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単発SS
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「ん……、じゃあ今日は――日だから、出席番号――番のやつに読んで貰うか」
先生の目線がわたしの方に向いた。多分、おそらく、絶対に今日来るであろうと予測はできていたけれど、毎回教室全員の視線と先生の視線、全てがこちらに向かってくるこの瞬間だけは、どうにも慣れそうにない。
椅子から立ち上がって教科書を持ち上げ、腹の奥からせり上がってくる不安で足が震える。
これくらい先生が読んでくれたらいいのに。なんて思いながら、わたしはずっと頭の中で繰り返していた文章を読む。
「――京に、その人の御もとにとて、ふみかきてつく。駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり……」
読むというよりは、丸暗記した文章をそのまま口から発しているだけといった方が正しいかもしれない。こうなってくるともう、周りの様子なんて気にしている暇はなくて。早く、早く終わって欲しいと念じながら教科書の文字列を目で追っていくしかない。
「あー、その段落までで大丈夫。座っていいぞー」
「……」
言われるがままに着席すると、一日分の疲労が全て襲ってきたかのような、猛烈な倦怠感がやってきた。緊張して強張っていた身体が元のように戻ることもなく、先生が黒板に書いている文字の並びも、白と緑の境界線が曖昧に見えて、まだ心臓がうるさいくらいにドキドキしていた。
「これってさぁ、前にもやったと思うけど、昔の人っつーのは夢に好きな相手が出てくると、そいつは自分のことを好きだって思うんだよな。
今だと夢に人が出てくると、自分は相手のことが好きなんだって解釈するのが普通だけど、昔は個人って概念が存在しないから、夢で起こったことはそのまんま相手の気持ちだと解釈されるっていう。身勝手な話だよなぁ……と思う先生であった」
強張った手で板書をしていると、何度もシャー芯が折れる。先生はどうして、こんなに大勢の前で立っても堂々としていられるんだろう。たった一段落の文章を読むだけでも、死にそうな思いをしているわたしと先生とでは、見ている世界が全然違うのかもしれない。
先生の目は常にこちらを見ているようで、その実はっきりと目線が交わることはほとんどなかった。
わたしは授業中にぼーっとしているタイプでもないし、内職をするような感じでもない。きっと先生はわたしのこと、あんまり手のかからない大人しい生徒の一人だとしか思っていないんだと思う。
――わたしはずっと、阿川先生のことしか見ていないのに。
目があってほしいような、あんまり見て欲しくないような。気持ちが二つある。
先生が野球部の顧問をしていると知った時から、わたしは塾のない日は野球部の練習をこっそり眺めることにしていた。
気がついてびっくりしたことがある。先生は野球のルールなんて全く知らない。毎回何かあるたびに部員たちに聞いて回って、堂々と何も知らないのだという態度でベンチに座っていた。
顧問なのにそんなこともあるのか。と驚いたけれど、よく考えれば公立の強豪校でもない野球部の顧問なんだから別に変なことじゃないかもしれない。
わたしだったら、多分無理だ。
この場で自分だけが物を知らないなんて耐えきれなくて、一人で勉強するだろうし、年下の子供に全部教えられるだけっていうのが、多分できない。
阿川先生はすごい人だ。そしてこれは、部員以外だとわたしくらいしか知らない先生の長所だと思う。
野球部どころか、野球になんて一ミリも興味はなかった。先生が好きなら勉強しようかな、と思ったかもしれないけれど。
夕暮れのグラウンドで、西日に照らされて先生の長い髪がキラキラ照らされるのが好きだった。あの部員たちだって普段は練習ばかりしているから、先生をじっと見つめることもないだろう。先生が綺麗な人だということを世界中でわたし一人だけが知っていればいいと思った。
好きだなという自覚が芽生えた時は、最悪だった。
「すごく迷惑、なんです」
「……それをもうちょいオブラートに包んで、相手に言ってやればいいんじゃね?」
「わざわざわたしから言わないといけないんですか?」
「そりゃあ、まあ、言われた本人以外にやれる人がいないだろ」
「……困ってるんです。一方的に好意だけ押しつけられて、自己満足なのに。傷ついたって言われて、ストーカーとかになったらどうするんですか」
「…………それはないとは言い切れないけど」
野球部の人に告白された。名前もよく知らないような人だった。
