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遊戯王
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1
昨日の夜、まさに木曜日の夜のことだった。マナーモードにしていた僕の携帯が震えて、バイブ音が車の中に響いた。
あー、今は運転中なんだよ。ちょっとタイミングが悪いなあ、なんて考えながら、僕は近くのコンビニに車を停めた。
こんな変なタイミングで電話をかけてくる相手というのは、僕の知り合いの中では一人しかいない。
絶対にそうであろうという確証を持って、僕はスマートフォンの液晶画面を見る。
着信履歴の一番上に浮かび上がっている見慣れた文字を見て、予想が当たって嬉しいような、面倒なような、複雑な感情が僕の中で渦めいた。
彼女はいつも、木曜日の夜に電話をかけてくる。
夜と大雑把に括ったのは、電話の着信音が鳴る時間が不規則だからだ。
夕方の四時に電話がくることもあれば、深夜の二時であるにも関わらず、電話をかけてくることもあった。
今日の記録は、午後六時ジャスト。帰宅ラッシュで混み合う国道を、車で走っていたところに、突然、というやつだった。
「もしもーし? さっき電話くれたよね? どうかしたのかい?」
「……明日の夜、空いてますか」
僕は普段よりも声のトーンを高くして、なるべく気にしていないというふうに、電話をとった。
彼女の少し疲れたような声と、背後に人のざわめきが聞こえてくる。
おおよそ、帰宅途中の駅か何処かからかけているのだろう。
「ああ、明日ね。明日の予定は入っていないよ」
「そうでしたか。はい、ではいつもの場所で待っています」
「うん。気をつけてね」
「はい。吹雪さんこそ、気をつけて、ください」
わかりきった会話。定型文でも決まっているかのように、彼女とは毎週、全く同じ内容の通話をしているのだ。彼女──ナマエとの電話のやりとりが始まってから、不思議と土曜日の夜に予定らしい予定が入ることはない。まるで、何らかの意思が働いているようだ──などと考えるのは、陰謀論のようだと馬鹿にされてしまうかもしれない。もしくは、運命のようだ! と言ってしまった方が僕らしいと思われるだろうか。
駐車をしたついでに、コンビニで惣菜でも買って帰ろう。僕は車を降りた。
2
僕は大体、待ち合わせする時間の十分前にはそこにいるようにと心掛けている。三十分前では早すぎるし、十五分は中途半端。五分では少し足りない気がするからだ。
僕が西改札の大きな液晶モニターの前で彼女を待っている。その間、することと言っても特になく、ただ棒立ちでそこにいるしかないのだ。
暇つぶしにSNSなんかをチェックしていても、漠然と物足りない。憂鬱と言っては大袈裟だが、似たような気分になる。
デュエルアカデミアを卒業した後、僕は同級生や後輩たちのアカウントをチェックして、時々彼ら・彼女らと連絡を取り合ったりしている。
時々、グループで飲みに行ったりもする。それぞれみんな忙しいようで、たまの会話も、仕事の愚痴や、将来への展望などが多い気がする。
僕だけがただ一人、学生時代とさほど変わらず、のらりくらりと生きているような気がするのだ。
インスタのストーリーを流し見したり、ツイートを漠然と眺める。
インターネットを見ていると、自分が今するべきことは、これではないような気がする。
起業であったり、資格の勉強であったり、そんなことに取り組んでいる人間が輝いていて、それが素晴らしいことであるかのように思い込まされるのだ。
僕は、世間から有意義であるとされることも大事だけれど、それだけでなく、愛とか恋とか、抽象的なものに熱中することや、趣味を突き詰めることも、これらの中に輝くものがあると信じてやまない。
というようなことをナマエにいうと、彼女は笑って、吹雪さん、あなた最高ですよ。といった。
実際、彼女のツイートには生活感も、映えも、仲間との思い出やボランティアやインターンの経験や、サークルの写真なんて一つもない。映画の感想をツイートするだけの、まるで機械のようなアカウントを彼女は運用しているのだ。
僕のタイムラインに並ぶ、140文字の感想文は、全て僕も鑑賞している作品たちではあるが、その中に僕の存在を匂わせるような文言や、ツイートはない。
彼女は、ツイッターの中でだけ、孤高の評論家として臨しているのだ。
僕はまた、道ゆく人たちを観察することにした。
苦痛ではない。
待ち合わせの時間を、もう30分も過ぎているが、それに文句を言うつもりはない。
本当は映画の前にランチにでも行こうと思っていたが、それは無理そうだ。
僕はただ、漠然と何もせずに彼女を待っていることが、好きなんだろう。
そんなことを考えていると、ナマエが息を切らせて走ってくる姿が見える。僕は黙って、笑顔で手を振る。
3
駅から3分も歩けば、行きつけの名画座にたどり着いた。
大きなシネコンでは上映しないようなニッチな映画であったり、名の通り過去のアカデミー賞受賞作品なんかを二本立てで上映しているような、そんな場所。
入口が地下なので、僕らは階段を降りて、分厚い扉を押し開けた。
入口までの階段の壁には、映画のポスターが所狭しと飾られていて、最新の映画から白黒の黒沢作品まで、一緒くたにされて貼られていた。
「今日は何を見る予定なのかな?」
「……夜の回しかないです」
自動券売機の画面には、ハリウッド以外の外国映画と、大学生の自主制作作品、そしてロマンポルノという奇妙なタイトルが並んでいる。
この映画館は、シアターが2つしかないので、全部の作品を入れ替え式で上映している。その中で、夜しかやっていない、というのはピンク系の映画しか見当たらない。
「……これを見るのかい?」
「はい」
「確かに、ポルノ系映画から有名になった監督もいるよねぇ」
「詳しいですね」
「まあ、ね。キミとデートするから詳しくなってしまったよ」
「ああ、そうですか……」
僕らはそれまでの繋ぎに、と別の映画のチケットを買って、そのまま劇場に入った。
休日の昼だというのに、数少ない座席の埋まり具合は微妙だった。
ナマエは自販機で買った水をグイッと飲んで、売店で購入したパンフレットに目を通した。この映画の鑑賞は、二回目だったから僕はこの映画のあらすじを全て知っている。彼女もそうだ。
別に面白くもなんともない映画、というか僕にはこの映画の面白さが全くと言っていいくらい理解できなかった。
ナマエは映画の感想を率直に言うタイプだったけど、僕は結構空気を読む、というかナマエが最高だという映画に対して、つまらないと言うのは失礼な気がして、この映画に対して何か物申すことができなかった。
いいところが全くないわけじゃない。
有名な監督の作品だし、出てくる女優は美人だし、設定もまあ、悪くない。
ネットのレビューを見てみても、賛否でいえば褒める声の方が多い。
ただ、僕にはとってつまらない映画なだけで、楽しみ方をわかっている人にとっては、最高の映画なんだろう。 ナマエがよく聞いているラジオのDJも、この作品を褒めまくっていたし……
結果として、僕はこの映画を再び見る事態に陥っている。
予告編が始まって、終わる。いつもの提供から、音楽と共に緩やかに本編に移行する。
隣を見ると、女性たちの馬鹿話を一字一句聞き逃さないように、ナマエは画面に食らいついていた。
大きな瞳の中に、スクリーンの光が反射する。
僕らはこれから2時間半ほど、この箱の中で映像を見ているしかないのだ。
正直、苦痛だった。ナマエには、決して言わないけれど。
なんとか寝ないように気をつけているけれど、どうしてもこの時間稼ぎというか、監督の趣味だと思われる長話の演出は眠気を誘う作用があるらしい。僕の瞼は重く、いつ完全に閉じられてもおかしくない。
1カット1カットが、長い。視覚的に面白い映像というわけでもなく、脚本も冗長で、とにかく、全部のシーンが長い。
僕はもう、映画なんかよりも、隣で目を輝かせているナマエの表情を観察する方に集中力を割くことにした。
人が映画を見る時というのは、思ったよりも表情がくるくると変わるものらしい。
