未設定の場合は「ミョウジ ナマエ」表記になります
単発SS
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
しんと静まり返った家には、誰もいないようだった。扉を開けた後、あまりにも以前の様子と変わっていたので、まるで他の家族の家にお邪魔するような気持ちになった。
もしかして、本当に「そう」だったらどうしよう。
本当に怖くて、でも確かめないといけない。
玄関に靴がなかった。
けれど、窓枠の溝には埃一つなく、床にはチリひとつ落ちていなかった。
人が住んでいる気配らしいものがない。ああ、昔はこうだったろうか。この家に、顔を出したのはいつだっただろう。思い出そうとすると、余計に居心地が悪かった。
よし、きっとここには誰かがいる。そして、あの子がいないとなると、それは泥棒か何かだ。
あ、自分で言っていて怖くなってきた。刀もあるのに、情けないなぁ、俺。鬼も殺したのに、弱音ばかり言っちゃうのは変わらないよ。
「た、ただいま!」
思い切って、家の奥まで聞こえるように言ってみる。
「……」
返事はなく、部屋は静かなままだ。もしかして、本当にここには誰にも住んでいないーー?
も、もう嫌だ。嫌な想像をしてしまう。鬼に殺されたとか? いや、ありえない。ついこの前、文が返ってきたし、鬼も何もいなくなってしまったじゃないか……
そうだ、今はたまたま留守にしているだけなのだ。
俺はこのままあの子の帰りを待つことにした。
四人でいたときは狭く感じたこの家も、たった一人になるとこれだけ狭く感じるものなのか。
あ、ここの壁、喧嘩して蹴った跡がある。まだ残ってたのか。
そこの障子は破いて張り替えたんだったかな。
思い出せば思い出すほど、悲しくなる。
でも、きっとあの子は一人で、もっと寂しいはずだ。
少し感傷的なんじゃないか、俺。
あぐらをかいて畳の上に座り、縁側の仕切りを開けた。外は夕暮れ、そろそろ日が沈む。もう、大丈夫なはずなのに帰りが遅いと心配になる。
今日、行くって連絡したはずだったのにな。
いっそのこと俺から探しに行こうか。そう考えて立ち上がった瞬間、裏口の扉が開く音がした。
「ナマエちゃん! お、おかえり!」
「善逸さん……!? あ、あれ、今日って帰ってくる日だったかな? あれ、あれ?」
裏口は台所とつながっている。全力で走って駆け込むと、山菜やら果物が入ったカゴを持ったナマエちゃんが立っていた。
しかも、まるで幽霊でも見たかのように驚いた顔だったので、俺の方が騒がしく喚いてしまう。
「連絡したよぉ! 俺、今日だって書いたじゃん! 今月の第三木曜に帰るっていったじゃん!」
「あら、そうだったかなぁ。ごめんね、私間抜けだから読み間違えたのかもね」
日付が合ってるか手紙見てこようかな、と部屋に戻ろうとするナマエちゃんを俺は押し留めた。
「もう、そんなことはいいよ! それよりさぁ、俺帰ってきたよ! ちゃんと!」
「んー、褒めて欲しいのかな? でもごめんね、お夕飯の用意しなくちゃ。早いうちにちゃっちゃとやっちゃいたいの。お話ならお夕飯食べながらでもいいでしょう?」
「それなら俺も手伝うよ! なんでもやるよ! 何すればいい!?」
「じゃあ、火を起こして、お湯を沸かしてね。それからーー」
昔からそうだけど、ナマエちゃんは、家事なんかの家のことになると途端にちゃきちゃき動き出す。
家の番人っていうのかな。とにかく、この家を切り盛りするときは普段のおっとりした様子からは考えられないくらい機敏に動く。
こういう人をお嫁さんにしたら、安心して家を任せられそうだけど、ちょっと手綱を握られているようで、怖いなぁとも思ってしまう。
まるで職人のように綺麗な手捌きで、ナマエちゃんはあっという間にお夕飯を作ってしまった。
俺は横で野菜の皮をかたしたり、洗い物をしているだけだったから、きっと手伝いといっても表面を攫って遊んでいたようなものだろう。
「あっちゃあ、一人分だけでいいと思ってたから、お米一合しか炊いてないよ。ごめんね、私のぶん、食べていいよ」
久しぶりに、俺のお椀で食べるご飯は美味しかった。「善逸さんは自分よりも食べるようだから」そういって、俺のお椀に自分の米を全部移してしまおうとするナマエちゃんを、俺は丁寧に断った。
「いや、そんなにいらないよ。本当に、大丈夫だから」
「え、不味かった?」
「そういうのじゃなくてさぁ……俺、女の子の分から取っちゃうほど飢えてもないってこと!」
むしろ、ナマエちゃんの方が栄養をとるべきだ。前よりも、すっかり痩せてしまって、少し押したら倒れそうだった。
「本当、誰かと喋りながら食べるのって久しぶり」
その言葉に、胸がずしんと重くなる。
前は四人で食べていた。獪岳がいなくなって、俺がいなくなって、じいちゃんもいなくなって、ナマエちゃんはこんな大きな居間で、たった一人で毎日ご飯を食べていたんだ。
……俺が戻ったところで、以前のような賑やかな食卓は返ってこない。悲しいけれど、俺もずっとここにいられるわけではないのだ。
だから、お節介だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「……ねぇ、ナマエちゃんよかったらなんだけど、街の方で住んでみない? 何も、ずっと山奥でこの家を守っている必要はないと思うんだよね。もちろん、一生帰ってこないってわけじゃなくてさ、たまにここに戻ってきてさ、そう、ほら、別荘! そんな感じ! 俺、色々行ったことがあるからわかるんだけど、街の方が便利だよ……! ここだって大事だけど、俺たち、そろそろ自分の人生を生きなきゃ……」
「自分の人生?」
ピタリ、とナマエちゃんの動きが止まった。
少し言い過ぎたかもしれない。普段はゆっくりとした動作で、まったりと喋る彼女の声が、氷のように冷たく、硬くなった。
「街に出て、どうなるの? 善逸さんはお館様たちからお金をもらっているからいいかもしれないけれど、私には何もない。教養も学もない女は街で働けない。それに、誰かと添い遂げる心算もない。私は、ここにいるしかないの。少し考えたらわかるのに、なんで、そんなことをいうの?」
「ご、ごめん……俺が考え足らずだったよ。お金については……ごめん、俺が払えばいいとか考えちゃってました」
「……気持ちはありがたいよ。でも、元とはいえ弟弟子にたかりたくはないし、私はここが居心地いいの。食べ物もあるし、猟師さんや近所の皆さんにはよくしてもらっている。不自由はないの。だから、心配しないで」
まるでさっきの空気は嘘だったかのように、ナマエちゃんの雰囲気が和らいだ。
元、とはいえ彼女も雷の呼吸を体得するために研鑽を重ねていた剣士だ。普段の柔らかい雰囲気以外にも、鋭く、突き刺すような空気を纏うこともある。
つくづく、可愛いけれど恐ろしいと思う。綺麗だけど、触れてはいけないように思う。彼女はそういう人だ。昔から、舐めてかかったら痛い目を見ることになる。
「それに、私寂しくないよ。だって、私守るものがあるからね」
この家のことだろうか。今にも倒れそうな背筋をしゃんと伸ばして、虚勢を張る彼女は痛ましいが、どこか真に迫った顔だったので、俺は頷くしかなかった。
広い家に、爺ちゃんは弟子たちのための個室を作った。奥から順番に、弟子入りした順に。奥から兄貴、ナマエちゃん、俺だから、俺が一番末の弟子、ということになる。俺と兄貴はそんなに長く一緒にいたわけではないが、ナマエちゃんと兄貴はそれなりに長い間一緒の屋根の下で共同生活していたということになる。全く、羨ましい限りだ。
しかし、ナマエちゃんと俺が初めて会ったとき、彼女は剣を持っていなかった。振るうこともなかった。大事に袋にしまって、絹の紐で蝶々結びがされていた。
どうしてあの子は修行をしないのに、ここにいるのか。それを爺ちゃんに聞いたことがある。
「どうしてもこうしても、ナマエは弟子じゃ。たとえ刀を抜かなくてもな」
それ以上は教えてくれない。ただ、何かがあってそうなったのだと、言われなくても察することができた。
ただ、それ以上に変だと思ったのは、あの獪岳が何も言わなかったことだ。これは俺がビビって突っ込まなかっただけでもあるのだが、獪岳がナマエちゃんを見る目は、単に妹弟子を見るものとは一寸違っていた。ちゃんと聞いたのだ。心臓の音を。ただ、それは恋をしたように高鳴るものではなく、どちらかというと、落ち着いたゆっくりとしたものだった。俺にいうよりは厳しくなかったが、獪岳も獪岳なりに、ナマエちゃんがドジをすると怒った。ただ、本気で怒っているわけではなさそうで、でも苛々している音がしたから、よくわからなかった。
たとえば、俺がナマエちゃん結婚して、といって騒いだりしても、姉弟子に言うことかそれは、と少し怒鳴るくらいだった。
ナマエちゃんの方も、どちらかというと、一般的に家族と接しているような気持ちでいたのだろう。ただ、二人が一緒にいると割り込めないような、そんな変な感じになって俺は少し居心地が悪かったのを覚えている。
本当に、それだけだっただろうか。
