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遊戯王
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恐ろしいほどに、夏だった。
南半球に位置するこの国は、暦の上では正月も近いというのに、太陽が照りつけ、最高気温が日本の比ではないほどに高く、ビーチは水着を着た人々で埋め尽くされていた。
日本とは真逆の四季の移ろいに、ただの異邦人のわたしは驚きを隠すことができない。駅のターミナルで着ていたセーターに袖を通すことは、おそらくないだろうと思う。
今日は休日だった。留学生向けの英語学校の寮は閑散としており、ルームメイトは皆街に繰り出している。わたしも、いつまでも引きこもっていないでたまには外に出るべきなのだ。理屈ではわかっている。
スマホの画面をだらだら見ているべきではない。これだと、なんのために留学したかわからなくなってしまう。
わたしは、重い腰を上げてベッドからおき上がると、スウェットからラフなTシャツとジーンズに着替えた。手入れの楽な髪をドライヤーで炙ってから、携帯と財布だけを手に、寮をでた。
空調の効いた室内を出ると、日本とは違う、ドライな暑さがわたしの体を蝕んだ。うわ、最悪。そんな言葉が、自然と口からこぼれ出た。
出たところで、何をするかなんて予定は立てていない。ただ行き当たりばったりに、散歩するだけだ。
夜であれば、語学学校のクラスメイトに教えてもらったクラブに行けばいいのだけど、今は昼だ。欲しいものは昨日スーパーで買ってしまったし、不足しているものは何もない。
──わたし、時間を浪費してる。
そんな罪の意識だけが肥大化して、ビーチ沿いの道路を歩いているわたしの肩にのしかかる。
外に出ても、人と話すわけじゃないし、主要な観光スポットらしきものに行こうとすれば、金がかかる。通帳は日々の生活を送るだけでも漫然と減っていくし、無駄遣いなんて、とても。
今日はもう、散歩で潰してしまおう。
そう考えながら、道路標識で見えた公園まで歩くことにした。
わたしは知らなかったけれど、この公園は地元民の人気スポットになっているらしい。そこは、サッカーをしたり、ランニングをしたり、はたまたキャッチボールをしている市民が点在していた。
入場料のいらないタイプの公園だったので、わたしはホッとしながら、馬鹿でかい、海の見える広場にあるベンチにどかっと腰を降ろす。
こんなに暑いなら、飲み物くらい持ってくればよかったな。
日差しがガンガンと照りつけている。わたしは木陰に座って、海を見ているけれど、他の人はこんな中でも元気いっぱい運動をしている。
最近運動不足だし、こういうところで走ってみても、いいかも。
でも、今の格好では無理だ。また後で出直さないと。
そんなことを考えながら、わたしは芝生と海のコントラストを楽しんでいた。
「なあ、隣いいよな?」
真横から、声がした。男の声だった。聞きなれない日本語だったので、ギョッとしてすぐ目線をやると、よく知った顔があった。
「あ、も、十代⁉︎」
「よっ、久しぶりだな。ナマエ」
わたしの横に座った男──遊城十代とわたしは、それはもう、シンプルすぎるほどあっさりと異国の地で再会した。
「卒業式以来だっけ?」
「そ、そうだよ……十代、な、なんでここにいるわけ?」
わたし達はもう、お酒を飲める年になっていた。なって、しまっていた。
もう、あれからそれだけの月日が流れてしまっていたのか、とわたしは懐古する。
あの日、あの年にデュエルアカデミアにいた生徒で、遊城十代を覚えていない人なんて、おそらくいないだろう。十代は、まさにアカデミアの伝説になったようなものなんだから。
けれど、卒業式のあの日以降、彼の足取りを知る者はいない。進路調査にもまともに解答しなかったので手がかりはなく、ただ世界のどこかで、風のように漂っている、らしい。
この世界のどこかで、必ず生きているということは確かなのだと、万丈目くんは声を大にして言っていた。
──そして、それが、わたしの知りうる情報の全てだった。
「俺さ、旅をしてるんだ」
「卒業式から、ずっとしてるってこと?」
「うん、まあ、そういうこと」
「ナマエはなんでこんなとこにいるんだ?」
「留学だよ。語学留学」
「ふぅん」
十代は、そこには特に興味がないようで、深く追求されることはなかった。
自分の選んだ進路を口に出して、わたしは一人、寂しくなった。
みんな、それぞれ頑張っているんだろうか。少なくとも、わたしみたいに目標もなく、大学でぶらぶらしている人はいないだろう。
「十代ってさ、英語喋れるの?」
「いや、ぜんっぜんでさあ」
「え……じゃあ普段どうしてるの……」
「うーん、俺の言いたいことって、なんとなく相手に伝わるっぽいんだよな」
わたしは思わず肩を落とした。入国審査の手続きですらも、言葉が出てこないで沈黙が続いたわたしからすれば、羨ましい限りだ。
世界中で旅をしているならば、少しくらいはできているだろうと思っていたわたしは、彼に期待しすぎていたのだろうか。頭の中で授業中、よだれを垂らして気持ちよさそうに寝ていた十代の姿を思い出した。本当にこの人、ずっとレッド寮にいるつもりなのかも、と勝手に心配していたのは、懐かしい。
──結局、十代は今でもオシリスレッドの制服を身につけたまま、世界中を旅している訳だから、あの学校生活に未練とか、後悔とか、嫌だったことなんてないんだろう。
あの赤色の制服に腕を通すことは、わたしにはなかった。それに、わたしはあの学校の制服のデザインが気に入らなくて、在学中は苦痛で仕方がなかった。
あのノースリーブが、どうしても嫌だったのだ。卒業と同時に島を出た時、思わず脱ぎ捨てたくらいだ。制服とは、わたしに取って枷だった。それを、十代は卒業後も律儀に着用して、普段着にしてしまっているのだから、恐れ入ったものだ。
「ってかさ、そっちこそどうなんだよ。語学留学、なんだろ? ちょっとは英語、喋れるようになったか?」
「…………ううん、全然」
