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遊戯王
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ずっと前、っていってもわたしが小学生の頃のおはなし。わたしは東京のとある施設にいて、そこでたくさんの親と暮らせない子供たちと一緒にそれなりに仲良く、平和に暮らしていました。
わたしのお母さんはシングルマザーでわたしを育てていて、そこまではよかったんだけど、ある日違法な薬を売って警察に捕まってしまった。
わたしたちの家だった小さなアパートの中にたくさんの警察が入ってきて、白い粉の入った袋(わたしはこれを、お菓子の粉だよって教えられていた)を回収して、何も知らなかったわたしを保護してパトカーに一緒に乗った。
あれよこれよと時間がすぎて、天涯孤独だったお母さんと、そのたった一人の娘は引き離され、わたしは自治体が運営する施設にしばらく預けられることになった。お母さんが刑務所からオツトメを果たして出てくるまで、ここでいいこにしているだけの簡単なお仕事。
今思い出しても、めちゃくちゃな人生だと思います。お母さんが犯罪者という人は、誰も口にしないけど、あの家の中には割と多くて、親という生き物のせいで生き方を変えざるを得なかった子供たちがあの中にはたくさんいた。だから、自分が特別不幸だとはじめて思ったのは、あの施設を出た後。
まあ、その話は追々するとして、わたしの友達だった男の子の話でもしようかな。
わたしが施設に入ってから三ヶ月が経つ頃の昼下がり。曇りの日。
職員の人がホワイトボードの前にみんなを集めた。いつも、新しい子供が入ってくるときはそうするのが慣例になっていたから。
わたしたちは、新入りがどんなやつなのか、期待と若干の警戒を抱いて待っていた。
扉が開いて、利発そうな男の子と手を繋いだ小さな男の子が入ってきた。兄弟で一緒に施設に入ってくるっていうのは、そこまでレアってわけじゃない。
兄のほうと思わしき少年は、ホワイトボードの前に立って、険しい顔をして、試験の時みたいに慎重に、二人分の名前を書いた。
その年にしては達筆な字で書かれた二人の名前の漢字の読み方を、わたしは必死に考えていた。
職員の方から自己紹介があって、瀬人くんとモクバくんというのだと、教わった。瀬人くんはその後によろしくお願いします、なんて言って頭を下げていた気がする。
隣の女の子が、こっそりとわたしに「あの子かっこいいね」なんて言ってきた。
その時初めて彼の顔をじっくりと見たのだが、確かにそこいらの子供とは違う雰囲気、具体的に書くなら一度見ただけで引き寄せられるようなオーラが、もうこの時すでに備わっていたのだ。
でも、その時のわたしは日本人にしては珍しい色素を持った彼の青い目を、宝石みたいに思ってじっと見つめていた。あまりにもじっくり引き込まれていたので、視線に気づいた彼と目があった。
多分、3秒くらい。わたしの体感なので正確な数字でないのが申し訳ないんだけど、その時はたった3秒。されど3秒。
この二つの瞳にわたしの人生が大きくひっくり返ることになるだなんて、この時は全く考えていなかったのだ。
そう、これが海馬瀬人くんとわたしの出会いというやつ、です。
この施設にいるのは小学生くらいの低年齢の子供がほとんどだった。中高生がいた時期もあったにはあったんだけど、今はたまたま子供ばかりになってしまったらしい。
そうじゃなくても、親元に帰ったり、親戚の家に預かってもらったり、それぞれの事情で施設を出ていって、少しずつ減ってはちょっとずつ増えて。
偶然だけど、年下ばかりの環境だと、必然的にお姉さんの役回りを演じざるを得ないっていう状況になる。しかも、それを四六時中求められているのは正直しんどかった。今まで一人っ子だったからなおさら。
なんとなく同い年の友達というものが欲しかった。ほしい、と言うよりも飢えていた、と表現した方が正しいかも。
そう、わたしは飢えていた。あの小さなアパートに閉じ込められるようにして過ごしている中、毎日酷いいびきをかいて眠る母の横で、窓越しに眺めた空が、強烈なイメージとして瀬人くんと、直線で結びついた。
あの宝石みたいに綺麗な瞳に、普通なら届かないような、夜空の星みたいに遠くて美しいはずのものが、わたしのすぐ横にあって、それはちょっとでも勇気を出せば、触れることが叶うかもしれない。
彼の瞳に、わたしは夢を見た。あの一等星のように煌々ときらめく美しい瞳の水面にわたしを写してほしい。今まで見たどんなものより美しいものを、手に入れたい。
彼の瞳を見た日の夜、なかなか寝付けなかった。興奮して、動揺していた。
だから、わたしは瀬人くんを友達にしようと思った。こんなに何かを欲しがったのは、初めてだった。
夕ご飯の前にみんなでトランプをしたり、絵を描いたりしてのんびり遊んでいる間、瀬人くんだけは職員の人とチェスをしたり、難しそうな分厚い本を読んだりして過ごしていた。
どういう風に彼に声をかけたのか、実はあまり覚えていない。チェスのやり方を教えてもらおうとしたのか、はたまたすでに出来上がっていたグループの輪の中に彼ら二人を取り入れたのか。
初めて見た時のやや殺伐とした、警戒する野生動物めいた印象とは裏腹に、意外にも彼は友好的な態度を取った。
……なんて言ったっけ。これも全然覚えてない……ごめんなさい、大事なところは全部抜けちゃってる。
それを見て、わたしは、あー、なんだ、簡単じゃん。って思った。
飛び越えようとしているハードルが思ったよりも低くて、勢いつけすぎたのが馬鹿に思えてくる、みたいな、そんな呆気なさを感じたのだった。
あの時見せた、手負の獣みたいなあの眼はどこ行ったんだろうって。それで、なんだか瀬人くんのことが、野生のオオカミから近所のよく吠える子犬くらいに印象が変わった。でもそれは間違いだったんだよね。
月日を重ね、わたしがどんどん話しかけにいったりしているうちに、わたしたちの間には、友情というか、信頼の心が芽生えていったんだと思う。気がつけばわたしたちは、自然と二人──いや三人一緒に行動することが多くなった。わたしはそれが一生続けばいいな、って思っていたんだけど、無理だった。
彼がその時どんなことを考えていたかは今となってはもうわからない。わかっても、それがどうなのって話、だし。
色々思い出はあるけど、一番思い出に残ってるのは秋の遠足かな。
みんなで山に行って、山っていうか普通の森林公園なんだけど、わたしはまだちっちゃかったから山に見えたんだよね。
まあ、そこには中学生とかが自然学習で使う宿泊施設とかがあって、そこにみんなで泊まったってだけ。それだけの話なんだけど。わたしは結局1回しか参加しなかった。あ、それは瀬人くんもそうか。
飯盒でご飯炊いてカレー作って、キャンプファイヤーとかもしたかな。マシュマロって焼くと美味しいんだってここで初めて知った。そこまでなら、ただ楽しかったで終わるんだけど。本題はそこじゃなくて。
キャンプファイヤーが終わった後、天体観測をしようってことになって、みんなで一つの望遠鏡──全然安物のやつだけど──を使い回しながら、ちょうど日本で見ることができるっていうなんとか流星群が夜空に尾を引いて落っこちていくのを、山の上から見上げていた。
その日は超がつくくらい寒くて、わたしは瀬人くんモクバくん兄弟と同じアルミの布団みたいなやつにくるまって、カイロで必死に手先を温めながらそれを見ていた。
宇宙の小さな星が燃え尽きるところをみていたところで、浮かび上がってくる感想は、下手くそな作文以下みたいなありきたりな文章だけで、どれだけない頭を捻っても、瀬人くんを関心させられるような言葉が出てくることはなく、せっかく綺麗な星なのに普通に見ることができなくて、本当にもったいなかった。
