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「可愛いなぁ……」
肥前忠広は審神者がふと呟いた言葉を聞き逃さなかった。仕事や日々の任務に追われる中で、貴重な休みの時間――本丸の共用スペースで雑誌を広げ、見開きに掲載されていた写真を見て一言、そう言った。ただそれだけだ。
しかし、彼にとってはそれはただの独り言ではなかった。自分に向けて発せられている言葉ではないが、これはチャンス――何気なく、次の休みに自分と写真の場所に訪れてみないか、などと声をかけるまたとない機会である。
「…………」
現在この本丸にいるのは肥前と審神者の両名、内番を任されている刀のみである。そしてこの居間にいるのは肥前と審神者の二人だけだった。それなりの人数を収容しても手狭さを感じないようにか、所属している刀の数に比べてこの本丸の敷地は広く設けられていた。二人きりというよりも、この空間に二人しかいない。そう形容した方が正確だろう。
この部屋は玄関からすぐの場所に位置している。いつ誰が入ってきてその状況がなくなってしまうとも分からないような場所である。それに加えて、一城の主でもある彼女は常に仕事に追われていた。改まって面談する機会でもわざわざ設けない限り、サシでの会話というのは難しい。
(今しかないか……)
次の休みに、彼女と出かけたい。個人的……二人きりで。逢い引き、逢瀬、デート。様々な言葉で形容されるが、要は肥前は審神者と仲良くなりたかった。ついでにいってしまえば恋仲に発展するような機会が欲しかった。今回の状況、審神者がふと漏らした一言は肥前にとってはチャンスである。きっかけが生まれた。今、ここで行くしかない。うだうだと恥ずかしがっている場合ではない。決めるなら、ここで。断られることはないだろう。審神者は外出の機会に飢えている。そして一人で息抜きを求めるタイプでもない。いける。やれる。次の休みに、デートする。肥前はそっと立ち上がり、ゆっくりと審神者の近くに腰を下ろした。
「肥前くん、どうしたの?」
「……そこ、その場所、行きたいか?」
「うん。そうだね。お洒落な場所だし……気にはなってるかな」
「さっきあんたの独り言が聞こえた」
「そうなの? ……私、結構独り言が大きいのかな」
「あんたが気になってる場所なら……おれも、ついて行っても構わないだろ」
「えっ、肥前くんが同行してくれるの?」
「……だめか?」
「ううん、全然! むしろ嬉しいよ!」
――やった!
無邪気に微笑む審神者を見ながら、肥前は顔にこそあまり出さないものの、内心では大いに浮かれていた。いきなり外出の話……しかも二人で行こうと誘っても嫌な顔をされなかった。寧ろ喜んですらいる。これは行けるのではないだろうか……。肥前の胸中に淡い期待が生まれた。そして確信へと変わろうとしている。これまで仕事での買い出しや会合の参加への付き添いは行ったことがあったが、休みに個人的な用事で連れ合うことはなかった。これは大きな前進である。
「肥前くんとお出かけ、楽しみだなぁ」
「……おれも」
――ついでならここにも行きたいね。などと言いながら、彼女は肥前に向かってページの中の写真を指さした。あんたと一緒ならどこにだってついて行く……肥前が心の中で叫んだその時だった――。
「主ー、言われちょった作業は終わったぜよ!」
襖が勢いよく開いて、よく知った声が響いた。
「……!」
「むっちゃん! お疲れさま!」
陸奥守は肥前を一瞥すると、畑仕事をしていた格好のまま審神者に近寄った。着古した内番着からは畑の土の匂いと、外の草木から香るような青い香りがした。臭いものではないが、肥前にとってはあまり好ましいものではない。しかも今一番会いたくなかった相手から発せられるものだと思うとなおさらだ。
「……おい、汗臭い身体で近寄るんじゃない」
「あぁ? そがに細かいことを気にしなさんなや! それよりも二人して仲が良さそうに何をしよったがか……?」
「っ、てめえには関係ないだろ……!」
陸奥守は肥前の声など意に介さず、あっさりと審神者の隣に腰を下ろした。机の上に広げられた雑誌の中身を目に留めると、「へぇ、こがなのが今の流行りか」などと呟く。
「むっちゃんも気になる? やっぱり龍馬の刀だから、新しいもの好きなのかな」
「そうやねや。それもそうやし主が気になっちゅう物はわしも気にしちょく必要があるんじゃよね」
「えへへ。そこまでしてくれなくてもいいのに」
「そうだ。お前にはこんな場所、似つかわしくない」
「そりゃ肥前もおんなじやねや」
「……」
こう言われては返す言葉もなかった。次に審神者が発するであろう言葉は考えるまでもない。……自分の行動が遅かったことが悪かったのか。いや、このパターンなら遅かれ早かれ陸奥守に持って行かれてしまっていた気がする。
肥前がうつむいて一人で反省会を開催する間に、審神者は肥前が思っていた通りの言葉を発した。
