがなかった鬼柳は、どう返していいのかわからずに、照れて俯いた。
「鬼柳。こういう時はさ、どういたしましてって言ったほうがいいよ」
二人の間に、特異な友情が芽生えようとしていた。二人はその日、お互いの目を見て、この人間は自分の同類であると確信したのだった。
それから、鬼柳は時折ナマエを訪ねてここに足を運んだ。二人はどうでもいい話をして、子供らしい遊びに興じた。
ナマエには他に同世代の友人と呼べる人間がいなかったので、素直に鬼柳を慕い、鬼柳もそれに応えた。子供が生きるには厳しいサテライトで、共に生き抜く同志として、固く信頼を寄せ合ったのである。
しかしある日、二人の関係を決定的に変えてしまった事件が起こる。
2
二人が知り合ってから二ヶ月と経たない頃だった。いつものように、鬼柳はナマエのアジト(二人はここのことをそう呼んでいた)に足を運んだ。
よく晴れた日で、どこからか盗み出した分前を、ナマエに分けてやろうと、機嫌よく扉を開けたところだった。
ナマエが椅子に横たわって、項垂れていた。
彼女がここで午睡をすることは珍しくなかったが、少しこれまでとは違って見えた。
何かブツブツと呟きながら、異様な雰囲気を醸し出していた。近寄っても反応すらしない。
「ナマエ?」
鬼柳が肩に触れると、彼女の肩は大袈裟に跳ねた。
「っ! ああ、鬼柳か……」
「どうしたんだよ……」
明らかに目が泳いで、顔色の悪いナマエを見て、鬼柳は不審に思った。自分がいない間に何かあったとしか思えない。
「……クソ親父」
「……?」
ナマエはそれだけ言うと、口を閉じた。
「親父? お前父親がいたのか」
「うん……最低の父親だけどね」
「最低か」
「あいつ、マジでムカつく。早く死ねばいいのに」
吐き捨てるように、そう言った。初対面の時に見せた、尖った口調よりも数段熱が篭っている。
鬼柳は内心、ナマエは自分と同じように親のいない孤児だと思い込んでいたので、少し動揺しながらも、冷静に傾聴することに決めた。この口ぶりからして、よほど恨みを抱いているのだろう。
「……何かされたのか?」
「殴られた。いっつもわたしのこと、ゴミみたいに扱う」
「だから、ここにいるのか?」
「うん。もうずっとここに住んでるよ。地下に、浄水器があるし、火はライターで起こせるし……」
ナマエがここにいついているのは知っていたが、まさか居住空間を築いているとは、想像もしていなかった。 この廃墟──唯一の自分の縄張りを、ナマエはずっと一人で守っていたのだ。
「んで、親父にここがバレた」
「マジかよ」
「あいつすっげえ怒ってたんだ。夜にでも乗り込んできて、わたしのこと殺すかも」
ナマエは軽く言ってのけたが、とても冗談には聞こえなかった。
鬼柳は、ナマエが自分にSOSを送っているのだということを、すぐに察して、頷いた。
「逃げるか?」
「嫌だ。それはしない」
「……じゃあ」
「わたし、セキュリティに絶対バレない場所を知ってるから」
3
ナマエと鬼柳は、ある映画を見て名案を思いつき、それを実行することにした。
二人にとって、最初の共同作業だった。
ナマエの予想通り、当日の夜、彼女の父親は廃墟に足を踏み入れた。
娘にうっすら顔の雰囲気が似た男は、枯れた草のように生気のない、死人のような瞳であたりを見回していた。
「来たね」
ナマエが小声で呟く。正気を失った彼女の父親は、人間ではない、別の生き物じみた動きをしているように見えた。
彼女の中には、父親への情であるとか、かわいそうだと思う気持ちはなく、ただ部屋に入ってきた虫を殺すほどの感情しか持ち合わせていなかった。
「本当に、やるのか?」
「当たり前じゃん。もしかして、ビビってる?」
「……オレは殺しまではやったことねえよ」
「わたしもだよ。
あのね、あいつは殺されても仕方のないやつで、わたしたちがやらなくても、多分いつか誰かに刺されてると思うよ。それが早くなっただけじゃないかな」
そう言われてしまうと、鬼柳は何も言えなくなった。 二人は闇に目を凝らし、物音を必死に聞き取ろうと耳をすませた。
ナマエはこの作戦の決行直前に、今まで父親にされた数々の虐待の内容を鬼柳に話して聞かせていた。
どのように屈辱を受けたかを精細に、なおかつ饒舌に語る彼女の姿に、彼は圧倒された。
「実の子供にここまでやる親がいる? 普通はいないよね」
「……当たり前だろ」
そうして全てを曝け出したのが、今日の夕方のこと。
ナマエとしては、相手を憎むべき相手だと理解させ、
殺しへの抵抗を薄めさせるための作戦だったのだが、あまり意味をなさなかった。
失敗した時のリスクなど考えてはいけないと、ナマエは言った。
底知れぬ度胸と覚悟を見て、鬼柳はミョウジナマエという人間への認識を改めることになった。
ずっと近くにいたのに全く気づけなかったことに、鬼柳は少し罪悪感を抱いた。
だが、ナマエにとって、それすらも計算通りのことだった。
罪悪感を植え付けて、仲間にする。
子供で、女で、弱い立場であることもいかさないとこの街では生きていけない。
暗闇の中で、男は足を引っ掛けた。
静かな廃墟に、床に打ち付けられた衝撃によって発生した音が響く。
その音を合図に、二人はその頭上から大きな石を投げ落とした。それは、運よく頭に直撃し、彼が再び立ち上がることはなかった。
あっけなく簡単に、二人の作戦は成功したのだった。
「……もう死んだ?」
「気絶してるだけかも」
ナマエは、自分の父親の顔を足で動かすと、息があるか確かめた。無防備に近づいたりはしない。その手元には刃物──鉈が握られている。
小さな少女の手には似つかない、どんなものでもぶったぎれそうな、硬い刃物。
「息はあるね。起こしたら面倒だから、縛っちゃおうか」
鬼柳とナマエは男の痩せた体を抱えて、映画で見て、学んだ通りの拘束作業に移った。
ランプのわずかな灯りの中、二人は息を潜めて作業に当たる。数十分間の格闘の後、歪ながら、殺人へ向かう作業は完成した。
「できたっ!」
大仕事をやり遂げた気分で、ナマエはつぶやいた。
鬼柳は、ナマエの手に握られた鉈を見て、これから始まることを想像し、気分が悪くなった。
正確に言えば、底知れぬ吐き気を覚えた。
「鬼柳、大丈夫?」
無口な彼を心配したナマエが、顔を覗き込む。
途端に、すっと体から痺れが引いていく。
それから、腹のそこから根拠が不明瞭な自信が湧いてくるような感覚を覚えた。
計画し、実行しようと言ったのはこいつなのに、不思議とナマエに語りかけられると、何もかもがうまくいっているように思えた。
不思議だなくらい、なんでもうまくいくような気持ちになれるのだ。
「ああ。ここまでやったんだ。最後までやろうぜ」
「うん!」
二人は男の体を荷台に乗せると、かつて下水として使われていた地下道まで人間一人を運搬した。
今からバラバラにされるとは知らず、男は気絶したまま縛られている。
それが面白いようで、ナマエは愉快そうに笑っている。
「なあ、海に埋めてもよかったんだじゃないか?」
「ダメだよ。海はずっとセキュリティが監視してる」
「あ、そうだったな」
二人はブルーシートを広げると、男の体をその上に投げ出した。後の行為は全てナマエが担当することになっている。鬼柳は、それを見届ける役目を担っていた。
「鬼柳、わたしがちゃんとするところ見ててね」
頭に狙いをつけて、鉈が振り下ろされる。
彼女は真顔で、実の父親に手をかけた。一度では上手く落とせないかと思っていたが、まるで常習犯のように、ナマエは器用に人間の首を落とした。
血は思ったよりも出なかった。
たった今、人間を殺した。
鬼柳の背筋に、冷や汗が伝った。
「これでわたしたち、共犯だね」
父親だったものを片づけ終えた後、ナマエは寂しそうにそう言った。
返り血を浴びて、前掛けが少しだけ濡れていた。
それ以外は何も変わったところはない。きっとこのまま外に出ても、誰にも怪しまれないはずだ。
鬼柳は黙って頷き、ナマエの目を見た。
黒い瞳の奥に、小さな光が宿っている。この小さな体のどこに、こんな覚悟が宿っていたのだろう。
今まで友達として接してきて、全く見抜くことのできなかった素質を、今目の当たりにしてしまっている。
少し、ナマエの瞳を見るのが恐ろしくなった。
彼女はその感情を知ってか知らずか、無邪気に鬼柳の手をとり、「手伝ってくれてありがとう」と言った。
この手で、ナマエは自分の父親を殺した。そして、自分はその手伝いをした。
セキュリティに捕まる可能性を心配したり、相手が相手なので、良心が咎めるといったような思いは彼にはなかった。
しかし、今日この日から、自分の人生の中で、殺すという選択肢が発生するようになってしまったのだ。
これの人生はずっと、その咎と向き合わざるを得なくなるだろう。
