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Summer’71(旧連合夢小説企画)に提出したものです
オルガが唯一はっきりと覚えていたのは、かの女が食い入るようにモニターを見つめている後ろ姿だけだである。顔も名前も忘れてしまったその人が熱心に見ていたのは大昔――まだ人間が地球にしか生息していなかった頃に録画された映像だった。
内容は大したものではない。悪趣味でグロテスクなものではないし、電子ドラッグめいた刺激のあるものでもなかった。ただクラシック音楽に合わせて、やけにひらひらとした衣装に身を包んだ男女がつま先立ちで飛んだり跳ねたりしている。大勢が同じ音楽に合わせてそれぞれの動きで踊っている。ただそれだけ。
それがバレエと呼ばれるダンスであること。そして今踊っているのはこのバレエ団――どこかの国の大きな団体であるらしいが、名前は覚えていない――のエトワールであることを、彼女は何度も繰り返しオルガに話していた。
彼女がモニターを見つめている。その後ろを通る美術館の音声ガイドよろしく、女は決まり切った説明をしゃべり出した。こちらが何も知らないのだと思い込んでいるかのように。最初は薄気味が悪かった。しかし、それもじきに慣れた。
無視していても問題がなかったからだ。返事を求められることはなかった。喋っているのを無視して通り過ぎても、女が機嫌を損ねることはないのだ。そもそもの話、女がオルガのことを個人として認識しているのかすら危うかった。こんな状態でモビルスーツの操縦なんてできるのだろうかと、他人事ながら心配になるくらいに、女の雰囲気は危ういものを漂わせている。それだけならば別に珍しくもない。薬漬けにされて脳がおかしくなっている人間ばかりが集められていたのだから、それも当然の話だ。
見た目もラボにいた他の人間と似通っていた。顔つきもはっきりとは思い出せないくらいだから、どこにでもいるような目鼻立ちをしていたのだろうと思う。ほっそりとした手足は映像の中のダンサーに似ているかもしれなかったが、筋肉が一切ついていない、ただ痩せているだけの四肢は健全に飛び跳ねる彼らのそれとは全く異なっていた。足を地面に投げ出すように座って、高い位置にあるモニターをじっと見つめている。いつも背中をこちらに向けていたせいで、どうにも他のことが思い出せなかった。
女はいつも同じ映像を見ているのだと気がついた時、オルガははじめて自分から声をかけた。
「同じのばっかで飽きないのか?」
なんてことのないただの暇つぶしだ。明日いなくなってしまってもおかしくない相手に声をかける。同情はしない。ただ漠然と横たわる自由な時間を埋めるための行為でしかない。
「面白いよ。綺麗でしょう」
女はオルガに顔を向けることなくそう言った。
「綺麗……か」
「うん。今真ん中で踊っているのはこのバレエ団で一番の女性ダンサーで、エトワールっていうの。すごく高く飛ぶし、いつまでも回ってる。ほら」
「知ってる。……同じことばっかりだな、お前」
彼女はオルガの言葉を無視して、じっと画面を見つめていた。オルガは、女から返事らしい返事が返ってきたことに驚いていた。会話が成り立つ程度には頭がしっかりしているらしい。それすらも危ういのかと勝手に想像していた。
「おんなじことをやるのがバレエ」
「……はぁ?」
「昔からずっと振り付けも音楽もお話も同じ。踊っている人は違うけれど、国が違っても時代が進んでもやることは同じ。ずっと同じことをするの。それがバレエだから。古典って、本だって内容が分かることはない。でしょう、オルガ」
やはり女はオルガに顔を向けることなくそう言った。
「……お前、俺のことを知ってるのか」
「あなた、ずっと同じ場所にいるじゃない」
「……ああ、まあな」
予想外に自分の名前が女の口から飛び出してきた。思っている以上に周りを見ているらしい。……まあ、周囲の状況も分からないようでは実戦に使えるわけもないので、生かされることもないだろう。ここも、無駄な資源を飼っておくほど余裕があるわけではない。冷静になって考えると、このことは至極当然であるように思えてきた。ここで訓練を受けているのが白痴なわけがない。
まるで赤子のように思っていた相手にきちんとした感覚が備わっているのだと思うと、途端に女の輪郭がはっきりと見えてくるようになった。彼女の目がダンサーの動きを追いかけて上下左右に絶え間なく動く。不規則とも規則的とも見えるようなそれは、すぐに敵影を追いかける戦闘時の動きと重なって見えた。虫も殺せそうにないように見えても、これは自分と同じ、人殺しに特化した兵器に育てられているのだ。
