未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
遊戯王
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一
いつのことだったか、一角獣の横に横たわる乙女の絵巻というものを鑑賞したことがある。
仕事の付き合いであったか、調べ物の最中のことか、美術館で目にしたのか定かではないが、ふとした瞬間、脳内にありありと、あの大きな織物に描かれた乙女の、どこか人間離れした穏やかな微笑み──後に仏像を観覧した時にも既視感を覚えた──どこにも存在しない何かを眺めているような遠い視線を思い出すのだ。
芸術の美しさとは、どれも自分の手の届かない世界。すなわち常人の理解の及ばない領域の隅に自分を置くことで初めて実感したと言える。
つまり、実際に目にしないことにはその質感は損なわれていうことである。
この世に存在しないものを描くとは、そのようなことを云う。
当時、哲学的な問答に興味を惹かれることはなく、教養のために流し読みしていた海外の作家のこの言葉は、頭の片隅に置かれてしばらく浮上することはなかった。しかし、今になって理解できる。現実の中で時折触れる空想の世界は、非常に美しいものであると。
二
体を起こす時というのが一番気を使う瞬間である。
彼女は、少女と呼んでも差し支えのない、否、その言葉で表すのが最も適切であると断言できる。
それは、昼下がりの自室で、気怠げに目を覚ました。頭上で彼女を急かすように輝く太陽を、鬱陶しいと感じた。
体全体を纏う肉のように、麻布団が四肢に絡みついている。全てのものが、彼女にとっては重い。文鎮を乗せた藁半紙を、手を触れずに動かすことが難しいように、彼女もまた、自身の上半身を持ち上げ、それと同時に下半身に力を入れて立ち上がることが困難であった。
忌まわしい女性の肉体を、無理矢理動かす。無理矢理動かすとどこかガタがくるが、動かさないと余計に弱ってしまう。少々の運動は健康によろしいのでやりなさい、というのが主治医の言葉だった。
全身の肉、骨、全ての神経に力を込めて、ゆっくりと彼女は立ち上がった。柔い素材で作られた寝巻きの下、特に腹の部分が不自然なまでに膨らんでいる。
まるで、妊婦のように。
否、まるでという表現は誤りである。
彼女は、妊娠している。
齢十八の彼女の腹には、胎児が蠢いている。繭が膨らむように、彼女の腹は日に日に大きく膨らんでいくのだ。
彼女は、生理現象からくる辛さから逃れようと、部屋を出た。
部屋から出て、今すぐこの家から飛び出してやろうか、とも考えた。身重の体でなければ、と渋い顔をした。この家に軟禁されて、退屈な日々を重ねた。その元凶たる人間の顔を、思い出した。
三
「で、相手はわかっているのか」
彼女が妊娠の報告をした時、海馬瀬人はすぐさまそう返事をした。
あまりにも冷たい言葉に、彼女は驚きを隠すことができず、しばらく呆けていた。
「何? わたしの浮気を疑ってるって?」
「オレとお前の間に情交はなかった。一般的に、そのような場合はパートナーの浮気の可能性を思い描く。自然なことだ」
あまりにもあけすけな物言いに、再び苛立ちを覚える。
「……わたしは誰ともや﹅っ﹅て﹅いないのだけれど」
「では、なぜ」
「わからない。わたしは確実に純潔であるにも関わらず、妊娠したとしか、言いようながないな」
「……処女受胎か」
大きな溜息。呆れたように。
「あのさあ、そこまでわたしの言っていることが信じられないか? そこまでわたしに信用がないのか?」
「信用も何も、荒唐無稽な発言を、すぐに信じろと言う方が馬鹿げている」
「でも……わたしだって妊娠したくてしたわけじゃないんだ!」
「ヒステリーはやめろ」
「お前だってめちゃくちゃ怒鳴ってるじゃないか! 毎日社員を詰めて、苛立って、思い通りにならないとすぐ癇癪を起こすし……」
「……医者を紹介してやる。精神科を受診しろ」
「わたしが気狂いだって? そう言いたいのか?」
「貴様のそれは、女性特有の発作だと見た。いますぐ薬でも何でももらって、気を鎮めてこい」
「……そこまで言うなら、これを見ればいい」
