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単発SS
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整備されたリンクではなく自然にできた氷の上で彼が滑るのを見ていると、人間ではないモノを見ているかのような錯覚に陥る。彼の吐く息は白く、彼の髪は冷たい北風に吹き付けられて揺らいでいる。こんな大きな湖の上を、一人で踊っている人を見つけた時の驚きは今でも忘れられない。
山間に開けた湖は、夏はボートを漕いだりする観光客でそれなりににぎわっているけれど、冬は地元の人間でも滅多に寄り付かない場所だった。
その頃のわたしはというと、住み慣れた我が町の環境に飽き飽きしていた。外は凍り付くような寒さだったけれど、家にいたくなかった。だからといってただやみくもに外に出て、人通りの多い場所で知り合いに遭遇するのも嫌で、わたしは一人で雪が積もった道を歩いてわざわざここまでやってきたというわけだ。
当時のわたしはこんなことをするくらいには人というものと接触することを避けて生きていたのに、聖はわたしの事情などおかまいなしで、わたしよりも先にそこに立っていた。正確には立っていた――のではなく、滑っていた。
こんな山の中で踊っている人というものを、わたしは生まれて初めて見たので非常に驚いた。具体的にいうなら、腰をぬかしてしまった。凍った池や川の上をスケート靴をはいて滑っている人――というのは知識としては知っていたけれど、あのいつ崩れるかもわからないような薄い氷の上でジャンプするような人がいるなんて、思ってもいなかった。
あたりはあまりにも静かだった。人どころか冬なので動物が鳴く声も聞こえない。だからきっと、聖は踊り終わってすぐにわたしの存在に気が付いたのだと思う。そうでなかったとすれば、ずっとわたしは彼に見つかることのないまま、ただその光景を眺めていたのだろう。彼もこちらに気取られることなく、夕暮れまで滑っていたんじゃないだろうか。
「すみません! そこの方……大丈夫ですか?」
聖は額に汗を滲ませながら、こちらの方まで走ってきた。呆気にとられてただ彼を見上げることしかできないわたしは、失語症か何かだと思われたかもしれない。聖は迷うことなくわたしに手を差し伸べると、すぐ横のベンチに積もった雪を払って、ハンカチの上にわたしを座らせてくれた。
「わたしは、大丈夫……ですけど、あなたは何をしていたんですか? フィギュアスケートの練習、とか?」
「ああ、違いますよ! 僕がやっているのはね、プリズムショーっていって――」
その時の彼の様子を言葉にするとしたら――無邪気という言葉を体現したかのように、光っていた。瞳を爛々と輝かせながら、顔には雪に反射した陽光よりも眩しい笑顔が浮かんでいた。わたしが全く知らない世界のこと――自分が熱中している「プリズムショー」というものの魅力について語り出したのだ。近づいてわたしを見て、聖もわたしと歳が近いことがわかったのか……それか、興奮していたせいかもしれないけれど、敬語もすぐになくなった。
わたしは彼の姿勢にただ圧倒された。こんな風に熱烈な言葉というものを――人が発せられる中で最も尊い煌めき――のようなものに初めて接触したのだから、無理もない。聖はそこに立っているだけで眩しく思えるような人だったけれど、それ以上に彼の弁が立っていたのもわたしが黙って話を聞いていた理由の一つでもある。初対面の人間に臆することなくこんな話をしてくる人がいるということに、自分の生きている世界の狭さを痛感させられたのだった。
「僕は本当に、プリズムショーのためになら何を捧げたとしても惜しくはないんだ」
「それだけ好きな物があるって、素敵だね」
淀みも迷いもない、まっすぐな言葉だ。鋭利すぎて、憂鬱なわたしごと断ち切られたかのようだった。
「君もやってみたらいいよ!」
「……それは、まだいいかなぁ」
聖は少しだけ、悲しそうな顔をする。
