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単発SS
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陽がゆっくりと部屋の中に差し込んでくる。上半身を壁に預けたまま、ナマエは徐々に明るくなる空を眺めていた。早朝になると、どこからか鳥の声が聞こえてくる。姿こそ見せないものの、多くの生き物が住っているのだと、実感する。
一人でいると、遠くを見つめてぼうっとしているのがナマエの常だった。曇り硝子の向こう側を覗くように、風景が曖昧になり、空気に溶けていってしまう。こういう時に注意をする相手などここにはおらず、夢見心地で放心していると、何時間も経っていたということがよくあった。
朝の時間帯というのは、生命が活動を始めて騒がしくなるものだ。息遣いや嬌声が遠く響き、柔らかい音色を奏でる。その調にナマエは身を委ねる。音に聞き入っていると、世界がとてつもなく広いように、思えるのだ。
「ナマエ」
静かに名前を呼ぶ声がする。ふと目を開けてみると、目の前によく見知った顔があった。
「おはよう、ナマエ」
「おはよう。今日はちゃんと寝たから……起こしにこなくてもいいのに」
入り口の敷居をまたいで、風息は入ってくる。ナマエは招き入れると、小さな火を起こして湯を沸かした。
「大丈夫か? 燃やすなよ」
「もうボヤは起こしません! 一緒に練習したんだし、大丈夫」
そういうと彼は笑って、厚布に包んだ果物を取り出した。
「取ってきたんだ、朝ごはん。まだだろ?」
「ありがとう。わたし、風息と一緒に食べるの好きなの」
小さな果実を、啄むように口に運び、歯で砕くと甘い汁が弾けた。腕にお茶を注ぎ、細やかな朝餉は小鳥の食事のように見える。ナマエは横目で風息のことを見ながら、思った。こんな小さな食事で、大丈夫なのかな。
「どうした?」
「あ、いや、その量でいいのかなって、思っただけ」
「足りなくなったらまた食べればいいだけだ」
「うーん、まぁ、そうだけど」
「ナマエこそ、しっかり食べろよ。小さいんだし」
「小さい……」
風息の大きな手が、ナマエの頬を包んだ。
「小さいんだ」
「風息が大きいんだよ」
「ははっ、そう言えるかもな」
柔らかい頬に硬い皮膚が滑ると、果実を摘んだ手の、甘い香りがした。爪の先から指先に、その匂いが染み付いている。おそらく長い間、食べられる果実を摘んでいたのだろう。
ナマエが手を取ると、風息は特に抵抗もせず、じっとそれを見つめていた。
「いい匂い」
指の先に鼻を押し当てて、少し嗅いでみるといい匂いがする。夢中になって嗅いでいると、「くすぐったい」と彼が身を捩る。
「風息の指、甘い匂いがした」
「果物を摘んでいたら、そうなるんだ。多分、ナマエからも同じ匂いがする」
「本当?」
ナマエが自分の手の匂いを嗅いでみると、確かにそのような匂いはした。しかし、それは風息のものとは少しばかり趣が違うもので、甘い、うっとりとするようなものが消え去った。
「ちょっと違うよ」
「俺の方が、長い間触っていたからだな」
「そうかな」
「そうだ」
「ちゃんと見てよ」
ナマエは風息の顔に手を近づける。風息は決して彼女の手に触れなかったが、子供のような手のひらから、暖かい体温を感じられた。小さい手だった。成長の発展途上にある子供の手だ。
柔らかな子供の皮膚の匂いが、した。
ナマエ自身の匂いと甘酸っぱい香りが混ざり合い、奇妙な香水のような香りがした。争い難い誘惑のように、自分までもが飲み込まれてしまうような錯覚。
思わず引き込まれてたが、遠くから呼び戻すような声がした。
「ね、違うでしょ」
「あぁ……」
靄のような感情が、風息の胸中に現れた。心を落ち着かせるために、外の景色を眺める。ナマエはあくまで無邪気に寄り添ってくる。
そういうわけではないのだと、思い込む。人間が持ちうるような性愛的な感情を、精霊も同じように想うのだろうか。長い時を生きて、思慮に耽る時間は山のようにあったのだが、自身よりの問題にここまで考えたことはなかった。話題が話題だけに、他の友人に頼ることもできず、ここ数年間、ナマエを見るといつも考え込んでしまうのだ。