鬼柳は、ナマエも自分も、いつか誰かを手にかけることが再びないようにしようと心の中で願った。
4
例の事件から数年経ち、相変わらず二人は遊び仲間の関係をゆるやかに継続していた。
ナマエはさらに映像作品の収集に励み、時折機械のメンテナンスの仕事をしながら、自由業としてマイペースに生活を送っていた。
「デュエル? 最近その話ばっかりだよね」
ナマエは苦笑いをしながら、眼前で楽しそうにデッキ構成やモンスターについて語る鬼柳を眺めていた。
「デュエルっていうか、ナマエに頼みたいことがあってよ」
「わたしに? 何か手伝えってこと?」
「このビルをオレの仲間に貸してくれないか?」
「ここを?」
いきなりそのようなことを言われたので、ナマエは面食らって食い気味に聞き返した。鬼柳の仲間、そんな人たちがいるなどという事実も、ここで初めて聞いたことだった。
「オレが最近、デュエルのチームを作ったのは知ってるだろ?」
「それって、鬼柳の空想のお友達じゃなかったんだね」
「な、なんだよ……お前以外に知り合いくらいいるっての」
「ふーん。で、ここを貸して何をするわけ?」
それを聞くと、途端に鬼柳は目を輝かせ、よくぞ聞いてくれました! とばかりに語り出した。
「オレたちは、このサテライトを征服する!」
「……は?」
声高々にそんなことを宣言されたので、思わず吹き出しそうになった。が、鬼柳の表情は本気そのものであり、笑っては怒られそうだったので、もう一度聞き返すことにした。
「ここらではな、デュエルで縄張り争いをしてんだよ。実際見たこともあるだろ? オレたちのチームはここでてっぺんを取る! そのためにチームの居場所が必要なんだよ」
夢を宣誓した後、鬼柳は少し照れたように頭をかいた。馬鹿げた夢だとナマエは考えたが、鬼柳は自分がその野望を叶えられると心の底から信じているようだったので、態度には出さないことに決めた。
「……で、わたしに見返りは?」
「ぶんどったレアカードでもやるよ。売れば金になるだろ」
「却下。売りに行く手間があるだけですでに損してるし、カードとかもらっても嬉しくないし、確実じゃない」
「ケチだなあ、未来のサテライトのトップに対して」
「自信過剰でよろしいですね」
ナマエは、自分の居住スペースを他人に貸し出すことを渋った。鬼柳だけが特例であり、それ以外は認めないというつもりだった。
「っていうか、あいつらにもう言った」
「……なんて?」
「オレたちのアジトを作ったって、もう全員に言った」
「はああああ??」
ナマエは絶叫した。今まで聞いたことのない、本気の叫び声に、鬼柳は苦い顔をした。
「言ったって、何!? なんで決定してないのにいったわけ? バカじゃないの?」
「そう怒るなって! 元々ここだってお前の家じゃないんだし、サテライトには土地の権利なんてないじゃねえか」
「そうだけど、もうここら一帯ではこのビルはわたしの家だって決まってんの! ムサい男を入れるのも、嫌だから! 絶対嫌だから!」
「ムサくねえよ! ……まあ、全員男だけどな」
「はぁー……」
ナマエはわざとらしいため息をつきながら、少し考えるそぶりをして見せた。
鬼柳には大きな「貸し」がある。彼は絶対にそれを交渉に使おうとはしないだろうが、ナマエの中には数年前の記憶が、まだ色濃く残っている。
わたしの共犯者。
あの事件以降、二人はその話題に触れることは一切なかったが、心の奥でずっと燻っている。
ナマエは鬼柳の目を見た。真っ直ぐな瞳。今まで生きる意味のなかった彼が、ようやく目指すべき目標を見つけている。
「……」
鬼柳の目で見つめられると、なんでもどうにかなりそうな気がした。サテライト統一。それを果たした末に、彼がどのような人間に進化するのか、気にはなる。
成り行きで適当に言った夢だとしても、やらせてみてもいいかもしれない。
ナマエは保護者のような思想にまで辿り着くと、肩をすくめながらこう言った。
「しょうがないなぁ、もう。いいよ」
「えっ」
「だから、貸してあげるって言ってんの」
「マジか!? 嘘じゃないよな!」
「二言はないよ。ま、少しでも物を壊したりしたら罰金払って出て行ってもらうけどね」
鬼柳は礼を述べると、すぐさま飛び出して行った。仲間にこのことを知らせに行くため、なのだろう。
その後ろ姿を窓から見下ろし、ナマエは目を細めて微笑む。これで貸しは返せた、と彼女は考えた。
5
あれから数ヶ月が過ぎた。鬼柳が連れてきた仲間たち、もといチーム・サティスファクションのメンバーたちは、サテライトではある程度名の知れたチームとして、近辺一帯で幅を気かせているらしい。
ナマエは間接的な関わりしか持ち合わせていないのに、通りすがりに自身の噂を囁かれることが、度々あった。
ナマエこそがチーム・サティスファクションのアジトの首領であるとか、彼女が真のリーダーだとか、そういうくだらない与太話であったが、あながち間違いではない。実際に自分のビルを貸しているのは、事実なのだから。
その情報がどこから漏れ出たのか、ナマエの頭は少し痛くなった。
この街でデュエルというゲームがどれだけの影響を及ぼしているか、いやでも理解できた。
そして、そのメインストリームに自分の友人がいるということも、肌で感じることができたのだった。
彼らがアジトとしてよく出入りする廃ビルの屋上から、常に笑い声が絶えず聞こえてくる。
ナマエはその声をラジオ代わりに流し聞きながら、一人でゆっくりと仕事をこなした。時折、所蔵している映像のコレクションを眺める。
人の出入りが激しくなって、ナマエの生活も大きく変わった。鬼柳という人間のせいで、変化を余儀なくされてしまったのだ。
しかし、鬼柳を除くチーム・サティスファクションのメンバーにとってのナマエとは、顔見知りの大家兼鬼柳の友人という立ち位置で、顔を合わせれば会話はするものの、深く立ち入ってお互いのことを話すということはなかった。
ただ一人、不動遊星を除いては。
「ナマエはデュエルをやらないのか?」
「オレも誘ってみたんだけどよ、やらねえって言われた」
「そうなのか。じゃあ、鬼柳とナマエはどうやって親しくなったんだ?」
現状。不動遊星は、ナマエと二人きりで世間話をする程度の関係を構築することに成功していた。
ジャックはナマエのキッチンで勝手に珈琲を沸かして彼女の部屋を荒らしてから、屋上以外の立ち入り禁止令を食らっていて、クロウは「下手こくと鬼柳がめんどくさそうだから」と、交流は必要最低限の会話とあいさつ以外はそれとなくかわして、積極的に関わろうとはしていなかった。
こういう事情なので、鬼柳以外でナマエと話す頻度が最も高いのは遊星という風になっている。
遊星とナマエは少し波長が合うのか、機械について色々と語り合っている姿を時折見かけた。
いきなり遊星にナマエの話を持ちかけられた鬼柳は、少し驚きながらも言葉を選びながらその問いに返事をした。
「それは……オレがガキの時からの知り合いだから。このビルで一緒に遊んでたんだよ。そんだけだ」
「そうか。鬼柳はカードが好きだから、お前の友人のナマエもデュエルをするのか気になっただけだ」
遊星はそれだけ言うと、手元のデュエルディスクのメンテナンスに取りかかった。
「なあ、ナマエとデュエルしたいのか?」
「ああ」
「お前がやりたいって誘えば、ナマエもデッキくらい組むんじゃないか?」
「……鬼柳はダメで、俺ならいいのか?」
遊星が不思議そうな目で、鬼柳を見つめた。
鬼柳は、なぜ自分がこんなに冷たい口調でさっきのようなことを言ったのか、自分でも理解ができなかった。
なぜ遊星ならば、ナマエの気持ちも変わると思ったのか。
うまく納得する言葉が見つからず、喉の奥に何か引っ掛かっているような、奇妙な違和感を覚えた。
遊星は何も、鬼柳を困らせるためにこんな話題を振っているのではない。本人はただ、純粋に疑問を問いかけているだけであり、他意はない。
鬼柳は深く考えないようにし、適当に答えることにした。
「知らねえよ、なんとなく、だ」
「そうか」
再び、遊星は黙々と作業を再開する。鬼柳は手持ち無沙汰で、デッキの調整をしようとカードを広げてみたが、自分の手持ちのカードたちを見ても、いつものように発想が浮かんでこなかった。
「手が空いてたら、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
ナマエの声がした。顔を上げて見てみれば、ちょうど階段の近くに彼女が立っていた。
「鬼柳暇そうじゃん、来てよ」
「デッキ作ってんだよ」
「それを何もやることがないっていうの」
「ちげえよ」
「あー、はいはい。そうだね、デュエル命だもんね、鬼柳は。無一文のくせに」
今にも喧嘩をはじめそうな二人を見かねた遊星が、ナマエに声をかける。
「鬼柳が無理ならオレが……」
「おっ、遊星ありがとう!