彼女が特別そうなのか、ほかの人の顔なんて僕はジロジロ見たりしないからわからないけれど、とにかくナマエは凄惨なシーンに興奮しながら、暴力と女の馬鹿話で構成された芸術作品を、必死に見ていたのである。
4
次の上映時間までしばらく時間があったので、僕らはいったん地上に上がって、軽い食事でも取ろうと、行きつけのカフェに入った。
僕はミルクティーとサンドイッチ、ナマエはコーヒーに砂糖を入れて、キーマカレーと一緒にがっついていた。 とてもお腹が空いていたのだろう。僕は彼女の白い服にカレーのシミがつきやしないか心配で、母親のような目線でナマエを見守っていた。
大皿を空っぽにしたところで、僕らは飲み物をおかわりした。
そこでようやく、ナマエとのまともな会話が始まった。
「さいっこうでしたね、さっきの映画」
「ナマエのお気に入りだよね」
「はい。映画好きであの監督の作品を嫌いな人なんていませんよ」
「うん、この前アカデミー賞だっけ? とってたよね」
「あー、最新作ですか? わたし的には少し、微妙だったような」
「あれ、そうなんだ」
「ちょっと監督の趣味が過ぎるというか、ああいうスプラッタって、実際の事件と絡めると楽しめないんですよねぇ」
「そういうものなのかな」
「そういうものですね」
それからナマエは早口で、某監督の作品に関する評論を語り出した。
僕はそれに頷いて、時々自分の意見を述べた。
ナマエは僕の感じたことについて、否定するわけでも、肯定するわけでもなく、ただ意見として聞き入れているように見えた。
彼女の話はマシンガンだ。一つとして無駄な言葉など挟まない、評論マシーン。もう、ライターにでもなったらいいんじゃないかな。と僕は常々思う。
ナマエは確か、デュエル・モンスターズに関係する映像会社に勤めていたはずだ。
そこでは、オタク気味の彼女も居心地がいいのだろう。 僕は、ナマエから仕事の愚痴なんて一言も聞いたことがなかった。
きっとそこがすごくブラックな会社だとしても、ナマエは仕事の愚痴なんて漏らさないと思う。
そんなことに思考を割くより、映画の話をしていたいと願うだろう。
彼女は、そういう人だから。
「そういえば、アカデミアのことなんだけど」
「はい、なんでしょうか」
「僕らの出会いのことだよ。覚えてるかな」
「うーん」
ナマエは少し考えるそぶりをしたのち、「すみません」と言った。
「いや、謝らなくてもいいよ。ちょっと気になってることがあってね。少し思い出話でもしていいかな」
「いいですよ」
5
ナマエがこのことについて覚えていないと言った。その言葉を聞いて、僕は少なからずショックを受けた。
なぜかというと、僕の学生生活において、ナマエとの邂逅が与えられた衝撃は大きかったからだ。
悪い意味でなく、もちろんいい意味でなんだけれど。
僕が学園生活に復帰して、少しした頃だった。
僕は、オシリスレッドの寮の近くをのんびりと散歩していた。
その日はちょうど晴れていて、どこかで昼寝でもしたら気持ちがよさそうだな、なんて考えながら歩いていると、海岸の方に人影が見えた。
なんとなく、それが気になってしまったのだ。
僕はその人に気づかれないように、物陰からこっそり見守ることにした。
オベリスクブルーの制服を着た女子生徒──ナマエのことだ──は、何かを運んでいた。
小さな体には大き過ぎる何か──それは丸太だった。
僕は目を擦った。丸太を組み上げて、筏でも作ろうとしているらしい。
いくつもの丸太と大きな帆が、砂浜の上に広げられて、置かれていた。
ナマエは黙々と、その作業を続けている。機械のように、パターン化された動きで、どこからか伐採したのか、それとも拾ってきたのだろうか。大量の丸太を、作業員みたいな寡黙さで浜辺に運んでいたのだ。
結った髪の毛が少しほつれて、うなじには汗が光っていた。
散歩や昼寝などという目的はどこかにいってしまった。
僕はその光景に、見惚れていた。
単純に、ナマエは結構顔だちの整った女の子だったというのもあるのだけど、なぜそんな作業をしているのか、ということが気になった。
まさか、この島から脱出しようとしているのではないか。
太平洋のど真ん中にある孤島から、日本まで渡ろうとしているのではないか。
そんな壮大な浪漫を実現させようとしている面白い女子生徒。僕が嫌いなわけがないじゃないか!
たった一人で訳もなく、丸太を運んでいるわけがない。きっと、何か大いなる目的があってのことだろう。
万が一、億が一にでも、トレーニングのためにそうしているのだと言われたら、僕はもう夢を見るのはやめよう。
一種の賭けのつもりだったんだ。
それからも、ナマエは黙々と砂浜で作業を続けた。ノアが箱舟を組み立てる様を連想させる、そんなある種の神聖さを感じる光景だった。実際には、えっちらおっちら一人の女子生徒が筏を組み上げているだけなんだけど。
この島が無人島で、彼女と僕だけが漂流したみたいに静かだった。
しばらく眺めていた時だった。ナマエが派手に転んだ。自分が運んでいた丸太につまづいて、盛大に頭から砂に突っ込んだ。
その日は結構日差しが照っていて、砂もそこそこに熱を帯びていた。
ただでさえ顔を擦りむくと痛いのに、熱い砂で顔を擦って、火傷でもしていたら大変だ。
僕はいてもたってもいられなくて、木陰から飛び出して彼女の元へと駆け寄った。
「ねえキミ! 大丈夫かい!?」
ナマエはゆっくりと顔を上げた。そして、僕の顔を見るなりあからさまに傷ついたような、そんな表情をしてみせた。
「……はあ」
擦りむいた顔には、傷ができていた。
それだけではない。手のひらも、膝も何もかも、擦ってしまって怪我をしているはずだ。
それなのに、彼女は痛そうな顔一つせず、それよりも、この組立て作業を見ている人間がいたことに対して、不快感を表していたのだ。
立ち上がるのを手伝おうとした僕の手を無視して、ナマエは自分一人でよろよろと立ち上がった。そして、波打ち際まで行って、海水で自分の顔を洗った。
ロックだ。
「いったぁ!」
傷が染みて痛いのだろう。当たり前だ。彼女の綺麗な顔に、血が滲んで、傷ができているのだから。
水で傷口に入ったゴミを流すという発想は正しいのだが、海水で行っても意味がないんじゃないだろうか。
もしかして、そういうパフォーマンスなのだろうか。 親切心を無下にされたのにも関わらず、僕は彼女のことが少し好きになっていた。
「ねえ、保健室に行った方がいいと思うよ。皮が剥けてるし、女の子なんだから、顔に傷が残ったらいやじゃないのかい?」
「くだらないことを言うんですね、先輩」
ナマエはその時、すごく尖っていた。
「傷口からばい菌が入ると大変だと思うんだけどなあ」
「言われなくたって、いくつもりでした。言われたら、いく気を無くしました」
「ははっ、キミってすごく天邪鬼なんだね。面白いじゃないか」
そう言うと、ナマエは唖然としたような顔をして、黙った。
「筏を作って、トム・ソーヤみたいなことをしようとしていたのは、みんなには黙っていてあげよう。
なに、僕は約束を破るようなことはしないさ。神に誓ってもいい。だから今すぐ保健室に行って、手当をしてもらうこと!いいね」
「……見てたんですか、最初から」
「途中から、だけどね」
「天上院先輩」
「なんだい?」
「あなたって、すごく、変わってますね」
「あっはは、キミもね」
次の日、顔に大きな絆創膏を貼ったナマエの姿を、校舎で見かけることができた。
それから僕たちは、たまに会って会話するくらいの友達になった。けれど、ナマエがどうして筏を作っていたか、在学中にその理由を聞くことは叶わなかった。
6
僕がそんなふうに昔話をしてみせると、ナマエは露骨に嫌そうに「そんなこともありましたっけ」と言った。
僕はそれがおかしくてたまらなくて、声を上げて笑った。ナマエは恥ずかしそうに俯いていた。彼女の、いわゆる黒歴史を僕は語ってしまったのだ。
「吹雪さんには、恥ずかしい過去とかなさそうですもんね!」
悔しそうにそう言って、ナマエはアイスコーヒーをぐいっと飲んだ。
「そうだね、僕には尖ってた時期とかないからなあ」