「じゃ、私は先にでてるから!」
気がつけば、ナマエは靴を履いて、外へ飛び出していってしまう。一人森の中を走っていく彼女の後ろ姿を見て、また鬱屈とした感情を抱えるのだった。
さしたる意味はない行為だった。どこからか小さな声が聞こえて、それを拾いあげただけだった。
ナマエは全く素性のわからない精霊だった。記憶がないのか痴呆なのか、気がつくと浜で一人でいたらしい。館のこともわからないと言い、一般常識も欠けるような有り様だった。なし崩し的に共同生活を送るようになり、一から様々なことを教えた。
また、教えたことはすべからく吸収し、異様に好奇心旺盛で周りを振り回する。そんな彼女のことを1番目にかけていたのは風息だった。まるで母鳥と雛のように、二人は離れがたく結ばれる。そこにはプラトニックな感情しか存在しないはずだった。母と子、父と娘、師弟のような関係。それをずっと疑わずに過ごしてきた。
月日は流れ、その流れに身を委ねれば自ずと成長は続く。子供のようなナマエの体は、日に日に女性的な丸みを帯ていき、ゆっくりと花開くように大人に近づいていく。それはもう、無視ができないほどに。
小鹿のような真っ直ぐな体がしなやかに伸びていく。子供から少女に、少女から大人へと変革していく途中に彼女はいる。時折美人画のような表情をして遠くを見ていると思えば、子供のように無邪気にまとわりついてくる。
触れるにも躊躇するような気持ちを覚えた。変化に戸惑うのは己ばかりであって、周りは以前となんら変わりないように振る舞う。変わる気持ちを察知させないように変わらない接し方を試みるが、モヤモヤとした気持ちはいっそう深まるばかりで、どうしようもない。恋であるというのなら、いっそう隠さねばならないのだから、余計に苦しみ、矛盾を抱えるばかりである。
森の轍を踏みながら、空を見上げる。雲が流れていくのを眺めていると、後ろから跳ねるような足音が聞こえてきた。振り返ると、ナマエがこちらへと走ってくる。
「わっ!」
ナマエが助走をつけて飛び込んできた。昔なら抱き止めてられていたのが、重みが増えたので地面に倒れ込んでしまう。
「えへへ。驚いた?」
抱きついて胸に顔を埋めながらナマエは得意げにそう言った。
「いきなりこんな……危ないんじゃないか」
「風息だったら大丈夫だと思って」
地面には積もった葉が散乱していた。ナマエに押し倒される形でいたので、恥ずかしくて居た堪れない気持ちでいっぱいになった。
「なあ、離れてくれないか。重いんだ」
「やだ! 久しぶりにぎゅってしてよ」
昔、子供にするようにナマエを抱いていたことを思い出す。かつてはペットか小動物かを愛撫する気持ちで、時折抱き上げていたのだが、それをいまだにねだってくるというのも考えものである。それだけ懐いてくる証拠なのだろうが、今の体型では些か不具合がある。
親に甘えるように縋ってくるナマエの表情から、離す気はないのだろう。
風息は観念して、背中にそっと手を回した。
小さく、腕の中に収まっていたあの頃とは比べ物にならないくらい背が伸びている。
思い切り抱きしめたら潰れるのではないかと遠慮するのとは反対に、ナマエは遠慮なく胸に顔を埋めてくる。これを他人に見られたらどう言い訳しようかと考えながら、ナマエの頭をゆっくりと撫でる。かつて、髪をすいてやったことを思い出した。
綺麗に伸びるようにと、毎日手入れをしてやった。髪は女性の命だという言葉を聞いて、熱心に世話をしてやった。その甲斐あって、今では背中まで伸びて、神々しい煌めきを放っていた。
「ナマエ」
「うん」
「大きくなったな」
風息がこの小さな精霊と出会ってから、怠慢にすぎていくはずだった月日があっという間に駆け抜けていくものへと変化した。蕾が花開くように日々変化する少女を見て、彼の心には父のような兄のような、小さな恋人を育てるような奇妙な感情が芽生えるようになった。無意識に抑えこんでいた複雑な思いが、決壊した。
ナマエの体には、もうすでに森の匂いが染み付いて離れない。無邪気に密着するナマエの顔を手のひらで包み込んだ。