「たくさん流れ星が流れてるから、いっぱい願いごとをしても全部叶いそうだね」
わたしはふと、そんなことを言ってみる。
「何を願ったの?」
「うーん、健康でいられますように、とか」
「あっはは、お爺さんみたいだ」
「元気って大事だし……瀬人くんは何をお願いしたの?」
「……笑わないで聞いてくれる?」
「もちろん」
わたしは瀬人くんの口から、どんな言葉が出るか緊張しながら待っていた。もしかしたら、わたしとおんなじ願いを唱えたかもしれない、なんて淡い期待と一緒に。
「遊園地を作りたいんだ。親のいない子供たちが無料で遊べるような、そんな場所を」
確か、その時彼はそう言ったはず。
星に願うお願いにしては、現実的なことだな、って思った。
お願いというより、彼の夢だったんだろう。あの時、澄んだ瞳で自分の目標を語ってくれた時のことを、今でもちゃんと覚えている。
彼の目の中の光が、最も美しく輝いた瞬間。思わずわたしははっと息を飲んで、その明かりを忘れないように、じっと見つめた。夜空をちょうど何度目かの星が燃え尽きていって、その命が燃え尽きるよりも眩い輝きが、ちょうど彼の青い目の中で太陽みたいに降臨していた。
「きっと、できるよ。瀬人くんだったら、できると思う」
幼いわたしはばか正直に、彼がやろうとしてできないことなんてないんだろうな、と本当の本気で信じていた。
信じていた、なんて過去形じゃなくって、あれから何年も経った後でも、それを信じ続けていたっていうのが実際の話なんだけど、なんだか彼が神様みたいに万能で、太陽みたいにあまねく世界を照らす人であるとその時わたしの中で決定づけられたのだ。
「ありがとう」
彼は照れ臭そうに笑って、また星を見上げた。
「遊園地、できたら遊びに行くね」
「できたら招待状を送るよ」
わたしの美しい青春の1ページ。
このシーンを絵画にして、わたしが死んだ後も語り継いでもらいたいくらい。わたしの今までの人生の中で一番美しい思い出。
あの時のわたしは、とても幸せそうな笑顔に包まれていることでしょう。神様みたいに微笑む瀬人くん、笑っているわたし、一生消えない、綺麗な傷を彼につけられてしまった。心臓を握られたみたいに離れ難い人。
わたしはこの人とずっと一緒にいたいと、本気で思ってしまったのだ。
わたしの細ささやかで幸福な日々は、突如として崩れてしまった。今からその時のお話をします。あーあ、思い出すだけでも嫌なんだけど、ね。
あの野外活動の日からしばらく、わたしは自分ならなんでもできるんだ。という謎の自信に満ち溢れていた。瀬人くんの見ている夢に当てられて、わたしも彼みたいに万能の人であるといった、愚かな勘違いをしていた。
わたしたちは価値観が似ている、同じことを考えている、通じあっているはずだという極端な思い込み、そしてこの閉じた世界である施設でずっと仲良く暮らしていけるんだ、という願望。それらがぐちゃぐちゃにわたしの中で混ざった結果が、これ。
実際のところ、瀬人くんはそんなチンケな願いじゃなくって、ずっと遠くの目標に見ていたのだ。
瀬人くんが施設を離れるという日、前日に泣きまくって目を腫らしたわたしは、二人の兄弟が大きな鞄を持って門をくぐり、今まで目にしたことのない高そうな車に乗り込むのを、じっと固まって見届けようとした。本当は、暴れてそれを妨害しようか、とか、車のタイヤに細工を仕組んで動けなくしてやろうとか、そういう非現実的な馬鹿馬鹿しい悪戯を夜通し考えては、実行するかしまいか永遠に考えていた。
現実のわたしは普通に臆病な人間なので、それが実行されることはなく、膝で拳をかたく結んで、必死に泣かないように目を大きく見開いていた。
わたしは長い長い手紙を二人に手渡して、絶対に忘れないからね、なんて言って思わず抱きついてしまった。感極まっての行動である。
映画のヒロインみたいな仕草を突然されてしまった瀬人くんは、それも想定の範囲内であるかのように優しくわたしの背中を撫でて、優しく「わかった」と言ってくれた。そして、「僕がいなくても大丈夫だよ」とも、言った。
そう言われたら、不思議となにがなんでも大丈夫な気がしてくる。全てから祝福されているような、満たされた気持ちになる。
わたしは流れる涙で彼の服を濡らさないようにずっと堪えていた。
もう二度と、この手がわたしに触れることはないだろう。あの言葉がわたしに向かって発せられるのはこれで最後だと、おもった。
この暖かい手の感触を、絶対に死ぬまで忘れないように、必死に背中に神経を集中させた。
周りがスローモーションみたいにゆっくりと回って、他の人の声なんて何にも聞こえない。正しく二人きりの世界に浸れる、最後の時間だった。
瀬人くんは綺麗な思い出だけをわたしに残して、遠く地平線の向こうへ消えていった。きっと彼は向こうで幸せになる。
残されたわたしは、我慢しきれなくてその場に崩れ落ちて、周りの目なんか気にせずにわんわん泣いた。これが今から、6年前のこと。
瀬人くんは僕がいなくてもわたしは大丈夫だと言ったけれど、全くそんなことはなかった。
精神の大事なところがポッカリとかけ落ちてしまったわたしは、それからずっと抜け殻みたいな状態で、ずっと過ごした。転入した先の小学校の授業は、瀬人くんと語り合ったどんな会話よりも低俗で、凡庸で、つまらないことのように思えた。 授業内容なんて全く頭に入れなくても、不思議とテストでいい点を取ることはできた。これをわたしは、彼からの祝福であると解釈し、より良い人間になることで彼と再び会うことができるのだと、頑なに信じた。
いくら褒められようが、興味関心を持たれようが、それはどうでもいいことで、あの美しい思い出だけが、抜け殻のわたしを支える唯一の宝物だった。それさえあれば、どれだけ苦しくても、生きることができる気がした。
季節は巡る。
お勤めを終えてシャバに戻ってきたお母さんとわたしが、都内の小さな集合住宅で暮らしていても、小学校を卒業して、セーラー服に袖を通すことになっても、わたしは1日だって海馬くんのことを忘れたことはなかった。
この頃になってくると、自分の身の回りの不幸について、色々と目敏く気づいてしまうものである。
わたしの不幸というものは、この国で生まれて生きる中では、比較的珍しいものであるらしい。
わたしと母がいつも好奇の目で周囲から見られているという事実も、重く、否、しっかりと、でも抱えすぎないように受け止めている。
お母さんは、わたしが学校に行くのと同時に家を出て、保護観察官の人にお世話された仕事場へ向かう。若く、美しいお母さんは、犯罪を犯して刑務所に入ろうが、薬物依存を治す会に行こうが綺麗で、やつれているけれど、思春期の娘に、素直にそう思わせることは本当にすごいと思う。
母親自慢はそれくらいにしておこう。
長く離れていた割に、わたしたちの生活は比較的順調に進んでいる。
これも、瀬人くんがわたしにくれた祝福のおかげだと思っている。そう信じたい。
母に直接、瀬人くんのことを話したことはない。というか、誰にもこのことをちゃんと言ったことはない。
中学生になると、好きな人の話だとか、恋の話だとか、まあそういうしょうもない話で盛り上がるお年頃である。
友人たちがそんな話題で盛り上がる中、わたしはそれを適当にあしらって、誤魔化して、ふと考える。
わたしは瀬人くんのことが好きだ。でも、それは恋愛のそれなのだろうか、と。
彼とはずっと一緒にいたいし、それを今でも願っている。そうしようと望むなら、結婚という手段を取るのが一般的だろう。
友情だけで一緒にいることは不可能ではない。社会契約としての結婚に、愛が必要ではないからだ。教会で式を挙げるときに、お互いを愛しているか問われるそうだ。愛している、しかし、それは恋であると呼べるか?