少女は一通の診断書を懐から取り出し、眼前の男に見せつけた。都内の某大学病院にて、実筆の診断書。懐妊の文字が確かにあった。コピーにしては手が込んでいる。海馬はそう思った。
「まさか、偽物だと思っていないか?」
「……フン」
「あんた同伴で、もう一回行ってもいいんだぞ」
「いいだろう。ちょうど明日は予定を入れていなかったところだ」
四
妊娠の予兆というものはなく、全てが一気に、洪水のように訪れた。
定期的に通院している病院にて、しばらく月経が訪れていないことを指摘されるまで、それと気づかなかったのである。
多忙な日々の中で、月経の記録などまめにつけることはなかった。念のために受けた検査で、懐妊していると発覚したのが、数ヶ月前。
医者にそう告げられた時、嘘か悪い冗談ではないかと疑った。性交はなかった。そう言っても、結果として妊娠している。
診察室でパニックになる自分を、医者がやや同情的な目で見つめていた。パートナーに相談するように言われた。そんな無責任な、と腹が立った。全くこちらの事情も知らないで、好きにいう! もう二度とこの医院を受診することはやめよう。ふざけている。怒りで冷静になれない中、なあなあで言いくるめられ、冷ややかな目で見つめられ、その日は帰宅した。
それから、言うべきか言うべきでないか、ずっと悩んでいた。
通常、悪阻などによる体調の変化などがあるはずなのだが、それらは全くなく、少しづつ膨らんでいく自分の腹に、不安を抱くだけで月日が過ぎていった。
かつて、学校の授業で聖書について教わったことがある。中高と、宣教師が開校したカトリック系の女子校で育った身として、イエス・キリストの母マリアの処女受胎というテーマは、非常に印象に残ったシーンとして覚えている。
級友と下世話な冗談を言って笑った数年前。まさか自分の身に全く同じことが起こるなどと、予見したことはなかった。
そのようなことを考えることは、あり得ないのだ。なぜなら、セックスしないと子供は生まれないのである。
夢に神が現れるということもなく、天使が受胎を告げにきたわけでもなかった。混乱の中、卒業以来全く触れることのなかった新約聖書を読み、さらに混乱する、というようなことを繰り返し、必死に似た事例がないかインターネットの波を泳ぎ、不安で満ちた日々を過ごした。
そしてようやく打ち明けたと思ったら、精神疾患を疑われ、怒鳴られる。などといった悲惨な目にあった。
もっと彼女に寄り添う気はないのか、と腹立たしく、否定によって気持ちが折れた。彼氏としての海馬に期待やら、信用やらという感情は消え去り、愛情は砂漠のように枯れ果てた。これから挽回する機会があれば、と淡い期待もあるが、きっとそれはないのであろうという諦めも、ある。
異常事態というのは、恋人同士の絆を深めたり、断ち切ったりするものであるということを、いやというほど理解した。
明くる日、宣言通り産科に足を運んだ。山奥の産院に通院させられることになり、呆れた。下世話な週刊誌の勘繰りや、醜見を恐れての行為であると、言われなくても理解できたからである。
つい、悪態をつきたくなった。柔らかい座席の横に座り、退屈そうに朝刊を読む横顔が、憎く映った。
待合室でなく、病院の裏口から入らされた。この時点で既に、苛立ちは臨界点にまで達していた。が、顔にだけは出さないようにした。また女のヒステリーだと言われては癪だからである。
医者に、性交はなく、しかし妊娠しているという馬鹿げた説明をしなくてはならなかった。
隣に立つ男は、マスクをしたまま無言で医者の説明に耳を傾けていた。傾聴しすぎにも程がある、もっといつものように喋ればいいのに、とまた苛立った。
本当にセックスはないのか、とまた聞かれた。実際には、そのようなあけすけな言い方ではなく、仲良くしているかとか、愛し合ってとか、バカらしい遠回しな言い方であった。
ない、と再び念を押さねばならなかった。保険証の苗字が違ってよかった、と思った。老体の医者は、目の前にいる若いカップルの片割れが、あの有名企業のトップだとは気づいていないようである。
おそらく、未成年が避妊に失敗し、焦っているのだと思われている。だから、しつこく性交の有無を尋ねるのだ。ひどく疲れる。
妊娠している。その事実だけでもうすでに疲れているのに。
