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単発SS
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水面から引き寄せられたような感覚がして目が覚めた。瞼を開けた瞬間に、自分の身体が何倍も体積が増えたかのような気がした。そして、口から吐き出されたものが何なのか理解した時に――自分の身に起こったことを認識することができた。
それは水だった。水といっても普通の飲料水ではない。塩水――具体的に言えばそれは海水である。
「……っ、はぁっ!」
喉の奥から吹き出すように絶え間なく、口を開けば閉まりきっていない蛇口のようにそれは流れてくる。どうしてこんなことになっているのか。パニックで思考がおぼつかないが、今は食道からせり上がってくるような吐き気と共に、誤って飲み込んでしまったであろう海水をただ逆流させるしかない。
「戻す」ためのバケツが用意されていたのが幸いだった。想像よりも大した量はなく、ただ結果として全て吐き出した中身はバケツの半分にも達していない。
「…………」
どうしてこんなことになっているのか。思い出そうにも記憶が曖昧だった。現実的に考えてもっとも可能性の高いのは――
「溺れた……?」
口をついて出た言葉に、それ以上に確実そうな候補がないのでは、と納得する。服はいつものままで特に着衣が乱れている様子はないが、普段よりも水を吸って体積が増えている気がする……。一度感じた違和感は確証めいたものに変わっていった。自分が寝かされていた寝台は簡易的な物で、日常的に腰を据えて使用するようなものではない。硬くて、狭い。長期間の使用ではなくあくまで一時的に使われる簡易的な物だろうと考えた。人が一度寝返りをうてるくらいの幅しかない。よく見れば、折りたたんで収納できるような凹みが壁に存在している。そして、身体に感じる僅かな揺れ……実感としてはごく微細なものだが、平地では感じることのない振動が、ここが陸の上ではないということ――恐らく船室の中にいるのだと結論づけるための材料になった。
この部屋に窓はない。唯一の出入り口になるのは小さな扉だけで、鍵がかかっているかはまだわからない。天井は低く、大柄な人間ならかがまなくてはならないだろうと想像する。
「……」
ひとまず立ち上がり、扉に手をかけた。吐いて戻したばかりなのでお腹や胸のあたりにまだ不快感がある。このバケツやこの部屋は、誰かが用意した物だろう。だとしたら、誰が――。それが信頼できる人物の手によるものならばいいが、敵あるいは未知の脅威が何らかの意図を持って作り出したものなのだとすれば……あまりよくないかもしれない。
非常時のシミュレーションは何度も繰り返している。段々鮮明になっていく視界の中で、教えられたことを思い出す。
カルデアのマスターとして、このようなよく分からない事態に巻き込まれることには慣れて――はいないにしろ、前よりも冷静に対処できるようになった。現在の状態は良くはないが、最悪と結論づけるほどでもない。
扉に手をかけると、鍵はかかっておらずあっさりと開いた。特に抵抗感もなく、拍子抜けするほどに簡単に。廊下には明かりがついていたが、扉を開いてすぐは突き当たり……というよりは人が一人通れるくらいの幅を挟んで、壁があった。おそらく船の中なので、通路はそんなものだろう。ここから先に進むには用心するべきだ。護身用の魔術を使うための魔力は辛うじて残っている、ように思う。いざという時に自分のサーヴァントがいないというのは、こんなにも不安な気持ちにさせてくる。
存在は確かに感じる。すぐ近くに、彼がいることだけはわかった。それだけでも分かれば御の字だが、自分にとって良いことなのかは分からない。何らかの方法で無力化されていたり、戦闘を行えないようにされていてはあまり意味がない。……他のサーヴァントは今ここにいるのか……はよく分からなかった。この場所にレイシフトしてきた時に、一緒にいたサーヴァントらしき他の気配は感じられない。今この場にどれくらいの人数がいるのかもよくわからないが、体感としては人が多いという印象はない。
