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単発SS
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SideA
愛と信仰とは相容れない物である。
私はそれをたった今知った。
地平線の向こうに消えていく一艘の船を見送りながら、私はずっと信じてきた価値観が全部覆されてしまった衝撃に驚いていた。表情にこそ出ていないだろうが、これは人生を揺るがす選択だったことには違いないだろう。私も、隣にいるフーゴも。
私たちは一言も発さないままずっと突っ立っていた。ずっとといえば語弊があるが、私にはこの1分だか5分だかが永遠のように感じられたのだ。人生で、最も大切なものを捨てて、私は新しい信仰を得た。全く嫌な気分ではない。しかし、後悔しないわけではないだろうという予感があった。
「行こう」
俯いたままフーゴは歩き出した。私たちは、これからどうすればいいのか全く決めあぐねている。心の中の塊がごっそり抜け落ちたまま、足だけが動く。さっきまでと同じ街のはずなのに、外国にいるように思えた。怒っているのか、泣いているのかわからないが、フーゴはずっと黙っている。私は彼の早足に黙ってついていく。それだけでしかない。私の新しい人生は、こんな離別から始まった。
「買ってきたよ」
私は近所のスーパーで惣菜を買って戻った。観光客が使うような安いホテルの一室に、シングルサイズのベッドが二つ。その右側にフーゴは腰掛けていた。小さなテーブルに、プラスチックのフォークと紙ナプキンを並べて、夕食のセッティングをする。サラダと揚げ物、夕方のパンを置いて、軽くセッティングした。
「どうも、ありがとう」
私が鱈のフライをパンに挟んで食べると、フーゴも真似をしてそうした。テレビもつけていないので、部屋には換気扇の回る音だけが響いている。私も彼も、そうお喋りではないので黙って食事を続けるしかなかった。これから私はどうするのか、全く決めていなかったが、彼はどうするか決断したのだろうか。こっそり伺っていると、目があった。
「ナマエ……悪かった。君に全部任せてしまって」
「いいってば。ここら辺だったら私の方が土地勘あるし、安いところもわかってるから」
「……ああ、次からはぼくが行くようにするよ」
「うん、じゃあ次はお願いしようかな」
次と言われた。明日も、またこうやって狭いホテルの個室で二人、肩を寄せ合って引きこもるのだろうか。
フーゴも同じことを考えているのか、そう言った直後に固まった。パン屑が散らばったテーブル越しに向かい合って初めて、私はこれからのことについてきちんと話そうと思ったのだ。
「これから……私は、何も思いつかないけれど、フーゴはどうしたらいいと思う」
教師に質問するような気持ちで、私は彼に問いた。無計画にも程がある私たちは、無軌道な若者のように露頭に迷っている最中なのだ。そういう不安は彼にもあるだろうに、こともあろうか私は、こういうふうに頼ることしかできない。
「ぼくだって……急に言われても……そうですね……」
「ごめん。私だって考えないといけないのにね」
「本当に、どうしたらいいんだ……」
「私たち、一応まだ組織を裏切ったことにはなっていないんだよね」
私の保身的な言葉を聞いて、フーゴは安心させるように頷いた。
「ブチャラティたち次第でしょう。ぼくらの首が飛ぶか否かは」
「どっちにしろ普通に戻れないってことなのかな」
「それはないと思います。組織を裏切ったのは、彼らだ。ぼくらはそれについていかなかった、それだけですよ」
フーゴはインスタントの美味しくもなければ不味くもないコーヒーを飲みほしてしまうと、長いまつ毛を瞬かせて、神経質な目を私に向ける。
「君はまだ戻れるよ。ナマエは堅気の仕事でもやっていけるさ」
彼と私の間に、一線があるような物言いだった。確かに、私は彼のような突飛な暴力性などは持ち合わせていない。チームの他の人より、覚悟が足りていないのも事実である。現に、私はブチャラティを見捨ててボートに乗らなかった。ギャングである必要もなかったような人間、それが私だとでも言いたいのだろうか。
「学歴だって、今からなら間に合う。なんなら、君はギャングなんて向いてないと思ってたんだーー」