「わかった? これはヒステリーでも錯乱でもなく、実際に妊娠しているということが」
帰りの車で、詰問するような厳しい口調で、喋くった。
自分ではなく、周りの人間こそ狂っているのだと思った。
今でこそ、服で膨れた腹は隠せているが、しばらくすればいよいよ他人から妊娠していることがわかるようになるだろう。
堕ろす、という選択肢を真っ先に取るべきだった。泣きながら、そう呟いた。得体の知れないものを殺すなどという行為に、責任も何も感じなかった。
海馬はようやっと、しゃべった。それはするな、と。
なんでだよ、と叫んだ。
きっと、今の言葉は運転席にも筒抜けになっている。大声で言ってしまったから。
いつになく慎重な顔で、彼はこちらの目を見た。父親になる覚悟を決めた、と無言で訴えかけている。嘘でしょ、と思った。
五
医者の下品な目つきを、忘れられない。
下品、という言葉にはさまざまなニュアンスが含まれるが、とにもかくにも、気色の悪い顔をした、愛想ばかりある医者だった。
この病院は既に脳内のブラックリストに加えられている。いかにも興味ありげに、未成年の妊婦をジロジロと、眺めていた。思い出すだけで腹立たしい。
目の前の女は、疲れ切った顔で、背もたれに体を預けている。その体の中には、もう一つの命が──本当に人間であるかは定かではないが──宿っている。
これから、覚悟を決めねばならない。結果として、妊娠してしまっているのだから、時間は巻き戻せないのである。
多忙な中で無理矢理休みを作り、ありとあらゆる妊娠の事例を探った。都市伝説じみた記事であろうが、全て収集し、全ての可能性から彼女の妊娠について考えた。
当初、妊娠したなどという戯言たわごとを聞いた時には、たちの悪い冗談、もしくは想像妊娠を疑ったから全く身構えていなかった。故に招いた事態であるので、この責任は少なからず自分にもあるのだ。
この作業は実に何週間にも及び、その間彼女の腹の中の子供は順調に成長した。大きくなった腹を触り、そのたびに悲観に暮れる様子を、傍観するしかなかった。
切り替えが早いのが己の長所であると自覚していたが、ここまで簡単に順応できるとは思っていなかった。
その間、パートナーは疲弊し、徐々に神経を衰弱させていくが、慰めの言葉など思いつかない。妊娠した彼女にかける言葉など、自分がそうしたところで余計な混乱な元になるだけであると、過去の経験で知っていた。
どうしても外にだけは出るなと言いつけて、部屋に軟禁するようにしているのも、そのような事情からである。
鬱のような症状が出ても、どうすることもできない。全てが、試されていると感じる日々が過ぎた。
妊娠の報告を受けた際、烈火の如く怒りが湧きあがった時のこと、それが嫉妬による感情の増幅であることを認めたくなかった。それについて謝罪する機会があれば、させてもらおうと思う。それだけは偽りない事実である。
「もう、死にたい」
そう言わざるを得なかった。言ってどうにかなる問題ではなかったが、言わないと本当に自殺してもおかしくなかったと思う。
胎児に栄養を吸われてボロボロになった体は、萎んだ風船のようだと思った。死にたい。それ以外、逃れる方法はないように思えた。
メンタルが狂う。気が狂う。
あらゆる可能性を検証した。答えらしいものは得られなかった。誰が悪いという話でないだけで、全てを恨んだ。熱心な信徒であれば、神の幻影が見えただろうか。
わたしがおかしくなってから、全部狂った。人生も、全てが。外部との唯一の接触は、海馬が雇ったという医者たった一人だけで、全てが自分の知らないところで進んでいくのだった。
「ねえってば」
近頃、体の全てが重い。妊娠が発覚してから、もう既に十ヶ月が経過しようとしていた。腹は限界まで拡張され、時折酷い痛みにさらされる。気を紛らわせようと、映画でも見ようとしても、物語に集中できない。腫れ物みたいに扱われて、一生が終わるのだと思う。もう、いっそ、早く産んで楽になりたい。生まれた子供の首を絞めて、何もなかったようにいつもの自分に戻りたい。
常々殺してくれ、と懇願するのが日常になっている。これは、異常であると言わざるを得ないだろう。
「わたしの話、聞いてるのかよ……」