ゴウン、ゴウンと轟くようなエンジンの音がする。人が活動しているならば、ある程度は動きや音が聞こえてきてもいいはずなのだがそれがしないということは、恐らく相手は大勢ではない。
ひとまず廊下を右に向かって歩き出した。突き当たりを左へ、そのまま迷路のように入り組んだ船内を歩く。相手から発せられる魔力をたどるように歩いていると、一つの扉の前から一際強い存在感を放っていることに気がついた。
――向こう側に、いる。
そんな確信をもって扉に手を掛ける。横にスライドして開くタイプの扉は、自動ではなく人の手でないと開けられないようになっていた。
なるべく音を立てないようにそっと、意を決して開いた。……音もなく、当然のようにそれは開く。
「待ってたぜ、マスター」
いつもの聞き慣れた声がして、思わず膝から崩れ落ちた。
テスカトリポカは雄大に手を広げると、舞台役者さながらの大げさな仕草でこちらに歩み寄ってきた。しかしそれが、ステージの上にいるかのような見事な姿勢をしていたので、そうある姿こそが自然であり、何らおかしいことでもなく当てはめられたようにしっくりきていたのが、この男が神であるという証明のように思えた。
「息災だったか。とりあえず、一番最悪なパターンを引くことはなかったようだな」
「……何がどうなっているか分かってる?」
「ひとまずオレたち二人は無事で、ここが船の中……そしてこの船は自動運転でどこかへと向かっている。それくらいだな」
彼も特にめぼしい情報を知っているわけではないようだった。ひとまずサーヴァントと合流できたのはよかったが、これから先をどう進めばいいのかが分からない。事前にミーティングで聞かされていたであろう今回の目標は、なぜだかすっぽり抜け落ちたように思い出そうとしても思い出せない。彼も同じような状態なのだろう。隠し事は一切なし。そういう間柄なのだから、テスカトリポカがこちらにわざわざ知っている情報を伏せるようなことはない。
「オレの見立てだが……、この船から外に出ない方がいい」
「それはどうして。どうしてそう思ったの?」
「まるで棺桶だ」
「……?」
「上に通じている出入り口を見つけたんだが……扉が二重になっている。普通に洋上を進んでいるだけなら厳重に閉じる必要もないだろ? 水が入ってきたら……つまりは、何らかの拍子でドアのロックが開いてしまえば困るってことだ。要は、この船が海の上を進んでいるんじゃない。中だ。海中を潜航しつつ、前進している」
「潜水艦ってこと?」
「そうだな。……オレが調べて分かったのはそれくらいだ。そっちは……その様子じゃあんまりってところか」
「そうだね。……気がついたらここにいて、それ以前の記憶が全くない。それに、カルデアとも通信が繋がらなくて。うん……どうしようかな。他のサーヴァントとは、繋がっているような、繋がっていないような……よく分からなくて」
テスカトリポカの近くには計器やレーダー、専門家でないと理解できないような精密そうな機械が並んでいる。技術面から見るに、時代としてはこちら側とそうズレがないように見える。もしかしたら、とんでもなくサイエンスフィクションじみたところに来てしまった可能性も否定できないけれど。とりあえず手近に見える文字が慣れ親しんだアルファベットだし、意味もきちんと分かる。ひとまず今は救援を待ちつつ現状に対処すべきだろう。
「つまりは現状維持ってことか?」
「うん、警戒しつつこの船の全容を探った方がいいかもね」
「了解」
今のところは何もないが、いつ外敵が襲ってくるか分からない。この状況事態が罠である可能性もある。だから常に不意打ちに備えておく必要がある。
「これからはお互いから目を離さない方がいいね」
「オーケー」
やっぱり安定感がある。彼とこれまでどれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。いつも余裕そうにしている彼の顔を見ているだけで、自然とこちらも落ち着いてくる。
この空間で一緒にいるのが彼でよかったと思った。
「どうした? 気の緩みが命取りだぞ?」
ちょっとは背筋を伸ばしてみればいい。なんて言いながら彼はこちらのだらけた姿勢を正すように、冷たい机から身体を引き剥がした。
「うっ……」