「肥前くんと次の休みにここに行こうって話をしていたんだけど、むっちゃんも来る?」
「もちろん!」
「……無理に付いてこようとしなくても、いいんだが」
「何を言いゆうがじゃ? わしは主が行きたいちょころならどこにだってついていきたいだけで、無理なんてしちゃあせん」
「三人でお出かけ、楽しみだね!」
「…………ああ」
審神者が端末を取り出し、ネットで周囲の観光スポットなどを調べている間、二人は真顔で見つめ合った。肥前がこの本丸に来る以前から陸奥守はこの場所にいて、かなり長いと聞いている。……自分よりも先に陸奥守は審神者と二人で「お出かけ」していたのだろうか。自信に満ちた目を見ていると、どうにもこちらには幾分か不利なように思えて仕方がない。けれど、意思の部分で負けるわけにはいかないのだ。……どうにかして、審神者にこちらを意識してもらえば積み重ねた年月の差などどうとでも覆すことができる。
さりげなく審神者の肩に手を添えようとした陸奥守の腕をはたき落としながら、肥前はこの男にだけは絶対に出し抜かれたくないと強く思った。
「わ~! すごいね。綺麗な場所!」
「おお~、絶景やのう!」
「……すごいけど、人が多すぎないか」
三人は各々思わず声を上げた。
長い坂を登り切って――刀剣男士である二人にとっては大した距離ではなかったが、普段座り仕事の多い審神者にとってはそれなりの運動になった――、小高い丘の上から町全体が見下ろせる。
絶景と美味しいご飯、そして現代アートが売りだというよくある観光地である。最近メディアで取り上げられた影響からか、平日だというのにそれなりに観光客で賑わっていた。家族連れから友達グループ、カップルもちらほらと見かける。
審神者は久方ぶりの外出なので浮き足立っているようだった。肥前は観光地特有の混み具合に若干グロッキーな気持ちになりつつも、陸奥守に先行されるのを嫌って必死に審神者の横に並ぶ。
今日は日差しが照りつけていた。天気がいいのは良いことではあるが、若干……暑すぎる。それは全員が感じているようで、威勢よく歩いていた審神者も、うらやましそうにアイスクリームを食べる子供に目をやっているのに気づいた。審神者だけではない。陸奥守までもが、喉を鳴らしてその様子を見ていた。両者ともに、来て早々に提案するのはどうかと遠慮しているようだった。普段やいのやいのとあれがしたいこれがしたいと盛り上がっているわりには、変なところで気を回そうとする。おかしなところが二人は似通っていた。主に似るのか、それとも元から陸奥守はこのような気質だったのか。肥前にはよくわからない。
「暑いな……。ちょっと一服しないか」
肥前の提案に二人は、「そうしよう」と頷いた。――気がつく人だと審神者に思ってもらえれば僥倖なのだが。
三人は人だかりができている喫茶店に入り、アイスクリームを注文するとその側にあるベンチに腰を下ろした。観光地らしくそれなりに値段が張り、一般的な金銭感覚を身につけている刀二振りは少し顔をしかめたが、審神者は気にせずポケットマネーから三人分の代金を支払った。
「あ、女性に財布を出させるらぁて申し訳ない」
「うーん。領収書を貰っておけばよかったかな」
「……それで通るのか?」
「まあ気にせず食べてよ。いつも頑張ってくれてる二人にご褒美だと思って! 早くしないと溶けちゃうよ」
傍から見ると、男二人に財布を開く女だと思われるかもしれない。肥前は被害妄想のような思考が頭を過ったが、誰も三人のことなど気にも留めていなかった。実際に刀に俸給が振り込まれることはなく、必要な経費は全て審神者が管理しているのでこちらとしてはどうしようもないのだが、それでも気にするものは気にしてしまう。思考を諮詢する肥前に対して、陸奥守は割り切りが早く、子供のように喜び勇んでアイスを口に運んでいた。
「うん、うまい!」
「そうだね!」
無邪気に食べ進める二人を横目にしながら、肥前も溶けて垂れそうなそれに口をつけた。限定のフレーバーだと聞いているが、他の味を碌に知らないので比較して甲乙はつけがたい。しかし、今まで口にしてきた冷菓と並ぶほどの味であるとは思った。冷たい感触が口の中で広がって、体温が下がっていく感覚がする。……気持ちいい、と素直に思った。
「ねぇ。肥前くんの味も美味しそうだね」
「……!」
「一口欲しいな! こっちのもあげるから、交換しようよ!」
思わず全身が固まった。あくまで無邪気にそう言い出した審神者の目を見て、どうするべきか判断に困った。彼女は友達同士でそうするように、いや、家族相手に強請るように先の言葉を言い出したのだ。明らかに主人とそれに隷属する立場との関係を越権しているかのように思えたが、それ以上に人として。人間の姿をもってしまったモノとして、身につけた道徳がこれを恥ずかしい状況であると判断した。どうとも言葉にできず、黙ってアイスを差し出す。
