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不毛なことをしていると思う。
額に汗を流し、痛みで悲鳴を上げる体にむち打って、何のためにもならない労働をしているのだから。
「…………」
風呂場の床に座り込んで、退屈そうに煙草を吹かしている黒髪の男。碌でなし、輝かしい未来を約束された天才。
そんな男のために――――わたしは必死で死体の証拠隠滅を図ろうとしていた。
「なんで手伝ってくれないの」
「俺の仕事は終わった」
「終わった、って? 食べただけじゃん」
「捌いて…………、皿に綺麗に盛り付けてやっただろ」
彼の悪趣味な料理を食べる気力はわたしにはなかった。いくら好きな人の手料理だからといって、生理的に受け付けないものを食べる義理はないだろう。ムスリムが豚肉を拒否することを誰が批判する?
「あんたの報酬は、わたしにとっては罰ゲーム」
「…………そうか」
ほらね、恋人だからってわかり合えないことはたくさんある。彼がわたしのことを愛してなんていないことはとっくの昔から承知の上だったけれど、曲がりなりにもわたしたちは友達だと思っているし、ヴィンスだって大学では普通の顔をして通っていいるんだから、社会的な道徳というものや一般常識が備わっていると思っていたんだけど……。
「わたしが手伝ってあげてるのは、バラシのところだけだからね」
「勿体ない」
「普通の料理なら喜んで食べるけど」
「……あんな物の何がいいんだか」
「煙草の味はわかるくせにね」
「これは食い物のカテゴリには入らない」
なんでこんな男が世間でもてはやされているか、わたしには理解できない。…………いや、理解できないと言いつつ惹かれているわたしの方が彼からしたら理解不能なのかもしれない。
漂白剤(血を落とすのに結構使える)で床を磨き、ここで起こってしまった惨状の後を綺麗さっぱり隠滅すべく、わたしは必死で手を動かしている。さながら家政婦のように、自分のことじゃないのに。いや、これは趣味と実益も兼ねているんだけど――。
「お前にはいつも世話になってるからな、ありがとう」
彼はわたしのそばにしゃがみ込んで、そんな風に皮肉なのか本心からなのかわからないお礼を言う。わたしはその度に腹の奥底で何かが激しく暴れているみたいな、うれしいのか虚しいのか分からないようなくすぐったい気持ちになるのだ。
そんな気持ちをごまかしたくて、わたしは彼の口に噛みつくようにキスをした。
「…………」
ロマンチックな雰囲気なんて欠片もない。ヴィンスは驚いてわたしをじっと見ている。
「するときくらい目を閉じたら?」
……自分でもよくない選択をしてしまった。馬鹿だなあ、と思う。恋人同士でいちゃついたりキスしあったりすることを禁じる法律はない。なんだったら、誰かの男じゃないかぎり、デートしたりちょっと乳繰り合ったりしてみることを咎める権利を持っている人はいない。わたしたちは一応、第三者の前ではそういうことになっているのだから、後悔なんてしなくていいし、罪悪感も持たなくていい。ただの道楽なんだから。それでも、わたしは考えずにはいられない。
わたしがこんな体質じゃなければ、こんな人間じゃなかったら、ヴィンスは一緒にいることはおろか、名前すらろくに覚えてくれなかっただろう。
「…………もういい」
自分からやり始めたことなのに、なんだか萎えてしまった。無反応・過ぎ去るのをただ待っているだけみたいなこの男を見ていると、やっぱりこの人ってゲイなんじゃないの、とかそういう感想しか浮かんでこなくなる。世間体のために付き合うとか、よく聞く話だ。普通にあり得ることじゃないの? それだったらもうなんでもいいや、わたしが付き合おうって言った後にはいって言ったこいつが悪いんだからねーというお話になる。わたしのこと別に好きじゃないんだったらそんなこと言わないでほしい。こっちだって三歳じゃないんだから、人が自分をどう見てるかなんて、わかっちゃうんだよ。
そんな目をするな。
お前がやらせてるんだろ。
せっかく彼のアパートに来ているのにやることがセックスじゃなくて一緒に殺した人間の死体処理だなんて、ウェスト夫妻じゃないんだから。わたしたちは新聞に載るようなセンセーショナルな人間じゃない。ああ、ヴィンスは…………、そうかもしれないけど。
どれだけ肉体的な接触を持ったところで、何にもなりやしないのに。わたしはセックスがしたいなーという感じで彼の部屋に行ってはこうして死体をどうにかこうにか片付けられるようにする作業に徹している。どうせセックスしたところで満たされるわけでもないのに、わたしは大学生になってもまだティーン向けの雑誌の匿名体験談を読んだ後みたいな気持ちでずっと、生きている。
ヴィンスの顔を見る度に、この人を殺せるならば、わたしはなんだってしても構わない。
「やっぱり……、次は試してみようかな」
好きな人の秘密を知っているというのは、恋人同士であるよりも気持ちいいことなんじゃないだろうか。
ヴィンスのことを好きになったきっかけというのは、実は覚えていない。素敵な人だと思った? 才能に惚れ込んでいた? どれでも――イエスと言えてしまう。抽象的な概念を言葉にするのは難しい。ただ本能的に好きだと思った。感情はストレートだ。
彼は大学の中でも特に目立っていて(いい意味で)、よほど鈍感でない限りは彼のことを知る機会はいくらでもあった。わたしはというと、よくてそういう特別な人たちの金魚の糞、おこぼれに預かろうとするけど形が伴っていなくて馬鹿にされるタイプの落ちこぼれ――みたいな感じだった。誰にも覚えられないし、同窓会の招待でも外されるような陰気な人間って言ってもいいかもしれない。
わたしは目立つことが嫌いだ。大学に入ったけど、やることもやりたいこともなくて、それでも何かしらの刺激を求めてキラキラしている人たちの周りでごちゃごちゃと動いていた。誘蛾灯にたかる虫みたいに。
だから、ヴィンスがわたしのことを知っていると分かったときはひどく驚いた。ヴィンスは目立ってはいたけど馬鹿騒ぎやら社交界じみたやりとりなんかには興味がなくて、内向的な人だということはなんとなくわかっていた。
それでもパーティ会場で壁にもたれていたわたしに横にそっと張り付いてきた時は、心臓をもがれるんじゃないかとビビってしまったくらいだ。
「何もそんなに……、大丈夫か?」
「…………!」
宇宙人を生で見ちゃったくらいに驚いてごめん、とかそういうつまらないボケをしなくてよかった。
「急に……そんなとこにいるなんて、気配が……ごめ……」
いたずらがバレた子供みたいにビクビクしていたわたしは、何がなんだかわからなくてパニックになっていたんだと思う。
片手にシャンパンを持ったヴィンスは、めっちゃ引いてた気がする。
あーあ、わたしって人生のチャンスをぶち壊す天才だ。
気になってた人とのはじめてのまともな会話がこれなんだから。(それでも結局ヴィンスと付き合えるようになったんだから、逆にラッキー? もしくは、すごくアンラッキー……?)