わたしは答えを求めて、たくさん迷い、もがき苦しんだが結論らしい結論は出なかった。
会えばわかるのかもしれない。というか、会いたい。彼の顔を見て、どれほど美しく成長したのか確かめられれば、わたしの複雑な感情に名前をつけられると思う。そんな淡い希望を胸に、わたしは空虚な中学校生活の3年間を終えた。
クリスマスにサンタを待つ子供のように、わたしはずっと瀬人くんに会いたいと願っていた。高校生になっても、その願いが薄れることはなく、さらに欲望は肥大化していくことになる。
神格化された瀬人くんの偶像は、わたしの心中の中で日に日に輝きを増し、もはや返ってこなかった手紙の返事や、彼がわたしのことを忘却している可能性など、全く考えないようになった。
ある日のこと、わたしは彼と予想外の再会を果たすことになる。
極限まで世間と接触を絶っている我が家に、ようやく朝刊が届くようになった。その日の一面を目にして、わたしは叫ばずにはいられなかった。
“新生KC、若き社長誕生“
そんな見出しと共に、懐かしくも目新しい、瀬人くんの顔写真が大きく掲載されていた。
お、大人だっ!
わたしの想像していた未来の瀬人くんの何倍も、美人さんだった。なんだか凛々しさが増して、大人びている。あの涼しげな瞳はあの頃のままで、なんだか懐かしい。
興奮のままに一面の記事を、何度も何度も読み直す。
彼がお金持ちに貰われていったことは知っていたけれど、まさかこんな大企業の社長の子供になっていたなんて、全く予想の範囲外だった。
わたしと同い年なのに、社長かぁ……
ただでさえ遠いと思っていた存在からさらに引き離されているようで、なんだか淋しいような、なんとも言えない感情に襲われる。まさか、大企業のトップに、この年にして就任することになるとは。わたしの目つけも大したものである。
その日からわたしはずっと夢見心地だった。地に足がついておらず、ふわふわ流れる雲みたいに不安定だった。
瀬人くんの功績や会社運営に関する報道は、たとえ下世話なものであろうともすべて収集して、もう、わたしは彼の友達なんて大したものじゃなくって、ファン、オタク、マニアみたいな、そういう有象無象になってしまったのだ。
それからずっと、わたしの宙ぶらりんな生活は続く。あの日、わたしが彼と本当の意味で再会するまで。
直近の話。
放課後、アルバイト先のスーパーに向かって必死に走っている。まさにその時だった。赤信号に阻まれて、くそー、早く行かないとヤバいのになってイライラしていたわたしは、ガードレール沿いに乗り付けたシルバーの外車なんて視界に入っていなかった。
「こんにちは」
声がする。
誰に向かって話しているんだろう。そう思ってあたりを見渡してみても、該当するのはわたしただ一人で。
ヤバいなあ、反応したくないなあ、近頃は若い女性を狙った悪質な犯罪も多いって聞くし。
赤信号もそろそろ変わる頃だし、無視して行っちゃおうと決めた、その時だった。
聞きなれない若い男の声が、わたしの名前を呼んだ。
「はぁ?」
「ボクだよ。久しぶりだね」
車の窓からあろうことか瀬人くんが顔を出した。
「ああ──っ!!!」
わたしは思わず、すごい声で叫んでしまった。今後、不審者に遭遇した時も、同じように叫べたら合格ってくらい。中産階級の人たちが小綺麗な一軒家を建てる住宅街に、わたしの絶叫が響いた。
「覚えていてくれたんだね!」
「せ、瀬人くんだよね……!?」
学ランに身を包んだ本物の瀬人くんが、嬉しそうに微笑んだ。
ヤバい、笑ってる!
わたしもすごい顔をしている気がして超気になるんだけど、もう、胸が高鳴って仕方がない! 正気でいられない!
「立ち話もなんだしさ、乗っていかない?」
行く行く! って言いたいところだけど、グッと堪えた。
どこか冷静に、アルバイトのことが急に頭にのぼってきて、ありがたく、断り難い誘いを跳ね除けた。
「ごめん! 今からバイトあるから!」
彼は一瞬驚いたような顔をして、その後
「そっか、アルバイトがんばってね」
と言って車の窓を閉め、車を発進させた。
車が遠くへ向かっていくのをぼーっと眺めていたかったけれど、仕事というものがある。赤信号だったけど、ここら辺は車も少ない。だからわたしは、全力で走った。品出しとレジ打ちが主な業務である、小さなスーパーへ。
あの出来事からしばらく経ったある日、わたしの家に一通の手紙が届いた。水道代の請求と一緒に入っていた手紙を、宛名も見ないでビリビリと破いて、後悔した。
内容を掻い摘んで言うと、海馬ランドの除幕式にわたしを招待する、みたいな。平たく言うと招待状が、わたしの元に届いたのだった。
子供の夢というのは、自由でいい。それを叶えられたら、最高。
ちょっと馬鹿げた名前の、具体的にいうなら、どっかの鉄道会社が赤字で運営していそうな遊園地の開園現場には、たくさんの人が訪れていた。
わたしもその中の一人。ちびっ子に紛れて、大人みたいなわたしが一人、大人らしく、関係者席からそれを見ている。
ああ、これが夢の果て。
わたしは少し冷静に、じわじわと夢に脳を侵食される感覚を覚えつつも、周りの興奮冷めやらない現場を眺めていた。
報道関係者や、スポンサー企業のお偉いさんの中に、子供は一人。わたしのことなんだけど。まあ、浮いている。わたしをみんなジロジロと見ている。今日の日のためにおろした新しい服に穴が開きそうなくらい。
ステージの幕が上がる。再び、光が差し込む。
恵まれない子供たちに救済を与える立場となった海馬瀬人くんは、さながら13人の使徒に囲まれるキリストのように微笑み、熱狂的に迎えられる先で、神様みたいに微笑んでいた。
教祖、彼にぴったりの言葉。この沸き立つような歓声に迎えられている光景、カメラのフラッシュが炊かれて、眩しい中で、瞬きもせずに直立の姿勢のまま、子供たちに手を振っている。言葉を紡いでいる。わたしの、神様。
わたしは気づくと、滝のように涙を流しながら、一心に彼を仰いでいた。あの施設の暮らしが走馬灯のように駆け抜けていく。彼の人生の頂点が、否、これからさらに繁栄していくであろう彼の人生の、大きな転換点。わたしはそのはじめに立っていた! 隣に立っていたんだ。
「あ」
また一瞬、目があった。あの時と同じだと思った。また、わたしは泣きそうになる。
けど、彼の目はあの時とは違って、真っ直ぐにわたしを見ているわけではなかった。どこか、違う場所を見てる。多分。
あ、露骨に逸らしたな。
