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not博
「死ぬ前に大恋愛をしてみたいなぁ。本になるような、映画化されるような、燃え尽きるような恋を……」
イグゼキュターは最初、芝居のように流れる彼女の言葉を独り言だと判断して聞き流した。病室には溢れんばかりの生花が芳しい香りを放ち、殺風景な部屋に彩りを添えている。
時折聞こえてくるビープ音やプラスチックのコップやテレビから聞こえてくる笑い声などが静かな病室に響く。しかし、それを除けば病室は人間が二人いるとは思えないほど静かだった。
「ねぇ……、フェデリコ聞いてる?」
「私に向けて発言したのですか?」
「うん。フェデリコに言ったんだよ」
「大恋愛というのは、具体的にはどのような行為であると定義づけますか?」
「えぇ……。そんなこと言われても」
「自分の願望を把握できるようにしておく事は重要ですよ」
「わたしはラテラーノ公民でもないし、これもただの思いつきだよ。話題の一つだよ」
少女はむくれた顔をして、顔をイグゼキュターからそらした。窓際に置かれた花……色とりどりの、ロドスの温室で栽培されている季節の花々を見ていると、励まされるような逆に虚しい気持ちになるような、不可思議な感情が少女の胸中を襲った。
「大恋愛っていうのは、オペラの名作とか、古典的な文学でもよくあるようなアレだよ。男女が出会って、恋に落ちるけど障害が立ち塞がって最後には死んでしまったりとか、それを哀れに思った神様が空の星座にしてくれたりとか……」
「なるほど、確かに古典と呼ばれる作品には悲劇的な内容が多い傾向がありますね。……しかし、よろしいのですか。個人的な意見を申し上げると、壊滅的な結末へと帰結するような『恋愛』を望むのは自殺と大差ないように感じますが」
「どーせ、もう死ぬし。なんでもいい」
「……それが、貴方の望みなのでしたら」
イグゼキュターは真面目くさった顔で、真っ直ぐに少女を見つめた。執行官ではなく、友人として彼女の思いに報いたいという感情が、「フェデリコ」の中に芽生えていた。病衣の裾から伸びる細い腕が、イグゼキュター含め彼女の顔見知りから届けられた小さな花の花弁に伸びる。
「花の名前って縁起が悪いの。花は他の生き物と比べて寿命が短いでしょ、だから早死にするってわたしの故郷で言われてる。自分のコードネーム、もっと違うのにすればよかった」
「百日咲き続ける花もありますよ」
「百日? 人間は百年生きるのに」
花占いの要領で、彼女は花びらを細かくちぎり、自分が横たわっている白い清潔なベッドの上に散り散りにばらまいた。
「スタッフに怒られますよ」
「構いやしない、どうせすぐ死ぬんだから」
「……厭世的な態度は道徳的に優れているとは言い難いですね」
イグゼキュターの遠回しな小言も無視して、少女は花びらをさらに散らかす。
「一時的な症状の悪化です。直に元に戻ります」
「みんなそれをよく言うけど、わたしは信じない。だって、わたしのお母さんも今のわたしみたいにちょっと体調を崩して、あっという間に死んじゃった」
「貴方は貴方です。お母様とは違います」
「…………」
少女は大きなため息をついて、起こしていた体を寝台に預けた。毛布を頭まで被ると、イグゼキュターの視線から逃れるように背を向ける。
大きな蓑虫のようだと彼は思った。
子供っぽい我が儘も、皮肉しか言えない口も、全てが自分にだけ向けられていると思うと、不思議と嫌な気持ちにはならない。職務の都合上こういった捻くれた人格の人間にはよく遭遇するが、その時に生じる凪いだような冷静さではなく、子供を見守る親のような、慈しんであげたいという感情がイグゼキュターの心中で発生するのである。
彼女と出会うまで……今までにはないことだった。
「機嫌が優れないようでしたら、後日また改めて伺います」
「次はさ、とんでもないイケメンを連れてきてよ。映画俳優みたいな、この人となら死んでもいいわって女性がみんな思うような、わたしのことが好きな人」
「はい、善処します」
少女の無理難題でも、イグゼキュターはできるなら叶えてやりたいと思った。床に散らばったブランケットや花びらを拾い上げながら、彼は病室を後にした。
イグゼキュターと彼女が出会ったのはロドスの中だった。鉱石病の発病に伴い、治療の対価としてロドスの後方勤務の任に就いていた少女と彼は偶然出会い、『友達』になった。
その時のことを、イグゼキュターは今でも鮮明に思い出すことができる。艦内の狭苦しい廊下で、大きな荷物を抱えながらよたよたと歩いていた彼女を、倒れる寸前に抱き留めた時の感触。
なんら特別なことのない、ありふれた会話をした時に向けられた視線に、どこか安堵するような気持ちを覚えたこと。多忙な日々の中で、彼女と話をすることに喜びを感じたこと。
多様多種な人材が跋扈しているこの会社の中で、彼女は穏やかな気性をしていた。病と戦いながらも朗らかに振る舞い、人当たりも良かったので友人も多かった。人の生き死にが当たり前のように繰り返される中で、幾度となく人間が入れ替わる。そんな環境にあっても、彼女は前向きで他人に優しかった。
……それも、最近までの話だ。
今までは誤魔化し切れていた死への恐怖。将来への不安、周囲から向けられる哀れみのまなざしに耐えきれなくなってしまったのだろう。彼女の穏やかさは鳴りを潜めて、今は攻撃的な言動が向きだしになっている。以前からそのような傾向があったのかどうかは、わからない。
――初めて八つ当たりのように怒鳴られた日のことを覚えている。狭い病室で二人きりになった時、突然泣き出した彼女の涙を拭ってやろうと手巾を取り出した時に、聞いたこともないような罵声を浴びせられた。怒鳴られたり、こちらには理解できない心理で当たられることは、職務上よくあることだった。いつものように応対したら、少女は余計に酷くイグゼキュターを詰った。
検査入院という名目ではあるものの、やはり病気相手となると専門外になってくる。イグゼキュターもどのように励ましの言葉を掛けるべきか、対応に行き詰まった。
しかもつい先ほどまで医療スタッフに労いの言葉をかけていた、親切を絵に描いたような彼女が狂ったように取り乱している。
……何か気休めになるような言葉を喋ったような記憶がある。
窓の外は、少女の気性に連動するように激しい雨が降っていた。雨音と彼女の嗚咽が鮮明に耳に残っている。
床で転がったプラスチックのコップを拾い上げながら、混乱する彼女を置いてイグゼキュターは病室を飛び出した。
「……で、お見舞いしてきた感想はどうなんだよ」
「体調は以前と変わりないように見えます」