「これはね、妖精の踊り」
「はぁ……。この羽が妖精のだって?」
「そう。でも、みんな人間。ライオンも炎も妖精も魔女も、みんな人間が動きだけで表現してる」
「まあ、そうだろ。実際のところ、そんなモンこの世にいねえんだから」
「エトワールだって、お星様じゃない。人間なの」
「お前、バカにしてるのか? 俺にだってそれくらい分かる。星っていったからってそのまんま天体が出てくるわけがないだろ」
「全部、嘘ばっかりだね」
「話が全部本当だったらおかしいだろ……」
「オルガだって嘘が好きだよね。小説って全部嘘だもん」
「何を……、……当たり前だ。まあ、ノンフィクション……本当にあったことを話にしてる本もねえわけじゃないが」
「へぇ……」
――喋りすぎた。女が囁くように笑い声を上げた瞬間、ふとそう思った。別に何も恥ずかしい話ではないが、多弁になると冷静でいられなくなってくる気がして仕方がない。どうにも落ち着かない……落ち着いていたことなんて、ずっとないのに。
「窓から見える星も全部、嘘なの」
「……はあ?」
「わたしが見てるのは全部嘘。わたしもどこにもいなくて、世界は全部偽りで、オルガもわたしも全部作り物なの。どこかの誰かが作った存在で、あの星だって黒い紙に穴が空いているだけなんだって、思うの。オルガはどう思う?」
「…………」
よくわからない話が始まった。女はやけに饒舌だった。こちらには一回も目線をやらないくせに、流暢に自分の妄想を語って聞かせてくる。――こういうタイプはここでは珍しくない。自分だけの世界をもっていて、それを心の底から信じ込んでいるタイプだ。赤信号とまではいかないが、関わったらダルい方の人間。
この女も外れだったか――。
オルガは舌打ちを隠さなかった。女はそれを無視しているのか、それとも聞こえなかったのか、独自の理論を次々と展開していく。
真面目に聞くだけ無駄だと思った。けれどよく聞くと、女の話は荒唐無稽なように見えて筋だけは通っている。滅茶苦茶に単語を並び立てているのではなく、一本の線に沿って無限に話が続いていくのだ。まるでよくできた詩のようだとすら思った。
次第に女の話は飛躍していった。オルガは思わず聞き入った。
「――で、どうなるんだよ?」
「それでね、えっと…………」
「……」
「……………………」
「……おい、早く続きを言えよ」
「……………………」
「無視してるのか? いい度胸だな。目の前に人がいるのに――」
ぐるり、とはじめて女の顔がオルガの方を向いた。
「わたし、星になりたい」
その時の女がどんな表情をして、どんな気持ちでそう言ったのか、オルガは覚えていないし、思い出そうとも思わないし、想像しようとも思わない。ただ、こちらを見ているように見えて全く焦点の合わない瞳が恐ろしかった。それだけを覚えている。
「人が星になれるかよ、バカ」
気圧されそうだった。どう答えても無意味だろうと思った。女の気がとうとう狂ったのか。素直に告白するならば、いきなりただ自分にだけ向けられた言葉が恐ろしかった。どうしようもない言葉をただ吐き出した後で、紙を破ってしまった後のような後悔の波が襲ってきた。責め立てるように寒気がした。女はオルガの言葉を聞くと、再び画面の方に視線を戻した。それからどれだけ話しかけても、身体に触れても彼女がオルガを認識することはない。
周囲に流れているのは、オーケストラの荘厳な響きだけである。いくら呼びかけようとも、女のよく回るお喋りな口が再び開くことはなかった。
「…………お、お前が変なことを言うからだろ」
「…………」
オルガは急いでその場から立ち去った。後ろからあの女が追いかけてくる幻影が頭を過った。時々廊下の後ろを振り返るが、誰もいない。
「……知らない。俺は何もしてない……」
このことは誰にも言わなかった。言わなかったが、恐らくラボに設置されているカメラがこのことを記録しているであろうということは分かっていた。誰かからこの件に関して問い詰められるのではないか。オルガはしばらく追求を恐れたが、特に医者やカウンセラーに触れられることはなかった。
しばらくして、女がいつも見つめていたモニターが撤去されていることに気がついた。次はお前の番だと呪われたなら気が楽だったかもしれない。数日女の顔が夢に出たが、それを上回る嫌な出来事が、ここではよくある胸くその悪い事件が数度起こり、すぐにそれらのイメージでオルガの悪夢は上書きされた。嫌な出来事やトラウマは地層のように重なって、女の姿は次第に輪郭からぼやけていき、とうとう見えなくなった。彼が今覚えているのは、かの女の後ろ姿だけである。