とんでもないことをしてしまった! と冷静になったわたしは、逆に顔から感情というものが一切消えて、ロボトミー手術でも受けた後みたいに澄ました顔をしていたと思う。それもなんだか不気味だけど、一回感情をリセットするみたいに、切り替えの早さだけは誰にも負けない。
「…………ごめん、お化けでも見たみたいになって」
「ああ……。あっちがうるさいからここで冷たい飲み物でも、と思って。邪魔だったら、悪い」
「じゃあ休憩終わったら、あっちに戻る感じ?」
「いや……あんなの、俺がいてもいなくても一緒だろ」
ヴィンスはそう言いながら、大して美味しくもない酒に口をつけた。
じっと見ていたら失礼かな、と思ってわたしはちょっとだけ目をそらす。
「ヴィンセントがいなかったら、多分みんな探すんじゃないかな」
「……いや、それはない。あいつら全員業界人に尻尾を振るので忙しい」
「へぇ……」
「そっちこそ、向こうに行かなくていいのか」
「…………わたしは、別に、いい」
興味がないわけではなかった。こういう慈善パーティには出資者の金持ちが結構来るし、ドラマの中のゴシップみたいなものは、勝手に見ている分には面白いだろうな、と思う。
でも、その中に入っていってうわべだけの会話をする体力はわたしにはなかった。垢抜けないデザインの――姉のお下がりのドレスを着て、ストッキングを履いているせいで、何もしていないのにぐったりと疲れていた。
「珍しいな、そういうやつ」
「だからこんなとこで一人でいるんだよ」
「じゃあ……、俺も壁の花になる」
とうとう彼は、わたしの横で本格的に壁に体を預けた。
本当は、あの大勢の人だかりの中心にいるはずなのに、なんの因果か、人気者をわたし一人で独占してしまっている。ただ隣にいるだけなのに独占というのはおかしいかもしれないけど、でも、状況を説明するならそうとしか言い様がない。
シャンデリアに照らされて、向こう側はオペラの中に出てくる舞踏会みたいにきらめいていた。さっきまで彼がその中にいて、彼の才能に惚れ込んだ大人と大学生たちに囲まれていたのだと思うと、なんだか不思議だ。彼の笑顔は素敵だけど、暗いところにいて仏頂面でいる方が自然であるような気が、しないでもない……。多分、こっちの方が自然の彼なのかも、と勝手に妄想してみたり。
「なんだか……、必死すぎて馬鹿みたいだよな」
「ええっ?」
何、急に――。
わたしがまたしても驚いて馬鹿みたいな声を上げると、ヴィンスはさっきまで細めていた目を大きく見開いた。
「そっちこそ。くだらないパーティーなんてご免だって顔してたくせに。今更なにいい子ぶってるんだ?」
「だ、だって……。そういうこと言ってるところ見たことなかったし……、わたしにそういうこと話していいの?」
「この空間にいて、まともなのは俺とお前だけだ」
ヴィンスはしきりにズボンのポケットをまさぐりだした。わたしはその仕草に、見覚えがある。
「ここ禁煙だよ」
「わかってる」
「まだしばらく終わらないでしょ、これ」
「もう出るぞこんなとこ」
「えぇー」
なんだか急に、賭場にいる中年男みたいになったヴィンスを見て、わたしは度肝を抜かれた。えー、そういう感じなんだ……、って。
言われたい台詞ナンバーワンくらいのことをサラっと言われたけど、こういうところって勝手に抜けて帰ってもいいのかわからないし……で、わたしはもじもじしながらきょろきょろと辺りを見回した。パーティーを途中で抜ける時の作法なんてわたし知らないし。こういうときって、誰かに挨拶しないと駄目なんじゃないだろうか、とか。
「こんだけ多いんだから、二人消えても誰もわからない。この調子ならどうせ夜中までこのままだ。それまでずっと壁にもたれて立ってるつもりか?」
イライラしだしたヴィンスを見ていると、なんだか全部わたしが悪いような気持ちになってくる。そういう男の人って辞めた方がいいってママが言ってた……。
でも、わたしもこんなところ早く抜けちゃって家に帰りたいな、という気持ちがないわけでもない。悲しいかな、ヴィンスが外に出ようともちかけてきているのは、わたしが気になった女だからじゃなくて、ただ単にヤニ切れでイライラしてるせいっていうのが、嫌なんだけど……。
「それって一人じゃ駄目なわけ」
「…………………………別に、お前がいなくても出るけど」
「……じゃあ、行く。でもその前にトイレ行ってくる」
高校の時のパーティとは違って個室でセックスしてるカップルはいなかった。だから余計に、こんなことで浮き足だってる自分が馬鹿に思えてきた。今までのルールとかが全部ぶっ壊されて、急に大人の領域に入ってしまったみたいな気分だ。
ホテルのトイレってなんでこんなにひんやりしていて静かなんだろう……。
「…………」
わたしがトイレから戻ってくると、ヴィンスは柱の陰に隠れるようにして立っていた。モデルみたいに足がすらっとしていて、スーツがよく似合っている。……こんなこと、もっと早くに気がついておけばよかった。
ヴィンスはお酒を飲んでいたし、わたしはここまで徒歩で来たので、仕方なく駅までの道をだらだらと連れ立って歩くことにした。外はもう真っ暗で、街灯の明かりがないと何がなんだかわからなかっただろう。幸いなことに人通りはそれなりにあった。腐っても街のホテルだから、近くに店やら民家やらがそれなりに点在している。開いている店は飲み屋くらいだけど。
「…………吸うか?」
「喫煙の習慣はないんだよね」
「ふん……」
ヴィンスは自分のコートからライターを取り出すと、さっさと煙草に火をつけてしまった。……わたしは彼が喫煙車であることすら知らなかった。仲間の集まりの前で吸ってるところは見たことがなかったし。
手持ち無沙汰になって仕方ないので、わたしも一本貰っておけばよかったと思った。でも、慣れないことをするとろくなことがないから、ダサいところを見られないように何もしないのが一番いいことだったかもしれない。
森林浴にでも来たみたいな顔で煙草を吸う姿が、なんだかこっけいでおかしかった。
「ジョイントやるみたいな格好でやらないでよ」
このまま彼と歩いていたら、いずれ職質されてしまいそうだ。
「…………あんなのやる馬鹿と一緒にするなよ」
「遠くから見たら一緒に見えるけど」
「こんなところだとハッパやってても誰も捕まえやしないと思うがな。警察もそこまで……暇じゃないだろ」
――確かに、言わんとしていることはわからなくもない。ここ最近のフランス警察の仕事は杜撰であると形容するのがふさわしい。
「時代の過渡期なのかなぁ」
「なんだよそれ」
「そういう時期なんだよ。戦後生まれって何かと無茶したがるってよく言われるでしょ」
「フランス人は昔から血気盛んだからな」
「そういうのってイギリス人のジョークみたい」
今時の若い人はって言葉って大昔から何度も何度も言われてるんだって本に書いてあった。わたしたちもおばさんおじさんになれば、大学生の行動に一々ケチをつけるようになるの?
「どこでも犯罪ばっかだろ、うちの大学でも一人……殺されたらしいし」
「移民のせいだって言ってる人もいるけど、アレは嘘でしょ。つい最近までドイツ人ばっかりだったから、なんでも文句を言いたいんだよ」
「じゃあ何か、全部の犯罪はフランス人がやってるって?」
「そりゃあ、パリにいるのは八割がたフランス人だから、単純に言えば大体の犯罪は自分とこの国民がやってることでしょ。そういう低俗なプロパガンダって戦時中みたい。まあ警察も……、言葉が通じない相手のせいにしておけば無能が露見しないですむから楽なんだろうけどさ」
「……………………今横にいる相手が信用に足ると思うか?」
「…………はぁ?」
ヴィンスはいきなり立ち止まり、わたしの目をまっすぐに見つめてそう言った。いきなりを何言ってるんだろう、この人は…………。と呑気している余裕は許されなかった。
「夜道でそんなジョークは辞めてもらえるかな。本気で怖いんだけど……」
「なんでそんなに怖がるんだ」
「だって……、ヴィンスの顔がマジだし……。それに今は夜だし……。わたしホラーって苦手なんだ……。だから…………、さぁ…………」
ホラー映画のシーンみたい、とまでは言えなかった。ヴィンスは顔立ちが陰気で長髪なので、二十年代の映画の怪人みたいにも見える。
別に今ここで殺される! とか襲ってきそうとか、そんな風には思えないけど、どことなく必死さが凄まじくて、何かするそぶりを見せたら走って逃げようと身構えてしまうくらいには怖かった。
「なんでお前が怖がるんだよ」
「はぁ⁉ 男の人に意味深なジョークを言われたら怖いんだよ女は誰だって!」
あーもう、やだ。ヴィンスってガキ大将みたいに馬鹿なこと言ってからかうのが好きな人だったんだ! ぜんっぜんそうには見えないけど。ていうか、この感じを見抜くのって結構難しくない?