「……客観的な観察結果じゃなくて主観的な評価を聞いてるんだよ、こっちは」
医療部のガヴィルは、ペンを手元でクルクルと回転させながら、イグゼキュターに向き合った。
患者本人から聞き出せない心境の変化や、不安に感じることを聞き出すのも仕事の一環である。なので、特段彼女と仲がいいオペレーターを呼び出してみたのだが、さっそく人選を間違えたのかもしれないと後悔しつつある。
……このイグゼキュターに関しては、絶対に嘘だけはつかない所だけは評価できる。
医者には話せない患者の本音をじっくりと聞き出したい所ではあるが、この調子だとAIと会話した方が難儀しなさそうだ。
「まっさかあいつがそんなに感情的なタイプだったとはな……」
ガヴィルはカルテに記載されている彼女の顔と、イグゼキュターが報告する様子とを平行して想像し、素直に驚いた。往診の際に短時間喋っただけの間柄でしかないのだが、喋った時の印象と苛烈な言動を結びつける材料は特に思い当たらなかった。
「はい、私も驚いています」
「……一応、検査って名目での入院だし、そこまで手遅れな状況って訳でもない。本人にも説明したつもりなんだがな……。まぁ、彼女の血縁者の件もあるし、ネガティブな反応が出るのは至極当たり前だと思うぜ」
「……やはり、病気の件は患者同士でしか理解しあえないということでしょうか」
「そんなことはない。同じオリパシーでも、人によって症状は様々だ……つっても、お前も色々見てきたし、わかるだろ? 人には人のってやつだ。同じ属性を持ってるからといって、即理解しあえるんだったら、レユニオンともあんなことにならなかっただろうしな……」
死という現実が色濃くなってくると、患者は逃避行動を取ったり感情的になったり、あるいは全て達観したよう穏やかになったりと様々な様相を見せる。普段おとなしい人間でも、恐怖という本能の前ではあらゆる物が丸裸になるのだ。
……彼女がそれほどまでに激しく感情をぶつけるということは、信頼されて甘えていることの裏返しでもあるのだろう。それに目の前の朴念仁が気づいているかはわからないが……。
「仰る通りです。私が危惧しているのは、病状それ自体というよりも、彼女の精神状態が良好とは言い難いことです。このままだと自傷に走るのではないか、と思うのですが……」
「そっちの治療の方も、手遅れになる前にやらねぇとな。それはスタッフに伝えておく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
(にしても……、こいつがここまでご執心ってことは相当だよな)
機械ではないかと噂されるようなこの男が、ここまで一人の人間に関心を抱いているというのは、色恋の話に興味がないガヴィルにとっても、そこそこに面白いと感じる話題だった。
聞き取った話から推測する限り、あの少女はイグゼキュターに好意を抱いているからあんな態度を取っているのではないかとガヴィルは踏んでいた。
子供のような我が儘と素直になれないいじらしさは、イグゼキュターの落ち着いた語り口を聞いているだけで胸焼けしそうになるが、そこまでされても気づく素振りもないのもそれはそれで、頭を抱えたくなるくらい鈍感すぎて、患者の苛立ちが若干ではあるが理解できるような気がした。
(恋の力とやらで良くなるなら、それはそれでいいんだけどな)
治療には薬よりも医者よりも先に、患者の精神力が第一である。本人の心理状態に波があればそれに引きずられる形で病状が悪化することも多い。
(お節介なんて柄じゃねぇけどなぁ)
少しでも患者のために動くのが医者の役目である。ガヴィルは話を終えて帰ろうとする素振りを見せたイグゼキュターを引き留めた。
「その……なんだ、頼まれた話っていうのはどうするつもりなんだ?」
「それについては当てがあります。ご心配なく」
「そ、そうかよ……。また来たときは相談に乗ってやるからな」
それでは失礼します。と言うや否や自動ドアが開閉する音が聞こえた。時間を無駄にするつもりはないらしい。
ガヴィルは聞き取った話をカルテに入力しながら、深いため息をついた。
「……え、俺ですか?」
「はい。彼女に頼まれているのです。貴方なら条件に合うと判断しました」
イグゼキュターはロドスから出立する前に、少女の同僚であった青年に声をかけた。
見目の美醜を判断することは失礼な行いであるが、街で見かける映画ポスターやアパレルの広告などで見かける男性の容貌から総合的に判断した結果、彼女の知り合いであり、世間で好まれる見た目をしたこの青年が、彼女の望む人物像に合致すると判断したのである。
「是非病室に見舞ってください。お願いします」
「えぇ……。まぁ、業務が終わった後でしたら」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
念入りに頭を下げるイグゼキュターを見て、青年は困惑した。確かにあの少女のことは少なからず好ましいと感じていたが、何がこの男のお眼鏡にかなったのだろう。
そもそも二人は付き合っていたんじゃなかったっけ。事態を飲み込めないまま曖昧に頷いた男の側を、次の現場へと急ぐイグゼキュターが通り過ぎた。
「遅いんだけど」
「すみません。先ほどの仕事が想定よりも長引いてしまって」
「おーそーいー」
「申し訳ありません」
平身低頭で謝り倒すイグゼキュターを見ながら、少女は得意げにベッドの脇に置かれたフルーツを掴んだ。
「あんまりフェデリコが遅いから、腐っちゃうところだった」
「……」
「これ、切って」
「了解しました」
差し出された果物ナイフと林檎を受け取り、少女の望むままに切り分ける。
「上手いね」
「家族が……姉がよくこうして分けてくれました」
「お姉さんいるんだね。知らなかった」
「はい、私は養子なので実の姉ではないのですが」
「ふぅん」
喋りながら作業をするイグゼキュターの手つきにブレは存在しない。林檎の芯をゴミ箱に入れると、紙皿の上に切り分けた果実を並べて、少女に差し出した。
「ありがとう」
「いえ、簡単なことでよければなんでも申しつけてください」
誰かを大切に思う時、その人のために何かをしてあげることが感謝や誠意を伝える方法である。受け取った林檎を口に運びながら、少女はその味に対して何か難癖をつけることを思いついたが、結局辞めることにした。
「ところで、あの方とは上手くいきましたか。貴方の所望通りの人を派遣したつもりですが」
「…………」
まさしく機械的に口に物を運びながら、イグゼキュターは自分の果たした任務の結果を少女に問うた。あの青年が病室に見舞ったのかだけは聞いておかなくてはならないと思ったからである。