柔らかな頬に手で触れて、産毛の柔らかさ、肌のすべすべとした感触を確かめる。生きているものの暖かさがした。物珍しそうに風息を見上げる透明無垢な二つの瞳の先には、親のように慕う男の瞳が反射している。
綺麗な硝子細工を割った時のような、奇妙な高揚感があった。美しいもの、繊細なものを慈しむと同時に、粉々にしたらどうなるのだろうと思う嗜虐の気持ちは誰にでもあるものである。
目の前で砕け散った硝子は、もう元には戻らない。
柔らかい肉は、硬くて透明な硝子とは全く違うものだが、風息には、ナマエの肉体が全て崩れ落ちるような音が聞こえた。
ナマエは、力が抜けてぐったりとした体で、まとわりつくように風息に抱きついていた。抱きつくというより、空気の抜けた風船が木に引っかかっているようなもたれついているといった方が正しい。
緊張で張り詰めていた筋肉が弛緩して、生まれたての草食獣のように、立とうと思っているが、よろけて崩れ落ちる、ということを繰り返している。
「何だったの、今の」
ナマエからしてみれば、よくわからない疲れることをさせられた、という気分だった。風息は、その問いには答えず、暴れてめちゃくちゃになった髪の毛を整えてやっていた。
彼女は素足を投げ出して、寝転がったまま空を見上げた。外の風は汗ばんだ体を冷やすために吹いている。青い空だった。どこにでも行けそうな青ではなく、天井を作るような蓋は空だった。
蛇に唆されて知恵の実を食べたアダムとイヴのように、二人の間には決定的な変化が生じた。ナマエの胸中にあるのは混乱だけであり、妙な罪悪感を覚えた。新しい価値観が生じて、成長することは悪いことではない。問題は、それが今であってよかったのかという問題である。
日に日に、爪は伸び、背がするすると大きくなり、かつての衣服に袖を通すことが減ると、ナマエは一人でいることが増えた。冬眠前の生き物のように緩やかな眠りについては、時折目覚めて一人で夜空を見上げた。もうかつての童女の面影はなく、完全にナマエは思春期の壁を乗り越えようとしていた。
「ナマエ」
草葉で築いた扉の前に風息は立っていた。何時間も、許しがなければ決して入ることのできなくなった部屋の前で、ずっと名前を呼び続けていた。
「……なに」
ナマエは実の所、この反抗期じみたやり取りをもう終わらせたいと思っていた。ただ、申し訳なさそうに呼ばれると、どうしようもない、自分でも訳のわからない怒りに囚われて、カッとなってしまうのだ。
「許して欲しいとは言わない。でも、もう俺は行かなければいけないんだ」
「どこに? どうして?」
嫌な予感が脳裏を過り、ナマエは扉を開けた。新月の夜で、星が精一杯輝いていた。それを背景に、風息が立っていた。
「行かないで……! 何で、今になってそんなこと!」
今まで、こんな大きな声で叫んだことはなかった。森の静けさに、彼女の絶叫はかき消された。風息は、一瞬ナマエの頭を撫でようとしたが、押し止まった。ナマエは今にでも全て押しのけて、ぶつかるように飛びつきたかった。震える体は、もうかつてのように軽やかではなかった。
「大切なことなんだ。でも、ナマエを巻き込みたくなかった」
「知らない! 知らないことばっかり言わないで……」
どこかへ行って消えていってしまうような気がした。もう二度と、自分の手には戻ってこないような予感がして、ナマエは取り乱した。自信や確証があって言っているにしては、靄を掴むような不明瞭さがあるのだ。
「ナマエ」
名前を呼ばれて、顔を上げると、優しげに微笑む風息の顔があった。それが彼女が最後に見た、風息の姿だった。
「もう言うことはないんで、帰っていいですか」
久しぶりに館に顔を出したナマエは、都会の空気が汚いと文句をつけて、そうそうに言うだけ全部ぶちまけ、帰ろうとした。
聞き取りをした精霊は、困惑したようにナマエを見つめる。同情のニュアンスが含まれるそれを、ナマエは断固として突っぱねた。
「あ、あぁ……そうですね。ありがとうございました」
「お茶も入りません。もう、飲みません」
ナマエは苛立ちを覚えながら、そこをあとにした。もう、かつての仲間たちの見舞い以外で外に出ることはあり得ないだろう。風息と自分の関係を、根掘り葉掘り聞かれて混乱したというのもあって、ナマエは疲れていた。