ほら、ご覧の通り耳だけが取り柄の俺だ。もっと、何かあったんじゃないか。覚えていないのか。……いや、何を思い出そうとしているんだろう。
やめろ、と脳が訴える。いや、ダメだ。止められない。深層意識の奥、硬い扉を開けたのか、ある日の記憶が引っ張り出された。俺は息を飲んだ。それを皮切りに、さらに多くの思い出が芋づる式に引き摺り出されてくる。
あれは確か、俺が選別に出る2、3ヶ月前のことだ。いつものように、爺ちゃんの訓練に耐え兼ねた俺は、森の奥に逃げて、木の上で震えていた。前とは違う道を通って、確か日の光が全く差し込まない樹海のような場所だったと思う。必死で走って、南里までは行かないまでも、結構な距離を移動したように思う。ここなら大丈夫だと思って、俺は昼寝をしたんだっけ。そしたら、夕方になっていた。
まずい、と思った。家からそこまでは結構な距離があって、鬼がいてもおかしくはない。そう思ったら、茂みが少し揺らいだ。足音が、一つ、二つ、動物のそれではない。きっと鬼だ。人型の、鬼。恐ろしくて震え上がった。刀こそ持っていたものの、俺には抜けない。俺が帰ってこないとなって、鬼が出たのではないかと思って、ここまで駆けつける。いくら元柱の爺ちゃんがいても、ここまでくるのにいくらかかるだろうか。
ああ、恐ろしい。怖い怖い。奥歯がガタガタとなって、今にも気絶しそうなくらいに怖かった。きっと、死ぬ。叶わない夢だったなぁ、綺麗でかわいいお嫁さんをもらって、幸せに暮らす夢。女の子と男の子、両方欲しかった。俺は働くんだよ、で、家に帰ったらお嫁さんが食事を作って待っててくれるの。
走馬灯のようにそんな光景が目に浮かんだ。俺に気づいたのか、足音は近くなる。二人組の鬼だ。もうだめ、助からない。誰に渡すかもわからないような遺書の存在を気にかけたその時、女の子の声がした。
「……って、ダメだよ……」
「ダメなわけあるか、ちゃんと俺の顔見ろって」
ちょっとちょっと、何しちゃってんの!? こんな森の奥で盛っている男女がいるなんて、俺聞いてない。非常事態じゃないか。ああ! 一旦そっちに意識がいったら、もうその音しか聞こえなくなるじゃん! まるでバイロンの詩集を読んでいるかのように恥ずかしかった。接吻の音だ。間違いない。唇と唇が触れ合って……あぁーーー!!! 入れちゃってるよ、舌まで……
なんで、なんでこんなところでやってるんだよ! 家でやれよ! ここ森だぞ! 熊だって出るかもしれないのにさぁ…… 呑気でいいよねぇ、逆に。鬼かと思ったよ! 俺の驚き返せよ!
っていうかこの声って……
「んっ……ぁ……もっと……ゆっくり……」
「馬鹿、暴れるなっ」
間違いない。獪岳とナマエちゃんの声だった。聞き間違いだって? 俺だってそう信じたいね。けれど、今まさに二人は逢引して、乳繰り合っている真っ最中だ。悲鳴でもあげて飛び出せたらよかっただろうか。
幸いなことに、二人は俺に気づいていないようだった。
このままずうっと息を殺して、二人のいちゃつきが終わるまでじっとしていよう。
俺は耳を塞いで、自分を石だと思い込むようにした。
耳を塞いでも、悲しいかな声はきちんと聞こえてくる。
そして、いいのか悪いのか、ナマエちゃんから嫌がっている音が聞こえてくることはない。口では「嫌だ」とか「無理」というけれど、それは恥ずかしいからというか、照れているだけだった。
歯軋りをして、苛立ちのままに暴れたくもなるが、グッと我慢する。ただでさえ不真面目なやつだと嫌われているのだから、これ以上バレて事を荒立てたくない。
しかも、この空気、ばれたら絶対に殺される。
いや、それにしても獪岳はナマエちゃん、なんだな……
別にこれは彼女を侮辱しているとかそういうのではなく、少し意外だと思ったからだ。
あいつが気にかけていたのは知ってるよ。でもさ、あんなぽやーっとした、ドジな女の子とこういうこと、するんだ。へぇーー。ナマエちゃんは可愛いよ。けれど、なんていうか、獪岳の好みじゃないと思ってた。
確かに、ここらへんじゃ若い女の子なんていない。修行に集中するための場所だから、恋愛なんてしている暇はない。
獪岳だって普通の男なんだから、そりゃあむらむら悶々とすることだってあるだろうけどさ、なんていうか、あいつはそういうの表立って出すのは恥だって思うだろう? ナマエちゃんを使ってさ、まさか陰でこそこそこんなことやってるなんて思わないじゃん。
っていうか、マジでずるくない? 俺なんてさ、手、手すらもまともに握ってもらったことないんだぜ? あいつだけ段階すっ飛ばして一人だけ接吻してるなんてずるいじゃん。あーぁ、ああ、着物の合わせに手を入れて、ちょっと、何やろうとしてるんだよ!
あ、と思った瞬間、少しだけだけど、は、と息が漏れた。途端、鋭い殺気を下の方から感じた。
「殺す」
声には出なかったが、口の動きでそう言ったのがわかった。それからのことは、記憶にない。
結局、あれを二人がもう一度やったのか、あれが最初だったのか、前からやっていたのか、何もわからなかった。ナマエちゃんは俺に気づいたのだろうか。
しばらく気まずくて、顔を合わせるのも億劫だ。
俺は修行をさぼったことを師匠に怒られ、罰として食事を抜きにされた。
「ちゃんと食べないといけないよ。だから修行はちゃんとしてね」
ナマエちゃんは変なところで厳しかった。俺は炊事場に忍び込んでは、おかずを盗んで食べた。
俺はいけないことだとわかっていながら、夜になるとナマエちゃんの部屋の音をずっと聞いていた。ここから先生の寝室までは離れている。つまり、やろうと思えばやれるということだ。
まぁ、意外にも変なところで潔癖なのか、ずっと二人で共寝をしている気配がない。
それに、以前にも夜中に廊下を行き来したりするようなことがあったら、俺絶対気付くし。
俺に見られて獪岳が警戒したのか、そうでないのかはわからなかったが、結局獪岳が選別に出ていくまで、二人は誰かが近くにいる時にくっついたりべたべたしたり、そういう風に振舞う光景を見ることはなかった。
あいつが選別に行く時、ナマエちゃんはいつものように笑って、俺にするように励ました。
ただ一つ意外だったのが、獪岳がそれを無視せずにちゃんと好意を受け取ったことだった。去り際に何かをあいつの手に押し付けて、少しだけ寂しそうな音がしたけれど、それでもあの夕暮れに、二人きりで逢瀬を果たしてまぐわっていた仲にしては、潔癖すぎる別れ方のように思った。
心配する様子もなかった。よほど信用していたのだろう。俺の方が逆に怖くなった。未亡人じゃあないけどさ、置いてっちゃダメだろって。ちゃんと帰ってこいよ。ナマエちゃんと俺は、後ろ姿が完全に見えなくなるまで手を振った。いつまでも、ずっと、そうしていた。
眠いから横になっていたら、畳の上で寝てしまっていた。小一時間眠っていたのかもしれない。変な時間に起きて、逆に目が冴えてしまった。
布団が敷いてあるんだから、そっちで寝ればいいのに。俺も馬鹿をやったなぁ。
起き出してからすぐ、厠に行きたくなった。
ナマエちゃんはもう寝たのだろうか。隣の部屋だし、ちょっとの物音じゃ起きないと思うけれど、俺はなるだけ静かに部屋を出て、廊下を歩いた。
やっぱり、もう冬に近いからか外は寒い。薄着の寝巻きだけで寝たせいか、余計にそう感じる。半纏だけでも羽織ってくればよかった。そんなどうでもいい後悔だけをして、俺は用を足してしまった。厠は外にある。冬になると、一等寒くなるのだ。布団に戻らないと。俺は急いで、裏口から廊下へと戻った。
「……あ」
もう一つ、足音があった。
「善逸さん……」
それは、ナマエちゃんだった。手には一振りの刀を持って、今から外に行くような格好で立ち止まる。
「ど、どうしたのさ……こんな夜に、刀なんて持ってさ」
そうだ。俺は彼女が日輪刀を持って歩いているところなんて見たことがなかった。まるで家政婦のように家のことをしていた彼女のこと、実に姉弟子というより姉やか何かのようにしか見えなかったけれども、その、帯刀した姿は凛としていて、ああ、彼女は本当に剣士として修行をしていたのだな、と妙に納得してしまった。
「……暖かい格好になって出てきて。見せたいものがある」
言われた通り、寝巻きの上に何枚か羽織って外に出た。ナマエちゃんはずんずん歩いて、俺はそれについていくだけだった。
「ここ、あれじゃん。俺が雷に打たれて……」
「そうだね、懐かしいね」
ナマエちゃんは丘の上、月を背に刀を抜いた。その刀身は、月の明かりで艶かしく輝き、稲光の軌跡のような紋様が、苛烈に走っていた。
場違いかもしれないが、美しいと思った。まるで、月からの使いだ。絵巻物の場面を切り取ったような神々しさに、ずっと目に焼き付けていたいと思う。
「これが私の日輪刀。そして、今から見せるのは、私が使うーー雷の呼吸の型全て」
そうか、これが彼女の戦い方なのか。
まるで舞台を見ているかのような気持ちだった。その太刀筋は豪快であり、丁寧でもあった。お手本のような正確さであり、不謹慎ではあるが、彼女が本当に誰かと戦っているところを見せて欲しいと思った。本当にこんな動きで、俺は戦っていたんだ。