「…………よかったよ」
「左様ですか。満足していただけましたか」
「うん、すごくよかった。優しくしてくれたし……それに、とても情熱的だった」
「それは……具体的にはどのような?」
「言わせないでよ。まぁとにかく、彼ってすごくハンサムだった。フェデリコの周りって綺麗な人が多いでしょう、よくその中から選んだよねって感じ」
はぐらかすような物言いに、胸がじっと痛むのを感じた。彼女の望む通りに成し遂げた。いつも彼女と喋っていると、腹の奥で蝶が羽ばたくような、不思議な動揺が起こる。不整脈か内蔵の疾患を疑ったが、彼は至って健康だった。
どっ、と胸が激しく脈打つのがわかる。次の言葉が彼女の口から出てしまったら、感情を露わにしてしまうかもしれない。生まれて初めての懸念が、彼の胸中で渦巻いた。……視界が暗く濁っていくような感覚に陥る。目を閉じて耳を塞いで、全てから逃げてしまいたいような――。
……全て彼女の望むがままに与えて、それで自分も満足するはずだ。なのにどうして、不快な感情が発生するのだろう。
神妙な面持ち――傍から見るとあまりにも無表情ではあるが――でイグゼキュターが少女を見つめていると、彼女は得意げにこう続けた。
「ほんっとうに、天にも昇るような気持ちだったんだから」
「……やめてください」
聞くに堪えないと感じた。一瞬頭に血が上ったような感覚と共に、気がつけば明確な拒絶の言葉がイグゼキュターの口からついてでた。
普段楚々として鉄面皮の男が、絞り出すような苦しげな声を出したので、彼女は嬉しくなった。よくないことだと思っているが、悩ましげな美青年を眺めるのは楽しいことだ。……それが自分のせいであるというのならなおのことである。
「どのように選択して生きるか、私から進言できることが何もないのはわかっています。ですが……」
「ですが、何?」
わずかに紅潮した頬の色が、彼の白い肌に紅が透けるように差していた。羞恥というより絶望、あるいは怒りといった明快な感情である。イグゼキュターがわかりやすく取り乱しているところを少女は初めて見てしまった。
「…………今日のところはこれで失礼します」
返事も聞かずに、イグゼキュターは部屋を飛び出した。引き留める間もなく、自動ドアが開いて閉じる機械的な音が響く。
「…………やば」
多少からかってやるだけのつもりだった。ちょっとだけ、ほんの少しだけ彼が自分にやきもちをやいてくれればそれでよかった。
――流石にまずかったかもしれない。
冗談が通じない相手であることを少女は完全に失念していた。
――これが最後かもしれないのに。
これほどまでに自分をさらけ出して、ありのままを受け入れてくれた人にいらない誤解を与えてしまって、そのままになってしまったら、どうしよう。
自分のやらかした事の重大さに、すんだことは後悔しても始まらないという言葉が脳を過るが、どうしてもいてもたってもいられなかった。
足早に消えていったイグゼキュターの背中を追うように、少女は入院着のまま病室の外に飛び出した。後でどれだけ叱られたって構いやしない。しばらくベッドの上で寝転がるだけの生活だったせいで足取りはおぼつかないが、それでも精一杯の早さで走るしかなかった。
「ま、まっ…………、って、フェデ、リ……、コ……!」
背後から聞こえてきた騒がしい足音と、聞き慣れた女性の声が、ロドス艦内の廊下を闊歩するイグゼキュターの耳に入った。
何も知らない人間が見れば彼は平常通りに見えるだろう。内心深く傷心していながらも、一見しただけでは彼の心の痛みに気づく人間は少ない。――家族……あるいは、長く彼の近くで過ごしてきた者くらいだろう。
必死に自分の名前を呼ぶ少女の存在をわかっていながら、振り返ることができなかった。感情の処理が追いつかない。
「お、おねがい……。謝りたくてっ! さっきのは全部嘘で、何にもなかった……から!」
「……」
何も言うことができない。今この場所に自分たち以外誰もいなくて幸運だった。歩速を早めたイグゼキュターの後ろを、必死で走る少女が追いすがる。
「ごめん……。わたしいつも貴方に甘えてばかりだった。都合のいい相手みたいに使って、気分はよくなかった……でしょ。許してなんて言えないけど……、本当のことを言わないで死ぬなんて嫌、だから……」
息も絶え絶えに謝罪の言葉を紡ぐ少女の声を聞き、それでも尚何か言うことができない。子供のわがままだとわかっている。人間が常に理性的でないことも、合理的に動くことができないのが普通であることも、イグゼキュターはよく弁えていた。正に今、自分が取り乱してそうなっているのだから。
「わたし……はっ、フェデリコのことが……」
踏み出した一歩の勢いが急すぎて、彼女は前につんのめった。元から体幹に優れていたわけでも、何かのスポーツをやっていた経験もないその体は、重力に従って顔から床に衝突する……はずだった――。
「……いつも足取りが見ていて不安になる人ですね、貴方は」
そっと少女の肩に手を添えながら、イグゼキュターは胸に飛び込んでくる形になった彼女を受け止めた。最初に彼女と出会ったときと同じ、急ぎ足でふらついた体をしっかりとした体躯のイグゼキュターが支えている。
「ごめ、なさ……」
「謝罪は受け取りました。これ以上は不要です」
「でも、わたし酷いことを言ったし、嘘もついてしまった……」
「――もう貴方と友達のままでいたくはありません」
「そうだよね……。こんなところまで追いかけてきて迷惑だった……よね、もう戻るから」
側から離れようとする体を、イグゼキュターは力を込めて引き寄せた。
「えっ」
「私も今、自分の気持ちに気づきました。正直に言うと、あの男性に嫉妬しました。貴方の側を占有する権利は私だけが所有していたい。これ以上誰かの手が、貴方に触れることがないようにしたい。……願わくば、貴方が私と同じ気持ちであれば良いと思います」
一言一言に熱を込めるように、穏やかな声で彼は真っ直ぐな言葉を投げた。思ってもいなかった展開に、少女の体は思わず強張る。
往来で、いつ人が来るかも分からないのにふれあっている。それだけで胸が張り裂けそうなのに、それ以上に願ってやまなかった言葉を浴びて、気が動転しそうになった。
夢ならば早く目覚めたい。
こんなに素敵な光景を見せて、嘘だと取り上げるくらいならいっそ殺してほしい。
「返事はいただけないのですか」
「嘘、じゃないよね……」
「私が貴方に嘘をついたことなどありましたか」
真っ直ぐな瞳が少女の射貫くように見つめている。
「貴方の子供のような我が儘も、甘えも、受け入れられるのは私くらいだと自負しています」
「うっ……」