鬼柳、あんたはデッキいじってないで、ディスクのメンテくらい手伝ってあげたらいいのに……」
そう言いながら、ナマエは遊星を引っ張っていき、鬼柳は一人取り残された。
「…………」
手元にあったカードを全てケースに戻し、鬼柳は屋上への階段を上がった。
鍵の壊れた扉を開けると、机のみが置かれた殺風景な屋上が見えた。
ここらのほぼ一帯は、チーム・サティスファクションが既に制圧している。
子供の頃から変わらない光景。どこまでも続くかと思っていた街は有限で、結局のところ、自分の足で歩ける場所は限られている。
このミニチュアのような街で、高みへ上り詰めたところで、自分達の中に何が残るのだろう──
自分達の縄張りを見下ろしながら、鬼柳は大きなため息をついた。
「鬼柳から聞いたんだが、ナマエと鬼柳は昔から付き合いがあるらしいな」
遊星は、ナマエのコレクションを収めた棚を整理しながらそんな風に会話を始めた。
「そうだよ。元々ここで出会ってそれからずっとつるんでる……今で何年になるっけ……」
「そうか。じゃあ、鬼柳がどうしてデュエルを始めたか知っていたりはしないか?」
「うーん。知らない。鬼柳は自分のことをあんまり話さないんだよね」
「ああ、なるほど……」
「自分のことは全然話してくれないくせに、無駄に壮大な夢とかは話すの好きだよね、あの人。サテライト統一だー! なんて、最初に聞いた時は嘘だろって思ったけど。無駄に行動力はあるからね」
遊星の立っている場所からは、ナマエの顔は見えない。
その口調からは愚痴と自慢の中間くらいのニュアンスが感じられた。遊星は「ああ」と相槌を打ち、それに同意を示した。
「ナマエは鬼柳のことが好きなんだな」
「うん、好きだよ。恩人だし。あいつがいなかったら、わたしは多分死んでただろうね」
「……死んでいた? 物騒だな」
「サテライトではよくあることでしょ、一人ぼっちの子供が何かしらの事故で死ぬなんて、さ」
「助けられたのか? 初耳だな」
サラリと告げられた事実から、遊星は二人の間にはただならぬ関係──普通の友人同士ではないだろうということを察した。
ナマエは、そこの部分について深く語ろうとはしなかった。
「そゆこと。あ、この話は鬼柳には内緒ね。一応、二人だけの話だから」
「……ああ、わかった。それでなんだが、ナマエはデュエルはしないのか?」
「デュエルぅ!? わたしが? ……あー、んー、あいつが何か吹き込んだ?」
ナマエは微妙な表情を浮かべ、遊星の顔を見た。
そこまで妙なことを言ってしまったのか、と遊星は不安を覚えた。
あらぬ誤解を連想させてしまってはいけないので、情報の補足をしようと口を開く。
「いや、俺がナマエとデュエルしたいだけだ」
極めて真面目な表情で遊星が言うと、ナマエは再び考え込むようなそぶりを見せた。
「デュエル……わたしが、遊星と」
「相手の人となりを知るには、デュエルが一番いいと俺は思っている」
「……それって、さあ、遊星は、わたしと仲良くなりたいわけ?」
「ああ。もっとナマエのことを知りたいと思っている。それに、オレたちの知らない鬼柳のことも色々と教えてもらいたいしな」
遊星は、恥ずかしげもなくそんなセリフを言ってしまった。
瞬間、ナマエの脳みそが焼け焦げる音がした。
今まで聞いたことのないような恥ずかしいセリフに、脳の回路がエラーを起こしている。
「…………あーーーー! それってさあ、わたしを出汁に鬼柳の情報を聞きたいのか、わたしと仲良くしたいのか、どっちなのさ!?」
「両方だ」
「で、ですよねえ! アハハ、遊星ってば、紛らわしい……そんで、恥ずかしいんだけど……」
「恥ずかしい? 何がだ」
目の前で急に挙動不審になる様子を見せつけられて、遊星は、自分の方が混乱しそうになった。純粋な疑問を投げかけるが、ナマエのテンションは暴走を続ける。
「遊星の話す言葉? 単語のチョイス? そう言うのがさあ、恥ずかしいんだよね。わたしとタメなのに、なんでこっちはこんなに捻くれてるんだろ……どこで違ったんだ?」
後半に行くにつれボソボソと早口で呟くナマエの様子が落ち着くまで、遊星は何もしないことにした。
ここまで挙動不審になる彼女を、遊星は見たことがなかった。
なるほど、これが鬼柳の友人ナマエの一面なのか、と珍しい生き物を見るかのように観察していた。
「……あ、デュエルの話だったっけ」
「そうだな」
しばらくして落ち着きを取り戻したナマエは、膨大なコレクションの整理を再開させた。
「正直、わたしはデュエルには興味がないんだよね。
遊星たちには悪いけどさ、面白さがわかんないっていうか、それ以上に興味関心があるものが他にあるから、そこまで求心力がないっていうの? そういう感じ」
「ということは、デッキも持っていないのか」
「うん。珍しいでしょ? 今時子供でもカードの1枚は持ってるのにね」
「そうか。今は趣味に忙しいんだな」
「まー、そういうこと。暇ができたら一回くらいやってみてもいいかも、とは思うけどね。その時は遊星に頼もうかな」
「……? そこは鬼柳じゃないのか?」
「あいつが、ただの道楽のデュエルをやってくれるってのはないと思うんだよね。
ぜーんぶ本気だから。わたしの真剣じゃない、遊び半分の覚悟で教えてくれなんて言ったら、多分、向こうは嫌なんじゃないかな」
冷静な声で、ナマエはそう言った。
“遊びのデュエルを鬼柳は受け入れない”
確かに、彼には少し、そんなところがある。遊星は納得した。
「わたしの生半可な気持ちの興味本位のデュエルなんて、受け入れてくれないと思う」
かつてないほど真面目な表情のナマエを見て、遊星はナマエの視線の先にある、鬼柳の顔を思い浮かべた。どうやら、自分が想像しているよりも、二人はお互いのことを思い合っているらしい。
「もしいつか、ナマエがデュエルをする気になったら、鬼柳と戦えるように俺が教えよう」
「うん、じゃあその時は遊星に頼もうかな」
6
どうやら、鬼柳恭介という人間のことを、甘く見積もっていたらしい。
ナマエは激しい後悔に苛まれながら、慌ただしく動き回った。沈黙して、立ち止まっていたら死ぬかもしれないと思ったからだ。
「ナマエ」
「パクられたんでしょ、あいつ」
遊星は、低い声でそうつぶやいたナマエの顔をうまく見ることができなかった。
ここ最近、ストレスが原因でまともに寝れていない彼女の顔は、病人のように青ざめていた。
「すまない。俺がいたのに……」
「遊星は悪くないよ。セキュリティを襲ったのは、あいつの独断なんでしょ? じゃあ、それは自業自得だから」
「鬼柳がああなったのは──」
「起こったことはしょうがないよ」
ただならぬ表情で遊星が話し出したので、ナマエは思わず口を挟んだ。
しばらくの沈黙が続き、二人はお互いから目線を逸らした。重く、気まずい空気が流れる。外の雨音だけが、建物の中に響いていた。
ナマエは意を決して口を開く。
「ごめん、しばらく一人になりたい」
「……わかった」
遊星が部屋から出ていくのがわかると、ナマエはソファに寝転がり、天井を見つめた。
サテライトを統一したと嬉しそうに報告された時。思えばそれが、幸せの頂点だった。あとは、そこから転げ落ちていくだけ。
鬼柳の元から、仲間が一人、また一人と離れていく間に彼はどんどんおかしくなっていったのだ。
それを傍観して、何もしなかったせいで、こんなことになってしまったのかもしれない。
かもしれない、という言葉が渦巻いて、胸が苦しくなる。
彼は、どんな思いでいたのか。遊星に任せっきりにしていた自分の責任もある。
鬼柳がいなくなったことで、自分の中身が虚になってしまったかのように錯覚した。それだけ大切な人間を、あっけなく失ってしまった。
殺人を犯して、あの刑務所から生きて出ることはできるのだろうか。
ナマエは、サテライトの住人に対するセキュリティの冷ややかな視線を思い出し、胸を痛めた。
(わたしに一言でも相談してくれたら)
結果として、今ここに鬼柳はいない。あの冷たい監獄の中で、一人宣告を待っているのだ。
起こってしまったことは仕方ないと遊星に言ってしまったが、この事態を飲み込めておらず、受け入れられていないのはナマエも同じだった。
「……これから、どうしたらいいんだろう」
その問いに答えてくれる人間は、ここにはいなかった。ナマエはこれから、一人で生きていくことを恐れた。
この街で、小さい時からずっと二人で支えあって生きていた。支えを失ったことで、これからの人生が困難になるであろうことが、容易に想像できた。
ナマエはしばらくソファの上で横になっていた。外で降り止まない雨に耳を澄ませて、気がついたら眠りに落ちていた。
それから数時間経ち、ふと彼女は起き出した。
棚に手を伸ばし、一本のフィルムを手に取ると、映写機にセットして、スイッチを押した。
鬼柳が現れる前、彼女の孤独に寄り添ってくれたのは、いつだって映画だった。
7
遊星が廃墟から足遠くなっている間に、ナマエはどこかに消えてしまったらしい。久しぶりに元アジトに足を運んだ遊星は、そこからごっそり何もかもが消えていることを確認した。
ナマエのことを知っている人間に尋ねても、行方がわからないという返事だけが返ってきた。
廃墟は、まるで最初から何もなかったかのように静かだった。数年前まで、一人の人間が住んでいたとは思えないほど、生活の痕跡が消えていた。
埃っぽい階段を登り、かつて仲間たちと溜まり場にしていた屋上に登った。
シティとサテライトとが自由に行き来できるようになり、様子も以前とは変わっている。けれど、見下ろす景色から連想される思いは変わらない。
チーム・サティスファクションがサテライトを統一し、何でもできると信じていた時の万能感、あの地平線の向こうにも、今では行こうと思えばどこまでも行けてしまうのだ。
「……」
遊星はそこから無言で立ち去ると、愛車に跨り、ヘルメットを被った。
向かう場所は決まっている。風を切って目的の場所へと全速力で駆け抜けた。
鬼柳京介は、窓辺の自分の席に座ると、外の様子を少し眺めた。
夕暮れ時の静かな雰囲気は、かつてここで労働力を求めて争いが起こったとは思えないほど、穏やかな空気が流れていた。
サティスファクションタウンの町長に就任してからの彼の生活は多忙を極めていた。
元々無法者の多いこの町を、平和的にまとめ上げるという仕事は、予想以上に骨が折れた。
協力的な住民が細かい仕事などを請け負ってくれているが、鉱山の利権をむぐった小競り合いなどは頻出している。町の治政を行う上で問題は山積みだった。