まるでわたしが悪いみたいに見てくるのも、嫌だし……。なんだかこっちが場の空気を壊した人みたいじゃん。失礼なのはそっちなんですけど。
「あ、あぁ? …………なんでだ? なんでそんな顔するんだよ」
「意味わかんない、キモい、ありえない!」
「ちがっ…………! しらばっくれても無駄なんだ。こっちはちゃんと証拠だってあるんだからな」
「なにー、もう! 刑事じゃないんだからそんなこと言うのやめてよっ! わたしもうついていけないんだけど、帰る!」
走って駅まで行こうとしたわたしの腕を、ヴィンスは強引に引っ張った。
「うっ!」
ああ、ここで強姦されるんだ――。最悪の未来を予見してしまう。男の人に乱暴な扱いを受けたのって、あの時以来だ――。ずっと最悪な記憶も一緒にフラッシュバックさせていると、ヴィンスは強引にわたしの体を自分の方へと向けさせた。
「これ、お前だろ……!」
目の前に突きつけられた写真を見て、わたしは――――動きを止めた。
「ああ、やっぱり。あってたんだ。この背格好、この服装、やっぱり……お前そっくりだ」
「…………………………も、もうやだ。や、やめてよそれ……、しまってよ!」
興奮したヴィンスはそれをぐいぐいとわたしの目の前にもってきて、早口で何かをまくし立てる。いやだ。聞きたくないのに……。なんで今、こんな時に……。
「それわたしじゃないわたしじゃないってば! なんでそんなの持ってるの⁉ きもちわるいきもちわるいやだやだやだやだ。ちがうんだってもうやめてよ嘘なんだよ全部全部ちがうんだもん、わたしじゃないよ違うっ! これわたしじゃない!」
気がつくと、わたしは五歳児みたいな声で叫んでいた。
――ここに誰もいなくてよかった。狂乱するわたしとは別に、脳の隅っこに少しだけ残った理性の断片で考える。
「…………ああ、当たりか」
「なになになになに人のことアイスキャンディーの棒みたいにいって気持ち悪いキモい終わってるあんたなんか嫌い消えてもうやだあおまわりさあああん! この人っ! 捕まえてぇっ!」
暴れてヴィンスの体を遠慮することなくボコボコと殴ったけど、やっぱり料理人なんてやろうとしてる男の人は体格も力も違って、ほっそりとした見た目とは裏腹に、わたしはあっさりと押さえつけられてしまった……。
「うっ…………ううっ…………っ…………ぐうっ…………」
「結構……、力強いんだな」
チョークスリーパーみたいに羽交い締めされてると、なんだか自分が情けなくなって本当の赤ちゃんみたいにわんわんと泣き出したくなってきた。でも、あんなに叫んで泣くことなんてできなかったので、嗚咽交じりの汚い泣き声を上げて、彼の腕の中でみっともなく涙を流す。ずっとヴィンスとはロマンチックな関係になりたいなと思ってたし、期待していたけど、こういうことじゃない! 絵面が格闘技だし、わたしは一番誰にも見られたくないものを、よりにもよって好きな男の人に見られていたんだ。屈辱と情けなさで頭がどうにかしそうだ。
わたしが顔を真っ赤にして泣いていると、ヴィンスの呆れたような、それでいてうれしそうな声が耳元で聞こえてくる。
「やっぱり……、お前がやったんだろ、これ」
片手でうまいことわたしを押さえつけながら、ヴィンスはわたしの目の前に写真を一枚見せつけてきた。モノクロの、焼き増しみたいな写真……。ピントのぼやけたそれに写っているのは、間違いなく、わたしで――。
「だ、だってぇ……。そうでもしないと、わたし……」
「大丈夫だ、俺はチクったりはしない。正当防衛だっていうのもわかってる」
幼稚園の先生みたいな優しい口調だった。わたしは馬鹿なので、そういうのに騙される。好きな人にそんな風に言われてしまったので、泣きながらうんうんと頷くしかなかった。……本当に、馬鹿だ。
「俺は、ファンなんだ。わかるか? あんなでっかいのを殺せるのはほかにはいない。才能なんだよ、殺しの才能に、惚れたんだ」
「…………そんなに褒められても、何もうれしくないんだけど」
ヴィンスの首からは、彼が吸っているのと同じ煙草のにおいがする。この匂いを知ってるのはわたしだけ? それともほかに……、相手とか、いるんだろうか。
「殺し方だけじゃなくて後始末も……、ほら、わかってるだろ? だからまだ逮捕されてないんだもんな」
「子供の時の事件が時効になるかまではわかんないよ」
あの時は、やっても少年院で済むだろうという計算があって、やったんだ。だから今とは違うし、今は誰も殺す気なんてないんだよ。そんなことを、言いたかった。ヴィンスはシリアルキラーのファンみたいな口調で、わたしを褒めた。わたしは別に切り裂きジャックでもなんでもない。たった一回の過ちだ。連続殺人犯とかサイコパスとか、そんなんじゃないのに……。
聞きたいことは山ほどあったけど、彼が普段からは全く想像がつかない様子で喋り倒しているのを見ていると、口を挟むのはとんでもなく無粋な気がしてくる。
でも、聞かなくちゃいけない。
彼の行動一つで、最悪わたしの首が飛ぶ。とんでもない弱味を握られているのだ。屈辱的な話だが現状として、わたしの方が弱い立場におかれていることは事実だ。
「な、んで…………そんなこと聞くの。っていうか、どこで知ったの……、そんなこと……」
――誰かに喋ったこともない大昔の、ここではないわたしの地元でのことだ。それを大学からの知り合いであるヴィンスが知っているということがそもそも奇妙で、気味が悪かった。
「わたしを……、どうしたいわけ……」
やましい過去を持ちだして揺すってくるのなんて、言いたくはないけれど大体が下世話な内容に決まっている。
初手で動揺を見せてしまったので、ここからはなるべく落ち着いて対処しなくてはならない――。物的証拠といっても、子供のころのわたしの写真一枚しかないのだとしたら、それをもみ消すのに途方もない苦労がある……というのはあまりあり得ない話だろう。
「…………人を殺すのは好きか?」
「………………は…………?」
というかそもそも、答えになっていない。
ヴィンスはわたしの顔の横でも構わずライターに火をつけた。ちょっとでも顔がずれたら火傷しそうな距離なのにもかかわらず、お構いなしだ。
「人殺しが好きかって、そんな……好きなんて言うわけないじゃん」
人として当たり前の答えを、返した。肯定も否定も存在しない。はいと言ってもいいえと答えても、今みたいに彼は馬鹿にしたように鼻で笑うだろう。
「…………」
「じゃあ、質問を変える。…………俺のそばにいるために人を殺せるか?」
「………………っ…………!」
馬鹿にされてるんじゃないかと思った。
しばらくしたら、ほんのジョークだと言って解放してくれるとか、そんな風に思っていた。
――残念なことに、わたしの予想が当たったことはない。
「人は何かを得るためには相応の対価を支払うだろ? 今回の場合、従っておいた方が退屈しないと思うが……」
ああ、完全に下に見られてる。
情けないやら悔しいやらといった感情と一緒に、全て見透かされている安心感のようなものに全身包まれている気分だ。
…………わたしって、本当に男を見る目がないんだなあ。これだと、お母さんの予言した通りわたしはクズみたいな男としか結婚できないんだ……。…………いや、ヴィンスが結婚なんて考えてくれるような人間だろうか? 将来性はあるけど、その横に誰か女がいるヴィジョンを、わたしは全く想像できなかった。(というかそもそもわたしたちは付き合ってすらない)
「わたしって、ロマンスのために犯罪者になるタイプだと思う? 動機が色恋とか、週刊誌じゃないんだから……」
早口で言いながらも、わたしは結局この人のためになんだってしてしまうんじゃないかという予感がしていた。印象派の画家が描いたヒモを飼っている娼婦の女の絵を思い出した。昔解説を聞いて笑って見ていたその人に、今なろうとしている。しかも、犯罪だって厭わないんだからわたしって、娼婦以下だ……。
「いいだろ別に……体面を気にするタイプならこんなことされたら……、普通は怒って突き飛ばすなりしてるはずだからな」
自分のことを嫌いになりながら、思ってもいなかった言葉に絶望しながらも、わたしは自分の興奮を抑えることができなかった。
ヴィンスの体に触れていると、脳が馬鹿になっていく気がする。わたしの頭に詰まっているのは、脳みそじゃなくてほうれん草のジェリーなんじゃないかって、そんな気分になってくる。マザーグースの詩に出てくるように、砂糖でたっぷりの馬鹿げた体をしているのかもしれない。触れられた先から暑さで溶けていきそうだ。
ああ別に、男に触ったことがないわけじゃない。今時そんなの尼さんくらいじゃないの? 今すぐここでファックされても構わないと思う。これは比喩だ。今すぐここでセックスなんておっぱじめられたら、普通に困る。なんで? って感じだし。
なんでこんなにぞっこんになっているのか、自分でも上手く説明ができない。でも、わたしの体というか脳みそはすでに、この人のためなら殺しだってやっても構わないかもしれないなんて、そういう信号を送り出してわたしを馬鹿にしようとしている。というかもう、なりかけている。
「ヴィンス……。なんでわたしに人を殺してほしいの?」
「ああ、別に俺一人でやったって構わないんだが……。やっぱり、バラすのが上手いやつと組んでみたかった」
「うん、わたし……、それだけは自信があるけど……」
だからってやってあげるなんてわたしは一言も言ってない。彼の中ではわたしは好きに動いてくれる人形にすぎなくて――つまりは――都合のいい女でしかないんだな、と思う。全ては彼の確定した決断でしか動けないし、わたしに拒否権がないのだということは、まともに動かない頭でもなんとなく理解できた。
誰を殺したいの? とは聞かなかった。そういう感じじゃないと思った。誰かを恨んだり、絶望のために人を殺すなら彼はもうとっくにやっているだろう。
わたしが聞きたかったのは、バラした後どうするかというところだ。それと、誰を殺したいのか、というところだ。これが一番大事なポイントだ。場合によっては、わたしはこの人を警察に突き出してもよかった。
「…………ヴィンスはわたしのこと別に好きとかじゃないでしょ。誰でもよかったんじゃないの」
ヴィンスは重要なところをはぐらかす癖があるのかもしれない。けれど、今回だけは違った。
伏し目がちな瞼がそっと持ち上げられて、長い睫毛に縁取られた白目の部分に炎の明かりが反射していた。
その一瞬だけの光が轟くように瞬くと、低い声で彼はこう言った。
「ああ、別に」
「…………じゃあ、よかった」
ここで嘘でも愛してるとかそんなわかりやすい嘘をつかれたなら、本当にこの場で文字通り殺していたかもしれなかった。
「――安心して最後に、あなたのことを嫌いになれる」
こんな人、最初から好きになったのが間違いだったって言って最後には誰かに慰めてもらいたいからね。
ヴィンスがわたしのことを別に狭義の意味で好きとかではないんだな、というのは付き合ってみて嫌というほど思い知らされた。そもそも彼が恋愛という行為にさほど興味を持っていないであろうことは前から知っていたけれど、それでもあれだけ情熱的に口説いておいてそれはないんじゃないだろうか、白状なやつめ、と思う。
こっちの好意に甘えるだけ甘えて、なーんにもしないんだから腹立たしい。でも、わたしはほかの人に対して恋人という優越権を有しているので、なんだかもうそれだけで結構ラッキーなんじゃないか? と考えるようにしておくしかない。
ヴィンスはわたしとの関係を隠しはしないけれど大々的に宣伝するようなことはしなかった。浮かれてるカップルは嫌いなんだそうだ。これってわたしへの当てつけ?