「マジ? 英語の成績だけはトップだったろ?」
「会話って、ペーパーテストでどうにかなるようなものじゃないからね」
「うわ、横文字かよ」
「話せるか聞いてきたの、そっちじゃん」
……まあ、ペーパーテストはあくまで和製英語であって、こっちでは通じないんだけどね。
わたしがそう言う前に、十代の腹が盛大に音を立てた。
「なあ、腹減らね?」
わたしたちは、公園に併設されたありふれたカフェに入った。時間としては、ちょうどお昼時で、店内はほぼ満員。盛況だった。
わたしは、絶対に一番安いランチを頼むと決めていたので、実際に一番安かったパンケーキを頼んだ。それにコカコーラをつけた。暑かったので、冷たい飲料水を体が欲していたのだ。
十代は、適当にあれこれサンドイッチやら、パスタやらを頼んでいた。よくそんな金があるなあ、と呑気に思った。旅の資金がどこから湧いているか。それを聞く根性はわたしにはない。
料理が届くと、テーブルの上はいっぱいになった。カラフルな皿の上に乗っかった軽食を眺めていると、寮の食事を連想した。
「留学ってさあ、どっかにホームステイしてるのか?」
「ううん、寮」
「じゃあアカデミアとおんなじか」
わたしはパンケーキを一口切って、口に運んだ。ヤケクソなくらいにかけられたシロップが、口の中でとろける。ひたすら、甘い。
「いや、そうでもない。こっちじゃ相部屋だし、食事も風呂のルールも全然違うし、アカデミアの寮ってすごかったんだなって思ったよ」
「ああ、ブルーは個室だったっけ」
「うん、こっちのルームメイトは日本語通じないし、お互い片言の英語で喋ってるから超気を使う」
「へー、ってかそのパンケーキシロップかけすぎじゃね?」
「だよね。これめっちゃ甘い。シロップも日本のと違うんじゃないかな」
本当は、バターだけのやつを頼んだつもりだったんだけど、違うものが来てしまった。訂正するのも面倒だし、まあ、ダイエットしてるわけでもないしな。と自分を納得させた。
こんな時、十代だったらちゃんと言うんだろうなあ、と本人を目の前にして勝手に妄想した。
「ってかさ、すごい量注文してるけど全部食べれる?」
「いけるいける」
そういいながら、彼はものすごい勢いで卓上の料理を胃に押し込んでいった。まるで、数日間何も食べていなかったような食いつきっぷりだ。
「いやー、ここに来てから全然食えてなくってさ」
「ええ……」
──どうやら、わたしの読みは当たったようだ。
「ここに来てからって、いつから?」
「昨日」
「えっ、すごく最近じゃん」
「ナマエはいつからここに?」
「うーん、一ヶ月くらい? あと二ヶ月したら日本に戻るけどね」
「それまでに英語喋れるようになってるといいな」
「…………うん」
あと二ヶ月で、わたしは何かしらの爪痕を残して帰国しないといけない。十代の言葉に、今まで見ないようにしていた目的や、事実を突きつけられたような気がして、ちょっと落ち込んだ。
出国前は、あんなにやる気に満ち溢れていたのに、何かを掴める気がして日本を飛び出したのに、今のわたしの体たらくときたら……。
十代の方が、よっぽど堂々と外国で暮らしている。わたしなんて、観光客の気分が抜けきっていない、子供みたいなものだ。
そんなことを考えながら、わたしはストローを加えてがじがじと噛んだ。
プラスチックの無機質な味に、ほんの少しだけ残ったコーラの、レモンの香りと甘いシロップが入り混じったおもちゃのような味が混ざり合って、よくない気持ちが湧き上がってくる。
こんな子供っぽいことをするのが、わたしの悪い癖だった。店員さんにも、十代にもこんなところ、見られたくないのに、止められない。
「あー、食ったー」
わたしがウダウダと考えている間に、大量の昼食を平らげた十代は、満足げに腹をさすった。
「あれだけの量を……」
ちらりと、伏せられた伝票の内容を確認してわたしは目を見開いた。
「絶対割り勘にしないからね。そっちはちゃんとそっちで払ってよ」
「バレた……?」
そう言って、十代はニッと笑った。
それを見て、わたしはなぜか一人ぼっちになってしまったかのような、そんな不安な気持ちになった。
置いていかないで、と泣きだす子供みたいな。そういう心の弱いところを、フォークで突っつかれているみたいな、そんなふうになった。こんな気持ちは、久しぶりだった。
あれからわたしたちは、ここらをぐるぐると歩きながら、取り止めのない話を続けた。
こうやって、牧羊犬に追われる羊のように歩いていると、異国の土地でも地元の道と大差ないように思えてきた。十代が隣にいるということも大きいのだろう。
今のわたしは、なんていうか、無敵モードに入ったような気がして、ちょっと足取りが軽い。
ずるずると歩いて、足も痛くなってきたので、わたしは語学学校近くの、酒の飲めるちょっとしたクラブに彼を誘った。
「俺、こんなとこ入ったことないな」
その言葉に、わたしはちょっと嬉しくなった。
クラブ、といってもここはそんな高級なところじゃなくって、ライブハウスとショットバーをくっつけたような、要は音楽で踊って飲める、ちょっとした飲み屋みたいな店だった。
別にここも、わたしの行きつけであるとかそういうのではなくって、語学学校の先生に教えてもらっただけで、実際に入店するのは二回目だった。
しかも、一回目は同じクラスを受けているクラスメイトに連れられて、社会見学にいく小学生みたいな感じだったし。
それでも、わたしはいかにもこういう場所に手慣れているんですよ。という雰囲気を出して、十代をエスコートした。
今は時間も早いし、特に誰かが演奏したりDJブースに立っている、ということもないので、店内にいる客はわたしたちだけだった。
カウンターの上にあるテレビは、アメリカのアメフトの中継をしているらしく、レッドスキンのアイコンが描かれた旗を、観客が必死で振っている様子が画面に映っていた。でも、音声は聞こえない。代わりに、MTVの放送がラジオ代りに店内に響いていた。
外は明るいのに、やけに店内は暗くて、照明がわりのネオンの光が、わたしたちの顔を照らしていた。