時々、自分がわからなくなる。今話しかけているのが、本当に海馬その人なのかも、確証がない。
窓辺から見える空、庭には桜が咲いている。ふと、予感がした。明日、生まれる、と。
六
私は生まれて初めて、心の底から湧き立つような興奮を覚えて、この世に生を受けたことを感謝した。
山奥の集落で開業医をしたこと、しかもそれが、過疎化の進む地域であり、滅多に人が寄り付かないことから、人に言えない事情を抱えた女性が、こっそりと訪れては、妊娠の知らせを聞いて絶望し、堕胎を経て、人に打ち明けることのできない傷を抱え、まちへと帰る。そういう風景を、何度も見てきた。
産科は現代の尼寺のような役割を内包しているのだ。
数年前、若い夫婦が同じようにここを訪れ、妻の純潔を信ずる男と、頑なに処女性を訴える妻という、珍しい、まるで芝居のようなやりとりを私に見せてくれた。側はたから見れば、浮気を誤魔化しているようにしか見れない言い分であったが、私は不思議と、彼女の処女受胎という、神話じみた主張を信じてしまっていた。長年人と接し、話を聞いている身からしても、嘘をついているようには、見えなかったのだ。
私は二人に、聖書のマリアとヨゼフの姿を、重ねている。映画スターのように華のある二人であった。横に立って並べば、一枚の絵画のように見えた。ちょうど、ルネッサンスの時期に描かれたそれのように、私には見えた。
しかし、あの夫婦が再度来院することはなく、結局あの二人のやりとりが嘘であったか否かということは、私にはわからなかった。
テレビや新聞などという外部からの情報を仕入れる手段を、当時の私は持っていなかった。息子に呼び出され、とうとう山を降りるその時まで、美しい秘密を抱えた見知らぬ女性の正体を、知ることはなかった。しかし、遂に私は知ってしまった。あの夫婦は、さる大企業の社長と、その御夫人であった。
私はその事実に、驚き、しかしその驚きを他人に漏らすことはできないので、声を殺して叫んだ。朝刊で見た男の顔立ちは、数年前より随分と老けているように見えた。
あの腹の中の子供は、結局誰の子なのか、わからない。私には、知る由がない。あの日のことが、まるで夢幻のように感じる。私が知っているのは、ある日を境に海馬コーポレーションが一時暴落したことのみである。
いつのことだったか、一角獣の横に横たわる乙女の絵巻というものを鑑賞したことがある。
仕事の付き合いであったか、調べ物の最中のことか、美術館で目にしたのか定かではないが、ふとした瞬間、脳内にありありと、あの大きな織物に描かれた乙女の、どこか人間離れした穏やかな微笑み──後に仏像を観覧した時にも既視感を覚えた──どこにも存在しない何かを眺めているような遠い視線を思い出すのだ。
芸術の美しさとは、どれも自分の手の届かない世界。すなわち常人の理解の及ばない領域の隅に自分を置くことで初めて実感したと言える。
つまり、実際に目にしないことにはその質感は損なわれていうことである。
この世に存在しないものを描くとは、そのようなことを云う。
当時、哲学的な問答に興味を惹かれることはなく、教養のために流し読みしていた海外の作家のこの言葉は、頭の片隅に置かれてしばらく浮上することはなかった。しかし、今になって理解できる。現実の中で時折触れる空想の世界は、非常に美しいものであると。
二
体を起こす時というのが一番気を使う瞬間である。
彼女は、少女と呼んでも差し支えのない、否、その言葉で表すのが最も適切であると断言できる。
それは、昼下がりの自室で、気怠げに目を覚ました。頭上で彼女を急かすように輝く太陽を、鬱陶しいと感じた。
体全体を纏う肉のように、麻布団が四肢に絡みついている。全てのものが、彼女にとっては重い。文鎮を乗せた藁半紙を、手を触れずに動かすことが難しいように、彼女もまた、自身の上半身を持ち上げ、それと同時に下半身に力を入れて立ち上がることが困難であった。
忌まわしい女性の肉体を、無理矢理動かす。無理矢理動かすとどこかガタがくるが、動かさないと余計に弱ってしまう。少々の運動は健康によろしいのでやりなさい、というのが主治医の言葉だった。
全身の肉、骨、全ての神経に力を込めて、ゆっくりと彼女は立ち上がった。柔い素材で作られた寝巻きの下、特に腹の部分が不自然なまでに膨らんでいる。