「お疲れ様」
「もうお茶はいらないって言ったんですよ。無限さん」
ベンチに座って、ぼーっと車が行き交う街を眺めていた。ナマエは、いつの間にかそばに立っていた無限からペットボトルを受け取ると、大きなため息をついた。
「そうか」
「はい。もういっぱい飲んでお腹いっぱいなんです。島にペットボトルを持って帰るわけにもいかないし、いらないんですけどね」
人間と精霊の共生を拒んだ風息が、今の自分を見たらどう思うのだろうかと考える。結論は出ない。結局、考えても考えても答えが出ることは一生ないのだ。もう、ナマエに微笑みかけてくれる風息という人は、いない。
「今日もあそこに寄っていくのか」
「まぁ……そのためっていうのもあるんですよ。私がこうしているのは」
人間のいる土地なんて、面白くも何ともなかった。そう言うと、反抗心があるのだと誤解されたが、実際はそうでもない。本心で、他者との交わりが多すぎる世界はナマエにとっては雑音でしかないのだ。けれど、だからといって自分が風息の思想に完全に共鳴していたかと言われると、それも違う。ナマエにとって、幸福とはあの島で、仲間と一緒に過ごした思い出だけだった。
「……シャオヘイは元気なんですか」
「ああ、ナマエに会いたがっていた」
「そっか……」
ナマエは真下にある公園をずっと見ている。あの大きな樹は、何百年とそこにあったかのようにずっしりと土地に根付いている。
前は、ずっとあそこに座り込んで一人で泣いていた。もう今は、流す涙も枯れてしまった。泣いて、泣いて、どうしようもないくらい風息のことが好きだということを、嫌というくらい実感した。
「無限さん、近いうちにまた行ってもいいですか」
「ああ、シャオヘイも喜ぶよ」
今日も森の中で、一人でいると彼の声が聞こえるようだった。小さな生き物、植物のざわめきの中で、ナマエは精霊たちの木霊を聞く。夜、生き物たちが眠りにつくと、ナマエも夢を見た。めが覚めると、それは幸せな夢だった、ということはわかるのだが、内容がはっきりとしない。いずれ、また思い出せるかと期待して、ナマエは朝食のために木の実を摘みに行った。季節が一巡して、あの時食べた果実が、種になり、新しい実になっている。それに気がついて、少しだけ泣いた。
一人でいると、遠くを見つめてぼうっとしているのがナマエの常だった。曇り硝子の向こう側を覗くように、風景が曖昧になり、空気に溶けていってしまう。こういう時に注意をする相手などここにはおらず、夢見心地で放心していると、何時間も経っていたということがよくあった。
朝の時間帯というのは、生命が活動を始めて騒がしくなるものだ。息遣いや嬌声が遠く響き、柔らかい音色を奏でる。その調にナマエは身を委ねる。音に聞き入っていると、世界がとてつもなく広いように、思えるのだ。
「ナマエ」
静かに名前を呼ぶ声がする。ふと目を開けてみると、目の前によく見知った顔があった。
「おはよう、ナマエ」
「おはよう。今日はちゃんと寝たから……起こしにこなくてもいいのに」
入り口の敷居をまたいで、風息は入ってくる。ナマエは招き入れると、小さな火を起こして湯を沸かした。
「大丈夫か? 燃やすなよ」
「もうボヤは起こしません! 一緒に練習したんだし、大丈夫」
そういうと彼は笑って、厚布に包んだ果物を取り出した。
「取ってきたんだ、朝ごはん。まだだろ?」
「ありがとう。わたし、風息と一緒に食べるの好きなの」
小さな果実を、啄むように口に運び、歯で砕くと甘い汁が弾けた。腕にお茶を注ぎ、細やかな朝餉は小鳥の食事のように見える。ナマエは横目で風息のことを見ながら、思った。こんな小さな食事で、大丈夫なのかな。
「どうした?」
「あ、いや、その量でいいのかなって、思っただけ」
「足りなくなったらまた食べればいいだけだ」
「うーん、まぁ、そうだけど」
「ナマエこそ、しっかり食べろよ。小さいんだし」
「小さい……」
風息の大きな手が、ナマエの頬を包んだ。
「小さいんだ」
「風息が大きいんだよ」
「ははっ、そう言えるかもな」
柔らかい頬に硬い皮膚が滑ると、果実を摘んだ手の、甘い香りがした。爪の先から指先に、その匂いが染み付いている。おそらく長い間、食べられる果実を摘んでいたのだろう。