「十代ってアルコールいける?」
「あー、俺はそんなに……」
「ここソフトドリンクもあるし、そっち頼もうか」
メニュー表を覗き込みながら、わたしはそう言った。十代は、わたしの顔を見て、少し驚いたような顔をしていた。
「ナマエ、酒飲むのか」
「うん、まあ、ちょっとはね」
彼はまるで、わたしが未成年飲酒をしている現場を目撃したような表情になった。
……逆に、わたしも十代が酒を飲むところなんて見てしまったら、同じ顔をしたかもしれない。わたしたちの中で、お互いのイメージが高校生の時のままで固定されてしまっているのだ。
なんだか格好付けたくて、わたしはブラッドオレンジ色の、名前の長いカクテルを注文した。これで、明日の昼代は吹っ飛んだ。我ながら、計画性がなさすぎる。
ワンドリンク頼むのがここのルールなので、わたしは十代にもジンジャーエールを頼んであげた。
わたしたちは、一杯八ドルだかなんだかする、子供の時にはあり得なかった飲み物をちびちびと飲んで、高い椅子に少し背筋を伸ばしながら、店に流れる往年の名曲を聞き流した。
日本語で会話しているから、店員さんは何も理解できていないと思うけれど、なんだか気恥ずかしくて、わたしたちの間には、沈黙が流れる。
店のスピーカーからは、うちらの親世代がハマっていたであろう、ギャンギャンとギターがうるさいハードロックがかかっていたかと思えば、ブルーノマーズやマルーン5みたいな比較的最近のやつも一緒に流れてきて、その乱雑さにわたしは一人で勝手に呆れた。十代の耳は、そういうメロディを感知しないのか、音楽の話題は長く続かなかった。
わたしは、十代について色々と聞きたかったけれど、結局わかりやすい答えを得ることはできなかった。彼の話は、なんだか映画のワンシーンを切り取って連続したような、変な話が多かった。普通に話していたら、嘘だと思われるようなことを、大真面目に喋った。
普段のわたしだったら、嘘でしょ! と言ってゲラゲラ笑っていたと思う。でも、十代はしょうもない嘘をつくような人じゃないし、笑ってはいけないような気がして、大真面目な顔でコクコクと頷いて、わたしはいろんな話を聞いていた。
曰く、彼の体には昔の友達の魂が宿っているだとか、荒唐無稽なオカルト話だったけれど、あのアカデミアで起こったことから考えると、あながち嘘ではなさそうだと、わたしは信じることにした。
そうこうしていると、そのうち、だんだん疲れてきて、落ち着かない店内からさっさと外に出た。そしたら、なんだか馬鹿馬鹿しくて、笑えてきて、二人で腹を抱えながら、海の方へと歩き出した。
「俺さあ、やっぱあの店落ち着かないや」
「うん、わたしも」
「あのオレンジのやつ、美味かった?」
「ううん、全然。超苦かった」
「やっぱ?」
「酸っぱすぎるのと苦いのって、全然違いがわかんないよ」
わたしがそういうと、十代はニッと笑った。白い歯が、やけに眩しい。
十代と喋っていると、背中の荷物を下ろしているような、楽だけど、これではいけないような、急かされているような感じと、スローで楽ちんな気持ちと、半分ずつがせめぎ合っている、そんなふうに心がごちゃごちゃになっていく感じがした。でも、めちゃくちゃなんだけど、嫌じゃない。むしろ、いい感じ。
話してみて気づいたけど、十代は、もうわたしの知っている十代ではなかった。でも、それはわたしもおんなじで、わたしはもう、十代の知っているわたしじゃないんだ。
二年間会わずにいて、何を当たり前のことを。と思うけれど、わたしは今ようやっとそれに気がついた。そこがわかってしまうと、もうわたしは必死に食らいつく必要がなくなってしまって、なんだかあっけないような、ホッとしたような、宙ぶらりんな気持ちになった。
最初はなんだか、隙間を埋めようと頑張っていた。デュエルの話をしたり、アカデミア時代の知り合いの話を振ってみたりしたけれど、特に盛り上がりはしなかった。
大学に入ってから、わたしはデュエルとは縁遠くなっていて、それを言ったら十代はガッカリするだろうから、昔のカードの知識で、なんだかにわかっぽい、ふわふわとした会話を続けた。まあ、それは別にいいんだけど。ああ、でもやっぱり良くないかも。
アルコールのせいもあってか、わたしは少し強気になって、十代の手を掴んで、引いた。
特に抵抗はなかった。
そして、繋いだ手があまりにも冷たかった。まるで、氷を掴んでいるみたいだった。わたしの手が、彼の冷たい肌に触れて、火傷させてしまうような気がした。
なんで、こんなことをしてしまったんだろう。旅先での恥はかき捨てという諺があるけれど、わたしはまさに今、人生最大級の恥を晒してしまっている。
無敵モードが、徐々に薄れていく。どうしよう。踏んではいけないラインを超えてしまったかもしれない。
わたしはそれを知らないふりをして、ずんずんと大股で進んだ。
段々落ちていく夕日が、わたしたちの背後に薄ピンク色の背景を作ってくれる。夏だったから、もう夜に近い時間だったけれど空は明るかった。
見下ろす海に打ち付ける波が、岩にぶつかって反響する音。それだけが聞こえてくる。
わたしは立ち止まり、少し目を瞑って、再び瞼を開けた。
その一瞬で、十代がどこかに消えていってしまわないか、心配だった。重たい瞼を持ち上げると、わたしの手は十代の手としっかり繋がれたままで、それで、なんだか彼の髪の毛と夕焼けとが混ざり合って、逆光になって、まるでどこかの神話のワンシーンみたいな、そんな光景に見えた。
わたしたちの他に、この岩の上にいる人はいなかった。だから怖くなったのかもしれない。いや、逆でもそうだ。人がいっぱいいる中でも、十代はどこかに消えてしまいそうだった。わたしの手をそっと解いて、この景色の中に溶けていきそうな彼は、わたしにそっと笑いかけた。
「なあ、今日は楽しかった。久しぶりに会えたし、いろんなところをみれた。ありがとうな」
「わたしも、一緒。十代、まだこっちにいるならまた遊ぼうよ。今度はさ、もっといろんなところに行けるよ。海だって、まだ泳いでないでしょ」