「…………」
少しの間だけど、聖の滑る様子と彼の言葉を見て、聞いただけで痛いくらいに感じてしまう。自分という人間の平凡さを。どれだけ頑張ってもわたしはきっと、こんな風にはなれないだろうということを。そして、それを正直に伝えれば彼はきっと悲しむだろう。聖の純粋さは、きっと無神経さと紙一重なのだ。わたしは短い時間で彼という人間を形作っている精神に深く同情する。
「でも……なんていうか、好きだよ。ずっと見ていたいって思った。あなたの練習をここで見ていても?」
「勿論! そうだ……。寒いから、僕の上着を貸してあげようか」
聖は颯爽とまた元のポジションに戻っていった。
ただ彼の背中を目で追っているだけで、元気が湧いてくるようだった。吐く息は白くて、吹き付ける風は冷たいけれど不思議と寒さも気にならない。彼が滑っている風景を閉じ込めてしまえば、一枚の絵になりそうだ。
聖という人の無垢な美しさをたった一人で独占することに対して、罪悪感を抱くことは一切ない。他の人はどうだかわからないけれど、このまま時が止まればいい、なんて生まれて初めて思った。
あの後、夕暮れまで彼は踊り続けていた。その様子を見ていたらいつの間にか辺りは暗くなっていた。二人して顔を見合わせて、少し笑った。そして町まで彼と一緒に歩いて帰ったことは覚えている。聖はいつもこんな遅くまでたった一人で練習しているのだろうか。それとも、ここに来たのは偶然で、明日にでもどこかに行ってしまうのか。彼が長野の山奥に定住しているようには見えなかったから、きっと観光客か何かだろうと予想すると、それ以外ありえないのに――ありえないから無性に悲しくなった。これはドラマじゃないし、映画でも小説でもない。運命なんて世界には存在しないから、二度と会えなかったとしてもそれは運が悪いだけだ。だから、わがままなんて考えないようにしよう。期待するだけ悲しいから。今までの人生がそうだったように、これからもそうしなきゃいけない。
わたしの少し先を歩く聖の横顔を見ていたら、少しだけ右手が伸びた。はっとして、すぐにポケットに手を突っ込む。
「…………」
自分がこんな性急な人間だったなんて、気づかなかった。安定していたはずの地面が崩れ落ちる。頑丈な足場が崩壊する幻覚を、見る。
もはや目の前なんて、ろくに見えていなかった。車道沿いにかろうじて存在する照明が時折彼を照らす時には、耐え難くて目をそらしてしまうくらいには。
「――」
聖が、わたしの名前を呼んだ気がして、歩く調子が乱れた。あ、と声を上げる間もないまま、吸い寄せられるように腕を引かれる。ピンボケした写真みたいにやけにぼんやりとした聖の姿を眺めていたら、それは終わった。
何かのはずみで、とか。魔が差して、だとか、いろいろ表現はあるだろうけれど、聖がわたしにキスした瞬間というのは、拍子抜けするくらいあっさりしていて、何もドラマチックではなかった。
呆気に取られて呆然とするわたしの手をそのまま引いて歩く聖は、何事もなかったかのように他愛もない話を始めた。
「聖」
「ん?」
「なんで……」
こんなことをしたの。わたしがそう続けるよりも聖が言う方が早かった。
「いけなかったかな?」
「いや、別に……」
あまりにも堂々と悪びれる様子がなかったので、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまうほどだった。
何が面白いのか、わたしを見て聖は声を上げて笑った。したいからした。ただそれだけなんだろうか。この行為に理由を求めるこちらが間違っているのではないか。鼻で笑われた――。
「してほしそうだったから」
いたずらに成功した子供のように勝ち誇った笑みを浮かべたまま、聖はわたしの手を強く握った。その時にわたしは強く悟った。この人は、ただ楽しいだけで生きていけると思っているんだろうな、と。
それからわたしたちは町まで戻ってきた。聖は、山から降りてきた人の群れに紛れて幻のように消えてしまった。