痛い所を付いてくる辺りが、本当にフェデリコ・ジアロという人間がこちらに向かって語りかけているのだという現実を見せつけてくるようで、心臓が破裂寸前なのではないかと思うほどに高鳴り出す。
「全て私に見せてください。全部叶えて差し上げますから」
堅苦しい形式張った口調のイグゼキュターしか、知らない。返事は決まっているのに、これが一時の幻であるなら、と考えてしまう。
余計なことなど考えるな、と言わんばかりにイグゼキュターは彼女をそっと抱き留めた。普段銃を取り扱う無骨な手が、壊れ物を扱うようにそっと背中に触れている。
「愛しています。誰にも奪われたくない」
最早少女以外眼中にないイグゼキュターは、困惑する少女をよそに、思いつくだけの愛の言葉をささやき続ける。それに返事をしようにも、呼吸すら苦しいほどに恥ずかしくて口が思うように開かない。
「わ、わたし……」
蚊の鳴くような小さな声で、応えようとしたその時――。
「こぉらぁぁぁぁぁ! 入院患者は許可なく病棟の外に出るんじゃねぇぇぇ!」
「あっ」
全速力で駆けてきたガヴィルが、色ボケ出した二人をすぐに現実へと引き戻す。
「フェデリコぉ~! 助けてっ」
「おいおい、さっそくヒロイン気取りか……?」
「すみません、こればかりはロドスの規則ですので」「脱走する患者を捕まえるのは職員の義務だ。よくわかってるじゃねぇか」
ガヴィルは少女の首根っこを捕まえると、引きずるようにして病棟へと戻っていく。
「わたしも、フェデリコのこと好きだよ~!」
「耳元でやかましい声出してんじゃねえよ……。アカフラの鳥でもここまでうるさくねえぞ!」
しっかりとした足取りで、人を抱えて歩くガヴィルの姿はとてつもなく目立った。乱暴なまでに患者思いな彼女の姿を見ても彼女を責める人間はいない。これがロドスの日常風景なのだから。
イグゼキュターはどこまでも、廊下と廊下の仕切りの扉が閉まって二人の姿が見えなくなっても――スケジュールに余裕があったので――その場に立ち尽くしていた。直立不動の姿勢のまま固まったイグゼキュターを見て、ますます機械ではないかという噂が職員の間で広まることになるのはまた別の話。
「……あのね、わたし実はフェデリコに迎えに来てほしかったの。わたしが一番かっこいいって思ってるのはフェデリコだから」
晴れやかな空の下で、二人の恋人たちがベンチに座って談笑していた。退院した彼女は元の業務に戻ってもよろしいというお達しを受けており、休日に外を出歩いてもよくなった。
……あれほど騒いで大げさな事態にしてしまったことを思い出す度に、少女は胸を押さえてうめき声を上げる。そのたびにイグゼキュターが本気で心配して医者を呼ぼうとするのだから、余計に恥ずかしい思いをするはめになる。
「私の容姿をそれほど気に入っていただけたようで、何よりです」
何もない一日。それがどれほど貴重だったか痛い程に理解した。そのことを気づかせてくたイグゼキュターには頭が上がらない。最初から、素直に好きだと伝えていればあんな醜い黒歴史は作らずに済んだのではないだろうか……と思わなくもないが、過ぎてしまったことは仕方がない。肝心なのは、今だ。
「フェデリコっていくら褒めても照れないんだね」
「……羞恥を感じるという意味、ですか?」
「…………難しい言い回しが好きだよね、フェデリコは」
「確かに……、よく堅苦しいといった評価を受けることがあります」
いつまでも涼しい顔をして、調子を崩さない彼を見ていると自分ばかりがから回っているような気がする。不安になるわけではないけれど、なんだか面白くない……。
「動揺とかしないの?」
「多少面食らうことはありますね」
アンドロイド説が密かにささやかれる彼のことだから、その微細な感情の変化を察知するにはまだまだ修練が足りないのだろう。
……でも、今知りたい。人生はいつ終わるかわからないから。なるべくやりたいことは今やっておかないといけない。焦る気持ちでいっぱいだ。ずっと好きだった人とようやく恋人になれたんだから、やりたいことを全部やりたい。今まで知らなかったことも、たくさん。
彼の透けるような睫毛が、日の光を浴びて水面に反射する陽光のように光っている。繊細に縁取られた睫毛の奥に位置する瞳も、子供のころに集めた小さな宝石のように仄かな光を放っている。
「…………」
見れば見るほど、愛おしさが募っていくようだ。向こうほど自分は綺麗でもないけれど、同じように思ってくれればいいと願う。
周囲は静かで、人通りもない。平日の昼間の公園――噴水の近くの奥まったベンチ。その周辺に存在する人間は、いない。
「私の顔に、何か?」
澄み渡った青空と同じ色の瞳がこちらを見つめ返してくる。
「…………ごめん」
「…………っ」
十数センチだけ顔を動かして、不意打ちを食らわせた。柔らかい。閉じた唇は動くことはなく、確かに伝わってくる体温から、この人が人間であると少女は教えられているような気持ちになった。
……初めてだ。人とこういうことをするのは。
外で、誰が通るかもわからないのにいきなりキスするのも、全部やろうなんて考えたこともなかった。
いきなり死に急いでいるのだろうか。段階が、とかそんな考えは、懸念とか迷いなんてものは、イグゼキュターの顔を見て、綺麗だなと思った瞬間に吹っ飛んでいった。
馬鹿みたいな話だ。同意を取るだとか、普通の人が踏むべきステップを吹っ飛ばしてこんなことを――。
少女は必死に後悔するが、それよりも一瞬でもつながった先の熱に魘されそうな感覚――欲望の方が勝った。
一瞬だけ触れてすぐ離すと、フリーズしたみたいに固まったイグゼキュターの姿が見えた。
「…………だからごめんって」
「………………」
「……おどろいた、でしょ」
「…………こんな往来で、大胆ですね」
視線が泳ぐ。
「だって……したくなったんだもん。それに言ってたじゃん、わたしのやりたいことは全部やってくれるって」
「…………仰る通りです」
反論の余地もなくしたイグゼキュターは、耳を少し赤くしながら遠慮がちに目を伏せた。その所作が可憐な少女よろしく美しかったので、余計に気がおかしくなりそうだった。
「ぜ、絶対その顔わたし以外に見せないでよ……!」
「その顔とは……どのような」
「そ、その顔だってば!」
「その……、それはどういった物でしょうか? 具体的に指示していただなくては困ります」
悩ましげなイグゼキュターの表情がこれほどまでに殺傷力を持っていたとは思いもよらなかった。少女はどぎまぎしながら、手を握って懇願してくる恋人の顔から目をそらした。
「フェデリコってさ、その……初めてだった?」
「ああ……キス、ですか?」
(き、キスって言った! フェデリコが!)