「鬼柳さん、お客さんがいらっしゃってるんですけど……通しますか?」
事務業を手伝ってくれている町民が、そんな報告を持ってきた。
この田舎にわざわざ自分を尋ねてやってくる人間など、鬼柳には心当たりがなかった。
遊星たちはそれぞれの生活で忙しくしている。しばらくここに尋ねてくることはないはずだった。
「客か? 珍しいな。通して構わない」
鬼柳が疑問を抱きながら許可すると、すぐさま一人の人間が入室してきた。
その姿を見て、彼は思わず息を呑んだ。
「久しぶりだね、鬼柳」
「ナマエ……!」
砂塵に塗れた町には似つかない、上品そうな格好でナマエは鬼柳の目の前に現れた。数年前よりも少し身長が伸びていたが、顔つきは全く変わらない、昔のナマエそのままだった。
「まっさかあんたが村の長になってるとはねえ、全然想像つかなかったけど、意外とサマになってるじゃん。
あ、飲み物とか気遣いはいらないからね」
そう言いながら、机の真向かいにあるソファに腰掛けると、ナマエは我が物顔で自分のカバンから書類を取り出した。
「おい、何だよそれ」
「まあ、今から説明するから。それと、今日は別に友人を訪ねにきたわけじゃないからね。仕事の話をしにきた」
「仕事……?」
「そう。わたしだって、今まで何もせずに生きてきたわけじゃないんだから」
「なあ、お前これまで何をしてたんだよ」
すぐにでも仕事の話をしたがっているナマエを無視して、鬼柳は疑問を投げかけた。ナマエはフーッとため息をつくと、足を組み直した。
「シティとサテライトを結ぶ道が開通されたのは知ってるでしょ? わたし、すぐにシティに移住して会社に入ったの。で、いろいろあって、今は独立して自営業だけど」
「行動が早いんだな」
「あー、よく言われる。でも、根無草から町長に転職できた方が波瀾万丈じゃない?」
「そう言われたら何も言い返せないな」
ナマエは机いっぱいに書類を広げて、一本のペンを差し出した。
「単刀直入にいうね、ここの土地を買います。サインして」
かつて遊星と鬼柳が激闘を繰り広げた町──クラッシュタウンと呼ばれていた場所は、今では小さな共同体として、住民たちは穏やかで慎ましい暮らしを送っているようだった。
D・ホイールを停めると、遊星は鬼柳を探して歩き出した。
資源をめぐって対立していた住民たちは、お互い協力して利益を分け合うようになったらしい。そういう風に聞いていたが、それは事実らしい。
1日の仕事を終えた労働者たちが町に降りてくるが、彼らの顔には疲労感はあれど、以前のような、触れるもの全てを切り付けてしまうような敵意は感じられなかった。
しばらくそれを眺めていると、彼らの足がある一点の方向に向かっていることがわかった。
それを追いかけて歩くと、二階建ての、それなりに大きな建物に人々が吸い込まれていくのが見えた。外の看板には、ポスターが貼られている。よく見ると、それはシティで公開されたばかりの映画の広告だった。
その場から立ち去ろうとした時、一人の人間が遊星に近づいてくるのが見えた。誰かと目を凝らしていると、その人間は大きな声を上げながら、すぐ近くまで走ってきた。
「遊星! 来るなら言ってくれればよかったのに」
「……ナマエか?」
以前よりも身長の伸びたナマエが、そこにはいた。遊星の知っていたナマエは、もっと野暮ったい、ラフな格好をしていたので、そうだと気づくのに少し時間がかかったのだ。
「うん! 久しぶりだね」
「……ここで何をしているんだ?」
まさかいなくなってしまったナマエがこの場所にいるとは全く想像できなかったので、遊星は少し狼狽えながら尋ねた。聞きたいことが山のように浮かんできた。
「わたしね、ここでビジネスをしようと思って移住した」
「移住? サテライトから離れたのか?」
「ううん。前はシティに住んでた」
「そうなのか」
「ずっとシティで働いてたんだけど、ここに鬼柳がいるって聞いて、いてもたってもいられなくてさ。ここで起業したんだ。そしたら結構上手く行ってさ、あの映画館、わたしの持ち物なんだよ」
「……すごいな」
「ありがとう。あ、今日は鬼柳に会いにきたんじゃない? 今あっちで飲んでると思うよ」
ナマエが指差した先には、小さな飲み屋があった。労働者たちは、夜はここで腹を満たすのだろう。それなりの賑わいが外にいても聞こえてきた。
「ああ、わかった。ナマエも元気そうで、安心した」
「わたしも、久しぶりに遊星に会えてよかった。元気でね、またこっちにも遊びにきてね」
手を振り合って別れてから、遊星は酒場に足を運んだ。
店内は、男たちの群れで賑わっており、狭い通路をひっきりなしに料理や酒を運ぶ店員が行き来していた。ラジオからは最近のヒットチャートが流れている。ありがちな、大衆的な居酒屋だった。
鬼柳は騒がしい一団から少し離れた場所で、一人安酒を煽り、料理を口に運んでいた。
「鬼柳」
「……遊星、来たのか。座れよ、何か奢ろうか」
以前会った時よりも、表情が柔らかくなっている。遊星は鬼柳の向かいに座ると、水とオードブルを注文した。
「酒は飲まないのか」
「D・ホイールで来たんだ」
「泊まって行けよ、ベッドならある」
「……考えておこう。そうだ。さっき、ナマエと会ったんだが、彼女はずっとここにいるのか?」
「まあな。オレがここにいることを聞きつけたのか、2、3年前にやってきてから、ずっとだ」
「そうだったんだな」
「まあ、この町は何もなかったからな。あいつが来てくれて、新しい風が吹いたってやつだ」
鬼柳はそう言いながら、再びグラスに口をつけた。
周りの音がスローに聞こえる。ガヤガヤとやかましいはずなのに。遊星には、鬼柳の細い声が耳に響くように思えた。
「鬼柳、今お前は幸せか?」
「……まあな。なんだかんだ言って、オレはこの町が好きなんだ」
「ナマエは、幸せだと思うか」
「……なんだよ、お前、あいつの父親か? というか、お前から見て、どう思うんだよ」
「……わからない。サテライトにいた時も、ここにいる時も、ナマエは変わらないように見える」
遊星がそう言うと、鬼柳は少し目を見開いて、その後少し声を上げて笑った。乾いた笑い声だった。
「……そうか。そうなんだな、お前には、そう見えるんだな……」
鬼柳の目元が、少し赤くなっているのが見えた。泣いている。目が潤んで、一筋の涙が頬を伝った。
「あいつとオレは共犯者なんだよ……」
「……共犯者」
「もうずっと、縁が切れねえんだ……きっと、呪われてんだな、俺ら」
「ナマエと、離れたいのか」
「違う。そういう意味じゃねえんだけど、なんていうかな、ナマエはオレがどこに行っても、絶対に追いかけてくるんだよ。そうだ、あいつはそんなやつだった……オレたちは、離れられないんだ」
泣きながら笑う鬼柳を目の前に、遊星はどうしていいのかわからなかった。
ひとしきり泣いた後、鬼柳はコップの水を飲み干した。
「今日は、飲みすぎたかもしれねえ」
「……大丈夫か?」
「ああ、変なところ見せちまったな。…………今日のことは、あいつに言わないでいてくれないか」
「わかった。ナマエには言わない」
遊星は、次の日の早朝に町を出た。
サティスファクションタウンは、これからどう発展するのか、ナマエと鬼柳の手にかかっているのだろう。
朝焼けの中、D・ホイールを走らせると、爽やかな風が吹き抜けた。
まず最初に、フィルム。そして、映写機。スクリーンは白い壁があればこと足りる。それがあれば、もうそこは映画館だ。
1
鬼柳京介がミョウジナマエと知り合ったのは、ほぼ偶然といってもよかった。廃ビルの中に二人がいた。それだけのことだった。
「ねえ、わたしの場所なんだけど」
「は? 知らねえよ」
ナマエがいつものように廃墟に足を運ぶと、自分の特等席に知らない少年が、我がもの顔で陣取っているのが見えた。
少年は薄汚れた格好で、手にはどこからか盗んできたであろう青果が握られている。
警戒して、品定めするような無遠慮な視線を浴びながら、ナマエはここで怯んではいけない、と足を踏ん張った。
「そこはわたしの場所。わかる? わたしの縄張りだから、出ていって」
「嫌だ」
「お前が汚い格好してたから、椅子が汚れただろ」
ナマエが指差した先のソファは、椅子としての役目をかろうじて果たしている程度に古く、中身の綿も飛び出していたが、それは問題ではなかった。
自分のスペースに侵入された。その一点のみがナマエの神経を苛み、警戒心を剥き出しにして威嚇させる原因になっているのだ。
「あ? この建物の持ち主でもねぇのに偉そうにしてんじゃねえぞ、ガキ」
「少なくともこの椅子はわたしの持ち物だっつってんだろ」
年のそう変わらない相手にガキと言われたこともそうだが、暴れて周りの機械をダメにされること。それをナマエは恐れていた。
せっかく使い方がわかるようになって、これからだというのに! いいところで予期せぬ侵入者に邪魔をされてしまった。
鬼柳としても、せっかく誰も手をつけていなさそうな場所を見つけたかと思えば、そう甘い話はないと思い知ったばかりであった。
殴って黙らせるのは最終手段で、口だけでどうにか退散願えないか、考えを張り巡らせていた。
ここまでのやり取りで、二人は本気でやり合おう、などとは思っていなかった。野良猫が縄張りを巡って威嚇しあうような、いわば牽制である。
ふと、ソファの後ろにシーツをかぶせてある置物が鬼柳の視界に入った。埃をかぶっていない、おそらく目の前の少女が大切にしているであろうそれを、交渉材料にできるだろうと踏んだ。予想は当たった。
「何触ってんだ!」
それに手をかけた瞬間、ナマエは烈火のごとく、怒り、飛びついた。そこまでの瞬発力を予期していなかった鬼柳は、受け身が間に合わなかった。鳩尾に、少女の渾身の拳が当たり、そのまま横に倒れる。
「汚い手で、触るなって言ってたのが聞こえないのか……!」
腹を抱えてうずくまる鬼柳を見下ろして、ナマエは息も絶え絶えに、吐き捨てるようにそう言った。
小柄な体のどこに、そんなパワーがあったのか。
ナマエ自身も、自分が躊躇いもなく人を殴ったという事実に、やや動揺した。自身の右手がひどく痛んだ。やりすぎたかもしれないと少し冷や汗をかいた。
しかし、それは今考えるべきことではない。速やかに、こいつを追い出さなければいけない。それが最優先事項だ。
ナマエが考えあぐねている間、鬼柳は少しも動かなかった。
恐る恐る近づいて、肩を叩いてみるも反応がない。
やばい、気絶してる?