ずっと練習を見に来ていたわたしのことを見ていて、好きだと言われた。その時に沸いてきたのは怒りというか、モヤモヤというか、邪魔っていうか、単純に面倒くさいと思った。
告白の返事を保留にしたまましばらくして、わたしは先生を頼ることにした。本人に会って話をしたくなかったし、先生ならどうしたらいいのか考えてくれる。ちゃんとした大人だと思ったからだ。
結果として返ってきた正論に、思っていたのと違う……と感じたのと同時に、だから先生って先生なんだな、と感心する気持ちもあった。
みんな阿川先生のことを適当だとか、変な人だっていうけど本当に変な人なだけだったら古典の教師になんてならないし、好きでもない野球部の顧問がこなせるわけがない。
わたしは全部から逃げたかった。この限られた時間の中で、誰かから責任を負わされることもなくただ見つめていたいだけ。そのちょっとした幸せも無神経な誰かのせいで潰されるなんて許せないし、それに……わたしが好きなのは先生一人だけだったから。それ以外いらなかったし、先生にも分かってほしかった。
「せ、先生は、好きでもない人に好きって言われたら、困らないんですか。たとえば、生徒、とかから……」
「んん? 私かぁ? ないない! 私相手にそんなこと言ってくる生徒なんていないだろ!」
いるんですよ、ここに。
「時間の無駄って思いますか」
「生徒と付き合うなんて教師がいたら、まず私がぶっ飛ばす。逆なら……子供だから先生のことを好きになっちまうっていうのは、理解できないわけじゃねぇけど」
「わたしは、自分のことを好きにならない相手のことを好きになるのって、本当に無駄だなって思います。早く辞めたらいいのに、って」
自分で言っていて胸が痛くなってきた。相手への批判はそのまま自分に返ってくる言葉だから。……向こうの方がまともだ。わたしならワンチャンあると思うのは普通のことだ。同じ学校の学生同士で……大人のことを好きになるのとは越えるハードルが違う。そもそも、わたしは思いを伝えることすら許されないのに! 顔すら思い出せない人への怒りで、体温が上がっていくのと同時に自分の醜いところを先生に晒してしまっているのが分かる。
嫌なところを見せても、きっと先生はわたしのことを否定しない。受け入れてもくれない。どっちにしろ、わたしは自分の恥を晒すだけだ。
「あー? んん……。恋愛とかそういうのに損得の概念って存在するのか? 悪いけど、私にはよく分からないな……。
私には、告白されてめんどっちいって思う気持ちも、返事がなくて辛いって気持ちも、どっちも分からなくはないけどなぁ。私に聞くことか? って思うけど、真剣な悩みを打ち明けてくれたなら無碍にするわけにはいかねぇだろ?」
「わたしは……何もしなければよかったんですかね。欲張らずに、求めずにいればこんな面倒なことにならなくてすんだかもしれない。向こうだって、わたしなんか好きになって時間も感情も使って、バカみたいじゃないですか。……誰も幸せにならないですよ」
「それは違うだろ」
先生の手がわたしの肩に触れた。ずしりとした重みとシャツ越しに感じる熱い手のひらの体温のせいで、思わず身体が震える。
「そのわたしなんか、っていうのは誰も幸せにしないからな」
先生の真っ直ぐな眼差しがわたしに直接突き刺さる。射貫くような鋭さに思わず視線を逸らす。
それでも先生は、じっとわたしの言葉を待っていた。逃げられないようになるなら、こんなことじゃない方がよかった。
わたしは弱い。だから、こうして向かってくれている大好きな人の言葉も素直にきけない。
「身勝手な恋愛なんて許せないです。わたしは……そういう人は嫌いなんですよ」
「自分が許せないから、他人にもそうあれって押しつけるのは結構傲慢だよなぁ……」
先生はわたしよりも百面相でため息をつく。この人も板挟みにされて大変な立場だというのをたった今思い出した。こういう悩みを打ち明ける向こうもわたしも両方おかしい人間だと思った。――いや、こういうところでシンパシーを感じるのは変かも。
「……はい。わたしも、好きな人がそんな考えだったら嫌だなって思ってました」
――そんなことはないっていうのは、今証明されたけど。
「ハァ、若ぇ~! 十代っていいなぁ! 私にはそういうのなかったんだよなぁ! うらやましい! 好きな人、他にいるんだろ? 私の知ってる人か? ……あ、別に言わなくてもいいからな?」
「えぇ……」
さっきまで真剣なトーンで話していたのに、すぐに恋バナの方向に持って行こうとされたのには驚いた。ふざけている今なら、ちょっとだけ言ってもいいかもしれない。そしてこれ以上何か言うのはもうしない。今そう決めた。
「この前阿川先生が、わたしの夢に出てきましたよ」