まるで、妊婦のように。
否、まるでという表現は誤りである。
彼女は、妊娠している。
齢十八の彼女の腹には、胎児が蠢いている。繭が膨らむように、彼女の腹は日に日に大きく膨らんでいくのだ。
彼女は、生理現象からくる辛さから逃れようと、部屋を出た。
部屋から出て、今すぐこの家から飛び出してやろうか、とも考えた。身重の体でなければ、と渋い顔をした。この家に軟禁されて、退屈な日々を重ねた。その元凶たる人間の顔を、思い出した。
三
「で、相手はわかっているのか」
彼女が妊娠の報告をした時、海馬瀬人はすぐさまそう返事をした。
あまりにも冷たい言葉に、彼女は驚きを隠すことができず、しばらく呆けていた。
「何? わたしの浮気を疑ってるって?」
「オレとお前の間に情交はなかった。一般的に、そのような場合はパートナーの浮気の可能性を思い描く。自然なことだ」
あまりにもあけすけな物言いに、再び苛立ちを覚える。
「……わたしは誰ともや﹅っ﹅て﹅いないのだけれど」
「では、なぜ」
「わからない。わたしは確実に純潔であるにも関わらず、妊娠したとしか、言いようながないな」
「……処女受胎か」
大きな溜息。呆れたように。
「あのさあ、そこまでわたしの言っていることが信じられないか? そこまでわたしに信用がないのか?」
「信用も何も、荒唐無稽な発言を、すぐに信じろと言う方が馬鹿げている」
「でも……わたしだって妊娠したくてしたわけじゃないんだ!」
「ヒステリーはやめろ」
「お前だってめちゃくちゃ怒鳴ってるじゃないか! 毎日社員を詰めて、苛立って、思い通りにならないとすぐ癇癪を起こすし……」
「……医者を紹介してやる。精神科を受診しろ」
「わたしが気狂いだって? そう言いたいのか?」
「貴様のそれは、女性特有の発作だと見た。いますぐ薬でも何でももらって、気を鎮めてこい」
「……そこまで言うなら、これを見ればいい」
少女は一通の診断書を懐から取り出し、眼前の男に見せつけた。都内の某大学病院にて、実筆の診断書。懐妊の文字が確かにあった。コピーにしては手が込んでいる。海馬はそう思った。
「まさか、偽物だと思っていないか?」
「……フン」
「あんた同伴で、もう一回行ってもいいんだぞ」
「いいだろう。ちょうど明日は予定を入れていなかったところだ」
四
妊娠の予兆というものはなく、全てが一気に、洪水のように訪れた。
定期的に通院している病院にて、しばらく月経が訪れていないことを指摘されるまで、それと気づかなかったのである。
多忙な日々の中で、月経の記録などまめにつけることはなかった。念のために受けた検査で、懐妊していると発覚したのが、数ヶ月前。
医者にそう告げられた時、嘘か悪い冗談ではないかと疑った。性交はなかった。そう言っても、結果として妊娠している。
診察室でパニックになる自分を、医者がやや同情的な目で見つめていた。パートナーに相談するように言われた。そんな無責任な、と腹が立った。全くこちらの事情も知らないで、好きにいう! もう二度とこの医院を受診することはやめよう。ふざけている。怒りで冷静になれない中、なあなあで言いくるめられ、冷ややかな目で見つめられ、その日は帰宅した。
それから、言うべきか言うべきでないか、ずっと悩んでいた。
通常、悪阻などによる体調の変化などがあるはずなのだが、それらは全くなく、少しづつ膨らんでいく自分の腹に、不安を抱くだけで月日が過ぎていった。
かつて、学校の授業で聖書について教わったことがある。中高と、宣教師が開校したカトリック系の女子校で育った身として、イエス・キリストの母マリアの処女受胎というテーマは、非常に印象に残ったシーンとして覚えている。
級友と下世話な冗談を言って笑った数年前。まさか自分の身に全く同じことが起こるなどと、予見したことはなかった。
そのようなことを考えることは、あり得ないのだ。なぜなら、セックスしないと子供は生まれないのである。
夢に神が現れるということもなく、天使が受胎を告げにきたわけでもなかった。混乱の中、卒業以来全く触れることのなかった新約聖書を読み、さらに混乱する、というようなことを繰り返し、必死に似た事例がないかインターネットの波を泳ぎ、不安で満ちた日々を過ごした。