今まで口づける行為をどんな風にいうのか妄想しては身もだえていた。新たな衝撃でまたもや心臓が破裂しそうな少女をよそに、イグゼキュターは淡々と話を続ける。
「家族とは時々していましたね。ラテラーノでは親族間のコミュニケーションによく用いられて……」
「そういうのじゃなくてさぁ! そのっ、口にだよ!」
「…………その、初めての行為、でした」
今すぐ叫びたい気分だ。社会慣習的に恥というか、羞恥の感情を持ち合わせているのは向こうとて同じことだった。
「――想定していたのは、貴方から望まれてそのような行為に及ぶパターンでしたが。貴方がそれでいいのなら、私は甘んじて受け入れますよ」
「………………想像、してたの? えっちだなぁ」
「いけませんか」
「………………いいよ、別に」
真顔で言われたので面食らってしまった。性欲の欠片も存在しなさそうだと勝手に決めつけていた相手から、堂々と思春期丸出しな発言をされるとどう応じていいかわからなくなる。
からかってやろうと思ったのに、もう攻勢が逆転してしまった。
「そんなことよりも、そろそろ次のカフェに向かいましょう。貴方が昨日行きたいと騒いでいた場所が、もうすぐ整理券を配る時間です」
立ち上がったイグゼキュターは、真っ直ぐ少女に手を差し出した。
――スケジュールを破る気は毛頭ないらしい。ムードもなにもあったものじゃない。
「…………うん、じゃあ行こうか」
それでも好きな人といる時間はとても幸せだ。
切り替えが早いところも、真面目なところも好き。恥ずかしいからまだ言わないけど。
迷いなく差し出された手を取って、ベンチから立ち上がる。昼下がりの陽光が差す公園には、春を告げる花が満開に咲き誇っていた。
「死ぬ前に大恋愛をしてみたいなぁ。本になるような、映画化されるような、燃え尽きるような恋を……」
イグゼキュターは最初、芝居のように流れる彼女の言葉を独り言だと判断して聞き流した。病室には溢れんばかりの生花が芳しい香りを放ち、殺風景な部屋に彩りを添えている。
時折聞こえてくるビープ音やプラスチックのコップやテレビから聞こえてくる笑い声などが静かな病室に響く。しかし、それを除けば病室は人間が二人いるとは思えないほど静かだった。
「ねぇ……、フェデリコ聞いてる?」
「私に向けて発言したのですか?」
「うん。フェデリコに言ったんだよ」
「大恋愛というのは、具体的にはどのような行為であると定義づけますか?」
「えぇ……。そんなこと言われても」
「自分の願望を把握できるようにしておく事は重要ですよ」
「わたしはラテラーノ公民でもないし、これもただの思いつきだよ。話題の一つだよ」
少女はむくれた顔をして、顔をイグゼキュターからそらした。窓際に置かれた花……色とりどりの、ロドスの温室で栽培されている季節の花々を見ていると、励まされるような逆に虚しい気持ちになるような、不可思議な感情が少女の胸中を襲った。
「大恋愛っていうのは、オペラの名作とか、古典的な文学でもよくあるようなアレだよ。男女が出会って、恋に落ちるけど障害が立ち塞がって最後には死んでしまったりとか、それを哀れに思った神様が空の星座にしてくれたりとか……」
「なるほど、確かに古典と呼ばれる作品には悲劇的な内容が多い傾向がありますね。……しかし、よろしいのですか。個人的な意見を申し上げると、壊滅的な結末へと帰結するような『恋愛』を望むのは自殺と大差ないように感じますが」
「どーせ、もう死ぬし。なんでもいい」
「……それが、貴方の望みなのでしたら」
イグゼキュターは真面目くさった顔で、真っ直ぐに少女を見つめた。執行官ではなく、友人として彼女の思いに報いたいという感情が、「フェデリコ」の中に芽生えていた。病衣の裾から伸びる細い腕が、イグゼキュター含め彼女の顔見知りから届けられた小さな花の花弁に伸びる。
「花の名前って縁起が悪いの。花は他の生き物と比べて寿命が短いでしょ、だから早死にするってわたしの故郷で言われてる。自分のコードネーム、もっと違うのにすればよかった」
「百日咲き続ける花もありますよ」
「百日? 人間は百年生きるのに」
花占いの要領で、彼女は花びらを細かくちぎり、自分が横たわっている白い清潔なベッドの上に散り散りにばらまいた。
「スタッフに怒られますよ」
「構いやしない、どうせすぐ死ぬんだから」
「……厭世的な態度は道徳的に優れているとは言い難いですね」
イグゼキュターの遠回しな小言も無視して、少女は花びらをさらに散らかす。
「一時的な症状の悪化です。直に元に戻ります」
「みんなそれをよく言うけど、わたしは信じない。だって、わたしのお母さんも今のわたしみたいにちょっと体調を崩して、あっという間に死んじゃった」
「貴方は貴方です。お母様とは違います」
「…………」
少女は大きなため息をついて、起こしていた体を寝台に預けた。毛布を頭まで被ると、イグゼキュターの視線から逃れるように背を向ける。
大きな蓑虫のようだと彼は思った。
子供っぽい我が儘も、皮肉しか言えない口も、全てが自分にだけ向けられていると思うと、不思議と嫌な気持ちにはならない。職務の都合上こういった捻くれた人格の人間にはよく遭遇するが、その時に生じる凪いだような冷静さではなく、子供を見守る親のような、慈しんであげたいという感情がイグゼキュターの心中で発生するのである。
彼女と出会うまで……今までにはないことだった。
「機嫌が優れないようでしたら、後日また改めて伺います」
「次はさ、とんでもないイケメンを連れてきてよ。映画俳優みたいな、この人となら死んでもいいわって女性がみんな思うような、わたしのことが好きな人」
「はい、善処します」
少女の無理難題でも、イグゼキュターはできるなら叶えてやりたいと思った。床に散らばったブランケットや花びらを拾い上げながら、彼は病室を後にした。
イグゼキュターと彼女が出会ったのはロドスの中だった。鉱石病の発病に伴い、治療の対価としてロドスの後方勤務の任に就いていた少女と彼は偶然出会い、『友達』になった。
その時のことを、イグゼキュターは今でも鮮明に思い出すことができる。艦内の狭苦しい廊下で、大きな荷物を抱えながらよたよたと歩いていた彼女を、倒れる寸前に抱き留めた時の感触。
なんら特別なことのない、ありふれた会話をした時に向けられた視線に、どこか安堵するような気持ちを覚えたこと。多忙な日々の中で、彼女と話をすることに喜びを感じたこと。
多様多種な人材が跋扈しているこの会社の中で、彼女は穏やかな気性をしていた。病と戦いながらも朗らかに振る舞い、人当たりも良かったので友人も多かった。人の生き死にが当たり前のように繰り返される中で、幾度となく人間が入れ替わる。そんな環境にあっても、彼女は前向きで他人に優しかった。
……それも、最近までの話だ。
今までは誤魔化し切れていた死への恐怖。将来への不安、周囲から向けられる哀れみのまなざしに耐えきれなくなってしまったのだろう。彼女の穏やかさは鳴りを潜めて、今は攻撃的な言動が向きだしになっている。以前からそのような傾向があったのかどうかは、わからない。
――初めて八つ当たりのように怒鳴られた日のことを覚えている。狭い病室で二人きりになった時、突然泣き出した彼女の涙を拭ってやろうと手巾を取り出した時に、聞いたこともないような罵声を浴びせられた。怒鳴られたり、こちらには理解できない心理で当たられることは、職務上よくあることだった。いつものように応対したら、少女は余計に酷くイグゼキュターを詰った。