「……本当はもっと早く見せるべきだったね」
全ての型をやって見せたナマエちゃんは刀を鞘におさめると、柄を撫でながらそう言った。
息を呑んだ。まさか、彼女がここまでの使い手だとは思わなかったし、それに、俺が使えない一の型以降の技も全部使えてーーつまり、雷の呼吸の全部の型が使えるなんて。
そんなの、俺より強いじゃん。
そして、尚のこと気になる。
「……すごかったよ、まさか、全部の型を見せてもらえるなんてさ、思わなかったから」
「何で私が今まで剣を抜かなかったのか、知りたいんじゃないかな?」
「……やっぱそうか、ちゃんと俺の知りたいこと、わかってるよね、そりゃ……」
「善逸さんの姉弟子だから、ね」
ナマエちゃんが地面に腰を下ろしたので、俺もそれに習った。
「お願いだから、ここで私がしたこと、話したことは墓まで持っていってね。そして、どうか、何を思っても私の話を邪魔しないで。わかった?」
表情は真剣そのものだった。それこそ、誰かと斬り合う直前のような緊張感があった。
俺はその空気にのまれるように、黙って頷いた。
これは、つまらない身の上話。
東京に生まれ、親はいたが、何の期待もされず、ただ生きていた。
道に生えた雑草のような子供時代。ただの一回気まぐれに、拾った枝でチャンバラの真似事をすれば、意外なことにそれにはまった。欠けていた部品がハマったような、そんな偶然だった。
それはずっと続いた。十にも満たないうちからに行かされた奉公先で、仕事を終えると出し物でみた剣劇の真似事をした。遊んでいると、それをたまたま見かけた師匠に拾われ、鬼を殺して、人のために剣を振るわないかと言われた。誰かから求められることは初めてで、それがとても嬉しかった。
創意工夫を凝らして、何かをする必要がないというのが楽だった。つまるところ、ある決まった動きをすれば呼吸が刀の軌道にのり、それで型の動きができる。私にとって、それは天職のように思えた。
やれることが増えれば褒められる。そして、極めれば誰かの役にたつ。つまり、自分の存在意義があるということ。
ただ、私にはそれが向いていなかったのだろう。
私は鬼と見間違え、人を殺した。
これ以上は、何も言えない。とにかく、私は人を殺した。この刀で、人の首を切った。
それから、恐ろしくなって、ろくに刀が握れなかった。
せっかく全ての型が使えるようになったのに、もう少しで選別にだっていけたかもしれない。
全部私が悪い。
修行に参加せず、家事だけをやっている私に、獪岳がそのことを叱ったのは一度だけだった。なんて言われたっけ。とにかく、私は間抜けだから、人を守って闘うなんて無理だったのだ。ましてや、鬼と人間の区別がつかないようでは、とてもじゃないがやっていけない。味方殺しなんて、どんな重罪だろう。きっとそれは、地獄に行くよりもひどい罰を受ける。
自信を喪失し、やることがなくなった。けれども、出ていくことはできず、一人の弟子として、せめてもの仕事をする。
鬼を切らずとも、やるべきことがあったというのはありがたい。これは師匠のおかげ。あの方が、私に使命をくれた。修行をする人たちの世話をする、身の回りのことをやる、そして、雷の呼吸の型を覚える。極める。たとえそれを抜くことがなくても、この呼吸を覚えていよう。そうしたら、きっといつか役に立つ。鬼を切れなくても、闘うものを支える。これが私が、そこにいた理由。そして、今ここから離れられないのは、外でやっていけないと私自身が、そう思うから。
兄弟子について知りたいでしょう。獪岳はね、私と良い仲っていうわけじゃなかった。
私は馬鹿だから、よくわかりもせずに怒らせたり、失敗して迷惑をかけたこともある。それに、私が剣士をやめるってなった時も、すごーく怒られた。何でお前が辞めるんだ、五体満足で、目や耳だって悪くないだろうって。
師匠は私が人を切ったの、内緒にしてくれたの。
前からね、私のこと剣士に向いてない、間抜けなやつは自分の刀で死ぬって、言われてた。だからね、怒られた時にとても嬉しかった。ちゃんと見てくれていたんだってね。
でも、良い仲じゃなかった。善逸さんが考えているようなものでもなくて、なんていうんだろう。今だから言えるけれど、私は獪岳のことが好きだったんだよ。兄弟子だし、強かったし、何より周りに男の子なんていなかったしね。
ここからは、多分善逸さんも知らないと思う。
嘘じゃないから、ちゃんと聞いてね。
あの晩、私は一人だった。師匠の葬儀を終えて、私は疲れていた。風呂にも入らず、昼間の服のままで布団を敷いて、でも眠れなかった。
怒りや悲しみ、それについて考える暇もなくて、まるで夢の中にいたようなーーもしかすると、本当に夢だったのかもしれない。
縁側から、誰かが入ってくるのがわかった。獣でもなく、野盗でもないだろう。ここには盗るものなんて何にもない。なら、こんな夜中にやってくるのは鬼だ。そう思った私は、刀を持って、部屋の襖の影から、その足音を聞いていた。
その足音は廊下を渡って、私の部屋の前で止まった。
意を決して、刀を抜いた。扉が開いて、いざって時に、私の足は動かなかった。それが人の形をしていて、しかもーー私の兄弟子だったから。
「鬼を見て、その首切ってやろうってできないあたり、やっぱお前って向いてなかったんだな」
「……どうして、ここに」
「どうしてって、俺の姿なんて見なくてもわかるだろ? それともあれか、あのジジイが伝えてなかったのか?」
「師匠は、ちゃんと私に教えてくれた……身内の中から、雷の呼吸の剣士の中から、鬼を出したって」
「お前、その刀を抜くのはいつぶりだ? よくそんなので、立ち向かおうと思ったな」
お前、馬鹿だからわからなかったのか、そうか。
獪岳はそう言って、一人で笑った。ぐうの音も出ない。言い返すことなんてできない。だから、黙った。
鬼になっても、原型を留めず、獣の姿になっていたら、切っていたかもしれない。怠慢だ。師匠は腹まで切ったのに、私は一太刀浴びせることすら叶わない。
「俺の目、見えるか? この文字読んでみろよ、お前って馬鹿だけど、変なところで気がつくよなぁ。俺に斬りかからなかったのは、結構利口だぜ。最後だから、褒めてやるよ」
よく見ると、獪岳の目には文字が刻まれていた。十二鬼月。あぁ、彼は鬼になっても才能があったんだな。彼らしいといえば、そう。だけれども、あの人は勘違いをしている。私が尻込んだのは、何も観察眼に優れていたからじゃない。
ある意味、私の能力を過信していたのだ。
「最後って、どういう意味……」
「もう、お前とは会わない」
「……もしかして、まだ生きてるつもり?」
「はっ、お前も言うようになったなぁ! ナマエ、お前といると、俺はむかっ腹が立つ。イライラして、何もかも壊したくなる。何でお前がまだここにいて、俺は鬼を殺していたんだと、全てを責めたくなる。馬鹿で間抜けで阿保の女のくせに、剣術だけは綺麗だもんなぁ。嫌いだ、ナマエのそういうところ」
「……じゃあ、最後だから聞かせてもらうけど、阿呆で間抜けで馬鹿の私と、口付けしたのは、どうして!? 私、初めてだった。もう、お嫁に行けない! 嫌いなんだったらしなかったらよかったのに……! それだったら獪岳の方が馬鹿だよ! 兄弟子のくせに、妹弟子に手を出したんだものね!」
私が叫んだのは、これが最初だった。
抑えていたものが溢れて、止まらなかった。沸騰していた鍋の綴じ蓋が外れて、私は思わず泣き出しそうになる。
こんなに騒いだところ、きっと誰も見たことはないだろう。自分だって驚いている。私、やろうと思えばこんなに叫べるんだ、って。
獪岳もそれに一瞬面食らったようだったけれど、すぐにいつもの調子に戻る。
「……お前に手を出すくらいに飢えてて、俺も馬鹿だったよ。まぁいい、むかつくやつを傷物にできたんだからな」
「傷物にしたって、それだけのためだった? 本当に?」
「まさか、俺がお前を好いてただなんて、そう言わないだろうな」
「……少なくとも、私は好きだったよ。私にちゃんと構ってくれて、存在を認識してくれて……私にできないこともできたしね」
「じゃあお前、あのジジイにでも惚れてたらよかったんじゃないのか?」
「そうだね、師匠も好きだよ。ああ、鬼になって帰ってくるようなうつけものになんて、惚れるんじゃなかった……やっぱり私、馬鹿だったね。でも貴方は、私以上の愚か者だねぇ、恥を知りなさいよ、獪岳」
私は妹弟子として、自分なりのけじめを付けようと思った。稲妻が走る、私の刀はきっとここで折れる。たとえ、ここで死んでも、私の弟弟子がちゃんとケリをつけてくれるだろう。そう、私はこいつの首を切らねばならない。今この時、生きているのはそのためだ。
「……無理だな、お前に俺は殺せない」
「は、どうして」
「俺のものになれよ、なぁ」
下手くそな告白だった。けれど、私の足止めをするにはそれで十分だった。
あの森の奥で、いきなり口付けられた時、結構ドキドキしたんだ。変なところで頑固だから、それ以上はなかったけれど、それが余計に生傷付けられたみたいで嫌だった。