「フーゴ」
彼の言葉を遮るように口を開いた。私は普段、虫のように大人しいし、主張らしい主張もしたことがないので、驚いたのだろう。私の顔を見て、信じられないという風な目をしている。
「私はもうなるべくしてこうなったから、もしもとかはないんだよ」
カーテン越しに風が窓を叩きつける音がする。私たちはしばらく見つめ合っていた。石になったみたいに、時が止まったように。
献身的と言っても良いほどのブチャラティの計らいで、私は彼のもとで動くことができた。今からおよそ半年も前のことである。私は良くあるグレたガキで、ちょっとした暴力によって簡単に爆発するような繊細な時期を生きていた。どうでもいい事件でギャングに目をつけられて、それを助けてくれたのが彼だった。
彼の天性のカリスマ性と、父のような包容力に私は夢中になった。今まで、人に目を合わせてすらもらえなかった私を、暗がりから掬い上げてくれたのが、そうだった。
「似合ってるじゃあないか」
街の仕立て屋で、スーツを仕立ててもらった時の言葉だ。試着室から出てきた痩せっぽちの子供を、彼は親兄弟のような目で見ていた。
私はというと、出来立ての紺色のジャケットに、慣れないネクタイをしめ、今まできたこともないような高級な生地のオーダーメイドスーツに緊張していた。
「レディースじゃなくてよかったんですか、ブチャラティ。私には似合ってない気がする。これだと、入学式の小学生みたい」
鏡の中の自分に、これは全くと言っていいくらい似合っていないように見えた。せっかく買ってもらったのに、これだと恥をかかせたようなものだ。
もじもじして、余計に身が縮んだ。ブチャラティは、私の頭を撫でて、ただ微笑んだ。
「いつか似合う日が来るさ。俺が見立ててやったんだから間違いない」
「ネクタイの締め方もわからないんですよ」
「いいか、ギャングはいいスーツが必要だ。舐められないためにもな。いつかこれを、ナマエが必要とする日がくる。その時のために、これを持っておいて欲しいんだ」
私の人生の中で、最も輝いていた瞬間は何かと、死ぬ前に思い出すならこの日しかないだろう。今までの人生、誰かから贈り物なんてもらったことがなかった。人生のうちの初めてというものは極めて特別なものである。キリスト教徒が洗礼を重要視するように、私の洗礼はブチャラティによってもたらされた。正しく、神の声を聞いた聖人のように、使命感と決意が胸いっぱいに広がった。
「ブチャラティ、私、がんばる。ちゃんとするよ……昔とは違うんだって、証明しなきゃ」
「ぼくには、君がどうしてぼくと一緒にいるのかわからない」
私たちは、湯を張ったユニットバスに代わりばんこに入って、今日の汗を流した。外では雨が降っているらしく、じめじめと湿気て加湿器をつける必要がないくらいだった。
ベッドサイドのラジオからは、有名らしい音楽家の特集で、静かなピアノの音色が聞こえてくる。ベッドサイドに腰掛けたフーゴの独り言ーーではない、私に向けた呟きを聞き逃さなかった。
この言葉には聞き覚えがある。いつだったか、彼が似たようなことを言っていた。
「君は、ブチャラティをあんなに慕っていたじゃあないか。どうして、ぼくなんだ」
怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。私は心臓を握りつぶされるような痛みを覚えた。フーゴは俯いて、彼の髪が簾のように垂れて表情は全くわからない。少しでも近づけば、暴れ出すかもしれないが、私はそっと彼に身を寄せた。
「私は、フーゴがすきだから」
人生とは選択の連続である。その選択の中で、何かを切り捨てなければ人は前に進むことができない。私は信仰よりも愛を選んだ。ただそれだけだった。
私はそっと、彼の背中に腕を回した。抵抗はない。後ろから抱きつくと、背中が思ったよりも大きいことに驚いた。身を寄せて、心臓の音を聞いた。映画のサウンドトラックに使われた、ロマンチックなバロックの調べと雨音、そして彼の心音だけが聞こえてくる。世界中にたった二人しかいないような、小さな孤独があった。
神への愛と、隣人への愛は同一視される。ならば、遠くの星へと手を伸ばすのは何になるんだろう。