こんなこと誰にも相談できるわけもなく、わたしは一人で図書館の前のベンチに座り、ベーグルを貪っていた。昼休みの講堂前には人が多すぎて、静かにランチをするのには向いていない。食堂も……、知り合いに会うのがなんとなく嫌で、近寄れない。
返却予定の本を持って行くついでに、湿気て薄暗いこの場所でランチをしているのだけど……、まあ、思ったよりは悪くない。トイレで食べるのに比べればだけど。
「……そんなところにいたのか。探したんだぞ」
木陰の模様を目で追っていると、ヴィンスの声がした。表の通りからはちょうど死角になる位置に座っていたのに、なんて視力がいいんだろう。
「なんの用? ノートだったら貸さないけど」
「今日の夜、暇だろ? 映画でも行こう」
近くにほかの人がいるんじゃないかと思って、わたしは思わずあたりを見回す。
「…………アピールじゃない」
「外面よくて中身最悪だもんね、ヴィンスは」
「お前も言うようになったよな……。で、行けるのか?」
「内容による」
「カップル向けのデートムービーなんて俺が見たいと思うか?」
「…………でしょうねえ」
わたしだってその手の映画は高校生の時に散々見飽きている。
あー、どうせ見るならハリウッドのド派手なアクションか、若い女が殺されるホラーでも見たいわあ~、なんて目線で訴えてみるけど、華麗にスルーされた。自己主張してまでそれが見たいかと言われたら微妙なので、別にいいんだけど。なんでもいいけど、どれがいいかと言われたらそれがいいってだけで……。
「予習……」
「え? なんかの課題のやつ?」
「…………まあ、そんなところだな」
教授に見るように言われた映画を見るなんて、ヴィンスも結構真面目なんだなあ。などとわたしは感心した。わたしがその手の課題図書とか参考文献を読むのは、よほど念を押された時くらいだ。
「まーいいよ別に。暇だし」
「じゃあ七時に迎えにいく」
「……うん。待ってるね」
――なんだ、普通のカップルぽいこともしてくれるんだ。
ヴィンスがポケットに手をつっこんだまま立ち去ったあと、顔がにやけるのを抑えきれなかった。
それがわたしをつなぎ止めておくための餌だとかサービスだったとしても、なんでもいい! ああこの後人を殺せって言われてもなんだってしてあげよう。それでバレてもわたしたちはカップルとして新聞にのって有名になるんだから、それでよしだ。
大学に入った時にいた教会が運営してる女子寮だと、門限が厳しすぎるので苦痛だった。大学に案内が貼られていた下宿に引っ越したのがつい最近のこと。ここだと誰だって連れ込んでいいし、シャワーはいつだってお湯が出るし、夜中に楽器を弾いても誰も怒らない(音楽院生が多いから多少の騒音は誰も気にしない)。
夜は冷えるからちゃんと厚手の靴下を履いて、髪を上げて……、足を綺麗に見せるために霜焼けになるなんて本末転倒だ。鏡に向かって睫毛をカールしていたところでベルが鳴った。
劇場から出ると、霧雨が少しだけ降っていた。ガソリンと煙に混じって雨のまとわりつくような匂いがすると、わたしは猛烈にどこか遠いところに逃げたくなる。
今だってそうだ。この建物から出てくるカップルはわたしたちだけで、ポルノ映画の客層とそっくりの男たちが下品な目線でわたしを眺めてくる。ヴィンスは特に何もしてくれない。
「…………」
何も言うことがない。大通りにある大きな映画館ではなく、小劇場を改造したマニア向けのミニシアターに連れていかれた時点で嫌な予感がしていたが、本当に最悪な映画だった。
不機嫌を主張する手段として沈黙を選ぶというのは子供っぽい? だとしても、罵倒するほどでもなければ怒って理性をなくすほどでもないくらいの苛立ちに対してどうしたらいいのか、わたしは語る言葉を知らない。
「…………あんなカルトな映画見たくなかった」
大学生の自主制作か何かを上映する回だったのだろう。検閲が通っていたら、まともに上映できるわけがない。
あのシーンなんか……、恐らく何かの動物の臓物を肉屋から持ってきてぶちまけたのではないだろうか。
とにかく気味が悪いシーンばかりで悪趣味で低俗で最悪だった。普段のわたしなら、そう言ってまともな人のフリをする。
「ただの映画じゃなくて、予習だって言っただろ。要は……、アレは失敗例だ」
「…………なんで、わたしにさせようとするの」
「無免許のやつが運転してる車に乗りたいと思うか? ああ、なんならお前が乗る方でやってもいいぞ」
「最っ低、よくそんなこと言えるよね」
スプラッター映画をオカズにマスをかく女だと思われたくないんだけど。
劇場に入る前に買ったコーヒーの紙コップを、手袋に包まれた手でぐしゃぐしゃに潰してしまう。ゴミ箱があればそのまま放り投げていたかもしれないけれど、税金の無駄だからという理由でそんな物は置かれていない。
「でもな、ああいう風に潰したら繊維が切れるだろ? それはよくない。やるときはちゃんと原型をとどめたまま一撃で――狩りと一緒だ。なるべく血が回らないようにしてほしい」
「前から思ってたんだけど、それって……」
続きの言葉を言いたくはなかった。彼がどういうことを望んでいるのか知らない方が幸せだろうし、そもそもわたしは彼のために殺しなんてしないで、甘い思い出だけ作ってとっとと離れてしまえばいいんだ。
今時結婚前の交際なんてなんの傷にも痛手にもならない。曾祖母の時代じゃないんだから――。
「聞かなくていいのか? 知りたいんじゃないのか?」
「いい……。どうせそのときになったら分かるでしょう」
ヴィンスはいつにもまして無表情だった。片手に何か持っていないと落ち着かない……。今日はハンドバッグは家に置いてきたから、飲み物か何かを持っていないと手がぶらぶらして居心地が悪かった。
「……いいでしょ、これくらい」
町中で磁石みたいにくっついているカップルを思い出して、わたしは彼の腕を掴んだ。料理をしている男の人は、力持ちだから見た目に反してかなり筋肉がついている。……そして、雨に濡れて少し湿っている。
こなれたふりをしながら、わたしは内心恥ずかしくて死にそうな思いでいっぱいだった。男の人と腕を組むなんて、高校生のときのダンスパーティ以来だったし、初心で慣れていない感じがすると、捨てられるのではないかと不安に駆られて張り裂けそうな気持ちになる。
遊び慣れてると思われるのも嫌だし、如何にも世間慣れしていない小娘(同い年だけど)と捉えられて、面倒だと思われるのも嫌だった。
……自分からやっておいて、早く腕を解きたい気持ちになってきた。
夜中にやけ食いを後悔するみたいに、わたしはヴィンスのことを後悔している。自分の行動にも、生きてること全てにも。
彼が抵抗らしい抵抗をせずに、されるがままにしていたのだけが唯一の救いだ。
誰が言ったのか忘れたけど、人間は元々二人で一つにくっついていたらしい。でもそれが、今では一人は一つとして分かたれてしまった。だから人間は、自分の魂の片割れを探して恋愛というやつをするらしい。セックスのことを「一つになる」とか表現するのはそこから来ているのかもしれないなんて思ったのは最近の話。
こんな風に寄り合っていても、わたしが鉄柱にまとわりつく蔦みたいで惨めだ。運命なんて存在しないとわかりきっていても、やっぱりわたしはこの人を猛烈に求めてしまう。愛なんてなくても隣のポジションをキープできていればいいなんて考えてしまう。
「大丈夫だ、俺はお前の腕に心底惚れてる」
「だったら報酬ははずんで貰わないとね」
彼は喉の奥から漏れたような声で笑った。冗談じゃない。
しばらく二人で何でもないような話をした。彼がすぐ帰ろうとしたなら、わたしは恥をかかされたと感じただろう。そうならなくてよかった。
そうしている内に雨が本降りになってきたので、ヴィンスはわたしをアパートの一階まで送り届けると、コートを頭に被って走って行った。
傘を貸してあげるなんて言えなかった。中に入って雨が止むまで紅茶でもいかが? なんてスマートに誘う手管をわたしは持っていなかった。映画ではそれで何もかも上手くいくのに。
ヴィンスの背中を見届けながら、アパートの階段を一段一段上っていく。自分を追い詰めるように、十字架を背負ったキリストであるかのように、自分を哀れんで装飾する。どこかの部屋の扉が開きっぱなしになっていて、陰気な音楽が漏れていた。ここの部屋に住んでいる人は全員自殺したがっているかもしれない。
額に汗を流し、痛みで悲鳴を上げる体にむち打って、何のためにもならない労働をしているのだから。
「…………」
風呂場の床に座り込んで、退屈そうに煙草を吹かしている黒髪の男。碌でなし、輝かしい未来を約束された天才。
そんな男のために――――わたしは必死で死体の証拠隠滅を図ろうとしていた。
「なんで手伝ってくれないの」
「俺の仕事は終わった」
「終わった、って? 食べただけじゃん」
「捌いて…………、皿に綺麗に盛り付けてやっただろ」
彼の悪趣味な料理を食べる気力はわたしにはなかった。いくら好きな人の手料理だからといって、生理的に受け付けないものを食べる義理はないだろう。ムスリムが豚肉を拒否することを誰が批判する?