ナマエが鬼柳を起こそうとした瞬間だった。
「死んでねえよ!」
さっきまでうつ伏せになって動かなかった相手が急に大きな声を出して起き上がったので、ナマエは腰を抜かした。
「なに驚いてんだよ。それくらいで死なないっての」
「なんでっ!」
「だから、お前のパンチ如きで倒れてたまるかってんだよ」
「痛かったでしょ」
「まあな」
鬼柳は立ち上がると、服の埃を払った。二人はすっかり興が削がれて、少し神妙にお互いを眺め合った。お互いがお互いのことを、変だけど悪そうなやつではないと認識し出した。
「……あんた名前は?」
「オレの?」
「それ以外ないと思うんだけど」
「キリュウキョウスケ」
「なんて字で書くの」
「あー、鬼に柳で鬼柳」
「鬼柳か。強そうな名前じゃん」
「だろ? っていうか、お前も名乗れよ」
「ミョウジナマエ」
「普通だな」
「普通で悪かったね」
強そうな名前だと言われて、鬼柳は少し機嫌が良くなった。少し不貞腐れたナマエも、本気で怒っているわけではなく、それとなく鬼柳の機嫌を伺っているようだった。
「あのさ、さっきは……」
「いい。オレも勝手に入って悪かった」
「ここ、他の人に言わないでくれる?」
「言わねえよ。言っても得にならねえだろ」
「……ここの機械壊さないなら、たまにきてもいいよ」
「機械? これのことか?」
鬼柳の指差した先には、先ほどナマエがブチギレた原因たる、古めかしい機械があった。
「うん。これね、映写機っていうんだって」
「映写機?」
「映画が見れるんだよ。フィルムを回して、映像を映し出す機械だよ」
ナマエはそう言うと、テキパキと機械の操作をした。このビルにはかろうじて自家発電のシステムが生きており、フィルムをセットしてスイッチを入れると、崩れかけた壁に90年代の映像が映し出された。
「へぇー、これが映画ってやつか」
「あっちの方では今でも人気なんだって」
ナマエがあっちと呼んだのは、もちろんシティのことである。
「見に行きたいか?」
「そうだね、ここにある分は全部見たし、シティの映画って多分ここよりもすごいでしょ……」
少し興奮して目を輝かせてたナマエは、早口でそう言ったあと、少し黙った。
「機械で回ってるやつ、あれがあればいいのか?」
「うん。DVDってやつもあるんだけど、ここでは見れないから、フィルムがあれば移せるよ」
「じゃあ、見つけたら持ってきてやるよ」
「マジ? ありがとう!」
今まで人から真っ当に感謝を述べられることがなかった鬼柳は、どう返していいのかわからずに、照れて俯いた。
「鬼柳。こういう時はさ、どういたしましてって言ったほうがいいよ」
二人の間に、特異な友情が芽生えようとしていた。二人はその日、お互いの目を見て、この人間は自分の同類であると確信したのだった。
それから、鬼柳は時折ナマエを訪ねてここに足を運んだ。二人はどうでもいい話をして、子供らしい遊びに興じた。
ナマエには他に同世代の友人と呼べる人間がいなかったので、素直に鬼柳を慕い、鬼柳もそれに応えた。子供が生きるには厳しいサテライトで、共に生き抜く同志として、固く信頼を寄せ合ったのである。
しかしある日、二人の関係を決定的に変えてしまった事件が起こる。
2
二人が知り合ってから二ヶ月と経たない頃だった。いつものように、鬼柳はナマエのアジト(二人はここのことをそう呼んでいた)に足を運んだ。
よく晴れた日で、どこからか盗み出した分前を、ナマエに分けてやろうと、機嫌よく扉を開けたところだった。
ナマエが椅子に横たわって、項垂れていた。
彼女がここで午睡をすることは珍しくなかったが、少しこれまでとは違って見えた。
何かブツブツと呟きながら、異様な雰囲気を醸し出していた。近寄っても反応すらしない。
「ナマエ?」
鬼柳が肩に触れると、彼女の肩は大袈裟に跳ねた。
「っ! ああ、鬼柳か……」
「どうしたんだよ……」
明らかに目が泳いで、顔色の悪いナマエを見て、鬼柳は不審に思った。自分がいない間に何かあったとしか思えない。
「……クソ親父」
「……?」
ナマエはそれだけ言うと、口を閉じた。
「親父? お前父親がいたのか」
「うん……最低の父親だけどね」
「最低か」
「あいつ、マジでムカつく。早く死ねばいいのに」
吐き捨てるように、そう言った。初対面の時に見せた、尖った口調よりも数段熱が篭っている。
鬼柳は内心、ナマエは自分と同じように親のいない孤児だと思い込んでいたので、少し動揺しながらも、冷静に傾聴することに決めた。この口ぶりからして、よほど恨みを抱いているのだろう。
「……何かされたのか?」
「殴られた。いっつもわたしのこと、ゴミみたいに扱う」
「だから、ここにいるのか?」
「うん。もうずっとここに住んでるよ。地下に、浄水器があるし、火はライターで起こせるし……」
ナマエがここにいついているのは知っていたが、まさか居住空間を築いているとは、想像もしていなかった。 この廃墟──唯一の自分の縄張りを、ナマエはずっと一人で守っていたのだ。
「んで、親父にここがバレた」
「マジかよ」
「あいつすっげえ怒ってたんだ。夜にでも乗り込んできて、わたしのこと殺すかも」
ナマエは軽く言ってのけたが、とても冗談には聞こえなかった。
鬼柳は、ナマエが自分にSOSを送っているのだということを、すぐに察して、頷いた。
「逃げるか?」
「嫌だ。それはしない」
「……じゃあ」
「わたし、セキュリティに絶対バレない場所を知ってるから」
3
ナマエと鬼柳は、ある映画を見て名案を思いつき、それを実行することにした。
二人にとって、最初の共同作業だった。
ナマエの予想通り、当日の夜、彼女の父親は廃墟に足を踏み入れた。
娘にうっすら顔の雰囲気が似た男は、枯れた草のように生気のない、死人のような瞳であたりを見回していた。
「来たね」
ナマエが小声で呟く。正気を失った彼女の父親は、人間ではない、別の生き物じみた動きをしているように見えた。
彼女の中には、父親への情であるとか、かわいそうだと思う気持ちはなく、ただ部屋に入ってきた虫を殺すほどの感情しか持ち合わせていなかった。
「本当に、やるのか?」
「当たり前じゃん。もしかして、ビビってる?」
「……オレは殺しまではやったことねえよ」
「わたしもだよ。
あのね、あいつは殺されても仕方のないやつで、わたしたちがやらなくても、多分いつか誰かに刺されてると思うよ。それが早くなっただけじゃないかな」
そう言われてしまうと、鬼柳は何も言えなくなった。 二人は闇に目を凝らし、物音を必死に聞き取ろうと耳をすませた。
ナマエはこの作戦の決行直前に、今まで父親にされた数々の虐待の内容を鬼柳に話して聞かせていた。
どのように屈辱を受けたかを精細に、なおかつ饒舌に語る彼女の姿に、彼は圧倒された。
「実の子供にここまでやる親がいる? 普通はいないよね」
「……当たり前だろ」
そうして全てを曝け出したのが、今日の夕方のこと。
ナマエとしては、相手を憎むべき相手だと理解させ、
殺しへの抵抗を薄めさせるための作戦だったのだが、あまり意味をなさなかった。
失敗した時のリスクなど考えてはいけないと、ナマエは言った。
底知れぬ度胸と覚悟を見て、鬼柳はミョウジナマエという人間への認識を改めることになった。
ずっと近くにいたのに全く気づけなかったことに、鬼柳は少し罪悪感を抱いた。
だが、ナマエにとって、それすらも計算通りのことだった。
罪悪感を植え付けて、仲間にする。
子供で、女で、弱い立場であることもいかさないとこの街では生きていけない。
暗闇の中で、男は足を引っ掛けた。
静かな廃墟に、床に打ち付けられた衝撃によって発生した音が響く。
その音を合図に、二人はその頭上から大きな石を投げ落とした。それは、運よく頭に直撃し、彼が再び立ち上がることはなかった。
あっけなく簡単に、二人の作戦は成功したのだった。
「……もう死んだ?」
「気絶してるだけかも」
ナマエは、自分の父親の顔を足で動かすと、息があるか確かめた。無防備に近づいたりはしない。その手元には刃物──鉈が握られている。
小さな少女の手には似つかない、どんなものでもぶったぎれそうな、硬い刃物。
「息はあるね。起こしたら面倒だから、縛っちゃおうか」
鬼柳とナマエは男の痩せた体を抱えて、映画で見て、学んだ通りの拘束作業に移った。
ランプのわずかな灯りの中、二人は息を潜めて作業に当たる。数十分間の格闘の後、歪ながら、殺人へ向かう作業は完成した。
「できたっ!」
大仕事をやり遂げた気分で、ナマエはつぶやいた。
鬼柳は、ナマエの手に握られた鉈を見て、これから始まることを想像し、気分が悪くなった。
正確に言えば、底知れぬ吐き気を覚えた。
「鬼柳、大丈夫?」
無口な彼を心配したナマエが、顔を覗き込む。
途端に、すっと体から痺れが引いていく。
それから、腹のそこから根拠が不明瞭な自信が湧いてくるような感覚を覚えた。
計画し、実行しようと言ったのはこいつなのに、不思議とナマエに語りかけられると、何もかもがうまくいっているように思えた。
不思議だなくらい、なんでもうまくいくような気持ちになれるのだ。
「ああ。ここまでやったんだ。最後までやろうぜ」
「うん!」
二人は男の体を荷台に乗せると、かつて下水として使われていた地下道まで人間一人を運搬した。
今からバラバラにされるとは知らず、男は気絶したまま縛られている。
それが面白いようで、ナマエは愉快そうに笑っている。
「なあ、海に埋めてもよかったんだじゃないか?」
「ダメだよ。海はずっとセキュリティが監視してる」
「あ、そうだったな」
二人はブルーシートを広げると、男の体をその上に投げ出した。後の行為は全てナマエが担当することになっている。鬼柳は、それを見届ける役目を担っていた。
「鬼柳、わたしがちゃんとするところ見ててね」
頭に狙いをつけて、鉈が振り下ろされる。
彼女は真顔で、実の父親に手をかけた。一度では上手く落とせないかと思っていたが、まるで常習犯のように、ナマエは器用に人間の首を落とした。