「ぼくは君のそういうところが、羨ましかったんだ」
SideB
「ナマエってさあ、いっつも同じ服着てるよな。毎日葬式みてぇだよな」
ナランチャにそう言われて初めて、ぼくは彼女の服に意識を向けた。確かに、言われてみればナマエはいつも濡れ鴉よりも真っ黒なスーツを着ている。
ちょうど今日もそうだった。彼女は外で、ブチャラティと一緒に街の老婦人たちの相談に乗っている。年若いギャングの少女は、ご老人にちやほやされて恥ずかしそうにはにかんでいた。
「そうですね。でも、ナマエのことよりも今はこの問題を解く方が大事ですよね」
「ちぇっ。めんどくせぇなぁ」
「そんなこと言わずに、さぁ、続きをやりますよ」
ぼくが鉛筆で公式を書いてやっている間に、ナマエは席に戻ってきた。ジャケットを脱いで、白いシャツにネクタイだけの姿になると、そこらへんにいる女学生と何ら変わりないように見えた。
「いっぱいお菓子もらっちゃったけど食べきれそうにないんだ。みんなにもあげるね」
そう言って、彼女は袋に包まれたクッキーやらキャンディーやらを机に広げていく。まあ、いかにも老女が作りそうな家庭的なものと、キオスクでも売っていそうな安ものばかりだ。それを、ハロウィンの子供みたいに喜んでいる。
「フーゴもどうぞ。チョコレートって、勉強するときにいいんだって」
「……どうも」
包み紙に包まれたそれを、ナマエはぼくの手のひらに押し付けた。スーパーで安売りされているのをみたことがある。若干、体温で溶けて柔らかくなっていた。
「勉強頑張ってね」
「えぇ」
ナマエが消えた後、もらったチョコレートは食べずにナランチャにくれてやった。
「フーゴ! いいのかよ!」
「最近ダイエットしてるんですよ」
それから、何度も彼女はぼくの視界に飛び込んでくる。電車の広告よりも執拗に、何度も、毎日。
「あのさ、ちょっといいかな」
昼下がり、いつものように溜まり場でお茶をしながら読書をしていると彼女がぼくの隣にやってきた。
手にはノートと本を抱え、落ち着きがなくそわそわとしている。
「どうしたんですか?」
なんてこともないように、こう返す。おおよそ頼み事の内容は察しているが。
「できたら勉強を教えてもらいたくって……その、私、学校も途中から行ってないから」
「ぼくでいいって言うなら、喜んで」
「いいの? ありがとう! すごく助かる!」
ナマエはぼくがナランチャに数学やら英語やらを教えてやっている姿をみた上で、こう言っているのだ。本気で? 自身を客観的に見るまでもなく、常識的に、問題の解を教える途中でいきなりプッツンきて生徒を嬲り出す教師に教わりたい生徒はいないはずである。
あの惨状を間近でみて、それでも教えて欲しいと言い出すのは変人を通り越して精神的にどこかおかしいところがあるとしか言いようがない。
「で、どこからわからないんですか?」
「全部だけど」
「は?」
思わずそんな返事をしてしまった。ぼくが引いているのも気にせず、彼女は教科書を開いて目次を指差し、「中学校を途中でやめたし、一回も授業なんて出てないから全部わからない。私がわからないのは、全部」といった。
「……小学校の範囲はわかるんですか」
「うん。一応ね」
ナマエは開き直った顔をして、教科書の一ページ目を開き、ぼくの顔を見上げている。
全部わからないなんて他人にいうこと、恥ずかしくないんだろうか。全くプライドというものが感じられない。その時はそう思った。後で間違いだったと気づいた。
転換
「マキャベリ? 誰それ」
「君主論を執筆したルネサンス時代の思想家。フィレンツェの外交官ですよ」
「ルネサンス?」
「それは前回教えましたよ。いいですか、三回目はないですからね?」
彼女のノートの文字は、ミミズが這ったようにぐねぐねと揺れていた。教科書の大事な言葉には線を引きましょうとぼくがいうと、彼女は全ての文字に線を引いた。集中力だけはあったから、ぼくらの授業は、長引けば何時間にでもなった。
転換
「xに3を代入するってこと?」
「そうです! よく理解できていますね」
ぼくと彼女の、教師と生徒ごっこは実に楽しかった。なぜかというと、ぼくは完全に彼女を見下していたからだ。最初から、期待をしていないとどうでもいい間違いでいちいち怒る気にもならないようになる。人間が怒るのは、少なからず良い結果を期待しているからだ。諦めから入った時、人間の心に怒りが湧くことは少ない。