気づいた頃には、もうすでに彼の演説は終わっていた。周りはもう、拍手大喝采って感じで、全員スタンディングオベーション。わたしだけ、取り残されたみたいに椅子にぼーっと座っていて、やっぱり一人だけ座っていたら目立つから、慌てて立ち上がって、適当に拍手のふりをした。
え、何これ。
なんだか、体の中の空気がすーっと全部、抜けていく感じ。
周りが全部、宗教のアレに見えた。アレって、わかるでしょ? みんな熱狂的に、瀬人くんを見てるけど、その実彼の背後にある大きな会社のことを見ている。だって、瀬人くんがいなくたって、海馬コーポレーションはあるわけで、そう、ジョブズがいなくたって、アイフォンの新しいのは出るし、あれ、あれってなんだっけ……
色々考えていると、頭が痛くなりそうだった。だから、昔の綺麗な思い出をまた再生する。施設での暮らし、みんなで食べたカレー、ドッジボールだって、卓球も、なんでもした。一緒に遊んだ。そう、彼の隣にはわたしがいた! 瀬人くんと一番一緒にいたのは、わたし。ただ唯一、彼から忘れられていなかった、わたし。
そう考えると、なんだかまた、あの美しい星を掴めそうな気がする。止まない拍手、腕が痛い。でも、最高。
ぼーっと椅子に座って、除幕式が終わるのを見届けたあと、なんだか立ち上がる気にもなれず、5分くらい、ずっとぼんやり座っていた。
そしたら、スタッフっぽい人に声をかけられて、あ、すみません。でていきますって言って、立ちあがろうとした。でも、その人はわたしを注意しにきた訳ではなかった。
わたしは小さな扉を通って、構造もよくわからないような廊下を歩かされた。そしたら、扉の前でその人は立ち止まり、「どうぞお入りください」と言い残して消えた。
控室、と書かれた扉。わたしの胸の中には、もしかしたら、という期待があった。そう、瀬人くんが、この中にいるのかもしれない。だったら、それくらい伝えてくれればよかったのに。
深呼吸を二回して、扉をノックする。
「どうぞ」
さっき客席で聞いていたのと全く同じ声が返ってきた。わたしは意を決して、扉を開ける。
「失礼します……」
「来てくれたんだね、待ってたよ」
芸能人の楽屋みたいなちっぽけな部屋の、小さな椅子に海馬くんが座っていた。
さっきみたいな「教祖」じみたオーラはまだ残っている。わたしの知らない海馬くんが、そこに座って、わたしを見上げている。
まるで面接みたい。全部見透かされている気がして、恐ろしい。
「さっきの、すごかったね。夢、叶ったじゃん。おめでとう」
わたしはちっちゃなパイプ椅子に座って、座高も高くなった彼の顔を見つめて、なんとか一言捻り出した。
「ありがとう……飲み物でも出そうか」
「あ、ごめん……」
「ごめんじゃなくてありがとうって言ってほしいな」
「そうだね……ありがとう」
妙にぎこちなくて、疲れる。わたしたちってこんなのだっけ? 間に流れた十年という月日がそうさせたのか、わたしと彼との間には、見えない境界線のようなものがあるような、気がする。
もらったペットボトルの緑茶の味なんて、まともにわかる訳がなかった。
「……まさかこんな大企業の社長になるなんて思ってなかったよ。すごいね、瀬人くんは」
「ボクが出て行ったこと、怒ってるかい?」
「……別に。怒るとか、そういう話じゃないでしょ。孤児だったわけだし、いつか出ていかないといけないんだし」
わたしの話す言葉が全て、試されているような気がした。もう、わたしは今すぐこの人に頭を下げて、許してって叫びたくなる。もう、昔みたいな輝きを彼は失っていて、今はもう、全てを焼き尽くす。太陽みたいに、ギラギラしている。
「一日だって、忘れたことがなかったんだ」
やめて。そんなに真面目な顔で、言わないでよ。
「……忘れなかったって、何を」
「君だよ」
背筋がゾッと、凍る。嬉しい言葉、待ち望んでいたはずなのに、なんでこんなに気持ち悪いんだろう。
「……そう、なんだ」
わたしも忘れてなかったよって、なんで言えないんだろう。
ああ、決定的に変わってしまった。あの時の星はもう、彼の中にはない。わたしの求めているものじゃ、ない。噛み合わない。全部、違う。
「ずっと頑張ってきたんだ。約束だったからね」
「うん。それはわたしも、覚えてる」
嘘。それだけなんてものじゃない。一緒に過ごした時間全部、いつでも鮮明に思い出せる。映画のフィルムを取り出して、鑑賞するみたいに、何もかも、覚えている。
「約束を守ったよ」
「そう、だね」
「どうだった?」
「すごいって、思ったけど……」
それだけ言って、しばらく沈黙が続いた。
彼がいきなり立ち上がって、わたしの顔を掴んだ。掴む、というより、わたしの顔全体を手で包むようにして、覆っていると表現した方が正しいのかもしれない。
この体勢だと、嫌でも目があうのだ。
あの瞳の中にわたしの顔が、うつっている。
目を見開いて硬直するわたしの顔が。
あ、と思った時には遅かった。冷たい手に困惑していると、だんだん顔が近づいてきて、一瞬だけ唇と唇が接触した。キス、というには短すぎる。医者の触診のような素早さで、わたしのファーストキスは終わった。
「……あ?」
満足そうな表情の瀬人くん。よくわからないけど、今すぐこの場を離れたいわたし。
わたしの肩をがっしりと掴む彼の手は、十年前とは比較にならないくらいすごい力があった。
何、何なの、今の。
混乱して硬直しているわたしを、受け入れたと思ったのか、彼はさらに体を密着させてくる。
気持ち悪い。
あ、そっか。気持ち悪い。そういうことだったのか。
自分の中から出てきた言葉に、納得した。耳元で何かぶつぶつ言ってくる彼の鎖骨部分を、思いっきり殴った。
「キモい! いきなりキスしてくるな!」
マジで大したことがなかった。わたしが神様だと思っていた人は、実はわたしのことが好きで、女として見ていて、それって要は性的対象として見られていたってことで、それってマジできしょい!
忘れなかった十年間の重みなんて、大したことなかった! わたしも向こうも、重い!
「わたしは瀬人くんのこと、好きじゃないから! バイバイ!」
いきなり暴力行為に打って出たわたしを見て、彼は今まで見たことないような、間抜けな顔をしていた。
ほんっとうに、どうでもいい。
わたしはそのまま部屋を飛び出して、施設を飛び出して、人で溢れかえった入場ゲートの横から飛び出した。
わたしは子供の時の瀬人くんが好きで、今の大人になった彼に用はない、っていうか、わたしのことが好きな彼に用はない。ずっとあの、二人で友達のままごとさえできていれば、よかったのに。どうして、どうしてわたしにキスしたんだよ。キモい、最悪。そうじゃなければ、ずっと好きで、夢みていられたのに!