「あんたの報酬は、わたしにとっては罰ゲーム」
「…………そうか」
ほらね、恋人だからってわかり合えないことはたくさんある。彼がわたしのことを愛してなんていないことはとっくの昔から承知の上だったけれど、曲がりなりにもわたしたちは友達だと思っているし、ヴィンスだって大学では普通の顔をして通っていいるんだから、社会的な道徳というものや一般常識が備わっていると思っていたんだけど……。
「わたしが手伝ってあげてるのは、バラシのところだけだからね」
「勿体ない」
「普通の料理なら喜んで食べるけど」
「……あんな物の何がいいんだか」
「煙草の味はわかるくせにね」
「これは食い物のカテゴリには入らない」
なんでこんな男が世間でもてはやされているか、わたしには理解できない。…………いや、理解できないと言いつつ惹かれているわたしの方が彼からしたら理解不能なのかもしれない。
漂白剤(血を落とすのに結構使える)で床を磨き、ここで起こってしまった惨状の後を綺麗さっぱり隠滅すべく、わたしは必死で手を動かしている。さながら家政婦のように、自分のことじゃないのに。いや、これは趣味と実益も兼ねているんだけど――。
「お前にはいつも世話になってるからな、ありがとう」
彼はわたしのそばにしゃがみ込んで、そんな風に皮肉なのか本心からなのかわからないお礼を言う。わたしはその度に腹の奥底で何かが激しく暴れているみたいな、うれしいのか虚しいのか分からないようなくすぐったい気持ちになるのだ。
そんな気持ちをごまかしたくて、わたしは彼の口に噛みつくようにキスをした。
「…………」
ロマンチックな雰囲気なんて欠片もない。ヴィンスは驚いてわたしをじっと見ている。
「するときくらい目を閉じたら?」
……自分でもよくない選択をしてしまった。馬鹿だなあ、と思う。恋人同士でいちゃついたりキスしあったりすることを禁じる法律はない。なんだったら、誰かの男じゃないかぎり、デートしたりちょっと乳繰り合ったりしてみることを咎める権利を持っている人はいない。わたしたちは一応、第三者の前ではそういうことになっているのだから、後悔なんてしなくていいし、罪悪感も持たなくていい。ただの道楽なんだから。それでも、わたしは考えずにはいられない。
わたしがこんな体質じゃなければ、こんな人間じゃなかったら、ヴィンスは一緒にいることはおろか、名前すらろくに覚えてくれなかっただろう。
「…………もういい」
自分からやり始めたことなのに、なんだか萎えてしまった。無反応・過ぎ去るのをただ待っているだけみたいなこの男を見ていると、やっぱりこの人ってゲイなんじゃないの、とかそういう感想しか浮かんでこなくなる。世間体のために付き合うとか、よく聞く話だ。普通にあり得ることじゃないの? それだったらもうなんでもいいや、わたしが付き合おうって言った後にはいって言ったこいつが悪いんだからねーというお話になる。わたしのこと別に好きじゃないんだったらそんなこと言わないでほしい。こっちだって三歳じゃないんだから、人が自分をどう見てるかなんて、わかっちゃうんだよ。
そんな目をするな。
お前がやらせてるんだろ。
せっかく彼のアパートに来ているのにやることがセックスじゃなくて一緒に殺した人間の死体処理だなんて、ウェスト夫妻じゃないんだから。わたしたちは新聞に載るようなセンセーショナルな人間じゃない。ああ、ヴィンスは…………、そうかもしれないけど。
どれだけ肉体的な接触を持ったところで、何にもなりやしないのに。わたしはセックスがしたいなーという感じで彼の部屋に行ってはこうして死体をどうにかこうにか片付けられるようにする作業に徹している。どうせセックスしたところで満たされるわけでもないのに、わたしは大学生になってもまだティーン向けの雑誌の匿名体験談を読んだ後みたいな気持ちでずっと、生きている。
ヴィンスの顔を見る度に、この人を殺せるならば、わたしはなんだってしても構わない。
「やっぱり……、次は試してみようかな」
好きな人の秘密を知っているというのは、恋人同士であるよりも気持ちいいことなんじゃないだろうか。
ヴィンスのことを好きになったきっかけというのは、実は覚えていない。素敵な人だと思った? 才能に惚れ込んでいた? どれでも――イエスと言えてしまう。抽象的な概念を言葉にするのは難しい。ただ本能的に好きだと思った。感情はストレートだ。
彼は大学の中でも特に目立っていて(いい意味で)、よほど鈍感でない限りは彼のことを知る機会はいくらでもあった。わたしはというと、よくてそういう特別な人たちの金魚の糞、おこぼれに預かろうとするけど形が伴っていなくて馬鹿にされるタイプの落ちこぼれ――みたいな感じだった。誰にも覚えられないし、同窓会の招待でも外されるような陰気な人間って言ってもいいかもしれない。
わたしは目立つことが嫌いだ。大学に入ったけど、やることもやりたいこともなくて、それでも何かしらの刺激を求めてキラキラしている人たちの周りでごちゃごちゃと動いていた。誘蛾灯にたかる虫みたいに。
だから、ヴィンスがわたしのことを知っていると分かったときはひどく驚いた。ヴィンスは目立ってはいたけど馬鹿騒ぎやら社交界じみたやりとりなんかには興味がなくて、内向的な人だということはなんとなくわかっていた。
それでもパーティ会場で壁にもたれていたわたしに横にそっと張り付いてきた時は、心臓をもがれるんじゃないかとビビってしまったくらいだ。
「何もそんなに……、大丈夫か?」
「…………!」
宇宙人を生で見ちゃったくらいに驚いてごめん、とかそういうつまらないボケをしなくてよかった。
「急に……そんなとこにいるなんて、気配が……ごめ……」
いたずらがバレた子供みたいにビクビクしていたわたしは、何がなんだかわからなくてパニックになっていたんだと思う。
片手にシャンパンを持ったヴィンスは、めっちゃ引いてた気がする。
あーあ、わたしって人生のチャンスをぶち壊す天才だ。
気になってた人とのはじめてのまともな会話がこれなんだから。(それでも結局ヴィンスと付き合えるようになったんだから、逆にラッキー? もしくは、すごくアンラッキー……?)