血は思ったよりも出なかった。
たった今、人間を殺した。
鬼柳の背筋に、冷や汗が伝った。
「これでわたしたち、共犯だね」
父親だったものを片づけ終えた後、ナマエは寂しそうにそう言った。
返り血を浴びて、前掛けが少しだけ濡れていた。
それ以外は何も変わったところはない。きっとこのまま外に出ても、誰にも怪しまれないはずだ。
鬼柳は黙って頷き、ナマエの目を見た。
黒い瞳の奥に、小さな光が宿っている。この小さな体のどこに、こんな覚悟が宿っていたのだろう。
今まで友達として接してきて、全く見抜くことのできなかった素質を、今目の当たりにしてしまっている。
少し、ナマエの瞳を見るのが恐ろしくなった。
彼女はその感情を知ってか知らずか、無邪気に鬼柳の手をとり、「手伝ってくれてありがとう」と言った。
この手で、ナマエは自分の父親を殺した。そして、自分はその手伝いをした。
セキュリティに捕まる可能性を心配したり、相手が相手なので、良心が咎めるといったような思いは彼にはなかった。
しかし、今日この日から、自分の人生の中で、殺すという選択肢が発生するようになってしまったのだ。
これの人生はずっと、その咎と向き合わざるを得なくなるだろう。
鬼柳は、ナマエも自分も、いつか誰かを手にかけることが再びないようにしようと心の中で願った。
4
例の事件から数年経ち、相変わらず二人は遊び仲間の関係をゆるやかに継続していた。
ナマエはさらに映像作品の収集に励み、時折機械のメンテナンスの仕事をしながら、自由業としてマイペースに生活を送っていた。
「デュエル? 最近その話ばっかりだよね」
ナマエは苦笑いをしながら、眼前で楽しそうにデッキ構成やモンスターについて語る鬼柳を眺めていた。
「デュエルっていうか、ナマエに頼みたいことがあってよ」
「わたしに? 何か手伝えってこと?」
「このビルをオレの仲間に貸してくれないか?」
「ここを?」
いきなりそのようなことを言われたので、ナマエは面食らって食い気味に聞き返した。鬼柳の仲間、そんな人たちがいるなどという事実も、ここで初めて聞いたことだった。
「オレが最近、デュエルのチームを作ったのは知ってるだろ?」
「それって、鬼柳の空想のお友達じゃなかったんだね」
「な、なんだよ……お前以外に知り合いくらいいるっての」
「ふーん。で、ここを貸して何をするわけ?」
それを聞くと、途端に鬼柳は目を輝かせ、よくぞ聞いてくれました! とばかりに語り出した。
「オレたちは、このサテライトを征服する!」
「……は?」
声高々にそんなことを宣言されたので、思わず吹き出しそうになった。が、鬼柳の表情は本気そのものであり、笑っては怒られそうだったので、もう一度聞き返すことにした。
「ここらではな、デュエルで縄張り争いをしてんだよ。実際見たこともあるだろ? オレたちのチームはここでてっぺんを取る! そのためにチームの居場所が必要なんだよ」
夢を宣誓した後、鬼柳は少し照れたように頭をかいた。馬鹿げた夢だとナマエは考えたが、鬼柳は自分がその野望を叶えられると心の底から信じているようだったので、態度には出さないことに決めた。
「……で、わたしに見返りは?」
「ぶんどったレアカードでもやるよ。売れば金になるだろ」
「却下。売りに行く手間があるだけですでに損してるし、カードとかもらっても嬉しくないし、確実じゃない」
「ケチだなあ、未来のサテライトのトップに対して」
「自信過剰でよろしいですね」
ナマエは、自分の居住スペースを他人に貸し出すことを渋った。鬼柳だけが特例であり、それ以外は認めないというつもりだった。
「っていうか、あいつらにもう言った」
「……なんて?」
「オレたちのアジトを作ったって、もう全員に言った」
「はああああ??」
ナマエは絶叫した。今まで聞いたことのない、本気の叫び声に、鬼柳は苦い顔をした。
「言ったって、何!? なんで決定してないのにいったわけ? バカじゃないの?」
「そう怒るなって! 元々ここだってお前の家じゃないんだし、サテライトには土地の権利なんてないじゃねえか」
「そうだけど、もうここら一帯ではこのビルはわたしの家だって決まってんの! ムサい男を入れるのも、嫌だから! 絶対嫌だから!」
「ムサくねえよ! ……まあ、全員男だけどな」
「はぁー……」
ナマエはわざとらしいため息をつきながら、少し考えるそぶりをして見せた。
鬼柳には大きな「貸し」がある。彼は絶対にそれを交渉に使おうとはしないだろうが、ナマエの中には数年前の記憶が、まだ色濃く残っている。
わたしの共犯者。
あの事件以降、二人はその話題に触れることは一切なかったが、心の奥でずっと燻っている。
ナマエは鬼柳の目を見た。真っ直ぐな瞳。今まで生きる意味のなかった彼が、ようやく目指すべき目標を見つけている。
「……」
鬼柳の目で見つめられると、なんでもどうにかなりそうな気がした。サテライト統一。それを果たした末に、彼がどのような人間に進化するのか、気にはなる。
成り行きで適当に言った夢だとしても、やらせてみてもいいかもしれない。
ナマエは保護者のような思想にまで辿り着くと、肩をすくめながらこう言った。
「しょうがないなぁ、もう。いいよ」
「えっ」
「だから、貸してあげるって言ってんの」
「マジか!? 嘘じゃないよな!」
「二言はないよ。ま、少しでも物を壊したりしたら罰金払って出て行ってもらうけどね」
鬼柳は礼を述べると、すぐさま飛び出して行った。仲間にこのことを知らせに行くため、なのだろう。
その後ろ姿を窓から見下ろし、ナマエは目を細めて微笑む。これで貸しは返せた、と彼女は考えた。
5
あれから数ヶ月が過ぎた。鬼柳が連れてきた仲間たち、もといチーム・サティスファクションのメンバーたちは、サテライトではある程度名の知れたチームとして、近辺一帯で幅を気かせているらしい。
ナマエは間接的な関わりしか持ち合わせていないのに、通りすがりに自身の噂を囁かれることが、度々あった。
ナマエこそがチーム・サティスファクションのアジトの首領であるとか、彼女が真のリーダーだとか、そういうくだらない与太話であったが、あながち間違いではない。実際に自分のビルを貸しているのは、事実なのだから。
その情報がどこから漏れ出たのか、ナマエの頭は少し痛くなった。
この街でデュエルというゲームがどれだけの影響を及ぼしているか、いやでも理解できた。
そして、そのメインストリームに自分の友人がいるということも、肌で感じることができたのだった。
彼らがアジトとしてよく出入りする廃ビルの屋上から、常に笑い声が絶えず聞こえてくる。
ナマエはその声をラジオ代わりに流し聞きながら、一人でゆっくりと仕事をこなした。時折、所蔵している映像のコレクションを眺める。
人の出入りが激しくなって、ナマエの生活も大きく変わった。鬼柳という人間のせいで、変化を余儀なくされてしまったのだ。
しかし、鬼柳を除くチーム・サティスファクションのメンバーにとってのナマエとは、顔見知りの大家兼鬼柳の友人という立ち位置で、顔を合わせれば会話はするものの、深く立ち入ってお互いのことを話すということはなかった。
ただ一人、不動遊星を除いては。
「ナマエはデュエルをやらないのか?」
「オレも誘ってみたんだけどよ、やらねえって言われた」
「そうなのか。じゃあ、鬼柳とナマエはどうやって親しくなったんだ?」
現状。不動遊星は、ナマエと二人きりで世間話をする程度の関係を構築することに成功していた。
ジャックはナマエのキッチンで勝手に珈琲を沸かして彼女の部屋を荒らしてから、屋上以外の立ち入り禁止令を食らっていて、クロウは「下手こくと鬼柳がめんどくさそうだから」と、交流は必要最低限の会話とあいさつ以外はそれとなくかわして、積極的に関わろうとはしていなかった。
こういう事情なので、鬼柳以外でナマエと話す頻度が最も高いのは遊星という風になっている。
遊星とナマエは少し波長が合うのか、機械について色々と語り合っている姿を時折見かけた。
いきなり遊星にナマエの話を持ちかけられた鬼柳は、少し驚きながらも言葉を選びながらその問いに返事をした。
「それは……オレがガキの時からの知り合いだから。このビルで一緒に遊んでたんだよ。そんだけだ」
「そうか。鬼柳はカードが好きだから、お前の友人のナマエもデュエルをするのか気になっただけだ」
遊星はそれだけ言うと、手元のデュエルディスクのメンテナンスに取りかかった。
「なあ、ナマエとデュエルしたいのか?」
「ああ」
「お前がやりたいって誘えば、ナマエもデッキくらい組むんじゃないか?」
「……鬼柳はダメで、俺ならいいのか?」
遊星が不思議そうな目で、鬼柳を見つめた。
鬼柳は、なぜ自分がこんなに冷たい口調でさっきのようなことを言ったのか、自分でも理解ができなかった。
なぜ遊星ならば、ナマエの気持ちも変わると思ったのか。
うまく納得する言葉が見つからず、喉の奥に何か引っ掛かっているような、奇妙な違和感を覚えた。
遊星は何も、鬼柳を困らせるためにこんな話題を振っているのではない。本人はただ、純粋に疑問を問いかけているだけであり、他意はない。
鬼柳は深く考えないようにし、適当に答えることにした。
「知らねえよ、なんとなく、だ」
「そうか」
再び、遊星は黙々と作業を再開する。鬼柳は手持ち無沙汰で、デッキの調整をしようとカードを広げてみたが、自分の手持ちのカードたちを見ても、いつものように発想が浮かんでこなかった。
「手が空いてたら、ちょっと手伝って欲しいんだけど」
ナマエの声がした。顔を上げて見てみれば、ちょうど階段の近くに彼女が立っていた。
「鬼柳暇そうじゃん、来てよ」
「デッキ作ってんだよ」
「それを何もやることがないっていうの」
「ちげえよ」
「あー、はいはい。そうだね、デュエル命だもんね、鬼柳は。無一文のくせに」
今にも喧嘩をはじめそうな二人を見かねた遊星が、ナマエに声をかける。
「鬼柳が無理ならオレが……」
「おっ、遊星ありがとう!