呆然としながら家路を歩いて、自分の部屋に戻っても夢から覚めたような気にはならなかった。紛れもない現実なのに、明晰夢をさまよっているような気分で足元がおぼつかない。
眠れないまま朝が来た。翌日の朝、起きると足は自然に昨日と同じ場所に向かっていた。聖はもう、そこにいた。
気づいてほしいような、気づかれてしまったら気まずいような。グチャグチャで整理がつかない状態のまま、ソロソロと歩く。何も悪いことなんてしていないのに、罪悪感のようなモヤモヤが渦巻いて頭が痛い。
それでも、聖がこちらに滑りながら向かってくると、ふと安心してしまう自分がいた。
今日も寒いね、なんて世間話みたいなことができるわけもなく、思う丈をぶちまけることしかできない。
「もう二度と会えないかと思った」
「え? どうして――そんな風に思ったんだい?」
彼は何もかも見透かしていて、わたしを嘲るために思わせぶりなことだけしているんじゃないか。そんな被害妄想を抱えてしまうくらい、聖がなんでわたしと喋ってくれているのか。昨日の行動の何もかもが理解できなかった。
わたしは一目ぼれとか運命だとか、そんな無邪気な夢を信じられるような感性をしていない。信じてみたいと思うけれど、この人なら……と思う自分の直観が信じられない。
「……雪か何かの妖精だと思った」
わたしがバカ正直に所感を述べると、彼は腹を抱えて笑い出した。
「あはっ、僕は人間だよ! ははっ……はぁ……、君は面白いことをいう人だね!」
聖は人の面倒な部分を慮ることよりも、自分が思っていることを表現するのを優先する性質なのだろう。
一帯に響くような大声で笑われたのに、不思議と不愉快な気持ちはなかった。こっちは顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかったけれど。
馬鹿にされているわけじゃないというのは、聖の作ったところがない顔を見ていると嫌というくらい伝わってきた。
「でもね……」
「うん?」
聖は神妙な面持ちでわたしを見つめる。
「君がそういう存在だったら、なんて僕も思わなかったわけじゃないんだ」
「……へぇ」
真剣な顔をして何を言い出すのかと思えば、メルヘンな妄想の話が始まった。わたしは吹き出しそうになるのをこらえながら、相槌を打った。
「本当だよ。夢があって素敵なことさ。そういうロマンを僕のようなプリズムスタァが否定してはいけないと思うんだ」
「へぇ。いろいろ考えてるんだね」
意外だ、とは言わなかった。それにそんなことを言うなんて悪口みたいだし。
サンタクロースの正体を子供の前でバラすのは野暮であるとか、そういう話をされているのかな。となんとなくわかった風で話を続けることにした。聖が気にしていたのはそういうことなんだろう。
「いつかは見れるんじゃない? ないって頭ごなしに否定するより、あるかもしれないって思ってた方が楽しく生きられそうだしね」
聖と知り合って間もないけれど、わたしの思う人生を生きていて楽しそうな人というイデアを体現しているのは彼だと思う。思いつきのままでなんでも楽しそうな人というのが、今の聖に対するわたしの印象だ。
「――――」
わたしが訳知り顔で持論を言った後、聖の声をさえぎるように渡り鳥の羽ばたきが聞こえた。――珍しい。この凍った湖にはやってこないはずなのに。しかも、やけに大きな羽音だった。なんなんだろうと疑問に思ったのは一瞬で、それよりもわたしの興味は聖の方へと向いていく。
「ねぇ、さっき何か言った?」
「あぁ……。別に何にもないよ。大した話じゃないんだ」
「本当に?」
聖は正直な人だ。わたしにもわかるくらいあからさまに目線が泳いだのを見逃すわけがない。
「……母のことだよ」
「……へぇ」
この言葉が東京かどこかにいる別の女の隠語でも、何かわたしに言えない何かを誤魔化すための嘘だったとしても、上手く騙してくれるならそれでいいと思った。わたしは聖が好きで、わたしは彼の隣にいるなら、それで構わない。