急に、別れの気配を敏感に感じ取った。
これが最後みたいな雰囲気を出さないでよ! なんて、叫びたかった。いや、もう叫んでいた。
わたしはまだ、十代のことを何にも知らない。アカデミアを卒業してからの十代が、何をみてきたのかわたしは知らない。わたしはなんでも曝け出した。全部、暴いた。なのに、十代は何にも手の内を明かしてくれない。わたしだけいやに必死で、醜い。
必死になって、わたしは彼の手を掴んだ。逃げるな、とここまで必死に思ったのは、いつぶりだっただろう。
唐突に、アカデミアの校舎から見た海が、脳内にフラッシュバックした。夕暮れの教室と、廊下の窓から外を見ると、レッド寮へと帰る十代の背中が見えた。あの時、強烈に思った寂しさと、冷たい冬の静けさとが、数年越しにわたしの心へと流れ込んでくる。
今は夏で、吹き付ける風は熱いくらいなのに、鮮明にあの時の肌寒さが蘇ってきた。
俯いたわたしの手に、何か冷たいものが触れた。いや、冷たいのは十代の手じゃなかった。わたしの頬が、熱されたみたいに赤くなっているから、そう感じているだけの話だ。
彼がわたしの涙を拭ってくれたのだとわかるのに、少しの時間がかかった。そして、そうされてやって、自分が泣いていたのだと理解した。
顔を持ち上げると、神妙な顔をした十代が、わたしの目をまっすぐ見て、立っていた。あんな表情、わたしは知らない。今まで三年間、同じクラスで一緒にいて、わたしは十代のことをわかった気でいたのだ。
「わたし、十代のこと勘違いしてた。なんでも、わかった気になってた。世界って、こんなに広いんだって、わたし知らなかった。だから、十代のこと、教えてほしい」
「俺も……ナマエのこと全然わかってない。でも、みんなそうだろ? 自分のことですら、わかってるやつは珍しい、と思う……」
「うん、うん……」
十代の言葉を聞くたびに、わたしは涙が止まらなくなった。なんだか、泣かせているように見えるかもしれないし、泣き止まなくちゃ、と思うたびに、余計に止まらなくなる。
ああ、わたしはずっとこうやって、誰かに自分のことを受け止めてもらいたかったんだ。
「わたし、何にもない……何にもないんだよ」
もうデュエルだってしばらくしてないし、デッキなんて卒業式から触ってないし、進学した先でもやりたいことは見つかってないし、わたしに残ってるものなんて、何にもない。高校生の時のわたしの抜け殻は、今のわたしよりもずっと立派に見える。
「十代は、やりたいことあるんだよね。い、いいよね……羨ましいよ。わたしにも、分けてよ」
わたしはふらふらと、酔っ払いみたいに十代に近寄った。彼はやっぱり、拒まなかった。
今までの人生、悪夢にうなされているようだった。彼はそこに現れた胡蝶で、きっとここから連れ出してくれると思っていた。でも、やっぱりそれは妄想であって、けれど肉体はここにあるわけだから、あとは気の持ちようなのだ。臆病で、理性のあるわたしだったらできないけれど、今のわたしは無敵であり、これは夢だから、どうにでもなる。
十代の肩に自分の頭を乗せると、急に背中を蹴られたように、ふと冷静になった。無敵モードはあっけなく解除されてしまった。
それで、自分のやらかしたことの重大さに気づいて、咄嗟に離れようとした、が、それは叶わなかった。
彼の腕が、遠慮がちに、それでいてある種の強固さを持ってわたしの胴体に回されていた。再び、これは夢だと思った。熱い抱擁を、どこで覚えたんだろう。こんなことを十代に教えたかもしれない人間の顔──全て妄想──が頭の中に浮かんで沈んだ。それらは、なぜかどれも女の顔をしていた。
どことなくぎこちない手つきに、わたしは安堵を覚えた。
どこかの遠い国の旅人の腕に、抱かれているような気がした。ゆっくりと、生ぬるい湯に浸かっているみたいだった。
「ナマエはさ、ちゃんと一人でもやれてるんじゃないか?」
「ううん、全然」
「そんなことないと思うんだけどなあ」
十代の顔は見えなかったけれど、きっと困らせてしまっているんだろう。なんとなく、眉の下がった彼の顔を思い浮かべた。
「俺さ、明日ここを出るよ」
「…………また、会えるよね」
また泣いてしまわないように、わたしは少し目の周りの筋肉に力を込めた。でも、ちょっとだけ出ちゃった。十代のジャケットを少し濡らしてしまった。
「まあ、生きてればどっかでな」
「またねって言ってくれないの?」
ようやく、わたしは十代のことを理解し始めたばかりだった。それなのに、もうこの人は風のように消えてしまうらしい。でも、そういうところはあの時と何にも変わらない。やっぱり、十代は十代なんだな、と思う。
「十代が来てくれないなら、こっちから行っちゃおうかな」
「俺にGPSでもつけるか?」
「…………そっちがいいなら」
「ちょっ……冗談だって」
しばらく笑い転げて、そして、わたしたちは別れた。
十代は、大きく手を振っていた。わたしも負けじと手を振り返して、姿が見えなくなったあと、またちょっとだけ、泣いた。もう二度と会えないような気がして、いやなことだけを考えてしまう。
またねって言ったのは、わたしだけだった。また会いたい。そのためには、もっと頑張らなくちゃいけないね、とわたしの中の道徳が叫んだ。なんの根拠を、と思ったけど、次の日から、もっと英語の勉強を頑張らなくちゃな、といい子ちゃんのわたしは思った。でも今日みたいに、ちょっと逃げるっていうのも悪くないんじゃないの? とも思う。まあ、どっちも正解だ。
寮のベッドで、ブランケットにくるまりながら、わたしは夢を見る。十代とわたしは、あの孤島の砂浜で、学生服のまま、走っていた。空には月が出ていて、明らかに門限を過ぎた時間だった。それでも構わず、わたしたちは大声で笑い合っていた。幸せな夢だった。もう二度とこんな夢を見ることはできないんじゃないかな、と思った。
でもいい、わたしは現実で、もう一回十代に会えばいい。この空の下で、旅をしている限り可能性はゼロじゃないから。
だけど、もう二度と十代に会えなくてもいいような気がする。十代がわたしのことを忘れてしまったら、もういいかな、と思う。