鬼柳、あんたはデッキいじってないで、ディスクのメンテくらい手伝ってあげたらいいのに……」
そう言いながら、ナマエは遊星を引っ張っていき、鬼柳は一人取り残された。
「…………」
手元にあったカードを全てケースに戻し、鬼柳は屋上への階段を上がった。
鍵の壊れた扉を開けると、机のみが置かれた殺風景な屋上が見えた。
ここらのほぼ一帯は、チーム・サティスファクションが既に制圧している。
子供の頃から変わらない光景。どこまでも続くかと思っていた街は有限で、結局のところ、自分の足で歩ける場所は限られている。
このミニチュアのような街で、高みへ上り詰めたところで、自分達の中に何が残るのだろう──
自分達の縄張りを見下ろしながら、鬼柳は大きなため息をついた。
「鬼柳から聞いたんだが、ナマエと鬼柳は昔から付き合いがあるらしいな」
遊星は、ナマエのコレクションを収めた棚を整理しながらそんな風に会話を始めた。
「そうだよ。元々ここで出会ってそれからずっとつるんでる……今で何年になるっけ……」
「そうか。じゃあ、鬼柳がどうしてデュエルを始めたか知っていたりはしないか?」
「うーん。知らない。鬼柳は自分のことをあんまり話さないんだよね」
「ああ、なるほど……」
「自分のことは全然話してくれないくせに、無駄に壮大な夢とかは話すの好きだよね、あの人。サテライト統一だー! なんて、最初に聞いた時は嘘だろって思ったけど。無駄に行動力はあるからね」
遊星の立っている場所からは、ナマエの顔は見えない。
その口調からは愚痴と自慢の中間くらいのニュアンスが感じられた。遊星は「ああ」と相槌を打ち、それに同意を示した。
「ナマエは鬼柳のことが好きなんだな」
「うん、好きだよ。恩人だし。あいつがいなかったら、わたしは多分死んでただろうね」
「……死んでいた? 物騒だな」
「サテライトではよくあることでしょ、一人ぼっちの子供が何かしらの事故で死ぬなんて、さ」
「助けられたのか? 初耳だな」
サラリと告げられた事実から、遊星は二人の間にはただならぬ関係──普通の友人同士ではないだろうということを察した。
ナマエは、そこの部分について深く語ろうとはしなかった。
「そゆこと。あ、この話は鬼柳には内緒ね。一応、二人だけの話だから」
「……ああ、わかった。それでなんだが、ナマエはデュエルはしないのか?」
「デュエルぅ!? わたしが? ……あー、んー、あいつが何か吹き込んだ?」
ナマエは微妙な表情を浮かべ、遊星の顔を見た。
そこまで妙なことを言ってしまったのか、と遊星は不安を覚えた。
あらぬ誤解を連想させてしまってはいけないので、情報の補足をしようと口を開く。
「いや、俺がナマエとデュエルしたいだけだ」
極めて真面目な表情で遊星が言うと、ナマエは再び考え込むようなそぶりを見せた。
「デュエル……わたしが、遊星と」
「相手の人となりを知るには、デュエルが一番いいと俺は思っている」
「……それって、さあ、遊星は、わたしと仲良くなりたいわけ?」
「ああ。もっとナマエのことを知りたいと思っている。それに、オレたちの知らない鬼柳のことも色々と教えてもらいたいしな」
遊星は、恥ずかしげもなくそんなセリフを言ってしまった。
瞬間、ナマエの脳みそが焼け焦げる音がした。
今まで聞いたことのないような恥ずかしいセリフに、脳の回路がエラーを起こしている。
「…………あーーーー! それってさあ、わたしを出汁に鬼柳の情報を聞きたいのか、わたしと仲良くしたいのか、どっちなのさ!?」
「両方だ」
「で、ですよねえ! アハハ、遊星ってば、紛らわしい……そんで、恥ずかしいんだけど……」
「恥ずかしい? 何がだ」
目の前で急に挙動不審になる様子を見せつけられて、遊星は、自分の方が混乱しそうになった。純粋な疑問を投げかけるが、ナマエのテンションは暴走を続ける。
「遊星の話す言葉? 単語のチョイス? そう言うのがさあ、恥ずかしいんだよね。わたしとタメなのに、なんでこっちはこんなに捻くれてるんだろ……どこで違ったんだ?」
後半に行くにつれボソボソと早口で呟くナマエの様子が落ち着くまで、遊星は何もしないことにした。
ここまで挙動不審になる彼女を、遊星は見たことがなかった。
なるほど、これが鬼柳の友人ナマエの一面なのか、と珍しい生き物を見るかのように観察していた。
「……あ、デュエルの話だったっけ」
「そうだな」
しばらくして落ち着きを取り戻したナマエは、膨大なコレクションの整理を再開させた。
「正直、わたしはデュエルには興味がないんだよね。
遊星たちには悪いけどさ、面白さがわかんないっていうか、それ以上に興味関心があるものが他にあるから、そこまで求心力がないっていうの? そういう感じ」
「ということは、デッキも持っていないのか」
「うん。珍しいでしょ? 今時子供でもカードの1枚は持ってるのにね」
「そうか。今は趣味に忙しいんだな」
「まー、そういうこと。暇ができたら一回くらいやってみてもいいかも、とは思うけどね。その時は遊星に頼もうかな」
「……? そこは鬼柳じゃないのか?」
「あいつが、ただの道楽のデュエルをやってくれるってのはないと思うんだよね。
ぜーんぶ本気だから。わたしの真剣じゃない、遊び半分の覚悟で教えてくれなんて言ったら、多分、向こうは嫌なんじゃないかな」
冷静な声で、ナマエはそう言った。
“遊びのデュエルを鬼柳は受け入れない”
確かに、彼には少し、そんなところがある。遊星は納得した。
「わたしの生半可な気持ちの興味本位のデュエルなんて、受け入れてくれないと思う」
かつてないほど真面目な表情のナマエを見て、遊星はナマエの視線の先にある、鬼柳の顔を思い浮かべた。どうやら、自分が想像しているよりも、二人はお互いのことを思い合っているらしい。
「もしいつか、ナマエがデュエルをする気になったら、鬼柳と戦えるように俺が教えよう」
「うん、じゃあその時は遊星に頼もうかな」
6
どうやら、鬼柳恭介という人間のことを、甘く見積もっていたらしい。
ナマエは激しい後悔に苛まれながら、慌ただしく動き回った。沈黙して、立ち止まっていたら死ぬかもしれないと思ったからだ。
「ナマエ」
「パクられたんでしょ、あいつ」
遊星は、低い声でそうつぶやいたナマエの顔をうまく見ることができなかった。
ここ最近、ストレスが原因でまともに寝れていない彼女の顔は、病人のように青ざめていた。
「すまない。俺がいたのに……」
「遊星は悪くないよ。セキュリティを襲ったのは、あいつの独断なんでしょ? じゃあ、それは自業自得だから」
「鬼柳がああなったのは──」
「起こったことはしょうがないよ」
ただならぬ表情で遊星が話し出したので、ナマエは思わず口を挟んだ。
しばらくの沈黙が続き、二人はお互いから目線を逸らした。重く、気まずい空気が流れる。外の雨音だけが、建物の中に響いていた。
ナマエは意を決して口を開く。
「ごめん、しばらく一人になりたい」
「……わかった」
遊星が部屋から出ていくのがわかると、ナマエはソファに寝転がり、天井を見つめた。
サテライトを統一したと嬉しそうに報告された時。思えばそれが、幸せの頂点だった。あとは、そこから転げ落ちていくだけ。
鬼柳の元から、仲間が一人、また一人と離れていく間に彼はどんどんおかしくなっていったのだ。
それを傍観して、何もしなかったせいで、こんなことになってしまったのかもしれない。
かもしれない、という言葉が渦巻いて、胸が苦しくなる。
彼は、どんな思いでいたのか。遊星に任せっきりにしていた自分の責任もある。
鬼柳がいなくなったことで、自分の中身が虚になってしまったかのように錯覚した。それだけ大切な人間を、あっけなく失ってしまった。
殺人を犯して、あの刑務所から生きて出ることはできるのだろうか。
ナマエは、サテライトの住人に対するセキュリティの冷ややかな視線を思い出し、胸を痛めた。
(わたしに一言でも相談してくれたら)
結果として、今ここに鬼柳はいない。あの冷たい監獄の中で、一人宣告を待っているのだ。
起こってしまったことは仕方ないと遊星に言ってしまったが、この事態を飲み込めておらず、受け入れられていないのはナマエも同じだった。
「……これから、どうしたらいいんだろう」
その問いに答えてくれる人間は、ここにはいなかった。ナマエはこれから、一人で生きていくことを恐れた。
この街で、小さい時からずっと二人で支えあって生きていた。支えを失ったことで、これからの人生が困難になるであろうことが、容易に想像できた。
ナマエはしばらくソファの上で横になっていた。外で降り止まない雨に耳を澄ませて、気がついたら眠りに落ちていた。
それから数時間経ち、ふと彼女は起き出した。
棚に手を伸ばし、一本のフィルムを手に取ると、映写機にセットして、スイッチを押した。
鬼柳が現れる前、彼女の孤独に寄り添ってくれたのは、いつだって映画だった。
7