ひんやりとして気持ちいい感触から引き剥がされて、一気に現実に戻った気分だ。
「だって、何にもないから……暇で」
「おいおい、警戒するに越したことはないって言ったのはそっちだろ?」
確かにその通りだ。でも、本当に……。
「記録もないし、データもないし、中は一通り見たけれど何にもなかったよ」
「それはそうだ。二人で確かめたな。……考えてくれ。これが敵の策略だとしたら?」
「ないよ、多分。誰かの気配があったら敏感なのは普通の魔術師よりも……サーヴァントの方なんじゃないの?」
「道理も道理だが……けれどな」
「……わかったよ」
のろのろと立ち上がる。何もすることがない。何も見る物がない。警戒する必要がない……と思った。なぜならここには何もないから。何らかの手段で閉じ込められているのは確かだが、外に出る方法もない上に出たところで周囲がどうなっているのかまったく分からないのだから、かえってここにいた方が安全だろうという結論に二人で至った。だからこうして、じっと船の中枢でどうにかカルデアとこちらとの繋がりが復旧するのを待機している……のだが。
「……暇~」
持ち物も何もかもが手元にない。暇を潰すためのアイテムも、娯楽室らしき場所にも何もなかった。あるのは自動制御で動いている機械と、倉庫から見つけた日用品に食糧だけ。それも節約して食べようという話になったので、暇を紛らわすために食べるというようなこともできない。
テスカトリポカ一人が壁に背を預けて、獲物を狙う狩人のような目でたたずんでいた。彼一人がいればどうにかなってしまう――大概のことはそうなので、つい安心しきってしまっている。
批判するような眼差しが向けられるが、スルーした。何もしていないと時間も経つのがいつもより遅く感じる。椅子に座って足をぶらぶらさせてみたり、指先で机を叩いて音を立てたりしてみたが、どれも授業中の暇つぶしと大差ない。いや……それ以上にとにかく暇だった。
「ねぇ、何か面白い話とかない?」
「……それが望みなら、何なりと」
テスカトリポカが呆れたような、半分諦めたような――なんだか聞き分けの悪い子供を見るような目でこちらを見つめてくる。ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、ついには隣に座った。やった、と思っているとジッと見つめてくる真剣な色を湛えた瞳と目が合った。普段もずっとこの距離で接しているはずなのに、なぜだか今日は不思議と緊張してしまう。
「――いいか、これは仮定の話だ」
「うん」
「ここから一生出れなくなったと仮定する」
「……なんて?」
いきなり不穏なことを言い出したので、思わず大きな声を出して聞き返してしまった。ネガティブな妄想だ。……ずっと考えないようにしていたことを、彼はあっさりと口にしてしまった。不安な気持ちにさせるようなことを、どうしてわざわざ言うんだろう……。
「何も今すぐに脱出の可能性が消えたと言いたい訳じゃない。そこをまず理解してくれ。……ここにオレたち二人で死ぬまでいることになったら、どう振る舞うべきか、分かるか?」
「……ねぇ、その話はしたくないよ」
「オレは問うているんだ。己のマスターが、どんな状況にあっても正しくいられるか、これは真剣な問題なんだ。オレの矜持に関わる。魂の問題だ。……こんな時じゃないと話せないことだからな。じっくり考えてくれよ」
「…………」
いつにもなく淡々と、そんなことを言われてしまった。テスカトリポカと二人きり、ずっと死ぬまで……。普通に考えて、よくないことだ。こんな何もない場所で、息絶える瞬間まであらがわずにされるがままで死ぬなんて、最悪のシナリオ。
……でも、見方を変えれば悪いことじゃないかもしれない。このまま何事もなかったかのように元に戻れば、多分、おそらく、絶対に何も変わらない。前進もしなければ後退もしない。そういう風に、彼は振る舞うだろう。それがマスターとサーヴァントの正しい在り方だから。
この二人きりの状況というのは、いうなればこちらのエゴを向きだしにしてどうするのかと問われているのと同じだった。何でもしていいと言われている。テスカトリポカのことも、この場所だって誰も咎められることはないのだから。