薄情な自分のことを記憶したくなくて、わたしはグッと目を瞑る。今、日本では、冬。
南半球に位置するこの国は、暦の上では正月も近いというのに、太陽が照りつけ、最高気温が日本の比ではないほどに高く、ビーチは水着を着た人々で埋め尽くされていた。
日本とは真逆の四季の移ろいに、ただの異邦人のわたしは驚きを隠すことができない。駅のターミナルで着ていたセーターに袖を通すことは、おそらくないだろうと思う。
今日は休日だった。留学生向けの英語学校の寮は閑散としており、ルームメイトは皆街に繰り出している。わたしも、いつまでも引きこもっていないでたまには外に出るべきなのだ。理屈ではわかっている。
スマホの画面をだらだら見ているべきではない。これだと、なんのために留学したかわからなくなってしまう。
わたしは、重い腰を上げてベッドからおき上がると、スウェットからラフなTシャツとジーンズに着替えた。手入れの楽な髪をドライヤーで炙ってから、携帯と財布だけを手に、寮をでた。
空調の効いた室内を出ると、日本とは違う、ドライな暑さがわたしの体を蝕んだ。うわ、最悪。そんな言葉が、自然と口からこぼれ出た。
出たところで、何をするかなんて予定は立てていない。ただ行き当たりばったりに、散歩するだけだ。
夜であれば、語学学校のクラスメイトに教えてもらったクラブに行けばいいのだけど、今は昼だ。欲しいものは昨日スーパーで買ってしまったし、不足しているものは何もない。
──わたし、時間を浪費してる。
そんな罪の意識だけが肥大化して、ビーチ沿いの道路を歩いているわたしの肩にのしかかる。
外に出ても、人と話すわけじゃないし、主要な観光スポットらしきものに行こうとすれば、金がかかる。通帳は日々の生活を送るだけでも漫然と減っていくし、無駄遣いなんて、とても。
今日はもう、散歩で潰してしまおう。
そう考えながら、道路標識で見えた公園まで歩くことにした。
わたしは知らなかったけれど、この公園は地元民の人気スポットになっているらしい。そこは、サッカーをしたり、ランニングをしたり、はたまたキャッチボールをしている市民が点在していた。
入場料のいらないタイプの公園だったので、わたしはホッとしながら、馬鹿でかい、海の見える広場にあるベンチにどかっと腰を降ろす。
こんなに暑いなら、飲み物くらい持ってくればよかったな。
日差しがガンガンと照りつけている。わたしは木陰に座って、海を見ているけれど、他の人はこんな中でも元気いっぱい運動をしている。
最近運動不足だし、こういうところで走ってみても、いいかも。
でも、今の格好では無理だ。また後で出直さないと。
そんなことを考えながら、わたしは芝生と海のコントラストを楽しんでいた。
「なあ、隣いいよな?」
真横から、声がした。男の声だった。聞きなれない日本語だったので、ギョッとしてすぐ目線をやると、よく知った顔があった。
「あ、も、十代⁉︎」
「よっ、久しぶりだな。ナマエ」
わたしの横に座った男──遊城十代とわたしは、それはもう、シンプルすぎるほどあっさりと異国の地で再会した。
「卒業式以来だっけ?」
「そ、そうだよ……十代、な、なんでここにいるわけ?」
わたし達はもう、お酒を飲める年になっていた。なって、しまっていた。
もう、あれからそれだけの月日が流れてしまっていたのか、とわたしは懐古する。
あの日、あの年にデュエルアカデミアにいた生徒で、遊城十代を覚えていない人なんて、おそらくいないだろう。十代は、まさにアカデミアの伝説になったようなものなんだから。
けれど、卒業式のあの日以降、彼の足取りを知る者はいない。進路調査にもまともに解答しなかったので手がかりはなく、ただ世界のどこかで、風のように漂っている、らしい。
この世界のどこかで、必ず生きているということは確かなのだと、万丈目くんは声を大にして言っていた。
──そして、それが、わたしの知りうる情報の全てだった。
「俺さ、旅をしてるんだ」
「卒業式から、ずっとしてるってこと?」
「うん、まあ、そういうこと」
「ナマエはなんでこんなとこにいるんだ?」
「留学だよ。語学留学」
「ふぅん」
十代は、そこには特に興味がないようで、深く追求されることはなかった。
自分の選んだ進路を口に出して、わたしは一人、寂しくなった。
みんな、それぞれ頑張っているんだろうか。少なくとも、わたしみたいに目標もなく、大学でぶらぶらしている人はいないだろう。
「十代ってさ、英語喋れるの?」
「いや、ぜんっぜんでさあ」
「え……じゃあ普段どうしてるの……」
「うーん、俺の言いたいことって、なんとなく相手に伝わるっぽいんだよな」
わたしは思わず肩を落とした。入国審査の手続きですらも、言葉が出てこないで沈黙が続いたわたしからすれば、羨ましい限りだ。
世界中で旅をしているならば、少しくらいはできているだろうと思っていたわたしは、彼に期待しすぎていたのだろうか。頭の中で授業中、よだれを垂らして気持ちよさそうに寝ていた十代の姿を思い出した。本当にこの人、ずっとレッド寮にいるつもりなのかも、と勝手に心配していたのは、懐かしい。
──結局、十代は今でもオシリスレッドの制服を身につけたまま、世界中を旅している訳だから、あの学校生活に未練とか、後悔とか、嫌だったことなんてないんだろう。
あの赤色の制服に腕を通すことは、わたしにはなかった。それに、わたしはあの学校の制服のデザインが気に入らなくて、在学中は苦痛で仕方がなかった。
あのノースリーブが、どうしても嫌だったのだ。卒業と同時に島を出た時、思わず脱ぎ捨てたくらいだ。制服とは、わたしに取って枷だった。それを、十代は卒業後も律儀に着用して、普段着にしてしまっているのだから、恐れ入ったものだ。
「ってかさ、そっちこそどうなんだよ。語学留学、なんだろ? ちょっとは英語、喋れるようになったか?」
「…………ううん、全然」
「マジ? 英語の成績だけはトップだったろ?」
「会話って、ペーパーテストでどうにかなるようなものじゃないからね」