「わぁ。こっちの方も美味しいー! 二段にすればよかったかな」
「……っ、あ、あぁ」
「わしのも一口どうじゃ?」
「うんっ。食べる食べる~! 肥前くんも、わたしのあげるね」
目の前に突き出されたそれを見て、大きく心臓が跳ねた。今自分はとんでもないことをしようとしているのではないか。そんな不安と緊張で胸がいっぱいになる。どさくさに紛れて自分のアイスを食べさせている陸奥守のコミュニケーション能力の高さ、場を読む能力もうらやましいと思った。……それが自分でできたなら、今こうやって肥前は固まってしまうこともないからである。
恐る恐る口をつけたアイスはろくな味がしなかった。まともに味わっていられるような気持ちではなかったが、何も言わないのは不自然だと思った。結局、「悪くない」という無愛想な返答しかできなかった。審神者は普段から肥前のそういった言動になれているので、特に気分を害するようなこともなく、うんうん、と嬉しそうに頷くだけだった。
「ほい、わしのも!」
「ん! これも結構いいかも」
「――おお、中々癖があるけんど面白い味やね。肥前、おんしも食べるか?」
「いや、おれはいい……」
「遠慮せいでもえいに」
「……本当に、おれはいらない」
「ふーん、そうか」
「…………」
当然のように陸奥守のから肥前に向けても同様のやりとりがなされる。――こちらが気にしすぎなだけかもしれないが、言い方に若干牽制するような含みがある……かもしれない。ある程度の鞘当てや駆け引きを遠慮するような間柄ではないので、攻撃されていると取るにはやや大げさなきらいがあるが、状況が状況であるため、肥前も普段よりネガティブな思考に陥りがちでもあった。実際のところはその発現にそういった他意は含まれていなかったのだが、陸奥守が肥前を意識しているのは間違いではなかったので、肥前の沈黙は陸奥守の読みに若干思考を張り巡らせることになった。キャットファイトではないが、同じ人間を想っている以上は相手の押した引いたを意識する必要があるのは事実である。
お互いに一歩も譲るつもりはない。相手を出し抜く――というのは大げさな表現だとも言い切れない状況であった。二人が水面下で探り合う一方で、審神者は呑気にアイスを頬張るだけであった。
「……あれ、なにかな」
三人でぞろぞろと連れ立って歩いていた。特にこれといった目的もなく、手当たり次第に気になるところを見ていこうという算段である。審神者が指さした先には、大きな鐘があった。見晴らしのいい場所に置かれたそれには、まばらではあるが人が集まっていてそれなりに目を引く大きさをしている。
「恋人の聖地……って書いてあるぜよ」
「やっぱり視力が人間とは違うなぁ……」
「……あの鐘、思ったより大きいな」
全員の足取りはその一点にまっすぐ向かっていた。二振りは内心気が気ではなかったが、審神者はただ面白そうだから寄ってみようというくらいにしか思っていなかった。
「いい音だね」
のどかな風景に、鐘の厳かな響きが加わる。普段の戦いを忘れるような穏やかな光景だった。
「主はどっちと鳴らしたい?」
「えぇ~? 三人でしようよ」
「てめえ……」
陸奥守に肥前のキッとした、突き刺すような視線が刺さる。抜け駆けは絶対に許さないという頑固たる意思が感じられる鋭い目付きである。彼は普段から骨を刺すような目をしているが、これは下手をしたら敵に向けられるそれよりも一段厳しいものかもしれない。
(おぉ、怖い怖い……。こがな時の肥前はおっかない……)
「みんなでやろうよ。ほら、あの親子連れだってみんなで鳴らしてるし……。カップルだけしかやれないってこともないみたい」
「……だとさ」
「ふうん……」
三人は観光客たちの列に加わった。審神者の言うとおり、カップルだけではなく家族連れや友達同士といったグループも皆楽しそうに鐘を鳴らしていた。
――自分たちはどういった集まりに見えているのだろうか。
本日何度目かになる疑問が両名の頭に浮かぶが、すぐさま自分たちの番になり、すぐに脳裏から消え去った。
「うわ、これ結構重いね!」
「……そうか?」
「――たしかに主の細腕だとキツいかもしれんのう」
「……」
必死に装置を押す審神者とは対照的に、肥前と陸奥守の両名はお互いの顔を見やった。……ここに向かいあう相手さえいなければ完璧だったのに、と言いたげな視線を交わし合う。別に相手のことが嫌いな訳ではない。ただ今ここにいてくれない方がよかっただけだ。
「――なぁ、顔が怖いぜよ」
「……悪かったな。おれのは生まれつきだ」
鐘の清涼な響きとは裏腹に、二人の間に流れているのは決して穏やかとは言い難い雰囲気であった。
「あ、次の人がいるから……」
審神者の一言で二振りはにらみ合うのをやめた。そのまま横に流れるように移動すると、大きな柵があった。ただの柵ではない。そこには神社のおみくじよろしく大量に南京錠が取り付けられている。うじゃうじゃと密集するような南京錠の数はざっと見ても三桁はくだらないであろう。