「あぁ~。私も生徒のこと、マジで愛してるからなぁ」
「――じゃあ、両思いですね」
先生の目線がわたしの方に向いた。多分、おそらく、絶対に今日来るであろうと予測はできていたけれど、毎回教室全員の視線と先生の視線、全てがこちらに向かってくるこの瞬間だけは、どうにも慣れそうにない。
椅子から立ち上がって教科書を持ち上げ、腹の奥からせり上がってくる不安で足が震える。
これくらい先生が読んでくれたらいいのに。なんて思いながら、わたしはずっと頭の中で繰り返していた文章を読む。
「――京に、その人の御もとにとて、ふみかきてつく。駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり……」
読むというよりは、丸暗記した文章をそのまま口から発しているだけといった方が正しいかもしれない。こうなってくるともう、周りの様子なんて気にしている暇はなくて。早く、早く終わって欲しいと念じながら教科書の文字列を目で追っていくしかない。
「あー、その段落までで大丈夫。座っていいぞー」
「……」
言われるがままに着席すると、一日分の疲労が全て襲ってきたかのような、猛烈な倦怠感がやってきた。緊張して強張っていた身体が元のように戻ることもなく、先生が黒板に書いている文字の並びも、白と緑の境界線が曖昧に見えて、まだ心臓がうるさいくらいにドキドキしていた。
「これってさぁ、前にもやったと思うけど、昔の人っつーのは夢に好きな相手が出てくると、そいつは自分のことを好きだって思うんだよな。
今だと夢に人が出てくると、自分は相手のことが好きなんだって解釈するのが普通だけど、昔は個人って概念が存在しないから、夢で起こったことはそのまんま相手の気持ちだと解釈されるっていう。身勝手な話だよなぁ……と思う先生であった」
強張った手で板書をしていると、何度もシャー芯が折れる。先生はどうして、こんなに大勢の前で立っても堂々としていられるんだろう。たった一段落の文章を読むだけでも、死にそうな思いをしているわたしと先生とでは、見ている世界が全然違うのかもしれない。
先生の目は常にこちらを見ているようで、その実はっきりと目線が交わることはほとんどなかった。
わたしは授業中にぼーっとしているタイプでもないし、内職をするような感じでもない。きっと先生はわたしのこと、あんまり手のかからない大人しい生徒の一人だとしか思っていないんだと思う。
――わたしはずっと、阿川先生のことしか見ていないのに。
目があってほしいような、あんまり見て欲しくないような。気持ちが二つある。
先生が野球部の顧問をしていると知った時から、わたしは塾のない日は野球部の練習をこっそり眺めることにしていた。
気がついてびっくりしたことがある。先生は野球のルールなんて全く知らない。毎回何かあるたびに部員たちに聞いて回って、堂々と何も知らないのだという態度でベンチに座っていた。
顧問なのにそんなこともあるのか。と驚いたけれど、よく考えれば公立の強豪校でもない野球部の顧問なんだから別に変なことじゃないかもしれない。
わたしだったら、多分無理だ。
この場で自分だけが物を知らないなんて耐えきれなくて、一人で勉強するだろうし、年下の子供に全部教えられるだけっていうのが、多分できない。
阿川先生はすごい人だ。そしてこれは、部員以外だとわたしくらいしか知らない先生の長所だと思う。
野球部どころか、野球になんて一ミリも興味はなかった。先生が好きなら勉強しようかな、と思ったかもしれないけれど。
夕暮れのグラウンドで、西日に照らされて先生の長い髪がキラキラ照らされるのが好きだった。あの部員たちだって普段は練習ばかりしているから、先生をじっと見つめることもないだろう。先生が綺麗な人だということを世界中でわたし一人だけが知っていればいいと思った。
好きだなという自覚が芽生えた時は、最悪だった。
「すごく迷惑、なんです」
「……それをもうちょいオブラートに包んで、相手に言ってやればいいんじゃね?」
「わざわざわたしから言わないといけないんですか?」
「そりゃあ、まあ、言われた本人以外にやれる人がいないだろ」
「……困ってるんです。一方的に好意だけ押しつけられて、自己満足なのに。傷ついたって言われて、ストーカーとかになったらどうするんですか」
「…………それはないとは言い切れないけど」
野球部の人に告白された。名前もよく知らないような人だった。
ずっと練習を見に来ていたわたしのことを見ていて、好きだと言われた。その時に沸いてきたのは怒りというか、モヤモヤというか、邪魔っていうか、単純に面倒くさいと思った。