そしてようやく打ち明けたと思ったら、精神疾患を疑われ、怒鳴られる。などといった悲惨な目にあった。
もっと彼女に寄り添う気はないのか、と腹立たしく、否定によって気持ちが折れた。彼氏としての海馬に期待やら、信用やらという感情は消え去り、愛情は砂漠のように枯れ果てた。これから挽回する機会があれば、と淡い期待もあるが、きっとそれはないのであろうという諦めも、ある。
異常事態というのは、恋人同士の絆を深めたり、断ち切ったりするものであるということを、いやというほど理解した。
明くる日、宣言通り産科に足を運んだ。山奥の産院に通院させられることになり、呆れた。下世話な週刊誌の勘繰りや、醜見を恐れての行為であると、言われなくても理解できたからである。
つい、悪態をつきたくなった。柔らかい座席の横に座り、退屈そうに朝刊を読む横顔が、憎く映った。
待合室でなく、病院の裏口から入らされた。この時点で既に、苛立ちは臨界点にまで達していた。が、顔にだけは出さないようにした。また女のヒステリーだと言われては癪だからである。
医者に、性交はなく、しかし妊娠しているという馬鹿げた説明をしなくてはならなかった。
隣に立つ男は、マスクをしたまま無言で医者の説明に耳を傾けていた。傾聴しすぎにも程がある、もっといつものように喋ればいいのに、とまた苛立った。
本当にセックスはないのか、とまた聞かれた。実際には、そのようなあけすけな言い方ではなく、仲良くしているかとか、愛し合ってとか、バカらしい遠回しな言い方であった。
ない、と再び念を押さねばならなかった。保険証の苗字が違ってよかった、と思った。老体の医者は、目の前にいる若いカップルの片割れが、あの有名企業のトップだとは気づいていないようである。
おそらく、未成年が避妊に失敗し、焦っているのだと思われている。だから、しつこく性交の有無を尋ねるのだ。ひどく疲れる。
妊娠している。その事実だけでもうすでに疲れているのに。
「わかった? これはヒステリーでも錯乱でもなく、実際に妊娠しているということが」
帰りの車で、詰問するような厳しい口調で、喋くった。
自分ではなく、周りの人間こそ狂っているのだと思った。
今でこそ、服で膨れた腹は隠せているが、しばらくすればいよいよ他人から妊娠していることがわかるようになるだろう。
堕ろす、という選択肢を真っ先に取るべきだった。泣きながら、そう呟いた。得体の知れないものを殺すなどという行為に、責任も何も感じなかった。
海馬はようやっと、しゃべった。それはするな、と。
なんでだよ、と叫んだ。
きっと、今の言葉は運転席にも筒抜けになっている。大声で言ってしまったから。
いつになく慎重な顔で、彼はこちらの目を見た。父親になる覚悟を決めた、と無言で訴えかけている。嘘でしょ、と思った。
五
医者の下品な目つきを、忘れられない。
下品、という言葉にはさまざまなニュアンスが含まれるが、とにもかくにも、気色の悪い顔をした、愛想ばかりある医者だった。
この病院は既に脳内のブラックリストに加えられている。いかにも興味ありげに、未成年の妊婦をジロジロと、眺めていた。思い出すだけで腹立たしい。
目の前の女は、疲れ切った顔で、背もたれに体を預けている。その体の中には、もう一つの命が──本当に人間であるかは定かではないが──宿っている。
これから、覚悟を決めねばならない。結果として、妊娠してしまっているのだから、時間は巻き戻せないのである。
多忙な中で無理矢理休みを作り、ありとあらゆる妊娠の事例を探った。都市伝説じみた記事であろうが、全て収集し、全ての可能性から彼女の妊娠について考えた。
当初、妊娠したなどという戯言たわごとを聞いた時には、たちの悪い冗談、もしくは想像妊娠を疑ったから全く身構えていなかった。故に招いた事態であるので、この責任は少なからず自分にもあるのだ。
この作業は実に何週間にも及び、その間彼女の腹の中の子供は順調に成長した。大きくなった腹を触り、そのたびに悲観に暮れる様子を、傍観するしかなかった。
切り替えが早いのが己の長所であると自覚していたが、ここまで簡単に順応できるとは思っていなかった。