検査入院という名目ではあるものの、やはり病気相手となると専門外になってくる。イグゼキュターもどのように励ましの言葉を掛けるべきか、対応に行き詰まった。
しかもつい先ほどまで医療スタッフに労いの言葉をかけていた、親切を絵に描いたような彼女が狂ったように取り乱している。
……何か気休めになるような言葉を喋ったような記憶がある。
窓の外は、少女の気性に連動するように激しい雨が降っていた。雨音と彼女の嗚咽が鮮明に耳に残っている。
床で転がったプラスチックのコップを拾い上げながら、混乱する彼女を置いてイグゼキュターは病室を飛び出した。
「……で、お見舞いしてきた感想はどうなんだよ」
「体調は以前と変わりないように見えます」
「……客観的な観察結果じゃなくて主観的な評価を聞いてるんだよ、こっちは」
医療部のガヴィルは、ペンを手元でクルクルと回転させながら、イグゼキュターに向き合った。
患者本人から聞き出せない心境の変化や、不安に感じることを聞き出すのも仕事の一環である。なので、特段彼女と仲がいいオペレーターを呼び出してみたのだが、さっそく人選を間違えたのかもしれないと後悔しつつある。
……このイグゼキュターに関しては、絶対に嘘だけはつかない所だけは評価できる。
医者には話せない患者の本音をじっくりと聞き出したい所ではあるが、この調子だとAIと会話した方が難儀しなさそうだ。
「まっさかあいつがそんなに感情的なタイプだったとはな……」
ガヴィルはカルテに記載されている彼女の顔と、イグゼキュターが報告する様子とを平行して想像し、素直に驚いた。往診の際に短時間喋っただけの間柄でしかないのだが、喋った時の印象と苛烈な言動を結びつける材料は特に思い当たらなかった。
「はい、私も驚いています」
「……一応、検査って名目での入院だし、そこまで手遅れな状況って訳でもない。本人にも説明したつもりなんだがな……。まぁ、彼女の血縁者の件もあるし、ネガティブな反応が出るのは至極当たり前だと思うぜ」
「……やはり、病気の件は患者同士でしか理解しあえないということでしょうか」
「そんなことはない。同じオリパシーでも、人によって症状は様々だ……つっても、お前も色々見てきたし、わかるだろ? 人には人のってやつだ。同じ属性を持ってるからといって、即理解しあえるんだったら、レユニオンともあんなことにならなかっただろうしな……」
死という現実が色濃くなってくると、患者は逃避行動を取ったり感情的になったり、あるいは全て達観したよう穏やかになったりと様々な様相を見せる。普段おとなしい人間でも、恐怖という本能の前ではあらゆる物が丸裸になるのだ。
……彼女がそれほどまでに激しく感情をぶつけるということは、信頼されて甘えていることの裏返しでもあるのだろう。それに目の前の朴念仁が気づいているかはわからないが……。
「仰る通りです。私が危惧しているのは、病状それ自体というよりも、彼女の精神状態が良好とは言い難いことです。このままだと自傷に走るのではないか、と思うのですが……」
「そっちの治療の方も、手遅れになる前にやらねぇとな。それはスタッフに伝えておく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
(にしても……、こいつがここまでご執心ってことは相当だよな)
機械ではないかと噂されるようなこの男が、ここまで一人の人間に関心を抱いているというのは、色恋の話に興味がないガヴィルにとっても、そこそこに面白いと感じる話題だった。
聞き取った話から推測する限り、あの少女はイグゼキュターに好意を抱いているからあんな態度を取っているのではないかとガヴィルは踏んでいた。
子供のような我が儘と素直になれないいじらしさは、イグゼキュターの落ち着いた語り口を聞いているだけで胸焼けしそうになるが、そこまでされても気づく素振りもないのもそれはそれで、頭を抱えたくなるくらい鈍感すぎて、患者の苛立ちが若干ではあるが理解できるような気がした。
(恋の力とやらで良くなるなら、それはそれでいいんだけどな)
治療には薬よりも医者よりも先に、患者の精神力が第一である。本人の心理状態に波があればそれに引きずられる形で病状が悪化することも多い。
(お節介なんて柄じゃねぇけどなぁ)
少しでも患者のために動くのが医者の役目である。ガヴィルは話を終えて帰ろうとする素振りを見せたイグゼキュターを引き留めた。
「その……なんだ、頼まれた話っていうのはどうするつもりなんだ?」
「それについては当てがあります。ご心配なく」
「そ、そうかよ……。また来たときは相談に乗ってやるからな」
それでは失礼します。と言うや否や自動ドアが開閉する音が聞こえた。時間を無駄にするつもりはないらしい。
ガヴィルは聞き取った話をカルテに入力しながら、深いため息をついた。
「……え、俺ですか?」
「はい。彼女に頼まれているのです。貴方なら条件に合うと判断しました」
イグゼキュターはロドスから出立する前に、少女の同僚であった青年に声をかけた。
見目の美醜を判断することは失礼な行いであるが、街で見かける映画ポスターやアパレルの広告などで見かける男性の容貌から総合的に判断した結果、彼女の知り合いであり、世間で好まれる見た目をしたこの青年が、彼女の望む人物像に合致すると判断したのである。
「是非病室に見舞ってください。お願いします」
「えぇ……。まぁ、業務が終わった後でしたら」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
念入りに頭を下げるイグゼキュターを見て、青年は困惑した。確かにあの少女のことは少なからず好ましいと感じていたが、何がこの男のお眼鏡にかなったのだろう。
そもそも二人は付き合っていたんじゃなかったっけ。事態を飲み込めないまま曖昧に頷いた男の側を、次の現場へと急ぐイグゼキュターが通り過ぎた。
「遅いんだけど」
「すみません。先ほどの仕事が想定よりも長引いてしまって」
「おーそーいー」
「申し訳ありません」
平身低頭で謝り倒すイグゼキュターを見ながら、少女は得意げにベッドの脇に置かれたフルーツを掴んだ。
「あんまりフェデリコが遅いから、腐っちゃうところだった」
「……」
「これ、切って」
「了解しました」
差し出された果物ナイフと林檎を受け取り、少女の望むままに切り分ける。
「上手いね」
「家族が……姉がよくこうして分けてくれました」
「お姉さんいるんだね。知らなかった」
「はい、私は養子なので実の姉ではないのですが」
「ふぅん」
喋りながら作業をするイグゼキュターの手つきにブレは存在しない。林檎の芯をゴミ箱に入れると、紙皿の上に切り分けた果実を並べて、少女に差し出した。
「ありがとう」
「いえ、簡単なことでよければなんでも申しつけてください」
誰かを大切に思う時、その人のために何かをしてあげることが感謝や誠意を伝える方法である。受け取った林檎を口に運びながら、少女はその味に対して何か難癖をつけることを思いついたが、結局辞めることにした。
「ところで、あの方とは上手くいきましたか。貴方の所望通りの人を派遣したつもりですが」
「…………」
まさしく機械的に口に物を運びながら、イグゼキュターは自分の果たした任務の結果を少女に問うた。あの青年が病室に見舞ったのかだけは聞いておかなくてはならないと思ったからである。
「…………よかったよ」
「左様ですか。満足していただけましたか」