遊星が廃墟から足遠くなっている間に、ナマエはどこかに消えてしまったらしい。久しぶりに元アジトに足を運んだ遊星は、そこからごっそり何もかもが消えていることを確認した。
ナマエのことを知っている人間に尋ねても、行方がわからないという返事だけが返ってきた。
廃墟は、まるで最初から何もなかったかのように静かだった。数年前まで、一人の人間が住んでいたとは思えないほど、生活の痕跡が消えていた。
埃っぽい階段を登り、かつて仲間たちと溜まり場にしていた屋上に登った。
シティとサテライトとが自由に行き来できるようになり、様子も以前とは変わっている。けれど、見下ろす景色から連想される思いは変わらない。
チーム・サティスファクションがサテライトを統一し、何でもできると信じていた時の万能感、あの地平線の向こうにも、今では行こうと思えばどこまでも行けてしまうのだ。
「……」
遊星はそこから無言で立ち去ると、愛車に跨り、ヘルメットを被った。
向かう場所は決まっている。風を切って目的の場所へと全速力で駆け抜けた。
鬼柳京介は、窓辺の自分の席に座ると、外の様子を少し眺めた。
夕暮れ時の静かな雰囲気は、かつてここで労働力を求めて争いが起こったとは思えないほど、穏やかな空気が流れていた。
サティスファクションタウンの町長に就任してからの彼の生活は多忙を極めていた。
元々無法者の多いこの町を、平和的にまとめ上げるという仕事は、予想以上に骨が折れた。
協力的な住民が細かい仕事などを請け負ってくれているが、鉱山の利権をむぐった小競り合いなどは頻出している。町の治政を行う上で問題は山積みだった。
「鬼柳さん、お客さんがいらっしゃってるんですけど……通しますか?」
事務業を手伝ってくれている町民が、そんな報告を持ってきた。
この田舎にわざわざ自分を尋ねてやってくる人間など、鬼柳には心当たりがなかった。
遊星たちはそれぞれの生活で忙しくしている。しばらくここに尋ねてくることはないはずだった。
「客か? 珍しいな。通して構わない」
鬼柳が疑問を抱きながら許可すると、すぐさま一人の人間が入室してきた。
その姿を見て、彼は思わず息を呑んだ。
「久しぶりだね、鬼柳」
「ナマエ……!」
砂塵に塗れた町には似つかない、上品そうな格好でナマエは鬼柳の目の前に現れた。数年前よりも少し身長が伸びていたが、顔つきは全く変わらない、昔のナマエそのままだった。
「まっさかあんたが村の長になってるとはねえ、全然想像つかなかったけど、意外とサマになってるじゃん。
あ、飲み物とか気遣いはいらないからね」
そう言いながら、机の真向かいにあるソファに腰掛けると、ナマエは我が物顔で自分のカバンから書類を取り出した。
「おい、何だよそれ」
「まあ、今から説明するから。それと、今日は別に友人を訪ねにきたわけじゃないからね。仕事の話をしにきた」
「仕事……?」
「そう。わたしだって、今まで何もせずに生きてきたわけじゃないんだから」
「なあ、お前これまで何をしてたんだよ」
すぐにでも仕事の話をしたがっているナマエを無視して、鬼柳は疑問を投げかけた。ナマエはフーッとため息をつくと、足を組み直した。
「シティとサテライトを結ぶ道が開通されたのは知ってるでしょ? わたし、すぐにシティに移住して会社に入ったの。で、いろいろあって、今は独立して自営業だけど」
「行動が早いんだな」
「あー、よく言われる。でも、根無草から町長に転職できた方が波瀾万丈じゃない?」
「そう言われたら何も言い返せないな」
ナマエは机いっぱいに書類を広げて、一本のペンを差し出した。
「単刀直入にいうね、ここの土地を買います。サインして」
かつて遊星と鬼柳が激闘を繰り広げた町──クラッシュタウンと呼ばれていた場所は、今では小さな共同体として、住民たちは穏やかで慎ましい暮らしを送っているようだった。
D・ホイールを停めると、遊星は鬼柳を探して歩き出した。
資源をめぐって対立していた住民たちは、お互い協力して利益を分け合うようになったらしい。そういう風に聞いていたが、それは事実らしい。
1日の仕事を終えた労働者たちが町に降りてくるが、彼らの顔には疲労感はあれど、以前のような、触れるもの全てを切り付けてしまうような敵意は感じられなかった。
しばらくそれを眺めていると、彼らの足がある一点の方向に向かっていることがわかった。
それを追いかけて歩くと、二階建ての、それなりに大きな建物に人々が吸い込まれていくのが見えた。外の看板には、ポスターが貼られている。よく見ると、それはシティで公開されたばかりの映画の広告だった。
その場から立ち去ろうとした時、一人の人間が遊星に近づいてくるのが見えた。誰かと目を凝らしていると、その人間は大きな声を上げながら、すぐ近くまで走ってきた。
「遊星! 来るなら言ってくれればよかったのに」
「……ナマエか?」
以前よりも身長の伸びたナマエが、そこにはいた。遊星の知っていたナマエは、もっと野暮ったい、ラフな格好をしていたので、そうだと気づくのに少し時間がかかったのだ。
「うん! 久しぶりだね」
「……ここで何をしているんだ?」
まさかいなくなってしまったナマエがこの場所にいるとは全く想像できなかったので、遊星は少し狼狽えながら尋ねた。聞きたいことが山のように浮かんできた。
「わたしね、ここでビジネスをしようと思って移住した」
「移住? サテライトから離れたのか?」
「ううん。前はシティに住んでた」
「そうなのか」
「ずっとシティで働いてたんだけど、ここに鬼柳がいるって聞いて、いてもたってもいられなくてさ。ここで起業したんだ。そしたら結構上手く行ってさ、あの映画館、わたしの持ち物なんだよ」
「……すごいな」
「ありがとう。あ、今日は鬼柳に会いにきたんじゃない? 今あっちで飲んでると思うよ」
ナマエが指差した先には、小さな飲み屋があった。労働者たちは、夜はここで腹を満たすのだろう。それなりの賑わいが外にいても聞こえてきた。
「ああ、わかった。ナマエも元気そうで、安心した」
「わたしも、久しぶりに遊星に会えてよかった。元気でね、またこっちにも遊びにきてね」
手を振り合って別れてから、遊星は酒場に足を運んだ。
店内は、男たちの群れで賑わっており、狭い通路をひっきりなしに料理や酒を運ぶ店員が行き来していた。ラジオからは最近のヒットチャートが流れている。ありがちな、大衆的な居酒屋だった。
鬼柳は騒がしい一団から少し離れた場所で、一人安酒を煽り、料理を口に運んでいた。
「鬼柳」
「……遊星、来たのか。座れよ、何か奢ろうか」
以前会った時よりも、表情が柔らかくなっている。遊星は鬼柳の向かいに座ると、水とオードブルを注文した。
「酒は飲まないのか」
「D・ホイールで来たんだ」
「泊まって行けよ、ベッドならある」
「……考えておこう。そうだ。さっき、ナマエと会ったんだが、彼女はずっとここにいるのか?」
「まあな。オレがここにいることを聞きつけたのか、2、3年前にやってきてから、ずっとだ」
「そうだったんだな」
「まあ、この町は何もなかったからな。あいつが来てくれて、新しい風が吹いたってやつだ」
鬼柳はそう言いながら、再びグラスに口をつけた。
周りの音がスローに聞こえる。ガヤガヤとやかましいはずなのに。遊星には、鬼柳の細い声が耳に響くように思えた。
「鬼柳、今お前は幸せか?」
「……まあな。なんだかんだ言って、オレはこの町が好きなんだ」
「ナマエは、幸せだと思うか」
「……なんだよ、お前、あいつの父親か? というか、お前から見て、どう思うんだよ」
「……わからない。サテライトにいた時も、ここにいる時も、ナマエは変わらないように見える」
遊星がそう言うと、鬼柳は少し目を見開いて、その後少し声を上げて笑った。乾いた笑い声だった。
「……そうか。そうなんだな、お前には、そう見えるんだな……」
鬼柳の目元が、少し赤くなっているのが見えた。泣いている。目が潤んで、一筋の涙が頬を伝った。
「あいつとオレは共犯者なんだよ……」
「……共犯者」
「もうずっと、縁が切れねえんだ……きっと、呪われてんだな、俺ら」
「ナマエと、離れたいのか」
「違う。そういう意味じゃねえんだけど、なんていうかな、ナマエはオレがどこに行っても、絶対に追いかけてくるんだよ。そうだ、あいつはそんなやつだった……オレたちは、離れられないんだ」
泣きながら笑う鬼柳を目の前に、遊星はどうしていいのかわからなかった。
ひとしきり泣いた後、鬼柳はコップの水を飲み干した。
「今日は、飲みすぎたかもしれねえ」
「……大丈夫か?」
「ああ、変なところ見せちまったな。…………今日のことは、あいつに言わないでいてくれないか」
「わかった。ナマエには言わない」
遊星は、次の日の早朝に町を出た。
サティスファクションタウンは、これからどう発展するのか、ナマエと鬼柳の手にかかっているのだろう。
朝焼けの中、D・ホイールを走らせると、爽やかな風が吹き抜けた。