その間、パートナーは疲弊し、徐々に神経を衰弱させていくが、慰めの言葉など思いつかない。妊娠した彼女にかける言葉など、自分がそうしたところで余計な混乱な元になるだけであると、過去の経験で知っていた。
どうしても外にだけは出るなと言いつけて、部屋に軟禁するようにしているのも、そのような事情からである。
鬱のような症状が出ても、どうすることもできない。全てが、試されていると感じる日々が過ぎた。
妊娠の報告を受けた際、烈火の如く怒りが湧きあがった時のこと、それが嫉妬による感情の増幅であることを認めたくなかった。それについて謝罪する機会があれば、させてもらおうと思う。それだけは偽りない事実である。
「もう、死にたい」
そう言わざるを得なかった。言ってどうにかなる問題ではなかったが、言わないと本当に自殺してもおかしくなかったと思う。
胎児に栄養を吸われてボロボロになった体は、萎んだ風船のようだと思った。死にたい。それ以外、逃れる方法はないように思えた。
メンタルが狂う。気が狂う。
あらゆる可能性を検証した。答えらしいものは得られなかった。誰が悪いという話でないだけで、全てを恨んだ。熱心な信徒であれば、神の幻影が見えただろうか。
わたしがおかしくなってから、全部狂った。人生も、全てが。外部との唯一の接触は、海馬が雇ったという医者たった一人だけで、全てが自分の知らないところで進んでいくのだった。
「ねえってば」
近頃、体の全てが重い。妊娠が発覚してから、もう既に十ヶ月が経過しようとしていた。腹は限界まで拡張され、時折酷い痛みにさらされる。気を紛らわせようと、映画でも見ようとしても、物語に集中できない。腫れ物みたいに扱われて、一生が終わるのだと思う。もう、いっそ、早く産んで楽になりたい。生まれた子供の首を絞めて、何もなかったようにいつもの自分に戻りたい。
常々殺してくれ、と懇願するのが日常になっている。これは、異常であると言わざるを得ないだろう。
「わたしの話、聞いてるのかよ……」
時々、自分がわからなくなる。今話しかけているのが、本当に海馬その人なのかも、確証がない。
窓辺から見える空、庭には桜が咲いている。ふと、予感がした。明日、生まれる、と。
六
私は生まれて初めて、心の底から湧き立つような興奮を覚えて、この世に生を受けたことを感謝した。
山奥の集落で開業医をしたこと、しかもそれが、過疎化の進む地域であり、滅多に人が寄り付かないことから、人に言えない事情を抱えた女性が、こっそりと訪れては、妊娠の知らせを聞いて絶望し、堕胎を経て、人に打ち明けることのできない傷を抱え、まちへと帰る。そういう風景を、何度も見てきた。
産科は現代の尼寺のような役割を内包しているのだ。
数年前、若い夫婦が同じようにここを訪れ、妻の純潔を信ずる男と、頑なに処女性を訴える妻という、珍しい、まるで芝居のようなやりとりを私に見せてくれた。側はたから見れば、浮気を誤魔化しているようにしか見れない言い分であったが、私は不思議と、彼女の処女受胎という、神話じみた主張を信じてしまっていた。長年人と接し、話を聞いている身からしても、嘘をついているようには、見えなかったのだ。
私は二人に、聖書のマリアとヨゼフの姿を、重ねている。映画スターのように華のある二人であった。横に立って並べば、一枚の絵画のように見えた。ちょうど、ルネッサンスの時期に描かれたそれのように、私には見えた。
しかし、あの夫婦が再度来院することはなく、結局あの二人のやりとりが嘘であったか否かということは、私にはわからなかった。
テレビや新聞などという外部からの情報を仕入れる手段を、当時の私は持っていなかった。息子に呼び出され、とうとう山を降りるその時まで、美しい秘密を抱えた見知らぬ女性の正体を、知ることはなかった。しかし、遂に私は知ってしまった。あの夫婦は、さる大企業の社長と、その御夫人であった。
私はその事実に、驚き、しかしその驚きを他人に漏らすことはできないので、声を殺して叫んだ。朝刊で見た男の顔立ちは、数年前より随分と老けているように見えた。
あの腹の中の子供は、結局誰の子なのか、わからない。私には、知る由がない。あの日のことが、まるで夢幻のように感じる。私が知っているのは、ある日を境に海馬コーポレーションが一時暴落したことのみである。