「先輩って、ずっと変わらないですよね」
学校をでて、就職して、ナマエはすっかり牙を抜かれた犬のようになってしまった。
大人になるというのは、そういうことだと、僕は受け入れている。人間は変わる。そういう生き物だ。
ナマエは僕のことを変わらないというけれど、実際変わらない人間なんているのだろうか。
僕がただ一人、あの学校で成人した生徒だったから、そこから変わっていないように見えるだけだったのではないか。
「先輩? ちょっと、聞いてますか?」
僕は相当な時間黙って考えていたらしい。ナマエは不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「いや、なんでもないよ。ちょっと考えていただけだよ」
「そうですか。ここも長居しちゃったし、そろそろ出ませんか?」
「そうだね。ああ、会計は僕が」
「奢られちゃいました」
「そこはちょっとくらい遠慮の心を見せてくれよ」
「わたしの黒歴史を弄った罰です」
「あはは、ごめんってば」
7
例の映画の開場時刻まで、僕らはいつものように古書店をめぐったり、狭っ苦しい路地裏を探検したりした。ナマエはこうしていると、年相応の、ちょっとサブカルかぶれの普通の女の子に見えた。
サッカーの試合が見れるバーに行って、食べログで評価のよかった、高い燻製料理を食べた。
周りの大学生、僕らとたいして年の変わらない人たちが騒がしかったので、腹を少し満たすと、そこから退散した。わかりきったことだった。
こういう場所は、騒げるから騒ぎたい人しか来ないのだ。
ナマエもそれはわかっていただろうけど、会計を終えて店の扉を閉めた後、やっぱりサッカーなんて見る人間はやかましい、民度が低いと悪口を言った。
映画館に行って、ペアのチケットを見せた。
いつもの2番シアターには、仕事帰りと思わしきスーツ姿の男性と、よくわからない、個性的な格好をした中年の男性、映画マニアっぽい若い女性と、僕らだけしか座っていなかった。
知らない人から見たら、僕らはカップルでエロ映画を見る変な奴らに見えるだろう。けど実際は、ナマエと僕はそういう関係ではなく、ただ連れ立ってエロ映画を見ている人間というだけだった。そっちの方がよっぽどおかしい。
ナマエ含め、アダルト映画を見る観客は異様に静かで、落ち着き払っていた。これから、男女の裸であるとか、下品なジョークであるとか、アングラ感漂うカルト映画が始まるというのに、そうだとは思えなかった。
そこにはある種の、神聖な空気感があった。
これからどんなに下品なシーンがあろうが、笑ってはいけない、興奮してはいけない。そういうコントの始まるみたいだった。
短い予告が終わって、二本立ての一本目が始まった。監督が女性の裸を撮りたいがために作ったような、脚本も構成もないような映画だった。ナマエは笑っていた。
二本目。サスペンス仕立ての、ちょっと金田一風味の映画。ただしエロあり。血飛沫の中で情事に耽る男女の群れはシュールだった。僕は思わず、吹き出してしまったくらいだ。ナマエは笑っていた。
エンドロールが流れ終わって、場内の明かりが再び点灯した。僕が立ち上がって、上着を羽織り出しても、そこにしがみつくようにナマエは椅子に座っていた。
「そろそろ出ようよ」
僕がそう促しても、ナマエは5分くらい、そこに座ったままだった。
何を考えているのか、よくわからない目をして、何もうつっていないスクリーンを眺めていた。
よく表情を伺おうと、僕が顔を覗いた時にやっとナマエは立ち上がって、早歩きで劇場を出た。
僕の足ですらついていくのがやっとというくらいの、早歩きというより、もう走っているといったくらいが適切かもしれない。
僕は走るナマエを追いかけて、手を掴んだ。ナマエは泣きながら、笑っていた。
8
ナマエと僕は、コンビニに寄った。ナマエは酎ハイをしこたま買い込んで、僕の方は、そういえば色々となくなりかけていた乾電池と電球のことを思い出して、それを買った。
ナマエが飲酒するところを、今まで一度だって見たことなかった。改めて、僕は彼女がもう大人になっていたということに驚いた。
ビニール袋にレモンハイの缶と、朝食べるのかもしれない、ブルガリアヨーグルトのプレーン味が、彼女の精神性を表しているように見えた。
僕はナマエに手を引かれ、よくわからない道を歩いた。時刻は夜の10時を過ぎようとしていた。
「僕はどこに行こうとしているのかな」
「うちです」
「うちって、キミの家かい?」
「それ以外、どこへ行こうって言うんですか」
僕の意見なんて、最初からないみたいだった。
ナマエと手を繋いだのも、これが初めてだったと言うのに、僕はそれに気づくのにしばらく時間を要した。
駅から10分も歩くと、そこはもう普通の住宅街の様相をしていた。
ここがそういう町であることを、全く知らなかった。 そもそも、ここがナマエの家の最寄り駅であることも、そこそこ長い付き合いの中で、今はじめて知ったことだった。
おそらく、ナマエは僕を自分の家に連れ込もうとしている。そして僕は、それに抵抗を示そうとしていない。 これは、危ない状況なのではないだろうか。もっと、警戒すべきだと思う。
なんだかここで、騒ぐのも恥ずかしかったので僕は黙っていたけれど、これは僕の同意をとっていない行為で、大袈裟な言い方をしてみれば、誘拐と大差ないことなのだろう。
なぜか僕は、これからどうなっても構わないと、うっすら思ってしまっている。
というか、諦めている。ナマエの見えない地雷を踏むのが怖かった、というのもあるのだけど、とうとうこの時が来たのだと、覚悟を決めろということなのかもしれないと、受け入れはじめていた。
コーポxxxと書かれた小さなアパートが、ナマエの家らしい。
階段で2階まで上がると、ナマエは郵便受けの中から鍵を取り出して、鍵穴に嵌めた。
うまくハマらないせいで、鍵穴からひどい音がする。 そもそも、郵便受けに鍵を入れて要るというのが不用心だ。
注意したいのだけど、グッと堪えた。
「それ、僕がやろうか」
「……」
ナマエは黙って、僕に鍵を差し出した。眠そうな顔をしていた。
鍵は、少しだけ変わった形をしていた。
僕が差し込むと、あっさりとロックが外れた。
ナマエは無言で扉を開けて、狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて、コートも床に放り出してしまうと、リビング兼ダイニングになっている居間の電気をつけた。
ナマエが入っていいと言ったので、僕も靴を脱いで、ついでに彼女のスニーカーを揃えてあげてから、ナマエの居住スペースへと足を踏み入れた。
中は狭く、一人暮らしの人間がかろうじて生活できるくらいの広さしかなかった。
けれど、物があらゆるところに溢れて、整理整頓なんて全くできていない。
ベッドの上には、脱いだ服がそのまま置かれているし、流しには洗い物が溜まっていた。
ナマエは靴下まで脱いでしまうと、フローリングに腰を下ろして酎ハイの缶を開けた。
「吹雪さん、こっちきてくださいよ」
有無を言わさないような口調に、僕は従うしかない。彼女のちょうど向かい側に座ると、ナマエは黙ってもう一本の缶を差し出した。
「飲んでいいの?」
「どーぞ、お好きに」
断るのもなんだかなあ、と思ったので、僕はありがたくそれを頂戴することにした。
すっかりくつろぎモードに入ったナマエは、テレビのリモコンでチャンネルを次々切り替えながら、時々酒を煽った。
僕は黙って、それを眺めていた。
深夜の番組は大して面白くもなんともなかった。
それよりも、僕はナマエの様子を伺うことにのみ気を取られていたので、全くそれどころではなかった。
コマーシャルに入ると、唐突にナマエが口を開いた。
「高校の時、なんですけど……今日言ってたアレ、の話、わたしが、浜辺にいたときの、アレ……」
何を言い出すのかと思って警戒していたが、思いもよらない話題が飛び出してきたので、思わず缶を握りつぶしそうになった。
「映画を、見に行きたかったんです」
「映画……」