ナマエのことを舐めていた。それは、彼女が「仕事」をするところを見ていなかったからだ。心の中で、無意識にナマエは同じ土俵に立っていないと、位置付けていた。本当に、ぼくはナマエがみかじめ料を取り立てたり、カジノや酒場に話をつけに行ったりするところを見たことがなかったのだろうか? ぼくが見ようとしていなかっただけで、彼女はいかにもなやくざ者だったかもしれない。女性というレッテルを貼り付け、都合のいいところだけを見ていたのではないか? もう本当にそうだったのか、今はもう確かめようがない。
つまるところ、ぼくは彼女の、とことん無知なところに漬け込んで、それを愛していた。ぼくはすでに神へ対する清廉な信仰を捨てていて、カトリックが支配するこの国で、異端者だった。
欲望としての愛、情欲、ペットの世話をするみたいな不対等の気持ちを押し付けて、人形を愛するように愛でていたに過ぎない。これは愛と呼ぶだろうか? こんな独りよがりな気持ちが。
ぼくの愛は、愛と呼んでいいのかわからない嫉妬と虚勢は、アガペでもエロスでもなく、イコンを芸術品として愛でる無神論者のような、欲望に名前をつけただけの薄っぺらいラベルでしかない。
隣人を愛せ、神を愛せ、子供を作れ、しかし淫行すべからず。欲望は罪だというのに、人間は欲望でしか繋がれない。ぼくとナマエは、ある種欲望で繋がった異端の共犯という関係だった。
翌朝、ぼくはゆっくりと、朝日と共に目覚める。夜が明けて、静かな朝だった。死人のように隣で眠るナマエが、宗教画のマリアのように見えた。処女にして身籠ったマリアの慈愛と悟りの表情を、昨日の夕方見てしまった。
ぼくらは同じものを見ていたが、見通す先が違っているのだろう。真っ白なシーツに横たわるナマエの神は、もういない。ぼくらはこの先の長い荒野を、星もなく、お互いの目の光だけで歩いていかなければいけない。それは贖罪だろうか。信仰を捨て、愛に生きることは、罪なのだろうか。
どちらにしろ、ぼくが奪ったのだ。奇跡を待ち侘びて、ぼくは再び瞼を閉じ、夢に身を委ねる。
愛と信仰とは相容れない物である。
私はそれをたった今知った。
地平線の向こうに消えていく一艘の船を見送りながら、私はずっと信じてきた価値観が全部覆されてしまった衝撃に驚いていた。表情にこそ出ていないだろうが、これは人生を揺るがす選択だったことには違いないだろう。私も、隣にいるフーゴも。
私たちは一言も発さないままずっと突っ立っていた。ずっとといえば語弊があるが、私にはこの1分だか5分だかが永遠のように感じられたのだ。人生で、最も大切なものを捨てて、私は新しい信仰を得た。全く嫌な気分ではない。しかし、後悔しないわけではないだろうという予感があった。
「行こう」
俯いたままフーゴは歩き出した。私たちは、これからどうすればいいのか全く決めあぐねている。心の中の塊がごっそり抜け落ちたまま、足だけが動く。さっきまでと同じ街のはずなのに、外国にいるように思えた。怒っているのか、泣いているのかわからないが、フーゴはずっと黙っている。私は彼の早足に黙ってついていく。それだけでしかない。私の新しい人生は、こんな離別から始まった。
「買ってきたよ」
私は近所のスーパーで惣菜を買って戻った。観光客が使うような安いホテルの一室に、シングルサイズのベッドが二つ。その右側にフーゴは腰掛けていた。小さなテーブルに、プラスチックのフォークと紙ナプキンを並べて、夕食のセッティングをする。サラダと揚げ物、夕方のパンを置いて、軽くセッティングした。
「どうも、ありがとう」
私が鱈のフライをパンに挟んで食べると、フーゴも真似をしてそうした。テレビもつけていないので、部屋には換気扇の回る音だけが響いている。私も彼も、そうお喋りではないので黙って食事を続けるしかなかった。これから私はどうするのか、全く決めていなかったが、彼はどうするか決断したのだろうか。こっそり伺っていると、目があった。
「ナマエ……悪かった。君に全部任せてしまって」
「いいってば。ここら辺だったら私の方が土地勘あるし、安いところもわかってるから」