ナマエが手を取ると、風息は特に抵抗もせず、じっとそれを見つめていた。
「いい匂い」
指の先に鼻を押し当てて、少し嗅いでみるといい匂いがする。夢中になって嗅いでいると、「くすぐったい」と彼が身を捩る。
「風息の指、甘い匂いがした」
「果物を摘んでいたら、そうなるんだ。多分、ナマエからも同じ匂いがする」
「本当?」
ナマエが自分の手の匂いを嗅いでみると、確かにそのような匂いはした。しかし、それは風息のものとは少しばかり趣が違うもので、甘い、うっとりとするようなものが消え去った。
「ちょっと違うよ」
「俺の方が、長い間触っていたからだな」
「そうかな」
「そうだ」
「ちゃんと見てよ」
ナマエは風息の顔に手を近づける。風息は決して彼女の手に触れなかったが、子供のような手のひらから、暖かい体温を感じられた。小さい手だった。成長の発展途上にある子供の手だ。
柔らかな子供の皮膚の匂いが、した。
ナマエ自身の匂いと甘酸っぱい香りが混ざり合い、奇妙な香水のような香りがした。争い難い誘惑のように、自分までもが飲み込まれてしまうような錯覚。
思わず引き込まれてたが、遠くから呼び戻すような声がした。
「ね、違うでしょ」
「あぁ……」
靄のような感情が、風息の胸中に現れた。心を落ち着かせるために、外の景色を眺める。ナマエはあくまで無邪気に寄り添ってくる。
そういうわけではないのだと、思い込む。人間が持ちうるような性愛的な感情を、精霊も同じように想うのだろうか。長い時を生きて、思慮に耽る時間は山のようにあったのだが、自身よりの問題にここまで考えたことはなかった。話題が話題だけに、他の友人に頼ることもできず、ここ数年間、ナマエを見るといつも考え込んでしまうのだ。
「じゃ、私は先にでてるから!」
気がつけば、ナマエは靴を履いて、外へ飛び出していってしまう。一人森の中を走っていく彼女の後ろ姿を見て、また鬱屈とした感情を抱えるのだった。
さしたる意味はない行為だった。どこからか小さな声が聞こえて、それを拾いあげただけだった。
ナマエは全く素性のわからない精霊だった。記憶がないのか痴呆なのか、気がつくと浜で一人でいたらしい。館のこともわからないと言い、一般常識も欠けるような有り様だった。なし崩し的に共同生活を送るようになり、一から様々なことを教えた。
また、教えたことはすべからく吸収し、異様に好奇心旺盛で周りを振り回する。そんな彼女のことを1番目にかけていたのは風息だった。まるで母鳥と雛のように、二人は離れがたく結ばれる。そこにはプラトニックな感情しか存在しないはずだった。母と子、父と娘、師弟のような関係。それをずっと疑わずに過ごしてきた。
月日は流れ、その流れに身を委ねれば自ずと成長は続く。子供のようなナマエの体は、日に日に女性的な丸みを帯ていき、ゆっくりと花開くように大人に近づいていく。それはもう、無視ができないほどに。
小鹿のような真っ直ぐな体がしなやかに伸びていく。子供から少女に、少女から大人へと変革していく途中に彼女はいる。時折美人画のような表情をして遠くを見ていると思えば、子供のように無邪気にまとわりついてくる。
触れるにも躊躇するような気持ちを覚えた。変化に戸惑うのは己ばかりであって、周りは以前となんら変わりないように振る舞う。変わる気持ちを察知させないように変わらない接し方を試みるが、モヤモヤとした気持ちはいっそう深まるばかりで、どうしようもない。恋であるというのなら、いっそう隠さねばならないのだから、余計に苦しみ、矛盾を抱えるばかりである。
森の轍を踏みながら、空を見上げる。雲が流れていくのを眺めていると、後ろから跳ねるような足音が聞こえてきた。振り返ると、ナマエがこちらへと走ってくる。
「わっ!」
ナマエが助走をつけて飛び込んできた。昔なら抱き止めてられていたのが、重みが増えたので地面に倒れ込んでしまう。
「えへへ。驚いた?」
抱きついて胸に顔を埋めながらナマエは得意げにそう言った。
「いきなりこんな……危ないんじゃないか」
「風息だったら大丈夫だと思って」