オルガが唯一はっきりと覚えていたのは、かの女が食い入るようにモニターを見つめている後ろ姿だけだである。顔も名前も忘れてしまったその人が熱心に見ていたのは大昔――まだ人間が地球にしか生息していなかった頃に録画された映像だった。
内容は大したものではない。悪趣味でグロテスクなものではないし、電子ドラッグめいた刺激のあるものでもなかった。ただクラシック音楽に合わせて、やけにひらひらとした衣装に身を包んだ男女がつま先立ちで飛んだり跳ねたりしている。大勢が同じ音楽に合わせてそれぞれの動きで踊っている。ただそれだけ。
それがバレエと呼ばれるダンスであること。そして今踊っているのはこのバレエ団――どこかの国の大きな団体であるらしいが、名前は覚えていない――のエトワールであることを、彼女は何度も繰り返しオルガに話していた。
彼女がモニターを見つめている。その後ろを通る美術館の音声ガイドよろしく、女は決まり切った説明をしゃべり出した。こちらが何も知らないのだと思い込んでいるかのように。最初は薄気味が悪かった。しかし、それもじきに慣れた。
無視していても問題がなかったからだ。返事を求められることはなかった。喋っているのを無視して通り過ぎても、女が機嫌を損ねることはないのだ。そもそもの話、女がオルガのことを個人として認識しているのかすら危うかった。こんな状態でモビルスーツの操縦なんてできるのだろうかと、他人事ながら心配になるくらいに、女の雰囲気は危ういものを漂わせている。それだけならば別に珍しくもない。薬漬けにされて脳がおかしくなっている人間ばかりが集められていたのだから、それも当然の話だ。
見た目もラボにいた他の人間と似通っていた。顔つきもはっきりとは思い出せないくらいだから、どこにでもいるような目鼻立ちをしていたのだろうと思う。ほっそりとした手足は映像の中のダンサーに似ているかもしれなかったが、筋肉が一切ついていない、ただ痩せているだけの四肢は健全に飛び跳ねる彼らのそれとは全く異なっていた。足を地面に投げ出すように座って、高い位置にあるモニターをじっと見つめている。いつも背中をこちらに向けていたせいで、どうにも他のことが思い出せなかった。
女はいつも同じ映像を見ているのだと気がついた時、オルガははじめて自分から声をかけた。
「同じのばっかで飽きないのか?」
なんてことのないただの暇つぶしだ。明日いなくなってしまってもおかしくない相手に声をかける。同情はしない。ただ漠然と横たわる自由な時間を埋めるための行為でしかない。
「面白いよ。綺麗でしょう」
女はオルガに顔を向けることなくそう言った。
「綺麗……か」
「うん。今真ん中で踊っているのはこのバレエ団で一番の女性ダンサーで、エトワールっていうの。すごく高く飛ぶし、いつまでも回ってる。ほら」
「知ってる。……同じことばっかりだな、お前」
彼女はオルガの言葉を無視して、じっと画面を見つめていた。オルガは、女から返事らしい返事が返ってきたことに驚いていた。会話が成り立つ程度には頭がしっかりしているらしい。それすらも危ういのかと勝手に想像していた。
「おんなじことをやるのがバレエ」
「……はぁ?」
「昔からずっと振り付けも音楽もお話も同じ。踊っている人は違うけれど、国が違っても時代が進んでもやることは同じ。ずっと同じことをするの。それがバレエだから。古典って、本だって内容が分かることはない。でしょう、オルガ」
やはり女はオルガに顔を向けることなくそう言った。
「……お前、俺のことを知ってるのか」
「あなた、ずっと同じ場所にいるじゃない」
「……ああ、まあな」
予想外に自分の名前が女の口から飛び出してきた。思っている以上に周りを見ているらしい。……まあ、周囲の状況も分からないようでは実戦に使えるわけもないので、生かされることもないだろう。ここも、無駄な資源を飼っておくほど余裕があるわけではない。冷静になって考えると、このことは至極当然であるように思えてきた。ここで訓練を受けているのが白痴なわけがない。
まるで赤子のように思っていた相手にきちんとした感覚が備わっているのだと思うと、途端に女の輪郭がはっきりと見えてくるようになった。彼女の目がダンサーの動きを追いかけて上下左右に絶え間なく動く。不規則とも規則的とも見えるようなそれは、すぐに敵影を追いかける戦闘時の動きと重なって見えた。虫も殺せそうにないように見えても、これは自分と同じ、人殺しに特化した兵器に育てられているのだ。