告白の返事を保留にしたまましばらくして、わたしは先生を頼ることにした。本人に会って話をしたくなかったし、先生ならどうしたらいいのか考えてくれる。ちゃんとした大人だと思ったからだ。
結果として返ってきた正論に、思っていたのと違う……と感じたのと同時に、だから先生って先生なんだな、と感心する気持ちもあった。
みんな阿川先生のことを適当だとか、変な人だっていうけど本当に変な人なだけだったら古典の教師になんてならないし、好きでもない野球部の顧問がこなせるわけがない。
わたしは全部から逃げたかった。この限られた時間の中で、誰かから責任を負わされることもなくただ見つめていたいだけ。そのちょっとした幸せも無神経な誰かのせいで潰されるなんて許せないし、それに……わたしが好きなのは先生一人だけだったから。それ以外いらなかったし、先生にも分かってほしかった。
「せ、先生は、好きでもない人に好きって言われたら、困らないんですか。たとえば、生徒、とかから……」
「んん? 私かぁ? ないない! 私相手にそんなこと言ってくる生徒なんていないだろ!」
いるんですよ、ここに。
「時間の無駄って思いますか」
「生徒と付き合うなんて教師がいたら、まず私がぶっ飛ばす。逆なら……子供だから先生のことを好きになっちまうっていうのは、理解できないわけじゃねぇけど」
「わたしは、自分のことを好きにならない相手のことを好きになるのって、本当に無駄だなって思います。早く辞めたらいいのに、って」
自分で言っていて胸が痛くなってきた。相手への批判はそのまま自分に返ってくる言葉だから。……向こうの方がまともだ。わたしならワンチャンあると思うのは普通のことだ。同じ学校の学生同士で……大人のことを好きになるのとは越えるハードルが違う。そもそも、わたしは思いを伝えることすら許されないのに! 顔すら思い出せない人への怒りで、体温が上がっていくのと同時に自分の醜いところを先生に晒してしまっているのが分かる。
嫌なところを見せても、きっと先生はわたしのことを否定しない。受け入れてもくれない。どっちにしろ、わたしは自分の恥を晒すだけだ。
「あー? んん……。恋愛とかそういうのに損得の概念って存在するのか? 悪いけど、私にはよく分からないな……。
私には、告白されてめんどっちいって思う気持ちも、返事がなくて辛いって気持ちも、どっちも分からなくはないけどなぁ。私に聞くことか? って思うけど、真剣な悩みを打ち明けてくれたなら無碍にするわけにはいかねぇだろ?」
「わたしは……何もしなければよかったんですかね。欲張らずに、求めずにいればこんな面倒なことにならなくてすんだかもしれない。向こうだって、わたしなんか好きになって時間も感情も使って、バカみたいじゃないですか。……誰も幸せにならないですよ」
「それは違うだろ」
先生の手がわたしの肩に触れた。ずしりとした重みとシャツ越しに感じる熱い手のひらの体温のせいで、思わず身体が震える。
「そのわたしなんか、っていうのは誰も幸せにしないからな」
先生の真っ直ぐな眼差しがわたしに直接突き刺さる。射貫くような鋭さに思わず視線を逸らす。
それでも先生は、じっとわたしの言葉を待っていた。逃げられないようになるなら、こんなことじゃない方がよかった。
わたしは弱い。だから、こうして向かってくれている大好きな人の言葉も素直にきけない。
「身勝手な恋愛なんて許せないです。わたしは……そういう人は嫌いなんですよ」
「自分が許せないから、他人にもそうあれって押しつけるのは結構傲慢だよなぁ……」
先生はわたしよりも百面相でため息をつく。この人も板挟みにされて大変な立場だというのをたった今思い出した。こういう悩みを打ち明ける向こうもわたしも両方おかしい人間だと思った。――いや、こういうところでシンパシーを感じるのは変かも。
「……はい。わたしも、好きな人がそんな考えだったら嫌だなって思ってました」
――そんなことはないっていうのは、今証明されたけど。
「ハァ、若ぇ~! 十代っていいなぁ! 私にはそういうのなかったんだよなぁ! うらやましい! 好きな人、他にいるんだろ? 私の知ってる人か? ……あ、別に言わなくてもいいからな?」
「えぇ……」
さっきまで真剣なトーンで話していたのに、すぐに恋バナの方向に持って行こうとされたのには驚いた。ふざけている今なら、ちょっとだけ言ってもいいかもしれない。そしてこれ以上何か言うのはもうしない。今そう決めた。
「この前阿川先生が、わたしの夢に出てきましたよ」
「あぁ~。私も生徒のこと、マジで愛してるからなぁ」
「――じゃあ、両思いですね」
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