「馬鹿みたいな話ですよね、あんな海の真ん中から、筏で本州まで渡って、映画を見に行くだなんて」
必死な表情で木を組み上げるナマエの顔を、再び思い出した。
あの日、ちっぽけな手作りの船で海を渡ろうとしていた少女の面影が、今のナマエにまだ残っているのだろうか。
「どうしても、見に行きたかったんですよ。好きな映画だから、スクリーンで見たかった……結局、ダメだったんですけどね。まあ、当たり前か」
「でも、僕と出会えたじゃないか」
「吹雪さんってそういうところがありますよね」
「うん、僕の良いところだからね……でもどうして、昔の話をするんだい? 自分で黒歴史って言ってたじゃないか」
「つまらなかったんですよ。映画が」
「えっ」
「今日見た映画、どうしても見たかったやつなんです。見たけど、すっごいクソ映画、でした。つまんなくって、泣けるくらい……」
ケラケラ笑いながら、ナマエはそう言った。
僕の方はというと、一緒になって笑うわけにもいかず、ホアキン・フェニックスの演じたジョーカーみたいな、ナマエの乾いた笑い声を聞いて、ただ呆然としているだけだった。
「クソ映画……」
あれだけ褒めちぎっていた映画なのに? なんでそんなことを。そう言おうとした時だった。
「でも、クソ映画って、最高……」
光悦とした表情で、ナマエはそう言った。好意の反対は無関心。そんな言葉を思い出した。
ナマエは飲み終わった缶をゴミ箱に投げ入れたかと思うと、リモコンでテレビの電源を切った。
古いテレビは、ブチっという音を立てて画面を暗転させた。
彼女は僕の隣に腰を落ち着かせた。
口は酒臭かったけれど、洗剤のフローラルな香りと、ナマエの体臭が混じって、なんだか女性の匂い──のようなものがした。
今から何が起こるか、僕は身構えた。
ついにこの時が来てしまったのか。
今日だけで、僕はいくつもの階段を登るんだろう。
もしかして、僕が知らないだけでナマエは、もうすでに僕の知らない男と、そういうことをしているのかもしれない。
彼女も大人なのだから、なんの意味もなく部屋に異性を連れ込む、というようなことはしないはずだ。
大きな二つの目で見つめられて、心臓がうるさく高鳴った。
僕は、僕らはどうなってしまうのだろう。抵抗らしい抵抗もできないまま、僕は後輩の女の子に、食われてしまうのか。
「吹雪、先輩」
目線の定まらないナマエが、そう言って僕に抱きついてきた。僕はゴクリと唾を飲み込んだところで、ナマエは盛大に、嘔吐した。
9
僕のよそ行きの服に盛大に嘔吐したナマエは、悪びれる様子もなく、そのまま気持ちよさそうに眠った。
僕は洗面所に行って服を脱ぎ、これからどうしようかと考えて、家に帰るべきか迷った末に、ナマエが起きるまで待っていようという結論に至った。
そして、朝になった。
「……」
「昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」
「……半分、くらい」
上半身裸の僕と、頭痛を訴えるナマエが向き合った。 結局、僕らの間には何もやましいことなど起こらず、ナマエが酔って吐いたということだけを簡潔に伝えた。彼女は何度も頭を下げた。
「すみません……ほんっとうに、ごめんなさい。後でクリーニングに出して、お返ししますので……」
見ているこっちが哀れに感じるくらい、ナマエは頭を下げ、懇切丁寧に謝った。
それは謝り慣れている人間の、謝罪の仕方に思えた。
これがミョウジナマエの──彼女の本質なのだと、たった今僕は理解した。
「ナマエ、もういいから。大丈夫だよ」
昨日のことが嘘のようだった。彼女はすっかり沈殿してしまい、小さく縮こまっているように見えた。
「すみません。わたし、本当にどうかしてたんです」
ナマエの瞳には、かつてのような溌剌とした光はなく、一見して同じ人間なのかと疑うほどの変貌があった。
僕はどうしようもなく、悲しくなった。
結局、僕は彼女に勝手な期待をかけて、一人で裏切られたような気持ちになっているだけだ。誰が悪いのではなく、僕だけの問題だった。
けれど、枯れた花のようなナマエのことを、僕は決して見捨てられないし、手放してしまおうという気持ちにはなれなかった。
あれだけ切れるナイフのような威勢の良さと、誰にも頼らずに生きていますっていう顔をしていたのに、僕だけに甘えるナマエが、本性をあらわにしたところで、それは僕にとって都合が良くなるだけで、むしろ、他の人間にこんな顔を見せていたと考えるだけで、不愉快だった。
「大丈夫だよ」
もう何に対して大丈夫と言っているのか、自分でもよくわからなかったけれど、そう言うしかなかった。
しばらくそうしていると、ナマエはすっかり落ち着いて、機械のように謝り倒すことも無くなった。
「吹雪さんって、優しいですよね」
僕が遅い朝食を作っていると、ナマエがそういった。 優しい。
確かに、僕はお節介なところがあるのかもしれない。そう言うと、ナマエは笑った。
「他人に尽くすって、才能なんだと思います。わたしは吹雪さんに甘えっぱなしだから……」
空き缶や、ゴミの溜まったシンクを見ながら、僕は少し苦笑いをする。
「仕事、大変なの?」
「うーん、結構、しんどいかも」
「ついでに片付けちゃおうかな」
「あー、助かります。すみません……ったぁ!」
ナマエは立ち上がって手伝いにこようとしてくれたけど、急に立ち上がったので、頭に激痛が走ったようだった。
「そこに座ってて、いいから」
「はい……」
まるで僕が主婦みたいだ。日曜日の朝、うららかな気温。ここだけ見ていると、ドラマのワンシーンのようだった。
ナマエは僕に視線を寄せて、じっと見ていた。まるで子供のようで、それをかわいいと思った。
僕が乾いたシャツを着て、家を出ようとした時、ナマエがふと僕の手を掴んだ。
「どうしたの?」
「……またうち、来てください」
「それって、家政婦ってこと?」
「な、何言ってるんですかっ! 家事だって、ちゃんとできるし……」
「仕事が忙しくて、何もできてないのに?」
「じゃあ、やめようかな……」
「キミってすごく極端だよね」
ナマエは照れたように笑った。今まで見たことのない表情だった。
「吹雪さんってわたしのこと、好きですよね」
「嫌いな相手に、ここまで尽くさないと思うよ」
10
ナマエはそれからしばらくして、勤めていた会社をやめた。本人は、ケロッとした顔で映画の配給会社に転職して、忙しい日々を過ごしているみたいだった。
彼女のツイッターでの饒舌さに変わりはなく、僕もそれを見て、なんとなく安心するのだった。やっぱり、人間という生き物はちょっとやそっとで根っこがぶれるような繊細なものではないのだと。
「この前一緒にエロ映画を見たの、覚えてる? あの時、ちょっと引かれるかもーって思っちゃったんだよね」
毎週金曜にかかってくる電話の内容は、以前の定型文から、人間らしい会話へと変化していった。お互い段々忙しくなって、土曜に会う習慣は減っていったけれど。
「あれってタクシードライバーの真似?」
「えっへへへ」
彼女の愛してやまないカルト映画の名前を出すと、ごまかすように笑われた。
ナマエは僕のことを、さん付けで呼ばなくなった。敬語も外れた。
いつからというのは定かでなく、自然とそうなっていた。
あの、腐りきった花のような甘い雰囲気は、彼女の中から消え去った。
あれは一種の悪夢のような、病んだ匂いだった。憑き物が落ちたみたいに、現在の彼女は身軽だ。
その代わり、ナマエは新しい葉をつけた若々しい新緑のように、伸び伸びとしている。
結局、変わらないのは僕だけだったということ、だ。
「今度試写会に行くんだけど、チケットいります?」
「二本立て上映だっけ、すごいね」
「監督がそうじゃないと劇場公開しないって譲らなくって! 大手のシネコンでは断られたけど、小劇場だけでも配給できそうで、よかったなあって」
彼女の輝かしいキャリアの中に、この一件も刻まれるのだろう。
自分のことのように、誇らしく思う。
時々、あの頃のナマエが恋しくなるけれど、それは不健全なことだ。花を蕾のままで手折ってしまうようなことを、僕は望まない。
「あ、そろそろ始まっちゃう!」