抱えた違和感の正体が、想像していたよりもずっとしょうもなくて、わたしは泣いた。苦しくて、泣いた。
最寄り駅までバスに揺られて、その後、ちょうど家に戻ってきたお母さんと一緒に、並んでお味噌汁を作る。
かつてお母さんが葉っぱを丸めるために使っていたキッチンペーパーで、魚を包む。
普通の親子、母と娘。閉じた世界。
幸せな記憶のリプレイ。少し大人になったわたしは、現実と無理やり現実と対面することになった。それだけの話。今までが幸せだったのか不幸だったのかわからないけれど、これからわたしは、子供の皮を脱ぎ捨てて、少しづつ大人になる。
辛くて苦しい人生をサバイブするための、わたしの甘い夢は、これで終わり。
幸せな、幼年期の終わり。
わたしのお母さんはシングルマザーでわたしを育てていて、そこまではよかったんだけど、ある日違法な薬を売って警察に捕まってしまった。
わたしたちの家だった小さなアパートの中にたくさんの警察が入ってきて、白い粉の入った袋(わたしはこれを、お菓子の粉だよって教えられていた)を回収して、何も知らなかったわたしを保護してパトカーに一緒に乗った。
あれよこれよと時間がすぎて、天涯孤独だったお母さんと、そのたった一人の娘は引き離され、わたしは自治体が運営する施設にしばらく預けられることになった。お母さんが刑務所からオツトメを果たして出てくるまで、ここでいいこにしているだけの簡単なお仕事。
今思い出しても、めちゃくちゃな人生だと思います。お母さんが犯罪者という人は、誰も口にしないけど、あの家の中には割と多くて、親という生き物のせいで生き方を変えざるを得なかった子供たちがあの中にはたくさんいた。だから、自分が特別不幸だとはじめて思ったのは、あの施設を出た後。
まあ、その話は追々するとして、わたしの友達だった男の子の話でもしようかな。
わたしが施設に入ってから三ヶ月が経つ頃の昼下がり。曇りの日。
職員の人がホワイトボードの前にみんなを集めた。いつも、新しい子供が入ってくるときはそうするのが慣例になっていたから。
わたしたちは、新入りがどんなやつなのか、期待と若干の警戒を抱いて待っていた。
扉が開いて、利発そうな男の子と手を繋いだ小さな男の子が入ってきた。兄弟で一緒に施設に入ってくるっていうのは、そこまでレアってわけじゃない。
兄のほうと思わしき少年は、ホワイトボードの前に立って、険しい顔をして、試験の時みたいに慎重に、二人分の名前を書いた。
その年にしては達筆な字で書かれた二人の名前の漢字の読み方を、わたしは必死に考えていた。
職員の方から自己紹介があって、瀬人くんとモクバくんというのだと、教わった。瀬人くんはその後によろしくお願いします、なんて言って頭を下げていた気がする。
隣の女の子が、こっそりとわたしに「あの子かっこいいね」なんて言ってきた。
その時初めて彼の顔をじっくりと見たのだが、確かにそこいらの子供とは違う雰囲気、具体的に書くなら一度見ただけで引き寄せられるようなオーラが、もうこの時すでに備わっていたのだ。
でも、その時のわたしは日本人にしては珍しい色素を持った彼の青い目を、宝石みたいに思ってじっと見つめていた。あまりにもじっくり引き込まれていたので、視線に気づいた彼と目があった。
多分、3秒くらい。わたしの体感なので正確な数字でないのが申し訳ないんだけど、その時はたった3秒。されど3秒。
この二つの瞳にわたしの人生が大きくひっくり返ることになるだなんて、この時は全く考えていなかったのだ。
そう、これが海馬瀬人くんとわたしの出会いというやつ、です。
この施設にいるのは小学生くらいの低年齢の子供がほとんどだった。中高生がいた時期もあったにはあったんだけど、今はたまたま子供ばかりになってしまったらしい。
そうじゃなくても、親元に帰ったり、親戚の家に預かってもらったり、それぞれの事情で施設を出ていって、少しずつ減ってはちょっとずつ増えて。
偶然だけど、年下ばかりの環境だと、必然的にお姉さんの役回りを演じざるを得ないっていう状況になる。しかも、それを四六時中求められているのは正直しんどかった。今まで一人っ子だったからなおさら。
なんとなく同い年の友達というものが欲しかった。ほしい、と言うよりも飢えていた、と表現した方が正しいかも。
そう、わたしは飢えていた。あの小さなアパートに閉じ込められるようにして過ごしている中、毎日酷いいびきをかいて眠る母の横で、窓越しに眺めた空が、強烈なイメージとして瀬人くんと、直線で結びついた。
あの宝石みたいに綺麗な瞳に、普通なら届かないような、夜空の星みたいに遠くて美しいはずのものが、わたしのすぐ横にあって、それはちょっとでも勇気を出せば、触れることが叶うかもしれない。
彼の瞳に、わたしは夢を見た。あの一等星のように煌々ときらめく美しい瞳の水面にわたしを写してほしい。今まで見たどんなものより美しいものを、手に入れたい。
彼の瞳を見た日の夜、なかなか寝付けなかった。興奮して、動揺していた。
だから、わたしは瀬人くんを友達にしようと思った。こんなに何かを欲しがったのは、初めてだった。
夕ご飯の前にみんなでトランプをしたり、絵を描いたりしてのんびり遊んでいる間、瀬人くんだけは職員の人とチェスをしたり、難しそうな分厚い本を読んだりして過ごしていた。
どういう風に彼に声をかけたのか、実はあまり覚えていない。チェスのやり方を教えてもらおうとしたのか、はたまたすでに出来上がっていたグループの輪の中に彼ら二人を取り入れたのか。
初めて見た時のやや殺伐とした、警戒する野生動物めいた印象とは裏腹に、意外にも彼は友好的な態度を取った。
……なんて言ったっけ。これも全然覚えてない……ごめんなさい、大事なところは全部抜けちゃってる。
それを見て、わたしは、あー、なんだ、簡単じゃん。って思った。
飛び越えようとしているハードルが思ったよりも低くて、勢いつけすぎたのが馬鹿に思えてくる、みたいな、そんな呆気なさを感じたのだった。
あの時見せた、手負の獣みたいなあの眼はどこ行ったんだろうって。それで、なんだか瀬人くんのことが、野生のオオカミから近所のよく吠える子犬くらいに印象が変わった。でもそれは間違いだったんだよね。
月日を重ね、わたしがどんどん話しかけにいったりしているうちに、わたしたちの間には、友情というか、信頼の心が芽生えていったんだと思う。気がつけばわたしたちは、自然と二人──いや三人一緒に行動することが多くなった。わたしはそれが一生続けばいいな、って思っていたんだけど、無理だった。
彼がその時どんなことを考えていたかは今となってはもうわからない。わかっても、それがどうなのって話、だし。
色々思い出はあるけど、一番思い出に残ってるのは秋の遠足かな。
みんなで山に行って、山っていうか普通の森林公園なんだけど、わたしはまだちっちゃかったから山に見えたんだよね。
まあ、そこには中学生とかが自然学習で使う宿泊施設とかがあって、そこにみんなで泊まったってだけ。それだけの話なんだけど。わたしは結局1回しか参加しなかった。あ、それは瀬人くんもそうか。
飯盒でご飯炊いてカレー作って、キャンプファイヤーとかもしたかな。マシュマロって焼くと美味しいんだってここで初めて知った。そこまでなら、ただ楽しかったで終わるんだけど。本題はそこじゃなくて。
キャンプファイヤーが終わった後、天体観測をしようってことになって、みんなで一つの望遠鏡──全然安物のやつだけど──を使い回しながら、ちょうど日本で見ることができるっていうなんとか流星群が夜空に尾を引いて落っこちていくのを、山の上から見上げていた。
その日は超がつくくらい寒くて、わたしは瀬人くんモクバくん兄弟と同じアルミの布団みたいなやつにくるまって、カイロで必死に手先を温めながらそれを見ていた。