とんでもないことをしてしまった! と冷静になったわたしは、逆に顔から感情というものが一切消えて、ロボトミー手術でも受けた後みたいに澄ました顔をしていたと思う。それもなんだか不気味だけど、一回感情をリセットするみたいに、切り替えの早さだけは誰にも負けない。
「…………ごめん、お化けでも見たみたいになって」
「ああ……。あっちがうるさいからここで冷たい飲み物でも、と思って。邪魔だったら、悪い」
「じゃあ休憩終わったら、あっちに戻る感じ?」
「いや……あんなの、俺がいてもいなくても一緒だろ」
ヴィンスはそう言いながら、大して美味しくもない酒に口をつけた。
じっと見ていたら失礼かな、と思ってわたしはちょっとだけ目をそらす。
「ヴィンセントがいなかったら、多分みんな探すんじゃないかな」
「……いや、それはない。あいつら全員業界人に尻尾を振るので忙しい」
「へぇ……」
「そっちこそ、向こうに行かなくていいのか」
「…………わたしは、別に、いい」
興味がないわけではなかった。こういう慈善パーティには出資者の金持ちが結構来るし、ドラマの中のゴシップみたいなものは、勝手に見ている分には面白いだろうな、と思う。
でも、その中に入っていってうわべだけの会話をする体力はわたしにはなかった。垢抜けないデザインの――姉のお下がりのドレスを着て、ストッキングを履いているせいで、何もしていないのにぐったりと疲れていた。
「珍しいな、そういうやつ」
「だからこんなとこで一人でいるんだよ」
「じゃあ……、俺も壁の花になる」
とうとう彼は、わたしの横で本格的に壁に体を預けた。
本当は、あの大勢の人だかりの中心にいるはずなのに、なんの因果か、人気者をわたし一人で独占してしまっている。ただ隣にいるだけなのに独占というのはおかしいかもしれないけど、でも、状況を説明するならそうとしか言い様がない。
シャンデリアに照らされて、向こう側はオペラの中に出てくる舞踏会みたいにきらめいていた。さっきまで彼がその中にいて、彼の才能に惚れ込んだ大人と大学生たちに囲まれていたのだと思うと、なんだか不思議だ。彼の笑顔は素敵だけど、暗いところにいて仏頂面でいる方が自然であるような気が、しないでもない……。多分、こっちの方が自然の彼なのかも、と勝手に妄想してみたり。
「なんだか……、必死すぎて馬鹿みたいだよな」
「ええっ?」
何、急に――。
わたしがまたしても驚いて馬鹿みたいな声を上げると、ヴィンスはさっきまで細めていた目を大きく見開いた。
「そっちこそ。くだらないパーティーなんてご免だって顔してたくせに。今更なにいい子ぶってるんだ?」
「だ、だって……。そういうこと言ってるところ見たことなかったし……、わたしにそういうこと話していいの?」
「この空間にいて、まともなのは俺とお前だけだ」
ヴィンスはしきりにズボンのポケットをまさぐりだした。わたしはその仕草に、見覚えがある。
「ここ禁煙だよ」
「わかってる」
「まだしばらく終わらないでしょ、これ」
「もう出るぞこんなとこ」
「えぇー」
なんだか急に、賭場にいる中年男みたいになったヴィンスを見て、わたしは度肝を抜かれた。えー、そういう感じなんだ……、って。
言われたい台詞ナンバーワンくらいのことをサラっと言われたけど、こういうところって勝手に抜けて帰ってもいいのかわからないし……で、わたしはもじもじしながらきょろきょろと辺りを見回した。パーティーを途中で抜ける時の作法なんてわたし知らないし。こういうときって、誰かに挨拶しないと駄目なんじゃないだろうか、とか。
「こんだけ多いんだから、二人消えても誰もわからない。この調子ならどうせ夜中までこのままだ。それまでずっと壁にもたれて立ってるつもりか?」
イライラしだしたヴィンスを見ていると、なんだか全部わたしが悪いような気持ちになってくる。そういう男の人って辞めた方がいいってママが言ってた……。
でも、わたしもこんなところ早く抜けちゃって家に帰りたいな、という気持ちがないわけでもない。悲しいかな、ヴィンスが外に出ようともちかけてきているのは、わたしが気になった女だからじゃなくて、ただ単にヤニ切れでイライラしてるせいっていうのが、嫌なんだけど……。
「それって一人じゃ駄目なわけ」
「…………………………別に、お前がいなくても出るけど」
「……じゃあ、行く。でもその前にトイレ行ってくる」
高校の時のパーティとは違って個室でセックスしてるカップルはいなかった。だから余計に、こんなことで浮き足だってる自分が馬鹿に思えてきた。今までのルールとかが全部ぶっ壊されて、急に大人の領域に入ってしまったみたいな気分だ。
ホテルのトイレってなんでこんなにひんやりしていて静かなんだろう……。
「…………」
わたしがトイレから戻ってくると、ヴィンスは柱の陰に隠れるようにして立っていた。モデルみたいに足がすらっとしていて、スーツがよく似合っている。……こんなこと、もっと早くに気がついておけばよかった。
ヴィンスはお酒を飲んでいたし、わたしはここまで徒歩で来たので、仕方なく駅までの道をだらだらと連れ立って歩くことにした。外はもう真っ暗で、街灯の明かりがないと何がなんだかわからなかっただろう。幸いなことに人通りはそれなりにあった。腐っても街のホテルだから、近くに店やら民家やらがそれなりに点在している。開いている店は飲み屋くらいだけど。
「…………吸うか?」
「喫煙の習慣はないんだよね」
「ふん……」
ヴィンスは自分のコートからライターを取り出すと、さっさと煙草に火をつけてしまった。……わたしは彼が喫煙車であることすら知らなかった。仲間の集まりの前で吸ってるところは見たことがなかったし。
手持ち無沙汰になって仕方ないので、わたしも一本貰っておけばよかったと思った。でも、慣れないことをするとろくなことがないから、ダサいところを見られないように何もしないのが一番いいことだったかもしれない。
森林浴にでも来たみたいな顔で煙草を吸う姿が、なんだかこっけいでおかしかった。
「ジョイントやるみたいな格好でやらないでよ」
このまま彼と歩いていたら、いずれ職質されてしまいそうだ。
「…………あんなのやる馬鹿と一緒にするなよ」
「遠くから見たら一緒に見えるけど」
「こんなところだとハッパやってても誰も捕まえやしないと思うがな。警察もそこまで……暇じゃないだろ」
――確かに、言わんとしていることはわからなくもない。ここ最近のフランス警察の仕事は杜撰であると形容するのがふさわしい。
「時代の過渡期なのかなぁ」
「なんだよそれ」
「そういう時期なんだよ。戦後生まれって何かと無茶したがるってよく言われるでしょ」
「フランス人は昔から血気盛んだからな」
「そういうのってイギリス人のジョークみたい」
今時の若い人はって言葉って大昔から何度も何度も言われてるんだって本に書いてあった。わたしたちもおばさんおじさんになれば、大学生の行動に一々ケチをつけるようになるの?
「どこでも犯罪ばっかだろ、うちの大学でも一人……殺されたらしいし」
「移民のせいだって言ってる人もいるけど、アレは嘘でしょ。つい最近までドイツ人ばっかりだったから、なんでも文句を言いたいんだよ」
「じゃあ何か、全部の犯罪はフランス人がやってるって?」
「そりゃあ、パリにいるのは八割がたフランス人だから、単純に言えば大体の犯罪は自分とこの国民がやってることでしょ。そういう低俗なプロパガンダって戦時中みたい。まあ警察も……、言葉が通じない相手のせいにしておけば無能が露見しないですむから楽なんだろうけどさ」
「……………………今横にいる相手が信用に足ると思うか?」
「…………はぁ?」
ヴィンスはいきなり立ち止まり、わたしの目をまっすぐに見つめてそう言った。いきなりを何言ってるんだろう、この人は…………。と呑気している余裕は許されなかった。
「夜道でそんなジョークは辞めてもらえるかな。本気で怖いんだけど……」
「なんでそんなに怖がるんだ」
「だって……、ヴィンスの顔がマジだし……。それに今は夜だし……。わたしホラーって苦手なんだ……。だから…………、さぁ…………」
ホラー映画のシーンみたい、とまでは言えなかった。ヴィンスは顔立ちが陰気で長髪なので、二十年代の映画の怪人みたいにも見える。
別に今ここで殺される! とか襲ってきそうとか、そんな風には思えないけど、どことなく必死さが凄まじくて、何かするそぶりを見せたら走って逃げようと身構えてしまうくらいには怖かった。
「なんでお前が怖がるんだよ」
「はぁ⁉ 男の人に意味深なジョークを言われたら怖いんだよ女は誰だって!」
あーもう、やだ。ヴィンスってガキ大将みたいに馬鹿なこと言ってからかうのが好きな人だったんだ! ぜんっぜんそうには見えないけど。ていうか、この感じを見抜くのって結構難しくない?