「嫌だよ、鬼になった貴方じゃ一緒になれない」
「一緒になれない、か……じゃあ、いい。お前の意思は分かった」
「愛してないなんて、言えないからね。嘘だけはつけない。でも、今すぐここで死んで欲しいと思うよ」
愛と憎悪、悲しさと嫌悪。私の中で渦を巻く二つの感情が、剣を持つ手を震わせる。
獪岳が少し力をこめて、私の肩を掴んだ。
「やっぱお前、剣士向いてねぇな」
「分かってる……分かってる……」
私より上背があるし、頭ひとつ大きい彼と目を合わせることはしなかった。泣きそうな顔を見られるのも嫌だった。
彼の指が、肩からゆっくりと下へ流れていく。私は大して抵抗しなかった。それどころか、少し夢見心地だった。最期に、あの時の続きをされているようで、どこか期待していたのかもしれない。
私の左手の、ちょうど薬指のところを掴まれた。
海外では、婚約した男女は、そこに指輪をはめるらしい。私の本でも読んだのか、それとも外で仕入れてきたのか。ずいぶんとハイカラなことを。前なら嬉しかったのかもしれないが、今はただ悲しかった。遅いんだよ、もう。
「次会う時、ここだけはちゃんと残しとけよ」
臭い口説き文句。こうならなかったら、どれだけそれにときめけたことか。
何でこうも、私たちは不器用だったんだろう。
「次はないよ。最後に我妻善逸が、あなたの首を切る」
私は獪岳を振り払い、距離を取った。
本気のつもりだ。何なら、部屋が荒れてもいい。いいや、そんな損害で済むなら全然いいのだ。相手の一挙動を完璧に見極め、差し違えてでも殺す。善逸さんの名前を出したのは、私が死んでも必ずしとめてくれるだろうという期待と、弟弟子の名前を出して、相手の動揺を誘いたかったから。
ずっと鍛えていなかったせいで足の筋肉がないから、一発でも使うとなると、もう歩けなくなるかもしれない。
それでもいい。こいつは鬼だ。鬼を殺して、けじめをつけなければ。私の贖罪のための手段は、もうこれしか残っていない。
「……ナマエッ!」
私が踏み込んだ先に獪岳はいなかった。障子を突き破って、外に逃げたのだ。空打ちに終わった一の型で足はぐちゃぐちゃ。もう歩けなかった。追おうとは思った。けれど、あの人が最後の理性を振り絞って加減していたのを知っていたから、悔しくて。そして、私もそうだった。結局、甘さを見せてしまった。ビビってしまったのだ。
もし私が、本当の本気で切り掛かっていたら、きっと獪岳だって手加減しなかったはずだ。そして、きっと私は死んでいた。相打ちなんて無理だったし、何なら私は刀を抜いた段階で八つ裂きになっていてもおかしくなかった。
それに気づいたから、私は朝まで、膝を抱えて泣いていた。隙間風がびゅうびゅうとうるさくて、寒くて、情けなくて、そして、もう二度と会えないだろうと分かってしまったから。
まるで御伽噺を語るようなゆっくりとした口調で、そう語られたので、俺は瞽女の語りでも聞いているかのような錯覚に陥った。本当に、現実に起こったことなのだろうか。まさか獪岳とナマエちゃんの間にそんなことがあっただなんて。
言いたいことは山ほどあったが、うまく喉から出てこなくてつっかえる。
「ね、本当の話だって思わないでしょう? 私ももう、この話はしない。そして、ごめんね。私が殺しそびれたから、獪岳はいっぱい人を食ったでしょう。姉弟子として、不甲斐ないったらありゃしない」
「ナマエちゃんは鬼殺隊じゃないんだし、それに、もう俺が殺したから……いいんだよ。あやまんないでよ」
「でも、兄弟子殺しをさせてしまったから、私はずっと自分を許せないと思う。善逸さんが許してくれてもね」
「姉ちゃんがそう言うなら、仕方ないね。でも俺は、気にしてないって言ったら嘘になるけど、大丈夫だから。あんまり自分を責めないでね」
「姉ちゃんって、その呼び方懐かしいねぇ。同い年なのになぁ、あっはは」
もう鬼は出てこないけれど、寒いから中に入ろうか。まるで、言い聞かせるようにナマエちゃんは呟いた。
あんまりじろじろ見るものじゃないと思うけど、兄貴の話をしている時の彼女って、とっても綺麗なんだ。恋する女の子って、とてもかわいい。相手が俺じゃないのが気に入らないけどさ、やっぱり幸せな人っていいんだな。あーあ、俺にしとけば悲しい思いなんてさせないのに。何でよりによって獪岳なんだよ。俺いるじゃん! 女の子に優しい、俺がさ!
「善逸さんはねぇ、何だか男の子っていうか、手のかかる弟みたいに見えちゃって。ふふ、ごめんね」
「うわーー! 告白してないのにフラれたよ! ひどい!」
「あはは、私は黄泉まで予約済みだからね」
冗談のように言ったけれど、それが面白い事だと笑うなんてできなかった。
家の扉を開ける時、ナマエちゃんの左手がたまたま視界に映った。薬指の付け根に、内出血の跡のようなひどい痣があった。
とんだ爆弾残していったなぁ。これじゃあ、本当に「傷物」じゃないか。
俺は気づかれないようにため息をつく。本当に、あいつは馬鹿だ。
「ねぇ! 今度近いうちに遊びにいくから! 今度はちゃんとお米炊いといてよね!」
「うんうん、お手紙のお返事も書くからね!」
次の日、俺は街の方へと戻らなくてはいけなかった。だから、朝早いうちにここをたつ事にした。
昼飯にと渡された握り飯はちゃんと持ってある。本当は昼ごろまでお邪魔させてもらいたかったし、何なら一週間くらい泊まってもいいんじゃないかって思った。でも、まるで誰かに邪魔されているかのように、急に呼び出しを食らったのだ。
俺、何かしたかなー、なんて愚痴っていたら、シャキッとしなさい! と叱られた。やっぱり、こういうところでは厳しいのだ、ナマエちゃんは。
「また来てねー!」
ずうっと手を振るナマエちゃんは、綺麗に笑っていた。
あーあ、兄貴はこんなかわいい子から好かれて、それも鬼になっちゃったんだから、相当の阿呆だな。俺も傷心につけ込むような真似はしたくないけれど、うっかり俺にくらっと来て、そのまま結納できたらいいのに。
「おいカス、俺の女盗るなんて一億年早いんだよ」
なんて言うんだろう。自分の妄想だけれど、本当に背後から聞こえてきた気がして、俺は振り返らずに走る。呪いを振りまいて、あいつは死んだんだ。
その半年後、滞っていた文通にやきもきしていると、あの住所の近くから電報が届いた。
「ナマエ カワ オチタ」
ナマエちゃんは崖から足を滑らせ、川に落ちたそうだ。
自殺、もしくは他殺の線で警察が来たらしいが、結局事故という結論になった。
即死だったらしい。遺体は綺麗な状態で、今にも起きて伸びでもしそうに思った。
なぁ、何であいつは何もかも持っていくんだよ。
「なぁあんた、彼女の弟か何かか? この子、誰も遺体を引き取りにこないんだよ。気の毒だけど、このままだと共同墓地に名無しのまま埋められちまう。この子の家の墓があるなら、ちゃんとそっちにやったほうがいいんじゃないか」
そうだ、ナマエちゃんは親なし子じゃない。彼女の親はまだ生きている。
だから余計に、腹が立った。どうして、子供が命がけで鬼と戦おうとしていたのに、何の連絡も寄越さないんだ。どうして、俺だったら止めるね、かわいい娘がそんな仕事をやるって言ったらさぁ、止めるよ。だってそれが、親ってもんだろ。
畜生、なんて……なんて人生なんだ。俺が泣いたってどうにもならないけれど、不憫で仕方ないよ。まだ若かった。これからだったじゃないか。
ナマエちゃんは、褒められて嬉しい、だからここにいると言っていた。普通、そういうのって親がやるんじゃないのか。
……そういえば、獪岳も似たようなことを言っていた。二人とも、誰かから認められたかったのかもしれない。だから、似たもの同士だった。
何だ、彼女が惚れたのは、そういうことだったのか。もちろん、俺だってそういう気持ちはある。けれど、俺の気持ちと、ナマエちゃんの願いは少し軸が違うのだ。
「結局全部、あいつが持っていったのか」
空に向かって吠える気にもならない。頭上には、ムカつくくらいの青空が広がっていた。雲ひとつない、絵のような空。
額に雨粒が落ちた。それは小雨から大雨に変わって、ついには遠くから雷鳴が聞こえるようになった。それは一瞬のように短い時間で、天の神も意地悪だと、そう吐き出したくなるくらいに皮肉たっぷりで、俺に対する当て付けのように思えた。
もしかして、本当に「そう」だったらどうしよう。
本当に怖くて、でも確かめないといけない。
玄関に靴がなかった。
けれど、窓枠の溝には埃一つなく、床にはチリひとつ落ちていなかった。
人が住んでいる気配らしいものがない。ああ、昔はこうだったろうか。この家に、顔を出したのはいつだっただろう。思い出そうとすると、余計に居心地が悪かった。
よし、きっとここには誰かがいる。そして、あの子がいないとなると、それは泥棒か何かだ。
あ、自分で言っていて怖くなってきた。刀もあるのに、情けないなぁ、俺。鬼も殺したのに、弱音ばかり言っちゃうのは変わらないよ。
「た、ただいま!」
思い切って、家の奥まで聞こえるように言ってみる。
「……」
返事はなく、部屋は静かなままだ。もしかして、本当にここには誰にも住んでいないーー?