宇宙の小さな星が燃え尽きるところをみていたところで、浮かび上がってくる感想は、下手くそな作文以下みたいなありきたりな文章だけで、どれだけない頭を捻っても、瀬人くんを関心させられるような言葉が出てくることはなく、せっかく綺麗な星なのに普通に見ることができなくて、本当にもったいなかった。
「たくさん流れ星が流れてるから、いっぱい願いごとをしても全部叶いそうだね」
わたしはふと、そんなことを言ってみる。
「何を願ったの?」
「うーん、健康でいられますように、とか」
「あっはは、お爺さんみたいだ」
「元気って大事だし……瀬人くんは何をお願いしたの?」
「……笑わないで聞いてくれる?」
「もちろん」
わたしは瀬人くんの口から、どんな言葉が出るか緊張しながら待っていた。もしかしたら、わたしとおんなじ願いを唱えたかもしれない、なんて淡い期待と一緒に。
「遊園地を作りたいんだ。親のいない子供たちが無料で遊べるような、そんな場所を」
確か、その時彼はそう言ったはず。
星に願うお願いにしては、現実的なことだな、って思った。
お願いというより、彼の夢だったんだろう。あの時、澄んだ瞳で自分の目標を語ってくれた時のことを、今でもちゃんと覚えている。
彼の目の中の光が、最も美しく輝いた瞬間。思わずわたしははっと息を飲んで、その明かりを忘れないように、じっと見つめた。夜空をちょうど何度目かの星が燃え尽きていって、その命が燃え尽きるよりも眩い輝きが、ちょうど彼の青い目の中で太陽みたいに降臨していた。
「きっと、できるよ。瀬人くんだったら、できると思う」
幼いわたしはばか正直に、彼がやろうとしてできないことなんてないんだろうな、と本当の本気で信じていた。
信じていた、なんて過去形じゃなくって、あれから何年も経った後でも、それを信じ続けていたっていうのが実際の話なんだけど、なんだか彼が神様みたいに万能で、太陽みたいにあまねく世界を照らす人であるとその時わたしの中で決定づけられたのだ。
「ありがとう」
彼は照れ臭そうに笑って、また星を見上げた。
「遊園地、できたら遊びに行くね」
「できたら招待状を送るよ」
わたしの美しい青春の1ページ。
このシーンを絵画にして、わたしが死んだ後も語り継いでもらいたいくらい。わたしの今までの人生の中で一番美しい思い出。
あの時のわたしは、とても幸せそうな笑顔に包まれていることでしょう。神様みたいに微笑む瀬人くん、笑っているわたし、一生消えない、綺麗な傷を彼につけられてしまった。心臓を握られたみたいに離れ難い人。
わたしはこの人とずっと一緒にいたいと、本気で思ってしまったのだ。
わたしの細ささやかで幸福な日々は、突如として崩れてしまった。今からその時のお話をします。あーあ、思い出すだけでも嫌なんだけど、ね。
あの野外活動の日からしばらく、わたしは自分ならなんでもできるんだ。という謎の自信に満ち溢れていた。瀬人くんの見ている夢に当てられて、わたしも彼みたいに万能の人であるといった、愚かな勘違いをしていた。
わたしたちは価値観が似ている、同じことを考えている、通じあっているはずだという極端な思い込み、そしてこの閉じた世界である施設でずっと仲良く暮らしていけるんだ、という願望。それらがぐちゃぐちゃにわたしの中で混ざった結果が、これ。
実際のところ、瀬人くんはそんなチンケな願いじゃなくって、ずっと遠くの目標に見ていたのだ。
瀬人くんが施設を離れるという日、前日に泣きまくって目を腫らしたわたしは、二人の兄弟が大きな鞄を持って門をくぐり、今まで目にしたことのない高そうな車に乗り込むのを、じっと固まって見届けようとした。本当は、暴れてそれを妨害しようか、とか、車のタイヤに細工を仕組んで動けなくしてやろうとか、そういう非現実的な馬鹿馬鹿しい悪戯を夜通し考えては、実行するかしまいか永遠に考えていた。
現実のわたしは普通に臆病な人間なので、それが実行されることはなく、膝で拳をかたく結んで、必死に泣かないように目を大きく見開いていた。
わたしは長い長い手紙を二人に手渡して、絶対に忘れないからね、なんて言って思わず抱きついてしまった。感極まっての行動である。
映画のヒロインみたいな仕草を突然されてしまった瀬人くんは、それも想定の範囲内であるかのように優しくわたしの背中を撫でて、優しく「わかった」と言ってくれた。そして、「僕がいなくても大丈夫だよ」とも、言った。
そう言われたら、不思議となにがなんでも大丈夫な気がしてくる。全てから祝福されているような、満たされた気持ちになる。
わたしは流れる涙で彼の服を濡らさないようにずっと堪えていた。
もう二度と、この手がわたしに触れることはないだろう。あの言葉がわたしに向かって発せられるのはこれで最後だと、おもった。
この暖かい手の感触を、絶対に死ぬまで忘れないように、必死に背中に神経を集中させた。
周りがスローモーションみたいにゆっくりと回って、他の人の声なんて何にも聞こえない。正しく二人きりの世界に浸れる、最後の時間だった。
瀬人くんは綺麗な思い出だけをわたしに残して、遠く地平線の向こうへ消えていった。きっと彼は向こうで幸せになる。
残されたわたしは、我慢しきれなくてその場に崩れ落ちて、周りの目なんか気にせずにわんわん泣いた。これが今から、6年前のこと。
瀬人くんは僕がいなくてもわたしは大丈夫だと言ったけれど、全くそんなことはなかった。
精神の大事なところがポッカリとかけ落ちてしまったわたしは、それからずっと抜け殻みたいな状態で、ずっと過ごした。転入した先の小学校の授業は、瀬人くんと語り合ったどんな会話よりも低俗で、凡庸で、つまらないことのように思えた。 授業内容なんて全く頭に入れなくても、不思議とテストでいい点を取ることはできた。これをわたしは、彼からの祝福であると解釈し、より良い人間になることで彼と再び会うことができるのだと、頑なに信じた。
いくら褒められようが、興味関心を持たれようが、それはどうでもいいことで、あの美しい思い出だけが、抜け殻のわたしを支える唯一の宝物だった。それさえあれば、どれだけ苦しくても、生きることができる気がした。
季節は巡る。
お勤めを終えてシャバに戻ってきたお母さんとわたしが、都内の小さな集合住宅で暮らしていても、小学校を卒業して、セーラー服に袖を通すことになっても、わたしは1日だって海馬くんのことを忘れたことはなかった。
この頃になってくると、自分の身の回りの不幸について、色々と目敏く気づいてしまうものである。
わたしの不幸というものは、この国で生まれて生きる中では、比較的珍しいものであるらしい。
わたしと母がいつも好奇の目で周囲から見られているという事実も、重く、否、しっかりと、でも抱えすぎないように受け止めている。
お母さんは、わたしが学校に行くのと同時に家を出て、保護観察官の人にお世話された仕事場へ向かう。若く、美しいお母さんは、犯罪を犯して刑務所に入ろうが、薬物依存を治す会に行こうが綺麗で、やつれているけれど、思春期の娘に、素直にそう思わせることは本当にすごいと思う。
母親自慢はそれくらいにしておこう。
長く離れていた割に、わたしたちの生活は比較的順調に進んでいる。
これも、瀬人くんがわたしにくれた祝福のおかげだと思っている。そう信じたい。
母に直接、瀬人くんのことを話したことはない。というか、誰にもこのことをちゃんと言ったことはない。
中学生になると、好きな人の話だとか、恋の話だとか、まあそういうしょうもない話で盛り上がるお年頃である。
友人たちがそんな話題で盛り上がる中、わたしはそれを適当にあしらって、誤魔化して、ふと考える。
わたしは瀬人くんのことが好きだ。でも、それは恋愛のそれなのだろうか、と。
彼とはずっと一緒にいたいし、それを今でも願っている。そうしようと望むなら、結婚という手段を取るのが一般的だろう。
友情だけで一緒にいることは不可能ではない。社会契約としての結婚に、愛が必要ではないからだ。教会で式を挙げるときに、お互いを愛しているか問われるそうだ。愛している、しかし、それは恋であると呼べるか?