「うわ、横文字かよ」
「話せるか聞いてきたの、そっちじゃん」
……まあ、ペーパーテストはあくまで和製英語であって、こっちでは通じないんだけどね。
わたしがそう言う前に、十代の腹が盛大に音を立てた。
「なあ、腹減らね?」
わたしたちは、公園に併設されたありふれたカフェに入った。時間としては、ちょうどお昼時で、店内はほぼ満員。盛況だった。
わたしは、絶対に一番安いランチを頼むと決めていたので、実際に一番安かったパンケーキを頼んだ。それにコカコーラをつけた。暑かったので、冷たい飲料水を体が欲していたのだ。
十代は、適当にあれこれサンドイッチやら、パスタやらを頼んでいた。よくそんな金があるなあ、と呑気に思った。旅の資金がどこから湧いているか。それを聞く根性はわたしにはない。
料理が届くと、テーブルの上はいっぱいになった。カラフルな皿の上に乗っかった軽食を眺めていると、寮の食事を連想した。
「留学ってさあ、どっかにホームステイしてるのか?」
「ううん、寮」
「じゃあアカデミアとおんなじか」
わたしはパンケーキを一口切って、口に運んだ。ヤケクソなくらいにかけられたシロップが、口の中でとろける。ひたすら、甘い。
「いや、そうでもない。こっちじゃ相部屋だし、食事も風呂のルールも全然違うし、アカデミアの寮ってすごかったんだなって思ったよ」
「ああ、ブルーは個室だったっけ」
「うん、こっちのルームメイトは日本語通じないし、お互い片言の英語で喋ってるから超気を使う」
「へー、ってかそのパンケーキシロップかけすぎじゃね?」
「だよね。これめっちゃ甘い。シロップも日本のと違うんじゃないかな」
本当は、バターだけのやつを頼んだつもりだったんだけど、違うものが来てしまった。訂正するのも面倒だし、まあ、ダイエットしてるわけでもないしな。と自分を納得させた。
こんな時、十代だったらちゃんと言うんだろうなあ、と本人を目の前にして勝手に妄想した。
「ってかさ、すごい量注文してるけど全部食べれる?」
「いけるいける」
そういいながら、彼はものすごい勢いで卓上の料理を胃に押し込んでいった。まるで、数日間何も食べていなかったような食いつきっぷりだ。
「いやー、ここに来てから全然食えてなくってさ」
「ええ……」
──どうやら、わたしの読みは当たったようだ。
「ここに来てからって、いつから?」
「昨日」
「えっ、すごく最近じゃん」
「ナマエはいつからここに?」
「うーん、一ヶ月くらい? あと二ヶ月したら日本に戻るけどね」
「それまでに英語喋れるようになってるといいな」
「…………うん」
あと二ヶ月で、わたしは何かしらの爪痕を残して帰国しないといけない。十代の言葉に、今まで見ないようにしていた目的や、事実を突きつけられたような気がして、ちょっと落ち込んだ。
出国前は、あんなにやる気に満ち溢れていたのに、何かを掴める気がして日本を飛び出したのに、今のわたしの体たらくときたら……。
十代の方が、よっぽど堂々と外国で暮らしている。わたしなんて、観光客の気分が抜けきっていない、子供みたいなものだ。
そんなことを考えながら、わたしはストローを加えてがじがじと噛んだ。
プラスチックの無機質な味に、ほんの少しだけ残ったコーラの、レモンの香りと甘いシロップが入り混じったおもちゃのような味が混ざり合って、よくない気持ちが湧き上がってくる。
こんな子供っぽいことをするのが、わたしの悪い癖だった。店員さんにも、十代にもこんなところ、見られたくないのに、止められない。
「あー、食ったー」
わたしがウダウダと考えている間に、大量の昼食を平らげた十代は、満足げに腹をさすった。
「あれだけの量を……」
ちらりと、伏せられた伝票の内容を確認してわたしは目を見開いた。
「絶対割り勘にしないからね。そっちはちゃんとそっちで払ってよ」
「バレた……?」
そう言って、十代はニッと笑った。
それを見て、わたしはなぜか一人ぼっちになってしまったかのような、そんな不安な気持ちになった。
置いていかないで、と泣きだす子供みたいな。そういう心の弱いところを、フォークで突っつかれているみたいな、そんなふうになった。こんな気持ちは、久しぶりだった。
あれからわたしたちは、ここらをぐるぐると歩きながら、取り止めのない話を続けた。
こうやって、牧羊犬に追われる羊のように歩いていると、異国の土地でも地元の道と大差ないように思えてきた。十代が隣にいるということも大きいのだろう。
今のわたしは、なんていうか、無敵モードに入ったような気がして、ちょっと足取りが軽い。
ずるずると歩いて、足も痛くなってきたので、わたしは語学学校近くの、酒の飲めるちょっとしたクラブに彼を誘った。
「俺、こんなとこ入ったことないな」
その言葉に、わたしはちょっと嬉しくなった。
クラブ、といってもここはそんな高級なところじゃなくって、ライブハウスとショットバーをくっつけたような、要は音楽で踊って飲める、ちょっとした飲み屋みたいな店だった。
別にここも、わたしの行きつけであるとかそういうのではなくって、語学学校の先生に教えてもらっただけで、実際に入店するのは二回目だった。
しかも、一回目は同じクラスを受けているクラスメイトに連れられて、社会見学にいく小学生みたいな感じだったし。
それでも、わたしはいかにもこういう場所に手慣れているんですよ。という雰囲気を出して、十代をエスコートした。
今は時間も早いし、特に誰かが演奏したりDJブースに立っている、ということもないので、店内にいる客はわたしたちだけだった。
カウンターの上にあるテレビは、アメリカのアメフトの中継をしているらしく、レッドスキンのアイコンが描かれた旗を、観客が必死で振っている様子が画面に映っていた。でも、音声は聞こえない。代わりに、MTVの放送がラジオ代りに店内に響いていた。
外は明るいのに、やけに店内は暗くて、照明がわりのネオンの光が、わたしたちの顔を照らしていた。
「十代ってアルコールいける?」
「あー、俺はそんなに……」
「ここソフトドリンクもあるし、そっち頼もうか」