「すごい数だね」
柵の横には無人で南京錠を販売している売り場があった。が、今日の本題はそこではない。
肥前と陸奥守の両名はその光景を見て思わず喉を鳴らした。
――やる、今ここで。
二人の手の内には、各々が手作りした南京錠が握りしめられていた。給料など自由に貰える身ではない両名は、この観光地の情報を見た瞬間、咄嗟に思いついた。自由に物を送ることはできないが、本丸で手作りした物ならどうか、と。資材の余りを利用して、兵装を作る時の要領でこれを作り、いざそのときが来れば自分からプレゼントする。奇しくも彼らの思惑は、指し示したわけではないが共通していた。
「なぁ」「あの……」
「ん……?」
相手よりも先に渡そうと急いた結果、二人は同時にそれを差し出す結果になった。
「えっ。すごいね。二人とも同じ物を作ってきてくれたの?」
「あっ……」
「……」
想定外だった。相手もまさか同じ物を作ってきていたなんて想像もしなかった。肥前と陸奥守はお互いに目を見開いた。審神者ただ一人だけが無邪気に喜んでいる。二人が示し合わせてそうせずともアイデアが被ったという事実を、仲良しであるが故だと解釈しているのだ。
「手作りの鍵をかけるのもお洒落だよね。思いつかなかったなぁ。……二人ともすごいね」
「い、いや別に……」
「そんなことは……」
「えっ? なんで?」
そんなことを言われても上手く誤魔化すことはできない。お互いに顔が引きつっている。限りあるアイデアの中でまさかこれが被るとは、まったく予想できなかった……。
彼女は二人から受け取った錠前を二つ受け取った。どちらも止める隙はなかった――差し出すために手を出したので、当然ではあるが……。
他の南京錠のやり方にあわせて、審神者は置かれていたペンで自分の名前を書いていく。
「むっちゃんも、肥前くんも! 二人ともおねがい!」
「……これは、両方に、どちらの名前も書くのか? 片方だけじゃなくて?」
「うん。当たり前だよ。だって、三人で来た記念だからね」
「やけんど、ここは恋人の聖地で……二人やないとおかしゅうないか」
「そ、そうだ。こういうのは好きなやつと……。いいのか? こんな形で……」
「えっ、別に……。今はいないよ、そういう人は。それに、恋人じゃないからってやっちゃだめっていうダメなルールはないでしょう?」
「…………それは、まあ」
「そうやけど……」
たしかにここで南京錠を取り付ける行為自体を、カップルでないとしてはいいけないというルールは存在しない。どこにもそんなことは書かれていないし、そうでないと売らないといった注意書きもマナーも存在しない。が、しかし。どこからどう見てもカップルだらけの中に刀の銘と審神者の名前が三つ並んでいるのは、奇妙でしかなかった。端的にいえばかなり浮いている。見る人が見れば不審に感じるかもしれない。
それらの意見を一切考慮せず、あっさりとそう言ってのけた審神者に、二人はただ黙るしかなかった。元来彼女はこういう人であった。あからさまに好意を寄せても気がつかないどころか、部下として、同じ組織で戦う仲間として親しくなることができたのだと、心の底から信じているような人だった。……だからいつまで経っても「お友達」から一切発展しないのだ。――発展することがなく、平行線をたどっているから肥前と陸奥守の両名は面倒なことになってしまっている。
肥前があらん限りの勇気を振り絞って聞いた質問も、この場所の雰囲気も何もかもを彼女は気にしていない様子だった。あくまで「三人で思い出を作る」ことしか完全に頭にないのである。彼女は色事に関してあまりにも無関心だった。目の前の二人が自分を巡って水面下でバチバチと争っていたことも、今こうして送られてきた物の意味も、全てスルーされている。見事なまでに、完全に……。
反論する余地すら残さず、二人は審神者に言われるがままに名前を書き入れた。
三つ並んだ名前を見ていると、どことなくむず痒いような、ここまで来てこうなってしまったことへの失望がぐっと押し寄せてくる。陸奥守は肥前に黙ってペンを差し出した。……明らかに気分が下降している。
「……どうも」
一応の礼は言われたが、どうにも納得していない様子だった。それは陸奥守も同じである。しかし審神者に悟られないように表向きは楽しそうに取り繕わなければならない。肥前にはそれは難しいだろう。陸奥守は「あ、あはは……」とわざとらしい笑い声を上げた。傍から見れば不自然極まりない声だったが、審神者は特段気にしていなかった。それよりも目の前を広がる青空と景勝の方が彼女の好奇心を擽っているようだった。
「……わしら、面倒な恋愛をしちゅうね」
「……まったく、同感だ」
「でも主が笑いゆうき、えいやいか」
「……まあ、そうかもな」
刀として第一に優先すべきなのは審神者の安息である。二人は嫌というほど刻み込まれた己が身の在り方を恨めしく思いつつ、ひとまずの結論に落ち着いたことに安堵のため息を漏らした。