ひどい質問だと思った。どう振る舞うべきか、なんて。こちらが思うがままにしてみたら、一体全体どうなるか分かった物じゃない。普段は越えないように、見ないように意識して引いているラインを飛び越えてほしいのか、そうでないのか。わたしが読み間違えたらどうなるんだろう。失望するのか、それとも……受け入れてくれるだろうか。
「なってみないと、分からないよ……。自分がどうするかなんて、そんなこと」
恐らく一番望まれていないであろう答えが口からついて出た。今まともに彼の顔が見れない。どんな顔をしているんだろう。期待はずれな言葉を言ってしまった。
「オレは……オレなら我慢しない。自分のやりたいように、振る舞いたいまま……ここは言うなればオレたちの王国になるんだから、何をしたって止めるヤツはいないのさ」
「……」
ずっとうつむいているせいで、やはり彼の真意はよくわからなかった。この問答に意味はあるのか、それとも遠回しな告白でもされているのか……後者だとしたら、本当にそうなってしまったら、どれだけ望んでも願っても叶わないことを、告げられている。きっといつかはここから出て行って、レイシフトの不調か何かだと伝えられて、日常に戻っていくのだろう。そうなった時に、きっとこの言葉を思い出して苦しくなる。我慢できなかったのは、向こうの方だ。どうとでもとれる、ずるい言葉。
「……すごくよくないことを言ってる自覚って、ある?」
「……どうだろうな。言葉の真意や発現の真意――裏をかいてみるのも悪くはない。オレはその捉え方を否定したりはしないが……。真剣に考えてくれたなら、願ったり叶ったりだ」
今すぐここで彼が強引に迫ってでも来てくれたら、それこそ今度は嬉しすぎて泣いてしまうかもしれない。……泣くどころか、心臓が張り裂けてしまうと思う。どうやっても我慢しかしないし、そうすることしかできない。……辛いけれど、そこに救われていたりも、するから。
どこまでも理解できない。――できる気がしない。きっと死ぬまでこの人のことを真の意味でわかったと言える日は来ないだろう、と思う。はっきりしないことに自分なりに意味を見いだしたくて必死だけど、人間の一生で出来ることは限られている。あまりにも、短い……。
「……もしもの話に、真剣になりたくない」
「ハハ、でも暇つぶしにはなっただろう?」
顔を上げると、不敵な笑みを浮かべたいつもの「彼」がいた。
それは水だった。水といっても普通の飲料水ではない。塩水――具体的に言えばそれは海水である。
「……っ、はぁっ!」
喉の奥から吹き出すように絶え間なく、口を開けば閉まりきっていない蛇口のようにそれは流れてくる。どうしてこんなことになっているのか。パニックで思考がおぼつかないが、今は食道からせり上がってくるような吐き気と共に、誤って飲み込んでしまったであろう海水をただ逆流させるしかない。
「戻す」ためのバケツが用意されていたのが幸いだった。想像よりも大した量はなく、ただ結果として全て吐き出した中身はバケツの半分にも達していない。
「…………」
どうしてこんなことになっているのか。思い出そうにも記憶が曖昧だった。現実的に考えてもっとも可能性の高いのは――
「溺れた……?」
口をついて出た言葉に、それ以上に確実そうな候補がないのでは、と納得する。服はいつものままで特に着衣が乱れている様子はないが、普段よりも水を吸って体積が増えている気がする……。一度感じた違和感は確証めいたものに変わっていった。自分が寝かされていた寝台は簡易的な物で、日常的に腰を据えて使用するようなものではない。硬くて、狭い。長期間の使用ではなくあくまで一時的に使われる簡易的な物だろうと考えた。人が一度寝返りをうてるくらいの幅しかない。よく見れば、折りたたんで収納できるような凹みが壁に存在している。そして、身体に感じる僅かな揺れ……実感としてはごく微細なものだが、平地では感じることのない振動が、ここが陸の上ではないということ――恐らく船室の中にいるのだと結論づけるための材料になった。
この部屋に窓はない。唯一の出入り口になるのは小さな扉だけで、鍵がかかっているかはまだわからない。天井は低く、大柄な人間ならかがまなくてはならないだろうと想像する。
「……」