も、もう嫌だ。嫌な想像をしてしまう。鬼に殺されたとか? いや、ありえない。ついこの前、文が返ってきたし、鬼も何もいなくなってしまったじゃないか……
そうだ、今はたまたま留守にしているだけなのだ。
俺はこのままあの子の帰りを待つことにした。
四人でいたときは狭く感じたこの家も、たった一人になるとこれだけ狭く感じるものなのか。
あ、ここの壁、喧嘩して蹴った跡がある。まだ残ってたのか。
そこの障子は破いて張り替えたんだったかな。
思い出せば思い出すほど、悲しくなる。
でも、きっとあの子は一人で、もっと寂しいはずだ。
少し感傷的なんじゃないか、俺。
あぐらをかいて畳の上に座り、縁側の仕切りを開けた。外は夕暮れ、そろそろ日が沈む。もう、大丈夫なはずなのに帰りが遅いと心配になる。
今日、行くって連絡したはずだったのにな。
いっそのこと俺から探しに行こうか。そう考えて立ち上がった瞬間、裏口の扉が開く音がした。
「ナマエちゃん! お、おかえり!」
「善逸さん……!? あ、あれ、今日って帰ってくる日だったかな? あれ、あれ?」
裏口は台所とつながっている。全力で走って駆け込むと、山菜やら果物が入ったカゴを持ったナマエちゃんが立っていた。
しかも、まるで幽霊でも見たかのように驚いた顔だったので、俺の方が騒がしく喚いてしまう。
「連絡したよぉ! 俺、今日だって書いたじゃん! 今月の第三木曜に帰るっていったじゃん!」
「あら、そうだったかなぁ。ごめんね、私間抜けだから読み間違えたのかもね」
日付が合ってるか手紙見てこようかな、と部屋に戻ろうとするナマエちゃんを俺は押し留めた。
「もう、そんなことはいいよ! それよりさぁ、俺帰ってきたよ! ちゃんと!」
「んー、褒めて欲しいのかな? でもごめんね、お夕飯の用意しなくちゃ。早いうちにちゃっちゃとやっちゃいたいの。お話ならお夕飯食べながらでもいいでしょう?」
「それなら俺も手伝うよ! なんでもやるよ! 何すればいい!?」
「じゃあ、火を起こして、お湯を沸かしてね。それからーー」
昔からそうだけど、ナマエちゃんは、家事なんかの家のことになると途端にちゃきちゃき動き出す。
家の番人っていうのかな。とにかく、この家を切り盛りするときは普段のおっとりした様子からは考えられないくらい機敏に動く。
こういう人をお嫁さんにしたら、安心して家を任せられそうだけど、ちょっと手綱を握られているようで、怖いなぁとも思ってしまう。
まるで職人のように綺麗な手捌きで、ナマエちゃんはあっという間にお夕飯を作ってしまった。
俺は横で野菜の皮をかたしたり、洗い物をしているだけだったから、きっと手伝いといっても表面を攫って遊んでいたようなものだろう。
「あっちゃあ、一人分だけでいいと思ってたから、お米一合しか炊いてないよ。ごめんね、私のぶん、食べていいよ」
久しぶりに、俺のお椀で食べるご飯は美味しかった。「善逸さんは自分よりも食べるようだから」そういって、俺のお椀に自分の米を全部移してしまおうとするナマエちゃんを、俺は丁寧に断った。
「いや、そんなにいらないよ。本当に、大丈夫だから」
「え、不味かった?」
「そういうのじゃなくてさぁ……俺、女の子の分から取っちゃうほど飢えてもないってこと!」
むしろ、ナマエちゃんの方が栄養をとるべきだ。前よりも、すっかり痩せてしまって、少し押したら倒れそうだった。
「本当、誰かと喋りながら食べるのって久しぶり」
その言葉に、胸がずしんと重くなる。
前は四人で食べていた。獪岳がいなくなって、俺がいなくなって、じいちゃんもいなくなって、ナマエちゃんはこんな大きな居間で、たった一人で毎日ご飯を食べていたんだ。
……俺が戻ったところで、以前のような賑やかな食卓は返ってこない。悲しいけれど、俺もずっとここにいられるわけではないのだ。
だから、お節介だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「……ねぇ、ナマエちゃんよかったらなんだけど、街の方で住んでみない? 何も、ずっと山奥でこの家を守っている必要はないと思うんだよね。もちろん、一生帰ってこないってわけじゃなくてさ、たまにここに戻ってきてさ、そう、ほら、別荘! そんな感じ! 俺、色々行ったことがあるからわかるんだけど、街の方が便利だよ……! ここだって大事だけど、俺たち、そろそろ自分の人生を生きなきゃ……」
「自分の人生?」
ピタリ、とナマエちゃんの動きが止まった。
少し言い過ぎたかもしれない。普段はゆっくりとした動作で、まったりと喋る彼女の声が、氷のように冷たく、硬くなった。
「街に出て、どうなるの? 善逸さんはお館様たちからお金をもらっているからいいかもしれないけれど、私には何もない。教養も学もない女は街で働けない。それに、誰かと添い遂げる心算もない。私は、ここにいるしかないの。少し考えたらわかるのに、なんで、そんなことをいうの?」
「ご、ごめん……俺が考え足らずだったよ。お金については……ごめん、俺が払えばいいとか考えちゃってました」
「……気持ちはありがたいよ。でも、元とはいえ弟弟子にたかりたくはないし、私はここが居心地いいの。食べ物もあるし、猟師さんや近所の皆さんにはよくしてもらっている。不自由はないの。だから、心配しないで」
まるでさっきの空気は嘘だったかのように、ナマエちゃんの雰囲気が和らいだ。
元、とはいえ彼女も雷の呼吸を体得するために研鑽を重ねていた剣士だ。普段の柔らかい雰囲気以外にも、鋭く、突き刺すような空気を纏うこともある。
つくづく、可愛いけれど恐ろしいと思う。綺麗だけど、触れてはいけないように思う。彼女はそういう人だ。昔から、舐めてかかったら痛い目を見ることになる。
「それに、私寂しくないよ。だって、私守るものがあるからね」
この家のことだろうか。今にも倒れそうな背筋をしゃんと伸ばして、虚勢を張る彼女は痛ましいが、どこか真に迫った顔だったので、俺は頷くしかなかった。
広い家に、爺ちゃんは弟子たちのための個室を作った。奥から順番に、弟子入りした順に。奥から兄貴、ナマエちゃん、俺だから、俺が一番末の弟子、ということになる。俺と兄貴はそんなに長く一緒にいたわけではないが、ナマエちゃんと兄貴はそれなりに長い間一緒の屋根の下で共同生活していたということになる。全く、羨ましい限りだ。
しかし、ナマエちゃんと俺が初めて会ったとき、彼女は剣を持っていなかった。振るうこともなかった。大事に袋にしまって、絹の紐で蝶々結びがされていた。
どうしてあの子は修行をしないのに、ここにいるのか。それを爺ちゃんに聞いたことがある。
「どうしてもこうしても、ナマエは弟子じゃ。たとえ刀を抜かなくてもな」
それ以上は教えてくれない。ただ、何かがあってそうなったのだと、言われなくても察することができた。
ただ、それ以上に変だと思ったのは、あの獪岳が何も言わなかったことだ。これは俺がビビって突っ込まなかっただけでもあるのだが、獪岳がナマエちゃんを見る目は、単に妹弟子を見るものとは一寸違っていた。ちゃんと聞いたのだ。心臓の音を。ただ、それは恋をしたように高鳴るものではなく、どちらかというと、落ち着いたゆっくりとしたものだった。俺にいうよりは厳しくなかったが、獪岳も獪岳なりに、ナマエちゃんがドジをすると怒った。ただ、本気で怒っているわけではなさそうで、でも苛々している音がしたから、よくわからなかった。
たとえば、俺がナマエちゃん結婚して、といって騒いだりしても、姉弟子に言うことかそれは、と少し怒鳴るくらいだった。
ナマエちゃんの方も、どちらかというと、一般的に家族と接しているような気持ちでいたのだろう。ただ、二人が一緒にいると割り込めないような、そんな変な感じになって俺は少し居心地が悪かったのを覚えている。
本当に、それだけだっただろうか。
ほら、ご覧の通り耳だけが取り柄の俺だ。もっと、何かあったんじゃないか。覚えていないのか。……いや、何を思い出そうとしているんだろう。
やめろ、と脳が訴える。いや、ダメだ。止められない。深層意識の奥、硬い扉を開けたのか、ある日の記憶が引っ張り出された。俺は息を飲んだ。それを皮切りに、さらに多くの思い出が芋づる式に引き摺り出されてくる。
あれは確か、俺が選別に出る2、3ヶ月前のことだ。いつものように、爺ちゃんの訓練に耐え兼ねた俺は、森の奥に逃げて、木の上で震えていた。前とは違う道を通って、確か日の光が全く差し込まない樹海のような場所だったと思う。必死で走って、南里までは行かないまでも、結構な距離を移動したように思う。ここなら大丈夫だと思って、俺は昼寝をしたんだっけ。そしたら、夕方になっていた。
まずい、と思った。家からそこまでは結構な距離があって、鬼がいてもおかしくはない。そう思ったら、茂みが少し揺らいだ。足音が、一つ、二つ、動物のそれではない。きっと鬼だ。人型の、鬼。恐ろしくて震え上がった。刀こそ持っていたものの、俺には抜けない。俺が帰ってこないとなって、鬼が出たのではないかと思って、ここまで駆けつける。いくら元柱の爺ちゃんがいても、ここまでくるのにいくらかかるだろうか。
ああ、恐ろしい。怖い怖い。奥歯がガタガタとなって、今にも気絶しそうなくらいに怖かった。きっと、死ぬ。叶わない夢だったなぁ、綺麗でかわいいお嫁さんをもらって、幸せに暮らす夢。女の子と男の子、両方欲しかった。俺は働くんだよ、で、家に帰ったらお嫁さんが食事を作って待っててくれるの。
走馬灯のようにそんな光景が目に浮かんだ。俺に気づいたのか、足音は近くなる。二人組の鬼だ。もうだめ、助からない。誰に渡すかもわからないような遺書の存在を気にかけたその時、女の子の声がした。
「……って、ダメだよ……」
「ダメなわけあるか、ちゃんと俺の顔見ろって」
ちょっとちょっと、何しちゃってんの!? こんな森の奥で盛っている男女がいるなんて、俺聞いてない。非常事態じゃないか。ああ! 一旦そっちに意識がいったら、もうその音しか聞こえなくなるじゃん! まるでバイロンの詩集を読んでいるかのように恥ずかしかった。接吻の音だ。間違いない。唇と唇が触れ合って……あぁーーー!!! 入れちゃってるよ、舌まで……
なんで、なんでこんなところでやってるんだよ! 家でやれよ! ここ森だぞ! 熊だって出るかもしれないのにさぁ…… 呑気でいいよねぇ、逆に。鬼かと思ったよ! 俺の驚き返せよ!