肥前忠広は審神者がふと呟いた言葉を聞き逃さなかった。仕事や日々の任務に追われる中で、貴重な休みの時間――本丸の共用スペースで雑誌を広げ、見開きに掲載されていた写真を見て一言、そう言った。ただそれだけだ。
しかし、彼にとってはそれはただの独り言ではなかった。自分に向けて発せられている言葉ではないが、これはチャンス――何気なく、次の休みに自分と写真の場所に訪れてみないか、などと声をかけるまたとない機会である。
「…………」
現在この本丸にいるのは肥前と審神者の両名、内番を任されている刀のみである。そしてこの居間にいるのは肥前と審神者の二人だけだった。それなりの人数を収容しても手狭さを感じないようにか、所属している刀の数に比べてこの本丸の敷地は広く設けられていた。二人きりというよりも、この空間に二人しかいない。そう形容した方が正確だろう。
この部屋は玄関からすぐの場所に位置している。いつ誰が入ってきてその状況がなくなってしまうとも分からないような場所である。それに加えて、一城の主でもある彼女は常に仕事に追われていた。改まって面談する機会でもわざわざ設けない限り、サシでの会話というのは難しい。
(今しかないか……)
次の休みに、彼女と出かけたい。個人的……二人きりで。逢い引き、逢瀬、デート。様々な言葉で形容されるが、要は肥前は審神者と仲良くなりたかった。ついでにいってしまえば恋仲に発展するような機会が欲しかった。今回の状況、審神者がふと漏らした一言は肥前にとってはチャンスである。きっかけが生まれた。今、ここで行くしかない。うだうだと恥ずかしがっている場合ではない。決めるなら、ここで。断られることはないだろう。審神者は外出の機会に飢えている。そして一人で息抜きを求めるタイプでもない。いける。やれる。次の休みに、デートする。肥前はそっと立ち上がり、ゆっくりと審神者の近くに腰を下ろした。
「肥前くん、どうしたの?」
「……そこ、その場所、行きたいか?」
「うん。そうだね。お洒落な場所だし……気にはなってるかな」
「さっきあんたの独り言が聞こえた」
「そうなの? ……私、結構独り言が大きいのかな」
「あんたが気になってる場所なら……おれも、ついて行っても構わないだろ」
「えっ、肥前くんが同行してくれるの?」
「……だめか?」
「ううん、全然! むしろ嬉しいよ!」
――やった!
無邪気に微笑む審神者を見ながら、肥前は顔にこそあまり出さないものの、内心では大いに浮かれていた。いきなり外出の話……しかも二人で行こうと誘っても嫌な顔をされなかった。寧ろ喜んですらいる。これは行けるのではないだろうか……。肥前の胸中に淡い期待が生まれた。そして確信へと変わろうとしている。これまで仕事での買い出しや会合の参加への付き添いは行ったことがあったが、休みに個人的な用事で連れ合うことはなかった。これは大きな前進である。
「肥前くんとお出かけ、楽しみだなぁ」
「……おれも」
――ついでならここにも行きたいね。などと言いながら、彼女は肥前に向かってページの中の写真を指さした。あんたと一緒ならどこにだってついて行く……肥前が心の中で叫んだその時だった――。
「主ー、言われちょった作業は終わったぜよ!」
襖が勢いよく開いて、よく知った声が響いた。
「……!」
「むっちゃん! お疲れさま!」
陸奥守は肥前を一瞥すると、畑仕事をしていた格好のまま審神者に近寄った。着古した内番着からは畑の土の匂いと、外の草木から香るような青い香りがした。臭いものではないが、肥前にとってはあまり好ましいものではない。しかも今一番会いたくなかった相手から発せられるものだと思うとなおさらだ。
「……おい、汗臭い身体で近寄るんじゃない」
「あぁ? そがに細かいことを気にしなさんなや! それよりも二人して仲が良さそうに何をしよったがか……?」
「っ、てめえには関係ないだろ……!」
陸奥守は肥前の声など意に介さず、あっさりと審神者の隣に腰を下ろした。机の上に広げられた雑誌の中身を目に留めると、「へぇ、こがなのが今の流行りか」などと呟く。
「むっちゃんも気になる? やっぱり龍馬の刀だから、新しいもの好きなのかな」
「そうやねや。それもそうやし主が気になっちゅう物はわしも気にしちょく必要があるんじゃよね」
「えへへ。そこまでしてくれなくてもいいのに」
「そうだ。お前にはこんな場所、似つかわしくない」
「そりゃ肥前もおんなじやねや」
「……」
こう言われては返す言葉もなかった。次に審神者が発するであろう言葉は考えるまでもない。……自分の行動が遅かったことが悪かったのか。いや、このパターンなら遅かれ早かれ陸奥守に持って行かれてしまっていた気がする。
肥前がうつむいて一人で反省会を開催する間に、審神者は肥前が思っていた通りの言葉を発した。