ひとまず立ち上がり、扉に手をかけた。吐いて戻したばかりなのでお腹や胸のあたりにまだ不快感がある。このバケツやこの部屋は、誰かが用意した物だろう。だとしたら、誰が――。それが信頼できる人物の手によるものならばいいが、敵あるいは未知の脅威が何らかの意図を持って作り出したものなのだとすれば……あまりよくないかもしれない。
非常時のシミュレーションは何度も繰り返している。段々鮮明になっていく視界の中で、教えられたことを思い出す。
カルデアのマスターとして、このようなよく分からない事態に巻き込まれることには慣れて――はいないにしろ、前よりも冷静に対処できるようになった。現在の状態は良くはないが、最悪と結論づけるほどでもない。
扉に手をかけると、鍵はかかっておらずあっさりと開いた。特に抵抗感もなく、拍子抜けするほどに簡単に。廊下には明かりがついていたが、扉を開いてすぐは突き当たり……というよりは人が一人通れるくらいの幅を挟んで、壁があった。おそらく船の中なので、通路はそんなものだろう。ここから先に進むには用心するべきだ。護身用の魔術を使うための魔力は辛うじて残っている、ように思う。いざという時に自分のサーヴァントがいないというのは、こんなにも不安な気持ちにさせてくる。
存在は確かに感じる。すぐ近くに、彼がいることだけはわかった。それだけでも分かれば御の字だが、自分にとって良いことなのかは分からない。何らかの方法で無力化されていたり、戦闘を行えないようにされていてはあまり意味がない。……他のサーヴァントは今ここにいるのか……はよく分からなかった。この場所にレイシフトしてきた時に、一緒にいたサーヴァントらしき他の気配は感じられない。今この場にどれくらいの人数がいるのかもよくわからないが、体感としては人が多いという印象はない。
ゴウン、ゴウンと轟くようなエンジンの音がする。人が活動しているならば、ある程度は動きや音が聞こえてきてもいいはずなのだがそれがしないということは、恐らく相手は大勢ではない。
ひとまず廊下を右に向かって歩き出した。突き当たりを左へ、そのまま迷路のように入り組んだ船内を歩く。相手から発せられる魔力をたどるように歩いていると、一つの扉の前から一際強い存在感を放っていることに気がついた。
――向こう側に、いる。
そんな確信をもって扉に手を掛ける。横にスライドして開くタイプの扉は、自動ではなく人の手でないと開けられないようになっていた。
なるべく音を立てないようにそっと、意を決して開いた。……音もなく、当然のようにそれは開く。
「待ってたぜ、マスター」
いつもの聞き慣れた声がして、思わず膝から崩れ落ちた。
テスカトリポカは雄大に手を広げると、舞台役者さながらの大げさな仕草でこちらに歩み寄ってきた。しかしそれが、ステージの上にいるかのような見事な姿勢をしていたので、そうある姿こそが自然であり、何らおかしいことでもなく当てはめられたようにしっくりきていたのが、この男が神であるという証明のように思えた。
「息災だったか。とりあえず、一番最悪なパターンを引くことはなかったようだな」
「……何がどうなっているか分かってる?」
「ひとまずオレたち二人は無事で、ここが船の中……そしてこの船は自動運転でどこかへと向かっている。それくらいだな」
彼も特にめぼしい情報を知っているわけではないようだった。ひとまずサーヴァントと合流できたのはよかったが、これから先をどう進めばいいのかが分からない。事前にミーティングで聞かされていたであろう今回の目標は、なぜだかすっぽり抜け落ちたように思い出そうとしても思い出せない。彼も同じような状態なのだろう。隠し事は一切なし。そういう間柄なのだから、テスカトリポカがこちらにわざわざ知っている情報を伏せるようなことはない。
「オレの見立てだが……、この船から外に出ない方がいい」
「それはどうして。どうしてそう思ったの?」
「まるで棺桶だ」
「……?」
「上に通じている出入り口を見つけたんだが……扉が二重になっている。普通に洋上を進んでいるだけなら厳重に閉じる必要もないだろ? 水が入ってきたら……つまりは、何らかの拍子でドアのロックが開いてしまえば困るってことだ。要は、この船が海の上を進んでいるんじゃない。中だ。海中を潜航しつつ、前進している」