「うん、すごくよかった。優しくしてくれたし……それに、とても情熱的だった」
「それは……具体的にはどのような?」
「言わせないでよ。まぁとにかく、彼ってすごくハンサムだった。フェデリコの周りって綺麗な人が多いでしょう、よくその中から選んだよねって感じ」
はぐらかすような物言いに、胸がじっと痛むのを感じた。彼女の望む通りに成し遂げた。いつも彼女と喋っていると、腹の奥で蝶が羽ばたくような、不思議な動揺が起こる。不整脈か内蔵の疾患を疑ったが、彼は至って健康だった。
どっ、と胸が激しく脈打つのがわかる。次の言葉が彼女の口から出てしまったら、感情を露わにしてしまうかもしれない。生まれて初めての懸念が、彼の胸中で渦巻いた。……視界が暗く濁っていくような感覚に陥る。目を閉じて耳を塞いで、全てから逃げてしまいたいような――。
……全て彼女の望むがままに与えて、それで自分も満足するはずだ。なのにどうして、不快な感情が発生するのだろう。
神妙な面持ち――傍から見るとあまりにも無表情ではあるが――でイグゼキュターが少女を見つめていると、彼女は得意げにこう続けた。
「ほんっとうに、天にも昇るような気持ちだったんだから」
「……やめてください」
聞くに堪えないと感じた。一瞬頭に血が上ったような感覚と共に、気がつけば明確な拒絶の言葉がイグゼキュターの口からついてでた。
普段楚々として鉄面皮の男が、絞り出すような苦しげな声を出したので、彼女は嬉しくなった。よくないことだと思っているが、悩ましげな美青年を眺めるのは楽しいことだ。……それが自分のせいであるというのならなおのことである。
「どのように選択して生きるか、私から進言できることが何もないのはわかっています。ですが……」
「ですが、何?」
わずかに紅潮した頬の色が、彼の白い肌に紅が透けるように差していた。羞恥というより絶望、あるいは怒りといった明快な感情である。イグゼキュターがわかりやすく取り乱しているところを少女は初めて見てしまった。
「…………今日のところはこれで失礼します」
返事も聞かずに、イグゼキュターは部屋を飛び出した。引き留める間もなく、自動ドアが開いて閉じる機械的な音が響く。
「…………やば」
多少からかってやるだけのつもりだった。ちょっとだけ、ほんの少しだけ彼が自分にやきもちをやいてくれればそれでよかった。
――流石にまずかったかもしれない。
冗談が通じない相手であることを少女は完全に失念していた。
――これが最後かもしれないのに。
これほどまでに自分をさらけ出して、ありのままを受け入れてくれた人にいらない誤解を与えてしまって、そのままになってしまったら、どうしよう。
自分のやらかした事の重大さに、すんだことは後悔しても始まらないという言葉が脳を過るが、どうしてもいてもたってもいられなかった。
足早に消えていったイグゼキュターの背中を追うように、少女は入院着のまま病室の外に飛び出した。後でどれだけ叱られたって構いやしない。しばらくベッドの上で寝転がるだけの生活だったせいで足取りはおぼつかないが、それでも精一杯の早さで走るしかなかった。
「ま、まっ…………、って、フェデ、リ……、コ……!」
背後から聞こえてきた騒がしい足音と、聞き慣れた女性の声が、ロドス艦内の廊下を闊歩するイグゼキュターの耳に入った。
何も知らない人間が見れば彼は平常通りに見えるだろう。内心深く傷心していながらも、一見しただけでは彼の心の痛みに気づく人間は少ない。――家族……あるいは、長く彼の近くで過ごしてきた者くらいだろう。
必死に自分の名前を呼ぶ少女の存在をわかっていながら、振り返ることができなかった。感情の処理が追いつかない。
「お、おねがい……。謝りたくてっ! さっきのは全部嘘で、何にもなかった……から!」
「……」
何も言うことができない。今この場所に自分たち以外誰もいなくて幸運だった。歩速を早めたイグゼキュターの後ろを、必死で走る少女が追いすがる。
「ごめん……。わたしいつも貴方に甘えてばかりだった。都合のいい相手みたいに使って、気分はよくなかった……でしょ。許してなんて言えないけど……、本当のことを言わないで死ぬなんて嫌、だから……」
息も絶え絶えに謝罪の言葉を紡ぐ少女の声を聞き、それでも尚何か言うことができない。子供のわがままだとわかっている。人間が常に理性的でないことも、合理的に動くことができないのが普通であることも、イグゼキュターはよく弁えていた。正に今、自分が取り乱してそうなっているのだから。
「わたし……はっ、フェデリコのことが……」
踏み出した一歩の勢いが急すぎて、彼女は前につんのめった。元から体幹に優れていたわけでも、何かのスポーツをやっていた経験もないその体は、重力に従って顔から床に衝突する……はずだった――。
「……いつも足取りが見ていて不安になる人ですね、貴方は」
そっと少女の肩に手を添えながら、イグゼキュターは胸に飛び込んでくる形になった彼女を受け止めた。最初に彼女と出会ったときと同じ、急ぎ足でふらついた体をしっかりとした体躯のイグゼキュターが支えている。
「ごめ、なさ……」
「謝罪は受け取りました。これ以上は不要です」
「でも、わたし酷いことを言ったし、嘘もついてしまった……」
「――もう貴方と友達のままでいたくはありません」
「そうだよね……。こんなところまで追いかけてきて迷惑だった……よね、もう戻るから」
側から離れようとする体を、イグゼキュターは力を込めて引き寄せた。
「えっ」
「私も今、自分の気持ちに気づきました。正直に言うと、あの男性に嫉妬しました。貴方の側を占有する権利は私だけが所有していたい。これ以上誰かの手が、貴方に触れることがないようにしたい。……願わくば、貴方が私と同じ気持ちであれば良いと思います」
一言一言に熱を込めるように、穏やかな声で彼は真っ直ぐな言葉を投げた。思ってもいなかった展開に、少女の体は思わず強張る。
往来で、いつ人が来るかも分からないのにふれあっている。それだけで胸が張り裂けそうなのに、それ以上に願ってやまなかった言葉を浴びて、気が動転しそうになった。
夢ならば早く目覚めたい。
こんなに素敵な光景を見せて、嘘だと取り上げるくらいならいっそ殺してほしい。
「返事はいただけないのですか」
「嘘、じゃないよね……」
「私が貴方に嘘をついたことなどありましたか」
真っ直ぐな瞳が少女の射貫くように見つめている。
「貴方の子供のような我が儘も、甘えも、受け入れられるのは私くらいだと自負しています」
「うっ……」
痛い所を付いてくる辺りが、本当にフェデリコ・ジアロという人間がこちらに向かって語りかけているのだという現実を見せつけてくるようで、心臓が破裂寸前なのではないかと思うほどに高鳴り出す。
「全て私に見せてください。全部叶えて差し上げますから」
堅苦しい形式張った口調のイグゼキュターしか、知らない。返事は決まっているのに、これが一時の幻であるなら、と考えてしまう。
余計なことなど考えるな、と言わんばかりにイグゼキュターは彼女をそっと抱き留めた。普段銃を取り扱う無骨な手が、壊れ物を扱うようにそっと背中に触れている。
「愛しています。誰にも奪われたくない」
最早少女以外眼中にないイグゼキュターは、困惑する少女をよそに、思いつくだけの愛の言葉をささやき続ける。それに返事をしようにも、呼吸すら苦しいほどに恥ずかしくて口が思うように開かない。
「わ、わたし……」