「肥前くんと次の休みにここに行こうって話をしていたんだけど、むっちゃんも来る?」
「もちろん!」
「……無理に付いてこようとしなくても、いいんだが」
「何を言いゆうがじゃ? わしは主が行きたいちょころならどこにだってついていきたいだけで、無理なんてしちゃあせん」
「三人でお出かけ、楽しみだね!」
「…………ああ」
審神者が端末を取り出し、ネットで周囲の観光スポットなどを調べている間、二人は真顔で見つめ合った。肥前がこの本丸に来る以前から陸奥守はこの場所にいて、かなり長いと聞いている。……自分よりも先に陸奥守は審神者と二人で「お出かけ」していたのだろうか。自信に満ちた目を見ていると、どうにもこちらには幾分か不利なように思えて仕方がない。けれど、意思の部分で負けるわけにはいかないのだ。……どうにかして、審神者にこちらを意識してもらえば積み重ねた年月の差などどうとでも覆すことができる。
さりげなく審神者の肩に手を添えようとした陸奥守の腕をはたき落としながら、肥前はこの男にだけは絶対に出し抜かれたくないと強く思った。
「わ~! すごいね。綺麗な場所!」
「おお~、絶景やのう!」
「……すごいけど、人が多すぎないか」
三人は各々思わず声を上げた。
長い坂を登り切って――刀剣男士である二人にとっては大した距離ではなかったが、普段座り仕事の多い審神者にとってはそれなりの運動になった――、小高い丘の上から町全体が見下ろせる。
絶景と美味しいご飯、そして現代アートが売りだというよくある観光地である。最近メディアで取り上げられた影響からか、平日だというのにそれなりに観光客で賑わっていた。家族連れから友達グループ、カップルもちらほらと見かける。
審神者は久方ぶりの外出なので浮き足立っているようだった。肥前は観光地特有の混み具合に若干グロッキーな気持ちになりつつも、陸奥守に先行されるのを嫌って必死に審神者の横に並ぶ。
今日は日差しが照りつけていた。天気がいいのは良いことではあるが、若干……暑すぎる。それは全員が感じているようで、威勢よく歩いていた審神者も、うらやましそうにアイスクリームを食べる子供に目をやっているのに気づいた。審神者だけではない。陸奥守までもが、喉を鳴らしてその様子を見ていた。両者ともに、来て早々に提案するのはどうかと遠慮しているようだった。普段やいのやいのとあれがしたいこれがしたいと盛り上がっているわりには、変なところで気を回そうとする。おかしなところが二人は似通っていた。主に似るのか、それとも元から陸奥守はこのような気質だったのか。肥前にはよくわからない。
「暑いな……。ちょっと一服しないか」
肥前の提案に二人は、「そうしよう」と頷いた。――気がつく人だと審神者に思ってもらえれば僥倖なのだが。
三人は人だかりができている喫茶店に入り、アイスクリームを注文するとその側にあるベンチに腰を下ろした。観光地らしくそれなりに値段が張り、一般的な金銭感覚を身につけている刀二振りは少し顔をしかめたが、審神者は気にせずポケットマネーから三人分の代金を支払った。
「あ、女性に財布を出させるらぁて申し訳ない」
「うーん。領収書を貰っておけばよかったかな」
「……それで通るのか?」
「まあ気にせず食べてよ。いつも頑張ってくれてる二人にご褒美だと思って! 早くしないと溶けちゃうよ」
傍から見ると、男二人に財布を開く女だと思われるかもしれない。肥前は被害妄想のような思考が頭を過ったが、誰も三人のことなど気にも留めていなかった。実際に刀に俸給が振り込まれることはなく、必要な経費は全て審神者が管理しているのでこちらとしてはどうしようもないのだが、それでも気にするものは気にしてしまう。思考を諮詢する肥前に対して、陸奥守は割り切りが早く、子供のように喜び勇んでアイスを口に運んでいた。
「うん、うまい!」
「そうだね!」
無邪気に食べ進める二人を横目にしながら、肥前も溶けて垂れそうなそれに口をつけた。限定のフレーバーだと聞いているが、他の味を碌に知らないので比較して甲乙はつけがたい。しかし、今まで口にしてきた冷菓と並ぶほどの味であるとは思った。冷たい感触が口の中で広がって、体温が下がっていく感覚がする。……気持ちいい、と素直に思った。
「ねぇ。肥前くんの味も美味しそうだね」
「……!」
「一口欲しいな! こっちのもあげるから、交換しようよ!」
思わず全身が固まった。あくまで無邪気にそう言い出した審神者の目を見て、どうするべきか判断に困った。彼女は友達同士でそうするように、いや、家族相手に強請るように先の言葉を言い出したのだ。明らかに主人とそれに隷属する立場との関係を越権しているかのように思えたが、それ以上に人として。人間の姿をもってしまったモノとして、身につけた道徳がこれを恥ずかしい状況であると判断した。どうとも言葉にできず、黙ってアイスを差し出す。
「わぁ。こっちの方も美味しいー! 二段にすればよかったかな」
「……っ、あ、あぁ」