っていうかこの声って……
「んっ……ぁ……もっと……ゆっくり……」
「馬鹿、暴れるなっ」
間違いない。獪岳とナマエちゃんの声だった。聞き間違いだって? 俺だってそう信じたいね。けれど、今まさに二人は逢引して、乳繰り合っている真っ最中だ。悲鳴でもあげて飛び出せたらよかっただろうか。
幸いなことに、二人は俺に気づいていないようだった。
このままずうっと息を殺して、二人のいちゃつきが終わるまでじっとしていよう。
俺は耳を塞いで、自分を石だと思い込むようにした。
耳を塞いでも、悲しいかな声はきちんと聞こえてくる。
そして、いいのか悪いのか、ナマエちゃんから嫌がっている音が聞こえてくることはない。口では「嫌だ」とか「無理」というけれど、それは恥ずかしいからというか、照れているだけだった。
歯軋りをして、苛立ちのままに暴れたくもなるが、グッと我慢する。ただでさえ不真面目なやつだと嫌われているのだから、これ以上バレて事を荒立てたくない。
しかも、この空気、ばれたら絶対に殺される。
いや、それにしても獪岳はナマエちゃん、なんだな……
別にこれは彼女を侮辱しているとかそういうのではなく、少し意外だと思ったからだ。
あいつが気にかけていたのは知ってるよ。でもさ、あんなぽやーっとした、ドジな女の子とこういうこと、するんだ。へぇーー。ナマエちゃんは可愛いよ。けれど、なんていうか、獪岳の好みじゃないと思ってた。
確かに、ここらへんじゃ若い女の子なんていない。修行に集中するための場所だから、恋愛なんてしている暇はない。
獪岳だって普通の男なんだから、そりゃあむらむら悶々とすることだってあるだろうけどさ、なんていうか、あいつはそういうの表立って出すのは恥だって思うだろう? ナマエちゃんを使ってさ、まさか陰でこそこそこんなことやってるなんて思わないじゃん。
っていうか、マジでずるくない? 俺なんてさ、手、手すらもまともに握ってもらったことないんだぜ? あいつだけ段階すっ飛ばして一人だけ接吻してるなんてずるいじゃん。あーぁ、ああ、着物の合わせに手を入れて、ちょっと、何やろうとしてるんだよ!
あ、と思った瞬間、少しだけだけど、は、と息が漏れた。途端、鋭い殺気を下の方から感じた。
「殺す」
声には出なかったが、口の動きでそう言ったのがわかった。それからのことは、記憶にない。
結局、あれを二人がもう一度やったのか、あれが最初だったのか、前からやっていたのか、何もわからなかった。ナマエちゃんは俺に気づいたのだろうか。
しばらく気まずくて、顔を合わせるのも億劫だ。
俺は修行をさぼったことを師匠に怒られ、罰として食事を抜きにされた。
「ちゃんと食べないといけないよ。だから修行はちゃんとしてね」
ナマエちゃんは変なところで厳しかった。俺は炊事場に忍び込んでは、おかずを盗んで食べた。
俺はいけないことだとわかっていながら、夜になるとナマエちゃんの部屋の音をずっと聞いていた。ここから先生の寝室までは離れている。つまり、やろうと思えばやれるということだ。
まぁ、意外にも変なところで潔癖なのか、ずっと二人で共寝をしている気配がない。
それに、以前にも夜中に廊下を行き来したりするようなことがあったら、俺絶対気付くし。
俺に見られて獪岳が警戒したのか、そうでないのかはわからなかったが、結局獪岳が選別に出ていくまで、二人は誰かが近くにいる時にくっついたりべたべたしたり、そういう風に振舞う光景を見ることはなかった。
あいつが選別に行く時、ナマエちゃんはいつものように笑って、俺にするように励ました。
ただ一つ意外だったのが、獪岳がそれを無視せずにちゃんと好意を受け取ったことだった。去り際に何かをあいつの手に押し付けて、少しだけ寂しそうな音がしたけれど、それでもあの夕暮れに、二人きりで逢瀬を果たしてまぐわっていた仲にしては、潔癖すぎる別れ方のように思った。
心配する様子もなかった。よほど信用していたのだろう。俺の方が逆に怖くなった。未亡人じゃあないけどさ、置いてっちゃダメだろって。ちゃんと帰ってこいよ。ナマエちゃんと俺は、後ろ姿が完全に見えなくなるまで手を振った。いつまでも、ずっと、そうしていた。
眠いから横になっていたら、畳の上で寝てしまっていた。小一時間眠っていたのかもしれない。変な時間に起きて、逆に目が冴えてしまった。
布団が敷いてあるんだから、そっちで寝ればいいのに。俺も馬鹿をやったなぁ。
起き出してからすぐ、厠に行きたくなった。
ナマエちゃんはもう寝たのだろうか。隣の部屋だし、ちょっとの物音じゃ起きないと思うけれど、俺はなるだけ静かに部屋を出て、廊下を歩いた。
やっぱり、もう冬に近いからか外は寒い。薄着の寝巻きだけで寝たせいか、余計にそう感じる。半纏だけでも羽織ってくればよかった。そんなどうでもいい後悔だけをして、俺は用を足してしまった。厠は外にある。冬になると、一等寒くなるのだ。布団に戻らないと。俺は急いで、裏口から廊下へと戻った。
「……あ」
もう一つ、足音があった。
「善逸さん……」
それは、ナマエちゃんだった。手には一振りの刀を持って、今から外に行くような格好で立ち止まる。
「ど、どうしたのさ……こんな夜に、刀なんて持ってさ」
そうだ。俺は彼女が日輪刀を持って歩いているところなんて見たことがなかった。まるで家政婦のように家のことをしていた彼女のこと、実に姉弟子というより姉やか何かのようにしか見えなかったけれども、その、帯刀した姿は凛としていて、ああ、彼女は本当に剣士として修行をしていたのだな、と妙に納得してしまった。
「……暖かい格好になって出てきて。見せたいものがある」
言われた通り、寝巻きの上に何枚か羽織って外に出た。ナマエちゃんはずんずん歩いて、俺はそれについていくだけだった。
「ここ、あれじゃん。俺が雷に打たれて……」
「そうだね、懐かしいね」
ナマエちゃんは丘の上、月を背に刀を抜いた。その刀身は、月の明かりで艶かしく輝き、稲光の軌跡のような紋様が、苛烈に走っていた。
場違いかもしれないが、美しいと思った。まるで、月からの使いだ。絵巻物の場面を切り取ったような神々しさに、ずっと目に焼き付けていたいと思う。
「これが私の日輪刀。そして、今から見せるのは、私が使うーー雷の呼吸の型全て」
そうか、これが彼女の戦い方なのか。
まるで舞台を見ているかのような気持ちだった。その太刀筋は豪快であり、丁寧でもあった。お手本のような正確さであり、不謹慎ではあるが、彼女が本当に誰かと戦っているところを見せて欲しいと思った。本当にこんな動きで、俺は戦っていたんだ。
「……本当はもっと早く見せるべきだったね」
全ての型をやって見せたナマエちゃんは刀を鞘におさめると、柄を撫でながらそう言った。
息を呑んだ。まさか、彼女がここまでの使い手だとは思わなかったし、それに、俺が使えない一の型以降の技も全部使えてーーつまり、雷の呼吸の全部の型が使えるなんて。
そんなの、俺より強いじゃん。
そして、尚のこと気になる。
「……すごかったよ、まさか、全部の型を見せてもらえるなんてさ、思わなかったから」
「何で私が今まで剣を抜かなかったのか、知りたいんじゃないかな?」
「……やっぱそうか、ちゃんと俺の知りたいこと、わかってるよね、そりゃ……」
「善逸さんの姉弟子だから、ね」
ナマエちゃんが地面に腰を下ろしたので、俺もそれに習った。
「お願いだから、ここで私がしたこと、話したことは墓まで持っていってね。そして、どうか、何を思っても私の話を邪魔しないで。わかった?」
表情は真剣そのものだった。それこそ、誰かと斬り合う直前のような緊張感があった。
俺はその空気にのまれるように、黙って頷いた。
これは、つまらない身の上話。
東京に生まれ、親はいたが、何の期待もされず、ただ生きていた。
道に生えた雑草のような子供時代。ただの一回気まぐれに、拾った枝でチャンバラの真似事をすれば、意外なことにそれにはまった。欠けていた部品がハマったような、そんな偶然だった。