ナマエはコートのポケットから半券を取り出して、急足でスクリーンへと向かう。
そうして、再び幕が上がる。僕が望もうとも、望まざるとも。
昨日の夜、まさに木曜日の夜のことだった。マナーモードにしていた僕の携帯が震えて、バイブ音が車の中に響いた。
あー、今は運転中なんだよ。ちょっとタイミングが悪いなあ、なんて考えながら、僕は近くのコンビニに車を停めた。
こんな変なタイミングで電話をかけてくる相手というのは、僕の知り合いの中では一人しかいない。
絶対にそうであろうという確証を持って、僕はスマートフォンの液晶画面を見る。
着信履歴の一番上に浮かび上がっている見慣れた文字を見て、予想が当たって嬉しいような、面倒なような、複雑な感情が僕の中で渦めいた。
彼女はいつも、木曜日の夜に電話をかけてくる。
夜と大雑把に括ったのは、電話の着信音が鳴る時間が不規則だからだ。
夕方の四時に電話がくることもあれば、深夜の二時であるにも関わらず、電話をかけてくることもあった。
今日の記録は、午後六時ジャスト。帰宅ラッシュで混み合う国道を、車で走っていたところに、突然、というやつだった。
「もしもーし? さっき電話くれたよね? どうかしたのかい?」
「……明日の夜、空いてますか」
僕は普段よりも声のトーンを高くして、なるべく気にしていないというふうに、電話をとった。
彼女の少し疲れたような声と、背後に人のざわめきが聞こえてくる。
おおよそ、帰宅途中の駅か何処かからかけているのだろう。
「ああ、明日ね。明日の予定は入っていないよ」
「そうでしたか。はい、ではいつもの場所で待っています」
「うん。気をつけてね」
「はい。吹雪さんこそ、気をつけて、ください」
わかりきった会話。定型文でも決まっているかのように、彼女とは毎週、全く同じ内容の通話をしているのだ。彼女──ナマエとの電話のやりとりが始まってから、不思議と土曜日の夜に予定らしい予定が入ることはない。まるで、何らかの意思が働いているようだ──などと考えるのは、陰謀論のようだと馬鹿にされてしまうかもしれない。もしくは、運命のようだ! と言ってしまった方が僕らしいと思われるだろうか。
駐車をしたついでに、コンビニで惣菜でも買って帰ろう。僕は車を降りた。
2
僕は大体、待ち合わせする時間の十分前にはそこにいるようにと心掛けている。三十分前では早すぎるし、十五分は中途半端。五分では少し足りない気がするからだ。
僕が西改札の大きな液晶モニターの前で彼女を待っている。その間、することと言っても特になく、ただ棒立ちでそこにいるしかないのだ。
暇つぶしにSNSなんかをチェックしていても、漠然と物足りない。憂鬱と言っては大袈裟だが、似たような気分になる。
デュエルアカデミアを卒業した後、僕は同級生や後輩たちのアカウントをチェックして、時々彼ら・彼女らと連絡を取り合ったりしている。
時々、グループで飲みに行ったりもする。それぞれみんな忙しいようで、たまの会話も、仕事の愚痴や、将来への展望などが多い気がする。
僕だけがただ一人、学生時代とさほど変わらず、のらりくらりと生きているような気がするのだ。
インスタのストーリーを流し見したり、ツイートを漠然と眺める。
インターネットを見ていると、自分が今するべきことは、これではないような気がする。
起業であったり、資格の勉強であったり、そんなことに取り組んでいる人間が輝いていて、それが素晴らしいことであるかのように思い込まされるのだ。
僕は、世間から有意義であるとされることも大事だけれど、それだけでなく、愛とか恋とか、抽象的なものに熱中することや、趣味を突き詰めることも、これらの中に輝くものがあると信じてやまない。
というようなことをナマエにいうと、彼女は笑って、吹雪さん、あなた最高ですよ。といった。
実際、彼女のツイートには生活感も、映えも、仲間との思い出やボランティアやインターンの経験や、サークルの写真なんて一つもない。映画の感想をツイートするだけの、まるで機械のようなアカウントを彼女は運用しているのだ。
僕のタイムラインに並ぶ、140文字の感想文は、全て僕も鑑賞している作品たちではあるが、その中に僕の存在を匂わせるような文言や、ツイートはない。
彼女は、ツイッターの中でだけ、孤高の評論家として臨しているのだ。
僕はまた、道ゆく人たちを観察することにした。
苦痛ではない。
待ち合わせの時間を、もう30分も過ぎているが、それに文句を言うつもりはない。
本当は映画の前にランチにでも行こうと思っていたが、それは無理そうだ。
僕はただ、漠然と何もせずに彼女を待っていることが、好きなんだろう。
そんなことを考えていると、ナマエが息を切らせて走ってくる姿が見える。僕は黙って、笑顔で手を振る。
3
駅から3分も歩けば、行きつけの名画座にたどり着いた。
大きなシネコンでは上映しないようなニッチな映画であったり、名の通り過去のアカデミー賞受賞作品なんかを二本立てで上映しているような、そんな場所。
入口が地下なので、僕らは階段を降りて、分厚い扉を押し開けた。
入口までの階段の壁には、映画のポスターが所狭しと飾られていて、最新の映画から白黒の黒沢作品まで、一緒くたにされて貼られていた。
「今日は何を見る予定なのかな?」
「……夜の回しかないです」
自動券売機の画面には、ハリウッド以外の外国映画と、大学生の自主制作作品、そしてロマンポルノという奇妙なタイトルが並んでいる。
この映画館は、シアターが2つしかないので、全部の作品を入れ替え式で上映している。その中で、夜しかやっていない、というのはピンク系の映画しか見当たらない。
「……これを見るのかい?」
「はい」
「確かに、ポルノ系映画から有名になった監督もいるよねぇ」
「詳しいですね」
「まあ、ね。キミとデートするから詳しくなってしまったよ」
「ああ、そうですか……」
僕らはそれまでの繋ぎに、と別の映画のチケットを買って、そのまま劇場に入った。
休日の昼だというのに、数少ない座席の埋まり具合は微妙だった。
ナマエは自販機で買った水をグイッと飲んで、売店で購入したパンフレットに目を通した。この映画の鑑賞は、二回目だったから僕はこの映画のあらすじを全て知っている。彼女もそうだ。
別に面白くもなんともない映画、というか僕にはこの映画の面白さが全くと言っていいくらい理解できなかった。
ナマエは映画の感想を率直に言うタイプだったけど、僕は結構空気を読む、というかナマエが最高だという映画に対して、つまらないと言うのは失礼な気がして、この映画に対して何か物申すことができなかった。
いいところが全くないわけじゃない。
有名な監督の作品だし、出てくる女優は美人だし、設定もまあ、悪くない。
ネットのレビューを見てみても、賛否でいえば褒める声の方が多い。
ただ、僕にはとってつまらない映画なだけで、楽しみ方をわかっている人にとっては、最高の映画なんだろう。 ナマエがよく聞いているラジオのDJも、この作品を褒めまくっていたし……
結果として、僕はこの映画を再び見る事態に陥っている。
予告編が始まって、終わる。いつもの提供から、音楽と共に緩やかに本編に移行する。
隣を見ると、女性たちの馬鹿話を一字一句聞き逃さないように、ナマエは画面に食らいついていた。
大きな瞳の中に、スクリーンの光が反射する。
僕らはこれから2時間半ほど、この箱の中で映像を見ているしかないのだ。
正直、苦痛だった。ナマエには、決して言わないけれど。
なんとか寝ないように気をつけているけれど、どうしてもこの時間稼ぎというか、監督の趣味だと思われる長話の演出は眠気を誘う作用があるらしい。僕の瞼は重く、いつ完全に閉じられてもおかしくない。
1カット1カットが、長い。視覚的に面白い映像というわけでもなく、脚本も冗長で、とにかく、全部のシーンが長い。
僕はもう、映画なんかよりも、隣で目を輝かせているナマエの表情を観察する方に集中力を割くことにした。
人が映画を見る時というのは、思ったよりも表情がくるくると変わるものらしい。