「潜水艦ってこと?」
「そうだな。……オレが調べて分かったのはそれくらいだ。そっちは……その様子じゃあんまりってところか」
「そうだね。……気がついたらここにいて、それ以前の記憶が全くない。それに、カルデアとも通信が繋がらなくて。うん……どうしようかな。他のサーヴァントとは、繋がっているような、繋がっていないような……よく分からなくて」
テスカトリポカの近くには計器やレーダー、専門家でないと理解できないような精密そうな機械が並んでいる。技術面から見るに、時代としてはこちら側とそうズレがないように見える。もしかしたら、とんでもなくサイエンスフィクションじみたところに来てしまった可能性も否定できないけれど。とりあえず手近に見える文字が慣れ親しんだアルファベットだし、意味もきちんと分かる。ひとまず今は救援を待ちつつ現状に対処すべきだろう。
「つまりは現状維持ってことか?」
「うん、警戒しつつこの船の全容を探った方がいいかもね」
「了解」
今のところは何もないが、いつ外敵が襲ってくるか分からない。この状況事態が罠である可能性もある。だから常に不意打ちに備えておく必要がある。
「これからはお互いから目を離さない方がいいね」
「オーケー」
やっぱり安定感がある。彼とこれまでどれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。いつも余裕そうにしている彼の顔を見ているだけで、自然とこちらも落ち着いてくる。
この空間で一緒にいるのが彼でよかったと思った。
「どうした? 気の緩みが命取りだぞ?」
ちょっとは背筋を伸ばしてみればいい。なんて言いながら彼はこちらのだらけた姿勢を正すように、冷たい机から身体を引き剥がした。
「うっ……」
ひんやりとして気持ちいい感触から引き剥がされて、一気に現実に戻った気分だ。
「だって、何にもないから……暇で」
「おいおい、警戒するに越したことはないって言ったのはそっちだろ?」
確かにその通りだ。でも、本当に……。
「記録もないし、データもないし、中は一通り見たけれど何にもなかったよ」
「それはそうだ。二人で確かめたな。……考えてくれ。これが敵の策略だとしたら?」
「ないよ、多分。誰かの気配があったら敏感なのは普通の魔術師よりも……サーヴァントの方なんじゃないの?」
「道理も道理だが……けれどな」
「……わかったよ」
のろのろと立ち上がる。何もすることがない。何も見る物がない。警戒する必要がない……と思った。なぜならここには何もないから。何らかの手段で閉じ込められているのは確かだが、外に出る方法もない上に出たところで周囲がどうなっているのかまったく分からないのだから、かえってここにいた方が安全だろうという結論に二人で至った。だからこうして、じっと船の中枢でどうにかカルデアとこちらとの繋がりが復旧するのを待機している……のだが。
「……暇~」
持ち物も何もかもが手元にない。暇を潰すためのアイテムも、娯楽室らしき場所にも何もなかった。あるのは自動制御で動いている機械と、倉庫から見つけた日用品に食糧だけ。それも節約して食べようという話になったので、暇を紛らわすために食べるというようなこともできない。
テスカトリポカ一人が壁に背を預けて、獲物を狙う狩人のような目でたたずんでいた。彼一人がいればどうにかなってしまう――大概のことはそうなので、つい安心しきってしまっている。
批判するような眼差しが向けられるが、スルーした。何もしていないと時間も経つのがいつもより遅く感じる。椅子に座って足をぶらぶらさせてみたり、指先で机を叩いて音を立てたりしてみたが、どれも授業中の暇つぶしと大差ない。いや……それ以上にとにかく暇だった。
「ねぇ、何か面白い話とかない?」
「……それが望みなら、何なりと」
テスカトリポカが呆れたような、半分諦めたような――なんだか聞き分けの悪い子供を見るような目でこちらを見つめてくる。ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、ついには隣に座った。やった、と思っているとジッと見つめてくる真剣な色を湛えた瞳と目が合った。普段もずっとこの距離で接しているはずなのに、なぜだか今日は不思議と緊張してしまう。