「……ああ、次からはぼくが行くようにするよ」
「うん、じゃあ次はお願いしようかな」
次と言われた。明日も、またこうやって狭いホテルの個室で二人、肩を寄せ合って引きこもるのだろうか。
フーゴも同じことを考えているのか、そう言った直後に固まった。パン屑が散らばったテーブル越しに向かい合って初めて、私はこれからのことについてきちんと話そうと思ったのだ。
「これから……私は、何も思いつかないけれど、フーゴはどうしたらいいと思う」
教師に質問するような気持ちで、私は彼に問いた。無計画にも程がある私たちは、無軌道な若者のように露頭に迷っている最中なのだ。そういう不安は彼にもあるだろうに、こともあろうか私は、こういうふうに頼ることしかできない。
「ぼくだって……急に言われても……そうですね……」
「ごめん。私だって考えないといけないのにね」
「本当に、どうしたらいいんだ……」
「私たち、一応まだ組織を裏切ったことにはなっていないんだよね」
私の保身的な言葉を聞いて、フーゴは安心させるように頷いた。
「ブチャラティたち次第でしょう。ぼくらの首が飛ぶか否かは」
「どっちにしろ普通に戻れないってことなのかな」
「それはないと思います。組織を裏切ったのは、彼らだ。ぼくらはそれについていかなかった、それだけですよ」
フーゴはインスタントの美味しくもなければ不味くもないコーヒーを飲みほしてしまうと、長いまつ毛を瞬かせて、神経質な目を私に向ける。
「君はまだ戻れるよ。ナマエは堅気の仕事でもやっていけるさ」
彼と私の間に、一線があるような物言いだった。確かに、私は彼のような突飛な暴力性などは持ち合わせていない。チームの他の人より、覚悟が足りていないのも事実である。現に、私はブチャラティを見捨ててボートに乗らなかった。ギャングである必要もなかったような人間、それが私だとでも言いたいのだろうか。
「学歴だって、今からなら間に合う。なんなら、君はギャングなんて向いてないと思ってたんだーー」
「フーゴ」
彼の言葉を遮るように口を開いた。私は普段、虫のように大人しいし、主張らしい主張もしたことがないので、驚いたのだろう。私の顔を見て、信じられないという風な目をしている。
「私はもうなるべくしてこうなったから、もしもとかはないんだよ」
カーテン越しに風が窓を叩きつける音がする。私たちはしばらく見つめ合っていた。石になったみたいに、時が止まったように。
献身的と言っても良いほどのブチャラティの計らいで、私は彼のもとで動くことができた。今からおよそ半年も前のことである。私は良くあるグレたガキで、ちょっとした暴力によって簡単に爆発するような繊細な時期を生きていた。どうでもいい事件でギャングに目をつけられて、それを助けてくれたのが彼だった。
彼の天性のカリスマ性と、父のような包容力に私は夢中になった。今まで、人に目を合わせてすらもらえなかった私を、暗がりから掬い上げてくれたのが、そうだった。
「似合ってるじゃあないか」
街の仕立て屋で、スーツを仕立ててもらった時の言葉だ。試着室から出てきた痩せっぽちの子供を、彼は親兄弟のような目で見ていた。
私はというと、出来立ての紺色のジャケットに、慣れないネクタイをしめ、今まできたこともないような高級な生地のオーダーメイドスーツに緊張していた。
「レディースじゃなくてよかったんですか、ブチャラティ。私には似合ってない気がする。これだと、入学式の小学生みたい」
鏡の中の自分に、これは全くと言っていいくらい似合っていないように見えた。せっかく買ってもらったのに、これだと恥をかかせたようなものだ。
もじもじして、余計に身が縮んだ。ブチャラティは、私の頭を撫でて、ただ微笑んだ。
「いつか似合う日が来るさ。俺が見立ててやったんだから間違いない」
「ネクタイの締め方もわからないんですよ」
「いいか、ギャングはいいスーツが必要だ。舐められないためにもな。いつかこれを、ナマエが必要とする日がくる。その時のために、これを持っておいて欲しいんだ」
私の人生の中で、最も輝いていた瞬間は何かと、死ぬ前に思い出すならこの日しかないだろう。今までの人生、誰かから贈り物なんてもらったことがなかった。人生のうちの初めてというものは極めて特別なものである。キリスト教徒が洗礼を重要視するように、私の洗礼はブチャラティによってもたらされた。正しく、神の声を聞いた聖人のように、使命感と決意が胸いっぱいに広がった。