彼女が特別そうなのか、ほかの人の顔なんて僕はジロジロ見たりしないからわからないけれど、とにかくナマエは凄惨なシーンに興奮しながら、暴力と女の馬鹿話で構成された芸術作品を、必死に見ていたのである。
4
次の上映時間までしばらく時間があったので、僕らはいったん地上に上がって、軽い食事でも取ろうと、行きつけのカフェに入った。
僕はミルクティーとサンドイッチ、ナマエはコーヒーに砂糖を入れて、キーマカレーと一緒にがっついていた。 とてもお腹が空いていたのだろう。僕は彼女の白い服にカレーのシミがつきやしないか心配で、母親のような目線でナマエを見守っていた。
大皿を空っぽにしたところで、僕らは飲み物をおかわりした。
そこでようやく、ナマエとのまともな会話が始まった。
「さいっこうでしたね、さっきの映画」
「ナマエのお気に入りだよね」
「はい。映画好きであの監督の作品を嫌いな人なんていませんよ」
「うん、この前アカデミー賞だっけ? とってたよね」
「あー、最新作ですか? わたし的には少し、微妙だったような」
「あれ、そうなんだ」
「ちょっと監督の趣味が過ぎるというか、ああいうスプラッタって、実際の事件と絡めると楽しめないんですよねぇ」
「そういうものなのかな」
「そういうものですね」
それからナマエは早口で、某監督の作品に関する評論を語り出した。
僕はそれに頷いて、時々自分の意見を述べた。
ナマエは僕の感じたことについて、否定するわけでも、肯定するわけでもなく、ただ意見として聞き入れているように見えた。
彼女の話はマシンガンだ。一つとして無駄な言葉など挟まない、評論マシーン。もう、ライターにでもなったらいいんじゃないかな。と僕は常々思う。
ナマエは確か、デュエル・モンスターズに関係する映像会社に勤めていたはずだ。
そこでは、オタク気味の彼女も居心地がいいのだろう。 僕は、ナマエから仕事の愚痴なんて一言も聞いたことがなかった。
きっとそこがすごくブラックな会社だとしても、ナマエは仕事の愚痴なんて漏らさないと思う。
そんなことに思考を割くより、映画の話をしていたいと願うだろう。
彼女は、そういう人だから。
「そういえば、アカデミアのことなんだけど」
「はい、なんでしょうか」
「僕らの出会いのことだよ。覚えてるかな」
「うーん」
ナマエは少し考えるそぶりをしたのち、「すみません」と言った。
「いや、謝らなくてもいいよ。ちょっと気になってることがあってね。少し思い出話でもしていいかな」
「いいですよ」
5
ナマエがこのことについて覚えていないと言った。その言葉を聞いて、僕は少なからずショックを受けた。
なぜかというと、僕の学生生活において、ナマエとの邂逅が与えられた衝撃は大きかったからだ。
悪い意味でなく、もちろんいい意味でなんだけれど。
僕が学園生活に復帰して、少しした頃だった。
僕は、オシリスレッドの寮の近くをのんびりと散歩していた。
その日はちょうど晴れていて、どこかで昼寝でもしたら気持ちがよさそうだな、なんて考えながら歩いていると、海岸の方に人影が見えた。
なんとなく、それが気になってしまったのだ。
僕はその人に気づかれないように、物陰からこっそり見守ることにした。
オベリスクブルーの制服を着た女子生徒──ナマエのことだ──は、何かを運んでいた。
小さな体には大き過ぎる何か──それは丸太だった。
僕は目を擦った。丸太を組み上げて、筏でも作ろうとしているらしい。
いくつもの丸太と大きな帆が、砂浜の上に広げられて、置かれていた。
ナマエは黙々と、その作業を続けている。機械のように、パターン化された動きで、どこからか伐採したのか、それとも拾ってきたのだろうか。大量の丸太を、作業員みたいな寡黙さで浜辺に運んでいたのだ。
結った髪の毛が少しほつれて、うなじには汗が光っていた。
散歩や昼寝などという目的はどこかにいってしまった。
僕はその光景に、見惚れていた。
単純に、ナマエは結構顔だちの整った女の子だったというのもあるのだけど、なぜそんな作業をしているのか、ということが気になった。
まさか、この島から脱出しようとしているのではないか。
太平洋のど真ん中にある孤島から、日本まで渡ろうとしているのではないか。
そんな壮大な浪漫を実現させようとしている面白い女子生徒。僕が嫌いなわけがないじゃないか!
たった一人で訳もなく、丸太を運んでいるわけがない。きっと、何か大いなる目的があってのことだろう。
万が一、億が一にでも、トレーニングのためにそうしているのだと言われたら、僕はもう夢を見るのはやめよう。
一種の賭けのつもりだったんだ。
それからも、ナマエは黙々と砂浜で作業を続けた。ノアが箱舟を組み立てる様を連想させる、そんなある種の神聖さを感じる光景だった。実際には、えっちらおっちら一人の女子生徒が筏を組み上げているだけなんだけど。
この島が無人島で、彼女と僕だけが漂流したみたいに静かだった。
しばらく眺めていた時だった。ナマエが派手に転んだ。自分が運んでいた丸太につまづいて、盛大に頭から砂に突っ込んだ。
その日は結構日差しが照っていて、砂もそこそこに熱を帯びていた。
ただでさえ顔を擦りむくと痛いのに、熱い砂で顔を擦って、火傷でもしていたら大変だ。
僕はいてもたってもいられなくて、木陰から飛び出して彼女の元へと駆け寄った。
「ねえキミ! 大丈夫かい!?」
ナマエはゆっくりと顔を上げた。そして、僕の顔を見るなりあからさまに傷ついたような、そんな表情をしてみせた。
「……はあ」
擦りむいた顔には、傷ができていた。
それだけではない。手のひらも、膝も何もかも、擦ってしまって怪我をしているはずだ。
それなのに、彼女は痛そうな顔一つせず、それよりも、この組立て作業を見ている人間がいたことに対して、不快感を表していたのだ。
立ち上がるのを手伝おうとした僕の手を無視して、ナマエは自分一人でよろよろと立ち上がった。そして、波打ち際まで行って、海水で自分の顔を洗った。
ロックだ。
「いったぁ!」
傷が染みて痛いのだろう。当たり前だ。彼女の綺麗な顔に、血が滲んで、傷ができているのだから。
水で傷口に入ったゴミを流すという発想は正しいのだが、海水で行っても意味がないんじゃないだろうか。
もしかして、そういうパフォーマンスなのだろうか。 親切心を無下にされたのにも関わらず、僕は彼女のことが少し好きになっていた。
「ねえ、保健室に行った方がいいと思うよ。皮が剥けてるし、女の子なんだから、顔に傷が残ったらいやじゃないのかい?」
「くだらないことを言うんですね、先輩」
ナマエはその時、すごく尖っていた。
「傷口からばい菌が入ると大変だと思うんだけどなあ」
「言われなくたって、いくつもりでした。言われたら、いく気を無くしました」
「ははっ、キミってすごく天邪鬼なんだね。面白いじゃないか」
そう言うと、ナマエは唖然としたような顔をして、黙った。
「筏を作って、トム・ソーヤみたいなことをしようとしていたのは、みんなには黙っていてあげよう。
なに、僕は約束を破るようなことはしないさ。神に誓ってもいい。だから今すぐ保健室に行って、手当をしてもらうこと!いいね」
「……見てたんですか、最初から」
「途中から、だけどね」
「天上院先輩」
「なんだい?」
「あなたって、すごく、変わってますね」
「あっはは、キミもね」
次の日、顔に大きな絆創膏を貼ったナマエの姿を、校舎で見かけることができた。
それから僕たちは、たまに会って会話するくらいの友達になった。けれど、ナマエがどうして筏を作っていたか、在学中にその理由を聞くことは叶わなかった。
6
僕がそんなふうに昔話をしてみせると、ナマエは露骨に嫌そうに「そんなこともありましたっけ」と言った。
僕はそれがおかしくてたまらなくて、声を上げて笑った。ナマエは恥ずかしそうに俯いていた。彼女の、いわゆる黒歴史を僕は語ってしまったのだ。
「吹雪さんには、恥ずかしい過去とかなさそうですもんね!」
悔しそうにそう言って、ナマエはアイスコーヒーをぐいっと飲んだ。
「そうだね、僕には尖ってた時期とかないからなあ」
「先輩って、ずっと変わらないですよね」
学校をでて、就職して、ナマエはすっかり牙を抜かれた犬のようになってしまった。