わたしは思わず聖に抱きついた。わたしの方から接触しても、聖はわかりやすく動揺することはなかった。
「なんでもないよ!」
聖はきっと、わたしの言葉を額面通りに受け取るだろう。それでいい。なんでもないって言って、そのまま信じてくれる人の方がわたしは好きだ。
山間に開けた湖は、夏はボートを漕いだりする観光客でそれなりににぎわっているけれど、冬は地元の人間でも滅多に寄り付かない場所だった。
その頃のわたしはというと、住み慣れた我が町の環境に飽き飽きしていた。外は凍り付くような寒さだったけれど、家にいたくなかった。だからといってただやみくもに外に出て、人通りの多い場所で知り合いに遭遇するのも嫌で、わたしは一人で雪が積もった道を歩いてわざわざここまでやってきたというわけだ。
当時のわたしはこんなことをするくらいには人というものと接触することを避けて生きていたのに、聖はわたしの事情などおかまいなしで、わたしよりも先にそこに立っていた。正確には立っていた――のではなく、滑っていた。
こんな山の中で踊っている人というものを、わたしは生まれて初めて見たので非常に驚いた。具体的にいうなら、腰をぬかしてしまった。凍った池や川の上をスケート靴をはいて滑っている人――というのは知識としては知っていたけれど、あのいつ崩れるかもわからないような薄い氷の上でジャンプするような人がいるなんて、思ってもいなかった。
あたりはあまりにも静かだった。人どころか冬なので動物が鳴く声も聞こえない。だからきっと、聖は踊り終わってすぐにわたしの存在に気が付いたのだと思う。そうでなかったとすれば、ずっとわたしは彼に見つかることのないまま、ただその光景を眺めていたのだろう。彼もこちらに気取られることなく、夕暮れまで滑っていたんじゃないだろうか。
「すみません! そこの方……大丈夫ですか?」
聖は額に汗を滲ませながら、こちらの方まで走ってきた。呆気にとられてただ彼を見上げることしかできないわたしは、失語症か何かだと思われたかもしれない。聖は迷うことなくわたしに手を差し伸べると、すぐ横のベンチに積もった雪を払って、ハンカチの上にわたしを座らせてくれた。
「わたしは、大丈夫……ですけど、あなたは何をしていたんですか? フィギュアスケートの練習、とか?」
「ああ、違いますよ! 僕がやっているのはね、プリズムショーっていって――」
その時の彼の様子を言葉にするとしたら――無邪気という言葉を体現したかのように、光っていた。瞳を爛々と輝かせながら、顔には雪に反射した陽光よりも眩しい笑顔が浮かんでいた。わたしが全く知らない世界のこと――自分が熱中している「プリズムショー」というものの魅力について語り出したのだ。近づいてわたしを見て、聖もわたしと歳が近いことがわかったのか……それか、興奮していたせいかもしれないけれど、敬語もすぐになくなった。
わたしは彼の姿勢にただ圧倒された。こんな風に熱烈な言葉というものを――人が発せられる中で最も尊い煌めき――のようなものに初めて接触したのだから、無理もない。聖はそこに立っているだけで眩しく思えるような人だったけれど、それ以上に彼の弁が立っていたのもわたしが黙って話を聞いていた理由の一つでもある。初対面の人間に臆することなくこんな話をしてくる人がいるということに、自分の生きている世界の狭さを痛感させられたのだった。
「僕は本当に、プリズムショーのためになら何を捧げたとしても惜しくはないんだ」
「それだけ好きな物があるって、素敵だね」
淀みも迷いもない、まっすぐな言葉だ。鋭利すぎて、憂鬱なわたしごと断ち切られたかのようだった。
「君もやってみたらいいよ!」
「……それは、まだいいかなぁ」
聖は少しだけ、悲しそうな顔をする。
「…………」
少しの間だけど、聖の滑る様子と彼の言葉を見て、聞いただけで痛いくらいに感じてしまう。自分という人間の平凡さを。どれだけ頑張ってもわたしはきっと、こんな風にはなれないだろうということを。そして、それを正直に伝えれば彼はきっと悲しむだろう。聖の純粋さは、きっと無神経さと紙一重なのだ。わたしは短い時間で彼という人間を形作っている精神に深く同情する。