「ブチャラティ、私、がんばる。ちゃんとするよ……昔とは違うんだって、証明しなきゃ」
「ぼくには、君がどうしてぼくと一緒にいるのかわからない」
私たちは、湯を張ったユニットバスに代わりばんこに入って、今日の汗を流した。外では雨が降っているらしく、じめじめと湿気て加湿器をつける必要がないくらいだった。
ベッドサイドのラジオからは、有名らしい音楽家の特集で、静かなピアノの音色が聞こえてくる。ベッドサイドに腰掛けたフーゴの独り言ーーではない、私に向けた呟きを聞き逃さなかった。
この言葉には聞き覚えがある。いつだったか、彼が似たようなことを言っていた。
「君は、ブチャラティをあんなに慕っていたじゃあないか。どうして、ぼくなんだ」
怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。私は心臓を握りつぶされるような痛みを覚えた。フーゴは俯いて、彼の髪が簾のように垂れて表情は全くわからない。少しでも近づけば、暴れ出すかもしれないが、私はそっと彼に身を寄せた。
「私は、フーゴがすきだから」
人生とは選択の連続である。その選択の中で、何かを切り捨てなければ人は前に進むことができない。私は信仰よりも愛を選んだ。ただそれだけだった。
私はそっと、彼の背中に腕を回した。抵抗はない。後ろから抱きつくと、背中が思ったよりも大きいことに驚いた。身を寄せて、心臓の音を聞いた。映画のサウンドトラックに使われた、ロマンチックなバロックの調べと雨音、そして彼の心音だけが聞こえてくる。世界中にたった二人しかいないような、小さな孤独があった。
神への愛と、隣人への愛は同一視される。ならば、遠くの星へと手を伸ばすのは何になるんだろう。
「ぼくは君のそういうところが、羨ましかったんだ」
SideB
「ナマエってさあ、いっつも同じ服着てるよな。毎日葬式みてぇだよな」
ナランチャにそう言われて初めて、ぼくは彼女の服に意識を向けた。確かに、言われてみればナマエはいつも濡れ鴉よりも真っ黒なスーツを着ている。
ちょうど今日もそうだった。彼女は外で、ブチャラティと一緒に街の老婦人たちの相談に乗っている。年若いギャングの少女は、ご老人にちやほやされて恥ずかしそうにはにかんでいた。
「そうですね。でも、ナマエのことよりも今はこの問題を解く方が大事ですよね」
「ちぇっ。めんどくせぇなぁ」
「そんなこと言わずに、さぁ、続きをやりますよ」
ぼくが鉛筆で公式を書いてやっている間に、ナマエは席に戻ってきた。ジャケットを脱いで、白いシャツにネクタイだけの姿になると、そこらへんにいる女学生と何ら変わりないように見えた。
「いっぱいお菓子もらっちゃったけど食べきれそうにないんだ。みんなにもあげるね」
そう言って、彼女は袋に包まれたクッキーやらキャンディーやらを机に広げていく。まあ、いかにも老女が作りそうな家庭的なものと、キオスクでも売っていそうな安ものばかりだ。それを、ハロウィンの子供みたいに喜んでいる。
「フーゴもどうぞ。チョコレートって、勉強するときにいいんだって」
「……どうも」
包み紙に包まれたそれを、ナマエはぼくの手のひらに押し付けた。スーパーで安売りされているのをみたことがある。若干、体温で溶けて柔らかくなっていた。
「勉強頑張ってね」
「えぇ」
ナマエが消えた後、もらったチョコレートは食べずにナランチャにくれてやった。
「フーゴ! いいのかよ!」
「最近ダイエットしてるんですよ」
それから、何度も彼女はぼくの視界に飛び込んでくる。電車の広告よりも執拗に、何度も、毎日。
「あのさ、ちょっといいかな」
昼下がり、いつものように溜まり場でお茶をしながら読書をしていると彼女がぼくの隣にやってきた。
手にはノートと本を抱え、落ち着きがなくそわそわとしている。
「どうしたんですか?」
なんてこともないように、こう返す。おおよそ頼み事の内容は察しているが。
「できたら勉強を教えてもらいたくって……その、私、学校も途中から行ってないから」
「ぼくでいいって言うなら、喜んで」