大人になるというのは、そういうことだと、僕は受け入れている。人間は変わる。そういう生き物だ。
ナマエは僕のことを変わらないというけれど、実際変わらない人間なんているのだろうか。
僕がただ一人、あの学校で成人した生徒だったから、そこから変わっていないように見えるだけだったのではないか。
「先輩? ちょっと、聞いてますか?」
僕は相当な時間黙って考えていたらしい。ナマエは不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「いや、なんでもないよ。ちょっと考えていただけだよ」
「そうですか。ここも長居しちゃったし、そろそろ出ませんか?」
「そうだね。ああ、会計は僕が」
「奢られちゃいました」
「そこはちょっとくらい遠慮の心を見せてくれよ」
「わたしの黒歴史を弄った罰です」
「あはは、ごめんってば」
7
例の映画の開場時刻まで、僕らはいつものように古書店をめぐったり、狭っ苦しい路地裏を探検したりした。ナマエはこうしていると、年相応の、ちょっとサブカルかぶれの普通の女の子に見えた。
サッカーの試合が見れるバーに行って、食べログで評価のよかった、高い燻製料理を食べた。
周りの大学生、僕らとたいして年の変わらない人たちが騒がしかったので、腹を少し満たすと、そこから退散した。わかりきったことだった。
こういう場所は、騒げるから騒ぎたい人しか来ないのだ。
ナマエもそれはわかっていただろうけど、会計を終えて店の扉を閉めた後、やっぱりサッカーなんて見る人間はやかましい、民度が低いと悪口を言った。
映画館に行って、ペアのチケットを見せた。
いつもの2番シアターには、仕事帰りと思わしきスーツ姿の男性と、よくわからない、個性的な格好をした中年の男性、映画マニアっぽい若い女性と、僕らだけしか座っていなかった。
知らない人から見たら、僕らはカップルでエロ映画を見る変な奴らに見えるだろう。けど実際は、ナマエと僕はそういう関係ではなく、ただ連れ立ってエロ映画を見ている人間というだけだった。そっちの方がよっぽどおかしい。
ナマエ含め、アダルト映画を見る観客は異様に静かで、落ち着き払っていた。これから、男女の裸であるとか、下品なジョークであるとか、アングラ感漂うカルト映画が始まるというのに、そうだとは思えなかった。
そこにはある種の、神聖な空気感があった。
これからどんなに下品なシーンがあろうが、笑ってはいけない、興奮してはいけない。そういうコントの始まるみたいだった。
短い予告が終わって、二本立ての一本目が始まった。監督が女性の裸を撮りたいがために作ったような、脚本も構成もないような映画だった。ナマエは笑っていた。
二本目。サスペンス仕立ての、ちょっと金田一風味の映画。ただしエロあり。血飛沫の中で情事に耽る男女の群れはシュールだった。僕は思わず、吹き出してしまったくらいだ。ナマエは笑っていた。
エンドロールが流れ終わって、場内の明かりが再び点灯した。僕が立ち上がって、上着を羽織り出しても、そこにしがみつくようにナマエは椅子に座っていた。
「そろそろ出ようよ」
僕がそう促しても、ナマエは5分くらい、そこに座ったままだった。
何を考えているのか、よくわからない目をして、何もうつっていないスクリーンを眺めていた。
よく表情を伺おうと、僕が顔を覗いた時にやっとナマエは立ち上がって、早歩きで劇場を出た。
僕の足ですらついていくのがやっとというくらいの、早歩きというより、もう走っているといったくらいが適切かもしれない。
僕は走るナマエを追いかけて、手を掴んだ。ナマエは泣きながら、笑っていた。
8
ナマエと僕は、コンビニに寄った。ナマエは酎ハイをしこたま買い込んで、僕の方は、そういえば色々となくなりかけていた乾電池と電球のことを思い出して、それを買った。
ナマエが飲酒するところを、今まで一度だって見たことなかった。改めて、僕は彼女がもう大人になっていたということに驚いた。
ビニール袋にレモンハイの缶と、朝食べるのかもしれない、ブルガリアヨーグルトのプレーン味が、彼女の精神性を表しているように見えた。
僕はナマエに手を引かれ、よくわからない道を歩いた。時刻は夜の10時を過ぎようとしていた。
「僕はどこに行こうとしているのかな」
「うちです」
「うちって、キミの家かい?」
「それ以外、どこへ行こうって言うんですか」
僕の意見なんて、最初からないみたいだった。
ナマエと手を繋いだのも、これが初めてだったと言うのに、僕はそれに気づくのにしばらく時間を要した。
駅から10分も歩くと、そこはもう普通の住宅街の様相をしていた。
ここがそういう町であることを、全く知らなかった。 そもそも、ここがナマエの家の最寄り駅であることも、そこそこ長い付き合いの中で、今はじめて知ったことだった。
おそらく、ナマエは僕を自分の家に連れ込もうとしている。そして僕は、それに抵抗を示そうとしていない。 これは、危ない状況なのではないだろうか。もっと、警戒すべきだと思う。
なんだかここで、騒ぐのも恥ずかしかったので僕は黙っていたけれど、これは僕の同意をとっていない行為で、大袈裟な言い方をしてみれば、誘拐と大差ないことなのだろう。
なぜか僕は、これからどうなっても構わないと、うっすら思ってしまっている。
というか、諦めている。ナマエの見えない地雷を踏むのが怖かった、というのもあるのだけど、とうとうこの時が来たのだと、覚悟を決めろということなのかもしれないと、受け入れはじめていた。
コーポxxxと書かれた小さなアパートが、ナマエの家らしい。
階段で2階まで上がると、ナマエは郵便受けの中から鍵を取り出して、鍵穴に嵌めた。
うまくハマらないせいで、鍵穴からひどい音がする。 そもそも、郵便受けに鍵を入れて要るというのが不用心だ。
注意したいのだけど、グッと堪えた。
「それ、僕がやろうか」
「……」
ナマエは黙って、僕に鍵を差し出した。眠そうな顔をしていた。
鍵は、少しだけ変わった形をしていた。
僕が差し込むと、あっさりとロックが外れた。
ナマエは無言で扉を開けて、狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて、コートも床に放り出してしまうと、リビング兼ダイニングになっている居間の電気をつけた。
ナマエが入っていいと言ったので、僕も靴を脱いで、ついでに彼女のスニーカーを揃えてあげてから、ナマエの居住スペースへと足を踏み入れた。
中は狭く、一人暮らしの人間がかろうじて生活できるくらいの広さしかなかった。
けれど、物があらゆるところに溢れて、整理整頓なんて全くできていない。
ベッドの上には、脱いだ服がそのまま置かれているし、流しには洗い物が溜まっていた。
ナマエは靴下まで脱いでしまうと、フローリングに腰を下ろして酎ハイの缶を開けた。
「吹雪さん、こっちきてくださいよ」
有無を言わさないような口調に、僕は従うしかない。彼女のちょうど向かい側に座ると、ナマエは黙ってもう一本の缶を差し出した。
「飲んでいいの?」
「どーぞ、お好きに」
断るのもなんだかなあ、と思ったので、僕はありがたくそれを頂戴することにした。
すっかりくつろぎモードに入ったナマエは、テレビのリモコンでチャンネルを次々切り替えながら、時々酒を煽った。
僕は黙って、それを眺めていた。
深夜の番組は大して面白くもなんともなかった。
それよりも、僕はナマエの様子を伺うことにのみ気を取られていたので、全くそれどころではなかった。
コマーシャルに入ると、唐突にナマエが口を開いた。
「高校の時、なんですけど……今日言ってたアレ、の話、わたしが、浜辺にいたときの、アレ……」
何を言い出すのかと思って警戒していたが、思いもよらない話題が飛び出してきたので、思わず缶を握りつぶしそうになった。
「映画を、見に行きたかったんです」
「映画……」
「馬鹿みたいな話ですよね、あんな海の真ん中から、筏で本州まで渡って、映画を見に行くだなんて」
必死な表情で木を組み上げるナマエの顔を、再び思い出した。