「でも……なんていうか、好きだよ。ずっと見ていたいって思った。あなたの練習をここで見ていても?」
「勿論! そうだ……。寒いから、僕の上着を貸してあげようか」
聖は颯爽とまた元のポジションに戻っていった。
ただ彼の背中を目で追っているだけで、元気が湧いてくるようだった。吐く息は白くて、吹き付ける風は冷たいけれど不思議と寒さも気にならない。彼が滑っている風景を閉じ込めてしまえば、一枚の絵になりそうだ。
聖という人の無垢な美しさをたった一人で独占することに対して、罪悪感を抱くことは一切ない。他の人はどうだかわからないけれど、このまま時が止まればいい、なんて生まれて初めて思った。
あの後、夕暮れまで彼は踊り続けていた。その様子を見ていたらいつの間にか辺りは暗くなっていた。二人して顔を見合わせて、少し笑った。そして町まで彼と一緒に歩いて帰ったことは覚えている。聖はいつもこんな遅くまでたった一人で練習しているのだろうか。それとも、ここに来たのは偶然で、明日にでもどこかに行ってしまうのか。彼が長野の山奥に定住しているようには見えなかったから、きっと観光客か何かだろうと予想すると、それ以外ありえないのに――ありえないから無性に悲しくなった。これはドラマじゃないし、映画でも小説でもない。運命なんて世界には存在しないから、二度と会えなかったとしてもそれは運が悪いだけだ。だから、わがままなんて考えないようにしよう。期待するだけ悲しいから。今までの人生がそうだったように、これからもそうしなきゃいけない。
わたしの少し先を歩く聖の横顔を見ていたら、少しだけ右手が伸びた。はっとして、すぐにポケットに手を突っ込む。
「…………」
自分がこんな性急な人間だったなんて、気づかなかった。安定していたはずの地面が崩れ落ちる。頑丈な足場が崩壊する幻覚を、見る。
もはや目の前なんて、ろくに見えていなかった。車道沿いにかろうじて存在する照明が時折彼を照らす時には、耐え難くて目をそらしてしまうくらいには。
「――」
聖が、わたしの名前を呼んだ気がして、歩く調子が乱れた。あ、と声を上げる間もないまま、吸い寄せられるように腕を引かれる。ピンボケした写真みたいにやけにぼんやりとした聖の姿を眺めていたら、それは終わった。
何かのはずみで、とか。魔が差して、だとか、いろいろ表現はあるだろうけれど、聖がわたしにキスした瞬間というのは、拍子抜けするくらいあっさりしていて、何もドラマチックではなかった。
呆気に取られて呆然とするわたしの手をそのまま引いて歩く聖は、何事もなかったかのように他愛もない話を始めた。
「聖」
「ん?」
「なんで……」
こんなことをしたの。わたしがそう続けるよりも聖が言う方が早かった。
「いけなかったかな?」
「いや、別に……」
あまりにも堂々と悪びれる様子がなかったので、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまうほどだった。
何が面白いのか、わたしを見て聖は声を上げて笑った。したいからした。ただそれだけなんだろうか。この行為に理由を求めるこちらが間違っているのではないか。鼻で笑われた――。
「してほしそうだったから」
いたずらに成功した子供のように勝ち誇った笑みを浮かべたまま、聖はわたしの手を強く握った。その時にわたしは強く悟った。この人は、ただ楽しいだけで生きていけると思っているんだろうな、と。
それからわたしたちは町まで戻ってきた。聖は、山から降りてきた人の群れに紛れて幻のように消えてしまった。
呆然としながら家路を歩いて、自分の部屋に戻っても夢から覚めたような気にはならなかった。紛れもない現実なのに、明晰夢をさまよっているような気分で足元がおぼつかない。
眠れないまま朝が来た。翌日の朝、起きると足は自然に昨日と同じ場所に向かっていた。聖はもう、そこにいた。