「いいの? ありがとう! すごく助かる!」
ナマエはぼくがナランチャに数学やら英語やらを教えてやっている姿をみた上で、こう言っているのだ。本気で? 自身を客観的に見るまでもなく、常識的に、問題の解を教える途中でいきなりプッツンきて生徒を嬲り出す教師に教わりたい生徒はいないはずである。
あの惨状を間近でみて、それでも教えて欲しいと言い出すのは変人を通り越して精神的にどこかおかしいところがあるとしか言いようがない。
「で、どこからわからないんですか?」
「全部だけど」
「は?」
思わずそんな返事をしてしまった。ぼくが引いているのも気にせず、彼女は教科書を開いて目次を指差し、「中学校を途中でやめたし、一回も授業なんて出てないから全部わからない。私がわからないのは、全部」といった。
「……小学校の範囲はわかるんですか」
「うん。一応ね」
ナマエは開き直った顔をして、教科書の一ページ目を開き、ぼくの顔を見上げている。
全部わからないなんて他人にいうこと、恥ずかしくないんだろうか。全くプライドというものが感じられない。その時はそう思った。後で間違いだったと気づいた。
転換
「マキャベリ? 誰それ」
「君主論を執筆したルネサンス時代の思想家。フィレンツェの外交官ですよ」
「ルネサンス?」
「それは前回教えましたよ。いいですか、三回目はないですからね?」
彼女のノートの文字は、ミミズが這ったようにぐねぐねと揺れていた。教科書の大事な言葉には線を引きましょうとぼくがいうと、彼女は全ての文字に線を引いた。集中力だけはあったから、ぼくらの授業は、長引けば何時間にでもなった。
転換
「xに3を代入するってこと?」
「そうです! よく理解できていますね」
ぼくと彼女の、教師と生徒ごっこは実に楽しかった。なぜかというと、ぼくは完全に彼女を見下していたからだ。最初から、期待をしていないとどうでもいい間違いでいちいち怒る気にもならないようになる。人間が怒るのは、少なからず良い結果を期待しているからだ。諦めから入った時、人間の心に怒りが湧くことは少ない。
ナマエのことを舐めていた。それは、彼女が「仕事」をするところを見ていなかったからだ。心の中で、無意識にナマエは同じ土俵に立っていないと、位置付けていた。本当に、ぼくはナマエがみかじめ料を取り立てたり、カジノや酒場に話をつけに行ったりするところを見たことがなかったのだろうか? ぼくが見ようとしていなかっただけで、彼女はいかにもなやくざ者だったかもしれない。女性というレッテルを貼り付け、都合のいいところだけを見ていたのではないか? もう本当にそうだったのか、今はもう確かめようがない。
つまるところ、ぼくは彼女の、とことん無知なところに漬け込んで、それを愛していた。ぼくはすでに神へ対する清廉な信仰を捨てていて、カトリックが支配するこの国で、異端者だった。
欲望としての愛、情欲、ペットの世話をするみたいな不対等の気持ちを押し付けて、人形を愛するように愛でていたに過ぎない。これは愛と呼ぶだろうか? こんな独りよがりな気持ちが。
ぼくの愛は、愛と呼んでいいのかわからない嫉妬と虚勢は、アガペでもエロスでもなく、イコンを芸術品として愛でる無神論者のような、欲望に名前をつけただけの薄っぺらいラベルでしかない。
隣人を愛せ、神を愛せ、子供を作れ、しかし淫行すべからず。欲望は罪だというのに、人間は欲望でしか繋がれない。ぼくとナマエは、ある種欲望で繋がった異端の共犯という関係だった。
翌朝、ぼくはゆっくりと、朝日と共に目覚める。夜が明けて、静かな朝だった。死人のように隣で眠るナマエが、宗教画のマリアのように見えた。処女にして身籠ったマリアの慈愛と悟りの表情を、昨日の夕方見てしまった。
ぼくらは同じものを見ていたが、見通す先が違っているのだろう。真っ白なシーツに横たわるナマエの神は、もういない。ぼくらはこの先の長い荒野を、星もなく、お互いの目の光だけで歩いていかなければいけない。それは贖罪だろうか。信仰を捨て、愛に生きることは、罪なのだろうか。
どちらにしろ、ぼくが奪ったのだ。奇跡を待ち侘びて、ぼくは再び瞼を閉じ、夢に身を委ねる。
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