地面には積もった葉が散乱していた。ナマエに押し倒される形でいたので、恥ずかしくて居た堪れない気持ちでいっぱいになった。
「なあ、離れてくれないか。重いんだ」
「やだ! 久しぶりにぎゅってしてよ」
昔、子供にするようにナマエを抱いていたことを思い出す。かつてはペットか小動物かを愛撫する気持ちで、時折抱き上げていたのだが、それをいまだにねだってくるというのも考えものである。それだけ懐いてくる証拠なのだろうが、今の体型では些か不具合がある。
親に甘えるように縋ってくるナマエの表情から、離す気はないのだろう。
風息は観念して、背中にそっと手を回した。
小さく、腕の中に収まっていたあの頃とは比べ物にならないくらい背が伸びている。
思い切り抱きしめたら潰れるのではないかと遠慮するのとは反対に、ナマエは遠慮なく胸に顔を埋めてくる。これを他人に見られたらどう言い訳しようかと考えながら、ナマエの頭をゆっくりと撫でる。かつて、髪をすいてやったことを思い出した。
綺麗に伸びるようにと、毎日手入れをしてやった。髪は女性の命だという言葉を聞いて、熱心に世話をしてやった。その甲斐あって、今では背中まで伸びて、神々しい煌めきを放っていた。
「ナマエ」
「うん」
「大きくなったな」
風息がこの小さな精霊と出会ってから、怠慢にすぎていくはずだった月日があっという間に駆け抜けていくものへと変化した。蕾が花開くように日々変化する少女を見て、彼の心には父のような兄のような、小さな恋人を育てるような奇妙な感情が芽生えるようになった。無意識に抑えこんでいた複雑な思いが、決壊した。
ナマエの体には、もうすでに森の匂いが染み付いて離れない。無邪気に密着するナマエの顔を手のひらで包み込んだ。
柔らかな頬に手で触れて、産毛の柔らかさ、肌のすべすべとした感触を確かめる。生きているものの暖かさがした。物珍しそうに風息を見上げる透明無垢な二つの瞳の先には、親のように慕う男の瞳が反射している。
綺麗な硝子細工を割った時のような、奇妙な高揚感があった。美しいもの、繊細なものを慈しむと同時に、粉々にしたらどうなるのだろうと思う嗜虐の気持ちは誰にでもあるものである。
目の前で砕け散った硝子は、もう元には戻らない。
柔らかい肉は、硬くて透明な硝子とは全く違うものだが、風息には、ナマエの肉体が全て崩れ落ちるような音が聞こえた。
ナマエは、力が抜けてぐったりとした体で、まとわりつくように風息に抱きついていた。抱きつくというより、空気の抜けた風船が木に引っかかっているようなもたれついているといった方が正しい。
緊張で張り詰めていた筋肉が弛緩して、生まれたての草食獣のように、立とうと思っているが、よろけて崩れ落ちる、ということを繰り返している。
「何だったの、今の」
ナマエからしてみれば、よくわからない疲れることをさせられた、という気分だった。風息は、その問いには答えず、暴れてめちゃくちゃになった髪の毛を整えてやっていた。
彼女は素足を投げ出して、寝転がったまま空を見上げた。外の風は汗ばんだ体を冷やすために吹いている。青い空だった。どこにでも行けそうな青ではなく、天井を作るような蓋は空だった。
蛇に唆されて知恵の実を食べたアダムとイヴのように、二人の間には決定的な変化が生じた。ナマエの胸中にあるのは混乱だけであり、妙な罪悪感を覚えた。新しい価値観が生じて、成長することは悪いことではない。問題は、それが今であってよかったのかという問題である。
日に日に、爪は伸び、背がするすると大きくなり、かつての衣服に袖を通すことが減ると、ナマエは一人でいることが増えた。冬眠前の生き物のように緩やかな眠りについては、時折目覚めて一人で夜空を見上げた。もうかつての童女の面影はなく、完全にナマエは思春期の壁を乗り越えようとしていた。
「ナマエ」
草葉で築いた扉の前に風息は立っていた。何時間も、許しがなければ決して入ることのできなくなった部屋の前で、ずっと名前を呼び続けていた。
「……なに」
ナマエは実の所、この反抗期じみたやり取りをもう終わらせたいと思っていた。ただ、申し訳なさそうに呼ばれると、どうしようもない、自分でも訳のわからない怒りに囚われて、カッとなってしまうのだ。