「わしのも一口どうじゃ?」
「うんっ。食べる食べる~! 肥前くんも、わたしのあげるね」
目の前に突き出されたそれを見て、大きく心臓が跳ねた。今自分はとんでもないことをしようとしているのではないか。そんな不安と緊張で胸がいっぱいになる。どさくさに紛れて自分のアイスを食べさせている陸奥守のコミュニケーション能力の高さ、場を読む能力もうらやましいと思った。……それが自分でできたなら、今こうやって肥前は固まってしまうこともないからである。
恐る恐る口をつけたアイスはろくな味がしなかった。まともに味わっていられるような気持ちではなかったが、何も言わないのは不自然だと思った。結局、「悪くない」という無愛想な返答しかできなかった。審神者は普段から肥前のそういった言動になれているので、特に気分を害するようなこともなく、うんうん、と嬉しそうに頷くだけだった。
「ほい、わしのも!」
「ん! これも結構いいかも」
「――おお、中々癖があるけんど面白い味やね。肥前、おんしも食べるか?」
「いや、おれはいい……」
「遠慮せいでもえいに」
「……本当に、おれはいらない」
「ふーん、そうか」
「…………」
当然のように陸奥守のから肥前に向けても同様のやりとりがなされる。――こちらが気にしすぎなだけかもしれないが、言い方に若干牽制するような含みがある……かもしれない。ある程度の鞘当てや駆け引きを遠慮するような間柄ではないので、攻撃されていると取るにはやや大げさなきらいがあるが、状況が状況であるため、肥前も普段よりネガティブな思考に陥りがちでもあった。実際のところはその発現にそういった他意は含まれていなかったのだが、陸奥守が肥前を意識しているのは間違いではなかったので、肥前の沈黙は陸奥守の読みに若干思考を張り巡らせることになった。キャットファイトではないが、同じ人間を想っている以上は相手の押した引いたを意識する必要があるのは事実である。
お互いに一歩も譲るつもりはない。相手を出し抜く――というのは大げさな表現だとも言い切れない状況であった。二人が水面下で探り合う一方で、審神者は呑気にアイスを頬張るだけであった。
「……あれ、なにかな」
三人でぞろぞろと連れ立って歩いていた。特にこれといった目的もなく、手当たり次第に気になるところを見ていこうという算段である。審神者が指さした先には、大きな鐘があった。見晴らしのいい場所に置かれたそれには、まばらではあるが人が集まっていてそれなりに目を引く大きさをしている。
「恋人の聖地……って書いてあるぜよ」
「やっぱり視力が人間とは違うなぁ……」
「……あの鐘、思ったより大きいな」
全員の足取りはその一点にまっすぐ向かっていた。二振りは内心気が気ではなかったが、審神者はただ面白そうだから寄ってみようというくらいにしか思っていなかった。
「いい音だね」
のどかな風景に、鐘の厳かな響きが加わる。普段の戦いを忘れるような穏やかな光景だった。
「主はどっちと鳴らしたい?」
「えぇ~? 三人でしようよ」
「てめえ……」
陸奥守に肥前のキッとした、突き刺すような視線が刺さる。抜け駆けは絶対に許さないという頑固たる意思が感じられる鋭い目付きである。彼は普段から骨を刺すような目をしているが、これは下手をしたら敵に向けられるそれよりも一段厳しいものかもしれない。
(おぉ、怖い怖い……。こがな時の肥前はおっかない……)
「みんなでやろうよ。ほら、あの親子連れだってみんなで鳴らしてるし……。カップルだけしかやれないってこともないみたい」
「……だとさ」
「ふうん……」
三人は観光客たちの列に加わった。審神者の言うとおり、カップルだけではなく家族連れや友達同士といったグループも皆楽しそうに鐘を鳴らしていた。
――自分たちはどういった集まりに見えているのだろうか。
本日何度目かになる疑問が両名の頭に浮かぶが、すぐさま自分たちの番になり、すぐに脳裏から消え去った。
「うわ、これ結構重いね!」
「……そうか?」
「――たしかに主の細腕だとキツいかもしれんのう」
「……」
必死に装置を押す審神者とは対照的に、肥前と陸奥守の両名はお互いの顔を見やった。……ここに向かいあう相手さえいなければ完璧だったのに、と言いたげな視線を交わし合う。別に相手のことが嫌いな訳ではない。ただ今ここにいてくれない方がよかっただけだ。
「――なぁ、顔が怖いぜよ」
「……悪かったな。おれのは生まれつきだ」
鐘の清涼な響きとは裏腹に、二人の間に流れているのは決して穏やかとは言い難い雰囲気であった。
「あ、次の人がいるから……」
審神者の一言で二振りはにらみ合うのをやめた。そのまま横に流れるように移動すると、大きな柵があった。ただの柵ではない。そこには神社のおみくじよろしく大量に南京錠が取り付けられている。うじゃうじゃと密集するような南京錠の数はざっと見ても三桁はくだらないであろう。
「すごい数だね」