「――いいか、これは仮定の話だ」
「うん」
「ここから一生出れなくなったと仮定する」
「……なんて?」
いきなり不穏なことを言い出したので、思わず大きな声を出して聞き返してしまった。ネガティブな妄想だ。……ずっと考えないようにしていたことを、彼はあっさりと口にしてしまった。不安な気持ちにさせるようなことを、どうしてわざわざ言うんだろう……。
「何も今すぐに脱出の可能性が消えたと言いたい訳じゃない。そこをまず理解してくれ。……ここにオレたち二人で死ぬまでいることになったら、どう振る舞うべきか、分かるか?」
「……ねぇ、その話はしたくないよ」
「オレは問うているんだ。己のマスターが、どんな状況にあっても正しくいられるか、これは真剣な問題なんだ。オレの矜持に関わる。魂の問題だ。……こんな時じゃないと話せないことだからな。じっくり考えてくれよ」
「…………」
いつにもなく淡々と、そんなことを言われてしまった。テスカトリポカと二人きり、ずっと死ぬまで……。普通に考えて、よくないことだ。こんな何もない場所で、息絶える瞬間まであらがわずにされるがままで死ぬなんて、最悪のシナリオ。
……でも、見方を変えれば悪いことじゃないかもしれない。このまま何事もなかったかのように元に戻れば、多分、おそらく、絶対に何も変わらない。前進もしなければ後退もしない。そういう風に、彼は振る舞うだろう。それがマスターとサーヴァントの正しい在り方だから。
この二人きりの状況というのは、いうなればこちらのエゴを向きだしにしてどうするのかと問われているのと同じだった。何でもしていいと言われている。テスカトリポカのことも、この場所だって誰も咎められることはないのだから。
ひどい質問だと思った。どう振る舞うべきか、なんて。こちらが思うがままにしてみたら、一体全体どうなるか分かった物じゃない。普段は越えないように、見ないように意識して引いているラインを飛び越えてほしいのか、そうでないのか。わたしが読み間違えたらどうなるんだろう。失望するのか、それとも……受け入れてくれるだろうか。
「なってみないと、分からないよ……。自分がどうするかなんて、そんなこと」
恐らく一番望まれていないであろう答えが口からついて出た。今まともに彼の顔が見れない。どんな顔をしているんだろう。期待はずれな言葉を言ってしまった。
「オレは……オレなら我慢しない。自分のやりたいように、振る舞いたいまま……ここは言うなればオレたちの王国になるんだから、何をしたって止めるヤツはいないのさ」
「……」
ずっとうつむいているせいで、やはり彼の真意はよくわからなかった。この問答に意味はあるのか、それとも遠回しな告白でもされているのか……後者だとしたら、本当にそうなってしまったら、どれだけ望んでも願っても叶わないことを、告げられている。きっといつかはここから出て行って、レイシフトの不調か何かだと伝えられて、日常に戻っていくのだろう。そうなった時に、きっとこの言葉を思い出して苦しくなる。我慢できなかったのは、向こうの方だ。どうとでもとれる、ずるい言葉。
「……すごくよくないことを言ってる自覚って、ある?」
「……どうだろうな。言葉の真意や発現の真意――裏をかいてみるのも悪くはない。オレはその捉え方を否定したりはしないが……。真剣に考えてくれたなら、願ったり叶ったりだ」
今すぐここで彼が強引に迫ってでも来てくれたら、それこそ今度は嬉しすぎて泣いてしまうかもしれない。……泣くどころか、心臓が張り裂けてしまうと思う。どうやっても我慢しかしないし、そうすることしかできない。……辛いけれど、そこに救われていたりも、するから。
どこまでも理解できない。――できる気がしない。きっと死ぬまでこの人のことを真の意味でわかったと言える日は来ないだろう、と思う。はっきりしないことに自分なりに意味を見いだしたくて必死だけど、人間の一生で出来ることは限られている。あまりにも、短い……。
「……もしもの話に、真剣になりたくない」
「ハハ、でも暇つぶしにはなっただろう?」
顔を上げると、不敵な笑みを浮かべたいつもの「彼」がいた。