あの日、ちっぽけな手作りの船で海を渡ろうとしていた少女の面影が、今のナマエにまだ残っているのだろうか。
「どうしても、見に行きたかったんですよ。好きな映画だから、スクリーンで見たかった……結局、ダメだったんですけどね。まあ、当たり前か」
「でも、僕と出会えたじゃないか」
「吹雪さんってそういうところがありますよね」
「うん、僕の良いところだからね……でもどうして、昔の話をするんだい? 自分で黒歴史って言ってたじゃないか」
「つまらなかったんですよ。映画が」
「えっ」
「今日見た映画、どうしても見たかったやつなんです。見たけど、すっごいクソ映画、でした。つまんなくって、泣けるくらい……」
ケラケラ笑いながら、ナマエはそう言った。
僕の方はというと、一緒になって笑うわけにもいかず、ホアキン・フェニックスの演じたジョーカーみたいな、ナマエの乾いた笑い声を聞いて、ただ呆然としているだけだった。
「クソ映画……」
あれだけ褒めちぎっていた映画なのに? なんでそんなことを。そう言おうとした時だった。
「でも、クソ映画って、最高……」
光悦とした表情で、ナマエはそう言った。好意の反対は無関心。そんな言葉を思い出した。
ナマエは飲み終わった缶をゴミ箱に投げ入れたかと思うと、リモコンでテレビの電源を切った。
古いテレビは、ブチっという音を立てて画面を暗転させた。
彼女は僕の隣に腰を落ち着かせた。
口は酒臭かったけれど、洗剤のフローラルな香りと、ナマエの体臭が混じって、なんだか女性の匂い──のようなものがした。
今から何が起こるか、僕は身構えた。
ついにこの時が来てしまったのか。
今日だけで、僕はいくつもの階段を登るんだろう。
もしかして、僕が知らないだけでナマエは、もうすでに僕の知らない男と、そういうことをしているのかもしれない。
彼女も大人なのだから、なんの意味もなく部屋に異性を連れ込む、というようなことはしないはずだ。
大きな二つの目で見つめられて、心臓がうるさく高鳴った。
僕は、僕らはどうなってしまうのだろう。抵抗らしい抵抗もできないまま、僕は後輩の女の子に、食われてしまうのか。
「吹雪、先輩」
目線の定まらないナマエが、そう言って僕に抱きついてきた。僕はゴクリと唾を飲み込んだところで、ナマエは盛大に、嘔吐した。
9
僕のよそ行きの服に盛大に嘔吐したナマエは、悪びれる様子もなく、そのまま気持ちよさそうに眠った。
僕は洗面所に行って服を脱ぎ、これからどうしようかと考えて、家に帰るべきか迷った末に、ナマエが起きるまで待っていようという結論に至った。
そして、朝になった。
「……」
「昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」
「……半分、くらい」
上半身裸の僕と、頭痛を訴えるナマエが向き合った。 結局、僕らの間には何もやましいことなど起こらず、ナマエが酔って吐いたということだけを簡潔に伝えた。彼女は何度も頭を下げた。
「すみません……ほんっとうに、ごめんなさい。後でクリーニングに出して、お返ししますので……」
見ているこっちが哀れに感じるくらい、ナマエは頭を下げ、懇切丁寧に謝った。
それは謝り慣れている人間の、謝罪の仕方に思えた。
これがミョウジナマエの──彼女の本質なのだと、たった今僕は理解した。
「ナマエ、もういいから。大丈夫だよ」
昨日のことが嘘のようだった。彼女はすっかり沈殿してしまい、小さく縮こまっているように見えた。
「すみません。わたし、本当にどうかしてたんです」
ナマエの瞳には、かつてのような溌剌とした光はなく、一見して同じ人間なのかと疑うほどの変貌があった。
僕はどうしようもなく、悲しくなった。
結局、僕は彼女に勝手な期待をかけて、一人で裏切られたような気持ちになっているだけだ。誰が悪いのではなく、僕だけの問題だった。
けれど、枯れた花のようなナマエのことを、僕は決して見捨てられないし、手放してしまおうという気持ちにはなれなかった。
あれだけ切れるナイフのような威勢の良さと、誰にも頼らずに生きていますっていう顔をしていたのに、僕だけに甘えるナマエが、本性をあらわにしたところで、それは僕にとって都合が良くなるだけで、むしろ、他の人間にこんな顔を見せていたと考えるだけで、不愉快だった。
「大丈夫だよ」
もう何に対して大丈夫と言っているのか、自分でもよくわからなかったけれど、そう言うしかなかった。
しばらくそうしていると、ナマエはすっかり落ち着いて、機械のように謝り倒すことも無くなった。
「吹雪さんって、優しいですよね」
僕が遅い朝食を作っていると、ナマエがそういった。 優しい。
確かに、僕はお節介なところがあるのかもしれない。そう言うと、ナマエは笑った。
「他人に尽くすって、才能なんだと思います。わたしは吹雪さんに甘えっぱなしだから……」
空き缶や、ゴミの溜まったシンクを見ながら、僕は少し苦笑いをする。
「仕事、大変なの?」
「うーん、結構、しんどいかも」
「ついでに片付けちゃおうかな」
「あー、助かります。すみません……ったぁ!」
ナマエは立ち上がって手伝いにこようとしてくれたけど、急に立ち上がったので、頭に激痛が走ったようだった。
「そこに座ってて、いいから」
「はい……」
まるで僕が主婦みたいだ。日曜日の朝、うららかな気温。ここだけ見ていると、ドラマのワンシーンのようだった。
ナマエは僕に視線を寄せて、じっと見ていた。まるで子供のようで、それをかわいいと思った。
僕が乾いたシャツを着て、家を出ようとした時、ナマエがふと僕の手を掴んだ。
「どうしたの?」
「……またうち、来てください」
「それって、家政婦ってこと?」
「な、何言ってるんですかっ! 家事だって、ちゃんとできるし……」
「仕事が忙しくて、何もできてないのに?」
「じゃあ、やめようかな……」
「キミってすごく極端だよね」
ナマエは照れたように笑った。今まで見たことのない表情だった。
「吹雪さんってわたしのこと、好きですよね」
「嫌いな相手に、ここまで尽くさないと思うよ」
10
ナマエはそれからしばらくして、勤めていた会社をやめた。本人は、ケロッとした顔で映画の配給会社に転職して、忙しい日々を過ごしているみたいだった。
彼女のツイッターでの饒舌さに変わりはなく、僕もそれを見て、なんとなく安心するのだった。やっぱり、人間という生き物はちょっとやそっとで根っこがぶれるような繊細なものではないのだと。
「この前一緒にエロ映画を見たの、覚えてる? あの時、ちょっと引かれるかもーって思っちゃったんだよね」
毎週金曜にかかってくる電話の内容は、以前の定型文から、人間らしい会話へと変化していった。お互い段々忙しくなって、土曜に会う習慣は減っていったけれど。
「あれってタクシードライバーの真似?」
「えっへへへ」
彼女の愛してやまないカルト映画の名前を出すと、ごまかすように笑われた。
ナマエは僕のことを、さん付けで呼ばなくなった。敬語も外れた。
いつからというのは定かでなく、自然とそうなっていた。
あの、腐りきった花のような甘い雰囲気は、彼女の中から消え去った。
あれは一種の悪夢のような、病んだ匂いだった。憑き物が落ちたみたいに、現在の彼女は身軽だ。
その代わり、ナマエは新しい葉をつけた若々しい新緑のように、伸び伸びとしている。
結局、変わらないのは僕だけだったということ、だ。
「今度試写会に行くんだけど、チケットいります?」
「二本立て上映だっけ、すごいね」
「監督がそうじゃないと劇場公開しないって譲らなくって! 大手のシネコンでは断られたけど、小劇場だけでも配給できそうで、よかったなあって」
彼女の輝かしいキャリアの中に、この一件も刻まれるのだろう。
自分のことのように、誇らしく思う。
時々、あの頃のナマエが恋しくなるけれど、それは不健全なことだ。花を蕾のままで手折ってしまうようなことを、僕は望まない。
「あ、そろそろ始まっちゃう!」
ナマエはコートのポケットから半券を取り出して、急足でスクリーンへと向かう。
そうして、再び幕が上がる。僕が望もうとも、望まざるとも。