柵の横には無人で南京錠を販売している売り場があった。が、今日の本題はそこではない。
肥前と陸奥守の両名はその光景を見て思わず喉を鳴らした。
――やる、今ここで。
二人の手の内には、各々が手作りした南京錠が握りしめられていた。給料など自由に貰える身ではない両名は、この観光地の情報を見た瞬間、咄嗟に思いついた。自由に物を送ることはできないが、本丸で手作りした物ならどうか、と。資材の余りを利用して、兵装を作る時の要領でこれを作り、いざそのときが来れば自分からプレゼントする。奇しくも彼らの思惑は、指し示したわけではないが共通していた。
「なぁ」「あの……」
「ん……?」
相手よりも先に渡そうと急いた結果、二人は同時にそれを差し出す結果になった。
「えっ。すごいね。二人とも同じ物を作ってきてくれたの?」
「あっ……」
「……」
想定外だった。相手もまさか同じ物を作ってきていたなんて想像もしなかった。肥前と陸奥守はお互いに目を見開いた。審神者ただ一人だけが無邪気に喜んでいる。二人が示し合わせてそうせずともアイデアが被ったという事実を、仲良しであるが故だと解釈しているのだ。
「手作りの鍵をかけるのもお洒落だよね。思いつかなかったなぁ。……二人ともすごいね」
「い、いや別に……」
「そんなことは……」
「えっ? なんで?」
そんなことを言われても上手く誤魔化すことはできない。お互いに顔が引きつっている。限りあるアイデアの中でまさかこれが被るとは、まったく予想できなかった……。
彼女は二人から受け取った錠前を二つ受け取った。どちらも止める隙はなかった――差し出すために手を出したので、当然ではあるが……。
他の南京錠のやり方にあわせて、審神者は置かれていたペンで自分の名前を書いていく。
「むっちゃんも、肥前くんも! 二人ともおねがい!」
「……これは、両方に、どちらの名前も書くのか? 片方だけじゃなくて?」
「うん。当たり前だよ。だって、三人で来た記念だからね」
「やけんど、ここは恋人の聖地で……二人やないとおかしゅうないか」
「そ、そうだ。こういうのは好きなやつと……。いいのか? こんな形で……」
「えっ、別に……。今はいないよ、そういう人は。それに、恋人じゃないからってやっちゃだめっていうダメなルールはないでしょう?」
「…………それは、まあ」
「そうやけど……」
たしかにここで南京錠を取り付ける行為自体を、カップルでないとしてはいいけないというルールは存在しない。どこにもそんなことは書かれていないし、そうでないと売らないといった注意書きもマナーも存在しない。が、しかし。どこからどう見てもカップルだらけの中に刀の銘と審神者の名前が三つ並んでいるのは、奇妙でしかなかった。端的にいえばかなり浮いている。見る人が見れば不審に感じるかもしれない。
それらの意見を一切考慮せず、あっさりとそう言ってのけた審神者に、二人はただ黙るしかなかった。元来彼女はこういう人であった。あからさまに好意を寄せても気がつかないどころか、部下として、同じ組織で戦う仲間として親しくなることができたのだと、心の底から信じているような人だった。……だからいつまで経っても「お友達」から一切発展しないのだ。――発展することがなく、平行線をたどっているから肥前と陸奥守の両名は面倒なことになってしまっている。
肥前があらん限りの勇気を振り絞って聞いた質問も、この場所の雰囲気も何もかもを彼女は気にしていない様子だった。あくまで「三人で思い出を作る」ことしか完全に頭にないのである。彼女は色事に関してあまりにも無関心だった。目の前の二人が自分を巡って水面下でバチバチと争っていたことも、今こうして送られてきた物の意味も、全てスルーされている。見事なまでに、完全に……。
反論する余地すら残さず、二人は審神者に言われるがままに名前を書き入れた。
三つ並んだ名前を見ていると、どことなくむず痒いような、ここまで来てこうなってしまったことへの失望がぐっと押し寄せてくる。陸奥守は肥前に黙ってペンを差し出した。……明らかに気分が下降している。
「……どうも」
一応の礼は言われたが、どうにも納得していない様子だった。それは陸奥守も同じである。しかし審神者に悟られないように表向きは楽しそうに取り繕わなければならない。肥前にはそれは難しいだろう。陸奥守は「あ、あはは……」とわざとらしい笑い声を上げた。傍から見れば不自然極まりない声だったが、審神者は特段気にしていなかった。それよりも目の前を広がる青空と景勝の方が彼女の好奇心を擽っているようだった。
「……わしら、面倒な恋愛をしちゅうね」
「……まったく、同感だ」
「でも主が笑いゆうき、えいやいか」
「……まあ、そうかもな」
刀として第一に優先すべきなのは審神者の安息である。二人は嫌というほど刻み込まれた己が身の在り方を恨めしく思いつつ、ひとまずの結論に落ち着いたことに安堵のため息を漏らした。