それはずっと続いた。十にも満たないうちからに行かされた奉公先で、仕事を終えると出し物でみた剣劇の真似事をした。遊んでいると、それをたまたま見かけた師匠に拾われ、鬼を殺して、人のために剣を振るわないかと言われた。誰かから求められることは初めてで、それがとても嬉しかった。
創意工夫を凝らして、何かをする必要がないというのが楽だった。つまるところ、ある決まった動きをすれば呼吸が刀の軌道にのり、それで型の動きができる。私にとって、それは天職のように思えた。
やれることが増えれば褒められる。そして、極めれば誰かの役にたつ。つまり、自分の存在意義があるということ。
ただ、私にはそれが向いていなかったのだろう。
私は鬼と見間違え、人を殺した。
これ以上は、何も言えない。とにかく、私は人を殺した。この刀で、人の首を切った。
それから、恐ろしくなって、ろくに刀が握れなかった。
せっかく全ての型が使えるようになったのに、もう少しで選別にだっていけたかもしれない。
全部私が悪い。
修行に参加せず、家事だけをやっている私に、獪岳がそのことを叱ったのは一度だけだった。なんて言われたっけ。とにかく、私は間抜けだから、人を守って闘うなんて無理だったのだ。ましてや、鬼と人間の区別がつかないようでは、とてもじゃないがやっていけない。味方殺しなんて、どんな重罪だろう。きっとそれは、地獄に行くよりもひどい罰を受ける。
自信を喪失し、やることがなくなった。けれども、出ていくことはできず、一人の弟子として、せめてもの仕事をする。
鬼を切らずとも、やるべきことがあったというのはありがたい。これは師匠のおかげ。あの方が、私に使命をくれた。修行をする人たちの世話をする、身の回りのことをやる、そして、雷の呼吸の型を覚える。極める。たとえそれを抜くことがなくても、この呼吸を覚えていよう。そうしたら、きっといつか役に立つ。鬼を切れなくても、闘うものを支える。これが私が、そこにいた理由。そして、今ここから離れられないのは、外でやっていけないと私自身が、そう思うから。
兄弟子について知りたいでしょう。獪岳はね、私と良い仲っていうわけじゃなかった。
私は馬鹿だから、よくわかりもせずに怒らせたり、失敗して迷惑をかけたこともある。それに、私が剣士をやめるってなった時も、すごーく怒られた。何でお前が辞めるんだ、五体満足で、目や耳だって悪くないだろうって。
師匠は私が人を切ったの、内緒にしてくれたの。
前からね、私のこと剣士に向いてない、間抜けなやつは自分の刀で死ぬって、言われてた。だからね、怒られた時にとても嬉しかった。ちゃんと見てくれていたんだってね。
でも、良い仲じゃなかった。善逸さんが考えているようなものでもなくて、なんていうんだろう。今だから言えるけれど、私は獪岳のことが好きだったんだよ。兄弟子だし、強かったし、何より周りに男の子なんていなかったしね。
ここからは、多分善逸さんも知らないと思う。
嘘じゃないから、ちゃんと聞いてね。
あの晩、私は一人だった。師匠の葬儀を終えて、私は疲れていた。風呂にも入らず、昼間の服のままで布団を敷いて、でも眠れなかった。
怒りや悲しみ、それについて考える暇もなくて、まるで夢の中にいたようなーーもしかすると、本当に夢だったのかもしれない。
縁側から、誰かが入ってくるのがわかった。獣でもなく、野盗でもないだろう。ここには盗るものなんて何にもない。なら、こんな夜中にやってくるのは鬼だ。そう思った私は、刀を持って、部屋の襖の影から、その足音を聞いていた。
その足音は廊下を渡って、私の部屋の前で止まった。
意を決して、刀を抜いた。扉が開いて、いざって時に、私の足は動かなかった。それが人の形をしていて、しかもーー私の兄弟子だったから。
「鬼を見て、その首切ってやろうってできないあたり、やっぱお前って向いてなかったんだな」
「……どうして、ここに」
「どうしてって、俺の姿なんて見なくてもわかるだろ? それともあれか、あのジジイが伝えてなかったのか?」
「師匠は、ちゃんと私に教えてくれた……身内の中から、雷の呼吸の剣士の中から、鬼を出したって」
「お前、その刀を抜くのはいつぶりだ? よくそんなので、立ち向かおうと思ったな」
お前、馬鹿だからわからなかったのか、そうか。
獪岳はそう言って、一人で笑った。ぐうの音も出ない。言い返すことなんてできない。だから、黙った。
鬼になっても、原型を留めず、獣の姿になっていたら、切っていたかもしれない。怠慢だ。師匠は腹まで切ったのに、私は一太刀浴びせることすら叶わない。
「俺の目、見えるか? この文字読んでみろよ、お前って馬鹿だけど、変なところで気がつくよなぁ。俺に斬りかからなかったのは、結構利口だぜ。最後だから、褒めてやるよ」
よく見ると、獪岳の目には文字が刻まれていた。十二鬼月。あぁ、彼は鬼になっても才能があったんだな。彼らしいといえば、そう。だけれども、あの人は勘違いをしている。私が尻込んだのは、何も観察眼に優れていたからじゃない。
ある意味、私の能力を過信していたのだ。
「最後って、どういう意味……」
「もう、お前とは会わない」
「……もしかして、まだ生きてるつもり?」
「はっ、お前も言うようになったなぁ! ナマエ、お前といると、俺はむかっ腹が立つ。イライラして、何もかも壊したくなる。何でお前がまだここにいて、俺は鬼を殺していたんだと、全てを責めたくなる。馬鹿で間抜けで阿保の女のくせに、剣術だけは綺麗だもんなぁ。嫌いだ、ナマエのそういうところ」
「……じゃあ、最後だから聞かせてもらうけど、阿呆で間抜けで馬鹿の私と、口付けしたのは、どうして!? 私、初めてだった。もう、お嫁に行けない! 嫌いなんだったらしなかったらよかったのに……! それだったら獪岳の方が馬鹿だよ! 兄弟子のくせに、妹弟子に手を出したんだものね!」
私が叫んだのは、これが最初だった。
抑えていたものが溢れて、止まらなかった。沸騰していた鍋の綴じ蓋が外れて、私は思わず泣き出しそうになる。
こんなに騒いだところ、きっと誰も見たことはないだろう。自分だって驚いている。私、やろうと思えばこんなに叫べるんだ、って。
獪岳もそれに一瞬面食らったようだったけれど、すぐにいつもの調子に戻る。
「……お前に手を出すくらいに飢えてて、俺も馬鹿だったよ。まぁいい、むかつくやつを傷物にできたんだからな」
「傷物にしたって、それだけのためだった? 本当に?」
「まさか、俺がお前を好いてただなんて、そう言わないだろうな」
「……少なくとも、私は好きだったよ。私にちゃんと構ってくれて、存在を認識してくれて……私にできないこともできたしね」
「じゃあお前、あのジジイにでも惚れてたらよかったんじゃないのか?」
「そうだね、師匠も好きだよ。ああ、鬼になって帰ってくるようなうつけものになんて、惚れるんじゃなかった……やっぱり私、馬鹿だったね。でも貴方は、私以上の愚か者だねぇ、恥を知りなさいよ、獪岳」
私は妹弟子として、自分なりのけじめを付けようと思った。稲妻が走る、私の刀はきっとここで折れる。たとえ、ここで死んでも、私の弟弟子がちゃんとケリをつけてくれるだろう。そう、私はこいつの首を切らねばならない。今この時、生きているのはそのためだ。
「……無理だな、お前に俺は殺せない」
「は、どうして」
「俺のものになれよ、なぁ」
下手くそな告白だった。けれど、私の足止めをするにはそれで十分だった。
あの森の奥で、いきなり口付けられた時、結構ドキドキしたんだ。変なところで頑固だから、それ以上はなかったけれど、それが余計に生傷付けられたみたいで嫌だった。
「嫌だよ、鬼になった貴方じゃ一緒になれない」
「一緒になれない、か……じゃあ、いい。お前の意思は分かった」
「愛してないなんて、言えないからね。嘘だけはつけない。でも、今すぐここで死んで欲しいと思うよ」
愛と憎悪、悲しさと嫌悪。私の中で渦を巻く二つの感情が、剣を持つ手を震わせる。