わたしは答えを求めて、たくさん迷い、もがき苦しんだが結論らしい結論は出なかった。
会えばわかるのかもしれない。というか、会いたい。彼の顔を見て、どれほど美しく成長したのか確かめられれば、わたしの複雑な感情に名前をつけられると思う。そんな淡い希望を胸に、わたしは空虚な中学校生活の3年間を終えた。
クリスマスにサンタを待つ子供のように、わたしはずっと瀬人くんに会いたいと願っていた。高校生になっても、その願いが薄れることはなく、さらに欲望は肥大化していくことになる。
神格化された瀬人くんの偶像は、わたしの心中の中で日に日に輝きを増し、もはや返ってこなかった手紙の返事や、彼がわたしのことを忘却している可能性など、全く考えないようになった。
ある日のこと、わたしは彼と予想外の再会を果たすことになる。
極限まで世間と接触を絶っている我が家に、ようやく朝刊が届くようになった。その日の一面を目にして、わたしは叫ばずにはいられなかった。
“新生KC、若き社長誕生“
そんな見出しと共に、懐かしくも目新しい、瀬人くんの顔写真が大きく掲載されていた。
お、大人だっ!
わたしの想像していた未来の瀬人くんの何倍も、美人さんだった。なんだか凛々しさが増して、大人びている。あの涼しげな瞳はあの頃のままで、なんだか懐かしい。
興奮のままに一面の記事を、何度も何度も読み直す。
彼がお金持ちに貰われていったことは知っていたけれど、まさかこんな大企業の社長の子供になっていたなんて、全く予想の範囲外だった。
わたしと同い年なのに、社長かぁ……
ただでさえ遠いと思っていた存在からさらに引き離されているようで、なんだか淋しいような、なんとも言えない感情に襲われる。まさか、大企業のトップに、この年にして就任することになるとは。わたしの目つけも大したものである。
その日からわたしはずっと夢見心地だった。地に足がついておらず、ふわふわ流れる雲みたいに不安定だった。
瀬人くんの功績や会社運営に関する報道は、たとえ下世話なものであろうともすべて収集して、もう、わたしは彼の友達なんて大したものじゃなくって、ファン、オタク、マニアみたいな、そういう有象無象になってしまったのだ。
それからずっと、わたしの宙ぶらりんな生活は続く。あの日、わたしが彼と本当の意味で再会するまで。
直近の話。
放課後、アルバイト先のスーパーに向かって必死に走っている。まさにその時だった。赤信号に阻まれて、くそー、早く行かないとヤバいのになってイライラしていたわたしは、ガードレール沿いに乗り付けたシルバーの外車なんて視界に入っていなかった。
「こんにちは」
声がする。
誰に向かって話しているんだろう。そう思ってあたりを見渡してみても、該当するのはわたしただ一人で。
ヤバいなあ、反応したくないなあ、近頃は若い女性を狙った悪質な犯罪も多いって聞くし。
赤信号もそろそろ変わる頃だし、無視して行っちゃおうと決めた、その時だった。
聞きなれない若い男の声が、わたしの名前を呼んだ。
「はぁ?」
「ボクだよ。久しぶりだね」
車の窓からあろうことか瀬人くんが顔を出した。
「ああ──っ!!!」
わたしは思わず、すごい声で叫んでしまった。今後、不審者に遭遇した時も、同じように叫べたら合格ってくらい。中産階級の人たちが小綺麗な一軒家を建てる住宅街に、わたしの絶叫が響いた。
「覚えていてくれたんだね!」
「せ、瀬人くんだよね……!?」
学ランに身を包んだ本物の瀬人くんが、嬉しそうに微笑んだ。
ヤバい、笑ってる!
わたしもすごい顔をしている気がして超気になるんだけど、もう、胸が高鳴って仕方がない! 正気でいられない!
「立ち話もなんだしさ、乗っていかない?」
行く行く! って言いたいところだけど、グッと堪えた。
どこか冷静に、アルバイトのことが急に頭にのぼってきて、ありがたく、断り難い誘いを跳ね除けた。
「ごめん! 今からバイトあるから!」
彼は一瞬驚いたような顔をして、その後
「そっか、アルバイトがんばってね」
と言って車の窓を閉め、車を発進させた。
車が遠くへ向かっていくのをぼーっと眺めていたかったけれど、仕事というものがある。赤信号だったけど、ここら辺は車も少ない。だからわたしは、全力で走った。品出しとレジ打ちが主な業務である、小さなスーパーへ。
あの出来事からしばらく経ったある日、わたしの家に一通の手紙が届いた。水道代の請求と一緒に入っていた手紙を、宛名も見ないでビリビリと破いて、後悔した。
内容を掻い摘んで言うと、海馬ランドの除幕式にわたしを招待する、みたいな。平たく言うと招待状が、わたしの元に届いたのだった。
子供の夢というのは、自由でいい。それを叶えられたら、最高。
ちょっと馬鹿げた名前の、具体的にいうなら、どっかの鉄道会社が赤字で運営していそうな遊園地の開園現場には、たくさんの人が訪れていた。
わたしもその中の一人。ちびっ子に紛れて、大人みたいなわたしが一人、大人らしく、関係者席からそれを見ている。
ああ、これが夢の果て。
わたしは少し冷静に、じわじわと夢に脳を侵食される感覚を覚えつつも、周りの興奮冷めやらない現場を眺めていた。
報道関係者や、スポンサー企業のお偉いさんの中に、子供は一人。わたしのことなんだけど。まあ、浮いている。わたしをみんなジロジロと見ている。今日の日のためにおろした新しい服に穴が開きそうなくらい。
ステージの幕が上がる。再び、光が差し込む。
恵まれない子供たちに救済を与える立場となった海馬瀬人くんは、さながら13人の使徒に囲まれるキリストのように微笑み、熱狂的に迎えられる先で、神様みたいに微笑んでいた。
教祖、彼にぴったりの言葉。この沸き立つような歓声に迎えられている光景、カメラのフラッシュが炊かれて、眩しい中で、瞬きもせずに直立の姿勢のまま、子供たちに手を振っている。言葉を紡いでいる。わたしの、神様。
わたしは気づくと、滝のように涙を流しながら、一心に彼を仰いでいた。あの施設の暮らしが走馬灯のように駆け抜けていく。彼の人生の頂点が、否、これからさらに繁栄していくであろう彼の人生の、大きな転換点。わたしはそのはじめに立っていた! 隣に立っていたんだ。
「あ」
また一瞬、目があった。あの時と同じだと思った。また、わたしは泣きそうになる。
けど、彼の目はあの時とは違って、真っ直ぐにわたしを見ているわけではなかった。どこか、違う場所を見てる。多分。
あ、露骨に逸らしたな。
気づいた頃には、もうすでに彼の演説は終わっていた。周りはもう、拍手大喝采って感じで、全員スタンディングオベーション。わたしだけ、取り残されたみたいに椅子にぼーっと座っていて、やっぱり一人だけ座っていたら目立つから、慌てて立ち上がって、適当に拍手のふりをした。
え、何これ。
なんだか、体の中の空気がすーっと全部、抜けていく感じ。