気づいてほしいような、気づかれてしまったら気まずいような。グチャグチャで整理がつかない状態のまま、ソロソロと歩く。何も悪いことなんてしていないのに、罪悪感のようなモヤモヤが渦巻いて頭が痛い。
それでも、聖がこちらに滑りながら向かってくると、ふと安心してしまう自分がいた。
今日も寒いね、なんて世間話みたいなことができるわけもなく、思う丈をぶちまけることしかできない。
「もう二度と会えないかと思った」
「え? どうして――そんな風に思ったんだい?」
彼は何もかも見透かしていて、わたしを嘲るために思わせぶりなことだけしているんじゃないか。そんな被害妄想を抱えてしまうくらい、聖がなんでわたしと喋ってくれているのか。昨日の行動の何もかもが理解できなかった。
わたしは一目ぼれとか運命だとか、そんな無邪気な夢を信じられるような感性をしていない。信じてみたいと思うけれど、この人なら……と思う自分の直観が信じられない。
「……雪か何かの妖精だと思った」
わたしがバカ正直に所感を述べると、彼は腹を抱えて笑い出した。
「あはっ、僕は人間だよ! ははっ……はぁ……、君は面白いことをいう人だね!」
聖は人の面倒な部分を慮ることよりも、自分が思っていることを表現するのを優先する性質なのだろう。
一帯に響くような大声で笑われたのに、不思議と不愉快な気持ちはなかった。こっちは顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかったけれど。
馬鹿にされているわけじゃないというのは、聖の作ったところがない顔を見ていると嫌というくらい伝わってきた。
「でもね……」
「うん?」
聖は神妙な面持ちでわたしを見つめる。
「君がそういう存在だったら、なんて僕も思わなかったわけじゃないんだ」
「……へぇ」
真剣な顔をして何を言い出すのかと思えば、メルヘンな妄想の話が始まった。わたしは吹き出しそうになるのをこらえながら、相槌を打った。
「本当だよ。夢があって素敵なことさ。そういうロマンを僕のようなプリズムスタァが否定してはいけないと思うんだ」
「へぇ。いろいろ考えてるんだね」
意外だ、とは言わなかった。それにそんなことを言うなんて悪口みたいだし。
サンタクロースの正体を子供の前でバラすのは野暮であるとか、そういう話をされているのかな。となんとなくわかった風で話を続けることにした。聖が気にしていたのはそういうことなんだろう。
「いつかは見れるんじゃない? ないって頭ごなしに否定するより、あるかもしれないって思ってた方が楽しく生きられそうだしね」
聖と知り合って間もないけれど、わたしの思う人生を生きていて楽しそうな人というイデアを体現しているのは彼だと思う。思いつきのままでなんでも楽しそうな人というのが、今の聖に対するわたしの印象だ。
「――――」
わたしが訳知り顔で持論を言った後、聖の声をさえぎるように渡り鳥の羽ばたきが聞こえた。――珍しい。この凍った湖にはやってこないはずなのに。しかも、やけに大きな羽音だった。なんなんだろうと疑問に思ったのは一瞬で、それよりもわたしの興味は聖の方へと向いていく。
「ねぇ、さっき何か言った?」
「あぁ……。別に何にもないよ。大した話じゃないんだ」
「本当に?」
聖は正直な人だ。わたしにもわかるくらいあからさまに目線が泳いだのを見逃すわけがない。
「……母のことだよ」
「……へぇ」
この言葉が東京かどこかにいる別の女の隠語でも、何かわたしに言えない何かを誤魔化すための嘘だったとしても、上手く騙してくれるならそれでいいと思った。わたしは聖が好きで、わたしは彼の隣にいるなら、それで構わない。
わたしは思わず聖に抱きついた。わたしの方から接触しても、聖はわかりやすく動揺することはなかった。
「なんでもないよ!」
聖はきっと、わたしの言葉を額面通りに受け取るだろう。それでいい。なんでもないって言って、そのまま信じてくれる人の方がわたしは好きだ。