獪岳が少し力をこめて、私の肩を掴んだ。
「やっぱお前、剣士向いてねぇな」
「分かってる……分かってる……」
私より上背があるし、頭ひとつ大きい彼と目を合わせることはしなかった。泣きそうな顔を見られるのも嫌だった。
彼の指が、肩からゆっくりと下へ流れていく。私は大して抵抗しなかった。それどころか、少し夢見心地だった。最期に、あの時の続きをされているようで、どこか期待していたのかもしれない。
私の左手の、ちょうど薬指のところを掴まれた。
海外では、婚約した男女は、そこに指輪をはめるらしい。私の本でも読んだのか、それとも外で仕入れてきたのか。ずいぶんとハイカラなことを。前なら嬉しかったのかもしれないが、今はただ悲しかった。遅いんだよ、もう。
「次会う時、ここだけはちゃんと残しとけよ」
臭い口説き文句。こうならなかったら、どれだけそれにときめけたことか。
何でこうも、私たちは不器用だったんだろう。
「次はないよ。最後に我妻善逸が、あなたの首を切る」
私は獪岳を振り払い、距離を取った。
本気のつもりだ。何なら、部屋が荒れてもいい。いいや、そんな損害で済むなら全然いいのだ。相手の一挙動を完璧に見極め、差し違えてでも殺す。善逸さんの名前を出したのは、私が死んでも必ずしとめてくれるだろうという期待と、弟弟子の名前を出して、相手の動揺を誘いたかったから。
ずっと鍛えていなかったせいで足の筋肉がないから、一発でも使うとなると、もう歩けなくなるかもしれない。
それでもいい。こいつは鬼だ。鬼を殺して、けじめをつけなければ。私の贖罪のための手段は、もうこれしか残っていない。
「……ナマエッ!」
私が踏み込んだ先に獪岳はいなかった。障子を突き破って、外に逃げたのだ。空打ちに終わった一の型で足はぐちゃぐちゃ。もう歩けなかった。追おうとは思った。けれど、あの人が最後の理性を振り絞って加減していたのを知っていたから、悔しくて。そして、私もそうだった。結局、甘さを見せてしまった。ビビってしまったのだ。
もし私が、本当の本気で切り掛かっていたら、きっと獪岳だって手加減しなかったはずだ。そして、きっと私は死んでいた。相打ちなんて無理だったし、何なら私は刀を抜いた段階で八つ裂きになっていてもおかしくなかった。
それに気づいたから、私は朝まで、膝を抱えて泣いていた。隙間風がびゅうびゅうとうるさくて、寒くて、情けなくて、そして、もう二度と会えないだろうと分かってしまったから。
まるで御伽噺を語るようなゆっくりとした口調で、そう語られたので、俺は瞽女の語りでも聞いているかのような錯覚に陥った。本当に、現実に起こったことなのだろうか。まさか獪岳とナマエちゃんの間にそんなことがあっただなんて。
言いたいことは山ほどあったが、うまく喉から出てこなくてつっかえる。
「ね、本当の話だって思わないでしょう? 私ももう、この話はしない。そして、ごめんね。私が殺しそびれたから、獪岳はいっぱい人を食ったでしょう。姉弟子として、不甲斐ないったらありゃしない」
「ナマエちゃんは鬼殺隊じゃないんだし、それに、もう俺が殺したから……いいんだよ。あやまんないでよ」
「でも、兄弟子殺しをさせてしまったから、私はずっと自分を許せないと思う。善逸さんが許してくれてもね」
「姉ちゃんがそう言うなら、仕方ないね。でも俺は、気にしてないって言ったら嘘になるけど、大丈夫だから。あんまり自分を責めないでね」
「姉ちゃんって、その呼び方懐かしいねぇ。同い年なのになぁ、あっはは」
もう鬼は出てこないけれど、寒いから中に入ろうか。まるで、言い聞かせるようにナマエちゃんは呟いた。
あんまりじろじろ見るものじゃないと思うけど、兄貴の話をしている時の彼女って、とっても綺麗なんだ。恋する女の子って、とてもかわいい。相手が俺じゃないのが気に入らないけどさ、やっぱり幸せな人っていいんだな。あーあ、俺にしとけば悲しい思いなんてさせないのに。何でよりによって獪岳なんだよ。俺いるじゃん! 女の子に優しい、俺がさ!
「善逸さんはねぇ、何だか男の子っていうか、手のかかる弟みたいに見えちゃって。ふふ、ごめんね」
「うわーー! 告白してないのにフラれたよ! ひどい!」
「あはは、私は黄泉まで予約済みだからね」
冗談のように言ったけれど、それが面白い事だと笑うなんてできなかった。
家の扉を開ける時、ナマエちゃんの左手がたまたま視界に映った。薬指の付け根に、内出血の跡のようなひどい痣があった。
とんだ爆弾残していったなぁ。これじゃあ、本当に「傷物」じゃないか。
俺は気づかれないようにため息をつく。本当に、あいつは馬鹿だ。
「ねぇ! 今度近いうちに遊びにいくから! 今度はちゃんとお米炊いといてよね!」
「うんうん、お手紙のお返事も書くからね!」
次の日、俺は街の方へと戻らなくてはいけなかった。だから、朝早いうちにここをたつ事にした。
昼飯にと渡された握り飯はちゃんと持ってある。本当は昼ごろまでお邪魔させてもらいたかったし、何なら一週間くらい泊まってもいいんじゃないかって思った。でも、まるで誰かに邪魔されているかのように、急に呼び出しを食らったのだ。
俺、何かしたかなー、なんて愚痴っていたら、シャキッとしなさい! と叱られた。やっぱり、こういうところでは厳しいのだ、ナマエちゃんは。
「また来てねー!」
ずうっと手を振るナマエちゃんは、綺麗に笑っていた。
あーあ、兄貴はこんなかわいい子から好かれて、それも鬼になっちゃったんだから、相当の阿呆だな。俺も傷心につけ込むような真似はしたくないけれど、うっかり俺にくらっと来て、そのまま結納できたらいいのに。
「おいカス、俺の女盗るなんて一億年早いんだよ」
なんて言うんだろう。自分の妄想だけれど、本当に背後から聞こえてきた気がして、俺は振り返らずに走る。呪いを振りまいて、あいつは死んだんだ。
その半年後、滞っていた文通にやきもきしていると、あの住所の近くから電報が届いた。
「ナマエ カワ オチタ」
ナマエちゃんは崖から足を滑らせ、川に落ちたそうだ。
自殺、もしくは他殺の線で警察が来たらしいが、結局事故という結論になった。
即死だったらしい。遺体は綺麗な状態で、今にも起きて伸びでもしそうに思った。
なぁ、何であいつは何もかも持っていくんだよ。
「なぁあんた、彼女の弟か何かか? この子、誰も遺体を引き取りにこないんだよ。気の毒だけど、このままだと共同墓地に名無しのまま埋められちまう。この子の家の墓があるなら、ちゃんとそっちにやったほうがいいんじゃないか」
そうだ、ナマエちゃんは親なし子じゃない。彼女の親はまだ生きている。
だから余計に、腹が立った。どうして、子供が命がけで鬼と戦おうとしていたのに、何の連絡も寄越さないんだ。どうして、俺だったら止めるね、かわいい娘がそんな仕事をやるって言ったらさぁ、止めるよ。だってそれが、親ってもんだろ。
畜生、なんて……なんて人生なんだ。俺が泣いたってどうにもならないけれど、不憫で仕方ないよ。まだ若かった。これからだったじゃないか。
ナマエちゃんは、褒められて嬉しい、だからここにいると言っていた。普通、そういうのって親がやるんじゃないのか。
……そういえば、獪岳も似たようなことを言っていた。二人とも、誰かから認められたかったのかもしれない。だから、似たもの同士だった。
何だ、彼女が惚れたのは、そういうことだったのか。もちろん、俺だってそういう気持ちはある。けれど、俺の気持ちと、ナマエちゃんの願いは少し軸が違うのだ。
「結局全部、あいつが持っていったのか」
空に向かって吠える気にもならない。頭上には、ムカつくくらいの青空が広がっていた。雲ひとつない、絵のような空。
額に雨粒が落ちた。それは小雨から大雨に変わって、ついには遠くから雷鳴が聞こえるようになった。それは一瞬のように短い時間で、天の神も意地悪だと、そう吐き出したくなるくらいに皮肉たっぷりで、俺に対する当て付けのように思えた。
13/15ページ