まるでわたしが悪いみたいに見てくるのも、嫌だし……。なんだかこっちが場の空気を壊した人みたいじゃん。失礼なのはそっちなんですけど。
「あ、あぁ? …………なんでだ? なんでそんな顔するんだよ」
「意味わかんない、キモい、ありえない!」
「ちがっ…………! しらばっくれても無駄なんだ。こっちはちゃんと証拠だってあるんだからな」
「なにー、もう! 刑事じゃないんだからそんなこと言うのやめてよっ! わたしもうついていけないんだけど、帰る!」
走って駅まで行こうとしたわたしの腕を、ヴィンスは強引に引っ張った。
「うっ!」
ああ、ここで強姦されるんだ――。最悪の未来を予見してしまう。男の人に乱暴な扱いを受けたのって、あの時以来だ――。ずっと最悪な記憶も一緒にフラッシュバックさせていると、ヴィンスは強引にわたしの体を自分の方へと向けさせた。
「これ、お前だろ……!」
目の前に突きつけられた写真を見て、わたしは――――動きを止めた。
「ああ、やっぱり。あってたんだ。この背格好、この服装、やっぱり……お前そっくりだ」
「…………………………も、もうやだ。や、やめてよそれ……、しまってよ!」
興奮したヴィンスはそれをぐいぐいとわたしの目の前にもってきて、早口で何かをまくし立てる。いやだ。聞きたくないのに……。なんで今、こんな時に……。
「それわたしじゃないわたしじゃないってば! なんでそんなの持ってるの⁉ きもちわるいきもちわるいやだやだやだやだ。ちがうんだってもうやめてよ嘘なんだよ全部全部ちがうんだもん、わたしじゃないよ違うっ! これわたしじゃない!」
気がつくと、わたしは五歳児みたいな声で叫んでいた。
――ここに誰もいなくてよかった。狂乱するわたしとは別に、脳の隅っこに少しだけ残った理性の断片で考える。
「…………ああ、当たりか」
「なになになになに人のことアイスキャンディーの棒みたいにいって気持ち悪いキモい終わってるあんたなんか嫌い消えてもうやだあおまわりさあああん! この人っ! 捕まえてぇっ!」
暴れてヴィンスの体を遠慮することなくボコボコと殴ったけど、やっぱり料理人なんてやろうとしてる男の人は体格も力も違って、ほっそりとした見た目とは裏腹に、わたしはあっさりと押さえつけられてしまった……。
「うっ…………ううっ…………っ…………ぐうっ…………」
「結構……、力強いんだな」
チョークスリーパーみたいに羽交い締めされてると、なんだか自分が情けなくなって本当の赤ちゃんみたいにわんわんと泣き出したくなってきた。でも、あんなに叫んで泣くことなんてできなかったので、嗚咽交じりの汚い泣き声を上げて、彼の腕の中でみっともなく涙を流す。ずっとヴィンスとはロマンチックな関係になりたいなと思ってたし、期待していたけど、こういうことじゃない! 絵面が格闘技だし、わたしは一番誰にも見られたくないものを、よりにもよって好きな男の人に見られていたんだ。屈辱と情けなさで頭がどうにかしそうだ。
わたしが顔を真っ赤にして泣いていると、ヴィンスの呆れたような、それでいてうれしそうな声が耳元で聞こえてくる。
「やっぱり……、お前がやったんだろ、これ」
片手でうまいことわたしを押さえつけながら、ヴィンスはわたしの目の前に写真を一枚見せつけてきた。モノクロの、焼き増しみたいな写真……。ピントのぼやけたそれに写っているのは、間違いなく、わたしで――。
「だ、だってぇ……。そうでもしないと、わたし……」
「大丈夫だ、俺はチクったりはしない。正当防衛だっていうのもわかってる」
幼稚園の先生みたいな優しい口調だった。わたしは馬鹿なので、そういうのに騙される。好きな人にそんな風に言われてしまったので、泣きながらうんうんと頷くしかなかった。……本当に、馬鹿だ。
「俺は、ファンなんだ。わかるか? あんなでっかいのを殺せるのはほかにはいない。才能なんだよ、殺しの才能に、惚れたんだ」
「…………そんなに褒められても、何もうれしくないんだけど」
ヴィンスの首からは、彼が吸っているのと同じ煙草のにおいがする。この匂いを知ってるのはわたしだけ? それともほかに……、相手とか、いるんだろうか。
「殺し方だけじゃなくて後始末も……、ほら、わかってるだろ? だからまだ逮捕されてないんだもんな」
「子供の時の事件が時効になるかまではわかんないよ」
あの時は、やっても少年院で済むだろうという計算があって、やったんだ。だから今とは違うし、今は誰も殺す気なんてないんだよ。そんなことを、言いたかった。ヴィンスはシリアルキラーのファンみたいな口調で、わたしを褒めた。わたしは別に切り裂きジャックでもなんでもない。たった一回の過ちだ。連続殺人犯とかサイコパスとか、そんなんじゃないのに……。
聞きたいことは山ほどあったけど、彼が普段からは全く想像がつかない様子で喋り倒しているのを見ていると、口を挟むのはとんでもなく無粋な気がしてくる。
でも、聞かなくちゃいけない。
彼の行動一つで、最悪わたしの首が飛ぶ。とんでもない弱味を握られているのだ。屈辱的な話だが現状として、わたしの方が弱い立場におかれていることは事実だ。
「な、んで…………そんなこと聞くの。っていうか、どこで知ったの……、そんなこと……」
――誰かに喋ったこともない大昔の、ここではないわたしの地元でのことだ。それを大学からの知り合いであるヴィンスが知っているということがそもそも奇妙で、気味が悪かった。
「わたしを……、どうしたいわけ……」
やましい過去を持ちだして揺すってくるのなんて、言いたくはないけれど大体が下世話な内容に決まっている。
初手で動揺を見せてしまったので、ここからはなるべく落ち着いて対処しなくてはならない――。物的証拠といっても、子供のころのわたしの写真一枚しかないのだとしたら、それをもみ消すのに途方もない苦労がある……というのはあまりあり得ない話だろう。
「…………人を殺すのは好きか?」
「………………は…………?」
というかそもそも、答えになっていない。
ヴィンスはわたしの顔の横でも構わずライターに火をつけた。ちょっとでも顔がずれたら火傷しそうな距離なのにもかかわらず、お構いなしだ。
「人殺しが好きかって、そんな……好きなんて言うわけないじゃん」
人として当たり前の答えを、返した。肯定も否定も存在しない。はいと言ってもいいえと答えても、今みたいに彼は馬鹿にしたように鼻で笑うだろう。
「…………」
「じゃあ、質問を変える。…………俺のそばにいるために人を殺せるか?」
「………………っ…………!」
馬鹿にされてるんじゃないかと思った。
しばらくしたら、ほんのジョークだと言って解放してくれるとか、そんな風に思っていた。
――残念なことに、わたしの予想が当たったことはない。
「人は何かを得るためには相応の対価を支払うだろ? 今回の場合、従っておいた方が退屈しないと思うが……」
ああ、完全に下に見られてる。
情けないやら悔しいやらといった感情と一緒に、全て見透かされている安心感のようなものに全身包まれている気分だ。
…………わたしって、本当に男を見る目がないんだなあ。これだと、お母さんの予言した通りわたしはクズみたいな男としか結婚できないんだ……。…………いや、ヴィンスが結婚なんて考えてくれるような人間だろうか? 将来性はあるけど、その横に誰か女がいるヴィジョンを、わたしは全く想像できなかった。(というかそもそもわたしたちは付き合ってすらない)
「わたしって、ロマンスのために犯罪者になるタイプだと思う? 動機が色恋とか、週刊誌じゃないんだから……」
早口で言いながらも、わたしは結局この人のためになんだってしてしまうんじゃないかという予感がしていた。印象派の画家が描いたヒモを飼っている娼婦の女の絵を思い出した。昔解説を聞いて笑って見ていたその人に、今なろうとしている。しかも、犯罪だって厭わないんだからわたしって、娼婦以下だ……。
「いいだろ別に……体面を気にするタイプならこんなことされたら……、普通は怒って突き飛ばすなりしてるはずだからな」
自分のことを嫌いになりながら、思ってもいなかった言葉に絶望しながらも、わたしは自分の興奮を抑えることができなかった。
ヴィンスの体に触れていると、脳が馬鹿になっていく気がする。わたしの頭に詰まっているのは、脳みそじゃなくてほうれん草のジェリーなんじゃないかって、そんな気分になってくる。マザーグースの詩に出てくるように、砂糖でたっぷりの馬鹿げた体をしているのかもしれない。触れられた先から暑さで溶けていきそうだ。
ああ別に、男に触ったことがないわけじゃない。今時そんなの尼さんくらいじゃないの? 今すぐここでファックされても構わないと思う。これは比喩だ。今すぐここでセックスなんておっぱじめられたら、普通に困る。なんで? って感じだし。
なんでこんなにぞっこんになっているのか、自分でも上手く説明ができない。でも、わたしの体というか脳みそはすでに、この人のためなら殺しだってやっても構わないかもしれないなんて、そういう信号を送り出してわたしを馬鹿にしようとしている。というかもう、なりかけている。
「ヴィンス……。なんでわたしに人を殺してほしいの?」
「ああ、別に俺一人でやったって構わないんだが……。やっぱり、バラすのが上手いやつと組んでみたかった」
「うん、わたし……、それだけは自信があるけど……」
だからってやってあげるなんてわたしは一言も言ってない。彼の中ではわたしは好きに動いてくれる人形にすぎなくて――つまりは――都合のいい女でしかないんだな、と思う。全ては彼の確定した決断でしか動けないし、わたしに拒否権がないのだということは、まともに動かない頭でもなんとなく理解できた。
誰を殺したいの? とは聞かなかった。そういう感じじゃないと思った。誰かを恨んだり、絶望のために人を殺すなら彼はもうとっくにやっているだろう。
わたしが聞きたかったのは、バラした後どうするかというところだ。それと、誰を殺したいのか、というところだ。これが一番大事なポイントだ。場合によっては、わたしはこの人を警察に突き出してもよかった。
「…………ヴィンスはわたしのこと別に好きとかじゃないでしょ。誰でもよかったんじゃないの」
ヴィンスは重要なところをはぐらかす癖があるのかもしれない。けれど、今回だけは違った。
伏し目がちな瞼がそっと持ち上げられて、長い睫毛に縁取られた白目の部分に炎の明かりが反射していた。
その一瞬だけの光が轟くように瞬くと、低い声で彼はこう言った。
「ああ、別に」
「…………じゃあ、よかった」
ここで嘘でも愛してるとかそんなわかりやすい嘘をつかれたなら、本当にこの場で文字通り殺していたかもしれなかった。
「――安心して最後に、あなたのことを嫌いになれる」
こんな人、最初から好きになったのが間違いだったって言って最後には誰かに慰めてもらいたいからね。
ヴィンスがわたしのことを別に狭義の意味で好きとかではないんだな、というのは付き合ってみて嫌というほど思い知らされた。そもそも彼が恋愛という行為にさほど興味を持っていないであろうことは前から知っていたけれど、それでもあれだけ情熱的に口説いておいてそれはないんじゃないだろうか、白状なやつめ、と思う。
こっちの好意に甘えるだけ甘えて、なーんにもしないんだから腹立たしい。でも、わたしはほかの人に対して恋人という優越権を有しているので、なんだかもうそれだけで結構ラッキーなんじゃないか? と考えるようにしておくしかない。
ヴィンスはわたしとの関係を隠しはしないけれど大々的に宣伝するようなことはしなかった。浮かれてるカップルは嫌いなんだそうだ。これってわたしへの当てつけ?