「許して欲しいとは言わない。でも、もう俺は行かなければいけないんだ」
「どこに? どうして?」
嫌な予感が脳裏を過り、ナマエは扉を開けた。新月の夜で、星が精一杯輝いていた。それを背景に、風息が立っていた。
「行かないで……! 何で、今になってそんなこと!」
今まで、こんな大きな声で叫んだことはなかった。森の静けさに、彼女の絶叫はかき消された。風息は、一瞬ナマエの頭を撫でようとしたが、押し止まった。ナマエは今にでも全て押しのけて、ぶつかるように飛びつきたかった。震える体は、もうかつてのように軽やかではなかった。
「大切なことなんだ。でも、ナマエを巻き込みたくなかった」
「知らない! 知らないことばっかり言わないで……」
どこかへ行って消えていってしまうような気がした。もう二度と、自分の手には戻ってこないような予感がして、ナマエは取り乱した。自信や確証があって言っているにしては、靄を掴むような不明瞭さがあるのだ。
「ナマエ」
名前を呼ばれて、顔を上げると、優しげに微笑む風息の顔があった。それが彼女が最後に見た、風息の姿だった。
「もう言うことはないんで、帰っていいですか」
久しぶりに館に顔を出したナマエは、都会の空気が汚いと文句をつけて、そうそうに言うだけ全部ぶちまけ、帰ろうとした。
聞き取りをした精霊は、困惑したようにナマエを見つめる。同情のニュアンスが含まれるそれを、ナマエは断固として突っぱねた。
「あ、あぁ……そうですね。ありがとうございました」
「お茶も入りません。もう、飲みません」
ナマエは苛立ちを覚えながら、そこをあとにした。もう、かつての仲間たちの見舞い以外で外に出ることはあり得ないだろう。風息と自分の関係を、根掘り葉掘り聞かれて混乱したというのもあって、ナマエは疲れていた。
「お疲れ様」
「もうお茶はいらないって言ったんですよ。無限さん」
ベンチに座って、ぼーっと車が行き交う街を眺めていた。ナマエは、いつの間にかそばに立っていた無限からペットボトルを受け取ると、大きなため息をついた。
「そうか」
「はい。もういっぱい飲んでお腹いっぱいなんです。島にペットボトルを持って帰るわけにもいかないし、いらないんですけどね」
人間と精霊の共生を拒んだ風息が、今の自分を見たらどう思うのだろうかと考える。結論は出ない。結局、考えても考えても答えが出ることは一生ないのだ。もう、ナマエに微笑みかけてくれる風息という人は、いない。
「今日もあそこに寄っていくのか」
「まぁ……そのためっていうのもあるんですよ。私がこうしているのは」
人間のいる土地なんて、面白くも何ともなかった。そう言うと、反抗心があるのだと誤解されたが、実際はそうでもない。本心で、他者との交わりが多すぎる世界はナマエにとっては雑音でしかないのだ。けれど、だからといって自分が風息の思想に完全に共鳴していたかと言われると、それも違う。ナマエにとって、幸福とはあの島で、仲間と一緒に過ごした思い出だけだった。
「……シャオヘイは元気なんですか」
「ああ、ナマエに会いたがっていた」
「そっか……」
ナマエは真下にある公園をずっと見ている。あの大きな樹は、何百年とそこにあったかのようにずっしりと土地に根付いている。
前は、ずっとあそこに座り込んで一人で泣いていた。もう今は、流す涙も枯れてしまった。泣いて、泣いて、どうしようもないくらい風息のことが好きだということを、嫌というくらい実感した。
「無限さん、近いうちにまた行ってもいいですか」
「ああ、シャオヘイも喜ぶよ」
今日も森の中で、一人でいると彼の声が聞こえるようだった。小さな生き物、植物のざわめきの中で、ナマエは精霊たちの木霊を聞く。夜、生き物たちが眠りにつくと、ナマエも夢を見た。めが覚めると、それは幸せな夢だった、ということはわかるのだが、内容がはっきりとしない。いずれ、また思い出せるかと期待して、ナマエは朝食のために木の実を摘みに行った。季節が一巡して、あの時食べた果実が、種になり、新しい実になっている。それに気がついて、少しだけ泣いた。
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