「これはね、妖精の踊り」
「はぁ……。この羽が妖精のだって?」
「そう。でも、みんな人間。ライオンも炎も妖精も魔女も、みんな人間が動きだけで表現してる」
「まあ、そうだろ。実際のところ、そんなモンこの世にいねえんだから」
「エトワールだって、お星様じゃない。人間なの」
「お前、バカにしてるのか? 俺にだってそれくらい分かる。星っていったからってそのまんま天体が出てくるわけがないだろ」
「全部、嘘ばっかりだね」
「話が全部本当だったらおかしいだろ……」
「オルガだって嘘が好きだよね。小説って全部嘘だもん」
「何を……、……当たり前だ。まあ、ノンフィクション……本当にあったことを話にしてる本もねえわけじゃないが」
「へぇ……」
――喋りすぎた。女が囁くように笑い声を上げた瞬間、ふとそう思った。別に何も恥ずかしい話ではないが、多弁になると冷静でいられなくなってくる気がして仕方がない。どうにも落ち着かない……落ち着いていたことなんて、ずっとないのに。
「窓から見える星も全部、嘘なの」
「……はあ?」
「わたしが見てるのは全部嘘。わたしもどこにもいなくて、世界は全部偽りで、オルガもわたしも全部作り物なの。どこかの誰かが作った存在で、あの星だって黒い紙に穴が空いているだけなんだって、思うの。オルガはどう思う?」
「…………」
よくわからない話が始まった。女はやけに饒舌だった。こちらには一回も目線をやらないくせに、流暢に自分の妄想を語って聞かせてくる。――こういうタイプはここでは珍しくない。自分だけの世界をもっていて、それを心の底から信じ込んでいるタイプだ。赤信号とまではいかないが、関わったらダルい方の人間。
この女も外れだったか――。
オルガは舌打ちを隠さなかった。女はそれを無視しているのか、それとも聞こえなかったのか、独自の理論を次々と展開していく。
真面目に聞くだけ無駄だと思った。けれどよく聞くと、女の話は荒唐無稽なように見えて筋だけは通っている。滅茶苦茶に単語を並び立てているのではなく、一本の線に沿って無限に話が続いていくのだ。まるでよくできた詩のようだとすら思った。
次第に女の話は飛躍していった。オルガは思わず聞き入った。
「――で、どうなるんだよ?」
「それでね、えっと…………」
「……」
「……………………」
「……おい、早く続きを言えよ」
「……………………」
「無視してるのか? いい度胸だな。目の前に人がいるのに――」
ぐるり、とはじめて女の顔がオルガの方を向いた。
「わたし、星になりたい」
その時の女がどんな表情をして、どんな気持ちでそう言ったのか、オルガは覚えていないし、思い出そうとも思わないし、想像しようとも思わない。ただ、こちらを見ているように見えて全く焦点の合わない瞳が恐ろしかった。それだけを覚えている。
「人が星になれるかよ、バカ」
気圧されそうだった。どう答えても無意味だろうと思った。女の気がとうとう狂ったのか。素直に告白するならば、いきなりただ自分にだけ向けられた言葉が恐ろしかった。どうしようもない言葉をただ吐き出した後で、紙を破ってしまった後のような後悔の波が襲ってきた。責め立てるように寒気がした。女はオルガの言葉を聞くと、再び画面の方に視線を戻した。それからどれだけ話しかけても、身体に触れても彼女がオルガを認識することはない。
周囲に流れているのは、オーケストラの荘厳な響きだけである。いくら呼びかけようとも、女のよく回るお喋りな口が再び開くことはなかった。
「…………お、お前が変なことを言うからだろ」
「…………」
オルガは急いでその場から立ち去った。後ろからあの女が追いかけてくる幻影が頭を過った。時々廊下の後ろを振り返るが、誰もいない。
「……知らない。俺は何もしてない……」
このことは誰にも言わなかった。言わなかったが、恐らくラボに設置されているカメラがこのことを記録しているであろうということは分かっていた。誰かからこの件に関して問い詰められるのではないか。オルガはしばらく追求を恐れたが、特に医者やカウンセラーに触れられることはなかった。
しばらくして、女がいつも見つめていたモニターが撤去されていることに気がついた。次はお前の番だと呪われたなら気が楽だったかもしれない。数日女の顔が夢に出たが、それを上回る嫌な出来事が、ここではよくある胸くその悪い事件が数度起こり、すぐにそれらのイメージでオルガの悪夢は上書きされた。嫌な出来事やトラウマは地層のように重なって、女の姿は次第に輪郭からぼやけていき、とうとう見えなくなった。彼が今覚えているのは、かの女の後ろ姿だけである。