こんなこと誰にも相談できるわけもなく、わたしは一人で図書館の前のベンチに座り、ベーグルを貪っていた。昼休みの講堂前には人が多すぎて、静かにランチをするのには向いていない。食堂も……、知り合いに会うのがなんとなく嫌で、近寄れない。
返却予定の本を持って行くついでに、湿気て薄暗いこの場所でランチをしているのだけど……、まあ、思ったよりは悪くない。トイレで食べるのに比べればだけど。
「……そんなところにいたのか。探したんだぞ」
木陰の模様を目で追っていると、ヴィンスの声がした。表の通りからはちょうど死角になる位置に座っていたのに、なんて視力がいいんだろう。
「なんの用? ノートだったら貸さないけど」
「今日の夜、暇だろ? 映画でも行こう」
近くにほかの人がいるんじゃないかと思って、わたしは思わずあたりを見回す。
「…………アピールじゃない」
「外面よくて中身最悪だもんね、ヴィンスは」
「お前も言うようになったよな……。で、行けるのか?」
「内容による」
「カップル向けのデートムービーなんて俺が見たいと思うか?」
「…………でしょうねえ」
わたしだってその手の映画は高校生の時に散々見飽きている。
あー、どうせ見るならハリウッドのド派手なアクションか、若い女が殺されるホラーでも見たいわあ~、なんて目線で訴えてみるけど、華麗にスルーされた。自己主張してまでそれが見たいかと言われたら微妙なので、別にいいんだけど。なんでもいいけど、どれがいいかと言われたらそれがいいってだけで……。
「予習……」
「え? なんかの課題のやつ?」
「…………まあ、そんなところだな」
教授に見るように言われた映画を見るなんて、ヴィンスも結構真面目なんだなあ。などとわたしは感心した。わたしがその手の課題図書とか参考文献を読むのは、よほど念を押された時くらいだ。
「まーいいよ別に。暇だし」
「じゃあ七時に迎えにいく」
「……うん。待ってるね」
――なんだ、普通のカップルぽいこともしてくれるんだ。
ヴィンスがポケットに手をつっこんだまま立ち去ったあと、顔がにやけるのを抑えきれなかった。
それがわたしをつなぎ止めておくための餌だとかサービスだったとしても、なんでもいい! ああこの後人を殺せって言われてもなんだってしてあげよう。それでバレてもわたしたちはカップルとして新聞にのって有名になるんだから、それでよしだ。
大学に入った時にいた教会が運営してる女子寮だと、門限が厳しすぎるので苦痛だった。大学に案内が貼られていた下宿に引っ越したのがつい最近のこと。ここだと誰だって連れ込んでいいし、シャワーはいつだってお湯が出るし、夜中に楽器を弾いても誰も怒らない(音楽院生が多いから多少の騒音は誰も気にしない)。
夜は冷えるからちゃんと厚手の靴下を履いて、髪を上げて……、足を綺麗に見せるために霜焼けになるなんて本末転倒だ。鏡に向かって睫毛をカールしていたところでベルが鳴った。
劇場から出ると、霧雨が少しだけ降っていた。ガソリンと煙に混じって雨のまとわりつくような匂いがすると、わたしは猛烈にどこか遠いところに逃げたくなる。
今だってそうだ。この建物から出てくるカップルはわたしたちだけで、ポルノ映画の客層とそっくりの男たちが下品な目線でわたしを眺めてくる。ヴィンスは特に何もしてくれない。
「…………」
何も言うことがない。大通りにある大きな映画館ではなく、小劇場を改造したマニア向けのミニシアターに連れていかれた時点で嫌な予感がしていたが、本当に最悪な映画だった。
不機嫌を主張する手段として沈黙を選ぶというのは子供っぽい? だとしても、罵倒するほどでもなければ怒って理性をなくすほどでもないくらいの苛立ちに対してどうしたらいいのか、わたしは語る言葉を知らない。
「…………あんなカルトな映画見たくなかった」
大学生の自主制作か何かを上映する回だったのだろう。検閲が通っていたら、まともに上映できるわけがない。
あのシーンなんか……、恐らく何かの動物の臓物を肉屋から持ってきてぶちまけたのではないだろうか。
とにかく気味が悪いシーンばかりで悪趣味で低俗で最悪だった。普段のわたしなら、そう言ってまともな人のフリをする。
「ただの映画じゃなくて、予習だって言っただろ。要は……、アレは失敗例だ」
「…………なんで、わたしにさせようとするの」
「無免許のやつが運転してる車に乗りたいと思うか? ああ、なんならお前が乗る方でやってもいいぞ」
「最っ低、よくそんなこと言えるよね」
スプラッター映画をオカズにマスをかく女だと思われたくないんだけど。
劇場に入る前に買ったコーヒーの紙コップを、手袋に包まれた手でぐしゃぐしゃに潰してしまう。ゴミ箱があればそのまま放り投げていたかもしれないけれど、税金の無駄だからという理由でそんな物は置かれていない。
「でもな、ああいう風に潰したら繊維が切れるだろ? それはよくない。やるときはちゃんと原型をとどめたまま一撃で――狩りと一緒だ。なるべく血が回らないようにしてほしい」
「前から思ってたんだけど、それって……」
続きの言葉を言いたくはなかった。彼がどういうことを望んでいるのか知らない方が幸せだろうし、そもそもわたしは彼のために殺しなんてしないで、甘い思い出だけ作ってとっとと離れてしまえばいいんだ。
今時結婚前の交際なんてなんの傷にも痛手にもならない。曾祖母の時代じゃないんだから――。
「聞かなくていいのか? 知りたいんじゃないのか?」
「いい……。どうせそのときになったら分かるでしょう」
ヴィンスはいつにもまして無表情だった。片手に何か持っていないと落ち着かない……。今日はハンドバッグは家に置いてきたから、飲み物か何かを持っていないと手がぶらぶらして居心地が悪かった。
「……いいでしょ、これくらい」
町中で磁石みたいにくっついているカップルを思い出して、わたしは彼の腕を掴んだ。料理をしている男の人は、力持ちだから見た目に反してかなり筋肉がついている。……そして、雨に濡れて少し湿っている。
こなれたふりをしながら、わたしは内心恥ずかしくて死にそうな思いでいっぱいだった。男の人と腕を組むなんて、高校生のときのダンスパーティ以来だったし、初心で慣れていない感じがすると、捨てられるのではないかと不安に駆られて張り裂けそうな気持ちになる。
遊び慣れてると思われるのも嫌だし、如何にも世間慣れしていない小娘(同い年だけど)と捉えられて、面倒だと思われるのも嫌だった。
……自分からやっておいて、早く腕を解きたい気持ちになってきた。
夜中にやけ食いを後悔するみたいに、わたしはヴィンスのことを後悔している。自分の行動にも、生きてること全てにも。
彼が抵抗らしい抵抗をせずに、されるがままにしていたのだけが唯一の救いだ。
誰が言ったのか忘れたけど、人間は元々二人で一つにくっついていたらしい。でもそれが、今では一人は一つとして分かたれてしまった。だから人間は、自分の魂の片割れを探して恋愛というやつをするらしい。セックスのことを「一つになる」とか表現するのはそこから来ているのかもしれないなんて思ったのは最近の話。
こんな風に寄り合っていても、わたしが鉄柱にまとわりつく蔦みたいで惨めだ。運命なんて存在しないとわかりきっていても、やっぱりわたしはこの人を猛烈に求めてしまう。愛なんてなくても隣のポジションをキープできていればいいなんて考えてしまう。
「大丈夫だ、俺はお前の腕に心底惚れてる」
「だったら報酬ははずんで貰わないとね」
彼は喉の奥から漏れたような声で笑った。冗談じゃない。
しばらく二人で何でもないような話をした。彼がすぐ帰ろうとしたなら、わたしは恥をかかされたと感じただろう。そうならなくてよかった。
そうしている内に雨が本降りになってきたので、ヴィンスはわたしをアパートの一階まで送り届けると、コートを頭に被って走って行った。
傘を貸してあげるなんて言えなかった。中に入って雨が止むまで紅茶でもいかが? なんてスマートに誘う手管をわたしは持っていなかった。映画ではそれで何もかも上手くいくのに。
ヴィンスの背中を見届けながら、アパートの階段を一段一段上っていく。自分を追い詰めるように、十字架を背負ったキリストであるかのように、自分を哀れんで装飾する。どこかの部屋の扉が開きっぱなしになっていて、陰気な音楽が漏れていた。ここの部屋に住んでいる人は全員自殺したがっているかもしれない。
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