メニュー表を覗き込みながら、わたしはそう言った。十代は、わたしの顔を見て、少し驚いたような顔をしていた。
「ナマエ、酒飲むのか」
「うん、まあ、ちょっとはね」
彼はまるで、わたしが未成年飲酒をしている現場を目撃したような表情になった。
……逆に、わたしも十代が酒を飲むところなんて見てしまったら、同じ顔をしたかもしれない。わたしたちの中で、お互いのイメージが高校生の時のままで固定されてしまっているのだ。
なんだか格好付けたくて、わたしはブラッドオレンジ色の、名前の長いカクテルを注文した。これで、明日の昼代は吹っ飛んだ。我ながら、計画性がなさすぎる。
ワンドリンク頼むのがここのルールなので、わたしは十代にもジンジャーエールを頼んであげた。
わたしたちは、一杯八ドルだかなんだかする、子供の時にはあり得なかった飲み物をちびちびと飲んで、高い椅子に少し背筋を伸ばしながら、店に流れる往年の名曲を聞き流した。
日本語で会話しているから、店員さんは何も理解できていないと思うけれど、なんだか気恥ずかしくて、わたしたちの間には、沈黙が流れる。
店のスピーカーからは、うちらの親世代がハマっていたであろう、ギャンギャンとギターがうるさいハードロックがかかっていたかと思えば、ブルーノマーズやマルーン5みたいな比較的最近のやつも一緒に流れてきて、その乱雑さにわたしは一人で勝手に呆れた。十代の耳は、そういうメロディを感知しないのか、音楽の話題は長く続かなかった。
わたしは、十代について色々と聞きたかったけれど、結局わかりやすい答えを得ることはできなかった。彼の話は、なんだか映画のワンシーンを切り取って連続したような、変な話が多かった。普通に話していたら、嘘だと思われるようなことを、大真面目に喋った。
普段のわたしだったら、嘘でしょ! と言ってゲラゲラ笑っていたと思う。でも、十代はしょうもない嘘をつくような人じゃないし、笑ってはいけないような気がして、大真面目な顔でコクコクと頷いて、わたしはいろんな話を聞いていた。
曰く、彼の体には昔の友達の魂が宿っているだとか、荒唐無稽なオカルト話だったけれど、あのアカデミアで起こったことから考えると、あながち嘘ではなさそうだと、わたしは信じることにした。
そうこうしていると、そのうち、だんだん疲れてきて、落ち着かない店内からさっさと外に出た。そしたら、なんだか馬鹿馬鹿しくて、笑えてきて、二人で腹を抱えながら、海の方へと歩き出した。
「俺さあ、やっぱあの店落ち着かないや」
「うん、わたしも」
「あのオレンジのやつ、美味かった?」
「ううん、全然。超苦かった」
「やっぱ?」
「酸っぱすぎるのと苦いのって、全然違いがわかんないよ」
わたしがそういうと、十代はニッと笑った。白い歯が、やけに眩しい。
十代と喋っていると、背中の荷物を下ろしているような、楽だけど、これではいけないような、急かされているような感じと、スローで楽ちんな気持ちと、半分ずつがせめぎ合っている、そんなふうに心がごちゃごちゃになっていく感じがした。でも、めちゃくちゃなんだけど、嫌じゃない。むしろ、いい感じ。
話してみて気づいたけど、十代は、もうわたしの知っている十代ではなかった。でも、それはわたしもおんなじで、わたしはもう、十代の知っているわたしじゃないんだ。
二年間会わずにいて、何を当たり前のことを。と思うけれど、わたしは今ようやっとそれに気がついた。そこがわかってしまうと、もうわたしは必死に食らいつく必要がなくなってしまって、なんだかあっけないような、ホッとしたような、宙ぶらりんな気持ちになった。
最初はなんだか、隙間を埋めようと頑張っていた。デュエルの話をしたり、アカデミア時代の知り合いの話を振ってみたりしたけれど、特に盛り上がりはしなかった。
大学に入ってから、わたしはデュエルとは縁遠くなっていて、それを言ったら十代はガッカリするだろうから、昔のカードの知識で、なんだかにわかっぽい、ふわふわとした会話を続けた。まあ、それは別にいいんだけど。ああ、でもやっぱり良くないかも。
アルコールのせいもあってか、わたしは少し強気になって、十代の手を掴んで、引いた。
特に抵抗はなかった。
そして、繋いだ手があまりにも冷たかった。まるで、氷を掴んでいるみたいだった。わたしの手が、彼の冷たい肌に触れて、火傷させてしまうような気がした。
なんで、こんなことをしてしまったんだろう。旅先での恥はかき捨てという諺があるけれど、わたしはまさに今、人生最大級の恥を晒してしまっている。
無敵モードが、徐々に薄れていく。どうしよう。踏んではいけないラインを超えてしまったかもしれない。
わたしはそれを知らないふりをして、ずんずんと大股で進んだ。
段々落ちていく夕日が、わたしたちの背後に薄ピンク色の背景を作ってくれる。夏だったから、もう夜に近い時間だったけれど空は明るかった。
見下ろす海に打ち付ける波が、岩にぶつかって反響する音。それだけが聞こえてくる。
わたしは立ち止まり、少し目を瞑って、再び瞼を開けた。
その一瞬で、十代がどこかに消えていってしまわないか、心配だった。重たい瞼を持ち上げると、わたしの手は十代の手としっかり繋がれたままで、それで、なんだか彼の髪の毛と夕焼けとが混ざり合って、逆光になって、まるでどこかの神話のワンシーンみたいな、そんな光景に見えた。
わたしたちの他に、この岩の上にいる人はいなかった。だから怖くなったのかもしれない。いや、逆でもそうだ。人がいっぱいいる中でも、十代はどこかに消えてしまいそうだった。わたしの手をそっと解いて、この景色の中に溶けていきそうな彼は、わたしにそっと笑いかけた。
「なあ、今日は楽しかった。久しぶりに会えたし、いろんなところをみれた。ありがとうな」
「わたしも、一緒。十代、まだこっちにいるならまた遊ぼうよ。今度はさ、もっといろんなところに行けるよ。海だって、まだ泳いでないでしょ」
急に、別れの気配を敏感に感じ取った。
これが最後みたいな雰囲気を出さないでよ! なんて、叫びたかった。いや、もう叫んでいた。