周りが全部、宗教のアレに見えた。アレって、わかるでしょ? みんな熱狂的に、瀬人くんを見てるけど、その実彼の背後にある大きな会社のことを見ている。だって、瀬人くんがいなくたって、海馬コーポレーションはあるわけで、そう、ジョブズがいなくたって、アイフォンの新しいのは出るし、あれ、あれってなんだっけ……
色々考えていると、頭が痛くなりそうだった。だから、昔の綺麗な思い出をまた再生する。施設での暮らし、みんなで食べたカレー、ドッジボールだって、卓球も、なんでもした。一緒に遊んだ。そう、彼の隣にはわたしがいた! 瀬人くんと一番一緒にいたのは、わたし。ただ唯一、彼から忘れられていなかった、わたし。
そう考えると、なんだかまた、あの美しい星を掴めそうな気がする。止まない拍手、腕が痛い。でも、最高。
ぼーっと椅子に座って、除幕式が終わるのを見届けたあと、なんだか立ち上がる気にもなれず、5分くらい、ずっとぼんやり座っていた。
そしたら、スタッフっぽい人に声をかけられて、あ、すみません。でていきますって言って、立ちあがろうとした。でも、その人はわたしを注意しにきた訳ではなかった。
わたしは小さな扉を通って、構造もよくわからないような廊下を歩かされた。そしたら、扉の前でその人は立ち止まり、「どうぞお入りください」と言い残して消えた。
控室、と書かれた扉。わたしの胸の中には、もしかしたら、という期待があった。そう、瀬人くんが、この中にいるのかもしれない。だったら、それくらい伝えてくれればよかったのに。
深呼吸を二回して、扉をノックする。
「どうぞ」
さっき客席で聞いていたのと全く同じ声が返ってきた。わたしは意を決して、扉を開ける。
「失礼します……」
「来てくれたんだね、待ってたよ」
芸能人の楽屋みたいなちっぽけな部屋の、小さな椅子に海馬くんが座っていた。
さっきみたいな「教祖」じみたオーラはまだ残っている。わたしの知らない海馬くんが、そこに座って、わたしを見上げている。
まるで面接みたい。全部見透かされている気がして、恐ろしい。
「さっきの、すごかったね。夢、叶ったじゃん。おめでとう」
わたしはちっちゃなパイプ椅子に座って、座高も高くなった彼の顔を見つめて、なんとか一言捻り出した。
「ありがとう……飲み物でも出そうか」
「あ、ごめん……」
「ごめんじゃなくてありがとうって言ってほしいな」
「そうだね……ありがとう」
妙にぎこちなくて、疲れる。わたしたちってこんなのだっけ? 間に流れた十年という月日がそうさせたのか、わたしと彼との間には、見えない境界線のようなものがあるような、気がする。
もらったペットボトルの緑茶の味なんて、まともにわかる訳がなかった。
「……まさかこんな大企業の社長になるなんて思ってなかったよ。すごいね、瀬人くんは」
「ボクが出て行ったこと、怒ってるかい?」
「……別に。怒るとか、そういう話じゃないでしょ。孤児だったわけだし、いつか出ていかないといけないんだし」
わたしの話す言葉が全て、試されているような気がした。もう、わたしは今すぐこの人に頭を下げて、許してって叫びたくなる。もう、昔みたいな輝きを彼は失っていて、今はもう、全てを焼き尽くす。太陽みたいに、ギラギラしている。
「一日だって、忘れたことがなかったんだ」
やめて。そんなに真面目な顔で、言わないでよ。
「……忘れなかったって、何を」
「君だよ」
背筋がゾッと、凍る。嬉しい言葉、待ち望んでいたはずなのに、なんでこんなに気持ち悪いんだろう。
「……そう、なんだ」
わたしも忘れてなかったよって、なんで言えないんだろう。
ああ、決定的に変わってしまった。あの時の星はもう、彼の中にはない。わたしの求めているものじゃ、ない。噛み合わない。全部、違う。
「ずっと頑張ってきたんだ。約束だったからね」
「うん。それはわたしも、覚えてる」
嘘。それだけなんてものじゃない。一緒に過ごした時間全部、いつでも鮮明に思い出せる。映画のフィルムを取り出して、鑑賞するみたいに、何もかも、覚えている。
「約束を守ったよ」
「そう、だね」
「どうだった?」
「すごいって、思ったけど……」
それだけ言って、しばらく沈黙が続いた。
彼がいきなり立ち上がって、わたしの顔を掴んだ。掴む、というより、わたしの顔全体を手で包むようにして、覆っていると表現した方が正しいのかもしれない。
この体勢だと、嫌でも目があうのだ。
あの瞳の中にわたしの顔が、うつっている。
目を見開いて硬直するわたしの顔が。
あ、と思った時には遅かった。冷たい手に困惑していると、だんだん顔が近づいてきて、一瞬だけ唇と唇が接触した。キス、というには短すぎる。医者の触診のような素早さで、わたしのファーストキスは終わった。
「……あ?」
満足そうな表情の瀬人くん。よくわからないけど、今すぐこの場を離れたいわたし。
わたしの肩をがっしりと掴む彼の手は、十年前とは比較にならないくらいすごい力があった。
何、何なの、今の。
混乱して硬直しているわたしを、受け入れたと思ったのか、彼はさらに体を密着させてくる。
気持ち悪い。
あ、そっか。気持ち悪い。そういうことだったのか。
自分の中から出てきた言葉に、納得した。耳元で何かぶつぶつ言ってくる彼の鎖骨部分を、思いっきり殴った。
「キモい! いきなりキスしてくるな!」
マジで大したことがなかった。わたしが神様だと思っていた人は、実はわたしのことが好きで、女として見ていて、それって要は性的対象として見られていたってことで、それってマジできしょい!
忘れなかった十年間の重みなんて、大したことなかった! わたしも向こうも、重い!
「わたしは瀬人くんのこと、好きじゃないから! バイバイ!」
いきなり暴力行為に打って出たわたしを見て、彼は今まで見たことないような、間抜けな顔をしていた。
ほんっとうに、どうでもいい。
わたしはそのまま部屋を飛び出して、施設を飛び出して、人で溢れかえった入場ゲートの横から飛び出した。
わたしは子供の時の瀬人くんが好きで、今の大人になった彼に用はない、っていうか、わたしのことが好きな彼に用はない。ずっとあの、二人で友達のままごとさえできていれば、よかったのに。どうして、どうしてわたしにキスしたんだよ。キモい、最悪。そうじゃなければ、ずっと好きで、夢みていられたのに!
抱えた違和感の正体が、想像していたよりもずっとしょうもなくて、わたしは泣いた。苦しくて、泣いた。
最寄り駅までバスに揺られて、その後、ちょうど家に戻ってきたお母さんと一緒に、並んでお味噌汁を作る。
かつてお母さんが葉っぱを丸めるために使っていたキッチンペーパーで、魚を包む。
普通の親子、母と娘。閉じた世界。
幸せな記憶のリプレイ。少し大人になったわたしは、現実と無理やり現実と対面することになった。それだけの話。今までが幸せだったのか不幸だったのかわからないけれど、これからわたしは、子供の皮を脱ぎ捨てて、少しづつ大人になる。
辛くて苦しい人生をサバイブするための、わたしの甘い夢は、これで終わり。
幸せな、幼年期の終わり。