蚊の鳴くような小さな声で、応えようとしたその時――。
「こぉらぁぁぁぁぁ! 入院患者は許可なく病棟の外に出るんじゃねぇぇぇ!」
「あっ」
全速力で駆けてきたガヴィルが、色ボケ出した二人をすぐに現実へと引き戻す。
「フェデリコぉ~! 助けてっ」
「おいおい、さっそくヒロイン気取りか……?」
「すみません、こればかりはロドスの規則ですので」「脱走する患者を捕まえるのは職員の義務だ。よくわかってるじゃねぇか」
ガヴィルは少女の首根っこを捕まえると、引きずるようにして病棟へと戻っていく。
「わたしも、フェデリコのこと好きだよ~!」
「耳元でやかましい声出してんじゃねえよ……。アカフラの鳥でもここまでうるさくねえぞ!」
しっかりとした足取りで、人を抱えて歩くガヴィルの姿はとてつもなく目立った。乱暴なまでに患者思いな彼女の姿を見ても彼女を責める人間はいない。これがロドスの日常風景なのだから。
イグゼキュターはどこまでも、廊下と廊下の仕切りの扉が閉まって二人の姿が見えなくなっても――スケジュールに余裕があったので――その場に立ち尽くしていた。直立不動の姿勢のまま固まったイグゼキュターを見て、ますます機械ではないかという噂が職員の間で広まることになるのはまた別の話。
「……あのね、わたし実はフェデリコに迎えに来てほしかったの。わたしが一番かっこいいって思ってるのはフェデリコだから」
晴れやかな空の下で、二人の恋人たちがベンチに座って談笑していた。退院した彼女は元の業務に戻ってもよろしいというお達しを受けており、休日に外を出歩いてもよくなった。
……あれほど騒いで大げさな事態にしてしまったことを思い出す度に、少女は胸を押さえてうめき声を上げる。そのたびにイグゼキュターが本気で心配して医者を呼ぼうとするのだから、余計に恥ずかしい思いをするはめになる。
「私の容姿をそれほど気に入っていただけたようで、何よりです」
何もない一日。それがどれほど貴重だったか痛い程に理解した。そのことを気づかせてくたイグゼキュターには頭が上がらない。最初から、素直に好きだと伝えていればあんな醜い黒歴史は作らずに済んだのではないだろうか……と思わなくもないが、過ぎてしまったことは仕方がない。肝心なのは、今だ。
「フェデリコっていくら褒めても照れないんだね」
「……羞恥を感じるという意味、ですか?」
「…………難しい言い回しが好きだよね、フェデリコは」
「確かに……、よく堅苦しいといった評価を受けることがあります」
いつまでも涼しい顔をして、調子を崩さない彼を見ていると自分ばかりがから回っているような気がする。不安になるわけではないけれど、なんだか面白くない……。
「動揺とかしないの?」
「多少面食らうことはありますね」
アンドロイド説が密かにささやかれる彼のことだから、その微細な感情の変化を察知するにはまだまだ修練が足りないのだろう。
……でも、今知りたい。人生はいつ終わるかわからないから。なるべくやりたいことは今やっておかないといけない。焦る気持ちでいっぱいだ。ずっと好きだった人とようやく恋人になれたんだから、やりたいことを全部やりたい。今まで知らなかったことも、たくさん。
彼の透けるような睫毛が、日の光を浴びて水面に反射する陽光のように光っている。繊細に縁取られた睫毛の奥に位置する瞳も、子供のころに集めた小さな宝石のように仄かな光を放っている。
「…………」
見れば見るほど、愛おしさが募っていくようだ。向こうほど自分は綺麗でもないけれど、同じように思ってくれればいいと願う。
周囲は静かで、人通りもない。平日の昼間の公園――噴水の近くの奥まったベンチ。その周辺に存在する人間は、いない。
「私の顔に、何か?」
澄み渡った青空と同じ色の瞳がこちらを見つめ返してくる。
「…………ごめん」
「…………っ」
十数センチだけ顔を動かして、不意打ちを食らわせた。柔らかい。閉じた唇は動くことはなく、確かに伝わってくる体温から、この人が人間であると少女は教えられているような気持ちになった。
……初めてだ。人とこういうことをするのは。
外で、誰が通るかもわからないのにいきなりキスするのも、全部やろうなんて考えたこともなかった。
いきなり死に急いでいるのだろうか。段階が、とかそんな考えは、懸念とか迷いなんてものは、イグゼキュターの顔を見て、綺麗だなと思った瞬間に吹っ飛んでいった。
馬鹿みたいな話だ。同意を取るだとか、普通の人が踏むべきステップを吹っ飛ばしてこんなことを――。
少女は必死に後悔するが、それよりも一瞬でもつながった先の熱に魘されそうな感覚――欲望の方が勝った。
一瞬だけ触れてすぐ離すと、フリーズしたみたいに固まったイグゼキュターの姿が見えた。
「…………だからごめんって」
「………………」
「……おどろいた、でしょ」
「…………こんな往来で、大胆ですね」
視線が泳ぐ。
「だって……したくなったんだもん。それに言ってたじゃん、わたしのやりたいことは全部やってくれるって」
「…………仰る通りです」
反論の余地もなくしたイグゼキュターは、耳を少し赤くしながら遠慮がちに目を伏せた。その所作が可憐な少女よろしく美しかったので、余計に気がおかしくなりそうだった。
「ぜ、絶対その顔わたし以外に見せないでよ……!」
「その顔とは……どのような」
「そ、その顔だってば!」
「その……、それはどういった物でしょうか? 具体的に指示していただなくては困ります」
悩ましげなイグゼキュターの表情がこれほどまでに殺傷力を持っていたとは思いもよらなかった。少女はどぎまぎしながら、手を握って懇願してくる恋人の顔から目をそらした。
「フェデリコってさ、その……初めてだった?」
「ああ……キス、ですか?」
(き、キスって言った! フェデリコが!)
今まで口づける行為をどんな風にいうのか妄想しては身もだえていた。新たな衝撃でまたもや心臓が破裂しそうな少女をよそに、イグゼキュターは淡々と話を続ける。
「家族とは時々していましたね。ラテラーノでは親族間のコミュニケーションによく用いられて……」
「そういうのじゃなくてさぁ! そのっ、口にだよ!」
「…………その、初めての行為、でした」
今すぐ叫びたい気分だ。社会慣習的に恥というか、羞恥の感情を持ち合わせているのは向こうとて同じことだった。
「――想定していたのは、貴方から望まれてそのような行為に及ぶパターンでしたが。貴方がそれでいいのなら、私は甘んじて受け入れますよ」
「………………想像、してたの? えっちだなぁ」
「いけませんか」
「………………いいよ、別に」
真顔で言われたので面食らってしまった。性欲の欠片も存在しなさそうだと勝手に決めつけていた相手から、堂々と思春期丸出しな発言をされるとどう応じていいかわからなくなる。
からかってやろうと思ったのに、もう攻勢が逆転してしまった。
「そんなことよりも、そろそろ次のカフェに向かいましょう。貴方が昨日行きたいと騒いでいた場所が、もうすぐ整理券を配る時間です」
立ち上がったイグゼキュターは、真っ直ぐ少女に手を差し出した。
――スケジュールを破る気は毛頭ないらしい。ムードもなにもあったものじゃない。
「…………うん、じゃあ行こうか」
それでも好きな人といる時間はとても幸せだ。
切り替えが早いところも、真面目なところも好き。恥ずかしいからまだ言わないけど。
迷いなく差し出された手を取って、ベンチから立ち上がる。昼下がりの陽光が差す公園には、春を告げる花が満開に咲き誇っていた。