わたしはまだ、十代のことを何にも知らない。アカデミアを卒業してからの十代が、何をみてきたのかわたしは知らない。わたしはなんでも曝け出した。全部、暴いた。なのに、十代は何にも手の内を明かしてくれない。わたしだけいやに必死で、醜い。
必死になって、わたしは彼の手を掴んだ。逃げるな、とここまで必死に思ったのは、いつぶりだっただろう。
唐突に、アカデミアの校舎から見た海が、脳内にフラッシュバックした。夕暮れの教室と、廊下の窓から外を見ると、レッド寮へと帰る十代の背中が見えた。あの時、強烈に思った寂しさと、冷たい冬の静けさとが、数年越しにわたしの心へと流れ込んでくる。
今は夏で、吹き付ける風は熱いくらいなのに、鮮明にあの時の肌寒さが蘇ってきた。
俯いたわたしの手に、何か冷たいものが触れた。いや、冷たいのは十代の手じゃなかった。わたしの頬が、熱されたみたいに赤くなっているから、そう感じているだけの話だ。
彼がわたしの涙を拭ってくれたのだとわかるのに、少しの時間がかかった。そして、そうされてやって、自分が泣いていたのだと理解した。
顔を持ち上げると、神妙な顔をした十代が、わたしの目をまっすぐ見て、立っていた。あんな表情、わたしは知らない。今まで三年間、同じクラスで一緒にいて、わたしは十代のことをわかった気でいたのだ。
「わたし、十代のこと勘違いしてた。なんでも、わかった気になってた。世界って、こんなに広いんだって、わたし知らなかった。だから、十代のこと、教えてほしい」
「俺も……ナマエのこと全然わかってない。でも、みんなそうだろ? 自分のことですら、わかってるやつは珍しい、と思う……」
「うん、うん……」
十代の言葉を聞くたびに、わたしは涙が止まらなくなった。なんだか、泣かせているように見えるかもしれないし、泣き止まなくちゃ、と思うたびに、余計に止まらなくなる。
ああ、わたしはずっとこうやって、誰かに自分のことを受け止めてもらいたかったんだ。
「わたし、何にもない……何にもないんだよ」
もうデュエルだってしばらくしてないし、デッキなんて卒業式から触ってないし、進学した先でもやりたいことは見つかってないし、わたしに残ってるものなんて、何にもない。高校生の時のわたしの抜け殻は、今のわたしよりもずっと立派に見える。
「十代は、やりたいことあるんだよね。い、いいよね……羨ましいよ。わたしにも、分けてよ」
わたしはふらふらと、酔っ払いみたいに十代に近寄った。彼はやっぱり、拒まなかった。
今までの人生、悪夢にうなされているようだった。彼はそこに現れた胡蝶で、きっとここから連れ出してくれると思っていた。でも、やっぱりそれは妄想であって、けれど肉体はここにあるわけだから、あとは気の持ちようなのだ。臆病で、理性のあるわたしだったらできないけれど、今のわたしは無敵であり、これは夢だから、どうにでもなる。
十代の肩に自分の頭を乗せると、急に背中を蹴られたように、ふと冷静になった。無敵モードはあっけなく解除されてしまった。
それで、自分のやらかしたことの重大さに気づいて、咄嗟に離れようとした、が、それは叶わなかった。
彼の腕が、遠慮がちに、それでいてある種の強固さを持ってわたしの胴体に回されていた。再び、これは夢だと思った。熱い抱擁を、どこで覚えたんだろう。こんなことを十代に教えたかもしれない人間の顔──全て妄想──が頭の中に浮かんで沈んだ。それらは、なぜかどれも女の顔をしていた。
どことなくぎこちない手つきに、わたしは安堵を覚えた。
どこかの遠い国の旅人の腕に、抱かれているような気がした。ゆっくりと、生ぬるい湯に浸かっているみたいだった。
「ナマエはさ、ちゃんと一人でもやれてるんじゃないか?」
「ううん、全然」
「そんなことないと思うんだけどなあ」
十代の顔は見えなかったけれど、きっと困らせてしまっているんだろう。なんとなく、眉の下がった彼の顔を思い浮かべた。
「俺さ、明日ここを出るよ」
「…………また、会えるよね」
また泣いてしまわないように、わたしは少し目の周りの筋肉に力を込めた。でも、ちょっとだけ出ちゃった。十代のジャケットを少し濡らしてしまった。
「まあ、生きてればどっかでな」
「またねって言ってくれないの?」
ようやく、わたしは十代のことを理解し始めたばかりだった。それなのに、もうこの人は風のように消えてしまうらしい。でも、そういうところはあの時と何にも変わらない。やっぱり、十代は十代なんだな、と思う。
「十代が来てくれないなら、こっちから行っちゃおうかな」
「俺にGPSでもつけるか?」
「…………そっちがいいなら」
「ちょっ……冗談だって」
しばらく笑い転げて、そして、わたしたちは別れた。
十代は、大きく手を振っていた。わたしも負けじと手を振り返して、姿が見えなくなったあと、またちょっとだけ、泣いた。もう二度と会えないような気がして、いやなことだけを考えてしまう。
またねって言ったのは、わたしだけだった。また会いたい。そのためには、もっと頑張らなくちゃいけないね、とわたしの中の道徳が叫んだ。なんの根拠を、と思ったけど、次の日から、もっと英語の勉強を頑張らなくちゃな、といい子ちゃんのわたしは思った。でも今日みたいに、ちょっと逃げるっていうのも悪くないんじゃないの? とも思う。まあ、どっちも正解だ。
寮のベッドで、ブランケットにくるまりながら、わたしは夢を見る。十代とわたしは、あの孤島の砂浜で、学生服のまま、走っていた。空には月が出ていて、明らかに門限を過ぎた時間だった。それでも構わず、わたしたちは大声で笑い合っていた。幸せな夢だった。もう二度とこんな夢を見ることはできないんじゃないかな、と思った。
でもいい、わたしは現実で、もう一回十代に会えばいい。この空の下で、旅をしている限り可能性はゼロじゃないから。
だけど、もう二度と十代に会えなくてもいいような気がする。十代がわたしのことを忘れてしまったら、もういいかな、と思う。
薄情な自分のことを記憶したくなくて、わたしはグッと目を瞑る。今、日本では、冬。